第2章 逃亡
第2章 逃亡
橋口
7月22日
矢島がいない今、自分はどうすればいいのか。逮捕されて二日たった今も、答えを出せずにいる。それは座して死を待つに等しいということはわかっている。が、とりあえず、現実逃避だ。
テレビのバラエティ番組をぼんやり眺めながら、ワインの栓を空けてグラスに注ぎ、カットしたゴーダチーズを口に運ぶ。夕食がまだであったことを思い出したが、まあいいかとそのままグラスを傾けた。
コーネルが膝に上ってくる。
首まわりを掻いてやると気持ちよさそうに目を細めている。こいつとの暮らしも3か月になり、ずいぶん大きくなった。
思えば、自分のことを頼ってくれる存在ができたのは初めてだった。その幸せをかみしめる。
そのとき、玄関のドアに何かがぶつかる音が響いた。
酔っ払いがよろけてぶつかったのかと思ったが。それにしても結構な衝撃であった。
状況を確認するため、警棒を袖口に忍ばせてドアののぞき穴から外を窺うが、誰もいない。
少しドアを開いて通路を見回すと、40歳前後の女性がびっこをひくように階段を下ろうとしているのが目に入る。その背中には赤いシミがべったりついている。
何かの事件に巻き込まれたのか?
「大丈夫ですか?」
後ろ姿に声を掛けるが、その人物は振り返りもせず、階段を下りていった。
怪我をしているのであれば、さすがに放置はできないと、女性の後を追うが、びっこを引いている割には早く、簡単に追いつけそうにはない。
何者かから逃げているのか?
だが、背後から誰かが追ってくる気配はない。そもそも、その女性の後ろ姿に見覚えはなく、ここの住人かどうかも怪しい。
階段を3フロア降りたところで、階段の踊り場に落ちている紙袋が目に入る。
さきほどの女性が落としていったのだろう。
いったん追うのをやめて、中を確認した。上から見えている衣類を取り出すと、中にはいくつか石が入っているだけだった。
紙袋は放置して、女性の後を再び追いかけることを考えるが、いまさら追いつくのは無理と思い直し、あきらめて部屋に戻ることにした。
女性の背中についていた赤いシミは出血のように見えたのだが、廊下に血痕らしきものは見当たらないし、手の込んだいたずらだったのかもしれない。
背中を刺された演技だとしたら、その目的は一体なんだ?
首をかしげながら、ドアを開けて部屋に入ると、テーブルの上でグラスが倒れており、コーネルがテーブルに上がってこぼれたワインをぺろぺろと嘗めている。
「こらこら」
コーネルを抱き上げて床に下ろすと、テーブルの上を拭く。
ネコにアルコールは有害と聞くが、嘗めるくらいの量であれば平気だろう。
飲みなおそうとソファに腰を下ろすと、コーネルがふらふらして近寄ってきた。
「馬鹿ね、お酒なんか飲むから」
笑いながら語り掛け、膝の上に抱きかかえる。と、しばらくしてコーネルは口から泡を吹き、痙攣を始める。
やばい、と思う間もなく、ぐったりとして動かなくなった。
近くの24時間対応の動物病院に電話をかけて予約を入れる。そして、キャリーケースにコーネルを寝かせ、車に飛び乗る。
夜の道に車を走らせた。
隣にいるコーネルは虫の息だ。自分の不注意でアルコールを飲ませてしまったことが悔やまれる。
もし、死んでしまったらどうしよう。最悪の事態が頭をよぎる。
自分もワインを飲みはしたが、一杯ちょっとだから、と自分に言い訳する。
片側2車線の道路に出る。
幸運にも青信号が続いたのと、深夜ということで車もほとんど走っておらず、快調に飛ばすことができる。
間もなく海岸沿いの道につきあたる。T字路を右折すれば動物病院はもうすぐだ。
頼む、もう少し頑張って。
このT字路だけは、いつものことで赤信号が灯っている。
時速70kmくらい出ていたスピードを落とそうと、かなり手前でブレーキを踏む。が、なぜか減速しない。
おや? 思い切りペダルを踏み込むが駄目で、焦って左足のサイドブレーキも踏んでみるがこちらも効かない。シフトレバーを動かそうとするが無理だった。
そんなばかな。アパートを出たときにはブレーキがちゃんと効いていた。
