自他
自他境界を正確に規定する事には、明確な利点と欠点が存在する。利点とは曖昧な事がひとつ減ることであり、欠点とは曖昧な事がひとつ減ることである。
物事を確定させた方が上手くいくケースは往々にしてよく見られるが、それで多くの場合事足りる。確定させたことで破綻するケースは非常に限定的である。そもそもそんな場面に出会うことすら稀だろう。判断を事後的に認知することが専らだからだ。終わった後にならなんとでも言える。基本的に物事を曖昧にさせた方が良いなんて事はあり得ないのだ。脳の処理負荷をやわらげるために暫定的に答えを与えることは、ぐだぐだとぼかしたままそれを抱え続けることに比べて何倍もマシだ。なんでも良いからとりあえず答えを挙げよ。出来合いのもので構わないから。
ただ残念なことに我々の柔軟性は想像以上に速く失われる。判断した結果、その残響が頭にこびり付くのだ。癒着したアイデアは日々の生活にあっという間に結びつく。始めはなめらかな液体だったものが、徐々に形を取り戻し、堅固な牢へと帰着する。イカロスの翼。鋼鉄のように堅い外套。自身が吸収し身体を形成するようになった材料を別の形で置換しているだけで、それが正しい保証なんて1ミリもないのだ。己が正しいと信じることこそが正しさの唯一の証なのだから。
車にうまく乗るには、自己を拡張すること。自分の外側の境界を車の表面と一体化させること。これがコツだ。さもなくば縁石に擦った車の部品が、路肩に派手に飛散することになる。車に乗っているときは、自分=自分の乗っている車になるわけだ。少なくとも運転に集中してさえいれば、ほんの一瞬だけでもそのような時間が訪れるはずだ。あのなんとも言えない浮遊感とある種の高揚感と一抹の違和感、そして奇妙な一体感、これこそが我々の正体である。正確に言えば我々の乗っている車なのである。我々は別々の車両に乗っているわけではなく、一つの同じ車に乗っている。私とは車なのだ。いつまで車に乗っているつもりなんだ? はやく降りなさい。いつまで車から降りているつもりなんだ? はやく乗りなさい。果たして我々はその車に乗っているのだろうか? それとも降りているのだろうか?
車とは、ある生である。だから、「ひとりの生とは、個人が誕生してから死ぬまでである。ひとつの生とは、徹底的に個人によって引き受けられる。何人たりともあの死に干渉する事は出来ないし、逆もまた然りだ。」という言説を几帳面に信じていることははっきり言って馬鹿げている。言説の内容が馬鹿げているわけではなくて、ひとつの仮説が異常なほど偏重されていていることがである。これは、信仰のバランスを崩してしまっている事を批判している。
なるべく楽な方、楽な方へ逃れようとする歩みをふとした拍子にピタッと止めて後ろを振り返ってみるべきだ。それって本当なのか? それがいくら正しそうに見えようが間違ってそうに見えようが、誰もが支持していようが誰も支持していなかろうがとりあえず。出会い頭の社交辞令のようにその言葉をただただ繰り返すのだ。
ひとつの生とは、よく分からないうちに始まり、よく分からないままに終わるのだ。何かを確定するには余りにも短すぎる。そして混迷を抱え続けるには余りにも長すぎる。
断定する事ができるのは道を見つけた新進気鋭の狂信者、道を慮る敬虔な宗教家、そして信仰すら忘れてしまった人々だ。信仰とは自他を結びつけることそのものだ。タクシーを呼べ! 深夜2時に真っ黄っ黄のタクシーを。ぱっつんぱっつん結びつきを切り落とし、個人を特筆的に浮かび上がらせたところでそれが何になると言うのだろう! 残されたのは、ひとつの影だけ。信じたくば永遠に信じ続けると良い。それが間違いなく自身のものであると。それが信仰なき身に出来る精一杯の贖罪だ。