帝都の宵にばったり出逢ったヒッチハイカーが自由すぎて、中年の危機にどっぷり陥った私は、うっかり人生をリセットしかけました
胸の奥に、微かな波紋のような違和感が拡がり始めたのは、いつの頃からだろうか。
仕事はすこぶる順調だし、家庭も取り立てて大きな問題はない。それなりに和やかな日常が続いている。特別な不幸があったとか、誰かを殺したいほど憎んでいるとか、そんな波乱の人生を送って来た訳でもない。
ところが最近ふとした瞬間、自分の人生がこのまま静かに終わって行くことに抗いようのない不安を覚えるようになった。
「中年の危機」という言葉を、魔導通信水晶から流れる学者の談話で耳にした時、どこか他人事のように感じていた。しかし今、その言葉がまるで古い友人のように心の隙間に居座っている。
中年の危機とは、中年期に自身の人生に対する悩みや葛藤を感じる心理状態のこと。一般的に40代から50代で経験することが多い。人生の折り返し地点で「これでよかったのか」と過去を振り返り、将来への不安を抱く状態。自己評価の低下。過去の選択への後悔。人生の意味や目的への疑問。気力の低下。鬱の前兆。まさに今の私。
羊皮紙の書類を机に揃え、同僚に軽く頭を下げ、決まった時刻に馬車の扉を開ける。御者台に座る。手綱を握る感触。車輪の軋む音。全てがいつも通り。
役所を出て、石畳の街路を馬車で走る帰路。今宵も、何も変わったことはなかった。何も変わったことがなかった故に、窓越しに見える街の灯が、日増しにどこか遠い世界のものに思えてくるから不思議だ。
夜の帝都が、ランタンの光に照らされて静かに揺れている。露店の明かり。交差点の赤・青・黄色の魔導灯。歩道を急ぐ商人たちの背中。
人生の分岐点は、街路の外れにある古びたアーチ橋の袂だった。右へ曲がれば、いつもの帰路。苔むした石畳が緩やかに家路へと続き、灯籠の淡い光が等間隔に揺れている。
だが今宵、馬車の車輪はその右へと傾くことなく、まっすぐに橋の下をくぐる道へと進んだ。そこは、帝都の歓楽街へと続く抜け道。道端には夏草が青白く瞬き、空には三ケ月が突き刺さっている。馬車の車輪が軋みを上げる。
私は、人生という街路を、知らず知らずのうちに決められた通りに走ってきたのかもしれない。家族のため、帝国のため、社会のため——これまでの自分の人生を全否定するつもりはない。だが、自分自身のために生きる時間は、私の人生にあとどれほど残されているのだろう。
どこか遠くへ行きたい。仕事も、家族も、何もかも投げ出して……。
その時、ランタンの先に、小さな影が見えた。
路肩に、右手を高々と掲げて立っている男がいた。男の背は高く痩せている。近づくにつれて男の顔がぼんやりと浮かび上がった。年齢は自分と同じか、どうかな、少し若いくらいかな。肩には古びた革の旅袋。 薄汚れた衣類。通りすがりの車に無料で乗せてもらいながら旅行を続ける、いわゆる便乗旅人であろう。
これまでの自分なら、絶対に関わることはなかったたぐいの人。見知らぬ者を馬車に乗せるなんて、あり得ない。だが、今宵の私は別人だった。自然と馬車を路肩に寄せ、窓を開ける。「どちらまで?」と、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
男は人懐っこい笑みを浮かべ「すみません、帝都中央塔まで乗せていただけませんか?」と言った。「どうぞ」と答え、扉を開ける。男が乗り込むと、馬車内に生温い夜気が入り込む。蒸した夏草の匂いが車内を重く旋回し、吹き抜けた。
「いや~、助かったっす。酷く暑い宵だ。暑くて死ぬかと思ったっちゅ~の、ったく」
男は額で粒立つ大量の汗をがボロい布でぬぐう。その声は、なんと言うか、どこか遠くから聞こえてくるような不思議な響きがあった。