あっというまに車は横断歩道をつっきり、目の前に堤防のコンクリートが迫る。咄嗟にハンドルを右に切る。車は制御を失い、右側を向くと同時に横転し、最後は後ろ向きになって堤防に衝突した。
エアバッグがボンと膨らみ胸を圧迫する。
衝突のいきおいで、車は低い堤防を乗り越え、そのまま暗い海の中へ落ちていった。
落下した車は数メートル下の海面に叩き付けられ、再び激しい衝撃が燈を襲う。
ぐしゃぐしゃになった車体の中に、冷たい水が勢いよく流れ込んでくる。
慌ててシートベルトを外す。
水位は一気に燈の顔まで上がってきた。覚悟を決めて息を止め、ひしゃげたドアを押し開けて車から脱出する。
真っ暗な水の中で、一瞬、上下の感覚がわからなくなるが、かすかに明るい方向を見つけると、そこに頭を向けてゆっくりと上がる。
道路の照明で海面が光っているのだろう。
すぐには海面に顔を出さず、潜ったまま堤防に向けて斜めに泳いでいく。
しばらくして水面が暗くなった。照明が堤防で遮られたようだ。
水面から顔を出すと、息を吸い込む。
小学生の頃にスイミングを習っていたことに感謝する。運動は得意ではないが、水泳だけはなぜか性に合っていた。
波はそう高くはないが、波消しブロックに叩きつけられないよう、注意深く岸に近づくと、足を上げてブロックを押さえ、最後は波に押される形でブロックに両腕でつかまった。
体を上に引っ張り上げると、ブロックにもたれかかった。
助かった・・・。
その態勢でしばらく呼吸を整え、車が沈んでいった水面を眺める。緊張と寒さで体が小刻みに震えた。
いくつもの幸運が重なった。堤防沿いの道を走る車がなかったのもそうだし、また、堤防や海面に衝突したのは、いずれも車体の後部からであったため、背中のシートが衝撃を受け止めてくれた。
海に投げ出されて初めて、これが何者かによる陰謀だと気付いた。
本当はコーネルが泡を吹いた時点で、気付くべきだったのだ。ワインには毒が盛られていた。
この瞬間、薄ら笑いを浮かべて海を眺めている者がいるのかもしれない。
首謀者は誰だろう?
中国かロシアの組織のことが一瞬、頭をかすめるが、こんなことをする動機が思い当たらない。私が死んでもなんのメリットもないだろう。口留めされる情報も持っていなければ、生命保険を掛けられた覚えもない。
やはり、矢島を陥れた組織が私の命を狙っているのか? それが国家である可能性が高い以上、警察に助けを求めるのは危険だ。外事局もあてにすべきでない。
息が整い、心臓のバクバクが収まったタイミングで、波消しブロックを乗り越えると、堤防沿いに進む。
道路に戻れる場所を探しながら歩くと、100メートルほど進んだところで、ようやく鉄製の梯子が見つかった。
梯子に手をかけて、腕にあたる物に気付く。ポシェットだ。
慌てて車に飛び乗ったので、肩から外さずそのまま運転していたのだ。中には機密情報の入ったUSBメモリとスマホが入っている。
私は悪運が強い。
スマホを操作してみるとちゃんと反応がある。
連絡帳を開き、助けてくれそうな人を探してみる。
いざというときに頼りになる親友。そんなものがいないことに気付いた。もっと社交的だったらよかったと、今さら後悔しても始まらない。
そんな中、出版社に行った大学の同期の名前を見つけた。戸城彩恵子。
確か週刊誌の記者をやっているはずだ。大学時代、特に仲がいいわけでもなかったが、頼るには最適かもしれない。
「もしもし、大学時代の橋口だけど・・・覚えてる?」
「ああ、燈か。久しぶり!」
相変わらずのんきな雰囲気を漂わせている。
「実は、車ごと海に転落しちゃって。でも心配しないで、怪我はしてないから。ただ、ずぶ濡れになっちゃったから助けに来てほしいんだ。あと、ちょっと事情があって、警察とかが事故現場に集まってくると思うんだけど、私のことは黙っててほしい。いや、犯罪とか犯したわけじゃないから心配しないで。詳細は後で話すけど、警察も信用できない。とりあえずLINEで私の居場所を送る」
冷静にポイントを押さえて状況を伝えるつもりが、とりとめなく一気にまくしたてしまった。要件は伝わっただろうか?
