後編
リュサナ・サイド
「でさ、さっきアンダル、おかしなことを言っていたけれど、」
この一年手入れに辟易しつつも必死で伸ばした髪を、大きな手のひらや節くれ立った指が優しく触れていく。リュサナはそれを眺めながら、ふと口にする。
「言っておくけれど、貴方は人の心の機微に疎い、面白みのない人間ではないわ」
「なんだ、急に」
「急にじゃないわ。以前から貴方はよく自分をそう言うけれど、」
アンダルが慰めてくれなくてもいい、という表情をするので、リュサナは心外だという表情を作って返した。
「幼い頃、私が熊に追いかけられたことがあったでしょう」
リュサナの言葉に、アンダルは斜め上を見上げながら、記憶を辿っていく。
幼馴染同士の二人の思い出は多くあるが、そのほとんどはいわゆる『リュサナ戦記』。好奇心旺盛なリュサナがあらゆるいたずらや無茶をやらかし、それをアンダルが諫め尻ぬぐいをし、運が悪い時には大人たちから何故か一緒に叱られることもあった。
アンダルからしたら割に合わない関係。まだ幸いなのは、リュサナが失敗から学ぶ賢さを持っていたことだ。
「ああ。お前は山の鍛錬に付いて来ていたんだよな。そこで運悪く子熊を探していた母熊に遭遇してしまって、追いかけられた…リュサナ、お前運悪過ぎだな」
リュサナが九歳、アンダルが十三ほどの年の頃。
狩りの鍛錬に出ていたアンダルと村の少年たち。そこに勝手に付いて来たリュサナが、鍛錬に夢中になっているうちに居なくなっていた。
そのときのことは彼が言うように、本当に運が悪かったとしか言いようがなかった。知らずうちにアンダルから離れてしまったリュサナは、熊から逃げて切り立った岩に登っていた。岩とはいっても、傍の崖からいつか落ちて来たのだろう、そう高くはないもので、熊が立ち上がった背よりももう半身だけ高いくらいだった。
気が立っていた母熊は興奮する余り、後ろ足で立ち上がると執念深くリュサナに向かって鋭い爪を振っていた。そうする度に、岩が僅かに揺れることが輪をかけて恐怖を誘う。
アンダルは姿を消したリュサナに気付き、すぐに一緒に来ていた少年たちに大人を呼びに行くように言った。そして、自身はリュサナを探し出し、その事態を収拾するために動いた。
――腰に佩いていた皮剥ぎ用の小さなナイフだけを持って。
「後から聞いて、正気じゃないと思ったわ。ナイフ一つで、熊を討とうなんて私でも思わない」
「仕方がないだろう、それしかなかったんだから」
事も無げにそう言うと、アンダルは片手で寝台の隣にある水差しを取った。
彼には本当にそれしか答えがないのだろう。そう言ったきりのアンダルの横顔を見ながら、リュサナの意識は過去へと引き戻されていく。
二人は親同士が同じ猟師をしていて、幼い頃に自然と引き合わされた。
良くも悪くも子供らしいリュサナは、自分の年の離れた兄姉たちよりも自分に年の近いアンダルに心躍った。
自分よりも大人びた顔立ちで、静かな夜明けの色をした瞳を持つ少年。
彼が初めて自分の名を呼んだとき、兄姉たちが呼ぶのとは少し違う響きがしたのを覚えている。
ま、そのあとは血の繋がった兄姉たちよりもたくさん自分の子守りをしてくれたのは、間違いないのだが。
「…本当に無事でよかったわ」
結果、アンダルは鋭い爪に皮膚を切り裂かれながら相手の目一つにナイフを突き刺し、痛みに暴れ狂う熊と戦い続けた。そして、駆け付けた大人たちの手によって、熊に止めが刺された。
しかし、それまで対峙していたアンダルはそれを見届けることなく、血だらけでふらつきながら岩の傍にやって来ると上へと手を伸ばした。
「貴方、あのとき私に何したか覚えてる?」
再び斜め上を見上げるアンダルは、リュサナの問い掛けに首をひねった。
当時の記憶は正直あまり覚えていないと、アンダルは以前も言っていた。それほどまでに命を懸けた時間だったのだ。
事件を知る少年たちや大人たちからは、血だらけで熊と戦っていたという武勇伝仕立ての話しか聞かされていない。
リュサナとの間に何があったかなんて、リュサナ自身も話してこなかった。
だが、改めて訊かれると不安になるようで、アンダルは窺うように首を振った。
「血だらけの手で私を岩から降ろして、頭から顔、首、肩、腕、胸、尻、脚…ってぐるぐる私を回しながら、私の体を触り始めたの」
「な…っ、嘘だろっ」
勿論、幼いと言えども未婚同士の男女が体を触るのは常識的によくはない。
