其の弍
「お二方とも、八つ時でございますよ。少し休憩されてはいかがです?」
そう声を掛けられて、脩子と光る君は揃って書物から顔を上げる。
見れば、王の命婦が御簾を引き上げるところだった。
彼女の手には、二人分のお茶と菓子が載った盆がある。どうやら随分と時間が経過していたらしい。
「わぁ、唐菓子ですか? 嬉しいな」
「えぇ。覆盆子もございますよ」
お菓子に目を輝かせるあたり、光る君もまだまだ子どもである。
そんな生温い視線を送っていれば、少年はむすっと顔を歪めて言う。
曰く『宮中で供される菓子は、何を盛られているか分からないから、迂闊に手を付けられない』とのことだった。相も変わらず闇が深い。
「命婦、お前も自分の分を持って来なさい。一緒に食べるのよ」
「あら、よろしいのでございますか?」
「ずっと集中していたから、気分転換にね」
ちなみに命婦は、抜け目なく脩子の手元を覗き見ながら出て行った。
これで、直前に読んでいたものが漢籍であったのなら、小言の三つ四つ、五つ六つなど飛んでいたことだろう。けれど偶然にも、手にしていたのが『竹取物語』の絵巻物であったから、今回は見逃してもらえるらしい。
程なくして、自分の分の菓子を持った命婦が戻って来ると、三人はそれぞれに土器の湯呑みを手に取った。そうなれば、ささやかな茶会の始まりである。
脩子は早速、朱塗りの高杯に載った唐菓子に手を伸ばした。
唐菓子とは、米粉を練って油で揚げた、中国伝来のお菓子だ。
「あ、見てこれ。偶然だろうけど、狐の顔みたいな形になってる。可愛いよね」
脩子はそう言って、平べったい唐菓子を掲げて見せる。
盆に載った他の不揃いな造作を見るに、狐っぽく見えるのは偶然なのだろうが。
こんがり揚がった色も相まって、その造形はどことなく狐を連想してしまうものだった。
唐菓子自体に特別な甘味はないので、野いちごを乗っけてぱくっと齧り付けば。
「可愛いと言いつつ、容赦なく食べちゃうんですね」と言って、光る君が笑う。
「なにさ。お菓子なんだから、食べるでしょう」
摘んだ唐菓子に視線を落とせば、狐の片耳はすっかりと根本からもげてしまっている。そこに、半端に齧った野いちごの果肉も載っているものだから、なかなかに猟奇的な様相を呈していた。
噛んだ時に弾けたのだろう、赤い果汁が残った顔にピッと飛んでいるのも、妙にリアルである。
そんな狐の惨状を覗き込んだ光る君は、少しの逡巡を挟んでから、やがてこう切り出した。
「ねえ宮さま……狐狸が人に化けて、誰かを殺すだなんてこと、あり得ると思います?」
唐突な上に、何とも物騒な話題の転換である。
だが、脩子はさして驚かなかった。それどころか「またか」とさえ思ったほどだ。脩子はため息まじりに呟いた。
「きみ、今日もまた検非違使のところに寄り道してきたの」
検非違使というのは、平安京の【非】法や【違】法を【検】察する官職のことだ。
平安京内における違法行為を摘発し、犯罪人を捕らえる、警察のような組織である。
検非違使たちが執務を行う役所は、大内裏の陽明門を出た目と鼻の先、左衛門府のすぐ隣にあった。内裏を抜け出す時、光る君はいつも、検非違使の陣所に寄り道してから脩子の屋敷にやって来るのである。
「あぁいやだ、またでございますか? 命婦は、血なまぐさいお茶請け話は嫌いでございますよ」
「だって命婦。宮さまったら、この手のお話にしか興味を持ってくれないんだもの。たとえば、承香殿の女御さまの所の女房が、左中弁の君と恋仲になった……なんて話題じゃあ、宮さまはぐーすか昼寝を始めるに決まってる」
「確かに、それは一理あるやもしれませんけれども……」
「まぁ、寝るだろうね」
そりゃあ、顔も知らない誰それのゴシップ話なんかより、ワイドショーの方が気になるのは仕方がない。
その上『狐狸が化けて人を殺した』などという面妖な話が出てくるくらいなのだ。きっとまだ、犯人は捕まっていないのだろうと思えば、
「気にならないと言ったら嘘になる、と言ったら嘘になる──」
「と言うのも嘘になるんでしょう、知ってます」
ややこしい物言いをしないでください、捻くれているんだから、と光る君は呆れ顔で湯呑みを傾ける。
「ちょうど、昨日起きたばかりの殺人事件があるみたいですよ。どうやら殺されたのは、元・河内国の国司だった男で……」
光る君はそう言って、検非違使から仕入れてきた事のあらましを語り始めるのだった。
◇◆◇
さて。その事件が発覚したのは、つい昨日の夕方のこと。
とある中級貴族の男が、自邸の屋内で殺されているのが発見されたらしい。
見つけたのは、男を賭場へ誘おうとやって来た知人たち数名で。その時すでに、屋敷の主人は絶命しており、彼らは慌てて検非違使を呼んだとのことだった。