「わかった。今から車で行くから待ってて。白いファミリーカーだから」
意外にもあっさりと承諾の返事があった。ほっとして礼を言い、電話を切る。
まもなくしてパトカーやら救急車のサイレンが複数重なって聞こえてくる。事故があったことは誰かが警察に通報したのだろう。
堤防の上からサーチライトが海面を嘗めるように行き来している。警察が事故車を探している模様だ。
梯子のある場所を少し行き過ぎたところに隠れて時間をつぶす。彩恵子は40分くらいで着くと言っていた。
40分が過ぎる。
吹き付ける海風の冷たさにそろそろ限界を感じて、道路まで上がってみると、タイミングよく白い車がパーキングライトを点滅させながらやってきた。
路肩に停まった車の運転手の顔は暗くてよく見えなかったが、彩恵子で間違いないだろう。
停まるや否や、警察官が車に駆け寄ってくる。運転席の窓から何やら話かけていたが、しばらくして立ち去っていった。
今がチャンスだ。
車の後部座席に駆け寄ると、すばやく車内に潜り込んだ。
「ありがとう。助かった。ずぶぬれでごめん」
後部座席には用意がいいことにビニールシートが敷かれている。
「久しぶりー」
緊張感のないイントネーションに脱力する。
「そこの紙袋にバスタオルと着替え入っているから。スエットだけどね。とりあえず車出すよ」
燈はひとまず座席下にうずくまって外から見えないように身を隠す。
彩恵子はウインカーを出して車を発進させると、そのままT字路を直進する。パトカーやら救急車を横目にすり抜ける。
「自分の家に戻るのはまずいでしょ?」彩恵子がハンドルを握りながら声をかけてくる。
「うん」
「私の家と言いたいけど、それもまずいから、今夜はビジネスホテルに泊まる、でいいかな?」
「そうする」
「とりあえずスマホの電源切って。たどられちゃうよ」
「うん、機内モードに変えた」
落ちつきはらった彩恵子のアドバイスに驚かされる。
この子、私の置かれた状況をすでに理解してるってこと? こんなに機転が利いてチャキチャキしてたっけ。記者になるとこうも鍛えられるものなのか。
彩恵子を見る目が変わった。
「さっき警察官が来てたじゃない? 何を話してたの?」
「ここは駐停車禁止だから車を早く出してって。車の調子悪いからJAF呼びますって言ったら、しぶしぶ去っていったわ」
彩恵子は学生時代、本当にさえない子だった。地味で、自分の意見も言わず、いるのかいないのかわからない存在。
よくスマホに連絡先が入っていたものだと感心するくらいだ。
思い返せば学生時代、まわりに気を配り、自分にもいろいろと親切にしてくれていた印象があるが、こういった緊急事態に頼りになるイメージはない。
正直なところ、彩恵子が到着するまで、気が気ではなかった。
大勢の警察官が集まる物々しい雰囲気に、彩恵子がパニックを起こし、「あんた一体何をしたの! 正直に警察に言わないと」と喚き散らす姿が想像され、そんな彩恵子をどうやってなだめ、自分の言うことに従わせるか、と思案していたが、全くの杞憂だった。
芋虫のように転がりながら着替えようと試みる。
スエットに体が納まると同時に、車は鋭角に曲がって駐車場に滑り込み、その遠心力で燈の体は再び座席下に転がった。
停止した車から、外の様子を観察すると、古めかしいビルがそこにあった。外壁のコンクリートにはマスクメロンのように網目模様が走っている。時代から取り残されたようなこのホテルであれば、監視カメラなどないかもしれない。
「チェックインしてくるから車の中で待ってて」
彩恵子はそう言うと、一人すたすたとホテルに入っていく。
数分して戻ってくると、
「307号室。今、ドアをあけっぱにしてあるから、先に入ってシャワー浴びてて。私は10分ほど準備してからそっちに行く。鍵は私が持ってるから内側から施錠しちゃってオーケー」
彩恵子の一連の反応に、なんだか自分の姿が重なって見えた。
