其の肆
「単純な構図、でございますか……」
「えぇそう、とても単純な構図」
考え込むように呟いた命婦に、脩子はそう言って首肯する。
脩子は光る君から視線を外して、ばぁやに向き直った。
「もしも、左馬頭が御簾越しに和歌を詠みかけた時点で、すでに六の君が死んでいたとしたら、どうだろう。だったら、御簾越しに殺害する方法も、権少将が凶器を消失させる方法も、わざわざ考える必要はないと思わない?」
困難が重なるから、鵺の仕業などというトンチキな発想が出てくるのだ。
だが、困難は困難であると仮定して、いったん除外してしまえば、可能性はおのずと限られてくる。
左馬頭にも権少将にも犯行が不可能だったとするならば、残る可能性は至ってシンプルだ。
「で、ですが、宮さまご自身も仰っていたではございませんか! 左馬頭どのの贈歌に応じた答歌は、確かに御簾の内で詠まれ、その場で書き記されたものだった、と。……はっ、もしや六の君の幽霊が、みずから贈答に応じたのでございますか!?」
「命婦……私、そういう発想は嫌いだ」
脩子は口をへの字に曲げて、ぴしゃりと命婦にそう告げる。
横目に光る君を見遣れば、彼はやはり楽しげな猫のように目を細めていた。
いまいち真意の読めない表情は、その整いすぎた容姿も相まってか、どこか作り物めいて見えてしまう。
何となく面白くなくて、脩子は小さく鼻を鳴らした。
「私、そういう笑い方も嫌い。可愛げがないもの」
「それは良かった。僕、あなたに可愛らしいと思われたくはないので」
間髪をいれずにそう返した光る君は、やはり本心の見えない笑みを深めるばかりだ。脩子はますます面白くないとばかりに、ぐっと眉間にしわを寄せる。
そんな二人を仲裁するかのように、命婦がおずおずと手を挙げて言った。
「……話を戻しても、ようございましょうか?」
脩子は小さく嘆息すると、光る君から視線を外して「よかろう」と頷く。
それを受けた命婦は、こほんと咳払いをして言葉を続けた。
「しかし、六の君の幽霊ではないとすると、どういうことなのでございますか? 何しろ、左馬頭どのは仰ったのでしょう、『それは確かに、六の君のお手蹟だった』と……」
「えぇそう。左馬頭は、そう断言しているみたいね」
そう言って脩子は、さりげなく光る君の表情を盗み見る。
青年は相変わらずの微笑を浮かべたまま、脩子の言葉を待っているようだった。
一方の命婦は、未だ理解できないといった様子で首を捻る。
「左馬頭どのがそう仰る以上、それは確かに六の君の筆跡であったということなのでございましょう? ならばやはり……」
そう言いかけた命婦の言葉を、脩子はひらりと手を振って遮った。
命婦が口を噤んだのを見届けてから、脩子はため息まじりに口を開く。
「……ねぇ命婦。私はどうして、非っ常ーに残念な出来の和歌を対価として差し出してまで、ひかるに代筆を頼む羽目になったのかしらね」
唐突な質問に、命婦は怪訝そうに眉根を寄せる。
「それは……光る君の代筆による見事なお手蹟が〝藤の宮〟の筆跡として、世間に認知されたからでございましょう? そのせいで、ひっきりなしに恋文が届くようになってしまわれて……」
「そう。本当に忌々しいことにね」
脩子は命婦の言葉に、重々しく頷いた。
今や、光る君の代筆による筆跡が〝藤の宮〟の手蹟として定着してしまったのだ。
もはや誰も、脩子が書いた文字や和歌を〝藤の宮〟のものと見なしてはくれないのである。
たとえば、脩子が自筆で断りの返事を書こうとも。
相手は「女房による代筆ではなく、せめて本人直筆の文をもらうまでは」と食い下がるから、一向に贈答のやり取りが終わらない。
面倒くさくなって、対応を丸投げするようになったというのが、代筆を依頼するまでの経緯だった──つまるところ、何が言いたいかというと。
女房の手による代筆は、それほどまでに一般的なことであるということだった。