リュサナが知る限り、アンダルは二十歳になる今まで、意を持ってそれを破ったことはなかった。
まあ、婚約期間のこの一年は、少々は目を瞑ってほしいものだが。
「俺は覚えていないが、決してやましい気持ちは」
「分かっているわ」
焦るアンダルの手を、幾分温度の低い手で取る。自分の手より一回り大きい武骨な指。リュサナは傷だらけのそれを、丁寧にゆっくり撫でる。
「…貴方が傷付いて血だらけになっていくのを、私は岩の上で見るしかできなかった。なんで自分がこんなところにいるのか、なんで貴方が熊とナイフ一本で戦っているのか…ぐるぐる考えるのに、結局出てくるのは震えと涙だけだった。私の代わりに傷ついたのに、そんな貴方は血だらけの手で私の体を撫でていくの――怪我がないか…確かめていくの」
涙と鼻水にまみれた傷だらけの少女と、その体を血だらけの手で撫でていく血だらけの少年。
けれど、無事だと分かった途端、アンダルの険しかった表情が安堵に変わったのを目の当たりにした。
「――ああ、思い出した。気が付いたら、リュサナが首にしがみついて泣いていた。さっきみたいに…震えながら抱き着いて来た体があまりに熱いから、病でももらったのかと心配になったのを、覚えている」
アンダルは少しぼんやりとした声色でそう言った。
同じ記憶を持っていたことに、リュサナは小さく笑んだ。そこにある記憶が、言葉からも優しさに満ちているものだと感じ、瞼の裏が熱くなる。
「貴方は言ったのよ――『無事だな』って」
そう言ったアンダルは言葉の通り満身創痍で途端に眠るように倒れ、そこから丸一日寝床に入ることになった。次の日の朝にはすっきりと目覚めたアンダルはそのときのことを覚えてはいなかったが、リュサナにとっては大きな出来事だった。
それはもう、一生忘れることがない出来事になってしまった。
自分を守るために、命を懸ける人間がいる。
それに気付いてしまった。
幼馴染が自分を大事にしていることは知っていた。けれどそれが幼馴染に対するものか、異性に対するものなのかどうかなんて、まだ幼いリュサナには知りようがなかった。知りたいと思っていたのかさえ分からないほどに幼かった。
けれども、ただ、それがどれ程のものか知ってしまった。
本来なら目に見えるはずのないものを、血の匂いが漂う中でリュサナは捉えてしまった。自らの命を賭してまでも自分を守ろうとするアンダルの姿を。
彼が自分をどう思っているのか分からない。けれど、それはきっと好きとか、恋とかでは言い表せない。
そして同時に、自分の気持ちにも気付いてしまった。
アンダルに振り下ろされる熊の爪を見て、リュサナは岩についていた傷だらけの足に力を入れていた――守らないと。
リュサナの目に、やって来た大人たちがアンダルを庇い、熊を討つ様子が映った。あと一歩大人たちが遅れていれば、リュサナは熊の前に身を投げるつもりだった。
それをアンダルに言ったことはない。叱られるだけだから。
「貴方は分かっていないのよ。自分の情の深さを」
リュサナは泣きそうな顔で微笑んだ。
「幼馴染というだけで、一度懐に入れた人間は大事にする。私がお転婆だったときも、貴方は私を心配で叱ることはあったけれど、バカにしたことはなかったわ。そこにはずっと優しさがあったのを知っているもの。我儘な幼馴染の面倒を見られる人間に、心の機微が分からないなんて嘘でしょう」
暗闇に漂う香が、空気の動きに合わせるように香り始める。寝台に腰掛けたアンダルの前に、両手を繋いだまま、リュサナが立ち上がった。
「貴方は女の口説き文句は知らないだろうけど、女は確実に落としたわよ」
目線を合わせるように、お茶目に笑いながらアンダルの額に口付けた。きょとんとした表情のアンダルは、自分がされたことに一歩遅く気付いて、照れたように僅かに視線を逸らした。
暗闇にも浮かび上がる屈強な大きな体。焼けた肌は陽の下では金褐色に輝く。男兄弟が多いわりには粗暴なところもなく、見た目も悪くはない。
そんなアンダルは村を率いる若者の一人で、彼に嫁ぐことを望んでいた女性を何人も知っている。広くはない村で、彼に言い寄る女性を遠くから見かけたこともある。
けれど、それをとやかく言う立場にリュサナはいなかった。年頃になった頃には、リュサナにアンダルが関わることが少なくなった。熊の事件以降、リュサナがお転婆ではなくなったからだ。
