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第4章 再会

 

 第4章 再会

 橋口

 8月21日


 平凡な日常を取り戻したものの、職を失って、急に暇になった。

 平日の昼間から部屋でぼーっとしていると、チャイムが鳴った。なにかの営業かと思いながらインターホンに出ると、マンションの管理人だった。

 JSDとの賃貸契約が切れたので、出ていってほしいと言われ、慌てて個人名義で契約を交わすことにした。

 野上のやろう。本当に冷たい奴だ。ちゃんと血が流れてんのか?

 確かに、WARAJIを守るというミッションは達成できなかったが、それはサポートしなかったJSDが悪いのだ。

 コーネルがいない今、文句を聞いてくれる相手もおらず、胸の内でぼやくしかない。

 とはいえ安心な日常を取り戻したのだから、まずは彩恵子にお礼を言わねばならない。

 久しぶりにLINEした。

 相変わらず忙しそうではあったが、時間を見つけてもらい、会うことにする。

 場所は彩恵子の会社からほど近い神田のワインバーだ。

 事故現場から救い出してもらった日以来だから1か月ぶりになる。

「彩恵子のおかげで、なんとか首の皮一枚で命がつながった。本当にありがとう」

 酔っぱらう前に、と封筒に入れた8万円と、彩恵子の会社のスマホを返す。

「こちらも記事にできて週刊誌の部数は急上昇。ボーナスも上がりそうだし、おいしい思いをさせてもらったからね。感謝してるよ」

 二人はワイングラスを重ねる。

「でも、記事の執筆者が彩恵子の名前じゃなかったね」

「私はぺえぺえだからね。まだ自分の名前で記事を書かせてもらえる立場じゃないよ」

「そんな、ひどいね」

「同情してくれてんの? でも、今回は、燈が持ってきた情報と証拠資料をまとめただけ。それで名前売ったところで、なんだか引け目を感じちゃうでしょ。でも、ご心配なく、社内での私の株は急上昇で、今後はいいネタを任せてもらえそうな感じ」

「そっか。それならよかった。で、一見、事件は収まったように見えるけど、これでよかったのかな?」

「・・・記事見てわかったと思うけど、燈の命を狙った黒幕までは明らかにできなかった」

「まぁ、読めばだいたいわかるけどね」

「真実が知りたいよね?」

「真実ねー。私からすればどうでもいいけどね。だって、マスコミが記事にしなかったのにはそれなりに事情があるんでしょ」

「燈はそれでいいんだ?」

「私だけそれを知ってどうすんのよ。復讐するの? それとも一生恨みを抱えて生きろって? 真実ってそんなに大事かな?」

「もちろん、真実は大事よ。真実がわかるからこそ、しかるべき対策も打てるし、あきらめられることだってある」

「逆に言うと、対策を打たずにいられなくなるし、あきらめなきゃいけなくなる・・・。彩恵子はマスコミだからそう言うのはわかるけど。私にとって真実なんて意味はない。真実の先にこそ意味があると思うんだ」

「真実の先?」

「目指している世界よ。真実って、その手前にばたぼたと落としていく夢の残骸みたいなもんでしょ?」

「順番が違うんじゃない? 夢を見た結果として真実がある」

「夢が終わることはない。終わるのは死んだときだけ。それに、真実が何かなんて見る人によっても変わっちゃうでしょ? 例えば、この世界だってひょっとしたら誰かの夢の中かもしれない。でも、それでもいいじゃない。その中に自分の夢を作ることができるんなら」

「騙されて偽の世界で生きてて、それで幸せって言える?」

「事実かどうかで物事を判断しようとするから、偽物だって知って傷つくのよ。大事なことは自分を信じることじゃないかな。人が絶望するのって、夢が叶わなかったときじゃない。失敗したって、また新しい夢を持てばいいんだもん。絶望という字の通り、動かしようもない現実を突きつけられて自分を信じられなくなることじゃないかな」

