前編
初投稿です。よろしくお願いいたします。
「「はあ…」」
朝からずっと詰めていた息を、どちらともなくゆるゆると吐き出した。
二人の寝室として用意したこの部屋。すでに暖炉には薪がくべられ、静かに爆ぜる音がする。その度に、辺りには熱とともに仄かに温かな色が放たれていた。
冷たい寝台に、両端に背中合わせで腰掛けた男と女。互いに湯浴みを終えた寝間着には、ゆるりとした湿気が纏わりついていた。
男の疲れて落ちた視線は、模様さえ見えないさらに暗い絨毯に縫い付けられた。暖炉の色が広がらない部屋の隅。そこには真新しい家具が並べられている。
今日、婚儀が開かれた。主役はこの男と、そしてその後ろにいる女。
村の皆から祝福され、祝いの言葉を溢れるほど掛けてもらった。ついでに酒も。
宴の席では、自然と花婿は男たちに囲まれた。未婚の昔馴染みたちからは、羨望と何故か同情染みた眼差しを向けられ、既婚者たちからは老いも若きも皆こぞって夫婦の苦労話を聞かされた。彼らは口を揃えて女の尻に自ら敷かれよ、と説き、それを遠くから監視するように眺めるその妻たち。彼女たちの中央には、今日自分の妻になった女がいた。同じように男への苦労話を聞かされているのだろう。
…夫婦初の共同作業は、既婚者らの話の審議から始めなければならない気がする。まぁ、男たちからもたらされる話の内容は、気の利かなさを自負する自分からすると、今後間違いなく為になる話なので有難く拝聴した。
そして、隙を狙ってかけられる、また祝い酒。かけるより飲ませてほしい。
婚儀の衣装を汚さないようにするのに苦心した。
「「ふぅ…」」
ようやく気を緩められた所為か、再び二人の吐く息が重なる。
ついさっきまでその祝いの場にいた二人。
宴は主役が引いた今でも繰り広げられている。この静かな寝室には、遠くの楽し気な宴の笑い声や歌が微かに聞こえてきていた。
「ねぇ、」
首を回らせて家具の不備はないか様子を確かめていた男の耳に、不意に背後から女の声が響く。
「――貴方は望んでいなかったのでしょう、この結婚」
彼女の言葉に、男は瞠目して背後を振り返った。
「何を、」
言葉を失う男の目に、長い髪を垂らした女の小さな背が見える。信じられない気持ちで言葉を続けようとしたが、男は一度小さく息を吸った。
いや。と気付く。そうではない。男は今朝から女の違和感を感じていた。婚儀が開かれるというのに、花嫁の表情は最初から険しいものだった。
男はいつもとは違う女の様子に、すぐに話をしようとした。しかし、花嫁はそれを目で制していた。婚儀事態の中止を望んでいるわけではない様子と、婚儀が始まってしまったことで、男はそのまま黙することになった。
こんな田舎の婚儀にも関わらず、村の習わしで一日を掛けて祝いの場は設けられる。とにかく、隣にいる相手に話しかけることさえ困難なほど、過密な進行で事は運ばれる。次誰かが婚儀を開く際には、必ずこの主役殺しの進行を改めさせようと思ったほどだった。
兎にも角にも、ようやく女の違和感の理由が訊けると、逸る気持ちを抑えて唾を飲んだ。
「何故、そう思うんだ」
何か行き違いをしているのか、自分が何かをやらかしているのか。しかし最悪なことに、その原因に全く身に覚えがない。不格好な自分の問い掛けが、目の前の薄暗い闇に霧散する。女の肩越しに白い物が浮き上がって見えた。
壁に掛けられた――この暗闇でも煌めく金糸の入った二つの揃いの衣装。
着物の背には、白い生地によく映える刺繍があった。
コンセントリッジと呼ばれる雌雄鳥と、緑の蔓を持つ植物シュエンダ。
そしてそれらを覆いつくすように美しく広がる、彩り豊かなシャカンガの花々。
一生に一度、夫となる男とともに揃いの衣装に袖を通すことを、この村の娘たちは夢見る。そして、その来るべき日を迎える為に、一年掛けて自分で糸を紡ぎ、生地を織り、刺繍を施すのだ。
「貴方は断ったじゃない」
責めるような声色に、アンダルの表情は困惑に染まった。
「何をだ。何のことだ」
分からない相手の言葉は、無性に焦りを生む。畳みかけるように言葉を発した己の幼さに、はっとする。そして、そのまましばらく考えていたが、心当たりを発見したアンダルは、振り返った体を元に戻した。そして細いため息を吐いた後、片手で目を覆った。
「…妻が持参金を持って嫁ぎ先に来る、それが習わしなのは俺も分かっている」
これはこの村に住む者なら誰もが知っていることだ。
この村では婚約すると、男は数年掛けて婚儀にかかる費用を自らの手で稼ぐ。新居と家具、身の回りにかかるすべての物を用意して花嫁を迎えるのだ。