「ご旅行ですか?」
馬車を出した私は、何の気なしに陳腐な質問をしていた。
「はい。ボクね、帝都中の夜景の名所を巡る旅を続けてんすよ」
「ほう、帝都の夜景を巡る旅?」
「ええ。南方の港町から始め、山岳の街、湖畔の都と巡って、今は中部の美しい夜景を順番に回っています。んで、今宵は中央塔の屋上からの夜景を堪能しようと思いましてね」
「塔の屋上から見る都市の夜景ですか。それはさぞや綺麗でしょうね」
「いやいやいや、綺麗でしょうねって、あなた、おそらく中央都民ですよね」
「はい。生まれも育ちも中央都です」
「中央都民でありながら、あの塔の上から夜景を見たことがないんすか?」
「ないですよ」
「マジっすか。かの有名な中央塔の夜景を見たことがないとな? あ、あり得ないっしょ!」
「地元民にとって地元の観光名所なんてそんなものですよ」
馬車は中央塔に向かって走り続ける。街の光景が断片的に映り込む。酒場の前で竪琴を奏でる吟遊詩人。夜鳴き麺屋の赤提灯。踏切を渡る貨物列車。香の煙が漂う香水屋。白い光を放つ魚を売る露店。仮面劇の看板。春を売る遊女。路傍でたむろす若者。
「旅か。いいな。憧れてしまいます。実は私、あなたをこうして乗せる少し前、突然自分の人生をリセットしたいという衝動に駆られましてね。ぶっちゃけ、もう家には帰りたくなくて——」
私が正直に胸の内を語ると、男は驚いたようにこちらを見た。そして深く頷いた。
「奇遇っすね。ボクにもあなたと同じ経験があったっす。ちなみにボクは、思い立ったら吉日ってんで、その日のうちに仕事も家庭もかなぐり捨て、あてもない旅に出ちゃいましたけどね」
「驚いた。この旅にはそのような背景があったのですね。失礼ですが、お幾つですか?」
「45っす」
「あら、同い年ですね」
「やっぱりな。なんとなく、だと思った」
「あはは。中年の危機」
「ぶはは。ミッドライフクライシス」
「いや~、お互いこじらせちゃいましたね」
「ボクなんかこじらせすぎてヤバいっっちゅ~の。もう後戻りできないっちゅ~の。ぶはは」
男の人懐っこい笑顔に、私は何だか救われた気がした。自分だけが感じている孤独や不安ではないのだ。よく似た見知らぬ他人同士が、同じ宵を彷徨っている。
「名前、聞いてもいいですか?」
「う~ん、どうかなあ、出来れば言いたくないかな。名前なんて、今のボクにとっちゃあ、どうでもいい事柄だし」
男は、やや面倒臭そうに答えた。
「ちなみに、私はアルドと申します」
「……あ、あの、その、申し遅れました、ボクはミトロフと申します」
「あはは。つられて名乗りましたね」
「ぶはは。まんまとつられたっちゅ~の」
二人の笑い声がしゃんしゃんと走る車内に響く。ミトロフ氏との何気ないやり取りの中に微かな親しみが生まれていた。
「ミトロフさん、何故に夜景なのですか?」
「え、どういうこと?」
「旅の目的は人それぞれです。ですが、よりによって何故に帝都の夜景を巡るという目的を?」
「意味なんてないっす」
「は?」
「ある日、仕事とか家庭とか人生とか超ダルいなあ、なんて思って。んで、旅にでも出るかあ、なんて思って、んで、夜景でも眺めて廻るかあ、なんて思って、……ただそれだけっすけど」
「そんな安易な……では、帝都中の夜景を巡り終えたら、その後はどうするおつもりですか?」
「先のことなんて何も考えてねえっす。こちとら全てを捨てて自由を選んでんだからさ。この旅に帰路はナッシング。……うん、無い。帰る場所などあってはならない」
車窓から夜空を眺めるミトロフ氏は、まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。
