レイヴン・ローズは明日へ帰りたい
レイヴン・ローズは言った。「私には未来を変える力がある」と。
□□□□・ローズは言った。「□□未来に□はい□い」と。
□□□□・□□□は□った。「□た□□」と。
□□□□□□□□□□□□□「□□□□」と。
メイドが扉をノックして入室すると、部屋の主は本棚に向かって立ち、真剣な表情で日記帳を読んでいた。
貴族令嬢レイヴン・ローズは、バラのように映える赤い髪に、白磁のような白い肌。吊り目なところが少し気が強そうな印象に見えるが、心根はとても優しい。だからこそ、首の左側に見える“痕”がメイドたちの心をいつまでも強く抉っていた。
ローズは今年で十七歳になったレイヴン家の長女だったが、歳の離れた兄が家を継ぐことになっているので、今は当主の補佐として仕事を務めていた。
「ええと……、そうだったわね。この日はタイラー様が会いに来てくれたのね」
ローズの婚約者であるクラレント・タイラーの名前を呟き、少し嬉しそうに笑った。
日記に綴られた文字に指を這わせ、一文字ずつ出来事をインプットしていく。前日の事を思い出しているところだった。
メイドはいつも通り部屋の掃除を開始すると、ローズは日記帳に視線を落としながら話しかけた。
「お母様は、未来が視えたらしいわ」
唐突に告げられたことで、メイドは一瞬反応が遅れて首を傾げた。
「未来……ですか?」
「ええ。どのような未来が視えていたかは書いてないけど、私が六歳の時にあった大火事は、お母様が私を燃え盛る炎から守ってくれたから助かったのよ。この日記帳は防火性のある箱に保管されていたから燃えずに残っていたの」
ローズは自分の首の痕を撫で、一冊目の日記帳を取り出した。色あせて乾いた最初のページを開き、母の字を指でなぞりながら、日記を書き始めた意図を探っていく。
「未来が視えていたのなら、火事を予見できたのでは……いえ、失礼しました」
「気にしていないわ。当時のお母様はどこか様子がおかしかったもの。回避しようがないものだったのか、私だけを救える未来を視たのか、はたまた運命を捻じ曲げて命を火に投じたか。未来が視えるお母様が助からなかった以上、私だけ助かったことが最善であったことを否定できないわ」
母のことが大好きだったローズは、自分で語りながら心がぽっかり空いたような感覚に陥り、日記帳をそっと元の場所に戻した。
本棚の日記帳はローズが歳を重ねる毎に一冊増えていく。今年で十七冊目。しかし、最初の六冊はローズの文字で綴られてはおらず、亡き母がローズのことを日記に綴り、今は入れ替わるようにローズが続きを毎日綴っていた。
「今日は街に出ようかしら」
高位の貴族でなければ長子でもないローズは、レイヴン家当主である父に一声掛ければ簡単に外へ出られる。メイドを一人侍らせておけば、ローズの行動は基本的に自由だった。
ローズは外出用のドレスに着替え、外は温かいが当たり前のようにマフラーを首に巻いた。
馬車で街の近くまで移動し、田舎の領ゆえに顔見知りの人たちに挨拶しながら街を歩く。
「お嬢様、本日はどちらまで?」
「決めていないわ。買いたい物はないし、適当に歩くわ」
メイドはローズの行動を珍しいなと思った。普段は何か用事がなければ不用意に出かけることもなく、暇さえあれば勉学に励んでいたからだ。
どこか精神的に疲れて息抜きが欲しかったのかもしれないと、メイドは何か役に立つことがあればと思い、行先を提案した。
「お嬢様、久しぶりに街へ出てきたのですから、何か甘味でもどうでしょうか? 屋敷ではあまり嗜まれないようですし」
「甘いものはこの前も……、いえ、なんでもないわ、私の気のせいね。そこのカフェがオススメよ」
ローズが街へ出る時は必ず付いていくメイドだったが、ローズに紹介されたカフェはメイドが初めて訪れた店だった。それも新規店舗で、ローズが事前に訪れていなければ知るはずもない個人経営のカフェだった。
