第二章 一大行事の昼
午後三時を少し過ぎた頃、宗助は長月荘二〇二号室で、寝転がりながら読書していた。読んでいるのは、神話、魔術、超能力などの研究家であり、自育大学雑学部の助教授である高杉琢己の著書の一つ、『超能力者=現代の魔術師、魔術師=古の超能力者』である。この書籍は「超能力とは神話の神々や魔術師がかつて振るった魔力と同一のものである」ということを述べたもので、これは五年ほど前に出た初版本である。当時、超能力について論じた書籍を探していた時に発見し、以来、愛読書としてずっと本棚に収納されていたのである。
なお、宗助が、長月荘に何らかの超能力が働いているという事実に気づき、そのことについて素直に納得することができたのは、この書籍における、
「……神話の神々や英雄が持つ魔法の道具は、その所有者の超能力の暗喩として、神話を歌う詩人達によって単なる言葉遊びのために「捏造」されたものであることが多いため、それを直接的に魔術と超能力の近似性に言及する材料とすることは困難である。
しかし、その製作過程、ないしはその製作者たる魔術師達に着目した場合、製作過程を「超能力を付与する手段」、魔術師を「超能力を付与するという超能力を持った超能力者ないしは超能力を付与する手段を持つ技術者」と捉えることも可能である……」
という文章によって、「超能力を物品に付与することは可能」という理論が存在することを知っていたからである。
ちなみに他にも、
「……世界の神話に登場する神々や聖者、仙人、魔術師の類は、その地域に存在した超能力者が神格化されたものである可能性が高い。またその逆として、我々が、現代に誕生した新たなる神々、聖者、仙人、魔術師などを、単なる超能力者として矮小化して見ている可能性も決して否定することはできない。
かつて錬金術師、妖術師、魔術師などと呼ばれた人々の多くは、現在では現代科学の基礎を築いた科学者として認識されている。しかし、その中には科学者とは言えない、正真正銘の錬金術師、妖術師、魔術師としか言い様のない者達も少なからず存在した。
以上のことから、私は、かつて神、聖者、仙人、魔術師として知られた人々のことを現在における超能力者と同一のものであると見做すこの説に対し、異議を唱えたい。かつての神々の中には正真正銘の神も少なからず存在したはずであり、現代の超能力者の中にもそういった人物が多少なりとも存在しているはずである……」
といった文章があったが、宗助はそのことから自分を「神」、「選ばれた人間」などと過大評価するようなことはしなかった。
もちろん、危うくそうなりかけたことはあった。小学校に上がり、世界が突然に広がった辺りの頃である。一気に増えた友人達の中で自分だけが超能力を持っている。そういう状況で、自分を特別な人間だと思わないでいることの方が難しい。それなりの年齢に達した大人でさえ、そういった状況に置かれれば、しばしば自分を特別視してしまうのだから、小学校に上がったばかりの子供がそうならない方がおかしい。
だが、それも高学年となってある程度の分別を持つようになるまでのことだった。漫画の中で、自らを「選ばれた人間」と称する登場人物は、必ずその思想を「間違っている」と否定された挙句、主人公に打ち倒されている。そのことから、そういった考え方自体が馬鹿馬鹿しいものなのだと思うようになったのである。それ以降、他の超能力者を見かけることが何度かあったこともあり、超能力は珍しいが決して特別なものではないという考え方を持つに到った。
さて、宗助はかれこれ五時間以上も読書を続けていた。単純計算すると、午前十時前後からずっと本の虫と化している計算になる。
では読書を始める以前、午前十時頃まで宗助は何をしていたのか。
源田商会について調べていたのだった。
午前八時半頃に千鶴を見送った後、宗助は市内の散策を即刻中止し、急いで帰宅した。千鶴が語った「源田商会」について調べるためだった。後で千鶴から説明があることとは思うが、何らかの下心を持っているであろう関係者によって伝えられる情報だけを鵜呑みにするのは危険だと判断したのである。また、入社すれば源田商会の都合に関係なく情報というものは入ってくるだろうとはいえ、事前に知っておくことは決して宗助にとってマイナスとはならないはずだという考えもあった。
走りはしなかったが、この炎天下では関係なかった。もともと汗を掻いていたことと、少し早足で歩いたこともあり、長月荘の二〇二号室の前に着いた時にはすっかり汗まみれになっていた。仕方のないこととはいえ、定の湯で汗を流したことが完全に無駄となってしまい、宗助は軽い苛立ちを覚えて舌打ちした。
手拭いを濡らして簡単に汗を拭った後、高校生の頃に親に買って貰って以来、ずっと使っているデスクトップパソコンの電源を入れた。購入してから数年が経過したパソコンは、新品だった頃には数十秒で起動していたのが、古くなったこと、それから主に冷房を一切入れていない長月荘の過酷な環境で使用していることにより、今では数分もの時間を要するようにまでなってしまった。なおこれについて宗助は、そろそろ買い替え時ではないかと思ってはいるのだが、主に経済的な事情から問題を先送りにしている。
ブラウザを起動してインターネットに接続し、検索エンジンを開いた。何かを調べるとしたらまずインターネット、というのが最近の若者であり、宗助もその多数派に属している。
とはいえ、政府の秘密機関ないし民間の非合法組織の類であろう源田商会に関する直接的な情報が、まさかインターネット上に転がっているなどとは宗助も思っていなかった。仮に転がっているとしても、せいぜいがちょっとした噂であったり、表面的な情報であったりという程度だろうという、言わば「ないよりはマシ」の心境だった。「ちょっとした噂」も、何も知らない宗助にとっては有益な情報となり得る。少なくとも、流れている噂から、源田商会がどういった組織なのかという雰囲気を感じ取るくらいのことはできる。更に、運がよければ源田商会が一体どのようなことをしているのかといった、具体的な情報を掴むことができるかもしれない。そう考えたのである。
検索エンジンに何の捻りもなくただ「源田商会」とだけ入力し、その検索結果に宗助は思わず笑ってしまった。もし飲み物を飲んでいる最中だったなら、画面とキーボードが悲惨なことになっていたに違いない。
それと言うのも、検索結果の先頭に、まさに「源田商会」という名の企業がヒットしてしまったからだった。まさかいきなり、それもそのままの名前で見つかるとは思っていなかったので、驚くよりも先に言いようのないおかしさが込み上げてきてつい笑ってしまったのである。
笑いながら、偶然の一致だろう、と宗助は判断した。源田などという姓はありふれているし、企業名に創業者の姓を使う企業も腐るほど存在する。そういったものを引き当てたのだろう。
それでも万が一ということがあるので、一応、そのウェブサイトを開いて確認してみることにした。
検索結果の中から「源田商会」を選び、新しいウィンドウを表示し、確認した結果、どうにも判断に迷う情報を入手してしまった。
このウェブサイトを開設している「源田商会」はそこそこの規模を持つ警備及び調査会社だった。実際はやっているのだとしてもこのような所に堂々と記載するはずがないので当然の話だが、非合法の臭いがするような業務は請け負っていなかった。業務として記載されていたのは、警備部門では身辺警護、自宅警備など、調査業務としては素行調査、家出人捜索、ストーカー対策などといったありがちなものだった。
しかし、会社の所在地が神影市天道区神渡となっていた。神影市と言えば宗助が現在住んでいる市のことである。天道区と言えば、宗助が現在住んでいる駒駆区に隣接した行政区のことである。
これを偶然の一致として片付けて良いものか否か、宗助は悩んだ。「源田商会」という社名自体はありふれているが、検索で見つかった「源田商会」は神影市にあった。超能力者を擁するような非合法組織がウェブサイトを一般公開しているとはとても思えなかった。しかし、地理的に考えれば、千鶴の言う「源田商会」が今、検索に引っかかった「源田商会」と同一のものでないとも言い切れなかった。
千鶴が言う「源田商会」と宗助が見つけた「源田商会」は、実は同一のものである可能性がある。そのことを念頭に入れながら会社の詳細を見てみると、これが非常に怪しいものに見えてきた。
警備業にしろ調査業にしろ、政府の秘密機関ないし非合法組織が隠れ蓑とするには打ってつけの業務内容のように思えた。警備業ならば明らかに戦闘訓練を積んでいる様子の人間が多数所属していても怪しまれないし、調査業ならば少々不審な行動を取る社員がいても怪しまれない。警備業には訓練を積んだ人間が就くものという認識が、調査員、探偵の類は秘密裏に物事を調査するという認識が、それぞれ世間一般的には存在している。
更に会社の宣伝文句を見ても怪しいこと尽くめだった。警備部門には「人間の限界に挑む過酷な訓練として名高いレンジャー教育を修了した元自衛官を主力とすることによる暴力犯罪への対応能力の向上」云々、調査部門には「忍者のノウハウを取り入れた当社独自の高度専門的教育によって育成した調査員」云々といった風な、何とも怪しげな文言があった。
無論、最初から疑念を抱いているからこそ、怪しいと思っているからこそ怪しく見えるのだということは理解していた。「退職した自衛官を多く雇用している」という宣伝があれば、そういうものかと思って納得する。「調査員の教育に忍者の教えを取り入れている」という宣伝があれば、胡散臭さを覚えると同時にちょっとした好奇心を刺激される。普通はそういうものである。
この場合は単に、千鶴から「源田商会」という名前を聞いていたからこそ、警備及び調査会社の「源田商会」のことを怪しく思ってしまっている、ただのそれだけに過ぎなかった。
これ以上の閲覧は何の意味もないと判断し、宗助は「源田商会」のウェブサイトを閉じた。
続いて一時間ほどかけて、他の検索結果も参照してみたが、そのいずれも全くの空振りに終わった。警備及び調査会社の「源田商会」についてのものと思われる情報しか手に入らなかったのである。
結局、一時間もの時を費やした成果は、警備及び調査会社の「源田商会」について詳しくなったことと、どれだけ調べたところで、自分如きでは、千鶴が語った「源田商会」に関する情報は手に入れられないとわかったことだけだった。別に就職活動をしているわけでもない宗助にしてみれば、一時間を溝に捨てたようなものだった。もともと期待などしていなかったが、それでも自分が時間を無駄にしたという事実を思うと、徒労感が込み上げてくるのは避けられなかった。
調査を続けるべきか。諦めて千鶴の説明を待つべきか。どちらを選ぶべきか、宗助は悩み始めた。
調査を続けたとして、どれほどのことがわかるのか。まず、インターネット以外に宗助が「源田商会」を調べる手段はない。しかし、インターネットを使って一時間ほど調べても、恐らくは単なる一般企業に過ぎない「源田商会」についての情報しか得られなかった。恐らく、もう一時間を費やしても、警備及び調査会社である「源田商会」についての知識が増えていくだけだろう。