私には周りで起こっていることを、それが世間でいう奇妙なことであっても、そのまま受け入れてしまうところがある。異常事態に慌てる自分というものが無様に思え、そんな姿を認めたくないし、周りにも見せたくなかった。だからおかしなことが起きても、それをあたりまえだと無理やり考えるのかもしれない。
自分というものがなく、やたら適応力がある人間。カメレオン的とでも言おうか。彩恵子にも同じ一面を見た気がした。
彩恵子の配慮に甘えて早速部屋のユニットバスに入る。
熱いシャワーの刺激は、燈に生きている実感を与えてくれた。
ユニットバスから出ると、彩恵子はすでに室内にいてテレビを見ている。
「コンビニで買ってきた。ワイン飲む?」
「うん」
自分が赤ワインが好きなことを覚えてくれていたのか。
本音を言えばそんな気分ではなかったのだが、少しだけ付き合うことにする。
「ずいぶん、手際がいいね。ありがとう、助かった」
「警察に助けを求められないなんて、かなりやばいことに巻き込まれたみたいね。私もマスコミのはしくれだから力になれるかも。まずは話を聞かせて」
「どこから説明したらいいのかわからないけど・・・。起きた事件は二つ。今晩、私の部屋に何者かが侵入してグラスに毒を盛った。私は無事だったけど、それを飲んだ猫が死んだ。もう一つは、猫を動物病院に連れて行く途中、車のブレーキが急に効かなくなって、堤防を突っ切って海に沈んだ」
「あなたを絶対に殺す、という強い意志を感じるわね」
少しウキウキしてみえる彩恵子の表情にカチンとくる。
「何か楽しそうじゃない? これは推理小説の話じゃないんだけど」
彩恵子のことを軽く睨む。
「ごめん、ごめん、そんな風に見えた? で、誰かに殺されるようなことをやったの?」
いちいち言い方がひっかかるがここはスルーした。
「ニュースで知っていると思うけど、不正アクセスで逮捕された矢島は私の同僚。矢島は世界が注目する重要プログラムの開発プロジェクトリーダーで、海外の諜報員が接触しようとしてたって噂もある」
「なるほど、諜報機関の仕業だと・・・」
「大事なのはその先で、矢島がそのプログラムを使って銀行のシステムに不正に侵入しちゃったの。そしたら抽出したデータの中から、総理大臣の犯罪の証拠が見つかったってわけ」
「えっ、マジ?」
「うん。彩恵子に頼ったのはマスコミの力を借りて総理の罪状を公にしたかったから。もし、私の命を狙っているのが総理の犯罪をもみ消したいと考える組織だとしたら、記事にしてもらうことで、私も命を狙われずにすむでしょ?」
「で、総理の犯罪って何なの?」
「収賄事件。海外のメーカーから金をもらって、その会社から戦闘機を買うことに決まった」
「タイフーン・・・か。やっぱり、総理がからんでるわね」
自分が外事局の職員でもあることは、彩恵子には黙っていた。
もう外事局にも見限られているのかもしれない。だとすれば義理立てする必要もないとは思うが、マスコミ側からするとどうだろう。
防衛省に外事局という秘密組織がある、という情報の方が手っ取り早く記事になり、部数も稼げるかもしれない。そうしたら私の危険な立場はそっちのけになる恐れがあった。
彩恵子が裏切るとは思えなかったが、ここは用心するにこしたことはない。
「プレーキが効かなくなったのは、多分、遠隔で車がハッキングされたんだと思う。あのコースは普段、私がもっともよく通る道だからね。誰かが私が通ることを予想して待ち伏せしてたに違いない」
「相手は手ごわそうね」
「彩恵子の雑誌で総理の犯罪を取り上げてもらえないかな?」
「まずはどんな情報があるのか確認してみてからかな」
「総理の口座に振り込まれた経緯に関するデータはここに入ってる」
USBメモリを取り出して見せる。
「貸してみて」
彩恵子は持ってきた自分のタブレットにUSBメモリを差し込むと、ファイルの中身を開く。
日時と金額、出金元と入金先のデータが羅列されている。