まだ店先に開店祝いの花束が飾られているのを横目に、ローズは軽い足取りで店に入っていく。
広々とした店内に席数は少なめ。クラシックな造りの店内は落ち着いていて、新規でありながらも客数は落ち着いていた。
どうしてこの店を知っているのか疑問に思ったメイドだが、それを聞くのはどうしてか怖くなり、きっと婚約者様から聞いたのだろうと勝手に結論付けた。
ローズは店員に案内された席に座ると、メニューを聞かず注文をする。メイドの分も勝手に注文し、待っている間はどこか遠い目をして街行く人たちをぼうっと眺めていた。
メイドはローズが幼少の頃から仕えているため、二人の歳は近いわけではないが、街に出かけている間は一人の友人としてローズの傍にいるようメイドは命を受けているため、同席している。
「お嬢様、どこかお疲れなのですか?」
メイドが気軽に聞くと、ギョロリと動いたローズの目がメイドの瞳を捉えた。
「……そうね、かなり疲れたわ。でも大丈夫よ。“まだ二年”だもの」
思わぬ視線の動き方にびくりと驚いたメイドだったが、ローズの柔らかい口調に、自分の見間違いだと思った。
「しかし、もう二年ですか。お嬢様が学園を卒業して、タイラー様と婚約して。二年前はちょうど節目でしたね」
来年にはタイラーとの結婚も予定されていて、そうなるとメイドは、ローズに付いていき、クラレント家のメイドになるのではと、自身の人生の設計図を立て始めた。
「もう二年……。いえ、やっぱり、やっと二年だわ。先が長いわね」
「タイラー様とは仲がよろしいではありませんか? いつも楽しそうにお茶を飲まれるので、時間などあっという間かと思いましたが」
「ええ、あの方は誠実で、いつも私を楽しませてくれるわ」
否定されることはなく、むしろメイドの言葉を肯定するような返答に困惑したが、注文の品が届いたことで話しは中断した。
店を出てからも、ローズの不規則な行動にメイドは首を傾げた。まるで別人のような気がしてならなかった。
ローズはふらりと立ち寄った店で昨日のプレゼントのお返しを即決し、やることがないからと落ち着いたカフェで何時間も本を読んで時間を潰していた。
読書が好きなローズではあったが、いつもこの時間は父の仕事を手伝っている時間であり、趣味は寝る前の数時間と決まっていた。
本当に別人になってしまったかのようなローズの行動に、メイドは困惑しながらも静観を貫いた。主人がどうであれ、わざわざ時間を作ったのだから、それを邪魔しないのがこの場における正解だとメイドは察していた。
「ねえ、あなたは旅人の行き着く所って、どんな場所だと思う?」
ローズは本を読んだまま、コーヒーを啜るメイドに聞いた。
「難しい質問ですね。旅人の終着点となれば、実家か、恋人との新居、とかでしょうか」
「そのまま行き倒れるとは思わない?」
「それもまた一つの終着点だと思います。旅人は旅が出来なくなったとき、そこが行き着く場所だと思います」
ローズは特に表情を変えないまま、本のページを捲った。
「途中で旅を終えなくちゃいけなくて、そこから先には何もないって分かっていて、それでも旅を始めたいと思う?」
そこが終着点なのか、まだ途中なのか、矛盾した質問にメイドは困惑した。答えられず頭を捻ると、ローズは「意地悪だったわね」とほほ笑んだ。
「意味なんて特にないわ。だって、終わりなんてその時になってみないと何も分からないもの」
「それもそうですね」
なんだかスッキリしないまま解決してしまった質疑に、メイドはもやもやをコーヒーで流し込んだ。
「そろそろ帰るわ」
結末まで読まずにパタンと本を閉じたローズは、退屈そうに溜息を漏らしてカフェを後にした。
慌てて会計を済ませて外へ出たメイドがローズの姿を追いかける。
「小説は最後まで読まなかったのですか? それ、推理小説ですよね?」
「伏線の見直しがしたかっただけよ。犯人は分かっているわ」
