第一章 日常から非日常への朝(分割後半)
普段は足を向けない方角に向かい、歩いたことのない道を歩くこと十数分のことだった。午前八時を少し過ぎた頃、宗助は寂しい路地に出た。
これまでに辿ってきた道は完全に記憶しているし、長月荘からの位置もおおよそ見当が付いているが、地名や周辺の地理などは全くわからない。ただし、地名がわからないとはいえ、ここが駒駆区のどこかだろうというくらいの見当は付いている。長月荘と現在地との位置関係、実際に歩いた距離、それから神影市の大まかな地理を考えれば、まだ駒駆区に隣接する天道、黒金、天海区のいずれにも到達していないだろうことは明白である。
この寂れた路地には、普通の乗用車が一台通るのがやっとという程度の狭い道幅しかなく、周囲には人家はあるが人通りは皆無だった。まさに裏道といった感じである。全体的に薄暗く、また道自体も入り組んでいるため、夜中にここを歩くのは避けるのが賢明だろうと思われた。また、風の通りが悪いためか非常に暑く、ただそこにいるだけで汗が流れ出てきた。おかげで定の湯で汗を落としたことが全くの無駄となってしまった。
ともあれ、こういった寂れた道は、いかにも「知る人ぞ知る名店」が隠れていそうな雰囲気がある。
人気がなく薄暗い、悪く言えば犯罪の温床とも言える路地を無目的に歩いている内、宗助は少し大きめの路地に出た。こちらは、二車線でこそないが乗用車が擦れ違うことができる程度の広さがあり、人通りも皆無ではない、まず普通と言って良い路地だった。
一度に一人か二人くらいずつ向かい側から歩いてくる相手は、そのほとんどが中学生くらいの少年少女で、大人はほとんどいなかった。
たぶんこの路地は通学路なのだろう、と宗助は推測した。今はまだ八時を少し過ぎたくらいだからこの程度の人通りだが、もう少し時間が経てば、世間ではブレザーが主流になりつつある中、古風にも学生服とセーラー服を着ているこの中学生達によって、道が占拠されるかもしれない。
それから何回か中学生達と擦れ違った後、宗助はたまたま目に付いた狭い横道に入った。同じ学校の制服を着た同年代の少年少女達が友人と他愛もないことを話し合いながら歩いている通学時間帯の通学路というものは、私服姿の大学生にとって、あまり居心地の良いものではなかった。そういう場所を一人で歩いていると、自分が酷く場違いな存在であるということを思い知らされ、どうにも落ち着かないのである。
入り込んだ横道は先ほどの寂しい路地と同じく、車が一台通り抜けるのがやっとという道幅で、人通りも皆無に近い、裏道といった感じの道だった。
先ほどの裏道との違いはほとんどなかった。
しばらく歩いていくと、セーラー服を着た小柄な女子中学生が、五メートルほど向かいから歩いてきているのが見えた。
その少女の姿を目にした瞬間、気づけば宗助は思わず立ち止まり、少女を注視してしまっていた。
宗助が少女に対してそのような反応を示したのは、少女が大変な美少女だったからである。わかりやすく一言に纏めてしまうと、大学生が女子中学生に見惚れてしまったということである。
長い黒髪を好まないという印象のある今時の中学生にしては珍しいことに、癖のない黒髪が背中の中ほどまで伸ばされている。理知的な顔立ち、きっちりと着込まれたセーラー服などという辺りに真面目な優等生といった雰囲気がある。また、肌を焼いたことなど一度もなさそうな、白人の血でも入っていそうなほどに白い肌、冷房の過剰使用によって発汗能力を失ったのか、この酷暑の中で汗一つ掻いていないなどという辺りに、上流階級の子女といった雰囲気がある。
少女の学年はわからない。顔を見ただけで年齢を確認するような技術など、宗助は持っていない。しかし、発育さえ十分ならば童顔の高校生や大学生と言っても通用しそうな大人びた表情から、ほんの四ヶ月前まで小学生だった中学一年生ではないだろう、ということくらいは見当が付いた。
とにかく、大変な美少女だったのである。「中学生以下限定の美少女アイドルグループ」というものが世の中には存在するが、そのような連中などは全く問題にならない、と宗助は思った。「本当に可愛い子はテレビに出ない」という言葉もあるが、まさにそれを実証する存在と言える。その手の趣味を持たない宗助ですら見惚れてしまったのだから、その手の趣味を持つ人間にとっては美の女神の化身にすら見えるかもしれない。それくらいの美少女だったのである。
宗助が立ち止まってから数秒後、少女も立ち止まり、訝しげな視線を向けてきた。立ち止まってじっと自分を見ている不審な男の様子を窺っているのに違いなかった。
視線が合った。
その視線を受けて、宗助は、自分が変質者と誤認されかねない行動を取っていることに気づいた。宗助の行動を端的に述べると、「男子学生が女子中学生を立ち止まったまま注視している」ということになる。この場合、「男子学生」の側にどのような事情があろうと意味がない。たとえ「綺麗だから見惚れていただけだ。疚しい気持ちはない」と嘘偽りなく正直に主張したところで、客観的には変質者ないしその予備軍の行動に過ぎない。誰もそのようなものは信じてくれはしない。
そうとわかった途端、思わず回れ右をしそうになった。
しかし、すぐにそれが更なる誤解を招く行為であることに気づき、踏み止まった。
腋の下に冷たい汗が噴き出るのがわかった。自分は今、危機的状況下に在る。宗助はそのことをはっきりと理解したのである。
もし眼前の少女に変質者と誤解されたら、社会的に抹殺されることにもなりかねない。
宗助の後ろには通学路があり、そこには中学生が何人もいる。もし少女が危険を感じて悲鳴を上げたなら、それを聞きつけて、その中の何人かが確実に駆けつけてくるだろう。
そうなってしまったら、逃げるわけにはいかない。逃げるということは、自分が変質者であると認めることに等しい。そういう状況になってしまったら、駆けつけてきた中学生と目の前の少女に対し、自分は変質者ではないのだということを冷静に話して聞かせるのが正解である。そうしないと、後で警察などにまで話が持ち上がった時、質問項目の中に「何も疚しいことがないのならなぜ逃げたのか」というものが入り、「逃げた」という事実によってあらゆる弁明が潰されてしまうことになる。
だが、「変質者と遭遇した」という非日常的な状況に置かれて多かれ少なかれ精神が高揚しているであろう中学生達を説得する自信など、宗助にはない。何を言っても「変質者の言い訳」として無視される可能性が高い。
そして、説得できなければ、中学生達によって警察に突き出されることは間違いない。学校に変質者を連行して教師に引き渡す、などというのは十年以上も昔の話である。最近の中学生には携帯電話を持っている者が珍しくないという話だから、何か事件が起こったら即座に一一〇番を押すだろう。
そうなると、非常に厄介である。痴漢の類は、被害者が女である場合、容疑者は「推定有罪」の精神で取り扱われる、という噂を宗助は耳にしたことがあった。もしそれが単なる噂ではなく真実なのだとしたら、宗助の無実を証明するのは不可能に近い。
実質的な被害が何もなかったことからこの件については証拠不十分で解放される可能性が高いが、その後、警察から要注意人物として扱われることは確実だし、近隣に尾鰭付きの噂が流れてしまうことも確実である。
宗助には、警察から要注意人物として扱われた経験もなければ、近隣住民から変質者であると噂された経験もないので、詳しいことはわからないし想像もつかないのだが、一つだけ容易に想像できたことがあった。それは、そうなった場合、平穏で無難な人生を送るという宗助の望みが完膚なきまでに打ち砕かれることになることだけは確実だろうということである。少なくとも、神影市での平穏な生活が不可能となることだけは間違いない。
まさかこのような場所でこのような危機に遭遇する破目になるとは思ってもいなかった。視線が合ってから数秒後、宗助はあまりの不運に泣き出したい気分になった。
