其の弍
「私が〝藤壺の宮〟だということに、なってしまうじゃないか……」
藤壺の宮。
彼女は光源氏の初恋の女性にして、物語の最重要人物である。
むしろ、光源氏の爛れた女性遍歴の、諸悪の根源と言ってもいいかもしれない人物でもあった。
それは彼女が、桐壺帝の後宮へ入内した後のこと。
桐壺帝は、桐壺の更衣によく似た藤壺の宮と光る君を、まるで実の母子か姉弟のように扱っては、積極的に交流を持たせた。
入内の時点で、藤壺の宮は十六歳、光る君は十一歳。
結果として、光る君は年齢の近い彼女によく懐き、やがては彼女に恋心を抱くようになる。
けれど初恋の人は、出会った最初の瞬間から、父親の嫁という立場だ。
スタートラインからすでに、絶望的な初恋である。
そりゃあもう、拗らせもする。
やがて元服した光源氏は、藤壺の宮への恋心を忘れられないまま、彼女の面影を求めて様々な女性のもとを渡り歩くようになる。
おまけに藤壺の宮によく似た姪っ子の少女を見つけて来ては、理想の女性になるように養育した上で、娶ってしまう。
ちなみに光源氏は(推定)二回だけ、藤壺の宮とも寝る。挙句、のちの冷泉帝という不義の子まで、ちゃっかりこさえるのだ。
とまぁ、源氏物語の根底にはいつだって、光源氏から藤壺の宮への根強い執着があるのである。そういう意味では、こんがらがった恋愛相関図の元凶と称しても、過言ではないといえた。
(まぁ、元凶といえば、目の前の御仁も当て嵌まるのだろうけれど……)
脩子は御簾越しの人影をジト目で見遣り、それからバレないようにため息をついた。
鳥黐帝、もとい桐壺帝はといえば、こちらの心境などいざ知らず。
御簾越しにも分かるほどに、上機嫌な様子である。
聞かれてもいないのに、いかに若宮の容貌が優れているか、どれほど聡明であるかということを、嬉々として懇々と語り続けていた。
当然ながら、ここでいう若宮とは、亡き桐壺の更衣が産んだ第二皇子──光る君のことである。
これでは弘徽殿の女御が産んだ第一の皇子も、他の女御や更衣たちが産んだ皇子や姫宮たちも浮かばれない。
そういうことをするから、桐壺の更衣は壮絶なイジメに遭ったのだろうに。ちっとも学習しない男である。
「母親も、養育していた祖母も、すでに亡くしてしまった御子なので、どうにも可哀想に思えてしまって……。つい、どこに行くにも連れ歩いてしまうほどですよ」
桐壺帝はそう言って、ほけほけと笑う。
挙句の果てには「あなたは亡き更衣に瓜二つであると聞くから、入内した暁には、是非とも若宮を可愛がってやって欲しいものです」などと宣う始末である。
この男、すでに脩子が入内することを、毛ほども疑っていないらしい。
まさか、脩子が本気で断りたいと思っているなどとは、夢にも思っていないのだろう。
確かに和歌というものは、初めはつれない対応を見せるのも、駆け引きのうち。
女房が代筆した、やんわりと断ろうとする返歌の数々も、その一環として捉えられてしまっているのだろう。
脩子は眉を寄せ、ぼそりと呟いた。
「……やっぱり私が直接、筆を取るべきだったよね。そうすれば、解釈の余地なんかないほどに、バッサリと断れたのに」
「おや、何かおっしゃいましたか?」
「いえ、何も?」
うっかり漏れ出た心の声をしれっと誤魔化しながら、脩子は目を瞑る。
さて、どうしたものだろうか。
自分が藤壺の宮の立場であることを自覚した以上は、脩子が入内しなければ、物語は進展しないだろう。それは百も承知のことだった。
けれど、だからといって、物語の展開のためだけに人生を棒に振れるかと問われれば、答えは否である。
いっそ物語に無関係の立場であれば、喜んで傍観者を気取れたのだろう。