相変わらず様子のおかしいローズと一日を過ごしたメイドは、首を傾げながら屋敷へ帰ってきた。
夕食と湯あみを済ませ、やりたいことがないからと、早々に就寝しようとするローズは、何かを思いついたようにメイドを呼び出した。
街で買ってきた婚約者へのプレゼントを取り出し、それをメイドに手渡した。
「明日の朝まででいいわ。一晩持っていなさい」
「はあ……、何かお守りみたいな物でしょうか?」
「いいえ、ただのブレスレットに魔除けのような効果はないわ。だけど、それが私に出来るささやかな抵抗なのよ」
「抵抗、ですか?」
「ええ、結果を知ることは出来ないけどね。では、おやすみ、また明日」
ニコリと笑ったローズは、わざとらしく欠伸を漏らし、床に就いてしまった。
ローズの言葉を何一つ理解できなかったメイドは、命令された通りに、ブレスレットを持ち、残りの業務に励んだ。
翌日は非番のため、仕事はすべて終わらせようと張り切ると、ノートを閉じた時と同時に日付が変わった。
他のメイドたちは既に就寝していて、この控室だけが屋敷で唯一明かりを灯していた。
「さあて、そろそろ寝ようかな。明日はお休みだけど朝だけはお嬢様を起こして……、あれ?」
メイドは机に置いてあった“何か”を忘れた。とても大事なもので、無くしてはいけないはずなのに。
「何を、無くしたんだっけ? それに、明日は奥様の芸事の準備と、当主様のお召し物を受け取りに行く日でした」
これ以上は翌日に支えると思い、メイドは早々に眠りに就いた。
〇
クラレント・タイラーという男が、運命という言葉を始めて口にしたのは、学園の卒業が視野に入ってきた年の瀬のことだった。
クラレント家は低い爵位でありながらも騎士の家系としては有名で、かつては第一騎士団副団長にまで昇りつけた血縁者もいたほどだった。
タイラーの父が第三騎士団団長という肩書もあり、学園ではかなり女子生徒に声を掛けられていたタイラーだが、本人は黄色い声にうんざりしながらも真面目に剣を振り続けていた。
卒業の資格はとっくの間に満たし、騎士団への入団テストも数カ月前に無事合格。卒業後は騎士として国に仕えることが決まって両親や祖父母も喜んでいたが、タイラーはクラレント家の一人息子。嫁を貰わなくてはならないのだが、タイラーは女性運がなかった。
これまでタイラーが声を掛けた女性には顔が怖いと逃げられ、逆にその怖さが格好いいと、近寄って来る女性は恋愛目的ではなく、偶像への一時的な熱情や、騎士団という肩書しか見ていない。
タイラーは、自分の“家”目的ではなく、この顔を見ても逃げ出さない女性を探していたが、それは学園卒業が間近に迫っても見つからずにいた。
そんなある日、不注意で学園の備品を破損させてしまったがために書いた反省文を職員室へ提出しに行った時の事だった。タイラーはふわりとした甘い香りに足を止めて振り返った。
タイラーは思わず女神と呟くほどに美しい令嬢とすれ違った。その時はまだ、その令嬢がレイヴン・ローズであるとは気付いていなかった。
当時のローズは他の女子生徒とは違って着飾っていないし、切れ長の瞳はどこか冷たい印象があった。他者を寄せ付けない威圧感のある令嬢だったが、だからこそタイラーの意識を引いた。
「……あ、落としたよ!」
両手に抱えていたプリントの一枚が落ちていくのを宙で掴んだタイラーは、プリントに皺がないことを確認してプリントの山に戻した。
「え? あ、ありがとうございます」
「俺が持つよ。どこまで?」
奪うようにプリントの山を持ったタイラーは、令嬢に行先を聞く。
「あ、あの、そこまでしてもらわなくても……」
「俺はクラレント・タイラーだ。君は?」
このようにぐいぐいといくところも怖がられる要因だったが、ローズは少し警戒しながらもスッとお辞儀をした。
「レイヴン・ローズです」
タイラーは聞いたことのない名前だったが、綺麗な所作に見惚れ、頬を赤くした。