脩子の言葉の意味するところに、命婦もようやく思い至ったのだろう。
命婦は、はっとしたように瞠目し、口元に手を添えた。
脩子は命婦から視線を外し、ちらりと横目に光る君を見遣る。
「六の君は左馬頭のことを、かなり疎んでいた、と。そう言っていたね」
「えぇ。彼は六の君に、随分としつこく言い寄っていたみたいですからね」
光る君は、その問いかけを予想していたように、小さく首肯した。
そりゃあ鬱陶しかっただろうなと、脩子は思う。
何しろ六の君には、すでに逢瀬を重ねる恋人、権少将がいたのだ。
にもかかわらず、しつこく恋文を送りつけてくる左馬頭の相手をするのは、さぞや面倒くさかったに違いない。
「そんな相手に対して、六の君が直々に筆を取るかしら、ということよね。私だったら、間違いなく代筆任せにするな」
脩子はそう独りごちて、立てた膝に頬杖をついた。
あなたはいついかなる時だって丸投げだろう、という二人の白い視線がグサグサと突き刺さるが、脩子は気付かないふりを決め込む。藪蛇はごめんだった。
命婦は呆れ返った視線を、ため息と共に収める。
それから、話の軌道修正を図るように口を開いた。
「つまり、左馬頭が『六の君のお手蹟だった』と思い込んでいたものは──」
「最初から、六の君のものではなく、乳姉妹の女房のものだった……。仮に、左馬頭が六の君の筆跡を誤認していたと考えれば、とても単純な構図が見えてくると思わない?」
脩子はそう言って、人差し指をぴっと立てる。
それから、その指をくるっと宙で回した。
それは、宴が始まってから、しばらく経った頃合いのこと。
乳姉妹の女房は、六の君のもとへ白湯を届けるために、西の対屋に向かったのだろう。
その際に口論になったのか、はたまた、予てから殺意を持っていたのか。
乳姉妹の女房は、六の君の首を絞めて殺してしまう。
ところがその時、御簾の外から恋歌を詠みかける声がかかる。左馬頭だ。
御簾内にいた乳姉妹の女房は、それは焦ったに違いない。
返事がないことを訝しんで、左馬頭が御簾内に踏み込んで来たら、現行犯として言い逃れのしようがないからだ。
乳姉妹の女房としては、一か八かで和歌の贈答に応じるしかなかった。
薄暗い月明かりの下だ。袖にする内容で追い払って、一瞬だけでも誤魔化せたなら、とでも思ったのかもしれない。
だがここで仮に、左馬頭が彼女の筆跡を、最初から六の君のものだと誤認していたとするならば、どうだろうか。
左馬頭の視点からすれば、いつもの見知った筆跡で返歌が返ってきた訳である。彼はさして怪しむこともなく、宴席の会場へと戻っていったことだろう。
そうして、左馬頭が西の対屋を去ったあとに、乳姉妹の女房も西の対屋を抜け出した。そう考えれば、特に困難を乗り越えずとも、辻褄は合ってしまうのである。
宴の終盤ならともかく、宴の中盤までに母屋の外へ出たのは、光る君と左馬頭だけであったというくらいだ。
彼ら二人が宴席に戻った直後であれば、難なく西の対屋を抜け出すことが出来たのではないか──というのが、脩子の見立てだった。
「御簾越しに縊り殺す方法だとか、凶器を消失させる方法だとか、鵺の仕業だとか……。そんなものを考えるよりも先に、まずは乳姉妹の女房が犯人である可能性を、潰していくべきではないかしらね」
なんて、私に言われるまでもなく、分かっているのだろうけれど。
脩子はそう付け加えて、じとっとした半眼を光る君に向ける。
光る君は相変わらずの飄々とした笑みを深めると「えぇ、まぁ」と首肯してみせた。
青年は、脩子の視線に悪びれる様子もなく。
「あなたも同じ見解なのか、確認したくて」と、涼しい顔をして言ってのける。
「一応、昨夜のうちに、検非違使たちには一通りの指示を出しておいたんですけど……あぁ、噂をすればかな」
光る君はそう言いながら、ついと庭先に目を遣った。
釣られるようにしてそちらを見れば、ちょうど脩子の屋敷の下男が庭を突っ切ってやって来るところだった。
