其の参
「そこからまた、どうして『狐狸が人に化けて殺した』だなんて話が出てくるのかしらね……」
一応、補足していうのなら。
光る君もとい、覆面の殿上童の言葉が信用されなかった、というわけではないらしい。
むしろ、検非違使たちは「一理ある」とさえ考えて、甥っ子の文章生から元武官の男へと、疑いの比重を大きく傾けたのだという。
そうなれば、取り調べる検非違使たちにも、自然と熱が入るもの。
すると、元武官の男は、突然こんなことを言い出したのだという。
『恐ろしくて、ずっと言い出せずにいたのだが……。本当は昨日、おれはあの屋敷に行ってはいないのだ』
『おれが最後にあの屋敷を訪れたのは、もう二年も前のことだ。返済を迫られると分かっていたから、昨日の呼び出しには応じなかった』
『もしも、現場付近でおれの姿を見たという者がいるのなら。それは狐狸のような化生の類が、おれの姿に化けていたのに違いない』と。
これには命婦が「まぁ、なんと恐ろしい……」と震え上がる。
脩子の瞼はぐぐっと下がって、しまいには半眼になった。
「……あー、念の為に聞くけど、それを証明できる人は、いたのかな」
「いいえ。自宅に一人でいたというので、証明できる人はいないそうです」
その上、男はこうも主張したという。
『それに、あの池の飛び石の間隔は、広くも何ともないだろう。おれはこれでも、元は武官だぞ。いつか再び任官されることを願って、今でも体は動かし続けているし、あんな狭い間隔の飛び石を踏み外すほど、落ちぶれちゃあいない』
『きっと狐狸が化けていたから、人の身体での目算を見誤って、池に落ちたに違いない』と。
全くもって、無茶苦茶な言い分である。
脩子は痛むこめかみを揉みほぐしながら「さすがは平安時代というか、何というか……」と、小さく呟いた。
古来、人は鬼や妖怪、神や怨霊といった存在を、当たり前のように信じ、そして心の底から畏れていた。
平安時代というのは、そういったモノたちが、日常的に跳梁跋扈していた時代なのだ。
それらは決して、現代のようなエンタメの中の存在ではなく、本当の意味で生活を脅かす存在である。
たとえば雷鳴。電気というものに理解がなかった時代であれば、それはさぞ不可解で、恐ろしい現象に見えたことだろう。
たとえば、かまいたち、陽炎、逃げ水だって、原理原則を知らなければ、当然奇っ怪な現象として映るに違いない。
原理が分からないからこそ、分からないなりに、正体不明のものに理由を求めた。それが鬼であり、妖怪であり、神で、怨霊といった存在なのだ。
彼らはその漠然とした畏怖の対象を、総じて〝物の怪〟と称したのである。
(それを、前時代的と侮ることは出来ないけれど……)
たとえば令和の初頭に、コロナウイルスが猛威を振るったことがある。
得体の知れないウイルスに、錯綜する情報。
世間に広がる漠然とした不安に、恐怖感。
正体不明の何かが日常を変えていき、名状しがたい閉塞感が世界を包んでいく。
きっとあの感覚こそが、鬼で、妖怪で、神で、怨霊の正体だったのだ。
その時代の科学や医学が敗北してしまえば、現象や病は、あっという間に物の怪の類へと成り下がる。その程度の話だ。
入郷而従郷、入俗而随俗。郷に入っては、郷に従え。
この時代において、異質なのは脩子の方なのである。感性をチューニングしなければならないのは、脩子の方だと分かってはいるのだが──。
こと殺人事件なんかにおいても、そういったモノのせいにされるのは堪らない。
そう思ってしまうのは、もうどうしようもなかった。
「あー、つまり、目撃された男は、狐狸が自分に化けた姿だった、と……。検非違使たちは、それを本気で信じたっていうのかな」
「うーん、どうだろう。今のところ、全員が信じたってわけではないとは思うんですけど。でもその元武官は確かに、今でも体を鍛えていると一目で分かるような、体つきではあるそうで……。それに、現場に行った検非違使たちも『確かに、あの飛び石を落ちるか?』と、首を傾げているんですよね」
湯呑みをくるりくるりと弄びながら、光る君は続ける。
「だから僕、つい気になって、実際にその池を見に行って来たんです」
「え、きみ、わざわざ見に行ったの?」
目を丸くする脩子に対し、光る君はじとっとした目でこちらを見遣る。
「だって、しょうがないじゃないですか。僕の説明で足りない情報があると、宮さまは一人で確かめに行こうとするんだから」
光る君の恨みがましい視線に、脩子は「そりゃあ、気になってしまったら、確かめたくもなるでしょう」と反論する。
やる気というものは、生ものに似ているのだ。やる気は湧いてきた時にすぐ使わないと、あっという間に腐ってしまう。賞味期限があるのである。
「一応、僕が持って来たお話なんですし。せめて、僕もいる時に一緒に行きましょうって、いつも言っているのに……」
そうぼやく顔には、『確かめに行くのを止めることは、もう諦めた』と書いてある。だが、脩子からすれば、不充分な情報を持って来る方が悪いのだ。
「だって、思い立ったが吉日なんだもの。たまたまその時きみが居れば、ちゃんと連れて行っているだろうに。たまたま居れば、ね」
「……宮さまがそんな風だから、気になることは先に確かめておかなきゃ、って。僕が躍起になる羽目になるんですからね」
不満げに呟く光る君は、大きな瞳を半分ほど瞼に隠して睨んでくる。
脩子はそれに苦笑で応じつつ「それで?」と話の先を急かした。
「その池、ちゃんと見て来たんでしょう。どうだった?」
「……はい。中級貴族の屋敷だし、池そのものは、中島があるほど大きな規模ではなくて。ゆるい瓢箪型の池が、庭の大半を占めているような形でした。飛び石の数は四つで、対岸まで渡されていたんですけど……」
「──けど?」
「飛び石同士の間隔は、確かに広くはないんです。むしろ狭いくらいというか……。大人であれば、大きく足を開けばなんとか跨げるくらいの間隔なんですよね」
光る君は、手で幅を表現しながら言葉を続ける。
「それに、一つ一つの飛び石も、結構大きな物だったんです。一番小さな岩でも、大人が二人同時に並び立つことが出来そうなくらいには。苔が生えているわけでもなかったし、滑ることも、小さな足場だから体勢を崩した、なんてことも考えづらくて」
光る君は、そこで一旦言葉を切ると、うーんと考え込みながら言う。
「いくら急いでいるからといって、大の大人がうっかり落ちるほどかな、というのは確かにその通りだな、と。ちょっと釈然としない気持ちも、分かるというか……」
「手足を不自由なく動かせる、しかも日常的に体を鍛えているような男が、果たしてその程度の間隔の岩から足を踏み外すだろうか、と?」
「そういうことですね。だから現場を見た検非違使たちの中には、元武官の言葉を信じ始めた人もいるみたいで……」
光る君の説明に、ふむ……と、脩子は顎に手を当て考える。
それから湯呑みを啜って喉を潤し、脩子は薄く笑った。
「それじゃあ、大の男でも飛び石から落ちてしまうことに納得できたのなら……。狐狸が化けた、なんて話を信じる人間もいないわけね?」
すると、光る君はハッと顔を上げ、期待に満ちた眼差しでこちらを見る。
そんな分かりやすい反応に苦笑しながら、脩子は再び口を開いた。
(続く)
【1章 3/4】