「お前が俺の周りにちょろちょろしなくなったから、その…俺に興味がないのかと」
もごもご言う相手に、リュサナは小さく笑った。
「私がお転婆だったから貴方を怪我させてしまったのよ。本当に後悔して…だから、表立ってはお転婆するのは止めたの」
「『表立っては』…?」
「父の元できちんと修練しただけよ」
「いやいや、親父さんの元って…村一番の狩り手じゃないか。お前…裏でなんてことをしてんだ」
ちょっと引いている。いや、結構褒められてもいい気がしているのだが。
熊の一件で流石に父に拳骨を落とされる覚悟だったのだが、怒りと呆れ心頭の奇妙な共存を成し遂げた表情の父から、拳骨の代わりに一か月謹慎を言い渡された。
言い渡されずとも、アンダルに合わせる顔がなかった。一度お見舞いに行って謝罪をすることを許されたが、包帯で肌の色が見えないほど巻かれたアンダルに絶句した。あっけらかんとリュサナの無事を確認するアンダルに、震える声でようやっとの思いで謝罪をし、半時もせずに家に帰った。
そこから、リュサナは決して変えることのない――決断をした。
「…その修練のおかげで、あれ程の『持参金』を用意できたのか」
あまりに呆然とした様子でアンダルが言うものだから、少し笑ってしまう。花嫁のそれを苦い表情で見返し、彼は小さく溜息を吐く。
「お前の親父さんから婚姻話を出されたというのに、親父さんから俺に条件が出されていたんだ」
「条件?」
そんな話は聞いていない。小首を傾げて訊く相手に、アンダルは繋いだままの手をにぎにぎと揉む。
「親父さんから出されたお前との婚姻を結ぶ条件、半年で熊四頭を討ち取ることだったんだぞ」
そうだったのか。やけに家に熊の毛皮があるなと思っていたのだが、そういうことだったのか。
アンダルの様子からして、さすがの彼でもその条件内容は随分と大変だったみたいだ。さらに数年掛けて花婿は花嫁を迎える準備をするけれど、彼は何をどうしたのか一年でそれらすべてを準備してくれた。
自分と会っても愚痴一つ言わずにせっせと熊を狩り、迎え支度をしていたのかと思うと、胸の奥からじわじわと甘い疼きが生まれてくる。
「アンダル」
呼ぶと目線を上げて、こちらを見つめてくる。その瞳に優しい温もりがある。それだけでまた、この胸は高鳴っていく。
「私は二度と、アンダルを犠牲にはさせない」
リュサナは握った両手をさらに包み込む。そして、ゆっくりと額につけた。
「何かがあったときには、私は共に戦う。共に傷つく――その覚悟を持って私は来たの」
顔を上げたリュサナに、アンダルの目が見開かれる。
もう二度と、自分の目の前でアンダルだけを傷つけさせない。
守られるだけの自分でいるのは、許せない。
守られる側ではなく、共に戦う。弓を持ち、剣を振り、体が動く限りに共に。
時には守りきることができないこともあるだろう。けれどそれなら同じ傷を負う。
アンダルだけ傷を負い、自分が無事なんて許せない。
あのとき、岩の上で必然的に目覚めた思いは、今もずっと心の奥に灯っている。
岩にかけた足は、ずっと力が入ったままだ。今度はいつでも飛べるように。
…けれどアンダルがそれを望まないのは分かっている。
自分が思うように彼も思っているはずだから。
だからこれは妥協点だ。
互いが互いを唯一にするための、妥協点。
リュサナはゆっくりとその唇に弧を描く。
「返事は?」
花嫁の挑戦的な目に、黙っていたアンダルはふはっと笑う。途端にいつもは鋭い目が優しい青年になる。
リュサナは小さい頃それが他人に知られるのがなんだか嫌で、彼を笑わせるのは二人きりだけの時にしていた。
なんだ。今から思えば、もう随分幼い頃から彼が好きだったみたいだな、なんて考えていたら、リュサナの両脇に手が差し入れられた。ぐっと持ち上げられて、足が床から浮かぶ。
「う、わっ」
アンダルがリュサナを思い切り持ち上げて、ぐるっと回った。
「な、うわっ」
「お前、いい女だなぁ」
感極まった声で、満面の笑みのアンダルがそう言った。そんなことを言われ慣れていないリュサナは、え、と頬を赤くすると、両脇を支える手が緩む。そのまま、ぼふっと立ったままのアンダルの上に体が落ちた。胴回りを力強い腕にぎゅっと抱きしめられた。
「――お前を落とせてよかった」
「…そこ?」
ふはっと再び笑う声が、胸の下からする。ん? 胸の下?