下男は「お客人さまに、文が届いております」と、恭しく文箱を差し出して言う。
光る君はそれを受け取ると、その場でさっと中身に目を通したようだった。
それから小さく肩を竦めると、脩子にその文を手渡してくれる。
無骨な男文字で記された報告書には、乳姉妹の女房と六の君、それぞれの筆跡の裏が取れたこと。また、乳姉妹の女房に与えられた局から、血痕の付着した女帯が見つかったこと。そして、彼女が自供を始めたことなどが、つらつらと書き記されていた。
やはり乳姉妹の女房が犯人ということで、間違いはないらしい。
源氏物語において、伊予介の若き後妻──空蝉は、源氏に言い寄られるも、身分を理由にそれを拒む。
夜這いにやって来た源氏に対し、空蝉は薄衣だけを脱ぎ捨てて残し、逃げ去るのだ。
空蝉の身をかへてける木のもとに
なほ人がらのなつかしきかな
〝蝉が脱け殻を残して姿を変えて行ってしまった木のもとで、衣を残して去った人を慕わしく思う〟
そんな意味のこの歌は、空蝉の女君に逃げられた源氏が、翌朝彼女に送った贈歌だが。
空蝉が衣だけを残して去ったように、この乳姉妹の女房も、恋文の返歌を身代わりに残して逃げたというわけである。
それが偶然にも、すでに亡き人を、あたかもまだ生きているかのように見せかけてしまった。以上が、この事件の顛末なのだろう。
脩子は小さく嘆息すると、文を畳んで光る君へと返した。
そのついでに、ふと気になったことを尋ねてみる。
「そういえば、きみ……。ここ数年で〝空蝉〟を詠み込んだ和歌の贈答をしたことはある? あぁ、私の代筆ではなく、自分の名義でだよ」
「空蝉ですか?」
光る君は不思議そうに首を傾げて、ふむと美術品めいた指を顎へ添えた。
だが、そう間を置くことなく、彼は「いいえ」と首を振る。
ずいぶん返答が早いなと、脩子は小さく眉根を寄せた。
正妻を定めていないだけで、通う恋人の五人や六人くらい、いるだろうに。もっとしっかりと記憶をさらって欲しいものである。
そんなことを考えていれば、光る君は「何だかとても、不本意なことを思われてる気がする……」と、不服そうに唇を尖らせた。
しかし、すぐに気を取り直したのだろう。彼は小さく嘆息すると、口を開く。
「本当ですよ。だいたい僕、個人での和歌の贈答は、出来る限りしないようにしてるんですよね」
「えっ、そうなの?」
思いがけない返答に、脩子はきょとんと目を瞬かせた。
光る君は、脩子の反応など予想通りだったのか「そうですよ」と小さく肩を竦める。
「僕、宮さまの代筆の時は、なるべく筆跡を変えるように心がけてはいますけど。それでも、和歌の作風と合わせて〝藤の宮〟と似ているなと思われるのは、避けたいですし」
光る君は何とも軽い調子でそう言うと、それに、と言葉を続けた。
「そもそも僕、宮さまのせいで、蝉の抜け殻に風情だとか情緒だとかを、微塵も感じなくなっちゃったというか……。ほら、野山に分け入れば、蝉の抜け殻なんて、掃いて捨てるほどあるじゃないですか」
苦笑する光る君には、脩子も思わず押し黙るしかない。
そう言われて思い出すのは、いつぞやの鵺捕獲大作戦だった。
コンクリートジャングルのない時代の野山は、それはもう凄かった。耳をつんざくような蝉の大合唱は、今思い出しても頭痛がするほどである。
抜け殻の数は、それはもう膨大で。
樹の幹が別の意味で茶色かったのは、いっそ忘れてしまいたい絵面といえる。
「たぶん僕、今までもこれからも、空蝉を和歌に詠み込むことはないと思いますよ。あの光景を思い出すと、どうにもげんなりするというか……」
「あー……」
光る君の言い分は、確かに分からないでもない。
だが、それを自分のせいにされてしまうと、何とも微妙な心地になる脩子である。
あの、ちょっとした夏の冒険に、そんな弊害があろうとは。
自分の過去の行いが、まさか空蝉と呼ばれる女君を、消滅させてしまうとは思うまい。