「その、発見した知人たちが、犯人である可能性はないのかな」
脩子はそう口を挟んで、煎茶を啜った。
つまり、皆で結託してその男を殺し『見つけた時点で、すでに殺されていた』と口裏を合わせることで、互いを庇い合っているのではないか。そういうことである。
だが、光る君はすぐに首を横に振った。
「検非違使たち曰く、その遺体は、死後半日くらいは経過していそうだった、って」
「半日、ねえ……」
現代より余程、死体が身近なこの時代。
死後経過のサンプルは、その辺にいくらでも転がっているのであるからして。
検非違使たちの見立てというのは、意外と馬鹿にならないものだった。
「じゃ、殺してから半日待って、検非違使に通報した……というのは?」
「うーん、それも微妙で……。というのも、わざわざそんなことをする理由がないんですよね」
死んだ男は、元・国司といっても、最後に任官されたのはもう十年近く前のことらしい。国司の任期は四年が標準だが、男は数期連続で、除目での任官を逃していたのだという。
除目というのは、諸貴族に官職を任命する宮中行事だ。
除目で官職を得ることが出来なければ、ほとんどニートという扱いである。
当然ながら、給料だって碌にもらえない。
「彼は十年近く無官だということもあってか、もう使用人を雇う余裕もなかったみたいで……。妻子にも逃げられてしまい、屋敷に暮らすのは男一人だったんです。わざわざ通報しなければ、誰も死んでいることに気付かなかったんじゃないかと思うと……」
無職であるなら、出仕して来ないからといって、不審に思う同僚も存在しないというわけだ。
死亡後に日数が経てば経つほど、犯人の特定が難しくなるのは令和も昔も変わらない。確かに、わざわざこの男の死亡を公にするメリットは存在しなさそうだった。
「そういうわけで、検非違使たちはこの第一発見者の知人たちを、容疑者から外しているみたいです──というよりも、もっと疑わしい人が、他にいるみたいで」
「へぇ、そうなんだ?」
「はい。ちょうど、遺体発見から遡って半日程度の時間帯に、その屋敷を出入りした人物がいるらしいんです。それも、二人も」
光る君はそう言って、唐菓子を口に運ぶ。
「なんでも、男の屋敷が面している道に、朝から晩まで辻占売りが居たんですって。屋敷の門戸を見渡せる場所に、その辻占売りがずっと居座っていたものだから、怪しい時間に出入りした人間をすぐに特定できたのだとか」
辻占売りとは、古くは万葉集にも登場する、四辻(交叉路)で道ゆく人の吉凶を占う易者だった。
その辻占売りの証言によれば、屋敷を出入りしたのは、死体を発見した知人らを除けば二人だけ。
それも、その双方が、男が死んだと目される時間あたりに出入りしていたというのである。
「で、最初に訪れたのは、死んだ元国司の甥っ子、大学寮の文章生です。死んだ男は生活が苦しい状況だということもあって、この甥っ子に色々と無心していたみたいで……。それを、そろそろ返して欲しいと催促するために、やって来たのだとか」
要するに、ざっくり言えば金銭トラブル的ななものである。
とはいえ厳密に言えば、この時代は米や絹・布を現物貨幣として使用していたので、金銭のトラブルと称すると、やや語弊があるのだが。まぁ、関係性の把握としては、そのような理解でも問題はないだろう。
ところが、甥っ子曰く、叔父には会うことが出来なかったのだという。
庭から建物に向かって呼びかけて、しばらく待ってはみたものの、叔父が出てくる様子はなく。
甥っ子はそれまでにも再三、返済を求めていたために「催促されるのが嫌で、隠れているのだろう」と、その日は諦めて帰ったのだそうだ。
「次に訪れたのは、死んだ男と同じく今は無官の、元は兵部省に勤めていた武官です」
元武官によれば、二人はその昔、京の外れの賭場で知り合ったという。
死んだ男がまだ任官されていた頃には、懐にも余裕があったのだろう。武官が賭け事で出した損失を、男が補填してやったこともあるらしい。
「どうやら男が没落した今になって、あのとき貸した分を返せと要求されていたみたいですよ」
要するに、こちらも金銭トラブルのようだった。
死んだ男は、甥っ子に借りたものの返済を求められ。
それを返すために、元武官に返済を迫っていたという図式である。
金銭トラブルによる揉め事。一般的な殺人の動機としては、双方ともにありがちだといえる。
が、詳しい動機に関しては、検非違使たちがおいおい調べることだろう。脩子としては、動機にはさほど興味がなかった。
光る君は「ちなみに──」と言葉を続ける。
「辻占売りの証言によれば、二人とも、一刻と経たずに屋敷から出て来たのだとか」