宗助が限りなく暗い未来を想像し、暇潰しの方法としてよりにもよって市内の散策などを選んだ数十分前の自分を呪い始めた頃、少女が動いた。宗助のことを恐れる風もなく、それどころか関心を全く失ったとでも言うかのような、至って平然とした態度で歩き出したのである。どうやら、宗助のことを変質者だとは思わなかったらしい。
その様子を見て、宗助は思わず安堵の溜息を漏らした。とはいえ、そのままずっと立ち止まっているわけにはいかない。そのようなことをすれば、折角疑いが晴れたことが無駄になる。
少女に誤解されることのないよう、少女と反対側の板塀に寄り、普段よりもいくらかゆっくりとした歩調で宗助も歩き出した。
宗助と少女の距離が、少しずつ縮まっていった。
その距離がおよそ二メートル程度にまで縮まり、路地の壁沿いを歩く二人が、あと少しで擦れ違うという瞬間のことだった。
宗助は一切の思考が空白になってしまったほどの、そのこと以外の一切が意識から駆逐されてしまったほどの驚愕に見舞われた。あまりのことに声も出せなくなり、表情を取り繕うことすらも忘れ、驚愕をそのまま表情に表してしまっていた。
少女も驚きを顔に表し、警戒するような視線を宗助に向けてきていた。
宗助から少し距離を取り、少女が言った。
「どうしてわかったんですか?」
綺麗な声だった。絡みつくような色気を持つ大人の女と、一点の邪気もない幼い女との中間点にあるような、どちらでもあるようでどちらでもない、中学生という時期相応の声だった。
鋭い視線を宗助に向けながら、少女は続けた。
「貴方は、知ってたんじゃなくて、ついさっき知ったんですよね? 何でいきなりわかったんですか?」
投げかけられた問いに、宗助は咄嗟に答えられなかった。
何を問われているのかが理解できなかったのではない。この時点ではもう宗助の思考力は機能を回復していたから、何を問われているのかなど、はっきりと理解している。少女は、なぜ自分が超能力者であることに気づいたのか、と訊いてきているのである。
少女は宗助が未だかつて目にしたことがないほどに強力な超能力者だったのである。宗助はそのことを、擦れ違おうとしたその瞬間に感じ取っていた。少女が感知能力の圏内に入ってきたことで、それを自動的に感じ取ってしまったのである。それゆえに、少女のあまりにも強大で、しかもどこか異質な雰囲気を放つ力に恐怖した宗助は、思考が空白になるほどの衝撃を受けたのだった。
しかし、なぜ宗助が気づいたということに、少女が気づいたのか。それが理解できなかった。少女は、かまをかけてきているのではなく、明らかに何らかの確証に基づいて質問してきている。だが、その確証が何なのかがわからない。
そこまで考えて、宗助は、少女が読心能力を持っているのではないか、という結論に達した。あり得ない話ではない。超能力者としては能力の多彩さしか取柄のない宗助でも、目が血走るほどに集中すれば、他人の感情を感じ取るくらいのことはできるのである。この少女ほどに強力な超能力者ならば、ほとんど耳で音を聴き取るようにして、実に容易く他人の思考を読み取ることができるに違いない。またそうであるならば、宗助が少女に見惚れていた時、少女が宗助に警戒心を抱いた様子を見せなかったことも納得がいく。宗助の心を読み、害意がないことを察知したのである。
無言のままに思考を続ける宗助に対し、少女は静かに問いかけてきた。
「貴方は……もしかして超能力者ですか?」
言って、すぐに納得した様子で頷いた。
「やっぱりそうなんですね」
これで少女が心を読む力を持っていることが確定した。少女は宗助に疑問を投げかけることによって思考させ、それを読み取ることで答えを得ているのである。
そしてそれはつまり、少女に対して宗助が何かを隠し立てすることは、事実上不可能ということである。宗助は一切の抵抗を諦めた。
思えば、いっそ、清々しいと言っても良いような気分だった。これまでに散々、神経を磨り減らして隠していたことがあっさりと見抜かれてしまったのである。これで終わってしまったという絶望感もあったが、それ以上に、もうこれであの生活を続けなくて済むという解放感があった。
少女は、再び困惑気味な表情を浮かべ、おずおずと問いかけてきた。
「あの……」
「何?」
「怖く……ないんですか、私のこと。何だか、あんまり怖がってないみたいですけど……」
少し考えて、宗助は少女が言わんとしていることを悟った。
「いや、怖くないわけじゃないんだけどね。……怖がっても仕方がない気がするって言うか、何と言うか」
宗助が少女を全く怖れていないと言えば嘘になる。その気になれば自分の個人情報をいくらでも引き出し、徹底的に破滅させることも可能と思われる相手に対し、微塵も恐怖を抱かないというような人間はいない。それは宗助も例外ではなく、例外があるとすれば、それは乳幼児くらいのものである。隠し事をしたくなる程度には精神が成熟している人間ならば、確実にこの少女を恐れる。
しかし、恐れたからどうなるというものでもない。少女に心の奥底、思考の流れを見透かされてしまうことを避ける手立てなど、それこそ少女の目の届かない場所に逃げるというくらいしか、宗助には思いつかない。そして、それすらも、少女に宗助の逃亡を許す気がなければ不可能である。強大な超能力者であるこの少女には、宗助の逃亡を阻止する手段がいくらでもあるに違いない。ゆえに、少女のことを恐れようと恐れまいと、また宗助如きがどのような対抗策を講じようと、その事実が変わることは決してない。
ゆえに、わざわざこの少女に恐れ慄くのは、全く無駄なことであるように宗助には思えた。それくらいならば、もうこの少女はそういう存在なのだと割り切り、だからどうしたのだと開き直って自然体で接するのが、お互いのためである。そう思えたのである。大昔の人間は台風や地震などの自然災害を天災として受け止め、諦観したというが、それと同じことである。自分もそうすれば良いのである。
或いはこれは、絶望感と解放感によって精神が高揚し、いわゆる自暴自棄になっているだけなのかもしれない。だが、これがこの時の宗助の本音であることに変わりはない。
恐らくは逐次、宗助の思考を読み取っていたのだろう少女は、初めの内は戸惑いの表情を浮かべていたが、やがて唇を僅かに歪めて苦笑した。
「変わった考え方をするんですね」
それに対し、宗助は苦笑を浮かべて応じた。生活習慣、行動、思考法に関して、「変わっている」と評されることがよくある。「普通」であることを心がけていても、心がけているからこその、作り物ならではの不自然さとでも言うべきものが滲み出てしまっているのかもしれない。だから「変わっている」と評されるのかもしれない。そのことについて、宗助はそう考えている。
「よく言われる」
どうせ口に出さずとも考えるだけで伝わるのだろうが、それでは、少女が一人で喋っているようにしか見えない。もし誰かが通りがかったとしたら、その誰かは少女のことを不審に思うだろう。そう思い、宗助は思考を大幅に要約した答えも口にしているのだった。
「……本当に、変わってますね。普通の人だったら、私のことを避けますよ」
僅かの間を置き、少女は呆れたような声音でそう言った。
宗助は、少女が決して幸せな人生を歩んできたわけではないのだということを察した。
考えてみればそうなのである。そうでなかったという方がおかしいのである。
少女は、こちらが何も言わなくても会話が成立してしまうほどに高速度かつ高精度の、極めて強大な読心能力を持っているらしい。それが意味するのは、少女に対して隠し事をするのは、一切不可能だということである。そういう相手に恐怖心や不信感を抱かない人間など、乳幼児くらいしか存在しない。
だから当然、少女が読心能力を持っていると知った人間は、自分の秘密を知られ、暴かれることを恐れ、その延長として少女を恐れることになる。例外はない。半ば開き直った宗助ですら例外ではない。宗助の心の中にも、まだいくらかの恐怖がある。