だが実際のところ、源氏物語の本文中において、空蝉という呼び名は一度たりとも出て来ないのである。
主語どころか、固有名詞さえ省略されがちな、受験生泣かせの源氏物語。
その作中において、彼女に関する表記はただ『女』『女君』『継母』などとあるだけだ。
つまり、彼女は作中において、あくまでも『名前の分からない、伊予介の後妻』でしかないのである。
光源氏と〝空蝉〟に因む和歌を詠み交わした女性──ゆえに空蝉。
彼女の呼び名は、後世の読者が登場人物を識別しやすいように、便宜上そう呼称しているに過ぎないのだ。
つまり、空蝉を空蝉たらしめるのは、源氏との和歌の贈答に依ってこそ。
その贈答の可能性が今後とも無いというのであれば、空蝉の女君は、物語上から消滅することになってしまうのである。
だが、そんな事情など知る由もない光る君は、不思議そうに小首を傾げた。
「空蝉が、どうかしたんですか?」
「……いや、別に。何でもない……」
訝しむ様子の光る君に向かって、脩子はそう言って首を振るしかない。
あくまでも、空蝉と呼ばれるはずの女君が、今後とも存在しなくなっただけ。
極めて穏当に、光る君の女性関係の中からネームドが一人減ったというだけの話だろう。
(一人くらい減ったところで、うん、誤差の範囲に違いない)
そう自分に言い聞かせながら、脩子は咳払いをするのだった。
脩子は元来、開き直るのが得意なのだ。
「それにしても、お仕えする主人を殺めてしまうなど……。一体どんな理由があったというのか、命婦はそちらの方が、気になりますよ」
命婦はそんなことを呟いて、物憂げに嘆息する。
「あら命婦、お前は妙なことを気にするのね」
「宮さまは、気にならないのでございますか?」
「えぇ、ちっとも」
命婦の問いに、脩子はきっぱりと首を横に振った。
確かに脩子とて、謎を解く過程では、多少は動機を考慮に入れる場合もある。
だが、それはあくまでも、犯人の目星をつけるためだ。
今回のように、犯人や殺人の手法が判明した後となっては、その動機を詮索するのは無意味というものだろう。
脩子は胡乱な目で、命婦を見据える。
「動機を考慮するまでもなく、この事件は解決したというのに。わざわざ後からそれを知ったところで、何になるというの?」
「それは、そうやもしれませんけれど……。人を殺すからには、せめて相応の動機があって欲しいと願ってしまうものですよ」
そう言って、命婦はやるせなさそうに顔を曇らせる。
だが、脩子はますます半眼になって、己のばぁやと視線を合わせた。
「相応の動機、ねぇ……好き好んで動機を知ろうとするなんて、とても悪趣味だと思うけれど」
「左様でございましょうか?」
命婦は納得がいかない様子で、困惑したように眉尻を下げる。
「ですが、相応の理由があったと知れた方が、多少は安心することも出来ましょうに」
「安心?」
「えぇ。たとえば、殺意に妥当な理由があったと知れたなら……嗚呼、人に恨まれるようなことをしなければ、殺されることはないのだ、と。己は人の恨みを買わぬようにしよう、と。そう心がけることが出来るではありませんか」
仮に、殺された者には何の落ち度もなく、不運なだけだったとしたならば、明日は我が身かもしれません。
けれど、そんなことを考え始めたら、恐ろしくておちおち寝ていられないのでございますよ。
命婦は眉根を寄せながら、そう呟いた。
「仮に、殺人の動機が『誰でもよかった』だとか『何となく』だとか『戯れに』だとか……そういった訳のわからない理由であったというのなら、安心など到底できませんでしょう。だとすれば、まだ理解の及ぶような動機があって欲しいと願うのが、人の性というものでございますよ」
「つまり、殺人の動機を知ることで『それは殺されても仕方がない』『殺されてしまうのも当然だ』と? そう納得したいというわけだ?」
脩子の切り返しに、命婦は居心地が悪そうに身動ぎをする。