千鶴の説明を待ったとして、彼女がどれほどのことを語ってくれるのか。政府の秘密機関もしくは民間の非合法組織である「源田商会」の構成員が、まさか自分の所属先の不利益になるようなことを喋るとも思えない。宗助が知ることができるのは、「源田商会」にとって都合の良い情報ばかりに違いない。
どちらも根本的な欠陥を備えた選択肢だったが、結局のところ大別すればこの二つしか選択肢が用意されていないのだから、どちらかを選ばざるを得ない。
そのことを踏まえた上で、宗助は悩んだ。
しかし、「情報」という観点に拘って考えているから決断できないのだということに気づき、全く別の観点から考えてみることを思いついた時、実に呆気なく結論は出た。
素直に千鶴の説明を待つことにしたのだった。
全く別の観点とは出費のことだった。通信費については使っても使わなくても請求額は同じだが、電気代は使えば使っただけ請求額が上がる。倹約生活を営む身としては、恐らくは無駄と思われる調査に電気代を費やすわけにはいかない。そういう流れを経ての結論だった。
なお、場合によっては今後の人生にも関わることなのだから、多少の出費を覚悟してでも最後まで諦めずに僅かの可能性を追い求めるべきである、といった考えは宗助にはなかった。真田宗助という男にとっては、政府の秘密機関或いは民間の非合法組織との接触といういわば非日常の世界の出来事よりも、月末に請求される電気代の方が余程重要であるように思えた。なぜなら彼は、現在自分が置かれている状況に現実味を見出せていなかった。まだ心の整理ができておらず、さながら夢でも見ているような精神状態にあるのだった。
ともあれ宗助は、溜息をつきながら全てのウィンドウを閉じ、パソコンの電源を落とす操作をした。買い替え時のパソコンは、新品当時の二倍近い時間をかけて電源を落とした。
そして、千鶴と約束した時刻までどのようにして時間を潰すかということを考え始め、ふと視線を向けた先に本棚があったことから読書で時間を潰すことに決定し、現在の寝転がりながらの読書に到ったというわけである。
本から視線を上げ、何気なく時計を見て現在の時刻を知った時、宗助はぼんやりと、そろそろ出発すべきかどうかを考え始めた。長月荘から駒駆公園に行くには二十分から三十分程度の時間がかかると予想される。宗助は、最悪でも待ち合わせ時刻の十分前にはその場に到着することを信条としている。それを守るためには遅くとも三時二十分くらいには出発しなければならない。
少し考えてから、宗助は出発することに決めた。多少早く着き過ぎてしまったとしても、遅れるわけではないのだから、何の問題もない。そう結論した。
『超能力者=現代の魔術師、魔術師=古の超能力者』を棚に戻し、出かけようとしたその時、宗助は自分が酷く汗を掻いてしまっていることを思い出した。なぜ思い出したかと言えば、丁度立ち上がった時に額から流れた一粒の汗が唇に入り込み、独特の塩味を味覚に伝えたからだった。
普段ならば汗まみれであることなどは全く気にしない。大学の講義に出席する時や今谷と遊びに行く時などは、中途半端に乾いた汗によって皮膚がべたついているような状態でも、平然とそのまま家を出ている。
しかし、今日はいつもとは違う。今日は、決して甘酸っぱい青春の一ページとはなり得ない性質のものであるとはいえ、真田宗助という男の十八年強の人生の中でも初めての経験である「女の子との待ち合わせ」に向かうのである。この一大行事に穢れた身体で臨むというのは、やはりよろしくない。そう思えたのだった。
出発前に多少の時間的余裕があることから、宗助は簡単にシャワーを浴び、本当は明日着る予定の洗濯済みの服に着替えることに決めた。
午後四時まであと十数分という頃、宗助は入り組んだ狭い路地を通り抜け、駒駆公園に到着した。午後になって多少は暑気も和らいだようで、今度は今朝のように汗だくにはならなかった。身を清めたことが徒労に終わらずに済み、宗助は少し安堵した。
駒駆公園は非常に小さく、そして寂れた公園だった。一応、ブランコ、ベンチ、シーソー、ジャングルジム、砂場、水飲み場、公衆便所といった、公園を名乗る上での基本設備は設置されている。しかし、どれも小さかったり汚れていたり金具に錆が浮いていたりと、もし宗助に子供がいたとしたら絶対にここで遊ばせる気にはならないだろうというくらいに酷い有様だった。都市計画の中で余ってしまったどうにも使い道のない土地を、使い道がないからと言って放置しておくこともできず、止むを得ず利用しているような趣がある。
公園には先客がいた。
真田宗助の待ち合わせの相手、下崎千鶴である。
木陰にある貧相なベンチの端に腰掛け、静かに文庫本を読んでいる。脇に鞄が置いてあることから、学校から直接ここに来たのだということが一目でわかった。今が夏ではなくあらゆるものにそこはかとない風情があるように感じられる秋だったなら、真面目そうな少女がベンチで読書をしているという光景は、さぞかし絵になることだろうと思われた。
たぶん気づくだろうと思って無言で近づいてみたが、読書に没頭しているらしい千鶴は、宗助に気づいていない様子だった。
ベンチの前まで行き、仕方なく、宗助は声を掛けた。
「早いね」
「あっ……こんにちは」
千鶴は読んでいた文庫本を閉じると顔を上げ、小さく会釈してきた。何かの小説らしき本を鞄にしまいながら言った。
「そう言う宗助さんこそ、待ち合わせは四時なのに、早く来てるじゃないですか」
言った後、千鶴は自分の隣の埃を払う動作をし、「どうぞ」とそこに座るよう促した。
千鶴の隣に腰掛けることに恥ずかしさや照れ臭さがないでもなかったが、断れば千鶴が気まずい思いをするだろうことは明白である。宗助は大人しく腰を下ろした。
「それこそこっちの台詞だよ。千鶴ちゃんは僕より早く来てたんだろ? 一体いつからここに?」
そうしつつ、宗助は呆れていることを隠そうとしなかった。そして、千鶴から返ってきた答えにより、彼は更に呆れることとなった。
「三時半くらい……かな、それくらいです」
「あー……早いね、三十分前だ。……千鶴ちゃんはいつもそんな感じなの?」
宗助の問いに、千鶴は恥ずかしそうに顔を正面に向けて逸らした。言いにくそうにしながらも、ぽつりぽつりと語り出した。
「実は……家族以外の人と二人きりで待ち合わせるの、初めてなんです。だからつい緊張しちゃって……遅れちゃいけないなって思って、教室の掃除の後、すぐ来ちゃいました」
「……そんなに気を遣ってくれなくていいのに。待ち合わせなんて、約束の十分前くらいでいいよ。僕だってそれくらいだったろ?」
宗助は苦笑した。自分が全く誰にも気遣われる必要のない存在だとまでは流石に思っていないが、無条件で気遣われて然るべき存在であるともまた、露ほどにも思っていない。程々の配慮して貰えればそれで良いのである。
宗助の方に顔を向け直し、千鶴が真面目な表情で頷いた。
「次はそれくらいに来るようにします」
「そうだね、その方がいい」
内心では、「次」というのはどうせ社交辞令に過ぎないのに違いない、と思いつつ宗助は素っ気無く頷き返した。
すると、千鶴がむっとしたような顔になり、やがて悲しげな表情を浮かべた。宗助の目を真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと訴えかけてきた。
「お友達なんですから……次も、その次もあったらいいなって、私は本当に思ってます」
千鶴の目は、これが演技だとしたらもうこの世の何者も信じることなどできはしないだろう、というほどに真剣なものだった。宗助の理性は千鶴が巧みな演技をしている可能性があると警告しているが、同時に、感情は千鶴の目を信じるべきだと告げている。
否、感情において、信じたがっているのだった。
宗助は素直に情に流されてしまうことにした。
「ごめん」
「本当に、また会いたいって思ってるんですからね」
「わかったから……」
柔らかい口調でなされる千鶴の念押しに、宗助は微苦笑を浮かべて頷いた。
「それならいいんですけど」
そう言いつつ、千鶴は何かに気づいたような顔をし、首を傾げた。
「……あれ、今朝と服が違いませんか? ……違いますよね?」
「え? ……ああ、人と会うってことで、着替えたんだよ。あの服、汗でびしょびしょだったから」
「いいですよ、そんなに気を遣ってくれなくても。私、そういうの気にしない方ですから」
「いや、何て言うか、僕が気にするって言うか……」
自分がシャワーを浴び、服を着替えた理由を言おうとして、宗助はやめた。相手に面と向かって明かすにはそれが、少々、否、相当に恥ずかしいことであるという事実に気づき、思い留まったのである。
しかし、それは無駄な配慮だった。思い浮かべた瞬間が、そのまま千鶴に伝わった瞬間なのである。
千鶴が嬉しそうな表情を浮かべた。
「いいですよ、私は気にしませんし。でも、嬉しいです。……私のこと、ちゃんと女の子だと思ってくれてるんですよね」
「あー、そりゃまあ……ね?」
宗助が千鶴と出会ってから、まだ一日も経っていない。今日の朝に会ったばかりの、ほとんど互いのことを何も知らないような間柄である。
しかし宗助は初対面時の印象から、無論それは恋愛の対象としてではなく友情の対象としての話だが、千鶴のことを非常に魅力的な少女であると思うようになっていた。今では、もう少し違った形で知り合えていたらよかったとも思っている。同時に、それでも知り合えたこと自体が幸せなことなのかもしれないとも思い始めている。
「宗助さんと知り合えてよかったです」
そう言って、千鶴は宗助に微笑みかけた。
その笑顔があまりにも嬉しそうだったため、その視線があまりにも真っ直ぐに自分の顔に向かってきていたため、そして何よりこれまでのやり取りの流れがあまりにも恥ずかしい内容だったため、宗助はそれらをそれらを受け止め続けることができなかった。ただし生じた感覚は不快感とは全く無縁であり、気恥ずかしさだとか照れだとか、そういった言葉に属するものである。
宗助は顔の向きを正面に戻し、千鶴の笑顔から逃れた。
これではまるで、初デートの緊張から、相手の一挙手一投足を見逃すまいと過剰なまでに注意を払い、過剰なまでに相手のことを意識してしまう、典型的な純情男子中学生と同じではないか。視界の中に広がる寂寥感溢れる公園の風景を眺めながら、宗助は内心、自らの狼狽ぶりを自嘲した。
こういった場合に動揺せず、さらりと受け流してしまえる程度には、女という生き物に慣れておくべきだった。そのような全く役に立たない後悔をしたところでふと我に返り、宗助は自分がしていることの意味を悟った。
それは酷く危険なことだった。
宗助がしたことは、千鶴の立場から考えてみれば、要するにこういうことである。隣に座っている男に笑顔を向けたら、その男が急にそれを意識し、照れ始めた。
それはやはり、千鶴にとって、気持ちの良いものではないはずである。それどころか、身の危険を感じたかもしれない。あり得ない話ではない。今日知り合ったばかりの男が、笑顔一つでそこまで感情を動かしたのである。抱く感想は、よくて気味が悪い、悪ければおぞましい、といったところだろう。
千鶴の方を向き、その表情を確認するのが恐ろしくなった。そこに浮かんでいるのが嫌悪や恐怖の表情だったならば、というのは考えること自体が恐ろしいことだった。
宗助は、正面を向いたまま、やや早口で釈明を始めた。