しかし、読心能力の本当の恐ろしさは、そのようなところにはない。その本当の恐ろしさに比べれば、他人に避けられるということなど、まだまだ序の口でしかない。この能力の本当の恐ろしさというのは、まさに思考の流れを理解できてしまうところにある。
なぜなら、相手が心の中に隠し持っている自分に対する悪意或いは本音まで、否応なく看破させられてしまうからである。自分が友人だと思っていた相手が、実は自分のことを友人などとは思っておらず、表に出さないだけで内心では嫌っている。楽しげな様子で自分の話に相槌を打ってくれている相手が、本当は自分の話に退屈していて、笑顔の裏で「いい加減にこの話終わらないかな」などと思っている。自分のことを愛しているのだと言ってくる相手が、本当は自分のことなど全く愛してなどいなくて、単なる身体目当てだったり財産目当てだったりする。こういった、人間の負の側面を否応なく見せ付けられてしまうのである。
読心能力を持った超能力者の苦悩を主題とした創作ならば必ず出て来る、出て来ない方がおかしい、というほどにありふれた苦悩だが、それがいかにありふれていようと、いかに珍しかろうと、本人がそのことを苦痛に感じているという事実に変わりはない。たとえば、いじめというのは、文部科学省の調査や学校の報告では、皆無に近い、珍しい事例のように扱われているが、学校生活における悩みとしては実にありふれている。たとえば、友人の連帯保証人になった挙句に自己破産に到るというのは、借金に絡む悩みとしては実にありふれている。しかし、世間的にありふれていようがいまいが、本人にとってはそのようなことなど関係ない。いじめも自己破産も、本人にとっては、自分という存在を周囲に受け容れて貰えない苦悩、生活や人生を一変させる悲劇でしかない。
少女の苦しみがどれほどのものなのか、宗助にはわからない。
無論、推測は可能である。そういった「超能力者の苦悩」については、様々な創作者が考察に考察を重ね、その成果を発表することで生計を立ててきているから、推測の材料には事欠かない。少女は人間という生き物に対し、深い絶望を味わったことだろう。人間と接触するというそれ自体が、現代社会で生きていくということ自体が地獄の刑罰のような苦しみなのだろう。そういう、ありきたりな推測はできる。
しかし、実感することは不可能である。宗助は少女ではないし、読心が可能なほどに強力な超能力も持っていない。ここまでの宗助の思考は、全て「心を読む超能力者」というキーワードから導き出された推測に過ぎない。
可能なのは、その境遇、心境を推測し、同情することだけだった。
少女が何とも言えない複雑な表情を浮かべた。
「……あんまり、同情しないで欲しいです」
それを見て宗助は、図らずも、自分が少女を傷つけてしまったらしいということを悟った。他人からの同情というものは、時として罵倒するよりも酷く人間を傷つけてしまうことがある。そのことを思い出した。
宗助は心の底からの謝罪を込めて頭を下げた。
「……ごめん。勝手に同情なんかして」
宗助は、大学生である自分が中学生を相手にして真剣に謝罪しているという事実を、情けないともおかしいとも思わなかった。誰かに迷惑をかけたり誰かを傷つけたりしたらその相手に対して謝罪をし、誰かに親切にされたらその相手に対して礼を言う。宗助にとってそれは、当然のことなのだった。
少女は、ばつの悪そうな顔をして宗助の謝罪を受け容れた。
「いえ……私こそ、すみませんでした。勝手なこと言って……でも、同情されると、心配して貰えて嬉しいって気持ちはあるんですけど、何だか惨めな気分にもなるんです」
そう語る少女は、強い自尊心の持ち主のようだった。ただそれは、現代社会の到る所で見られるような単なる我侭や傲慢の発露とは一線を画す、実に健全な自尊心であるように宗助には思えた。
宗助は頷き返した。
「うん、ごめん。……これからは、なるべく同情しないように気をつけるから」
「あ、いえ、そういうのは……別にいいです。私のことを心配してくれたっていうのは、とても嬉しいことですから」
「うん、でも、気をつけるよ。嫌な思いもさせちゃうし」
口ではそう言ったものの、この少女を相手にそれを実行に移すのは非常に難しい。そのことは宗助も理解していた。
これが普通の人間相手ならば話は簡単である。常人には心の中までは見通せないのだから、口にも表情にも態度にも、とにかく表面にその同情心を出さないようにすればそれで良い。
しかし、相手に心を読む力があるとなると、これが格段に難しくなる。表面に出さなくても、僅かなりともそうと思った或いは感じた瞬間には、もう相手はそれを察しているのである。今後、少女の健全な自尊心を踏み躙らないようにするためには、かなりの努力と労力が必要となる。
そこで考えて宗助は、まだ名前も知らない少女との「今後」などを自分が考え始めていることに気づき、思わず苦笑してしまった。
少女がおもむろに口を開いた。
「下崎千鶴です」
「え?」
「私の名前が知りたいんじゃないんですか? 私は、下崎千鶴です。下校の下に山崎さんとかの崎で下崎、千羽の鶴で千鶴です。すぐ近くの駒駆中学の二年生です。あだ名はないんで、好きなように呼んでください」
宗助は、ここでようやく、下崎千鶴という名の少女が自己紹介をしているのだということを理解した。気づくと、宗助も自己紹介を始めていた。
「あ……僕は真田宗助。真田信繁と同じ真田に『邪宗門』の宗に助ける」
心を読める千鶴が相手なのだから、表記についてはわざわざ口に出さずともよかったのではないか。名乗った後、そのことに気づき、宗助は苦笑した。
そのまま続けた。
「自育大の雑学部の一年。僕も君と同じであだ名とかはないから、僕のことも好きなように呼んでくれていいよ」
「じゃあ、宗助さんって呼んでもいいですか? 私も千鶴でいいですから」
「え、あ、いいけど……」
特に断る理由はないので頷きはしたものの、宗助は、内心でやや戸惑っていた。宗助には家族以外の女に名で呼ばれた経験などはなかった。また、名で呼んだ経験のある女も妹だけだった。あとは皆、姓と姓で呼び合うか、「おばさん」「婆ちゃん」、「母さん」などと呼ぶばかりだった。
「じゃあ、よろしくお願いします、宗助さん。変な遠慮とか、しなくていいですからね」
「うん、よろしく……ええと、ち、千鶴ちゃん――でいいのかな?」
「いいですよ」
妹以外の女の子を名で呼んでいるという事実に照れ臭さを覚えながら、宗助は考えを巡らせていた。常に様々なことを考え込んでしまうのも、宗助の生物としての習性のようなものだった。
その考えとは、千鶴がいきなり自己紹介を始めたことには、どういった意図が存在しているのか、というものだった。
千鶴が自己紹介を始めたのは、宗助が、彼女との「今後」を考えている自分に気づき、苦笑を漏らした直後のことである。それは要するに、千鶴による、宗助とは今後も付き合いを続けたいという意思表示ということなのだろうか。
「僕とは、この後も……そう、付き合いがあるってことかな?」
宗助が視線を向けて窺うと、千鶴が頷き返してきた。千鶴には今後も宗助との付き合いを続ける意思があるようだった。
では一体どのような付き合いをするつもりなのだろうか。ふと、宗助はそのようなことを思った。
宗助は、互いを超能力者であると認識した上で言葉を交わした初めての相手である千鶴に対し、超能力に関する情報交換を行うことを求めている。それは、何も知らない自分に比べれば千鶴は遥かに多くのことを知っているに違いない、という考えに基づいている。
しかし、だからこそ、千鶴の方にはその必要がないように思えた。千鶴は宗助に与えられるものを持っているが、宗助には千鶴に与えられるものなど何もない。宗助と情報をやり取りしても、それは千鶴から宗助への一方通行であり、千鶴には何の利益も生じないに違いないのである。
