エピローグ
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園田
9月15日
久しぶりに経済安全保障会議が開催された。
外山総理大臣の元では初めてになる。
議題のひとつは「金融システムのセキュリティ強化プロジェクト」の結果報告だ。
本プロジェクトが立ち上がったときからは会議のメンバーはかなり入れ替わってしまい、その内容を覚えている者は少なく、今さら感もあるが、事務局を務めるお役人が忘れることはない。
当時の総理である富岡と防衛大臣であった松本は、タイフーンから受け取った金額も大きく、すでに受託収賄罪で逮捕されている。加えて数名の政府高官が略式起訴で政治の世界から退場した。付け加えるなら、当時、国家公安委員長であった佐々木は一身上の都合で自ら議員を辞任している。
富岡と佐々木については、その野心の大きさが自らの権力を超えたことによる悲劇と言えよう。
松本については、逆に、与えられた権力が自分の能力を超えてしまったばかりに転落したパターンだ。きっと、罪の意識を感じることなく収賄に手を染め、無罪になるための悪あがきの手段すら思いつかずに転がり落ちて行ったのだろう。権力を握ってはいけない人物であった。
会議での報告者は、後任の里見防衛大臣だが、就任したばかりであり、報告書を書いたのは園田である。
報告内容は、サムライ社のWARAJIプログラムの流出事案2件になる。
最初は、サムライ社の社長がロシアのIT企業にWARAJIの使用権を与えようとした事案だ。
海崎は、WARAJIを守る姿勢を見せながら、裏でロシアのハバロフスク・システム・インクにWARAJIを売り渡すつもりだった。国から補助金を受け取っておきながら、なんとも面の皮が厚い男である。
橋口から受け取った通信履歴情報から、サムライ社がロシア企業と接触している疑いがあることがわかり、急遽、海崎の電話機に盗聴器を取り付けさせたことで、海崎とハバロフスク・システムとの契約内容を把握することができた。
裏取引の実態をSNSで拡散する、と匿名の脅迫メールを海崎に送り付けたところ、海崎は事態が公になることを恐れ、慌てて契約を取り消したのであった。
ちなみに、海崎は、園田たちがこの裏取引情報を掴んでいることを知らない。
本来は補助金の取り消しというペナルティを与えてもいい案件だが、未遂に終わったことであるし、見逃してもいいだろうと判断した。
日本は昔より突出した者の芽を摘むのが得意だが、それでは国は栄えない。サムライ社には将来性があり、今後も日本の産業をけん引していってもらう必要がある。
会議でも特段の異議は出なかった。
次の事案は、サムライ社員Aが、WARAJIを持ち出した案件だ。
Aが持ち出したプログラムを、同じくサムライ社員のBがサーバから入手し、中国の諜報機関に売却することを企てたが、これも外事局が阻止した。
2事案ともに、外事局の働きによってWARAJIデータの海外流出を防ぐことができ、かつ、サムライ社がディテクターの発売を発表したことで、本案件の危機は去った、と総括した。
里見大臣はプロジェクトの終了を進言し、外山総理もこれを了承した。
AとBの刑事責任を問う声や、Bが実は防衛省の職員だったのではないか、など、変な突っ込みが入らないか、園田は内心気が気でなかったが、外山総理の満足気な表情と、遠野国家公安委員長の無関心な顔を見て、胸をなでおろす。
後の議案は、自分と直接関係のないテーマであり、聞き流していいだろう。
橋口が中国にWARAJIを売り渡そうとした事案の顛末を思い返した。
**
会議の1か月半前、JSDの執務室で園田は1本の電話を取った。
“東アジア貿易振興協会 理事長 張志雲”と名乗った男は、流ちょうではあるが、イントネーションが微妙にずれた日本語を操り、ネイティブの日本人でないことを示していた。
園田には、それが誰で何の電話であるのか、察しがついている。なぜなら園田がこの人物に宛てて手紙を送っていたからである。
「私がJSDの野上です」
「こちらの番号に電話をするよう促すレターを受け取りました。送ったのは野上さんですね?」
「はい、いかにも」
「お名前は存じてますよ。確か、御社は防衛省の仕事を請け負っていて、あなたはそこで顧問をされている」
「私のことをご存じとは光栄です。私も仕事をしていると、あなたのお名前はよく耳にします」
「要件に入りましょう。レターには、橋口という人物から届くはずだった物は、あなた方によって差し止められた、と書かれていた」
「おっしゃる通りです。あなたは橋口とプログラムの売買の約束をされていますが、この取引はサムライ社の営業秘密を侵害しているだけでなく、経済安全保障法にも抵触していることから、差し止めさせていただきました。ただ、橋口はそのことを知らないので、橋口を問いただしても埒はあきません。そのことを事前にお伝えしておいた方がいいと思いましてね」
「それはご丁寧に。だが、なぜ防衛省の回し者が民間の取引に口を出すのか不思議ですね。我々は橋口にもう一度送るよう指示するまでですよ」
「何度やっても同じです。犯罪行為は我々が阻止します」
「こちらはすでに100億円を支払っている。というより、橋口に強奪されたと言った方が正しいかもしれません」