「ああ、ええと……君ならわかるだろうけど、一応言っとくよ。他意とか深い意味とかそんなのはないよ。だから、安心して。何となく似てるなって思ったからそう思っただけだからね。何とも思ってないから。本当に」
口頭だけでは足りないように思えたので、心中においても同様のことを強く思い浮かべ、主張を強調することにした。
そして、千鶴が発した返事によって、宗助は再び激しく動揺することとなった。
「……宗助さん、私じゃ駄目ですか?」
「……へ?」
口を半開きにし、口から空気が漏れるような情けない声を上げて聞き返すことしか宗助にはできなかった。あまりにも予想外の質問――返事だったため、頭がそれに対する回答を導き出せずにいた。
反射的に顔を向けた先にあった千鶴の表情に、宗助は目を見開いた。それは彼に「友達になって欲しい」と言ってきた時と同じ、「瀬戸際」にあるような表情だった。
「私――守備範囲外って言うんですか――それですか?」
この時点で、千鶴が何を言おうとしているのか、その概要は宗助にも理解できていた。推測もできていた。しかし、そうして得られた理解と推測を、他ならぬ宗助自身が「あり得ないこと」として否定していた。
だが、そこへトドメの一撃が放たれた。
「私のこと、宗助さんの……彼女にしてくれませんか?」
千鶴に宗助の逃避を許すつもりはないらしかった。
「……千鶴ちゃん、目を閉じてゆっくり深呼吸して、それからもう一度同じこと言ってみてくれるかな?」
宗助は至って平静な様子で、諭すような声音で言いつつも、内心では酷く混乱していた。投げかけられた問いは、彼の予想と予測と推測の、全く埒外にあるものだった。
今の流れがどういうものなのかは理解できている。
恋愛を主題とした物語を参考として考えれば、今の流れはこういうものである。相手の男に対して好意を抱いていた女が、相手の男の「お前のことは恋愛対象として見ていない」という言葉に対し、「どうか私のことを恋愛対象として見て欲しい」と訴えかけている流れである。蛇足ながらこの場合、女の告白は必ずしもその場での成就を目的としてはおらず、相手の男に自分を意識させることを本来の目的としていることが多い。
現実の事例を参考として考えれば、今の流れはこういうものである。女が馬鹿な男を、騙そうとしているかからかおうとしている流れである。
そして当然、これは現実の出来事なのだから、千鶴は宗助をからかおうとしているか、騙そうとしているとしか思えない。
「違います、本当に好きなんです!」
必死に訴えかけられても、それを簡単に信じることなど、できるはずもなかった。
宗助が特別に疑り深いから信じられないのではない。千鶴の告白が全く以て理解しがたいものだったから信じられないのである。
今日の朝知り合ったばかりの男に向かってその日の内に「恋人にしてくれ」などと言い出すという時点で理解が困難であり、その男というのが宗助である時点で完璧に理解の範疇を超えてしまっている。一目惚れという現象が実在し得るとしても、一目惚れしたその日に告白を決意する人間は男女を問わず少ないだろうし、実行に移す人間は更に少ないだろう。そして、そもそも宗助に一目惚れするような女などは、存在するわけがないのである。
「……いきなりだから、信じて貰えなくても当然だとは思います。でも、私は本当に宗助さんのことが好きなんです。さっき、宗助さんの感情を読み取った時、急に好きになったんです――ううん、今朝話した時から宗助さんを好きになってたことに、急に気づいたんです」
千鶴は真剣な様子で言い募ってきた。
宗助はもう少し千鶴の話を聞いてみることにした。何しろ彼はもともと、千鶴のことを、恋愛感情とは違う意味でではあるが好意的に見ていたのである。信じられる要素が多少なりともあれば、理性がどれだけ信用するべきではないと判断したところで、感情があっさりと信じることを決断してしまう。
「……ありがとうございます。続けます」
千鶴は、宗助の結論に対して律儀に礼を言ってから、告白を再開した。
「今朝も言いましたけど……私のことを怖がらないでくれる人って、家族以外だと、本当にほとんどいないんです。だから最初、宗助さんのことをこう思ってました。私のことを気遣ってくれたり、普通に接しようとしてくれたりする優しい人だから、どうせいつかは私のことが嫌になるに決まってる、でも、それまでの間、話し相手になって貰おうって、そう思ってました」
嬉しそうな表情の下に千鶴がそのような諦観を秘めていたという事実を、宗助は痛ましく思った。自分が全く信用されてなどいなかったのだ、ということに対する怒りや悔しさがないでもなかったが、それ以上に、最初から全てを諦めているとでも言うかのような千鶴の考え方が痛々しく思えた。
同時に、それは正鵠を射た予測なのではないか、とも宗助は思ってしまった。今日明日にでも千鶴のことを嫌いになるとは思わない。それが明後日や明々後日でも同じである。一週間後でもそうである。それが二週間後となっても、三週間後となっても、一ヶ月後となっても同じである。だが、半年後、一年後ともなったら、その時にどうなっているかはわからない。その頃には、宗助は千鶴を嫌っているかもしれない。近い未来は予測できても、遠い未来のことは誰にもわからない。
千鶴は苦笑した。
「宗助さんは真面目な人ですね。私がちょっと何か口に出しただけで、そんなに心が揺れ動いちゃうんですから」
自分の短所に思いを馳せ、宗助は苦笑を返した。
「冗談のわからない奴だってよく言われるよ」
「でも、真面目で優しい人だと思います」
そう答えてから、千鶴は照れたような表情で続けた。
「あれから、私、ずっと宗助さんのことを考えてたんです。授業中も休み時間中も、気づくと宗助さんとの待ち合わせのことを考えてました。来てくれるかな、とか、どんなことを話そうかな、とか、そんなことです。宗助さんにとっては凄く迷惑だって思うんですけど、デートみたいな気分になってました。ごめんなさい」
「いや……それはさ、初めて人と待ち合わせるって状況でハイになってただけじゃないかな。えっと、何だっけ……そう、ちょっと違うけど、吊り橋効果――吊り橋とかの危険な場所にいる時に感じる不安とか心拍数増加とかを恋と勘違いするとかいうあれね――みたいなものだと思う。何日かしたら、僕のことなんてどうでもよくなる。きっと、『何であんなの好きになったんだろう』って思うよ。それに、僕のことを心が勝手に美化してるだけだと思うから、実物知ったら幻滅するよ」
宗助は激しい動揺を覚えながらも努めて冷静に返した。
こういう時、年長者である自分が冷静にならなくてどうするのか、という思いもあった。自分までもが子供の暴走に同調してはいけない。しかし、それ以上に、努めて冷静で在ろうとしなければ自分がどのような言葉を口走ってしまうかわかったものではない、という思いがあった。いずれにせよ、冷静にならなければろくなことにはならないのである。
千鶴は黙ったままだった。何かを考え込んでいる様子だった。
その様子を見ながら、宗助は次の千鶴の反応を予想していた。感情的になって言い返してくる、黙って俯く、泣き出す、といったものがその中にはあった。
だが予想はことごとく外れた。
「……だったら、尚更です」
予想に反して、千鶴の反応は酷く冷静なものだった。自分の言いたいこと、考えていることをどうにかして相手に伝えたい、理解して貰いたいという意志に満ちた、落ち着いた口調だった。大人びているどころか、まさに大人の態度であると言って良い。
「宗助さんが言うように何日かしたらどうでもよくなるんだったら、私はやっぱり、今の気持ちがどうでもよくならない内に行動したいです。好きだっていう気持ちは嘘じゃありませんから。幻滅するって言うのは、たぶん、ないと思います。宗助さんが優しい人だってことはわかってます。でも、ちゃんと……気を悪くしないで欲しいんですけど……ちょっと頼りない人だってこともわかってますから。それでも、私は宗助さんのことが好きなんです」
静かに投げかけられるその誘いの言葉はあまりにも魅力的に過ぎた。
もうこのまま首を縦に振ってしまっても良い。宗助の心の中では、そういう声が上がり始めていた。何と言っても千鶴は美少女であるし、人間性も悪くはないに違いない。歳の差もそれほど問題にはならない。五歳差のカップルなどこの世の中には履いて捨てるほど存在する。大学生と中学生のカップルは世間的に問題があるかもしれないが、たとえば二十代前半の社会人と女子大生ならば、それは実にありふれたカップルとなる。
しかし宗助は、頷きかけはしたものの、辛うじて踏み止まることができた。
「……でも、それは君の結論でしょ。僕の意思とは関係ない」
宗助がぽつりと呟いたその言葉に、千鶴は唇を引き結び、顔を俯かせた。身長差もあるため、宗助からは表情が見えなくなった。
宗助は続けた。
「やっぱりさ、今朝会ったばかりの相手とそういう風になるっていうのは、僕としては『ない』ね」
確かにそれは、魅力的な誘いではあった。
だが、全く不安のない、全く危険のない誘いではない。応じた先に幸せが待っているという保証などは存在しない。なぜなら、真田宗助という青年は、下崎千鶴という少女のことをまださほど知ってはいない。
そのような誘いに安易に飛びつくような真似ができるはずもない。
しかし、断れば千鶴は拒絶されたと感じて傷つくかもしれない。誰かを傷つけてまで自分を守ろうと言う断固たる意志が宗助にはない以上、それは避けたいところだった。
「だって、全然お互いのこと知らないしね。君は僕のことを超能力で理解したのかもしれないけど、僕は全然、そんなことない。僕にとって君は、『さっき知り合った人A』でしかない。付き合うとか付き合わないとか、そんな段階じゃない」
言った後、少し言い過ぎてしまったかという不安に駆られ、言い訳めいた言葉を続けた。
「って言うか、こんな段階で付き合うっていうのは、君に対して凄く失礼な気がする。『これだ』っていう確信もなしに何となく……っていうのはさ」
以上のことを踏まえた上で、宗助は、彼が返し得る最高の答えを返した。
「だから……何だか逃げを打つみたいで悪いんだけど、友達からってことじゃ駄目かな? まあ、つまり、要するに、いわゆる……保留ってことなんだけど……。友達として仲良くしてればお互いのこと、もっと――本当に――よくわかるだろうし、そうなったら、衝動なんかじゃないちゃんとした気持ちを持てるかもしれない。そう思うんだ」
言い終えて千鶴の返事を待ったが、千鶴は顔を上げこそしたものの、何かを考え込むように沈黙している。宗助は、真っ直ぐに見上げてくる視線に気まずいものを覚えた。
それを打ち消すべく、慌てて言葉を続けた。
「もちろん、君のことを恋愛対象として見られるかどうか、ちゃんと考える。答えが出るか、君が僕に愛想を尽かすまでは……少なくとも、君に黙って別の人と恋愛したりなんかはしない。好きな人が出来たら、ちゃんと君に報告して、答えを出してからその人に向き合う。……そういう意味じゃ、友達以上恋人未満かな?」
再び千鶴の返事を待ったが、答えはなかった。依然として、千鶴は沈黙を保ったままである。
宗助は、何か大事なことを忘れているのではないか、何か答えに不足があるのではないか、といった可能性に思い至った。だからこそ、千鶴は返事をせず、黙って自分を見ているのではないか、と宗助は不安になった。