「そういわれてみれば、そうかもね。で、燈の夢はなんなの?」

「夢を探すことかな? なんのしがらみもない世界で、自分が何者かを突き止めること。・・・あまりに漠然とし過ぎかな? あはは。彩恵子は?」

「わたし? 考えたことなかったけど、家族で仲良く平和に暮らすこと、かな」

「平凡! 学生時代の彩恵子だったら納得するところだけど。今だったら、そうねー、さだめし、真実の追求による社会正義の実現、なんじゃないの?」

「はは、よしてよ」

 彩恵子は少し照れながら言葉を続ける。

「マスコミがどんなに悪事を暴いたって、結局、生き残るのは、正義を貫こうとする政治家じゃなくて、金と人脈と情報を持っていて、その使い方を知っている政治屋だってことが、今回のことで私にもわかった。そこはマスコミ含めて私達庶民はどうあがいても変えられない」

「巨悪は残るってことか」

「うん・・・。あと、暴力団もどこまでいっても無くならない」

「得手不得手もあるよ。ヤクザ退治はマスコミの仕事じゃないのかも。じゃんけんみたいなもんでさ。チョキはパーには勝っても、どうあがいたってグーには勝てない。土俵が違うんだよ、きっと。ヤクザ対策は別の誰かに任せるしかないのかも」

「そうかもね。一応、パーには頼んだんだけど・・・」

「えっ?」

「いや、こっちの話。ところで燈はこれからどうすんの?」

 彩恵子が話題を変えてきた。

「サムライ社では好き勝手に動いてたからね。周りからしたら、矢島というエリートの腰ぎんちゃくに見えてただろうし、腹の底ではよく思ってなかったはず。そこにいきなり指名手配だからね。元の職場に戻る勇気はないかな」

「まあ好きにしたら。燈くらいたくましければ、どこに行っても生きていけるよ」

 彩恵子はそう言って笑った。

「別にたくましいわけじゃないよ・・・。前世がカジキだった、てことかな」

「カジキ? なにそれ」

「カジキってね。泳ぐの止めると呼吸ができずに死んじゃうんだよ。私もそう。立ち止まったり過去を振り返ったら、そこでエネルギーが切れちゃう気がして。だからいつも何かを求めて泳ぎ続ける」

「そっか。なんかわかる気がする。でも、燈だったら、いつか立ち止まっても呼吸できる場所にたどり着ける気がするな」

 そう言う彩恵子の目がなぜかうるんでいる。

「やだ! なんで彩恵子がしんみりしてんのよ。別に同情を買おうと思って言ったんじゃないんだけどな。飲も飲もっ」

 彩恵子は自分というものをしっかり持っている一方で、共感力が強すぎるのかもしれない。

 話は尽きなかったが、ワインボトルが一本空いたところでお開きにして、ほろ酔い気分で彩恵子と別れた。


 数日後、矢島が起訴猶予で釈放されたことをテレビのニュースで知った。

 矢島は1か月以上前に逮捕されて以来、微罪での逮捕と送検が繰り返えされてきたが、もはやいずれの罪状も勾留期限に達し、拘置所に留めておくことができなくなったようだ。

 初犯であること、実害を被った被害者が存在しないこと、そしてなにより、サムライ社が矢島の開発した新しいセキュリティシステムの完成を発表し、世界的な注目を浴びたことが、検察が起訴しづらい雰囲気を作った。

 実際のところ、経済団体の重鎮は、矢島が起訴された場合は減刑嘆願書を出すことを公言していた。天才プログラマーを檻の中に入れることは、日本が世界から置いて行かれることを意味する。