怒りを含んだ声色で張が言う。
「それが本当なら橋口本人から返金させましょう。利息をつけて3年以内に払わせる。それでいいですね」
張はそれには答えず、
「橋口という人物はおたくの組織の人間なのでは? 接触したときの対応からして、単なる民間人には思えませんでしたが」と訊く。
「いや、当局とはまったく関係ありません」
「では、こちらは橋口に請求するまでです。一個人で我々組織と対等に交渉しようとして、結果的に約束を破ったばかりか、不当な手段で金銭をせしめた。すぐに全額返金できないなら制裁を与えることになりますね」
「それは認められません。我々には国民を守る責務がある。念のためお伝えしておきますが、営業秘密侵害未遂は橋口だけでなくあなたも同じです。刑事訴追を受けたら、あなたは少なくとも日本にはいられなくなるし、活動も誓約されるでしょう。それでもいいと?」
電話の向こうでしばらく沈黙が続いた後、
「ということは、あなたはこの件をなかったことにするつもり、ということですね? 法治国家と喧伝していながら片腹痛いですな。まあ、いいでしょう。こちらも今回の契約違反は不問にしましょう。日本の利息制限法に基づき、年利15%で複利。3年後に耳をそろえて払うこと」
張はあらかじめこちらの出方を予期していたのか、大して躊躇することなく言った。
「わかりました。借用書をこちらに送ってください。橋口にサインさせて送り返します。くれぐれも橋口に手出ししないとお約束ください」
「返済されれば問題ありません。正直なことを言いますとね、我々は橋口に対して恨みをいだくどころか感謝しているんです。彼女のおかげで、日本における対中強硬派の弱みも握れました。今の内閣の寿命はそう長くはないでしょう。それになによりわが共産党の政治的な安定に寄与してくれましたからね」
「いったいなんの話です?」
「いや、わからなくて結構。ところで橋口はそんな大金をちゃんと用意できるんでしょうね?」
「そこは大丈夫です。3年もあれば橋口なら手元の金を数倍に増やすでしょう」
園田は安請け合いして、挨拶はそこそこに電話を切った。
**
ああいう組織とルートを持っておくことも大事なことだ。
我々にとって中国の諜報機関はライバルではあっても、直接の抗争相手ではない。無駄な争いに血やカネをつぎ込む必要はないし、そのためにも相手の考え方はある程度知っておくに越したことはない。
なにせ、中国は日本の最大の貿易相手であり、また、日本を訪れる最も多い外国人は中国人である。すでに切っても切れない仲なのだ。
個々のオペレーションでは小競り合いがあったとしても、両国の信頼関係に決定的なダメージを与えないよう配慮することは大事だ。
中国側とは手打ちをした。次は橋口をどうするかだ。
そもそも、WARAJIは橋口が開発したものでもない。それをネタに金をせしめようなんて、図々しい話だ。
橋口なら数倍に増やす、と言ったのはもちろん出まかせだ。
ともかく、橋口にはしばらくこのことは伏せておいて、借用書はこちらで橋口のサインを偽造して中国側に送り返すことにした。
タイミングを見計らい、営業秘密侵害未遂と借金をネタにして橋口に協力を依頼すれば、断ることはできまい。少なくとも100億円の返済を終えるまでは、外事局のために、いや日本国のために働いてもらうことになる。
外山の言った「ああいうのは組織に属さず、泳がしておくと面白い」という言葉の意味がわかった気がした。優秀な人材を自分の組織におくだけが能ではない。外を泳がせておいて必要なときに使う。そうすれば、リスクを負うことなく、組織を強化できるではないか。
とはいえ、所詮、橋口はこの世界では素人である。外事局で彼女が受けた研修にはエージェントとしての訓練は含まれていない。
WARAJIの流出を食い止められたのは、まさにそのおかげと言える。
橋口が拘置所を出る際、園田は部下に命じてハイヤーの体で迎えに行かせた。橋口の安全確保が目的であるが、それだけではない。
運転手は、首都高を降りたタイミングで後部座席に微量の睡眠ガスを撒いて橋口を眠らせ、赤信号でポシェットにGPS発信機を取り付けた。
橋口のいるホテルの場所を割り出すと、局員を張り付けて外出する橋口を尾行させたわけだが、郵便局に向かった橋口が尾行に気付くことはなかった。これだけ隙だらけではさすがにエージェントは務まらない。
橋口が郵便局の窓口で封筒を出したのを確認すると、急遽、この封筒を差押える令状を偽造し、数時間後には刑事に成りすました局員数名に踏み込ませ、封筒と中に入っていたUSBメモリを無事に回収することができた。
USBメモリには想定通り、WARAJIと思われるソースコードが入っていた。
こうして流出は免れたわけだが、それだけでは面白くない。このプログラムをいざというときに外事局の武器として使えないか、検討を進めているところだ。
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考え事をしている間に経済安全保障会議が終わったようだ。
退室する外山が園田の方を振り返り、
「WARAJIはてっきり流出したものと思っていたが、阻止できたんだな。よくやった」と言った。
ん? なぜ、外山は流出したものと勘違いしたのであろう?