「そういう言い方をされますと、性格が悪く聞こえましょうが……」
「でも、言葉を選ばなければ、同じことだろうに」
脩子は呆れを込めて、小さく嘆息をした。
手慰みに閉じた檜扇が、ぱちんと嫌に大きな音を立てる。
脩子は苦々しい面持ちで、己のばぁやの顔を見た。
「……私だったなら、無関係の他人に『自分が殺された理由』を納得されるなんて、虫唾が走るほどに嫌だけれどね。それに、そもそもどんな理由によってでも、誰かに殺されるのだって嫌。命婦、お前も自分ごととして考えてみるといいわ」
たとえば『食うに困って仕方なく』。
あるいは『殺された家族の仇を取るため』。
はたまた『ちょっとした不注意で、不運にも』。
確かにそういった事情が犯人側にあったとすれば、場合によっては世間の同情や共感を得られることもあるのかもしれない。殺人に至った経緯には、一定の理解を示せる余地があるのだ、と。
命婦が言うところの、『自分にも理解が及ぶような、相応の理由』というのも、これに類するものだろう。
けれどそんなものは、自分や自分の身内が当事者ではないからこそ言える、野次馬の戯言に他ならない。
殺された側の立場からすれば、無関係の他人が殺人の正当性を推し量って勝手に納得しようなど、不愉快極まりないことだろうと思うからだ。
「だからこそ、私は動機を進んで知ろうとするなんて、悪趣味なことだと言っているの」
脩子はそう呟いて、脇息に肘をついた。
たとえ相手が、どんな事情を抱えていようとも。
それが故意でも、過失でも。
誰かに命を奪われるなど、脩子はもう二度と御免だし、その経緯や理由を他人に納得されるのも、絶対に願い下げだという話だ。
自分がされたくないことは、他人にもしない方が吉なのである。
「宮様の言い分も、分かるような、分からぬような……?」
命婦はいまいち釈然としない様子で、もどかしそうに言葉を探す。
だが、やがては助けを求めるように、光る君の方へと視線を送った。
だが、光る君は命婦の期待に応えることはなく、静かに首を横に振る。
「ごめんなさい命婦。僕も宮さまと同じ意見だから」
命婦の困惑を慮ってか、光る君は淡く苦笑を滲ませながら、口を開いた。
「だって、犯人側の殺意の理由に納得できてしまうって、ちょっと危ういことだとも思うんですよね」
「危うい、でございますか?」
「えぇ。だって、殺意の理由に一定の理解を示せてしまうというのなら……それって裏を返せば、『自分も同じ立場になったなら、同じように人を殺したいと思うかもしれない』ってことでしょう?」
「……それもまた、随分と極端な話でございますよ」
苦りきった顔で命婦はそう呻くが、脩子は光る君と顔を見合せて苦笑し合う。
「極端なものか。突き詰めていえば、結局は同じだよ」
「ですよね。確かに言い方は、ちょっと露悪的かもですけど」
結局のところ、殺人に至った経緯や動機を他人が理解しようとしたところで、誰も得をしないのである。
納得される側の被害者は業腹だろうし、殺意に共感できてしまうのも、精神衛生上よろしくない。
殺人に至る動機など、むしろ理解できない方が健全なのだ。
それに、そもそも理解する必要がないのであれば、わざわざ知る必要だってないだろうというのが、脩子の持論だった。脩子は極力、殺人犯の心境などとは無縁のままでいたいのだ。
伏目がちに、脩子は光る君の方へと視線を滑らせて言う。
「特に、私やきみのような考え方をする人間は、それぐらい潔癖なくらいで丁度いい。私はそう思うな」
「えぇ、僕もそう思います」
脩子の落とした呟きに、光る君も素直に首肯して同意を示した。
そんな二人のやり取りを見ていた命婦は、いよいよ困惑を極めたように眉根を寄せる。
だが、結局は理解を諦めたのか「妙なところで、似たもの同士ですこと」と呆れ顔で嘆息するのだった。
「さて、今日はそろそろお暇しようかな」
そう言って、光る君はおもむろに立ち上がる。
