第1話 残響の夏、はじまりの光
八月の終わり。篠ヶ浜の空は、焼けるような蒼さだった。
雲のひとかけらもない空を、まっすぐに“光の柱”が貫いている。
それは、最初に見た者たちが「天への道」と呼び、次に見た者たちが「終わりの印」と呼ぶようになった現象。
誰かが光に包まれると、その人はゆっくりと空へ吸い上げられ、消える。――二度と戻らない。
いつからか人々はそれを“終焉病”と呼び、声を潜めて怯えるようになった。
春日ユウは、部屋のカーテンを少しだけ開けて、その光を見上げていた。
窓の外では、蝉が最後の命を燃やすように鳴いている。
白く霞んだ空の向こうで、光の筋がゆらめくたびに、胸の奥に刺が走った。
妹のミナが消えたのは、一か月前のことだ。
病気でも事故でもなく、ある日突然、ベランダで光に包まれた。
助けを呼ぶ暇もなかった。ただ、笑っていた気がする。
「兄ちゃん、きれいだね」
――その言葉を最後に、彼女は空に溶けた。
それ以来、ユウは陸上部を辞めた。
走るたびに、風の中にミナの笑い声が混じる気がして、たまらなくなる。
走る意味も、生きる理由も、何もわからなくなってしまった。
◇
九月。
夏休み明けの教室は、妙に静かだった。
黒板にはまだ「二学期」の文字が残っている。
クラスメイトの多くが休みがちになり、誰がいなくなったのかを誰も確認しようとしない。
空席がひとつ増えるたびに、みんな目をそらす。
その朝、担任がひとりの少女を連れてきた。
白いワンピースにカーディガンを羽織った、儚げな少女。
「今日からこのクラスに入る白石ナミさんだ」
彼女は小さく会釈し、やわらかな笑みを浮かべた。
「白石ナミです。……よろしくお願いします」
その声を聞いた瞬間、ユウは妙な感覚にとらわれた。
まるで遠い昔、夢の中で同じ声を聞いたような、そんな既視感。
隣の席に座ったナミが、ちらりとユウを見た。
そのとき、彼女の手首の袖がずれて、わずかに光が透けて見えた。
淡い青の痣――けれど、光を宿しているように見えた。
ユウの呼吸が止まる。
知っていた。この印を持つ者が、次に消える。
放課後、ナミが声をかけてきた。
「ねえ、春日くん。屋上、行かない?」
断る理由を探すより早く、彼女の笑顔に引かれて頷いていた。
◇
屋上に出ると、潮の匂いがした。
篠ヶ浜の海が遠く光り、夕焼けが世界を金色に染めていた。
ナミはフェンスに寄りかかりながら、空を見上げている。
「この町、きれいだね」
「そうかな。俺はもう、何もきれいだと思えないけど」
思わず本音がこぼれた。
ナミは少し驚いた顔をして、そして笑った。
「そういうとこ、なんか好きかも」
「は?」
「だって、正直だから。みんな、怖いくせに平気なふりしてるでしょ?」
風が二人の間を通り抜ける。
ユウは彼女の横顔を見た。
笑っているのに、目の奥が少し泣いているように見えた。
「ねぇ、春日くん。世界が滅ぶまでに、したいことある?」
唐突な問いだった。
ユウは答えられずに、空を見上げた。
西の空では、またひとつ光の柱が立ち上っている。
誰かが、消えたのだ。
「……ないな。俺はもう、誰かが消えるのを見るのに慣れた」
「それでも、生きてるじゃない」
「惰性だよ」
ナミはしばらく黙ってから、小さく息をついた。
「惰性でも、生きてる人は強いと思う」
◇
帰り道。
街の通りには“立入禁止”の黄色テープがあちこちに張られていた。
光の柱が落ちた場所は汚染区域と呼ばれ、人々は近づかない。
ナミはその前で立ち止まり、手を伸ばした。
「ここ、ミナちゃんがいた場所でしょ」
ユウの心臓が跳ねた。
「なんで知ってるんだ」
「この町のこと、いろいろ調べてきたの。あなたのことも」
ナミは笑っていたが、その笑顔はどこか痛々しかった。
「私もね、もう長くないの」
「……冗談、だろ」
彼女は袖をまくり、光る痣を見せた。
「これ、広がってるの。最近ね、夜になると腕が透けるの」
ユウは言葉を失った。
ナミは空を見上げる。
「でもね、不思議と怖くないんだ。私、ずっと誰かを探してた気がするから」
その横顔は、まるで光そのもののように淡くて、美しかった。
◇
それからの日々、ユウは少しずつ変わっていった。
ナミは放課後になるといつも屋上に現れ、世界が終わるまでにしたいことをノートに書くよう誘った。
「海で花火を見る」「図書館の最上階から夕日を見下ろす」「好きな人に嘘をつかない」
そんな小さな願いを、二人でひとつずつ叶えていった。
笑い合うたびに、ユウの胸の中に少しずつ光が戻ってきた。
あの日、妹を失ってからずっと止まっていた心臓が、また動き出したような気がした。
だがある日、ナミが学校に来なくなった。
誰も何も言わない。クラスの空席がまたひとつ増えるだけ。
ユウは校舎を飛び出し、海へ向かった。
浜辺には、ナミがいた。
光の柱のすぐそばで、立ち尽くしている。
空は白く、風がやさしく吹いていた。
「春日くん、来てくれたんだ」
「バカ、行くなよ。まだ間に合う」
ユウは手を伸ばした。
だが、指先は彼女の腕をすり抜けた。透けている。もう、時間がない。
ナミは涙を浮かべながら笑った。
「ねぇ、最後にお願いしてもいい?」
「何だよ」
「キス、して」
ユウは息を呑んだ。
こんなときに、と思った。けれど――。
気づけば彼女を抱きしめていた。
体温は、もうほとんど感じなかった。
唇が触れた瞬間、彼女の体が光に包まれる。
「ありがとう、春日くん。あなたと過ごした夏、ほんとうに楽しかった」
その声が、風の中に溶けていった。
ナミの姿が、ゆっくりと空に昇っていく。
手を伸ばしても、もう届かない。
その瞬間、ユウの胸の奥で何かがはじけた。
泣きたくないのに、涙が止まらない。
「……バカ。まだ、世界は終わってないのに」
光が消えると、浜辺には一冊のノートだけが残っていた。
表紙には、二人で書いたタイトルがある。
――「世界が滅ぶまでに、したいこと」
ページを開くと、最後の行に彼女の字でこう書かれていた。
『春日くんが、もう一度走るのを見たい』
◇
夜。
ユウは久しぶりにスニーカーを履いた。
陸上部のトラックは草が伸び、照明も切れていた。
それでも構わなかった。
空には無数の星。遠くでまた光の柱が立ち上る。
ユウは息を吸い、走り出す。
風が頬を打ち、涙を乾かしていく。
まるで、ミナとナミが並んで見ているような気がした。
走るたび、胸の奥に小さな灯がともる。
光はまだ、完全には世界を覆っていない。
――だから、俺は走る。
終わるその日まで、誰かの残響を抱いて。
そして、夜空の向こうで静かに輝く光を見上げた。
それが、夏の終わりの始まりだった。