米国タイフーン社から子会社に、その子会社から中南米系の商社に、その商社からタイフーン・ジャパンに、数回に分けて30億円が送金されている。
そこから口座間のやりとりは途絶えている。現金でばらまかれたのだろう。日本護国党の口座への入金が十数回、総理の政党支部、政治資金団体にも十数回に分けて、計20億円の入金が確認できる。振り込みでなく預け入れだ。残り10億円もどこか関係者の懐に入ったのだろう。
「なるほど。直接振り込まれていなくても、出金のタイミングと入金のタイミングが合ってるわね。限りなくクロだけど、これだけじゃ弱い。データの改ざんも簡単にできるし。これを補強する証拠がないと」
「やっぱりね。矢島も毎朝新聞の記者にこの話を持ち掛けてたんだけど、証拠不足を指摘されてたみたい」
「ということは、毎朝とうちのスクープ争いってことね。相手にとって不足ないわ」
彩恵子はその気になってくれたようだ。
「どんな証拠が必要なんだろう?」
「タイフーン・ジャパンと政治家側が現金の受け渡しをした証拠があるとベストなんだけど・・・」
燈が黙り込んでいるのを見て彩恵子が続ける。
「デスクには話してみるけど、総理を糾弾する、ってことは雑誌からするとかなりでかいリスクだからね。証拠が不十分なら、ちっぽけな出版社がたわごとを書いてると笑われる。それで済めばましで、最悪、訴訟を起こされ、政府の圧力で会社ごとつぶされかねない」
はーっ。彩恵子の話を聞いて思わずため息が出た。
「私なりに証拠を集めてみる」
「燈にそんなことできんの?」
あきれる彩恵子を横目に、投げやりに言った。
「ツテがないわけじゃない。助けてもらった恩もあるし、なんとか週刊ブラックライトで記事にしてもらいたいから」
「私のために頑張る必要はないけど、真実を暴かないとこの先もまずいよね」
彩恵子が苦笑する。
「ところで、・・・悪いけどお金貸してくれない? 私の財布には濡れた万札が2枚と五千円札が1枚」
「ああ、そうだよね。国家が絡むとなると、銀行に立ち寄ったり、カードを使えば、そこから足がつく。もちろんいいよ」
「悪い。生きて戻れば必ず返す。戻ってこなければ、ご霊前と思ってあきらめて」と気まずさを隠しながら頼み込む。
彩恵子はプッと不謹慎にも吹き出すと、笑いながら財布から紙幣を無造作に抜き出して数えることなく差し出した。
「笑うなんてひどいわね」
「だって、言うことがいちいち面白いんだもん。燈って、昔からシリアスな状況でも独特のトークを飛ばしてたよね」
「別に受けを狙ってるわけじゃないんだけどな」
自分の言動はどうやらTPOと合っていないらしい。
「とにかく、ありがとう。助かる」
受け取った紙幣の枚数を声に出して数えると8万円だった。マスコミって結構はぶりがいいのかな。そんな感想を抱く。
彩恵子は続けて、USBメモリを燈に差し出した。
「これコピー取ったから返す」
USBメモリをポシェットに戻しながら、
「本当に彩恵子が来てくれてよかった。私には頼れる友達がほとんどいないからな」とぼやく。
「友達に頼るのはよした方がいいよ。迷惑がかかる」
彩恵子はそこまで言ってはっと思ったか、慌てて、
「あっ、私はいいのよ、遠慮しなくて。仕事の一環だからね」と思い切りの笑顔でフォローするが、燈は苦笑いを返すしかなかった。
これってやっぱり友情じゃなくてビジネスってことよね。
「燈のスマホは使えないだろうから、会社から支給されてるスマホを貸してあげる。ホテル内では電源を入れないでね。私がここにいたことがバレちゃう。じゃあ、一緒にいない方がいいから私は自宅に戻るわ。明日以降、何か進展があったらそのスマホから連絡ちょうだい」
救世主は私にウインクして帰っていった。
こういうキャラだっけ? 自分の記憶に問いかけてみたが、昔の地味な彩恵子とはなんだか結びつかなかった。
ともかく彩恵子のおかげで寿命が1日は延びた。
テーブルには口が付かないままのワイングラスが残っている。
彩恵子は酒が強かったはずだけど?