しかし、何を忘れているのか、何が足りないのか、宗助には全くわからなかった。心当たりすらなかった。
結局、気まずい見つめ合いの空気に耐えられなくなり、宗助は単刀直入に問うことにした。
「もしかして、僕、何か忘れてたりするかな? 何か足りない?」
答えが返ってくるまでの数秒間は、宗助にとって、まるで胃を直接握り締められてでもいるかのような重苦しいものだった。
千鶴が微笑んだ。
「……いいえ、そんなことないです」
重圧から解放されてほっと一息ついた宗助に対し、千鶴はやや興奮気味に続けた。
「足りないだなんて……十分過ぎるくらいですよ! 断られて終わりだろうって思ってましたから、凄く嬉しいです」
宗助は、安堵に胸を撫で下ろし、苦笑を浮かべて言った。
「だったらさ、もっと早くそう言ってよ。緊張して胃が痛くなっちゃったじゃないか」
「ごめんなさい。……でも、黙ってたから、宗助さんはそこまで言ってくれたんですよね。やっぱり、すぐに返事をしなくて正解でした」
「え? どういうこと?」
宗助は咄嗟に意味が飲み込めなかった。
千鶴が申し訳なさそうに説明した。
「実は……もし黙ってたらもっと条件が良くなるかな、って思って黙ってたんです。あの、父が『焦らして相手に揺さぶりをかけると勝手に譲歩することがある』って言ってたから、ちょっと試してみたくなって……。ごめんなさい」
「そ、そうだったの……いや、まあ、そんなに謝らなくても……」
その答えに、宗助は引き攣った笑みを浮かべて、しどろもどろに答えるので精一杯だった。どうやら、下崎千鶴というのは宗助の想像以上に大人びた、強かな少女のようだった。
千鶴は、宗助が内心で驚愕していることなど、無論知っているに違いない。だが、まるでそのようなことなど全く知らないような態度で微笑を浮かべている。
「ええと、宗助さん」
決意に満ちた表情で、千鶴がまた何事かを言い出してきた。
宗助は多少の警戒心を込め、身構えながら応えた。
「……今度は何かな?」
「私も、宗助さんと同じようにします」
「僕と? ……もしかして、答えが決まるまで他の人と恋愛しないって奴?」
「はい、それです。私もそうします。宗助さんだけじゃ、不公平ですから」
「そう言ってくれると……何て言うか、凄く嬉しい」
こういうやり取りに不慣れな宗助は、つい先ほど風呂から上がったばかりであるかのように赤面し、照れ隠しに視線を逸らしてぼそぼそと呟くように応じた。
このまま千鶴のペースで話を進めていては、今以上に顔が熱くなってくるような話に突入してしまう。そういった予感を覚え、宗助は千鶴が更に何かを言ってくる前に話題を替えようとした。
より正確に述べるならば、強引に本題に入ろうとした。
「……ええとさ、そろそろ源田商会の話をしない? さっきから、話題が逸れまくってるよ」
「わかりました。じゃあ、説明しますね」
千鶴は宗助の思いを見透かしたように――実際に見透かしている――微笑んだ。恐らくは、自分の照れを可愛らしく思ったのだろう、と宗助は推測した。このくらいの年頃にもなると、少女という生き物は急激な勢いでませ始めるのである。
「源田商会は私の父のお友達の源田さんっていう人の会社で、警備や調査なんかをやってます。……どうかしたんですか?」
宗助は驚愕に目を見開いた。さらりと明かされたのは、宗助にとってはまさに驚愕の真実だった。
「いや、それってもしかして、天道区にある源田商会?」
できれば頷いて欲しくない問いだった。堂々とウェブサイトを開設して宣伝活動をする非合法組織など、フィクションの世界以外に存在して欲しくなかった。
だが、千鶴は宗助の願いとは裏腹に、あっさりと頷いた。
「そうですよ。あ、調べたんですか?」
「ネットで検索したら、警備と調査の会社が出てきた……」
「それです。その会社です」
「……僕に警備員やれって?」
宗助はうんざりした様子を隠そうともせず、投げやりな口調で訊いた。どうせ千鶴に対しては表面を取り繕っても無駄だからである。
「そうじゃありませんけど、宗助さんがやりたいって言えばやらせて貰えると思います。……もしかして、警備員になりたいんですか?」
「いや、特にそういうのはないかな。僕は大手商社とか市役所とか――とにかく安定した人生を送りたいだけだし」
「だったら、源田商会に入社しませんか? お給料とかは悪くないみたいですし、それにどこかの組織に入ってないとこれから先、困るかもしれませんよ」
千鶴の最後の一言に、宗助の表情が引き締まった。これまでは、何のかんのと言いつつも、宗助には自分が裏社会からの勧誘を受けているのだという実感はなかった。だが、雑談めいていた話が、この一言によって、一気にそれを実感させる緊張感に満ちたものとなった。
「困る……っていうのはどういうこと? 脅迫?」
確かに、入社しなければ危害を加えられるという話は困る。宗助は、千鶴に対してと言うよりはその背後に控える源田商会に対して、警戒心を強めた。
千鶴は慌てて首を横に振った。
「違います。そうじゃないんです。言い方が悪かったです、ごめんなさい。困るっていうのは、早い内にどこか力のある組織に入っておいた方が、トラブルに巻き込まれずに済むっていうことです。一人だと、何かとトラブルに巻き込まれやすいし、巻き込まれた時に助けて貰えないんです」
「その……今朝も言ってたけど、組織って要するに何なの?」
「超能力者とか魔術師とか妖怪とかの集まりです」
のっけから聞き捨てならない言葉が出てきたが、一々質問していては話が進まないため、宗助は黙っていることにした。
「みんなで集まって遊ぶ友達グループみたいな集まりや、仕事を斡旋し合ったりする集まり、それから……」
千鶴はそこで少し言い淀んだ。
「……それから?」
「それから……犯罪者のグループとかもそうです」
そう言った後、慌てたように付け加えた。
「もちろん、源田商会はそんなんじゃないですよ! 源田商会は犯罪集団なんかじゃないです!」
「まあ、そりゃ、自衛隊と繋がりがあるくらいだからそうなんだろうけどさ」
退職した自衛官を多数雇用しており、そのことを公表しているということは、まがりなりにも国家機関である自衛隊が問題なしと判断した企業であると見て間違いない。また、定期的に自衛官を雇用しているらしいことから、自衛隊とも深い繋がりがあると見て間違いない。法的にどうかはわからないが、少なくとも国家にとっては問題のない組織のはずである。政府の秘密機関である可能性も捨てきれない。
「でも裏で何やってるかはわかったもんじゃないよね」
「……確かにちょっと人には言えないようなこともやってます。でも、そういうのは、最初からそういうこととして請け負うんじゃなくて、結果としてそういうことになっちゃうとか、巻き込まれるとか、そんな感じです。それに、そういう仕事は希望する人だけがやれば良くて、やりたくない人はやらなくてもいいんです」
「でも、入らなければ最初からそんな心配しなくてもいいんだよね。それ以前にさ、組織に入らないと危険って、本当にそうなの? 入る方が危ないんじゃないの?」
宗助にはどうにもそれが信じられなかった。そういった組織とは関わりを持つこと自体が危険ではないのか。むしろ、ある組織に所属していることが原因で、その組織と敵対関係にある組織や個人から危害を加えられる恐れがあるのではないか。そう思えた。
「そういう面は、たぶんあると思います。でも、一人じゃもっと危険です。どれだけ気をつけていても、普通の人にはない力があるって言うだけで、トラブルに巻き込まれることはあります。そういう時、組織に入ってるのと入ってないのでは、受ける被害が大違いです」
入社を勧めてくる千鶴の熱心さに、宗助は苦笑した。
「何だか、保険の勧誘みたいだ」
千鶴は真面目な顔で頷いた。
「確かにそうですね。でも、本当のところ保険ですから、これ。何かあった時、助けてくれる仲間を作っておいた方がいいってことなんですから。友達とか仲間って大事なんですよ」
ここに到るまでの千鶴による説明から、宗助は、源田商会について企業とは別の種類の組織を連想した。
「ええと、さ……」
「何ですか」
「源田商会って、互助会とか組合とか、そういう感じ?」
「そう、ですね。確かにそういう感じです。一応、調査や警備みたいな一般の仕事や、特別に斡旋される、人には言えないような仕事もありますけど、源田商会の本当の役割は超能力者とかの互助会なんです。でも、会費とか組合費みたいなのはいらないです。在籍するだけでお給料は貰えます。決まりさえ守ってれば、働かなくてもいいんです。だから、大学に行きながら就職できますよ。色々と金額に差は出るみたいですけど」
「なるほどね……」
宗助はひとまずは納得した。確かに胡散臭くはあるが、話を聞く限りでは、源田商会はもともと宗助が想像していたほど危険な組織ではない様子だった。また、まだ入社の意志はないが、既に自分が超能力者であることを知られてしまった以上、そこに所属して庇護下に入ることが平穏な生活を守る近道であるようにも思えた。
そうして、話が一段落したところで、抱いた疑問を片端からぶつけていくことにした。
「ところで、超能力者はいいとして、魔術師とか妖怪とかって何? そんなのいるの?」
まずはこの疑問である。一応、超能力者がいるのだから、魔術師や妖怪がいてもおかしくないと言えばおかしくない。しかし、それにしたところで、あくまでも可能性としての話である。宗助は、まさか魔術師だの妖怪だのが実在するなどとは思っていなかった。
「います」
俄かには信じがたい回答である。
だが、この状況で千鶴が嘘をつく必然性はないし、真実であってもおかしくはないというくらいの信憑性はある。信じるか信じないかで言えば、「信じる」の方により気持ちが傾く。
「たとえば私の父や兄達は魔術師ですし、母は、神様だとか悪魔だとか、要するに凄い妖怪らしいです。……言いそびれましたけど、母の血のこともあって、私は規格外なんです」
「ええっ……何、君ん家はみんなそんなんなの?」
宗助は、妖怪が実在するという回答以上に、ここで挙げられた例に驚かされた。まず宗助の実家である真田家などは、特別な才能を持っているのは宗助だけで、あとは全て常人だけである。「千鶴のような強力極まる超能力者を輩出した」という点に着目すれば自然な家庭環境と言えないこともないが、真田家と比較すれば、下崎家は実に信じがたい一家である。
しかし、驚くばかりではない。
この説明には納得もあった。
それは、千鶴の超能力が持つ異質な雰囲気である。強力過ぎることもそうだが、どう考えても通常の超能力者とは根本的な性質そのものが異なる超能力の理由が、千鶴の母が人外の存在だということによって説明できてしまうのである。
一応、納得しておくことにした。
「……まあ、そのことはわかったよ。じゃあ、次なんだけど、組織ってのはそんなに数があるもんなの?」
組織というのは、規模だけで言っても大から小まで、性質だけでも友達付き合いから犯罪まで、千差万別のものが存在する。千鶴の説明から、宗助はそういう印象を受けた。
となれば当然、組織の数は相当なものとなるに違いなかった。
「私が知ってるだけでも結構ありますよ。たぶん、私が聞いたこともないようなのや友達グループで作ったようなのも考えると、日本だけでも万単位であるんじゃないかと思います」
出てきた単位の大きさに宗助は愕然とした。百や二百ではない。万である。桁が違い過ぎる。
