崩壊
名前を出された瞬間、
頭の中で何かが切れた。
――ヒロ。
その二文字が、
俺とモモの空間を、時間を汚した。
「……違う」
口から出た声は、
自分のものじゃないみたいだった。
正解は俺だ。
ずっと、そうだった。
選べば失敗しない。
迷わなければ、崩れない。
この世界は、
そういうふうに出来ている。
出来ているはずだった。
「来る、だと?」
笑おうとした。
うまく出来なかった。
胸の奥が、
不快な音を立てている。
(来ない)
(来るわけがない)
そう“分かっている”はずなのに、
それを証明する数値が、
どこにも出ない。
――表示されない。
いつもなら見えるはずのものが、
何もない。
90%以上の成功。
確定。
保証。
それが、
出てこない。
「……黙れ」
言葉が荒れる。
「お前は、俺を選んだ」
「選ばれたのは、俺だ」
言い聞かせるみたいに、
何度も繰り返す。
モモは、
怯えていた。
その目が、
俺を否定している。
(違う)
(それは違う)
正しいのは俺だ。
正解を選んできた。
間違えたことなんて、ない。
――ないはずだ。
「ヒロは来る」
また、その名前。
「黙れ!!」
怒鳴った声が、部屋に反響する。
理屈が、剥がれ落ちる。
計算が、
役に立たない。
(……なんで)
力を込める。
思考が、
単純になる。
この感覚を、
俺は知っている。
現実世界でも、
同じだった。
金を払えば、
静かになった。
従った。
終わった。
正解だった。
――なのに。
この世界では、
終わらない。
「……正しい時間だ」
自分に言い聞かせる。
「今が、一番正しい」
選択肢は一つ。
迷う必要はない。
これが正解なんだ。
そうしないと――
俺が、
間違っていたことになる。
だから。
それ以上は、
覚えていない。
覚えていたくもない。
ただ、
音が消えていく。
時間が、
進んだのかどうかも分からない。
我に返った時、
部屋は静かだった。
乱れた呼吸。
重い沈黙。
(……終わった)
満足感は、
ない。
あるのは、
妙な空白だけだ。
その瞬間だった。
――来ている。
理由はない。
数値もない。
でも、はっきり分かる。
空気が、
変わった。
廊下の向こう。
まだ姿は見えない。
それでも、
確実に近づいている“何か”。
背中が、
ぞくりと冷えた。
(……まずい)
初めてだった。
“正解”ではなく、
“本能”が、撤退を命じたのは。
立ち上がる。
外套を整える。
ドアに手をかける前、
一度だけ振り返る。
「……モモ」
声は、
驚くほど落ち着いていた。
「今日は、延長できないね」
軽く、
いつもの調子で言う。
それが、
自分を保つための言葉だと、
分かっていながら。
ドアを開ける。
廊下の暗がりに、
確かな“気配”。
まだ、顔は見えない。
――だが、近い。
(……そうか)
俺は、
初めて知った。
90%以上の正解しか見えない世界でも、
“逃げるしかない瞬間”は、存在する。
扉を閉める。
足早に、去る。
背後で、
何かが決定的に壊れた音がした。
それが何だったのかを、
俺はまだ理解していない。