 海崎が財界のフォーラムでそう熱心に主張したらしい。

 ここで検察がごり押しをすれば、批判の矢面に立たされかねない。検察からしても檻の中の矢島はすでにお荷物になっていたのだろう。

 思えば、私が拘置所にいたとき、あいつもあそこにいたんだな。

 あのときは自分のことで頭がいっぱいだった。

 矢島のせいでひどい目にあったのは事実だが、矢島に私のことを巻き込むつもりはなかった。それどころか、こっちが無理やり矢島に白状させて首を突っ込んだのだ。

 逆に、私が外事局の諜報員としてサムライ社にいなかったら矢島は無事だったか、というと、それも違う。どのみち矢島は逮捕され、命を狙われる運命だったろう。

 そう考えると、燈が事件に巻き込まれたのは偶然ではなく、天の与えたシナリオだった。そして、考えうる結末の中では一番マシなものにたどり着いた。

 そう思うことにした。

 自分の役割は終えたわけだし、このまま矢島にも会わずにフェードアウトするのが一番スマートだってことはわかっていた。

 会ったところで本当のことなんて話せるわけがない。

 振り返ってみると、これまで私はずっと過去を切り捨てて生きてきた。

 小学生の頃の友達には、自分の進んだ大学を知られたくなくて、途中から連絡を取らなくなった。

 中学時代の唯一の友達だった麻里奈ちゃんとも連絡を避けていたが、大学生になって久しぶりに近況を知りたくなり、年賀状を送ってみた。でも、ハガキはあえなく、宛先尋ね当たらず、で戻ってきてしまった。

 思えば麻里奈ちゃんのことを自分より社会的に下の存在として無意識に見下していた気がする。転落していく自分のことを知られたくない、という変なプライドがなければ、今も親友でいられたのかもしれない。

 高校のときにプログラミング大会でタッグを組んだ友人は、一人は東大、もう一人はスタンフォード大学に進学し、風の便りでは二人とも今はニューヨークで活躍しているらしい。その当時は、“世界最強トリオ”とか言って、盛り上がっていたが、今思うと、彼女達と燈では、住んでいる世界が違ったのだ。

 そうやって自分の過去を無かったことにして、先に進むことがなんだか虚しく思えてきた。たとえ傷ついたり、傷つけたとしても、誰かの人生にちゃんと関わりたい気がした。

 この間、彩恵子と飲んだとき、矢島が拘置所でひどい目に遭わされていることを知らされた。逃亡中の私に言えば精神的な負担になるという配慮で、それまで黙っていたのだと言う。

 その後の矢島の体調や精神状態も気がかりである。目的を達したから、はい、さようなら、というのでは、あまりに人として薄情すぎる気がする。

 矢島に世話になったことは確かだし、一度会っておくことにした。


 最寄りの駅から歩いて矢島のマンションに向かう。太陽はまだ真夏のもので、アスファルトからは熱気が立ち上っている。

 こんなに遠かったっけ。

 駅でタクシーをつかまえるんだった、と思うが遅い。

 服装は迷った挙句、Tシャツとジャンパースカートにしたが、正しい選択だった。あふれ出る汗をハンカチでぬぐいながら15分ほど登ると、坂の上にたどり着く。

 見上げた先に、住人らしき人がゴミを両手に通りに出てきたのが目に留まる。

 立ち止まり、その人物の様子を眺める。それは偶然にも矢島だった。

 Tシャツに短パン姿の矢島は、頬はこけ、無精ひげをはやしており、この1か月間の過酷な環境が窺い知れた。

 カラス除けのネットの中にビニール袋を置き、顔を上げたところで、燈と目が合う。

 目にはかつての光が宿っている。

 その瞬間、矢島のもとに駆け寄って、その薄っぺらい胸板を数発殴りつけたい衝動に駆られた。

 あんたのせいで、私がどんだけ辛く、恐ろしい思いをしたか。

 その思いの丈をぶちまけたい。そんな感情が一気に湧き上がった。

 こんな感情に突き動かされたのは、生まれてこの方初めてのことだった。これまで自分のことを人に理解してもらいたい、なんて思ったことがなかった。

 だが、もう一人の冷静な自分がかろうじてその衝動を抑え込む。

 それは、諜報員だったというプライドかもしれないし、自分の身分を矢島に隠していることの後ろめたさだったかもしれない。

 少し涙目になる程度に自分を律すると、わざとゆっくり矢島のもとに歩み寄った。

「お久しぶりです」

「よくここがわかったな」

 さほど驚いたでもない様子で矢島は応える。

「矢島さんのことはすべてお見通しです」

 ストーカーと思われないよう冗談めかして言う。

「まぁ、お前のやることにいちいち驚かないけどな」

「頬もこけちゃって。ずいぶん苦労したんですね?」

「まあな。お前にも迷惑かけたな。暴力団に命狙われるわ、警察にも追われるわ。ニュースでしか知らないけど」

 その軽い言葉にいらっとした。

「私の命を狙ったのはヤクザってことになってるけど、私に死んでほしかった人間は他にいたんだと思います」

「そうだな。総理の犯罪の週刊誌記事、読んだよ。あれを読めば、お前や俺を追い込んだのが誰か推測がつく。ああ、橋口が命を張って情報を集めてくれたんだなってわかった。おかげで俺は釈放された。感謝している」