「いや、待って、ちょっと待って。万って何かの間違いじゃない?」
混乱気味の宗助をなだめるような表情を浮かべ、千鶴は静かに首を横に振った。
「単純に計算するとそれくらいの数があっても不思議じゃないんですよ」
「え? どういうこと? 何か、そういう統計でもあるの?」
「計算すると」ということは、計算式に代入する具体的な数値が存在するということである。そういった数値が存在するということは、きちんとした統計なり調査なりが行われているということである。もしかしたら、日本という国においては、超能力者という存在は非常に厳密に管理されているのかもしれなかった。
千鶴は頷いた。
「超能力者は千人から一万人に一人くらいの割合で生まれるらしいです。もしそれが本当なら、神影だけでも百人から千何百人くらいいるはずですね」
「……うん、確かにそれくらいになりそうだね」
宗助は、日本の総人口などの数値を基にして実際に考えてみて、納得した。日本には現在、一億三千万人近い人間が住んでいる。千人に一人の割合ならば十三万人近く、一万人に一人の割合でも一万三千人近く、それぞれ超能力者が存在する計算になる。どちらも極端と言えば極端だから、実際には五万人前後くらいが妥当な人数のように思える。ならば、数人から数百人程度での集団が万単位で形成されていても、それほど非現実的な数字ではない。
「で、最後の質問なんだけど……」
この疑問を口にするのは、少々の勇気を必要とした。
「……源田商会に入社するのは決定事項?」
これは実質的に「僕は入社するつもりがない」と答えているに等しい問いである。今のところはまだ迷っているだけに過ぎないとはいえ、入社に対して消極的な態度を取るのは流石にまずいように、宗助には思えた。
しかし、顔を緊張で強張らせた宗助に対し、千鶴は全く平静な表情のまま首を横に振った。
「そんなことないですよ。よかったら入社しませんかって言ってるだけです。宗助さんがしたいようにしてください」
「そ、それでいいの?」
宗助は半信半疑だった。
千鶴はあっさりと首を縦に振った。
「それでいいんです。私は別に勧誘員とかそういうんじゃありませんから、宗助さんを勧誘する義務なんてないんです。ただ、このままだと宗助さんが心配だっただけです。どうしますか?」
問われて宗助は、どうするのが最も良いのか少し考えてから、恐る恐る答えた。
「……今はちょっとわからない。虫のいい話だけど、保留ってことにして貰えないかな」
千鶴は快諾した。
「いいですよ。宗助さんが就職したいって言うならいつでも紹介します」
そうして、笑顔で頷いた後、少し不安そうな面持ちで切り出してきた。
「ところで、お願いがあるんですけど……聞いて貰えますか?」
「……聞くだけならね。言う通りにするかどうかは聞いてから考えるよ」
宗助は慎重な態度を崩さなかった。
真剣な表情や不安げな表情を浮かべた後には、なぜその程度でそこまで真剣になったり不安になったりするのかと拍子抜けしてしまうような、他愛もないことばかりを言ってくる。千鶴との短い付き合いの中で、彼はその法則を勝手に見出していた。しかし、短い付き合いで勝手に見出した法則を妄信して、安請け合いするわけにはいかなかった。
「私、来週から夏休みなんですけど、時々でいいですから、遊んでくれませんか?」
「え……夏休みに?」
話を聞く前に安請け合いしなかったのは正解だった。用件を聞き、宗助は心の底からそう思った。
何と言っても、宗助は大学生であり、千鶴は中学生である。
当然ながら、宗助が中学生程度に見えるほどの童顔というわけでもなければ千鶴が高校生や大学生程度に見えるほど発育が良いわけでもないので、年齢差は歴然としている。しかも、顔立ちが似ているといったような接点があるわけでもないので、どう考えても一緒にいる理由が思い当たらない。そういった方面に対する世間の嫌悪感が日増しに高まりつつある中で、敢えてその風潮に挑むような真似などできようはずもない。
「そうです。一緒に食事したり、お祭りに行ったり、プールに行ったり、勉強したり……そういうのって、駄目ですか?」
どれも宗助としては「微妙」としか言いようのない「遊び」だった。どれもこれも全く健全であるようにも思えたし、一つ間違えればとんでもないことになってしまいそうにも思えた。内心において、千鶴の申し出に多少なりとも魅力を感じてさえいなければ、即座に拒否していたに違いない。
「あー……もしかしたら変なことしちゃうかもよ」
宗助は自分の理性に信頼が置けなかった。一緒に食事をしたり、祭りやプールに行ったり、勉強したりといった行為は、恋愛を主題にした漫画や小説においては王道とも言えるシチュエーションである。そういったある意味非日常的である空間において、雰囲気に流されて取り返しのつかないことをしでかさずにいられるかどうか、全く自信がなかった。
千鶴は心外だと言いたげな顔をして、宗助の危惧を否定した。
「させません。嫌なら嫌って言いますし、やめてくれなかったら力ずくでやめさせますよ」
確かにそれはその通りに違いなかった。千鶴は否定すべき時に否定し、拒絶すべき時に拒絶できるに違いなく、宗助如きの暴力を更に圧倒的な暴力で捻じ伏せられるに違いない。
しかし問題はそこではない。
「嫌がられなかった時が怖いんだよ、僕は。そうなると、もう停まれない気がするんだ」
「私、これでも身持ちは固い方なんです。ちゃんとした約束をするまでは何もしないつもりです。だから大丈夫ですよ……宗助さんがきちんと約束してくれるまでは」
絶滅危惧種に指定されている大和撫子という生き物は、貞淑であると同時に少し怖い、こういう生き物のことを言うのだろう。宗助は素直にそう思った。
だが、これで問題が全て解決したわけではない。
「周りの目もあるでしょ? 僕と千鶴ちゃんじゃ、ちょっとまずい気がする」
やはり世間の目は怖い。仮に宗助自身に疚しい気持ちが全くなかったとしても、「小学生と言っても通用しそうな女子中学生を連れ回す二十歳前後の男」という生き物を見て、世間の人間がどう思うかはわからない。兄妹、親戚、幼馴染といった風に、好意的に見てくれればよい。だが、万一、誘拐犯や性犯罪者の類と間違われたなら、悲惨なことになる。最終的に潔白を証明することは可能だろうが、それには非常な困難を伴うかもしれない。
千鶴が、考え過ぎだとでも言いたげな表情を浮かべた。
「平気ですよ。宗助さん、変質者には見えませんし。私が平気な顔をしてれば、誰も何も言ってなんか来ないですよ。それに、もし何か言われても、私がきっちり言いますから」
宗助は千鶴の言葉に一抹の不安を覚えた。
「……何て?」
「『この人は私の彼氏です』って」
「いや、それは……」
不安は見事に的中したのだが、宗助にはそれを喜んでいられるだけの精神的余裕などなかった。この時になって、自分が酷く危険な状況に置かれていることに、彼はようやく気づいたのである。
今朝方、千鶴に「この人、痴漢です」と叫ばれた瞬間に破滅しかねないという状況に一旦追い込まれておきながら、宗助は、今度は「この人、私の彼氏です」と言われた瞬間に破滅しかねないという状況に再び追い込まれようとしている。否、この場合は、自ら飛び込んでいこうとしているようなものである。飛んで火に入る夏の虫とはこのことである。
宗助が腋の下に冷たい汗を掻き始めた時、千鶴が小さな笑みを浮かべた。
「冗談です。私だって、そこまで馬鹿じゃないです。ちゃんと、『幼馴染のお兄さんです』って言いますよ」
血縁であると嘘をついたり、恋人であると答えるのに比べれば、実に無難な切り抜け方である。これでこの問題も片付いてしまった。
「まだ何かまずいこと、ありますか?」
そう問いかけてくる千鶴は、もしかしたら、宗助が内心で千鶴と遊ぶことに魅力を感じているということに気づいたからこそ、ここまで食い下がり、問題を一つ一つ潰していこうとしているのではないか。宗助にはそう思えた。
無論、まだまだ問題はあった。
「それにさ、君のお父さんとお母さんには何て言うの? クラスメイトとか先輩後輩とかと出かけるみたいにはいかないんじゃない? 黙ってたら何かあった時にまずいことになるし、かと言って、馬鹿正直に言ったら言ったで絶対に心配するだろうし」
これに対して、千鶴はこれまでと全く変わらず、あっさりとした態度で答えた。
「あ、それも大丈夫です。父も母も、そういうことには寛容ですから。宗助さんをちゃんと紹介すれば、たぶん何も言わないと思います」
確かに、親が子供の交友関係に対して抱く不安には「子供が誰と親しいのかがわからない」というものが大きい。だから、宗助がきちんと自己紹介をすれば、その不安は消えるだろう。
だが、宗助のことを知ることによって、また新たな不安が生まれるはずである。それは「自分の子供が、子供に教育上良くない影響を与えそうな人間と親しくなっている」というものだ。宗助はその不安によって、話を聞いた限りでは厳格そうな印象のある、下崎千鶴の父母から疎まれることになる可能性が高い。
宗助は、千鶴の恋人になるということに対してはともかく、彼女の友人となることそのものに対しては特に問題を感じていない。むしろ、千鶴本人の人柄、容姿、それから千鶴の持っている情報などにより、そのことに魅力を感じてすらいる。友人としての付き合いまで制限されるのは、致命的ではないにしろ、それなりに困る話である。
「大丈夫ですよ」
宗助の不安を読み取ったらしく、千鶴が自信と確信に満ちた表情で断言した。
「ちゃんと紹介すれば、絶対にわかってくれます。それに、最初から宗助さんのことは紹介するつもりでしたし」
「最初からって……やっぱり超能力者だから?」
「そうです。特別な力のある人のことを黙ってるわけにはいかないから……だから、そのついでに紹介しようかと思ってるんです」
「どういう風に紹介するの?」
ここは肝心な点だった。曖昧にしておくことができない点だった。まかり間違って「恋人」やそれに類する間柄として紹介されてしまったなら、認められるにせよ認められないにせよ、取り返しのつかないことになる。
「『もしかしたら私の彼氏になるかもしれない友達』っていうのは駄目ですか?」
「そ、それはやっぱりまずいよ。普通に『友達』って言おうよ、そこは」
「駄目です。ちゃんと本当のことを言いたいんです。それに、母は私と同じで感情を読めますから、私が宗助さんのこと好きだって、すぐにわかっちゃいます。隠せません」
どうして「そうなった時には既に詰まれてしまっている」という事態ばかりに見舞われるのか。宗助はそう思い、心因性の頭痛を覚えた。
諦めの境地で、溜息混じりに言った。
「うー……じゃあ、どのみちわかっちゃうから、どうしようもないわけか」
「そうです。ごめんなさい」
宗助が本当に困っているということを超能力によって感じ取ったのか、千鶴は本当に申し訳なさそうな様子で頭を下げてきた。
別に千鶴が悪いわけではないため、宗助は居心地の悪さと気まずさを味わうこととなった。
「いや、まあ、しょうがないからさ、それはもういいよ」
そう告げても、千鶴はまだ申し訳なさそうな顔をしている。
別に自分が悪いわけでもないのに、宗助は罪悪感めいたものを覚えてしまった。それを何とかしたいという思いが働き、宗助はつい言ってしまった。
「まあ、ちゃんとお父さんとかの了解を取れたら、一緒に遊ぼうか」