やがて、私たちは中央塔に到着した。
入口付近でミトロフ氏が馬車から下車する。
「アルドさん。ありがとうございます。大変助かりました」
「いえいえ、どういたしまして。それではミトロフさん、よい旅を」
そう言って私が鞭で馬車馬に出発の合図を出そうとした刹那、ミトロフ氏が車上の私を見上げて口を開いた。
「あのさ、アルドさんさ。ボク、ちょうど一人旅にも飽きて来たところだったのね。どうっすか、あなたも全てを捨てて、ボクと一緒に旅に出ませんか?」
「え?」
「出逢った瞬間ビビッと感じちゃった。ボク、あなたとならきっと仲良く旅を続けられると思う」
ミトロフ氏の、これでもかと人懐っこい笑顔。
私の心は大きく揺れた。帝都中の夜景を巡る旅、知らぬ土地を渡り歩く自由、束縛のない日々。想像するだけで胸が熱くなる。
「……行きたい」
「よし、思い立ったら吉日、今すぐ旅に出よう、アルドさん」
「……けれども」
私は、ミトロフ氏の瑠璃色の澄んだ瞳を真っすぐに見て言った。
「ごめんなさい。けれども、私は行けません」
「……う~ん、そうっすか。う~ん、実に残念だなあ。う~ん、差し支えなければ、理由とか聞いちゃってもいいっすか?」
「旅には帰る場所が必須だと思う。帰る場所を捨てて出る旅に、私は意味を見出せない。そんな勇気、私にはない。ありがとう、ミトロフさん、今宵あなたと出逢い、私はそれに気づくことが出来た」
ミトロフ氏は、しばらく黙っていたが――
「なるほど、ご家族を大切に」
――と駄目押しの人懐っこい笑顔でそう言うと、鼻っ柱を親指で撫で、くるりと私に背を向け颯爽と塔の中へ消え入った。
帝都の外れにある三十五年の支払い契約で手に入れた自宅へと戻る。石畳を踏みしめ、玄関の鉄扉を軋ませ開くと、蝋燭の淡い光が揺れていた。
「あら、あんた。遅かったわね。もう私たち夕食済ませちゃったから、テーブルの上の料理を適当に食べてね。は~、今月も赤字だわ。あ~あ、誰かさん、もっと稼いできてくれないかしらね~」
妻は後頭部をヒステリックに搔き、視線を羊皮紙の帳簿に落とし、こちらを見ようともしない。思春期の娘は、私の顔を見るなり椅子から立ち上がり、顔を背けてプイッと自室へ駆け込んだ。近頃錆び付いてきた鉄扉の軋む音が、親子の断絶を刻む。
「やれやれ、これが私の帰る場所でござい」
私は食卓に腰を下ろす。銀の杯に琥珀色の酒を注ぎ、グイっと一気に煽る。焼けるような熱が胸を満たし「ぷえ~」という安堵ともため息ともつかぬ曖昧な響きの吐息が漏れた。
開きっぱなしの不等辺八角形の窓の外に目をやる。真夏の夜空にそびえる中央塔の最上階の灯りが、まるで明星のように輝いている。今頃あの高みからミトロフ氏はこの帝都を見下ろしているのかな。さしずめ私は、帝都の夜景の幾千の灯りの一つという訳だ。
酒のあてにトカゲの燻製を噛じる。琥珀色の酒を飲む。トカゲを噛じる。酒を飲む。
はて、人生の意味って何だろう。今の私にはよく分からない。いずれ分かる日が来るのかもしれない。あるいは死ぬまで分からずじまいなのかもしれない。
いずれにせよ、今の人生を放棄してしまったら、今の人生の意味を知ることは出来ない。今の人生を継続する以外に、今の人生の意味を知る方法はないのだ。
室内でたゆたう蝋燭の淡い炎に包まれて私は思う。ここには、あの中央塔の最上階で煌煌と輝くような光はない。でもここには、儚きながらも闇を照らす灯りがある。
私は窓から見える中央塔の最上階に向かい、そっと銀の盃を持ち上げる。ここに光はない。でもここは灯りに満ちている。今宵のところはそれでいいじゃないか。
中央塔の最上階から見下ろすミトロフ氏を、私は見上げている。