 矢島が神妙な面持ちで言う。

「確かに矢島さんからもらったデータは雑誌社に送りましたけど、その後は知りません。ブラックライトの記者がよっぽど優秀だったんだと思います」

 そう言いつつも、矢島から初めて礼を言われて、こそばゆい気がした。

「記者の東園さんが俺と会ったあとにあんなことになっちゃって。俺自身、捕まって取り調べを受けてるときは、もう駄目かって絶望してた。お前がどうやって真実にたどり着いたのか知らないけど、新聞社すらすっかり封じられちまったものを、ちっちゃな雑誌が自力で記事を書いたとは思ってない」

「そこまで矢島さんに買いかぶられてるとは知りませんでしたよ」

 おどけて言うと、話を変えた。

「その記事を書いた記者さんから聞いたんですけど、弁護士の方が矢島さんと接見したときに、矢島さんがボロボロだったって。ひょっとして拘置所の中で薬でも打たれたんじゃないですか?」

 一瞬、矢島は答えに窮すると、

「ここで話すのもなんだから、部屋にあがっていきなよ。足の踏み場はたっぷりあるぞ」と言うと、ためらう私をしり目にスタスタ歩き出す。

 そして、近くの自動販売機にコインを入れて缶コーヒーを二つ取り出した。

 自販機を横目に見ながら、どうせならコーラがよかったな、と思いながら、マンションに向かう矢島の後を無言でついていく。

 エレベータを降り、矢島のあとに続いて見覚えのある玄関に足を踏み入れる。部屋の景色は以前の記憶とは違い、すっきり、というより、がらんとしていた。

「トラックが来て、家具は全部持ってってもらった。部屋を引き上げて、実家にいったん戻る。昨日まで両親も来てたんだが、一足先に田舎に引き上げてったところ」

 矢島はさきほど買った缶コーヒーのうち濃厚カフェラテを燈に渡すと、自分はブラックのタブを開けてぐびりとやる。そして、うすっぺらいクッションを一つ、燈の方に投げてよこすと、自分はもうひとつのクッションの上に胡坐をかいて座った。

 持ってきた菓子折りを「引っ越しの邪魔になって、なんですけど」と言いながら差し出すと、矢島は、「横浜バーバーか、これ好きなんだよ」と早速包みを開きにかかる。

 いや、散髪屋じゃないんだけど。

 矢島は、私にひとつよこして、自分は早速ぱくつく。

 家具が何もないだだっぴろいリビングに二人でサシで座るのは、間合いがつかめず戸惑うものだが、一人だけつっ立っているわけにもいかないので、矢島のよこしたクッションに体育座りする。

 1個目の菓子を食べ終わった矢島が口を開く。

「さっきの拘置所での話だが、注射されたわけじゃない。支援者からの差し入れに入ってた饅頭を食ったら意識が薄れてね。そのまま数日夢の中を彷徨ってた。このまま死ぬんだろうな、とぼんやり思ってた。意識を取り戻してからも頭痛がひどくってな。体はだるいし」

「そんなひどい仕打ちされたのなら、違法な取り調べとして訴えるべきですよ」

「少し回復してきてから、刑務官に、差し入れに毒が入っていたかもしれないから調査してくれって要求したら、食品の差し入れは禁止だから、そんなものが入っていたはずはない、と否定されて。体調が悪いから医者に診せてくれ、といっても、体温、脈拍ともに正常だからそれはできないと拒否された。おまけに、こちらが知らないうちに供述証書にサインまでさせられてた。人権も何もあったもんじゃない」

 矢島は憤慨して言った。

「そんな恐ろしいところだったなんて。私は一泊ですんでラッキーだったってことですね。国家なんて国民を守ってはくれないんだってことは、私も実感しました。証拠の捏造なんて当たり前って感じで」