宗助がそう答えると、千鶴の表情が輝いた。期待に満ちた表情で問いかけてきた。
「なら、ちゃんと父と母に許可を貰いますから、今度のお祭り、一緒に行ってくれませんか?」
「……お祭り?」
今春、引っ越してきただけの宗助には、神影市の行事予定など全くわからない。「今度のお祭り」などと知っていることを前提に言われても、わけがわからない。
「夏休みに入ってすぐに市のお祭りがあるんです。二十四日なんですけど、一緒に行ってくれませんか?」
「二十四日……ああ、あれか」
宗助は千鶴の言う「今度のお祭り」が、回覧板に開催が告知されていた「源太祭り」であるということを理解した。何でも、昔、この辺りを治めていたという武将に関する祭りであり、市を挙げての行事であるらしい。暇潰しのために目を通すことにしている回覧板に、そういったようなことが書いてあったと、宗助は記憶している。
「そうです。……都合悪かったりしますか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
二十四日の祭りに誘われているということは、当然、それまでに千鶴の両親と対面することになるということである。そう簡単に決心できることではない。
しかし、千鶴と友人を続けるということを決めた以上、避けては通れない出来事であることも事実である。ここで拒否するか承諾するかは、それを先送りにするか否かの選択でしかない。
ならば、この時点で認めてしまったも、それはそれで良い。千鶴を喜ばせてやれるのならば、むしろその方が良いとすら言える。
結論は出た。
「まあ、いいか。……うん、それでいいよ。行こうか、源太祭り」
「ありがとうございます」
今からそれが楽しみでならないといった様子で、千鶴は嬉々として言った。
「近々、父と母を紹介するんで、その時に詳しいことを決めましょうか」
「……わかった。そうしよう」
またも取り返しのつかない一歩を踏み出してしまった。そのことを自覚し、不安に思いながらも、宗助は不思議と憂鬱さや陰鬱さを感じなかった。心の中にあるのは、不安でありながらも楽しみであるという、久しく感じていなかった思いだった。
嬉しそうに微笑みながら、千鶴が静かに立ち上がった。
それを見て、ベンチに腰掛けたままの宗助は、千鶴が帰ろうとしているのだろうと予想した。話も一段落しており、本来の用件も済んだため、これ以上一緒にいる理由はない。また、特に必要もないのに雑談を続けていても仕方がなく、また千鶴には千鶴の予定というものがあるに違いない。
そしてその予想は的中した。
「それじゃ、私はそろそろ帰りますね。色々と父に言わなきゃならないこととかもありますし。あ、メールとかは気軽に送ってくださいね」
「あ、うん、わかった。それじゃ、また」
「はい、お祭り、楽しみにしてますから」
千鶴はそう言うと、宗助に背を向けて歩き出した。
宗助はこれからのことを想像しながら、それを見送った。
下崎千鶴が帰宅したのは午後五時近くになってからのことだった。
下崎邸は、まさか江戸にまで遡るほど古めかしいものではないにしろ、戦前の町並みを彷彿させる古風な家屋である。内部の空間がどのように仕切られ、また活用されているのかを外部から窺い知ることは不可能だが、純粋な容積だけで考えれば、居間、台所、食堂などとは別に、父、母、子供数人が、それぞれ十分な広さの個室を持つことができそうな、屋敷と呼ぶのが適切であろう木造一戸建てである。
千鶴は門柱のインターフォンを鳴らした。
「今、開ける」
インターフォンからは尊大な響きの声が流れてきた。千鶴の母、魔神アラトの声である。
アラトは、名乗ることもなければ名を尋ねることもなく端的に用件のみを告げ、返事も聞かずに通話を終了した。アラトは既に、そこにいるのが自分の娘だということを察知していたのである。もっとも、それはインターフォンにカメラが取り付けられていたというようなことが理由ではない。下崎邸に監視カメラの類は設置されていない。アラトが千鶴の帰宅を知ったのは、あくまでも神と称されるに足るだけの強大極まる超能力によってである。
その直後、超能力が働く気配がしたかと思うと、鍵の開く音が聞こえた。物臭な所のあるアラトが超能力を使って開けたのである。神と称されるに足るだけの強大極まる超能力を持っているからこそ可能な不精だった。通常の超能力者ならば、自分の手で鍵を開けた方が遥かに楽なのである。
千鶴は古風な引き戸を開けて家に上がり、誰もいない廊下に向かって一言告げた。
「ただいま」
《うむ》
帰宅の挨拶を出迎えたのは、言葉によるものではない、思念による返事だった。千鶴もそうだが、アラトには思念によって意思を伝達する、いわゆるテレパシー能力が備わっているのである。
《何があった?》
《それは――》
《良いことがあったのだろう?》
《ええと――》
矢継ぎ早に送り込まれてくる楽しげな思念は、千鶴に返事をする暇を与えてくれなかった。
だが、返事などは必要なかった。アラトは感情を読み取ることで、他者の考えを実に正確に察することができる。
《恋をしておるようだが、成就したのか?》
《ううん、ちょっとわからない。そっちに行ってから話すね。ルイさんが来てるみたいだけど、お父さんと遊んでるの?》
居間に向かって歩きながら、千鶴は思念による会話を続けた。千鶴の鋭敏な超感覚は、家の中に入った時から、家族以外の誰かが中にいるということを感じ取っていた。
《うむ。奴めが突然押しかけてきたのだ。今は私をほったらかして二人で遊んでおる》
アラトの思念には強い嫉妬と不満の念が込められていた。
ルイというのは秀臣と親交を持つ異界の有力者の一人である。アラトに若干劣りはするものの、千鶴とは比べ物にならないほどに強大な力を持っている。享楽的な性格の持ち主であるルイは、週に一度くらいの間隔で下崎家を訪れ、秀臣と様々な遊戯に興じている。
母は、自分が傍にいるにも関わらず、父が彼女以外の誰かと遊んでいるという事実が気に喰わないのだろう。年齢の割にませた子供である千鶴は、アラトの心境をそのように分析した。
《そうだ。私はルイめに嫉妬しておる》
アラトの思念からは苦々しいものが感じられた。娘の前でもお構いなしにいちゃつくほどに秀臣を愛している彼女にとっては、秀臣との時間を邪魔する存在が憎たらしくて堪らないのに違いなかった。
《……何か話があるのだったな。必要であれば、ルイを追い出すが?》
思念からは、敢えて言語化すれば、「ルイを追い出す口実を見つけた」というような感情が伝わってきた。
《別にそのままでいいよ。折角来てくれたんだし》
友人というものがほとんどいない千鶴にとっては、「友人が訪ねてくる」という出来事は羨望の対象である。それを邪魔することなど考えられるはずもなかった。千鶴という少女は、「自分は不幸だ。だから周囲もそう在って欲しい」という思考法ではなく、「自分は不幸だ。だからせめて周囲には幸せで在って欲しい」という思考法の持ち主なのである。
《……わかった。そうしよう》
酷く残念そうな思念が伝わってきた。
千鶴は、母をぬか喜びさせてしまった、と罪悪感を覚えながら、居間の襖を開けた。
「ただいま」
十畳ほどの居間には三人の男女がいた。卓袱台に向かって「PP」と略される「ポータブルプレート」という名の携帯型ゲーム機を弄っているスーツ姿の黒人の男、座布団を並べた上に俯せに寝転がって同じくPPを弄っている作務衣姿の男、作務衣の男に覆い被さるようにして寝転がっている浴衣姿の女である。順番に、ルイ、秀臣、アラトである。
「ああ、お帰り」
秀臣が、やや大きめであることから爬虫類的な印象を持っており、「蛇男」、「爬虫人類」などというあだ名をつけられることとなった原因でもある目を一瞬だけ向け、すぐにゲームに戻した。四十歳代も半ばを過ぎているため、皺はともかく白髪が多少目立つが、武道を嗜んでいることから均整の取れた身体をしており、「若々しい中年男」とでも言うべき奇妙な雰囲気を纏っている。
覆い被さっているアラトが身長二メートルに迫る大女であるため、秀臣の身体をほとんど覆い隠されてしまっている。そのような状態でよくゲームに集中できるものだ、と千鶴は呆れ混じりに感心した。
「うむ」
アラトが、秀臣に覆い被さり、嫌らしい手つきで身体を撫で回しながら頷いた。実年齢はわからず、また外見年齢や姿も秀臣の好みやアラト本人の気分に合わせて頻繁に変化するので断定は不可能だが、現在は三十歳前後といったところである。墨で染めたような黒髪、白粉を塗りたくったような雪の肌、はち切れんばかりに豊満であると同時に一切の無駄が見当たらないほどに引き締まった肢体、といった具合に、非常に非人間的な肉体の持ち主である。そのことに対し、千鶴は激しい劣等感と強い憧憬を覚えている。千鶴を尊大にして年齢を重ねさせたような顔立ちをしているため、美貌に対する劣等感がないのがせめてもの救いであると言えた。
表面上は平静な様子だったが、千鶴にはわかった。アラトは多大な不満感を募らせている。もっとも、強い忍耐力を持つアラトのことである。募った不満が爆発するようなことはない。
「こんにちは。お邪魔してるよ」
ルイが、秀臣よりも若干長く視線を向け、ゲーム機に視線を戻した。ルイは「白人の顔立ちをした黒人」である。年齢は千鶴が物心ついた頃からずっと変わらず、二十歳代半ばのままである。貴族的とも言える優雅な雰囲気の持ち主であり、十人の人間がいれば十人ともが「美青年だ」と答えるに違いない容姿の持ち主でもある。
「こら、動きが停まっているぞ」
「ああ、ごめんよ」
秀臣に叱責され、ルイが苦笑を浮かべた。
ゲーム機の通信機能を使って二人協力プレイをしているのだろう、と千鶴は推測した。ソフト名は『クエストクエスト』に違いない。自身もプレイヤーである千鶴には、聞こえてくる音だけでわかった。
『クエストクエスト』はPPの開発元でもある「Zデュークダム」という会社が開発したオンラインゲームである。アクションが基本であるためか、主な対象年齢層は千鶴のような中学生を含む若者が中心であり、現にそれらの間で大ヒットしている。だが、なぜか、対象年齢を大きく外れた秀臣とルイもそれに熱中している。その実力は、秀臣が「KKKモドキ魔術師」の通称で、ルイが「アフリカン侍」の通称で、それぞれ『クエストクエスト』内の強力プレイヤーとして知られているほどである。余談ながら、千鶴は最近になって、そういう人物を「大きいお友達」と呼ぶのだということを知った。「廃人」という言葉も知ったが、秀臣にしろルイにしろ、実生活には大した影響を出していないため、それについてはあまり相応しくはないと思っている。
「おっと、危ない危ない。あんなの喰らったら死んじゃうよ」
「気をつけろ。お前が死んだら勝ち目がなくなるんだから」
『クエストクエスト』は初心者から上級者まで、そしてオフラインで単独で遊ぶ者からオンラインで集団で遊ぶ者まで、それぞれなりの楽しみを見つけられるように配慮され、また初心者と上級者の間に存在する格差を常識的な努力と技術によって解消可能となるように配慮された名作である。文句なしの上級者である秀臣とルイは、上級者用に作られた、些細なミスが死に繋がる高難易度のエリアで遊んでいるのだろうと思われた。
「千鶴が、何か大事な話をしたいらしいぞ」
秀臣の即頭部に頬を寄せ、耳に息を吹きかけるようにしてアラトが囁いた。