ということはつまり、千鶴は情報以外の利益を宗助に求めているということになる。これが、同級生や隣人であるというような、好むと好まざるとに関わらず頻繁に顔を付き合わせるような間柄であれば話は別だが、宗助と千鶴はそういう間柄ではない。宗助の感知能力圏内に千鶴が入り込んでくるという偶然がなかったら、単なる通行人として互いを認識し、擦れ違ってそのまま二度と会うこともなかったであろう間柄である。利益を度外視してまで継続した付き合いを持つ必要はない。
千鶴は自分をどのように利用するつもりなのか。一体どのような利益を見込んでいるのか。「心を読まれる」ことに比べれば「利用される」ことは非常に現実味に満ちており、また直接的な被害となり得るため、宗助は強い危機感を持った。高揚状態から醒めたのか、今更ながら警戒心が蘇り始めた。
千鶴は、寂しげな表情を浮かべ、小さく頭を振った。宗助の推測を否定しているようだった。
「私は、宗助さんとお友達になれたらいいなって思ったんです。利用しようとかは……確かにそういう面もありますけど……でも、それとは別に、お友達になれたらいいって思ったんです」
宗助は迷った。信じて良いのか、信じるべきではないのか。その判断を下せなかった。
こういう場合、「友達になりたい」という言葉は単なる方便、言い訳、隠れ蓑に過ぎず、額面通りに受け取ると後悔する破目になる。様々な創作物に目を通してきたことで、それはそういうものなのだ、という認識が宗助の頭に植え付けられていた。
しかし、千鶴の顔は真剣そのもので、とてもではないが宗助のことを騙そうとしているようには見えなかった。それすらも演技かもしれない、と理性は冷静に受け止めているが、感情が理性の判断に異議を唱えていた。
千鶴の言葉は続いた。
「……私の力を知っても、そのことが理由で、私を化け物扱いしたり嫌ったりしないでくれる人って、家族以外だとあんまりいないんです」
「それは……どうせ怖がっても無駄だから、っていうだけだよ」
過大評価に対し、宗助は反論せずにはいられなかった。これは小野寺からの過大評価とは全く意味が違い。訂正しなければならないものだった。
「わかってますよ、それは」
千鶴は苦笑し、続けた。
「……でも、理由なんかどうだっていいんです。嫌わないでくれただけで、私は嬉しいんです。だから仲良くなりたいんです。……証拠なんてありませんけど、本当に本当なんです」
千鶴の表情を見て、宗助は思わず気圧されてしまった。
千鶴の表情は、単純な筋肉の動作やそれによって作られる、単なる視覚的な情報として捉えた場合、普段よりも真剣味が増したという程度のものでしかない。
しかし、一個の生きた人間の感情の発露として、視覚を超えた観点から見た場合は、その限りではない。千鶴の顔からは、非常に強い情念が滲み出ていた。
千鶴の表情から宗助が受け取った印象は、一言で述べるならば「瀬戸際」そのものだった。生きるか死ぬか。全てを得るか全てを失うか。これを外せば全てが終わる。重大な分岐点に立たされた人間が、自らの全てを賭けた決断をしようとでもしている、或いは自らの全てが決定される審判を待ってでもいるかのような、そういう鬼気迫る印象を受けたのである。
これが演技か本心かを見分ける手段など、宗助にはない。
である以上は信じないのが得策だと言える。演技であった場合は確実に何らかの被害、損害を受ける破目になる。本心であった場合は、何もないか、或いは何らかの利益に繋がる可能性がある。つまり、損害を受けるか何もないか、ハイリスク・ローリターンとでも言うべき状態にある。「堅実かつ平穏に」を理想として持っている宗助としては、それに則った判断を下すべきだった。それは「危ない話には乗るな」ということである。
だが、素直にそうと割り切って言下に拒絶してしまえないのが人間というものであり、真田宗助という男だった。無論、その理由としては、千鶴が極めて美しい容貌を持った異性であるというものも、確かにある。もし相手が美少女ではなく醜い中年男だったとしたら、多少は悩むだろうが、斬り捨てる方向性で考えている可能性が高い。しかし、それでも躊躇いはするのである。なぜなら、これだけの情念の発露を見せ付けられてなおそれを無碍にしてしまえるだけの冷徹さを、宗助は持っていないからである。
どうしても、もしこれが千鶴の本心からの言葉であったなら、と考えてしまうのである。もしこれが本心からの言葉であり表情であったとしたら、宗助が拒絶した場合、千鶴は心に傷を負うことになる。千鶴が歩んできたであろう人生を考えると、それは間違いない。しかも、その傷がそれがどれだけの深さになるかなど、全く想像もつかない。案外浅いもので済むかもわからないし、逆に立ち直れなくなるほどに深いものとなるかもわからない。
そう思うと、宗助は、自分の人生の理想像に照らし合わせれば最も適切だろうと思われる選択肢を採ることができなかった。優しさや思いやりが足枷となっているのである。
宗助は冷静に考え直した。自分の理想的な人生。千鶴の心。自分がどちらをより強く守りたいと思っているのかを見極めようとした。逆に言うと、どちらならば斬り捨てても平気でいられるかを考え始めた。
物理的な時間として見ればほんの十数秒でしかないが、精神的な時間として捉えれば、数十分にも数時間にも思える時間をその判断に費やした。
結論だけを言えば、宗助が守りたいのは千鶴の心だった。
否、それほど能動的なものではなかった。自己犠牲などと評すのも馬鹿らしいくらいに、それは受動的な理由だった。
宗助はただ、誰も傷つけたくないだけだった。自分の決断によって他者を傷つけたという事実を背負うのが嫌だという、それだけだった。自分の人生を守るというそのために千鶴を傷つける勇気が宗助にはなかったのである。だから宗助は、千鶴の心を傷つけるくらいならば、自分の人生を傷つけた方がまだ気楽だ、という結論に達したのである。
何かを守るためには別の何かを捨てねばならない。行為には代償が付随する。それは、この世の中にあるとされ、まことしやかに語られる数多の真理の中で、最も普遍的で最も明快なものの一つであるように宗助には思えた。何しろ、自分は何も捨てることなく全てを背負って生きてきた、と断言できる人間などはいないのである。仮にいたとしてもそれは、抱え込むことができる範囲が広く量が多かったがために、その人間が「全て」であると認識している範囲内のものを零さずにいられたというだけのことである。「全て」として認識されなかった、選ばれなかったものはその人物によって確実に捨てられている。
宗助は今までに、その真理について、意識的に考えたことはなかった。これまでにも自分か相手かという択一を迫られたことはあったが、いずれも大した問題ではなかったため、ほとんど意識することなく片付いていたのである。
しかし、今は違った。今は、生まれて初めてその真理について意識的に考えた。考えずにはいられなかったのである。
この瞬間、宗助ははっきりと気づかされたのだった。自分には、自分以外の他者を踏み躙ってでも手に入れたいもの、守りたいものなど、何一つとして存在しはしない。自分には「できればそうであるといい」という淡い願望はあっても、「何があってもそうであるようにしたい」という強い意志などない。自分が持つもののいくらかを犠牲にすることで何かを保持し、獲得したいという強固な意志はあっても、他人が持つものや他人そのものを犠牲にしてでも何かを保持し、獲得したい、しなければならないなどという決死の覚悟までは持っていない。
宗助は腹を括ることにした。千鶴の言葉を信じることにしたのである。その結果自分が被害を受けることになろうとも、それは騙された自分の愚かさと騙した千鶴の卑劣さを存分に恨んで憎めば良い話である。千鶴の心に深い傷を負わせ、そのことを悔やみ続けることに比べれば遥かにマシと言える。そう結論したのだった。
これまでの宗助の思考の流れを不安げに見守っていた千鶴には、もちろん、その結論はわかりきっているのだろう。緊張に強張っていた表情が柔らかいものとなっていた。
だが宗助は、敢えてそれを言葉にして千鶴に伝えた。