 矢島は、そうだな、と相槌をうって、話を続けた。

「検事から、銀行のシステムに侵入して何を盗んだ? 盗んだ情報は誰に見せた? と執拗に尋問された。朝から晩まで取り調べで、睡眠時間は実質3時間くらいかな。WARAJIで侵入したことはすなおに認めたんだが、悪意はなかったと主張した。それでも、やつらは納得しなくってね。こちらからは総理の犯罪の話をしようとしたんだが、話を逸らすなって、逆に切れられて。話を聞いてもらえる状況じゃなかった。お前についてもずいぶん聞かれたよ。情報を渡したんじゃないかって。もちろん、否定した。お前のことは一切しゃべってない。それは信じてくれ。もっとも毒饅頭食って意識が遠のいてからのことは自信ないけど」

 矢島は矢島で必死に戦っていたのだ。“三食昼寝付き”などと思ったことを恥じた。

「もちろん、信じてましたよ。矢島さんはそんな薄っぺらい人じゃないって」

 エアコンもなく蒸し風呂のような部屋が急に耐えられなくなり、ふー、暑い暑い、とつぶやきながら立ち上がって、全開になっている窓からベランダに出た。

 外を眺めると、心地よい風が頬を撫でる。

「へえ、景色いいですね」

「高台にあるからな。駅からの坂道はしんどいが」

 自分の歩いてきたくねくねした坂道を駅まで目でたどってみる。

 ここまでよく登ってきたもんだ。

 矢島のことを振り返り、

「サムライ社には戻らないんですか?」と訊いた。

 矢島は二つ目の菓子の袋を開いている。

「会社には相当迷惑かけたけど、開発はきっちりやり遂げた。会社への義理立ては済んだだろう。海崎さんもプログラマーだったころからはすっかり変わっちまったしな」

「昔はどんなだったんです?」

「システム小僧だったよ。発想が独特でさ。海崎さんにあこがれてサムライに来たけど、今は単なる起業家だな。カネがすべてになっちまった。昨日、会社に行って海崎さんに辞表を出してきた」

「田舎に戻って何をするんです?」

「そうだな。少し時代に流され過ぎたから、しばらく自分を見つめなおす。そのうち旗揚げでもするかな。この時代、パソコン1台あればどこでだってプログラムは書けるから」

「それがいいかもしれませんね」

「ところで、海崎さんに聞いたら、俺が逮捕されて以来、お前もずっと出社してないって言ってて。それを聞いて心配はしてた。そしたらピンピンしてて・・・。心配して損したぞ」

 矢島が今日初めて笑顔を見せた。

「私も矢島さん同様に警察に追われてましたからね。矢島さんのように神妙にお縄につけばよかったのかもしれないけど、強盗殺人ですから、下手したら監獄から二度と出られないかも。そう思うと潔くはなれなかった」

 だろうな、と矢島は肩をすくめてみせる。

「それでどうするんだ? サムライ社に戻るか?」

「私はそもそもあの会社に望まれて入社したわけでもないし。どこか就職先を探しますよ」

「そうか」

 雰囲気を変えたくって、わざと腕を上げて、うーん、と鼻から声を出しながら背伸びをしたあと、矢島の方を振り返った。

「ところで、もし、100億円あったら、矢島さんなら何に使います?」

「なんだいきなり。100億か・・・正直、ゴミだな」

 ばっさり切り捨てた後で、ニヤっと笑うと、

「でも、見せ金にはなるな。それだけあれば500億くらい引っ張ってこれるかも。そうすりゃ、世界に打って出るアプリの一つも作れるな。いきなりどうした? アメリカで宝くじでも買うのか?」

「惜しい! 以前買ってあったスイスの宝くじがあたっちゃったんです。ネットで簡単に買えるんですよ。ホント世の中、捨てる神あれば拾う神ありですね。当選を知って慌てて私の知り合い、スイスに赴任している銀行員なんですけど、に頼んでスイス銀行の口座を作ってもらいました。でも、貧乏暮らしが長いから何に使っていいものかわからなくって。単に株とかに投資するのも能がないでしょ?」