そして花嫁となる女の家では、まずは親が持参金を用意する。それは花婿とともに相談された額のお金や品物が納められるのが一般的だった。
「でもそれを、アンダルは断ったわ」
村の習わしに反して、アンダルは花嫁側からの持参金を不要だと断った。アンダルもこの婚約が決まってから、父からも親戚連中からも持参金やその習わしについて重要性を説かれていた。ただの金のやり取りではない。それを行うことで、家と家の新たな結びつきを強固にするのが目的なのだ。ひいては、花婿に身一つで嫁ぐ花嫁の身を守る盾となるのだ、と。
しかしアンダルは頑としてそれを良しとしなかった。
「貴方からの手紙で最初父がどんなに憤っていたか。きっと娘の持参金を用意できない婚家だと周囲から判断されると思ったのよ。最後は口にも出すことはなくなったけれど。なんで…」
意図を捉えかねた細い声。分かる。その苛立ちや困惑の奥にあるのは、ひたすらに『不安』だ。そうさせてしまっているのが自分なのだと思うと、アンダルは拳で膝を打ちたくなった。
本当に気が利かない。俺は本当に、愚かだ。本当に。どうしようもなく。
「――…らん」
「え」
寝台が揺らぐ。そして後ろで衣擦れの音が聞こえた。
溜息を吐きそうになるのを寸でのところで止め、目を覆っていた手を下した。
「お前を娶るのに金など要らん、と伝えたんだ」
「え?」
自分の横から顔を覗かせた彼女――リュサナ。前のめりで聞き返した彼女の長い髪が、ふわりと揺れた。薄暗い中で美しい黄緑色の瞳が訝しむようにこちらを見る。
「俺は人の心の機微に疎い、口下手だ。女が欲しい口説き文句も分からん」
頷く様に丸い小さな頭が何度も上下する。長い髪がわっさわっさとともに動く。
この幼馴染の反応が正直すぎて、失礼だ。
「今回の縁付きが決まったときお前は驚いただろうが…それでもお前を嫁にと話が上がったとき、俺は迷わず受けた」
先ほどまで酒で潤んでいた喉が干上がっている。真横で胡散臭そうな表情で見られているなら、なおさらだ。この一年の間に二人は何度も顔を合わせ、話をしたというのにこの手の話は話題に上がったことがなかったのだ。家同士で話が決まると、淡々と事は進んで行く。
そういうものだと思っていたからだ。少なくとも、アンダル自身は。
カラカラの喉で話しながら、無意識にまた手で目を覆う。
「どういう意味? それが何故持参金を断ることになるの?」
幼い頃と変わらない幼馴染の矢継ぎ早の質問の仕方に、変わらないな、と思った――反面、自分のこの言葉の足らない性分も変わらないことに愕然とする。
「…俺は図体がでかいばかりで気が利かない、何の面白みのない人間だ。自分でも分かっている。一方でお前は昔から弓を渡せば遊び代わりに兎を狩り、剣を渡せば猪を討つようなお転婆だったが」
話す合間に肩を叩かれ、煩いわね、と慣れた突っ込みが入る。地味に強い。痛い。強い。痛い。痛い。
「それでもお前は素直で、少々煩いところがあるが気が優しい。昔から周囲に馴染み、人から好かれるお前と俺が釣り合うのは歳くらいだ」
頬が熱い。これは目を覆う手の熱のせいだけではないだろう。
そして、言わずとも、胸は異様に速い律動。
これは…――
「――あ。」
「え?」
思わず口から零れ出た音の形のまま、アンダルは固まった。
気付いてしまったのだ。『それ』に。
彼女が不安になったきっかけは、持参金だった。
そして、彼女が本当に不安になっている理由を明確に理解した。今。唐突に。
「え、何なに?」
不安そうに声をかけてくるリュサナの手が、肩に触れる。その指の細さに胸がムズムズする。アンダルはごほん、とあからさまな咳をした。
「他の男のところへ行かれないように、俺にできることは誠意を見せることだと思ったんだ」
反射的に、口を閉ざしてしまいたくなる。
耳も閉ざしてすべてから逃げ出してしまいたい――そんな衝動を、ぐっと噛む 腹に力を入れることで耐える。
いくら人の心の機微に疎いと言えども、今は逃げてはいけない場面だということは分かっている。好いた女が不安がっていることに気付いて見過ごすような、愚かな男でいるわけにはいかない。
「持参金など要らんから、お前身一つで嫁に来てくれと…俺にとっては、お前はそれほどまでに価値がある」
手を下した向こう側には、目を見開いた彼女の顔が見えた。
もう一度腹に力を入れ、アンダルは真っ直ぐにその美しい瞳を見つめる。
「――リュサナ、お前と夫婦になりたい。俺の元に来てくれ」
小さな頬に手を触れると、艶やかな手触りと一緒に涙が落ちてきた。
黄緑の瞳がくしゃりと瞼の向こうへ消える。きれいに整えられていた髪が乱れるのも構わず、リュサナはぶんぶんと首を縦に振った。頭に血が上るんじゃないかとアンダルが心配になった途端、がばっと抱き着かれた。