「よし。じゃあ、友達になろうか。……まあ、友達になったからどうってわけでもないけど、何か相談事とかがあったら遠慮なく言ってくれていいよ、聞くから」
「ありがとうございます、宗助さん! 私、嬉しいです。本当に……本当に嬉しいです」
千鶴は破顔した。それは、顔面の筋肉を僅かに動かして小さな笑みを浮かべたというだけでしかなかった。だが、少なくとも宗助の目には、それが千鶴の心底からの笑顔であるように映った。
千鶴の笑顔を見て、宗助も思わず顔を綻ばせた。そうして、思った。この笑顔を見ることができただけでも、千鶴の申し出を拒絶せずに受け容れる決断をした甲斐があった、とそう思った。男というのは基本的に女の笑顔と涙には弱く、思春期を過ぎた男はその弱さを素直に認めてしまえるものだった。
二人の会話が途切れ、一旦、沈黙が訪れた。二人は黙って互いの顔を見ているだけだった。もとより、友人になったその後に、二人で何かをしようというような構想などはなかった。
宗助にしてみれば、友人となるか否かという部分だけが問題であり、それ以外のことは全く頭から消えていた。その問題が片付いた直後、宗助から何の話題も提供できないというのは、別におかしな話ではない。至極当然の話である。
沈黙が次第に気まずいものとなり始めた。
自分から何か話題を振るべきではないかと宗助が焦り始めた頃、千鶴が何かを思い出したような顔をした。
宗助はこれ幸いと食いついた。
「どうかした?」
千鶴は恥ずかしげに目を逸らした。
「すっかり忘れてました」
「何を?」
「私、宗助さんが、何で私が超能力者だと気づいたのかってことを訊いてたんですよね」
「あ、そういえばそんな話だったっけ」
言われて、宗助も思い出した。確かにそういう話をしていたのだが、千鶴が「私のことが怖くないのか」という問いを発してから、凄まじい勢いで話が横道に逸れていったのである。
「確か、僕も超能力者だから気づいたんだ、ってところまで話が進んだんだよね」
「そうです。それで、まだ訊きたいことがあるんですけど……いいですか?」
窺うような視線に宗助は頷いた。どうせ、質問された時点でそのことについて考えてしまい、結果として答えを読み取られてしまうことになる。拒否は無意味である。ゆえに、そもそもが無意味な質問だった。わざわざその問いを発するというのは、普通ならば嫌味か余裕の表れでしかないのだろうが、千鶴の場合は誠実さの表れであるように思えた。
「ありがとうございます」
千鶴は、軽く頭を下げてから、質問を始めた。
「じゃあ、質問です。宗助さんも超能力者なのに、何で宗助さんからは何も感じられないんですか?」
宗助は投げかけられた問いの意味を考えた。何も感じられないということは、千鶴が宗助の超能力を感知できなかったということだろうか。
「僕の、感じ取れなかったの?」
問いかけると、千鶴は小さく頷いた。つまり、そういうことで良いらしい。
問いの前提を確認し終えたところで、超能力を感知できなかった理由について考え始めた。
超能力を感知できない理由としては、一に感知能力自体を具えていない、二に感知能力が不十分、三に相手の超能力者に何らかの理由が存在するのいずれかしかない。
だが、千鶴本人が何も感じられなかったことを訝っていることから、一つ目はあり得ない。
また、二つ目にしても、無論得手不得手があるにせよ、これほど強大な超能力者の感知能力が不十分であるなどということは考えにくい。むしろ、通常の超能力者よりも余程感度の良い感知能力を持っていると考えるのが自然である。
消去法を用いると、理由は三つ目しか考えられない。宗助の側に感知されない原因が存在するということである。宗助は、これまでに自分の超能力に考察を加えた結果、自分の超能力は感知されにくい性質を持っているか、もしくは感知不可能なほどに弱い可能性があるという仮説を立てるに到ったが、どうもそれは正鵠を射ていたようだった。
「うーん、何かそういう、感知能力誤魔化すような性質でもあるのかも。それか、わからないくらいに弱いか……」
宗助が要約した答えを口頭で述べると、千鶴がそれに対する考察を加えた。
「……弱いのとは違うんじゃないかと思います、たぶん。他の人もそうなのかはわからないんですけど、弱い超能力でも、私はちゃんとわかるんです。でも、宗助さんからは、全然、超能力の気配がしませんし、やっぱりそういう性質なんですよ、きっと。……宗助さんも特別なんでしょうね」
「僕も?」
宗助は思わず聞き返していた。宗助が特別であるという部分が気になったのではなく、千鶴自身も特別な存在であると取れる部分が気になったのである。それは強力過ぎる読心能力のことを言っているのだろうか、と宗助は推測した。
千鶴が「失言だった」とでも言いたげな顔をした。
「あ、いえ……気にしないでください」
そう言われても、心に浮かんだ疑念が消えるはずもない。しかも、「宗助も」という表現があった以上、宗助自身にも何らかの関係があることかもしれない。そして、その関係が極めて深刻なものである可能性がないとは言い切れない。可能な限り、そのことについて知りたいと思うのは当然のことである。
もっとも、千鶴がどうしても言いたくないのであれば、それを無理矢理聞き出すわけにもいかない。実際問題として宗助如きが千鶴の口を割らせるのは不可能だし、他人が隠したがっていることを殊更に暴き立ててやろうという趣味も宗助にはない。どうしても言えないと言うのであれば、不安と好奇心を心の中に封じ込めるしかない。
宗助が、内心では大いに気にしつつも、千鶴の意思を尊重して「訊くまい」と決心した直後、当の千鶴がおもむろに口を開いた。
「……やっぱり、ちゃんと言います。私ばっかり宗助さんに質問するのは不公平ですし……それに、言ったことには責任を持たなきゃ駄目ですよね」
表情を曇らせながら、悲しげな口調で続けた。
「私の超能力は規格外らしいんです」
「あのさ、辛いんなら――」
しかし、千鶴は宗助の勧めには応じず、説明を続けた。
「私、人の感情を読めるんです」
「ちょっと待った!」
宗助は思わず口を挟んでしまった。
これまで、宗助は千鶴が思考を読む力を持っていると思っていた。だからこそ、素直に訊かれたことに答えていたのである。
しかし、今、その前提が崩れようとしていた。実は千鶴は思考を読んでいたのではなく、感情を読み取っていたのである。
宗助は自分の愚かさに、苛立ちを覚える以上に、笑いが込み上げてきた。何と言っても、その気になれば隠し通せたに違いない情報を、勝手な思い込みで全て自白してしまったのである。客観的に考えると、もう笑い話でしかなかった。
「君は……思考が読めるんじゃないの?」
「違いますけど……もしかして、私が心を読めるって思ってたんですか?」
当初、困惑の表情を浮かべていた千鶴だったが、次第に顔に納得の色が表れ、逆に問いかけてきた。
穴があったら入りたい、という言葉の意味がよく理解できた瞬間だった。まさにその心境となりながら、宗助は小さな声で答えた。
「……うん」
千鶴が慌てた様子で、慰めるように言った。
「あ、でも、実際はそれに近い感じです。感情の意味や向ける相手、出来事とか、そういうのもわかりますし……表情を見るような感じでしょうか……面と向かって話してるようなら、相手がどんなことを考えてるか、だいたいわかります。大まかな思考が伝わってくるような感じでもありますけど、文脈を読むって言うんでしょうか、そんな感じで。お父さ――父の話だと、もっと人生経験を積めば、思考を読むのと大した違いがないくらいの精度で読めるようになるらしいです」
「えーと……じゃあ、僕がこれまでに考えたことも、だいたいのところは君にもわかってるってことかな?」
「そう、ですね……細かい名前とか事情とかみたいな具体的なことまではよくわかりませんけど、どんなことにどんな感情を抱いてるかで、何がしたいのかとか何が言いたいのかとかは何となくわかります。……今みたいに、たまに勘違いしちゃうことはありますけど」
「勘違い?」
千鶴は苦笑した。