 珍しくペラペラとしゃべる燈に、矢島は不信気な視線をじっと送っている。

「・・・お前、まさかサーバに入ってたWARAJIを売り渡したんじゃないだろうな」

「まさか。指名手配されてずっと追われてましたからね。私にそんなことする暇があるわけないじゃないですか」

 足下に否定するが、つい早口になってしまう。矢島は、

「俺も何度か誘惑を受けたことがあるけど一番高くて10億だったぞ。まったく、安く見られたもんだ。300億なら俺も考えたんだけどな」とぼやく。

 100億円でも十分、吹っ掛けたつもりだったが、まだ足りなかった? 矢島の苦労作を投げ売りしてしまったようで、違う意味で矢島に後ろめたい気持ちが芽生える。

 ふと、富岡首相の受け取った10億円がかわいく思えてきた。

 お金の価値って一体なんなのかわからなくなる。

 そんなことをぼーっと考えていると、矢島は急に何かに気付いたらしく、「おいっ」と声を上げてこちらを睨みつけた。

「ひょっとしたら、上海でおきた金融システムトラブルって、WARAJIの仕業じゃないのか? 統制がとれている中国があんな大失態を演じるなんて変だと思ったんだ」

 矢島の声が興奮のあまり裏返りそうになっている。

「まったく・・・人の話聞いてました? 私にそんな余裕ありませんって」

「WARAJIを社外で使えるとしたら、俺とお前だけだぞ・・・」

 矢島にはこちらの言葉が耳に入っていないようだった。

「ひょっとしたら、矢島さんが契約してたサーバ、中国の諜報機関に侵入されちゃったのかもしれませんね。矢島さんが牢屋にいる間、誰もメンテしてませんでしたから」

「牢屋じゃなくて、拘置所だ・・・」

「似たようなもんでしょ。私もそこに一泊しましたから」

「中国の諜報機関が俺の契約したサーバの所在なんてわかるわけないだろう。それになんで中国の諜報機関が国内のシステムを攻撃するんだよ」

「それが、上海市長って周亜寧主席の政敵だったんですって。そして事件の後、見事に失脚した・・・。ホントWARAJIって罪な存在ですね。まぁこれは単なる想像ですけど」

 WARAJIを使ったこと、そして、中国に渡してしまったことを知っているのは、外山首相と自分だけである。

 おそらく外事局も知らないだろう。もし知ったらWARAJIを外国から守るという自分達のミッションが失敗に終わったという現実を突きつけられることになる。そうなれば野上は激高のあまり何をしでかすかわからない。いや、野上はJSDをクビになるのかも。いずれにしても、ここだけは認めてはいけない。

 矢島はしばらく、うーん、と考えこんでいたが、しばらくして吹っ切れたように燈の顔を見上げると、

「最初、お前が入社してきたとき、チャラいお嬢さんが来たな、くらいに思っていたが、俺の目が節穴だったらしい。どうやらただもんじゃなさそうだよ、お前は。まあいい。WARAJIのことは俺の妄想ってことで。それでその100億を俺に投資するのか?」と問いかける。

「その前に矢島さんの夢を聞いておかないと。独立するんでしょ。これから何をするんです?」

「そうだな。スポンサーには事前に話しておかないとだな。AIティーチャーを作る。虐待を受けている子、いじめを受けている子、病気を患っている子、なんらかの事情で学校に行けない子に、遠隔で相談に乗って勉強を教える。ここまではありきたりだけど、今までは、大人が勝手に評価してカリキュラムを子どもに押し付けていた。これでは、生徒の個性や抱えてる悩みに則しているとは言えない。AIティーチャーは、子供との対話の中でその子の得意・不得意を解析し、その子が興味を持っていることを無理なく伸ばしてあげることができる。そうすれば、すべての子供が自分の境遇に拘わらず、自分の夢に全力を注げるようになる」

 あの矢島が熱く夢を語っている。

 正直驚いた。人に興味を持たず、趣味もない。仕事にしか興味がない薄っぺらい人間にこんな情熱があっただなんて。

「へえ。そんな夢があっただなんて知りませんでした。AIか・・・。確かにロボット相手だとマウントの取り合いが生じないし、プライドが高かったり問題児と言われる子供たちでも素直に心を開けるかもしれませんね!」