学年は一つ下で、後で探りを入れると成績も優秀と聞く。家格も近いがどうして知らなかったのだろうと、タイラーは首を傾げた。
「それ、教師から私が運ぶように言われたのですが」
「俺が奪って持ってきた。それでいいじゃないか」
タイラーが運ぶことが決定事項となっているため、ローズがどれだけ言っても譲らず、仕方なくプリントをタイラーに運んでもらうこととなった。
「なあ、婚約者っているか?」
「はい? いいえ、いませんが」
「そ、そうなのか? レイヴン嬢ほどの女性なら引く手数多だと思ったんだが」
「そんなことはありません。事実、私の元へ届いた釣書は一つもありません」
「なぜ?」
タイラーの素朴な疑問にローズは少し考えたが、理由を教えることにした。
学生服の襟を少し引っ張ると、当然ながら見える鎖骨にタイラーは視線を逸らした。
「これです。……どこを見ているんですか?」
「女性の肌を見てはいけないと……」
「私が許可します。というか、こんなことしなくても結構見えているんですけどね」
「見えているって……、なんだそれは?」
ローズの首の左側に醜い痣があった。白い肌に似合わない茶色く変色した痣だった。
「昔、火事でやけどを負いまして。左半身、下腹部辺りまでがこんな感じです」
バカ真面目に剣を振り続けてきたタイラーが知らないだけで、貴族の間では有名な話であり、ローズが気にしないでいることに合わせて周りもやけどの跡については触れずにいた。
「あまりに酷いやけどの跡というのは勝手に広まった噂ですが、事実である以上否定できません。将来、嫁いで子を成せない身体ではお相手に迷惑をかけてしまいます」
やけどは肌の表面だけで、ローズの、子を成すための器官は正常だったが、それを信じてくれる家はどこにもなかった。
これ以上会話が弾まないままプリントを運び終えると、ローズは頭を下げて去ろうとする。それをタイラーは引き止めた。
「どうしてやけどのことを俺に話してくれたんだ?」
「聞かれれば皆さんに答えています。こうした方が早いですから」
取り付く島もないローズの回答に、タイラーはローズの手を取って詰め寄った。
「なあ、もし、俺がレイヴン嬢と婚約したいと言ったら、受けてくれるか?」
「いいえ。そして、止めてください」
ローズは首を横に振り、タイラーの胸を強く押して離れた。
きっぱりと断られて、タイラーは固まった。自分ならそのやけどなんか気にしないし、幸せにしてみせる、という自惚れがあった。
「ど、どうしてだ?」
「私がこのようなやけどを負い、婚約も出来ないくせに他の方々から嫌がらせを受けていない理由が分かりませんか?」
ローズは顔を曇らせ、俯きながら語った。
「私は、本来押し付けられるものを自ら引き受け、クラスの歯車となりました。二年もあればクラスを動かすための中心となる歯車となるのに十分でした。ですが、その歯車が別の動きをすれば、元の動きに戻そうとするのは当然のことです」
「君は、それでいいのか?」
「いいんですよ。おかげで内申点があがりますし、進学や就職活動はしませんがコネはかなり出来ました。クラス委員長として生徒会に潜り込めたのは大きいですね」
ローズはこれでいいとばかりに言い訳を並べた。事実、ローズは本当にこれでいい。平穏を得て、将来に繋げるには最善の選択だった。
タイラーは怒りに拳を固めた。しかし、父の教えを思い出してすぐに怒りを引っ込めた。今の怒りは対象がいない。必ず間違った誰かを傷つけることが分かっていたからだ。
「レイヴン嬢、君がこの学園を卒業する日、その時なら受けてくれるか?」
「クラレント様には多くの女性からお声をいただいているじゃないですか。わざわざ私を選ぶ理由がないでしょう」
「いや、ある」
「確かに家格は問題ありませんし、クラレント様が私のすべてを受け入れてくれた上で嫁ぐとあれば両親は反対しないでしょう。ですが、このやけどの跡では――」