「宗助さんが私の力を誤解してるってことに気づけなかったことです。読み違えました。本当は心を読まれることを警戒してたのに、感情を読まれることを警戒してたんですよね」
言った後、浮かんでいた苦笑が文字通りの「微」笑に変わった。
「宗助さんだけじゃなくて、私も結構思い込みが激しいタイプかもしれないです」
まだ心中に自分の愚かさへの自嘲が残ってはいたが、釣られて、宗助も笑みを浮かべた。
「そっか……二人揃って勘違いしてたんだ。何て言うか、そういう勘違いがあるくらいだし、感情を読めるだけなら、心を読まれるよりも怖くないね。というか、僕なら許容範囲かな。だって暗証番号とかを見抜かれたりとか、そういうのはないみたいだし」
千鶴が驚いたような表情を浮かべた。
「そんなことで納得しちゃうんですか?」
宗助は頷いた。
「まあね。っていうか、僕、今年で十九だしね。こんな歳にもなると、僕が枯れてるだけなのかもしれないけど、感情を読まれて困るってのはあっても恥ずかしいとか怖いって感情がない」
「ええと、本当に怖いと思ってないみたいなんですけど、何で怖くないんですか?」
千鶴は困惑気味だった。どうやら彼女には、感情を読まれることは恐ろしいことである、という思い込みがあるようだった。
宗助にはそれが理解できなかった。なぜ感情を読まれることがそこまで恐ろしいのか、彼にはよくわからなかった。
どう言えば千鶴が理解できるか、と少し考えてから、彼は説明を始めた。
「え? ……まあ、実害がほとんどないからかな。知られたら相手との関係が危なくなるような気持ちを知られたら……そうだな、たとえば、僕が君のことを好きになったとして」
「宗助さんが、私を?」
「たとえだからね、深い意味とかはないよ。で、それが君に知られたとして。まあ、中学の頃、出すつもりがなかったラブレターを相手に読まれて気持ちが伝わっちゃったことがあったから言えるんだけど――ああ、例はそっちの方にするよ。で、相手に呼び出されたんだけど、その時、僕はかなり混乱してた」
「その時、恥ずかしかったんじゃないんですか?」
「まあ、少しは恥ずかしかったけど、それはどっちかって言うと出すつもりがないのを相手に見つけられたっていう失敗や、どうせ出さないからってことで好き放題に書いた文面のことだからさ。好きになったことやそれを知られたこと自体は別に恥ずかしくなかった……と思う。で、やっぱり一番強く思ったのは『こいつは困った』とかそんなことだった気がする。もう、どうやって状況を打開するかとか、そんなことばっかり考えて心拍数が上がってた。いつまでも隠しておくわけにもいかないから、むしろ早めに伝わってよかった、でもいきなりは心の準備が出来てない、対応に困る、とかそんな感じかな。まあ、感情を読まれるくらいなら、全然気にしないってほどじゃないけど、それほど深刻にはならないかな」
「……宗助さん」
千鶴がおずおずと口を開いた。
「何?」
「訊きたいことがあるんですけど……いいですか?」
千鶴の表情は真面目であり、口調は歯切れが悪かった。その質問内容は、もしかしたら訊きづらいこと、或いは答えづらいことなのかもしれなかった。
宗助はちょっとした覚悟を決めてから頷いた。
「……いいよ」
「えっと、その……その好きな人とは、どうなったんですか?」
「どうなった……って、オーケー貰ったか振られたかってこと?」
宗助は反射的に訊き返していた。どのような答えづらい質問が来るかと思って身構えていたところ、どう考えても恋愛の結末について訊いているとしか思えない質問が来たのである。千鶴の真剣さとのギャップが激しく、本当に自分の解釈が正しいのかどうか、不安になるのも無理のないことだった。
「答えづらく……ないんですか?」
千鶴が予想外だとでも言いたげな表情を浮かべた。宗助の解釈は間違っていなかったらしい。千鶴は本当に恋愛の結末を知りたがっているのだった。
宗助は呆れ顔で答えた。
「いや、そんな、昨日別れた恋人の話を聞かせろとかじゃないんだからさ。結局、『気持ち悪いからやめて』って言われたんだけど、もう五年くらい前の話だし、僕の中じゃ笑い話だよ。人通りの多いとこで大声で叫ぶのは流石にあれだけど、こういうとこでなら別に何ともないよ」
千鶴は目を丸くした。
「そういうものなんですか?」
その不思議そうな反応に、宗助は、或いは自分の感性や自分が育ってきた環境の方がおかしいのでは、という不安を抱いた。おずおずと問い返した。
「……違うの?」
千鶴が寂しさや悲しさの入り混じった表情を浮かべた。
「実は……よくわからないんです。あんまり、クラスの人と話しませんから……」
「あー……そっか。……じゃ、仕方がないな……」
宗助は、特に説明を必要とせず、その理由を理解できた。要するに、心を読める人間の苦悩と似たようなものである感情を読み取れるがゆえの苦悩というものに、千鶴は苛まれているのに違いなかった。
全く憐れな話だ、と思ったところで、宗助は、自分が千鶴に同情めいたことをしてしまっていることに気づいた。
「あっ、ごめん。気をつけるって言ったのに……」
「ううん、いいんです。宗助さんが優しい人だってだけですから」
そう言われたからと言って、それを額面通りに受け取って、「それならいいや」と片付けてしまって良いわけがない。千鶴を傷つけてしまったことは確かだし、何より、宗助自身が「今後は気をつける」と言った矢先の失敗である。千鶴が許したとしても、宗助がそれに甘えて自分を許してしまってはならない。
宗助は、何かあるとすぐにあれこれと考え込んでしまう、自分の性格を忌々しく思った。本来、些細な情報から深く考え込んでしまう癖は、思慮の深さとして長所になりこそすれ、短所にはなり得ない。しかし、千鶴のような超能力を持っている人間と過ごす時には、その限りではない。むしろ、どちらかと言えば、短所となることの方が多いように思える。この性格を多少なりとも改善しないと、今後も千鶴に不快感を与え続けてしまうことにもなりかねない。
宗助は、表面上は至って平静のまま、内心では静かに苦悩し始めていた。
そんな宗助に対し、千鶴は困ったような表情を浮かべ、慰めるように言った。
「あ……そんなに悩まないでください」
四歳も年少の少女に気を遣わせてしまっているという事実に気づき、宗助の思考は更に暗い方向へと向かい始めた。気を遣われれば遣われるほどに気分が落ち込んでいく。宗助の心はそういう泥沼の様相を呈し始めていた。
「あんまり気にしてませんから」
「……でも、同情されるのは好きじゃないんでしょ?」
千鶴は苦笑した。
「実は、それがそうでもないんです。私、贅沢なんです。同情されてもされなくても、やっぱり不満に思ったり、惨めになったり、悲しくなったりしちゃうんです。たとえば、私の両親はあんまり――と言うか全然――人を憐れんだりしない人達ですから、私のことを情けないと思うことはあっても、可哀想と思ったりはしないんです。二人共優しいんですけど、憐れみの心があんまりないみたいなんです。時々、それが不満だったりするんです。何て言うか、無条件で優しくして欲しい時ってあるじゃないですか。そういう時なんかに不満になるんです。二人共、わかってて突き放すから、余計に不満なんです」
途中から愚痴が混ざり始めたこの断片的な情報から察するに、千鶴の両親は揃って厳格な人物のようである。千鶴が、今時の女子中学生としては絶滅危惧種に違いない、清楚で真面目で礼儀正しい優等生といった雰囲気を纏っているのも納得というものだった。
宗助の感情を読み取って自分がどのように思われているかを改めて悟り、気恥ずかしさを覚えたのかもしれない。少し頬を赤くした千鶴は、軽く咳払いしてから先を続けた。
「だけど……」
一旦、そこで言葉を切った後、照れ臭そうに言った。