「ちょっと、どこで話してるのよ」
「お前の胸の下」
「や、やめて」
「なんで?」
なんで、とな? 心底不思議そうな声色に、リュサナは眉根に力を入れる。背を殴ろうにも足が浮いているから、どうにも…それに花婿を殴る花嫁はいかがなものか…。
「む、胸がないから…」
小さくなるリュサナの声に、また胸元でぶはっと空気が爆ぜるような笑いが聞こえた。腹が立つ。
「そんなことない。俺よりある。大丈夫だ」
「大丈夫だって…なによそれ」
「柔らかくて温かくて…お前の鼓動が聞こえて安心する。…あ、速くなった。あ、やめろ、殴るな」
ようやく胸から顔を離したアンダルは、満面の笑みだ。その笑みに不意にリュサナは振り上げた腕を下して、硬い体を抱き締める。
――やっとこの腕に来られた。
もう二度と帰って来られないかと思ったときもあった。それほど彼とは離れ過ぎたのだ。村の中で話すことはあまりなかったし、いつどこかの娘と婚儀の話が出てもおかしくはなかった。あっという間に誰かと婚約し、子供ができて、彼は二度と自分とともに時間を過ごすことはないのかもしれないと。
「アンダルを、大事にする。誰にも取られないように」
目を瞑って、寝間着から覗くアンダルの首に頬を寄せる。湯冷めしてしまった体には、彼の未だに熱い肌が心地良かった。
「誰に取られるというんだ」
体がゆらりと傾ぐ。そのまま、柔らかな寝台に横たえられた。寝具に広がる自分の髪を押さえないように気遣ってか、ゆっくりとアンダルは覆いかぶさってくる。
「お前が俺を誰かに取られるとか有り得るのか。俺はお前を誰かに取られるなんて有り得ないぞ」
不服さを示すように、わざと鼻にしわを寄せて見せてくる。くすりと笑って、リュサナは穏やかにその頬を撫でた。
「私は不確定なことは言わないようにしているの」
「俺もだぞ?」
何を言っているんだ、と言わんばかりの表情で、アンダルはこちらを見下ろす。
「俺もできないことは言わない。この二十年お前と出会ってから俺がお前以外の誰かを求めることは一度もなかったし、俺自身俺の性質上一つのものに執着したら終いなのは分かってる。実際お前が俺を選ばなかったら独り身でいる話は両親にも通していたからな」
「え、執着? …え、独し…え?」
「まあ、お前相手じゃないと孫の顔は見えないんだからな、仕方がない話だ」
「え、私相手…え? え、孫?」
リュサナが目を丸くして驚くのを見ながら、アンダルは何事もないように言葉を続ける。
「それにお前を誰かに奪われる気なんて一切ない」
言葉を失ったリュサナの前髪をアンダルはゆっくりと退け、静かに口づけを落とす。柔らかな感触に瞼を閉じると、今度はそこに。続けて目じり、こめかみと移動する。
「そんなことをさせるはずがないだろ?」
断言する相手は、そう言って不敵に笑った。
もう随分と暖まった寝室に、遠くから聞こえてくる宴の賑わい。
そこにいるだろう彼の両親たちが、実はこの婚儀に一番必死だったのかもしれない。
彼らの息子さんは今、とても上機嫌な猫のように瞳を細めてこちらを見下ろしているが。
「――なぁそうだろう、猛々しい花嫁殿」
そう言う優しい声色とは全く異なり、夜明けの瞳がゆらりと熱を持ち始めた。
――どこが口下手なんだ。心の中で盛大な突っ込みを入れる。
しかし私は知っている。
結局は私はやれやれとこの獣を受け入れるのだ。
随分と願い待ち続けた――愛しい獣を。
これにて完結です。
猛々しい花嫁。そして意外と猛々しい花婿でした。
読んでいただいて有難うございました。