「惚れた!」
「……はい? ですから、私にはやけどの跡があってみにく――」
「それも含めて惚れたと言っている! 学園でいじめられたくないのなら、卒業まで待つ! その間、俺は女性からの誘いはきっぱり断ることで誠実を証明しよう! 俺が君の運命を変えてやる!」
「え、あ、あの……」
今度はローズが顔を赤くする番だった。
熱烈な告白など貰った事のないローズは、結婚はおろか恋人すら諦めていた。いずれ父の補佐として名を馳せるかもしれないローズは、のちに騎士団団長に上り詰める金の卵に押し切られてしまった。
あの時は自分を慰めてくれただけだろうと、翌日には心の平穏を取り戻したローズだったが、休日にタイラーが正装した状態で家にやってきた。
口約束だけで済まさず、律儀に誓約書をレイヴン家に持ち込んだタイラーは、学園にいる間はローズに話しかけることもなく、近寄って来る女子生徒たちは軒並みシャットアウトした。しかし、月に一度はどうしても会いたいがために、執事の格好を装ってレイヴン家の屋敷に赴いていた。
その誠実さに心を動かされたローズは、クラスの便利屋を演じ続け、最終学年もクラスメイトとは良好な関係を築いて卒業を迎えた。
二人の関係がバレないまま迎えた卒業式、並びに卒業パーティ。この日に限り、卒業生はパートナーを外部から招き入れることが可能だった。
主に婚約者を招き入れることが多く、ダンスは大きな盛り上がりを見せていた。
新人でありながら騎士団で目まぐるしい活躍を見せるタイラーと、傷物令嬢のローズ。二人の組み合わせは絶対と言い切れるほど、ありえないと思われていた。だから、ざわめきは留まることを知らず、今までローズと仲の良かった令嬢が突然、悪態を吐いて離れていくことも少なくなかった。
それだけタイラーが魅力的な男に成長していたのだ。騎士の家系で怖いだけの顔つきだったが、今では騎士団に揉まれて一人前の騎士となり、怖い顔も大人びて勇ましく見える。
着慣れていないのがバレバレのタキシード姿のタイラーは、自分の瞳の色に合わせて作られた碧色のドレスに身を包んだローズの手を優しくとる。
学園に通い続け、最後の日にやっと笑顔を見せたローズは周囲に見せつけるようにタイラーと腕を組んだ。普段レイヴン家で会う時よりも大胆な行動に、タイラーの口元は自ずと緩んだ。
二人だけでなく卒業に合わせて婚約した者は多く、二人のことを祝福する声は少なからずあった。ローズは数少ない友達と抱き合い、他国へ移住する者へはエールを送った。
卒業パーティの終わりには殿下が直々に言葉を綴り、卒業おめでとうの言葉と共にパーティはお開きとなった。
その後は家へ帰る者。しばらく残って最後の談笑に華を咲かせる者と様々だったが、タイラーはローズを夜景が綺麗に見える高台に連れ出していた。
この日を境に子どもである時間を終える。だから日付けが変わろうとする時間まで家に帰らないのは珍しい事ではなかった。
「改めて、ローズ、卒業おめでとう」
「もう何度も言われたわ。でも、ありがとう、タイラー」
はにかんだローズは、夜の涼しい風から逃げるようにタイラーに身を寄せた。
「今日はずいぶんとはしゃいでいたけど、そんなに楽しかったのかい?」
「ええ、久しぶりの大きなイベントだったもの。楽しまないと損だと思って。それに、余韻に浸っていられるのも、一年間だけだもの」
一年後、何があったかとタイラーは考えると、そういえば、一年後は当主の元で正式に補佐として働くことになるんだったと思い出す。
「試用期間が一年かぁ、長いな」
「え? ……ああ、そういえばそうだったわね」
「ん? 違ったか?」
タイラーがローズの目を見ると、自分ではなくどこか遠くを見ているような目をしていた。しかし、すぐにタイラーのことを見つめたローズは、何かを隠すように瞼を伏せた。