ちゃっかりと松茸の和歌を懐に収めていくあたり、つくづく抜け目がない。
忘れて帰ってくれたのなら、真っ先に処分してやるつもりだったのだが。
脩子は恨めしげに光る君を見上げた。
「えぇ、さっさと帰るがいいわ。……どうせ明日からも、ここに入り浸るのだろうしね」
脩子はしっしと手を振って、光る君を追い払うように、ぞんざいに言葉を返す。
平安時代において、血や死の忌みに関わってしまった人間は、穢れを受けたと解釈されるのだ。
古代の基本法である律令および、それを補足・修正する格式において、死穢の忌みは三十日間とされる。その間、貴族は朝廷への出仕・参内も控えるのが慣例だった。
つまりは(言い方は悪いが)降って湧いた休暇である。そして、どうせ暇を持て余した光る君は、脩子の屋敷に入り浸るのに違いない。
光る君は、脩子の邪険な態度を気にした風もなく、くすりと笑う。
「だって僕、二条の屋敷には、寝るために帰っているだけなので。暇を潰せる趣味のものも、特に置いてはいないんですよね」
三十日なんて、とてもじゃないけど潰せません。
そんなことを言って、光る君は軽く肩を竦めてみせる。
「その点ここには、そろそろ読み返したい書物もたくさんあるし」
「……物忌は、外出自体を控えるものだろうに」
「でも、あなたはどうせ、穢れなんて気にしないでしょう?」
「………………」
そう言われると、脩子としても閉口する他なかった。
気にすると答えるならば『昨夜、遺体の発見に立ち会った』と聞いた時点で、光る君を屋敷から叩き出しておかなければならなかったのだ。
そうしなかった時点で『死穢を気にするから来るな』という主張が、まかり通るはずもないのである。
光る君はといえば、そんな脩子の反応を見ては、くすくすと楽しそうに笑うばかりだ。実に小憎たらしい限りである。
光る君は、ひとしきり笑って満足したのか。
今度は打って変わって、穏やかな声で脩子に向かって言う。
「ところで宮さま……そろそろ一人前だと認めて欲しいんですけど、どうですか?」
それは、まるで天気の話でもするかのような気軽さで、けれどもほんの僅かに、真剣な響きを孕んでいて。言われて思い出すのは、もう何年も前に交わした、いつぞやの軽い口約束だった。
確か、子ども扱いを嫌がる少年に「一人前になったのなら、やめてあげよう」と返したのだったか。
脩子はぱちくりと目を瞬くと、小さく苦笑してみせた。
確かにもう、半人前とは言えないだろうなと脩子は思う。
最近は事件の話を持ってきても、専らが答え合わせの為だった。
場合によっては、光る君の方が、早く真相に辿り着くこともあるのだろう。
今回のように、和歌なんぞが絡むと、どうしても脩子の思考は周回遅れになってしまう。
だからこそ、脩子は小さく嘆息すると、仕方なさそうに首肯した。
「はいはい、認めるわよ。もう一人前だと思う」
すると、青年は一瞬、虚を突かれたように目を瞠り。やがて、まるで念願が叶ったとでも言うように、明確に喜色を含んだ表情を浮かべるのだ。
脩子としては、そんな大袈裟な反応が返ってくるとは思いもよらず。
つい、まじまじと青年の顔を見つめてしまう。
「そんなに子ども扱いされるの、嫌だったんだ……」
「……えぇ、そりゃあもう」
青年は照れを隠すように、小さく咳払いをしてみせた。
彼はすぐに表情を取り繕い直したけれど、それでも隠しきれない喜びが、澄ました口の端に滲み出ているのを脩子は見逃さなかった。
どうやら脩子の想像以上に、彼は子ども扱いされるのが嫌だったらしい。
珍しく、機嫌がいいのが丸わかりな背中を見送りながら、脩子は小さく苦笑を零す。
もしも、男の子のプライドというものを、傷つけてしまっていたのなら。
ちょっと悪いことしたかな? と僅かばかり反省する脩子なのだった。
【2章 4/4】
>>第三章 『廃院に棲む鬼、花の夕顔を喰らふこと』
評価やいいね、感想などを頂けると、たいへん励みになります。