その一方で、ワインボトルはすでに半分くらい空いている。
今日はいろんなことがあり過ぎたから、少しくらい酔っても仕方ない。
心の中で言い訳して、そのままの恰好でベッドに身を投げ出す。
戸城
7月22日
燈をホテルに残して帰るのは、辛かった。
でも、自分にできるのはそこまでとわかっていた。それ以上踏み込んで手を貸せば、事態がさらにややこしいことになりかねない。また、燈であれば一人で逃げ切れると信じていた。
燈のことを一番よくわかっているのは私だ、という自負がある。
スマホを燈に渡したが、自分への電話連絡は極力避けるよう伝えた。私が燈のことをサポートしていることがばれれば、私がかけた先の携帯はすべからく位置情報を調べられると思った方がいい。
自分が取り急ぎできるのは、明日出社して、燈に託された情報を記事にするようデスクを説得することだけだ。
部屋に帰ると、蒸し苦しい空気がもわっと圧迫してくる。
燈のピンチに自分がどこまでできるか試されている、そんな高揚感が内側から熱を発して暑さを倍増させているようだ。
エアコンを付けると同時に、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。飲み口のタブを引き上げると、一気に喉の奥に流し込む。
さきほどのホテルではワインを飲み損ねた。自宅に戻る際に検問でひっかかったら目もあてられないからだ。
翌朝、いつもより早めに起きると、すぐにテレビのスイッチを入れ、ニュース番組を映す。
朝食のトーストとコーヒーの準備をしながら、自動車事故が報道されていないか、ちらちらと視線をテレビに送る。だが、画面に流れる映像は、あおり運転によって迷惑を被った人の体験談や、無人店舗で商品の万引きを繰り返す中年男性の話のたぐいであった。
あれだけの事故が報道されないというのは、どういうことだ。報道規制?
もやもやが残りながら、テレビを切って部屋を出る。
記者はフットワークが求められる。動きやすいよう、いつものクリーム色のパンツスーツ姿で電車に飛び乗る。膨張色をまとうのは取材先で少しでも自分を大きく見せたいからだ。髪は邪魔にならないよう後ろでくくってある。
電車の中でもネットニュースをチェックするが、それらしき事故は報道されていない。
オフィスに着いて時計を見ると8時半。いつもより少し早い。デスクは、と見ると、すでに席にいて、新聞に目を通している。
自分の席を経由することなく、その足でデスクの前に立った。
「でかいヤマがあるんですけど、時間いいですか?」
そう言うと、奥の会議室を指さす。
デスクは、なんだ、朝一番で、と、けだるい表情を浮かべながらも、新聞をたたみ、腰を上げて会議室にやってくる。
「総理の犯罪の証拠をつかみました」
橋口にもらったデータを壁に取り付けられたモニターに表示させて説明する。事の大きさにデスクも目がすっかり覚めたとみえる。
「ニュースソースは?」
「秘密です」
「それじゃ記事は出せんぞ」
「情報源の命にかかわることですので、記事が出ることが決定されるまでお伝えすることはできません」
「これだけでは記事にはできん。もっと証拠になるものを探してこい」
「はい、そうしたいのはやまやまですけど、今から過去の不審な行動を探してしっぽをつかめるかというと・・・」
「なんにしても、ヤマがでかすぎるな。上が動揺しないように、俺のところで止めておく。なんとかお前の方で目途をつけてくれ。他のメンバーはあいにく手が空いて無くてな。道筋が見えたら編集長にも話を通し、取材の応援も出す」
わかりました、と席に戻ってはみたものの、目途のつけ方がわからない。
燈の命が狙われたということは、迂闊に国家権力に取材をかけるのは危険ということだ。
燈はどうやって証拠を探すつもりだろう?
その日の晩、職場から蒲田にある自宅に戻ると、二人組の中年男性がマンションの玄関前で佇んでいた。
私の姿を確認すると、向こうからつかつかと近寄ってきた。
どうやら、私の面は割れているらしい。
若い方が声をかけてくる。
「ちょっといいですか? 警察です。トジョウサエコさんですよね」と警察手帳をかざす。
「はい。あっ、手帳をしっかり見せてください」
すぐに仕舞おうとするのを制止して、鞄からメモ帳を取り出し、名前と所属を書き込む。捜査一課ではなく公安だ。
「そちらの方もお願いします。これでも記者なので、習性上メモしないではいられなくって」
笑顔でごまかしながら言うが、こんな図々しい人はいないのだろう。
少し年長の男は、彩恵子のことを少しねめつけながら手帳をかざすと、
「橋口燈さんのことはご存じですよね?」と問いただす。
少し考える素振りを見せてから、