だが、重要人物のポジションにいるからには、そうも言ってはいられない。
〝ジェネリック桐壺の更衣〟扱いされるのは真っ平御免であるし、誰だって我が身は可愛いもの。藤壺の宮と同じ末路を辿るのだって、普通に嫌だ。
光源氏と不義の子をこさえるのも、その罪の意識に苛まれながら生きるのも、どちらも願い下げである。
それに、よくよく考えれば、そもそも藤壺の宮の中身が脩子である時点で、物語の通りに話が進むはずもないのだ。
確かに脩子の容姿は整っているけれど、作中で言われるような、才色兼備の完璧な女性であるかといえば、決してそんなことはないのだから。
いっそ、初めからパラレルワールド、パロディのようなものだと考えてしまえば、自由に生きても問題はないだろう。
脩子はまたしても、あっさりと開き直った。
そうと決まれば、話は早い。
脩子は居住まいを正し、御簾越しに桐壺帝へと向き直った。
「私の容姿が、亡き桐壺の更衣に似ているということ。それを主上のお耳に入れたのは、典侍であると聞き及んでおります」
桐壺帝に仕える典侍は、先帝にも仕えた人間である。
そのため母后の所にもよく出入りしており、脩子も幼い頃に面識があった。
「けれど、典侍と最後にお会いしたのは、もう随分と昔のこと。人とは成長するにつれ、顔つきも変わるものですわ。私の現在の顔立ちは、果たして本当に、桐壺の更衣と似ているものでしょうか」
そう問えば、桐壺帝は僅かにたじろいだ。
その隙を逃さず、脩子は畳み掛ける。
「ちなみに今の私の顔は、面長で垂れ目がち、鼻は低く、唇は薄めでございます」
適当に自分とは正反対の特徴をあげていけば、桐壺帝は瞬く間に、分かりやすく動揺し始める。
そりゃあそうだ。彼にとって価値があるのは、桐壺の更衣によく似た容姿だけ。
それを真っ向から否定されたのだから、彼が慌てふためくのも無理はなかった。
ここで「じゃあ御簾を上げて、顔を確かめさせてくれ」とはならないのが、平安時代らしいところである。
平安時代において、目合うは娶う。そして目合うの意でもある。高位の貴族、かつ妙齢の男女が互いの素顔を見るとは即ち、致すのと殆ど同義だ。
顔見せのハードルが鬼のように高い以上、桐壺帝は脩子の自己申告を信じるしかない。
「そ、れは……どうやら少々、行き違いがあったようだ」
「誤解があったのなら、解消されてよかったですわ。私としても、入内した後に、話が違うなどと思われるのは、本意ではありませんもの」
入内のお話は、なかったことにするのが双方のためかと存じますわ。
そう言ってにっこり微笑んで見せれば、桐壺帝はほっとしたような気配を見せた。
入内を求めた手前、自分から破談にしたいとは言い出しにくかったのだろう。
「すまない。気を悪くさせてしまっただろうか」
「いいえ。お気になさらないでくださいな」
そうは言っても、多少は気まずいのだろう。桐壺帝はそそくさと退散していく。
その後ろ姿を見送りながら、脩子はぺろりと舌を出した。
これで、入内話は完全に立ち消えたと思って良いだろう。完全勝利である。
桐壺帝は案内の女房たちを引き連れて、母屋の方へと戻っていった。必然的に、脩子の対屋は人がすっかりと出払ったので、その開放感も大きい。
口うるさいお目付け役である王の命婦も、今はいないことである。
脩子はぞろ引く袿の裾をたくし上げると、衝動のままに壺庭へと降り立った。
「よっし! 耐えた〜」
誰も見ていないのを良いことに、両腕を空に突き上げ伸びをする。
清々しい達成感に、脩子の気分は晴れやかだった。
やはり自分の人生は、自分の意思で選択してこそである。小躍りでもしたい気分だった。