「私も、同じ…っ」
さすがリュサナ。求婚に対するなんとも端的な返しに、アンダルは苦笑する。
しゃくり上げるように揺れる背をそっと撫でた。縋り付いてくる小さな体が、とても熱い。
そういえば幼い頃、同じようにリュサナが抱き着いてきたことがあった。あのときも泣かせてしまっていたような気がする。やはりちっとも成長がないな、と小さく笑いがこぼれた。
「でもアンダルは私に何も言ってくれないから…っ、幼馴染が嫁に行けないから、昔のよしみで貰ってやろうとしてるのかと思って…っ」
「いや、お前それは流石にないだろ」
「アンダルならやりかねないと思ったのっ」
それはあんまりではないだろうか。一生が掛かった問題だというのに。
自分がやりかねないようなやつだと思われていることとリュサナの言い草に、地味にショックを受ける。
「貴方は優しいから、」
「優しくはないだろ、お前を泣かせているのに」
こちらの寝間着の袷でぐりぐりと額を擦り付けたまま、リュサナは首を振る。
「アンダルは昔から面倒見がよくって、優しい人だわ」
改めてそう言い切られ、アンダルはそうか、と頬を指で掻く。
村の誰かに優しいと言われたこともないし、別段自分は優しい人間であると思ったこともないが、そう思わせている何かがあるとするなら、きっとリュサナが相手だからだろう。
昔は親同士が引き合わせた年下の女の子に、幼心に優しくしようと思っていたように思う。それがいつの間にか、リュサナだから優しくしたいと思い始めていた。
それは本当に、いつの間にか。
「…でも、ずっと」
アンダルの腕の中から、リュサナが体を起こす。
「こうして貴方の元に来るのを、ずっと夢見てた…っ」
暗闇に浮かぶ、彼女の顔。
幼い頃から見続けて来た、無邪気な笑顔だった。
花嫁とその家が嫁ぐ前に行うことは三つ。
一つ、『花嫁は嫁ぐ日まで髪を切らないこと』。
綿菓子のようなその髪を、手入れが大変だと文句を言いながら、彼女は丁寧に伸ばし続けていた。会う度に徐々に長くなるその髪を見ると、痛みにも似た胸の奥に広がる甘さを感じていた。
二つ、『花嫁を出す家は持参金を用意すること』。
口下手な花婿の所為でそれを用意することを断られた家の代わりに、今朝彼女は美しい笑顔とともにやって来た。
熊一頭、猪五頭、狐七匹、兎十三羽。そして、手に入れることが難しいとされる、美しい羽根色を持ったシュワンギと呼ばれる貴重な鳥を二羽。
それらを台車に乗せ、自らの手で狩った証としてか、背に長い弓矢と剣を婚姻衣装に携えて、彼女は嫁いで来た。
祝いに来た者皆が顔色をなくして花婿のアンダルを一斉に振り返るほど…相当な怒りを湛えた目で。
…嘘だろ。アンダルは久しぶりに血の気が引くのを感じた。
自分の元にやって来たのは――到底、嫁ぐ目じゃない目をした花嫁だった。
「全くもって、昔からお前には敵わない」
アンダルがリュサナの頬を撫でると、くすぐったそうに小さく笑う。
リュサナが笑うと、いつも花が咲いたように視界が明るく見えた。
すると、呼応するようにこの心が甘く、温かくなる。
――三つ、『花嫁は嫁入り日までに、自らの手で婚姻衣装を作ること』。
壁にかかるその衣装が、とても丁寧に美しく調えられているのは男の自分でも分かった。
コンセントリッジの雌雄鳥は、互いを唯一とする夫婦鳥。その周りを囲うように緑蔓を這わせるシュエンダは、神からの祝福木と呼ばれている。
そして、衣装全体に散りばめられたシュカンガの花。それは神の手により生み出され、その様々な色が人生を表すという。
今どきの花嫁は幸福、祝福、門出を表す色の花だけを刺繍することが多い。
幸多き未来を夢見て。
しかし、今朝現れた怒れる目を持ったこの花嫁は、苦難、障害、試練などの花も厭わずそこに調えていた。それがどれほど、この口下手な男の胸を打ったか知らないだろう。
――彼女だ
その衣装を目にした時、腹の底から聞こえた。
――彼女が、俺の『唯一』だ
「俺は昔から、お前しか見えてない」
気の利かない男がそう伝えると、びっくりしたように黄緑色の瞳が見開かれた。
この衣装のように、美しく咲き誇る花々がこれからの人生を彩るだろう。
自分の全てを飲み込むそれらは、彼女とだけ咲かせることができる。
一生を掛けて全て余すところなく互いに咲かせよう。
それがどんなものであっても、きっと受け入れる。
「それは、光栄だわ」
綻び咲いたシャカンガの花のように、花嫁は頬を染めてふわりと笑った。
出てくる鳥や植物の名前は、創造です。物語の時代も、国も、背景もです。
読んでいただいて有難うございました。