園田は首をかしげながらも「はい。ぬかりはありません」と答える。
「実はな、WARAJIはF99のAIシステムに容易に侵入できることがわかった。もし、中国の手に渡っていたら、とんでもない問題になるところだった。アメリカから押し付けられた欠陥品のキャンセルができればいいが、購入せざるをえないとすると、自衛隊の45機ものF99が反乱を起こす可能性があったわけだからな。悪夢以外の何物でもない」
それを聞いて額からじわっと汗が湧き出るのを感じた。
WARAJIから手を引け、と言ったのは外山であるが、額面通り橋口を野放しにしていたら、自分の首が飛ぶだけではすまなかったということだ。
外山先生の指示です、と言ったところでそんな弁解が通用するはずもない。
そんなことはすっかり忘れている外山は、
「まあ、君が担当している以上ぬかりはないと思っていたよ。最初の外遊先として、来月には訪中を予定しているが、懸案が一つ減った」と上機嫌だ。
「そうですね」そう言ってハンカチで汗をぬぐう。
「あと、中国の諜報機関とのいざこざは大丈夫だろうな? 思わぬ火種になるのは困る」
「極東支部の現場責任者とは直接話をつけてありますので、これ以上トラブルになることはありません」
「うむ」
満足そうにうなずいて外山総理は公邸に戻っていった。
そう言えば、以前、政治パーティの席で、当時、官房長官だった外山に挨拶に行ったところ、自分の顔を見てぼそっとつぶやいた。
「いつまでも防衛省の一部局じゃあ、肩身も狭かろう。俺が総理になったら外事局を防衛省から独立させて公式な組織にしてやる」と。
それを聞いて、米国のCIAのような組織が頭に浮かんだ。“日本中央情報局”とでも銘打つのだろうか。
その場ではそれ以上のことを聞き出すことはできなかった。財界の重鎮が近づいてきて外山に声をかけると、そのまま隣のテーブルに移ってしまったからだ。
それは日本護国党の絶頂期にあったときの発言であり、落ち目となった今のタイミングでそんな法案を出せば、野党の集中砲火を受けて火だるまになるのは目に見えている。
でも、剛腕の外山であれば、ひょっとしたら任期中にやり切るかもしれないとも思う。
そうなれば、確かに今のような動きづらさはなくなる。
今回、佐々木と真田を引退させたが、これで筋が通せたわけではない。
本来は殺人罪で起訴されるべき輩だ。そこまで踏み切れなかったのは、政治をこれ以上かき回されたくない外山への配慮もあったが、警察が暴力装置であり、これと真正面からぶつかるのはまずいという判断が働いたからだ。
だが、二人はすでに公権力の座にはなく、外堀は埋められている。
あとは、我々が公式組織になりさえすれば、何の躊躇もなく彼らを牢獄に追い込むことができる。
なにせ、外事局も一つの暴力装置なのだ。こと暗殺や破壊工作について言えば、警察をしのぐ能力を有している。彼らも我々との全面戦争には躊躇するだろう。
勇ましい妄想が園田の中で膨らむ。
明るい展望と、責任の重さの両方が肩にのしかかり、いつになく気持ちが高揚していた。
今日は地下鉄の代わりにタクシーを拾うことにした。その方が落ち着いて頭の中を整理できる。
タクシーはすぐに掴まり、後部座席に収まる。
市ヶ谷にあるJSDの場所を告げると、運転手は思ったより短距離であったことが不満だったのか、無言のまま車を走らせた。
園田は構わず車窓を眺める。
この平和ボケした日本で、“CIA“はタイミングが尚早な気もする。だが、機が熟すのを待ち続けるのも能がない。
どこかでは勝負に出なければならないだろう。
外事局内で力を持つ企画部長と営業部長は自分の息のかかった後輩だ。
今後は、第二人事部に入った横峯から、エージェントに関する情報も入ってくるだろう。
そう言えば、横峯からメールが届いていたことを思い出し、スマホを開く。
早速エージェントの卵を発掘したらしい。イニシャルMS、23歳で容姿端麗、極限状態においても冷静さを失わない特性を持ち、スナイパー候補と書かれている。異動後すぐに結果を出すあたりは、さすがは横峯というところか。
人材という意味では、八坂組がつぶれた際に露頭に迷った若者数名を調査費名目で囲い込んだ。
いざというとき、外事局の正式な決裁を経ることなく、自分の判断で動かせる駒を持っておくことが目的で、井岡のやり方を参考にした。
頭脳も手足もそろった。外事局内での影響力という意味では、おそらく俺の右に出る者はいないだろう。
いつしか園田の脳裏には、新聞の一面トップを飾る“初代日本版CIA局長 園田雄作“の見出しが浮かんできて、仏頂面と評される園田の表情も珍しいことに崩れている。
窓越しに、皇居のお堀脇の古い10階建てのビルが見えると、到着は近い。
視線を前に戻すと、ミラー越しにこちらに怪訝そうな視線を送っている運転手と目が合った。
園田は、緩みきった頬を引き締めると、咳払いをひとつした。