「あー、久しぶりの太陽光!」
飛び飛びに配置された敷石の上を、脩子は裸足のまま、軽やかに踏み越えていく。
開放感から、心の赴くままに時折くるくると回ったりしていると、ふと視界の端に何かが映った。
何だろうと視線を遣れば、そこにいたのは、みずら髪を結った少年である。
「あなたが、女四の宮さま……?」
まだ声変わりもしていない、高く透き通った声だ。
だがその簡単な問いに、脩子は咄嗟に答えることが出来なかった。
その少年の容姿に、思わず唖然としてしまったからだ。
「うわぁ……。これは紛うことなき、傾国の顔」
ここまで『美』が前面に押し出されている人間を、脩子は初めて見た。
年齢的には、どう見積もっても九つか十あたりだろう。だが、その幼さに見合わぬ、圧倒的な存在感がそこにはあった。
そりゃあ、脩子の今世の顔だって、場が華やぐような美形ではある。だがこの少年の容姿は、幼いながらにも、その一段階上を行くものだった。
一瞬にして、その場を支配するレベルの美貌とでもいうのだろうか。
長い睫毛に縁取られた射干玉の瞳に、すっと通った鼻筋。
小さな顔にはパーツがバランス良く収まっており、その全ての配置が完璧に美しい。
もしも黄金律とやらが人の形をしているのなら、きっとこんな感じなのだろう。
確かにそう思わせるほどの凄絶な美少年を前に、脩子は「抜かったな」と唇を噛んだ。
あぁ、名乗られずとも、嫌でも理解してしまう。
この少年こそが『光る君』なのだ、と。
脩子は片手で顔を覆いながら、ため息混じりに呻いた。
「入内さえしなければ、きみとのエンカウントだって、避けられると思っていたんだけれど……参ったな」
確かに桐壺帝は『つい、どこに行くにも連れ歩いてしまう』と言っていたが、まさか、今日の御幸にも同行させているとは。完全に油断していたと反省する。
しかし、光る君はといえば、そんな脩子の動揺など知る由もなく。
その大きな黒目がちの瞳を瞬かせながら、こてんと首を傾げた。
「えっと、その、珍妙な舞、ですね……?」
「珍妙」
「はい」
「…………」
幼いながらにも、なかなかに歯に衣着せぬ物言いである。
脩子は壺庭の敷石の上、半端に浮いたままになっていた片足をそっと下ろした。
そりゃあ、壺庭で一人くるくると回っているなど、傍から見れば奇行だろうが。
そもそも御簾の内から出て来ないのが、奥ゆかしい姫君というものである。
脩子の振る舞いは、この時代において、はしたないことこの上ないのだろう。
と、そこまで考えて、はたと気付く。
これはこれで、いい機会なのではなかろうか、と。
ここで光る君の初恋フラグを、完膚なきまでに叩き折ってしまえば、どうなるか。
光源氏が妙に初恋を拗らせることもなければ、このさき藤壺の面影に執着し続けることも、きっとなくなるはずなのだ。
今ここで初恋フラグをへし折ったところで、いずれ光る君が成長すれば、その容姿に相応の浮き名を流すようになるのかもしれない。
けれど、現時点で恋愛対象から外れておけば〝藤壺の宮〟が彼の恋愛相関図に絡むことも、恐らくないに違いないのだ。
脩子は晴れて、パロディ版『源氏物語』の傍観者となり、ひいては自分自身の人生を謳歌できるというわけである。
なればこそ、ここで会ったが百年目だ。
脩子は早速、意識を切り替えた。
厄介な初恋の芽は、今ここで摘み取ってしまうに限る。
それはもう、根っこも残さないほど、徹底的に。
「あらどうも。珍妙な舞で悪かったわね」
脩子は腰に手を当て、にっこりと満面の笑みを浮かべて少年を見下ろした。