「いいえ、間違っていません。一年後にはお父様の補佐として活躍するわ」
「そうなれるよう頑張らないとね。応援しているよ。それに俺も頑張って認めてもらわないとな」
二人の関係は一年前から両家公認の仲ではあったが、表向きのお付き合いは今日からであり、すぐに結婚というわけにはいかなかった。
タイラーの騎士団での昇格のタイミングや、ローズの試用期間の件など、数年は忙しくなることを覚悟していた。
そろそろ日付けが変わろうしている時、タイラーは隠し持っていた物を取り出した。
「これ、婚約記念のプレゼントだ」
タイラーが取り出したのは、ローズが着ているドレスと同じ色のマフラー。つまり己の瞳の色と同じ碧色。身に着けてもらいたくてそっと首に巻いてあげる。
「あったかい」
「これで首の跡も隠せるだろ? 夏になったら通気性のあるおしゃれなやつを送らせてもらうよ」
恥ずかしそうに頬を掻いたタイラーは、ローズのことを抱きしめた。
頭部にキスを落とし、静寂に溶け込むように抱きしめ続けた。
「結婚したら、どこか旅行に行こう。新婚旅行ってやつだ。落ち着いたら子どもを作って、一緒に食卓を囲んで、楽しい老後を目指そう」
「もう老後の話? 気が早いんじゃない?」
「いいじゃないか、明るい未来を想像するのだって楽しみの一つさ」
日付が変わる。ローズの瞳には涙が浮かんでいた。
「そうね。ありがとう、私を選んでくれて。でも、その未来に私はいないの」
「え?」
タイラーは手に持った“ボロボロのマフラー”を見つけて呆けていた。
何かを失った気がして、胸の中にあった温もりがジンジンと心を痛めていた。
「このマフラーは……」
一年前の卒業式、やっと婚約に辿り着いた際に、婚約者からプレゼントしてもらったマフラーだった。嬉しくて年中持ち歩いたせいでボロボロになってしまったが、ずっと大切にしていた。
冷たい風がタイラーの首を撫でると、タイラーはブルりと身を震わせてマフラーを首に巻く。
「……あったかいな」
首に伝わる温もりは、どうしてか、タイラーではない誰かの温もりを感じられた。
〇
レイヴン家に嫁いできたカミアは、幼少の頃から特殊な力を持っていた。
それは、未来を視る力だった。しかし、それは普段使いできるような便利な力ではなく、写真のように切り取られた光景がわずかに見えるだけの未来視と呼ぶにはあまりに矮小な力だった。
視える未来はいつの事なのか不明で、情報も視えたもの以外にない。これまで何度も未来を視たカミアだったが、この力が役に立ったことはほとんどなかった。
結婚して長男を産んでからはしばらく未来を視ることはなくなったが、数年後、長女のローズを産んだ時、視えてしまった。
「どう、して……?」
カミアが視た未来は、いたって普通の家族写真だった。立派に育った大人の長男を中心に、左右にはカミアと当主が並んでいる。そして、カミアはどこか寂しそうな笑顔で、遺影を膝の上に持っていた。
遺影はカミアの知らぬ少女だった。しかし、その子が誰なのかは、母であるカミアは瞬時に気付けた。
「ローズ……」
カミアが視た未来は、現在、腕の中でスヤスヤと眠る赤子を失っている未来だった。
赤子を起こさぬよう優しく抱きしめたカミラは、何かに囚われたかのように、その日から日記を書くようになった。
今までは未来が視えても大きな影響はなかったため放置していたが、我が子を救える可能性があるなら、と日記は可能な限り細かく書き綴り、小さな違和感を見逃さぬように何度も読み返した。
ローズが死んでしまう理由が怪我なのか病気なのかは分からないため、定期的に病気の検査を行い、外で遊ぶときは使用人と共に見張るようになった。
カミラの努力の甲斐もあり、ローズは健康のまますくすくと育った。カミラと同じ赤髪で目元もそっくりの吊り目。生き写しと言われるほどに二人はそっくりだった。
しかし、ローズが育てば育つほど、カミラの顔には焦燥と疲労が浮かぶようになっていった。