千鶴はどのようにして言い出そうかと悩んでいた。
そのため、代わって切り出してくれたことをありがたく思った。
だが、同時に、心の準備をする暇を与えてくれなかったことを恨めしくも思った。
「そうか。言ってみなさい――よし、『神の鉄槌』をやるから、タイミングを合わせろ!」
秀臣は、ゲーム画面から眼を離さず、素っ気無く言った。なお、千鶴に対する返事よりも長く、また感情の篭もった後半部分は、協力プレイ中のルイに向けたものである。
大事な話をしようとしている人間に対するには、あまりにも無礼な態度である。常人がするのであれば、本当に聞く気があるのかどうか甚だ疑問とすら言える。
だが秀臣に限っては、聖徳太子のように十人の言葉を聞き分けるというほど人間離れしたものではないが、同時に複数の人物と話したり、複数の作業をしたりするだけの能力があるため、特に問題とはならない。また、そういう人間に育てられて十四年間強を生きてきたため、千鶴にとって秀臣の振る舞いは全く普通のことである。無礼と感じるような心など持ってはいなかった。何の問題もないのである。
深呼吸して、不安や羞恥などで乱れる心を静めるよう努めた後、千鶴は躊躇いがちに切り出した。
「実は……好きな人が出来たの」
「……え?」
何を言われたのかがわからない、といったような表情を浮かべて、秀臣が千鶴の方を向いた。
その間、当然ながらゲームの方の操作は疎かとなっているわけであり、卓袱台の方から悲鳴混じりの叱責が飛んだ。
「ああっ! 何をやってるんだ、秀臣!」
「あ、すまん、操作ミスだ」
どうやら、千鶴にとっては「冷静沈着」、「頭脳明晰」といった四字熟語の体現者であるようにすら思える秀臣が、動揺のあまり操作をミスしたらしかった。
ルイがぽつりと呟いた。
「あ、駄目だ、突進が来る。死ぬ」
その顔には、自宅が焼け落ちていくのを眺める人間が浮かべるような、全てを諦めきったような表情が浮かんでいた。感情を読むまでもなく、表情を見るだけで、ひしひしと諦念が伝わってきた。
「待て、待つんだ! 人を殺すのはいつだって諦めだ。諦めるんじゃない。諦めたらそこで終わりだ! クスリだ、クスリを打って耐えろ!」
既にゲーム機から手を離しているルイを見て、秀臣が切羽詰まった声を上げた。オンラインで楽しむ上級者用に用意されたエリアでは複数協力が前提の難易度となっているため、一人が死ぬと一気に戦力が不足し、撤退か死かの選択を迫られることとなる。
「お断りだね! それくらいなら死なせた方がいい!」
このゲームは死に対する罰則が非常に厳しい。誰かとパーティ登録をした上で協力プレイをしており、かつその協力者が少なくとも一人生き残っている場合は何の罰則もない。罰則が適用されるのは、協力者を含めてパーティが全滅したり、単独プレイ時にキャラクターが死亡したりするようなことがあった場合である。
その罰則とは、所持品の可逆的、及び不可逆的喪失である。死亡時に所持していた品物の内、まず、所持金が全額没収される。その他、所持品については、ゲーム内で「レアアイテム」として規定されている品以外、全てが没収される。また、そのレアアイテムにしても、ゲーム内にある「屍拾い」という組織が勝手に回収し、それぞれのアイテムに見合った金額を支払わない限り、取り返すことができない。
ゆえに、本来ならば何としてでも死亡を避けるのが『クエストクエスト』プレイヤーというものであり、正しい姿である。
「だが、クスリを打てば勝てるぞ。今ならまだ勝てるぞ!」
「だから、嫌だって言ってるだろ!」
しかし、それにもいくらかの例外というものが存在する。
その代表と言えるのが、秀臣がしきりに使用を勧めている「クスリ」である。これは開発当初は「ヒロポーション」という名が付けられていたという曰くつきのものだった。覚醒剤を示す言葉である「ヒロポン」のパロディ以外の何物でもないこのアイテムは、社内において流石にそれはまずいという意見が出た結果、議論の末に「禁断の魔薬」という無難な名を与えられたという逸話を持つ。そのため、ある程度ゲームに慣れ、かつある程度の歴史的知識、雑学を持ち、かつその逸話を知っているプレイヤーから、「クスリ」の愛称で親しまれ、その使用を「クスリを打つ」と表現されているのである。
その効果は、元ネタを彷彿させるものである。「五分間の絶対的無敵状態」、「各能力値が二倍から四倍程度上昇」、「各種スキルの成功率、発動率が百パーセントで固定」、「疲労蓄積停止」といった効果を発揮し、効果が切れた後に「能力値が二分の一から四分の一にまで不可逆的に低下」、「各種スキルの成功率、発動率が五パーセントに固定」といった副作用を発揮するのである。
確かにこれを使えば大抵の危機を脱することができるが、そうすることによって、死ぬ以上の不利益を結果として被ることとなる。ルイが使用を拒絶するのも無理もない話である。
軍司令官が自軍の撤退を決定する時に浮かべるような苦渋の表情で、秀臣がルイに向かって頷いた。
「……わかった、撤退する。『空間跳躍』を使うから、それまで攻撃を避けて、奴を引きつけてくれ!」
「……もう遅いよ。リーアスが突進キャンセルしてブレス吐こうとしてる。揃って『こんがりステーキ』だよ」
「斬りつけてブレスを中断させろ! 諦めるな! 装備回復の手間を考えろ!」
「……わかった、やってみる!」
撤退戦において殿軍の役割を割り当てられた将校が浮かべそうな悲壮極まる表情を浮かべ、ルイがPPを再び手に取り、操作を再開した。
「頼んだぞ」
秀臣が祈るような表情を浮かべながら自分のPPを操作し、やがて大きな目を更に見開き、歓声を上げた。
「よし! 何だ、やればできる子じゃないか!」
「『痛打の構え』のおかげだよ。いい具合にクリティカルが出た」
「よし、よしよし! こちらも跳躍成功だ!」
「何とか無事に終わったね。死なずに済んで何よりだよ」
ルイが安堵に胸を撫で下ろすと、秀臣がそれに同調した。
「ああ、しかし、危ないところだったな」
秀臣の自らの行動を全く棚に上げた発言に、ルイは呆れたような表情を浮かべた。
「原因を作った奴が抜け抜けと……」
「結局、逃げられたんだからいいじゃないか」
「良くない! 準備にどれだけ金をかけたと思ってるんだ!」
千鶴が感情を読み取ったところ、ルイは本気で憤慨している。強大な魔力を持った異界の有力者は、たかだかゲームのことで、本気で怒っているのだった。
「わかった、その損失は後で埋め合わせるから」
「必ずだよ」
ここまで念押しするということは、ルイは準備に相当な資金を投入したようである。上級プレイヤーがここまで真剣になるほどの準備とはどれほどのものになるのか、千鶴には見当すらつかなかった。
また、ゲームのことでそこまで真剣になれるということも、千鶴には理解できなかった。ゲームはあくまでもゲームであり、楽しむためのものである。決して真剣にのめり込むためのものではない。それが千鶴のゲーム観だった。
秀臣が仕方なさそうに頷いた。
「わかったわかった。請求はメールか何かに纏めて送ってくれ」
「そうさせて貰うよ」
嫌味ったらしく頷き返した後、PPの電源を切り、ルイは立ち上がった。
「じゃあ僕は帰る。ゲームは落ち着いた心でやるものだ。今の秀臣とじゃ、ちょっと楽しめそうにない。また来るよ」
アラトに圧し掛かられたまま、顔だけを上に向けて秀臣は苦笑した。
「……そうだな、その方が良さそうだ。また来てくれ」
瞬きするほどにも満たない僅かの間で、ルイは煙のように消え去った。後には、ただ座布団と空のコップがあるだけで、それ以外には一切、そこに誰かがいたという痕跡は残らなかった。
「さて」
PPの電源を切り、秀臣が千鶴の方に顔を向けた。その顔は、つい先ほどまでまるで子供のようにゲーム機を弄っていた男とは思えないほどに、真剣なものだった。
「それじゃあ、話を聞かせて貰おうか」
千鶴は先ほどと同じく深呼吸した後、今日の出来事を順を追って報告した。朝、登校中に不思議な超能力者に出会ったこと、その超能力者を源田商会に勧誘したが返事を保留されたこと、そして、その超能力者のことを好きになってしまい、告白したが、返事を保留されてしまったこと、などを話した。
話を聞き終えてから、秀臣はしばらくの間、無言だった。その心中に渦巻いている感情を知覚してみれば、そこには秀臣にしては珍しいことに、戸惑いや驚きといったものがあった。それでも、時間が経つほどに動揺が静まっていくのは、流石は下崎秀臣といったところだった。
秀臣がゆっくりと口を開いた。
「千鶴」
「……はい」
蛇のような目で見据えられ、千鶴は強い圧迫感を覚えた。
秀臣自身は「然るべき手段を用いれば魔術を発動させられる」という魔術師としての平凡な才能を持っている以外は、「妖精の目薬」の作用で獲得した霊的視力、未完成の「生命の霊薬」の作用で獲得した不完全な不死などを持っているだけである。一個の存在としての戦闘能力を比較した場合、千鶴が圧倒的に勝る。
だが、それ以外の全てにおいて、千鶴は秀臣には敵わない。一個の存在として比較すれば、真剣な表情を浮かべた秀臣と真っ向から見詰め合えば、気圧されるのは当然なのである。その迫力は、嬉々とした表情を浮かべて圧し掛かってくる妻に押さえつけられ、唯一自由になる顔だけを上げているという笑いを誘う状態に在っても、些かも減じられることはなかった。
心拍数が上がっていくのを自覚しながら、続く言葉を待った。
「結論から言えば、俺は反対しないし、賛成もしない。お前がそれでいいと言うのなら、それはいいんだろう。だが、本当にお前はそれでいいのか? 『恋に恋するお年頃』という言葉があるが、まさにその通りの状況に陥ってはいないか? ある日突然に現れた、自分のことを恐れる様子も見せない男のことを、白馬の王子様か何かだと勘違いしているだけじゃないのか? 非日常的な出会いに興奮していて、その興奮を恋愛と勘違いしているだけじゃないのか?」 秀臣の言葉はとにかく辛辣だった。「反対しない」と言いつつも、実質的には反対しているのと大差ないようなことばかりを述べている。
そして、一々正しかった。
確かに、千鶴が宗助を好きになった理由に、そういった「恋愛に対する憧れ」が微塵もないとは言い切れない。そもそも、千鶴は恋愛というものに強い憧れを抱いている。それは周囲のカップルが揃いも揃って、幸せそうであり、強い愛情で結び付いているように見えているからだった。
まず、筆頭と言えるのが両親である。秀臣とアラトは、人間と神という、身分違いなどとは比較にならないほどに根の深い、種族レベルでの垣根を乗り越えて現在に到っている。今も千鶴の目の前で身体を密着させ、見ていて恥ずかしくなるほど情熱的な愛情表現を行っている。もっとも二人は、「赤ちゃんはどこから来るの?」という幼い子供の質問に対して目の前で「作る過程」を実演してみせることで回答とするような、倫理観の欠如が著しい夫婦なのだが、千鶴はそのことを無意識的に見なかったことにしている。