「両親のこと、大好きですから。ちょっとくらい嫌なことがあっても、あんまり気になりません。宗助さんだって、お友達にちょっと癇に障ることを言われたくらいで絶交したりなんか、しないでしょう? ……それと同じです、宗助さんも。ちょっとくらい嫌なことを言われたり思われたりしても、そんなのは言葉のあやです。一々、気にしたりなんかしません。だから、あんまり気を遣わないでください。特別扱いとかして貰うより、普通の女の子として――友達として扱って貰った方が嬉しいです」
人間関係というのは、確かにそういうものでもある。全く衝突や擦れ違いの生じない人間関係などは確かにあり得ない。親しくなり、関わりが深くなるほどに互いの本音を見せ合うことになるのだから、むしろ衝突と擦れ違いは増える。しかし、親しくなり、関わりが深くなった者同士の関係は、そういった衝突や擦れ違いが全く問題にならないほどに強固でもある。
千鶴との付き合いもそれと同じことだった。宗助は、千鶴が通常の人間よりも繊細かと思われる読心能力者であることに気を取られ、人間関係の基本を忘れてしまっていたのである。むしろ、そういう風に腫れ物に触るような扱いをすることの方が、千鶴を傷つけてしまうに違いなかった。
宗助は心底からの感心を込めて嘆息した。
「何か、僕なんかよりよっぽど大人だよね」
千鶴が照れたような表情を見せた。
「そんなことないですよ。私なんて子供です」
「『自分が子供であると認められるようになるのが大人になるということだ』とかいう言葉があったよ、僕が昔読んだ小説に。何か言葉遊びみたいな感じで好きじゃないけど、開き直りとか言い訳とかじゃなく自分が子供だって言えるのは偉いと思うよ」
「でも、子供です。……それより、特別扱いしないでくださいね?」
照れ臭そうに言った後、千鶴がやや表情を引き締めて、念を押してきた。
「あ、うん、わかった。そうする」
千鶴が求めていることを既に理解できていたため、宗助は静かに頷き返した。
頷いた直後、宗助は、全く、一切、何らの脈絡もなく、唐突にあることを思い出した。それまでに何をしていようと全くお構いなしに、全く無関係の事柄を思い出し、閃くという現象は誰にでも起こり得る。例としては、政治に関する熱い議論を交わしている最中に、それまでどうしても思い出せずにいて何とももどかしい思いを強いられていた昨晩の食事の献立が、唐突に脳裡に蘇る、というようなものがある。それが今、宗助の身に起こったのだった。
宗助が思い出したのは、時間に関することだった。有り体に述べると、今が通学時間帯であり、千鶴は通学中だということである。そしてその記憶の復活から連鎖的に導き出されたのが、千鶴はこのままでは遅刻してしまうのではないだろうか、という懸念だった。
宗助が時計を確認すると、彼の感情を読み取ったのかそれとも行動を見て気づいたのか、千鶴が少し慌てたような表情を浮かべた。
自動巻の時計は八時二十五分を示していた。地理に暗い宗助にはここから駒駆中学校がどの程度の距離にあるのかなどわからない。だが、どこに学校があろうとも、真面目に登校するつもりがあるのならば確かにそろそろ慌てた方が良い時間ではあるということはわかった。何しろ、大抵の中学高校では八時四十分までに教室に入らないと遅刻扱いにされてしまう。
千鶴が申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。こっちから質問攻めにしておいて失礼だとは思うんですけど、このままだと遅刻しちゃいますんで……また後で会って貰ってもいいですか?」
断るという選択肢など宗助には用意されていない。断ると何をされるかわからないというのではない。単純に、断ったところでどうせ身元を探り当てられるに違いない、という確信がある。何しろ、大学と学部と氏名を知られているのである。千鶴の方に宗助と会う必要があるのならば、宗助の意思とは関係なく、どうとでもなる。
ゆえに宗助は素直に頷いた。
「いいけど、どうせなら、残りはどんな質問があるのかさらっと教えといてくれると助かるな」
効率性の問題から言っているのではなかった。どうせ市内の散策をするくらいしかやることがないくらいに暇なのだから、宿題の一つもあった方が暇潰しになって良い、という不真面目極まる考えからこの言葉は出ていた。
「やることが何にもないし」
「そんなにお暇なんですか?」
千鶴は目を丸くしていた。宗助の感情を読み、「やることが何にもない」という言葉が事実であることを知り、驚いたのに違いなかった。
苦笑しながら宗助は頷いた。
「そうなんだよ。金もないし遊ぶ相手もいないしバイトもしてないしで、本当に何もやることがないんだ」
「そうなんですか……でも、もう質問なんてほとんど残ってなくて、今のところしようと思ってるのは二つですから、後で訊かせて貰います」
「え? 二つだったら、今ここで訊いてくれた方が手間がかからなくていいんじゃない?」
宗助には理解できなかった。全くの空白であり、どのように埋めるかに難儀している予定欄に「千鶴の質問に答える」という予定を追加できるというのは確かに魅力的である。しかし、わざわざ二つの質問に答えるためだけに人と会うというのも馬鹿らしく思えた。一体どういった理由があるのか、と疑問を抱いた。
「その質問にまた説明が必要になるんです」
「うーん、まあ、質問文自体は簡単なんだろ? もしかしたら説明なしでもわかるかもしれないし、ちょっと言ってみてよ」
「もうどこかの組織に入っちゃってますか、もし入ってないんでしたら源田商会っていう会社に入りませんか、って訊くつもりなんですけど、どうですか?」
「えっと……組織?」
宗助には全く馴染みのない単語だった。この場合の意味としては、結社だとか組合だとかのようなものであるに違いない。しかし、宗助が属す組織など、大学と同窓会くらいしか存在しない。
「同窓会とか、そういうの――じゃないよね」
「違うに決まってますよ。……じゃあ、源田商会ってご存知ですか?」
「……いや、聞いたことないな」
このようなやり取りをしつつ、宗助は千鶴に対する警戒心を復活させていた。千鶴が「利用しようとしている面がある」と、会話の中でさり気なく認めていたことを思い出したということも理由としてはある。しかし何より、「会社」という言葉から、かねてより危惧していた「超能力者を弾圧、監視する政府の秘密機関」のことを連想した、ということの方が理由としてはより強かった。いよいよ秘密機関の魔手が自分に迫ってきたのか、という恐れが宗助の心の中に静かに満ち始めた。
もっとも、千鶴が秘密機関の関係者であるということへの驚きは、あまりなかった。千鶴が強大な超能力者であるということを考えれば、むしろ妥当であると言うべき事実のように、宗助には思えた。
隠してもどうせ無駄であるということを理解しているため、全く警戒心を隠さなかった。不審の念も露わに問いかけた。
「それ、何かヤバイ組織とかじゃない?」
宗助の目を真っ直ぐに見ながら、千鶴は静かに答え始めた。
「今はちょっと時間がないんで、詳しいことは何も説明できません。でも、これだけは今言います。宗助さんが想像してるようなのとは違います。……やっぱり、これも証拠がないんで、信じてくださいとしか言えませんけど……ええと、とにかく、質問は後で答えますから」
宗助はすぐには答えなかった。千鶴の言葉には全く信憑性がない。その組織に属している人間が部外者に対して語るその組織を肯定する言葉ほど疑わしいものはない。
だが、信じようと信じまいと関係がないことも事実だった。もうその段階は通り過ぎてしまっている。既に大学名、学部、氏名まで教えてしまったのである。それだけの情報さえあれば宗助の身元を特定することなど実に容易いことだろう。また、更に言えば、千鶴のような強力極まる超能力者を擁する組織ならば、宗助を力ずくで従わせることも簡単に違いない。
宗助は既に、将棋で言う「詰み」、チェスで言う「チェック・メイト」の状態に在った。もうどうしようもないのである。こうなった以上、宗助が「源田商会」とやらに入社するかしないかを決めるのではなく、「源田商会」とやらが宗助を必要とするかしないかという話でしかない。宗助がすべきことは、求められた場合に備えて、入社する覚悟を決めておくということだった。