「いつ……、あと、どれくらい?」
遺影で見たローズの姿は幼かった。カミラの予想では五歳か六歳くらいの子に見えた。現在のローズも先日、六歳の誕生日を迎えたため、カミラの思考は定められた運命から回避することに埋め尽くされていた。
カミラのローズを見る目が時折険しくなっていたことを、ローズは気付いていた。母が日に日に苦しそうにしている姿を見るのが怖くなり、ある日、寝かしつけてくれるカミラに一緒に寝ようと提案した。
「お母様、今日は一緒に寝よう?」
いつもはローズが寝付くまでずっと傍にいて、寝てからは日記帳にびっしりと文字を綴る。ローズは母が日記を書いている時間が最も苦しそうにしていることを知っていて、だから、今日だけはそんなことせずに寝ようという、子どもながらのささやかな提案だった。
「そうね……、もう寝ましょうか」
今のローズは健康そのもので、怪我もしていない。せめて夜くらい寝ないと自分が倒れてしまうと思ったカミラは、ローズの提案を受け入れて一緒のベッドに入った。
――その一時の油断こそが、運命を決定づける死神の鎌となる。
深夜、カミラは肌を焼くような暑さに目を覚ました。熱帯夜と呼ぶにはいささか暑すぎる。水でも貰おうと瞼を押し上げると、カーテンの隙間から赤い光が漏れていることに気付いた。
「え? なに――」
次の瞬間、鍵を壊しながら扉を蹴破って若い使用人が入ってきた。苦しそうにしながら床に転がり、全身を煤だらけにしながらカミラを見上げた。
「お、奥様! すぐにお逃げください! 火事です!」
使用人の後ろからゴウッと勢いよく炎が舞う。
原因は翌日が非番となる使用人の寝タバコだった。度数の強い酒に酔いつぶれ、落としたタバコが近くの書類に引火した。
他の使用人も寝静まった深夜帯ということが、多くの使用人の反応を遅らせた。火元が使用人室のすぐそばであり、なんとか逃げ出せた数人が急いで避難を呼び掛けていた。
「火が燃料に引火して回りが早いです。廊下は――、くッ! もう無理です。窓から飛び降りてください」
「ま、窓から!? ここは三階よ! 飛び降りて怪我では済まないわ!」
カミラは腕にローズを抱き、緩衝材もない地面に飛び降りればどうなるか、想像するだけで血の気が引いた。
「で、ではどこから」
「……この中を突っ切るしかないわ」
「奥様、正気ですか⁉」
隣の領へ仕事で出ていた当主と長男は火事を免れているが、カミラとローズは火の中に閉じ込められてしまった。
「お母様……?」
「ローズ! 目を覚ましたのね。だけど、目を瞑ってハンカチで口を隠しなさい」
カミラはローズを胸の中に抱き、室内に入り込む煙を吸わないよう顔を隠す。
「大丈夫、大丈夫だから」
カミラが視た未来では自分は生きていた。つまりここから何かしら行動をすれば自分だけは助かることが確実だった。だけど、それでは意味がない。なんとしてもローズを助けなければならない、とそれだけを考えていた。
「お母様、大丈夫」
「え?」
ローズは涙を流しながらカミラの首に抱き着き、そっと母の頭を撫でた。
「助かるよ。私も頑張るから」
ローズの言葉に、カミラは冷静を取り戻した。
「ええ、ローズ、お母さんと一緒に逃げましょう」
使用人を先頭に、母娘は火の中に飛び込んだ。姿勢を低くし、口元にハンカチを当て、息を止める。
幸い廊下に物は落ちていない。立ち込める黒い煙に目を焼かれながら、階段を転がり落ちるように降りる。
(あと少し――)
階段を降り切った先、玄関へ向かわずとも窓から飛び出せる。カミラは窓を指さすと、察しのいい使用人は勢いよく飛び出して身体で窓ガラスを割りながら外へ出た。そして、カミラに向かって手を差し伸べる。
「ローズ、もうちょっとだからね」
クラクラと目が回りながらもローズと共に前に進むカミラだが、死神の鎌はここで振り下ろされた。
「お母様!」