「一刻、ね……」
一刻というのは、約十五分。
一刻足らずと言うからには、十分程度で出てきたのだろうなと、脩子は見当をつけて頷いた。
「……その辻占売りは、彼らと面識があったのかな」
「それは、いいえ。辻占売りがその四辻に立ったのは、昨日が初めてだったみたいなので。殺された男とも、甥っ子の文章生や元武官の男とも、特に面識はなかったそうですよ」
「ふうん、そう」
となれば、どちらかの容疑者を庇って偽証しているという線も薄そうだった。
「それじゃあ、その辻占売り自身が犯人、というのは──」
そう言いかけて、脩子は口をつぐむ。
それから、すぐに自己完結をして首を横に振った。
「いや、その可能性は低い、か……。わざわざ現場付近に留まり続ける意味がないものね」
「えぇ、そうなんです……。辻占売りなんて流れ者だし、すぐにその場を立ち去ってしまえば、足取りなんてまず追えません。わざわざその場に留まり続ける利益がないんですよね」
監視カメラが張り巡らされている現代とは違い、目撃者だよりのこの時代。
その土地に馴染みのない、流れの人間──つまりはその日限りの、行きずりの人間の人相や着衣を、人々がどれほど覚えているものか。
その辻占売りが犯人なら、検非違使に証言などせずに、さっさと身をくらませるのが吉だ。
「となると、やっぱり甥っ子か、元武官か……」
「えぇ、僕もそう思うんですけど……」
脩子と光る君は、互いに顔を見合わせて沈黙する。
「……そういえば、その男。どうやって殺されたの?」
そう問うてみれば、光る君は脩子の持つ唐菓子をちょんちょんと指差し「撲殺です」と短く答えた。
それから、土器の湯呑みの底を、狐の欠けた耳のあたりに軽く当て、
「こう、大きな水甕で、頭をがつん、と……」
と、おどけるように、そんな動作をしてみせる。
なるほど。片耳がもげている狐に、齧りかけの野いちごが乗っかっている様は、見ようによっては撲殺されたように見えなくもない。
命婦はといえば、そんな二人のやり取りにドン引いた表情を浮かべながら、黙してお茶を淹れ直し始めた。
それを横目に見遣りつつ、光る君は話を続ける。
「犯人は、邸内で男を殺してしまったあと、慌てて逃げようとしたんだと思います。庭の敷地の大半を占める、池の飛び石を飛んで、庭を最短距離で横切ろうとして──どうやら一度、池に落ちちゃったみたいで……」
手入れする使用人も長らくおらず、荒れ果てた屋敷の池である。
落ちた時に、足に纏わりついたのであろう藻や水草が、池の淵に払い捨てられてあったのだという。
「これで、二人のうちどちらかの衣服が濡れていたのなら、話は早かったんですけどね。辻占売りも、さすがにそこまでは見えなかったみたいです」
新しく淹れられた煎茶に口を付けながら、光る君はそう言って肩を竦めた。
一方、脩子はといえば。立てた片膝に肘をおき、頬杖をついて首を傾げる。
「んん、分からないな……」
何故なら今のところ、『狐狸が化けて殺した』などという面妖な話には、まるで繋がりそうにないのである。
「ひとつ、いいかな」
「なんですか?」
「検非違使たちは、甥っ子と元武官、どっちを疑っているんだろう」
すると、光る君は澱みなく「甥っ子の文章生の方ですね」と答えて言う。
「というのも、この文章生。生まれつき左足が悪いようで……。常に、左足を引きずるような歩き方なんですよね」
「だから、飛び石で足を踏み外してしまった、と……?」
脩子は続く言葉を引き取って、それから隣の少年をちらりと一瞥した。
「……きみも、そう思うの」
そう問えば、光る君は苦笑しながら「いいえ」と首を横に振る。
「いくら急いでいるからといって、そんな足で飛び石を飛んで行こうだなんて、普通は思いつきません。一時的な怪我ならともかく、生まれつき悪いというのなら、なおさら不自然だと思うんです。咄嗟の判断なら、より身に染み付いた行動を取るんじゃないかな、って。それに、その……動機としても、少し微妙だし」
「微妙?」
「はい。だって、返済して欲しいなら、殺さないかな、と……。今は返せないけど、生きているのなら、いつかは返してもらえるかもしれない。でも殺してしまったら、永劫に返してもらえないわけでしょう? だから、あんまり合理的じゃないなーと思うんですよね」
光る君はそう言って「宮さまだって、そう思いますよね?」と、脩子の顔を覗き見た。
「だから検非違使たちには、一応、僕の考えを伝えてはみたんですけど……」
苦笑ぎみに呟く光る君に、脩子もまた苦々しく顔を歪める。
「そこからまた、どうして『狐狸が人に化けて殺した』だなんて話が出てくるのかしらね……」
(続く)
【1章 2/4】