「・・・まあ、そういう効果もあるかもな。自分の容姿や話し方にコンプレックスがある子どもでも、ロボット相手だと気にせず話ができるし」

 初めて矢島への尊敬の念が湧いてきた。

 だが、ここで矢島のペースに乗せられてはいけない。

「でも、どうしちゃったんですか? そんないい人を演じるなんて。プログラムにしか興味を抱かない矢島さんらしくないですね」

 思わぬ反撃に矢島は、そこまで言うか、と言った後、一瞬、考え込む様子を見せるが、ぼそっと口を開く。

「これは黙っていようと思ってたんだけど。お前、歓迎会で自分が言ったこと、覚えてる? 普段はおちゃらけてるけど、酔っぱらったお前は本音を語ってた」

 ひょっとして外事局のミッションについて話しちゃった?

「えっ、何を話しましたっけ?」

 恐る恐る訊くと、

「やっぱ覚えてないか。歓迎会で主役が酔いつぶれるなんて前代未聞だ。家までタクシーで送ってやったのを忘れたか?」

「えっ。家まで送っていただいたんですね。全く覚えてなくて・・・ご迷惑をおかけしました」

 自分に帰巣本能があると思ったのは勘違いだとわかった。

「いや、それはいい。飲み会でお前は、男なんて威張ってばっかりでくずだ、とかわめいてたぞ。聞いちゃいけないこと聞いちゃったかもだけど、父親が投資で失敗したんだってな。父親はそのことを謝るどころか家族に当たり散らして、家族が崩壊したって。最後は自分のことをもっと認めてほしかったって泣き出してさ。なんだ、非難してても結局はファザコンかよって思った。でも、『私は運よく教育を受けられたけど、すべての子供が家庭の事情に拘わらず均しく教育を受けられるようにすべきなんです』って言ったのが、なんだか頭から離れなくってな。後にも先にも酔っ払いの言葉に心を動かされたのは初めてだよ」

 そんなことを話していたのか、私は。

 恥ずかしさに顔から火が出そうだった。

 自分が父親のことで泣く? そんなことありえない。

「情けないところをお見せして恥ずかしいかぎりです・・・」

「いや。そうじゃなくて、お前は見かけによらず苦労してんだなって思ってさ。それに引き換え、俺は恵まれてた。俺にできることは何かなって、そのとき考えた。それまで金とか地位とか名誉。そんなものしか人生の目標として浮かんでなかったけど、考えれば、そんなものは目標でもなんでもなくって、後からついてくるもんだって気付いた」

「ずいぶん、ご立派な意見にたどり着いたんですね・・・」

 動揺を隠せず、ぎくしゃくした口調になる。

 外事局のミッションについて漏らしたわけじゃないことがわかって安心したが、野上が聞いたら卒倒していたかもしれない。酔ってぺらぺら自分のことをしゃべる諜報員だなんて。

 だけど、私の軽薄な性格だけが原因じゃない。この矢島という人物のオープンな雰囲気が自分をそうさせたんだと思う。

 相手によって態度を変えないところには、かねてより好感を抱いていた。

「お前って内面に重いものを抱えてるくせに、普段は仮面かぶって涼しい顔してる。その強がっているところを俺も見習おうと思ってな。つまり幸せへの最短ルートを目指すんじゃなくて、やせ我慢してでも自分のやりたいことをやることにした」

「わかりましたから、私の話は忘れてください。ところで、そんなシステム作って金になるんですか?」

 無理やり話題を戻そうと試みる。

「どうだろうな。完成さえすれば、後は、サーバの電気代と最新教材を読み込ませるコストがかかるくらいで、子供が何万人いようとAIが自動で働いてくれる。日本政府の教育にかける支出は世界的に見て貧弱だけど、コスパがむちゃくちゃいいことを説明すれば、文科省も金を出すだろう。ハードの部分に国が出資してくれればあとはなんとかなる」

「その夢乗ります」

 思わず声を張り上げた。気が付いたら、矢島の目の前に座り込んでいた。

 ここに来る前には燈自身、想像だにしなかった展開だった。

 矢島は目の前に迫ってきた燈に一瞬たじろいだ様子だったが、

「・・・よし。一緒にやるか」

「はい」

「第2の麻里奈ちゃんを出さないためにもな」笑顔に戻った矢島が言う。

「えっ」

 一体、どこまでしゃべったんだ? 私は。


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