「ロー……ズ」
蝶番が熱で溶けた扉が、カミラの脚に向かって倒れてきた。脚が倒れた扉に挟まり動くことが出来なくなったカミラは悟った。ああ、ここが運命の分かれ道なんだと。
こんな状況でありながら、カミラの思考は冷静だった。扉に脚を挟まれて前方に放り出されてしまったローズが、カミラを助けに戻れば、きっとカミラは助かる。しかし煙を多く吸ったローズはどうだろうか。
「逃げなさい」
「イヤ!」
「逃げなさい!」
「イヤッ‼」
カミラが運命を変えるならここしかなかった。なんとしてもローズを逃がそうと叱責するが、ローズは逃げなかった。
「私には未来を変える力があるから」
「な、にを?」
カミラが見たローズの顔は、覚悟を決めた戦士のように勇敢だった。
ローズはすぐ近くにあった掃除用具入れの扉を開き、中からバケツとモップを取り出した。
触れたどれもが焼けるように痛かったはずだが、ローズは歯を食いしばってそれをカミラの傍まで運ぶ。
モップの柄を倒れた扉の隙間に差し込み、バケツを支点にモップを下に力強く押し込んだ。バケツがひしゃげる音がするが、扉はわずかに動いてカミラが逃げ出せるだけの隙間を作った。崩れた壁から落ちた塊がローズの頭を直撃しても、ローズは決して手を離さなかった。
六歳の少女がとっさに出来る行動ではなかった。しかし、ローズは余計な煙をなるべく吸わないよう気を付けながら、てこの原理を利用してカミラの脚を扉から外した。
「お母様!」
外で遊ぶのが大好きで勉強嫌いだったローズが、なぜこんなことを思いつくのだと驚いている間もなく、カミラはローズに引っ張られて窓から外へ飛び出した。
それからのことは、カミラもローズも覚えていない。気絶してしまい、そのまま病院へ運ばれたからだ。
先に目覚めたカミラは、吐き気を催しながらもすぐにローズの姿を探した。幸い、ローズはすぐ隣のベッドで寝ていた。頭に包帯を巻いているけども、胸の動きは穏やかで、ちゃんと生きているのがカミラの目に映った。
「よかった、……よかった」
カミラは何度もよかったと繰り返し、看護師が来てからもずっとローズを見守り続けた。
そして、ローズが目を覚ましたのは、日付が変わろうとしている深夜の事だった。
「ん、んぅ……」
「ローズ! ローズ! 目を覚ましたのね!」
カミラは絶対安静という医師の言葉を無視し、ベッドから飛び降りてローズの傍に近寄る。脚が使い物にならなくなり、煙を吸いすぎた後遺症で身体を引き摺るように移動したカミラは、ローズの手を握り、ボロボロと涙を流した。
「お母様?」
「そうよ、ローズ。あなたのおかげで私たち、ちゃんと生きているのよ」
「よかった……、お母様が生きてる」
「私だけじゃない、ローズも生きているんだから、喜ばないと」
「うん、これからはお母様と一緒なんだよ」
「ローズ? 頭痛い? 気持ち悪くない?」
少し会話が嚙み合わない気がして、カミラはローズの体調を気にした。
「ううん、大丈夫。だから、最後にお母様に抱っこしてほしい」
「さ、最後って、ローズ、あなた――」
何か嫌な予感がしたカミラは、しかし、飛び込んできたローズを受け止めた。
「長かった。誰も“私を覚えていなくて”つらかった。でも、やっとお母様に会えた」
ずっとローズを見ていたはずなのに、自分の知らないローズが目の前にいた。だけどそれが何なのか分からず、カミラは胸の中の温もりを確かめる。そして気付いた。特殊な力を持つカミラだから、娘であるローズにも特殊な力が備わっていることに気付いた。
「……そう、だから私は生きているのね」
「うん。ここが私の終着点。だから、お別れだね」
「ローズ!」
「お母様。私と一緒に長生きしてね」
日付が変わる。
「最後に、お母様に抱きしめられて、幸せだったよ。……さよなら」
今まで腕の中にいたローズはもういない。しかし、カミラの腕の中には、確かに娘のローズがそこにいた。