また、秀臣の姉である仁美と秀臣の親友である工藤優一の伯母夫婦も、千鶴にとっての「理想のカップル」である。五年ほど前、自衛官である優一は任務中に死亡した。その際、仁美は、駒駆駐屯地の司令に働きかけて死亡直後の死体を受け取り、秀臣を始めとする親しい魔術師達の助けを借りて最高の技術を尽くし、優一を生前の人格を保ったゾンビとして蘇生させた。しかも、優一がゾンビになるのだから自分もそうならねばならないとして、仁美は自らの身体に魔術の奥義を駆使し、吸血鬼へと変じている。そして、それからの五年間、仁美は研究に研究を重ねて自分達夫婦の身体を人間に近づけるべく改良していき、今では二人共、表面上は通常の人間と全く判別不可能なまでになった。これはまさに、千鶴にとって、「共に在りたいと願う夫婦の愛情の勝利」というものだった。なお、優一が不浄な生命を維持するため、定期的にある程度以上の生命力を持つ生物を殺戮しに出かけていること、仁美が不浄な生命を維持するため、近くにいる人間から死なない程度に生命力を盗み取っていること、などはやはり千鶴は無意識的に無視している。
真田宗助のことを「白馬の王子様」のように見ていないとも言い切れない。思春期に突入し、自意識が拡大され、思考力が高まりつつある今、千鶴は自分の生い立ちや周囲からの孤立といったものに強い不安を覚え始めている。それを救ってくれそうな存在に見えた相手を、過剰なまでに特別視してしまっているのではないか、という問いを否定する根拠が見つからなかった。
非日常的な出会い方をした興奮で冷静な判断ができなくなっているという可能性も斬り捨てることができない。確かに、非日常的な世界――と言うより恋愛――への憧れがないとは言えない。平凡な恋愛をするよりは、両親、伯母夫婦などのような劇的な恋愛をしてみたいという思いがある。
「言っておくが、恋に恋をするのは不毛だよ。恋にどれだけ恋そうと、恋は何らも応えてくれない。突然現れて自分をちやほやしてくれる王子様が実在しないとは言わないが、少なくともそれはお前の前には現れない。お前の前に現れるのはただの人間だ。非日常も続けばただの日常だ。輝きはすぐに失せる。そして目も眩むような輝きが消えた後には、大抵、何の変哲もない石ころが転がっているだけだ。お前は輝きを失った石ころに愛を注げるかね? それでもお前は、本当にそれでいいと言えるのかね?」
しかし、千鶴はそれを踏まえてなお、自分の気持ちが一過性のものに過ぎないとは思いたくなかった。否、思わなかった。自分は真剣に真田宗助という男のことを好きになっているのだ、と彼女は心の底から思っている。
千鶴は秀臣の蛇のような目を真っ直ぐに見返し、頷いた。
「私は宗助さんが好き。きっかけがお父さんの言うようなものでも、そこから続くのは本物だから、大丈夫」
「……だが、そんな男のどこがいいんだね? 優柔不断で、思い込みが激しくて、賢いようで愚かで、自分に全く自信がなく、何かを傷つける勇気も覚悟もない。そんな奴の一体どこに魅力があるんだね?」
秀臣は真田宗助という人のことなど何も知らないくせに、指摘する点はどれも非常に正しいものばかりだった。秀臣の洞察力は安楽椅子探偵のような域に到達しているかのようだった。
とはいえ、いかに真実であろうと、自分が恋心を抱いている相手を貶されて不愉快にならないはずがない。千鶴はむっとして言い返した。
「言ったでしょ、お父さん。私の超能力とか血とかを知っても、私のことを怖がったり嫌ったりしなかった。それが理由。あの人とといると、何だか居心地がいいの」
「しかし……居心地がいいというだけでは生きていけない。それが現実だよ。日本という国の中で生きていこうとするのなら、相応の経済力が必要だ。愛がなくては幸せな恋愛はできない。それは正しい。しかし、だ。金がなくても幸せな恋愛はできないということもまた、正しい。愛と金、双方揃って初めて幸せになれる。そのことを忘れてはいけない。真田という男は自育大雑学部の学生だから、決して知的能力において劣っているわけじゃないのはわかる。頭の腐ったそこらの大学生よりは余程マシだろう」
秀臣が自育大学にそこまでの評価を下すのは、彼自身が自育大学雑学部の卒業生だからである。母校を讃え、後輩を高く評価しているだけなのである。
「だがね、今は就職氷河期で、それは年々酷くなっていく一方だ。これからはますます就職が厳しくなってくる。お前の話を聞いた限りでは、真田宗助はあまり物事について積極的な方ではなさそうだ。雑学部は何でもやらせてくれるが何にも指示してくれない学部だ。何かを成し遂げようという強い意志を持たない人間には、まさに『自育大卒』の学歴しか与えてはくれない。となると、特別な技術や専門的な知識なしでも勤められ、しかも安定した生活を送れそうな就職先を選ぶしかないわけだが、そういうのはもう会社員か市役所の職員くらいしかない。しかし、それは誰もが馬鹿にしながらも、その内の多くがそこに落ち着こうと躍起になる類の進路だ。そんな絶望的な希望を叶えられるとは思えんよ。競争に打ち勝つだけの強さがない。バブル崩壊前なら学歴が保証されているから安全牌なんだろうが、今はもう駄目だ。将来性に欠ける」
そういった話をされても中学生の千鶴にはピンと来ない。なので、父がそう言うのならばそうなのだろう、という思考が脳裡をよぎる程度である。
「魔力にしたところで、確かに発動を周囲に察知されないというのは目を見張る特質だが、それだけでは食っていけない」
秀臣を始めとする魔術師達は、超能力のことを、魔術とは別に魔力と呼んでいる。魔術師達の弁によれば、「もともと我々が魔力と呼び習わしていたものを勝手に言い換えただけ」といのことである。
「まあこちらは、特質を生かすために力を磨き、応用力を身に着けていけば、ものになるかもしれないが。それにしたって、本人の意欲次第だよ。それでもまだ、彼への恋心は消えないかね?」
秀臣は、反対しないと言っていたくせに、何とかして翻意させようとしているとしか思えないことを語り続けている。
四人いる兄全員にはほとんど事後承諾の形であっさりと交際や結婚を許してきたのに、なぜ自分の時に限ってはここまで頑迷なのか。千鶴はそう疑問に思った。
秀臣の顔を半ば恨めしく思いながら見て、ふと、千鶴はあることに気づいた。秀臣の感情の動きの中から戸惑いや驚きはほぼなくなっていたが、代わって浮かび上がってきている感情があった。
それは嫉妬と寂寥だった。秀臣は、恐らくは真田宗助に対して嫉妬しているのに違いなく、千鶴が誰かに恋心を抱き始めたことに寂寥を感じているのに違いなかった。
秀臣が千鶴に恋心を抱いているから嫉妬しているということはない。千鶴は父親からの愛情を感じたことはあっても、恋心を感じたことはなかった。
秀臣の心境を、千鶴はこう分析した。これまでに自分を最も身近な異性として見ていた千鶴が、自分以外を最も身近な異性としたことが不愉快なのだろう。また、同じく自分を最も身近な異性として認識していた千鶴が、自分の手元から離れていくことが寂しいのだろう。
自らの分析に、千鶴は喜びを禁じ得なかった。一人の人間が、自分がその人間以外の誰かに心を移そうとしているのを不快に思ってくれるということ、一人の人間が、自分がその人間から離れていこうとしているのを寂しがってくれるということ、それぞれの価値を千鶴は良く知っている。ましてや、その「一人の人間」というのが最愛の親であるともなれば、それは人生最大の喜びの一つと言っても過言ではない。
《千鶴。気づいているようだが、そのことは秀臣には言うな》
喜びのままに秀臣にそのことを言おうとした時、それまで飼い主にじゃれつく猫のように、我関せずとばかりに振る舞っていたアラトからの思念が千鶴の心中に流れ込んできた。
《なぜ?》
《それは秀臣が自分で気づかなければ意味がない。誰かに指摘されてばかりでは、成長しない》
千鶴にはアラトが完全に真実を述べているわけではないことがわかった。アラトの思念の中には、秀臣の成長を促したいという思いとほぼ同じくらいの分量で、秀臣が悩む姿を楽しみたいという思いが存在した。
《そうだ、千鶴よ。私はそう思っておる。時に、其方は秀臣に嫉妬され、どのように思った?》
アラトは明らかに千鶴に悪戯への協力を求めている様子だった。
母が父の害になるようなことをするはずがないとわかっているので、千鶴は素直にその要求に応じることにした。
《お父さんが宗助さんに嫉妬してくれて嬉しい……かな》
《そうか。それは良いことだ。男の嫉妬の価値を良く知っておる。良い女になったものだ。よし。私が口添えしてやろう》
恐らく「良い女」云々は社交辞令に違いない。アラトは千鶴に悪戯への協力をさせる代償として、それを申し出てきたのに違いなかった。
とはいえ、思わぬところで強力な味方を手に入れたことに違いない。千鶴はアラトに多大な期待を寄せた。
《お願いね》
《任せておけ》
力強い返事を寄越した後、アラトが秀臣の即頭部に頬を寄せ、囁くように言った。
「其方は息子共の件はあっさりと承諾したではないか。なぜ千鶴のことはここまで頑なになるのだ?」
直球の質問だった。千鶴はアラトに感じた頼もしさが壊れていくのを自覚した。これ以上、おかしな方向に話が進まないことを祈りながら、両親の会話を見守った。
秀臣は一瞬鼻白んだが、すぐに気を取り直した様子で、静かに、淀みなく答えた。
「……連れて来た女達がどれも認めるに足る女だったからだよ」
続けて放たれたアラトの提案によって、千鶴は、アラトに口添えを頼んだ自らの選択に対する深い後悔の念を抱くこととなった。
「ならば、その真田宗助とやらを今すぐにでも連れて来させて、その目で真贋を見極めれば良いではないか」
《お母さん、それはまだ早いよ!》
近い内にそうするつもりでは確かにあったが、しかし、今日この日にというのは無理な話だった。宗助が納得するとは思えないし、何より、千鶴自身の心の準備がまだだった。
だがアラトの答えは無情なものだった。
《問題はない。どうせ、近い内に連れて来させることになるのだ。多少、その時期が早くなったところで、人間の本性というものは変わらぬ》
《宗助さんにも都合があるかもしれないでしょ!》
《都合が合わぬとあれば、それはそれで良いではないか。それで其方のために自らの都合を曲げられる男かどうかがわかる。或いは、弁舌を以て秀臣を納得させられるだけの断りの理由を捻り出せるかどうかかもしれぬが》
もうこれ以上の反論は無意味だ、と千鶴は諦めた。何事も自分本位に考えようとする、神として崇められた女の傲慢さはどうしようもなかった。
かくなる上は、秀臣が大人としての良識を発揮してくれることを願うばかりだった。
しかし、当然と言えば当然だが、その淡い願いは無惨に打ち砕かれることとなった。秀臣に良識を期待するのはそもそも無駄であり、同時に、その秀臣が好きか嫌いかで言えば明らかに嫌いに属する認識を抱いている相手に対して取る行動に良識を期待するのは、無駄を通り越して無謀ですらあった。
「それも一理ある。もともと会ってみるつもりだった。今日いきなりというのは流石に考えていなかったが。……いいだろう。この目で見極めてやる。千鶴、携帯に真田の番号は登録されているかね?」
千鶴は咄嗟に否定しようかとも考えたが、すぐに考え直し、無言で頷いた。完全に楽しんでいる様子のアラトは、そうなった時、迷わずに真実を告発するに違いないからである。
「なら、彼を夕食に誘いなさい。私が是非会いたがっているということも伝えて、ね」
最早、孤立無援である。大魔術師と魔神である前に親である二人に促されて逆らうすべなど、千鶴には存在しなかった。彼女は諦めの表情を浮かべたまま、携帯電話を取り出した。