「嬉しいことがあったから〝欣喜雀躍〟を身体で表現していたの。欣喜雀躍、分かる? 欣喜の出典は『春秋左氏伝』から、雀躍の出典は『荘子』から。『欣』『喜』はともに喜ぶ意で、『雀躍』は雀がぴょんぴょんと跳ね行くように喜ぶことだね」
平安時代において。女性が漢字を読めることは、あまり歓迎されない才覚である。
どのくらい嫌厭されるものかというと、あの紫式部をして『漢字の〝一〟という文字ですら、書けないフリをしている』と日記に書かしめるほどだ。
ましてや漢文の知識をひけらかすなど、もっての外のことだった。
それに、嬉しいことがあったからといって小躍りするというのも、普通に奇行と言って差し支えない。
おまけにそれを、誰の目に触れるかも分からない屋外でやってのけるというのも、平安時代の感覚でいえば痴女同然である。
恋愛対象になる女性として、さすがに論外のトリプルコンボだろう。
「もともと知っていたなら、ごめんなさいな。あら、知らなかった? ではきっと、二度と忘れないでしょう。良かったね」
畳み掛けるように言葉を重ねれば、美少年の顔には次第に「うわぁ……」とでも言いたげな表情が浮かんでいく。
期待通りの反応に、脩子はしたり顔で頷いた。
その調子で、幻滅してくれればいいのである。少年のドン引いた表情を見下ろしながら、脩子はにっこりと笑みを深めた。
「あぁ、それからね──」
脩子は己の胸元ほどの背丈の少年に、ずいっと顔を寄せる。
「私、きみの亡くなったお母上には、似ても似つかないらしいよ。帰ったら、お父上に確かめて見ることだね」
脩子はそう言って、不敵に笑ってみせた。
きっと桐壺帝は、脩子のでたらめな容貌の自己申告を真に受けて「似ていなかった」と答えることだろう。
一方で、光る君が桐壺の更衣と死別したのは、彼が二、三歳の頃だったとされる。写真も存在しない時代において、光る君本人が母親の顔を覚えているはずもない。
つまり、眼前の少年もまた、脩子と父親の「似ていない」という言葉を鵜呑みにせざるを得ないのだ。
そうなれば『母に似ているらしいから』という方向性で興味を持たれることも、おそらくない。フラグは完璧に封殺である。
果たして、少年はというと。
脩子の言葉に大きな目をぱちぱちと瞬かせた後、形の良い口元を綻ばせて「おかしな人」と笑い始めた。
「えっと、その……それは、よかったです」
「良かった?」
「はい。だって、どうせ覚えていないのなら、適当に美化しておいた方が心証もいいですし。母があなたみたいに風変わりな人だったと言われると、ちょっと困るなと思って。だから、似ていなくてよかったな、と」
そう言って、少年は再びくすくすと笑うのだ。
脩子は何とも微妙な心持ちで、まじまじと少年の顔を凝視してしまう。
この少年、物腰こそ柔らかいが、なかなかにイイ性格をしているのかもしれない。
「……なんだか、思ってた以上に擦れてるというか。可愛げがないね、きみ」
「それは、どうも?」
光る君はきょとりと目を瞬かせると、またすぐ愉快そうに笑い出す。
とはいえ、『おかしな人』も『風変わりな人』も、恋愛対象として論外なのは間違いない。入内だって回避したのだから、これ以上関わる必要もないのである。
脩子は明後日の方角を向いて「目的は達成したのだから、まぁ良いか」と、そっとため息をついた。
まさかこの少年との縁が、思わぬ形で続く事になろうとは。
この時の脩子には、まだ知る由もなかったのだ。
【序 2/2】
>>第一章 『狐狸に撲殺された、元国司のこと』
数ある作品の中から見つけてくださり、読んでくださり、ありがとうございます。
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