動きだす朝
朝は、まだ来ない。
窓の外は薄く白み始めているのに、
街が起きるにはまだ早い。
一番、油断する時間。
私はぼんやりと目を覚ました。
嫌な予感。
(……夢?)
違う。
夢じゃない。
理由は分からないけれど、
起きなきくては。
胸の奥が、冷たい。
昨夜に感じた嫌な気配。
でも、何も起きなかった。
ヒロもいた。
同じ宿、同じ階。
(大丈夫……)
そう、思った。
思ってしまった。
その瞬間――
カチャ
はっきりとした、鍵の音。
(……え?)
時間が、止まる。
鍵は、
内側からしか回らないはずなのに。
心臓が、一気に跳ね上がる。
扉が、音もなく開いた。
早朝の薄い光が、
部屋の床に線を引く。
影が、立っている。
「……起きてたか。おはよう。」
低くて、落ち着いた声。
不適な笑顔。
(……タカシ)
名前を思い出した瞬間、
体が言うことをきかなくなる。
逃げなきゃ。
叫ばなきゃ。
頭では分かっているのに、
足が、床に縫い止められたみたいだ。
「静かに」
一歩、近づく。
「大丈夫。誰も起きてこない。」
「来ないで……」
声は、
自分でも驚くほど小さかった。
「すぐ終わる」
その言葉が、
一番、怖かった。
腕を掴まれる。
強い。
抵抗しても、
びくともしない。
「離して……!」
声を上げようとした瞬間、
口を塞がれる。
「みんなが起きてしまうよ。」
囁き。
まるで、
こちらを気遣っているみたいな口調。
(違う……)
(それ、違う……)
廊下に出る。
誰もいない。
宿が、
空っぽみたいだ。
(ヒロ……)
名前を呼ぼうとする。
でも、声にならない。
階段を下りる。
一段、一段。
早朝の空気が、
肺に冷たく刺さる。
裏口。
扉が、開く。
外は、まだ夜と朝の境目。
「……静かだね」
タカシが言う。
誇らしげに。嬉しそうに。
「今が一番、正しい時間だ」
正しい。
その言葉に、
背筋が凍る。
(正しくなんて、ない)
(こんなの……)
馬車。
いつから、用意していたのか。
私は、
夜の終わりに連れ去られる。
――一度、安心したから。
――ヒロが近くにいると思ったから。
油断した。
でも。
それでも。
(……信じてる)
見えなくても。
聞こえなくても。
(ヒロは、気づく)
理由なんて、いらない。
ただ、
信じていた。
馬車が動き出す。
蹄の音が、
朝の気配に溶けていく。
その頃、
ヒロはまだ知らない。
この朝が、
彼の“選択”を壊す始まりだということを。