そのことを認識した上で、宗助は深い溜息と共に答えを吐き出した。
「……わかった。また後で話を聞くよ」
宗助は、信じるとは一言も言わなかったし、筒抜けの心中ではっきりと疑念を露わにしさえした。
しかし、千鶴はそのことに不満を覚えた様子もなく、それどころか申し訳なさそうな面持ちだった。そのまま、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、ちゃんと説明できなくて……」
大袈裟なその行動に、むしろ宗助の方がうろたえてしまった。
「いや、そんなことしなくていいって! 時間があったら説明してくれるつもりなんだろ? だったらそれでいいから」
宗助は、千鶴に対して謝罪など求めていないし、求める気もなかった。千鶴には謝罪の義務などないのだし、そもそもそれ以前の問題として、千鶴が謝罪したから具体的に何かがどうにかなるというものでもない。あらゆる意味で無意味である。
そう思った時、千鶴が更に申し訳なさそうな表情を浮かべたことに、宗助は気づいた。考えてみればそうなるのも当然のことだった。宗助が思ったことを一言で言うと、「お前が謝ったからどうなる」ということでしかない。
余計なことまで考えてしまった自分を呪いつつ、即座に話題を替えた。
「それより、学校行くんだろ? もう八時半近いし、急がないと遅刻するよ」
千鶴はそのことを思い出したかのように声を上げ、それからおずおずと口を開いた。
「あ……ええと、それじゃ、最後に一つ、いいですか?」
最後に一体何を訊かれるのか。そう、宗助は少し不安になり、内心で身構えながら頷いた。
「いつ話を聞いて貰えますか?」
しかし、質問の内容は実にあっさりとしたものだった。どうも下崎千鶴という少女は、真剣な表情で取るに足らないことを言い出す、変に真面目な性格をしているようだった。
宗助は肩透かしを喰らったような気分になり、思わず聞き返してしまった。
「……それだけ?」
「そうですけど……」
千鶴が怪訝そうな顔をした。
拍子抜けしながら宗助は答えた。
「……ええと、いつでもいいよ。七月中でいいなら。あ、携帯持ってるんなら、アドレスとか教えとこうか?」
宗助はポケットから携帯電話を出した。この時点で、もう個人情報を教えることに対する抵抗はなくなっていた。既に大学名、学部、氏名を知られているのである。そこに携帯電話の番号やメールアドレスが加わったところで、今更痛くも痒くもない。
千鶴はポケットから携帯電話を取り出して頷いた。
「じゃあ、私も教えますね。メアド交換してください」
「あ、ああ、うん、わかった」
自分は今、本来ならば言葉を交わすことなどなかったであろう、清楚な美少女とメールアドレスを教え合っている。手早くアドレス登録をしながら、宗助はふとそのことに気づいた。
思わず顔がにやけてしまうのを抑えるのに苦労した。無理に筋肉の動きを押さえつけたせいで、頬の辺りが痛くなった。
無論、千鶴の提案が恋愛感情に基づいたものではないということは理解している。今後そうなる可能性もないということについても同じである。それがわかる程度には宗助も歳を取っている。だが、やはり宗助も男という生物には違いなかった。どのような事情があろうと、歳の近い女との距離が縮まるというのは、特に理由もなく心が躍るのだった。
ゆえに、こういった精神状態を当然読み取っているはずの、千鶴の反応が恐ろしくなった。「男ならば誰でもこうなる」という主張が、往々にしてそういったことについて敏感である思春期真っ只中の少女、千鶴に通じるとは思えなかったのである。
「……うん、ちょっと試しに空メール送るから……あ、届いたね。じゃ、これで交換終了だ」
宗助は心の中で、今の感情は読まなかったことにして欲しい、と強く叫びながら、千鶴に対しては全く無意味であることを承知しつつも、表面上は至って平静に振る舞った。
千鶴は少しの沈黙の後、何事もなかったかのような態度で話を進めた。
「あの……早速なんですけど、今日の午後とか、いいですか?」
「午後……何時くらいかな。あんまり非常識な時間は僕でも困るよ」
一瞬、かなり急な話だと思った。しかし、よく考えてみれば、早ければ早いほど宗助にとっては都合が良い。むしろ、そうでないと困る。なぜなら、何日も何週間も、断片的な情報しか与えて貰えずに放置されて、宗助がそれに耐えられるはずもないからである。宗助の性格上、そのようなことになれば、間違いなく勝手に源田商会のことを想像し、妄想を膨らませ、不安を募らせ、精神的に追い詰められていくに決まっているのである。断る理由などなかった。
「学校が終わるのがいつも三時過ぎだから……宗助さんは、どこにお住まいですか?」
「この近くの長月荘って所に住んでるんだけど、知ってるかな」
どうせ隠しても無駄なので、宗助はあっさりと白状した。
千鶴は驚いたような顔をした。
「長月荘なんですか!」
「そうだけど……知ってるの?」
「知ってるも何も……長月荘は源田商会の社長さんのアパートですし、あそこを建てるのに私の父も協力してるんです」
「う、嘘……」
源田商会というのは意外なほどに身近に存在していたのだし、千鶴の父とも意外なところに接点が存在した。何とも、宗助にとっては、「世間は狭い」という言葉がそのまま具象化したような話だった。
「本当ですよ。あそこは源田さんが大家さんですし、父が建てるのを手伝ったんです。私が生まれる前の話ですけどね」
「そ、そうなんだ」
引き攣った表情で頷く宗助は、何とも複雑な心境だった。確かに、これで「長月荘は何らかの秘密機関と関わっている」という自説が証明されたことは事実だ。また、記憶を掘り返してみれば、入居時にやり取りした書類の中には「源田源蔵」という名前があった。そして、それはつまり、宗助はかねてからの危惧通り、本当に何らかの組織の監視下、勢力下で暮らしているという事実の証明でもある。悩ましい限りだった。
「実は私の伯父と伯母がその近所に住んでるんです。えっと、伯母が父の姉なんです。工藤っていう家で、向かいなんですけど、もしかしてご存知ですか?」
もともと抜かれていた度肝をこれで更に抜かれた。同時に、奇妙な納得を覚えもした。工藤夫妻のことは前々から只者ではないと思ってはいたが、千鶴の親戚であると言うのならば、それも当たり前のことであるように思えた。
「う、うん……親しいってわけじゃないけど、挨拶くらいはするよ」
「そうですか。……ええと、話を戻しますね。長月荘にお住まいなら……四時くらいに駒駆公園でいいですか?」
「駒駆公園?」
宗助はこの辺りの地理には果てしなく疎い。大学、駅、コンビニ、商店街、交番、病院といった生活する上で知っておくべき施設の場所しかまだ知らないのだから、自分の生活に全く関わってこない駒駆公園などの位置を知る由もない。
「この近くにある公園です」
そう言って千鶴が簡潔に駒駆公園の場所を説明してくれたため、宗助はそのおおよその位置を掴むことができた。
「ありがと。だいたいわかった」
「どういたしまして」
礼を言った後、何気なく時計を確認して、宗助は慌てて千鶴に告げた。
「あっ、もう八時半少し過ぎてるから、急がないと本当にまずいよ!」
「走れば間に合います!」
そう答えた千鶴だったが、時間的な余裕がほとんどないということは理解しているのだろう。声が少し上擦っていた。
「じゃあ、四時に公園で!」
そう言い残すと、千鶴は小柄な身体と大人しそうな風貌に似合わない敏捷性を発揮して、宗助が思わず目を見張るほどの速さで走り出した。
「わかった!」
そう返事をしたが、果たして聞こえたかどうか、怪しいものだった。何しろ、宗助が返事をした時点で、千鶴の小さな背中はこの路地から出ていくところだったのである。
この速さならば遅刻はしないだろう。千鶴が走っていった方向を見ながら、駒駆中学校の場所など知りもしないくせに、宗助は根拠らしい根拠もなくそう思った。