「えーっと、大学で一緒だった子だと思いますけど」と答える。
「昨日、交通事故を起こして、それから行方不明なんです。居場所ごぞんじないですかね?」
「知りません。卒業以来、連絡とってないから」
「事故の直後に橋口さんの携帯からあなたの携帯に電話をかけた履歴が残ってるんですよ。話をしてますよね?」
証拠は挙がってるんだ、と言わんばかりの勝ち誇った表情だ。
さすが、調べが早いな。
内心感心しつつも、そんはなずはない、といった表情を浮かべてスマホを取り出すと、わざとらしく驚いて、
「あっ、着信履歴がある。2分33秒通話していることになってますね。誤動作で気づかないままに受信してしまったのかもしれません」とつぶやいてみる。
「画面を見せてください」
若い男はスマホの画面をのぞき込むと、表示された数字の羅列を見て
「これ、橋口さんの番号ですよね?」
「連絡先に登録されていない番号なのでわかりません。でも、そうだとすれば悪いことをしちゃったな。助けを求めてきたのかもしれない」
思い切り心配そうな顔を作り、その場で折り返し電話をかけるが、燈のスマホは機内モードになっているので通じるはずもない。
若い男は、私の態度に疑いの眼をむけながらも、通話に関する追及はいったんあきらめた様子だ。
今度は年長の男が、
「お宅の中を見せていただいてもいいですか?」と迫ってきた。
「ちらかっているのでお見せしたくはないですけど」
「疑うわけではないんですが、人命がかかってますので」
「仕方ないですね」
そんなやりとりの後、アパートの玄関でオートロックを解除する。エレベータで7階まで上がり、部屋に通した。
令状はないので、彼らも乱暴に探し回るわけにはいかない。ましてやこちらは記者だ。公安とて変なことを書かれたくないから、一定の配慮をしないわけにはいかないだろう。
彩恵子が部屋の扉をいちいち開けて案内する。
一通り探し終わり、誰もかくまっていないこと、客人が来た様子がないことが確認できたのか、若い方の男が、こちらの方を向いて、お忙しいところご協力ありがとうございました、と会釈する。
「ところで、単なる人探しでどうして公安の方が出張ってるんですか?」
とぼけて訊いてみた。
「我々も詳しい話は聞かされていませんが、橋口さんが国家機密に接していたという話もありましてね・・・」そこまで話したところで、年長の男が咳払いをして、若い男が口をつぐむ。
年長の男が話の後を継ぐ。
「とにかく、橋口さんがあなたを頼って電話したのは確かなので、今後もあなたに連絡が入るかもしれません。彼女は暴力団に追われているようです。早く保護してあげないと危ない。橋口さんから連絡があったら、すぐにこちらへご連絡ください」
そう言って電話番号が書かれたメモを渡される。
「暴力団、ですか?」
スパイでも国家機関でもない、第三の当事者の出現に少しとまどう。
「まだ、詳細は捜査中ですが」
「何か事件に巻き込まれたってことですか?」
「私の口から申し上げることはできませんが、今日にもニュースで流れると思いますよ」
訳知り顔でにやりとして玄関に向かう。
まだ、私への疑いは晴れていないだろうが、あの電話以外に私にたどり着く情報はないはずだ。
そう思いながらも、最後に年長の男が見せた意味深な態度が少し気になった。
橋口
7月23日
目が覚めてホテルの部屋に据え付けられている時計を見ると、11時を回っている。
アラームを掛け忘れたようだ。ワインのせいか少し頭が痛い。
確か彩恵子がいたはずだけど・・・。寝ぼけた頭で辺りを見回す。
目が覚めるにつれて、昨日の事故前後のことが徐々に意識領域にダウンロードされてくるが、それがあまりに遅くてじりじりする。
事態を認識すると、こんなところでのんびりしてられないことに気付く。
追手が迫る前にホテルはチェックアウトしないと。
所持品はスマホ2台と、ホテル代をひかれた9万円ちょっと。
彩恵子にもらった古いリュックを担いで、部屋を出ると、フロントで精算を済ませる。延長料金を取られた。
どこに行こうかと考えながら駅まで歩く。
あてはないが、人混みに紛れるのがいいと考え、東京に向かうことにした。
電車の中で、サムライ社を無断欠勤していることを思いだす。
どう説明するにしても面倒臭いことになりそうだ。矢島がいなくなってショックで寝込んだ、とでも思わせておけばいいか。
サムライ社のことは放置することにした。
秋葉原駅で降りて街に出ると、最初に目に入ったインターネットカフェに入る。
さて、これからの戦略を練らなくては。
総理の犯罪の証拠を上げるためにはどうすればいいか?
あれこれ考えてみるが、過激なアイデアは浮かぶものの、現実味はなさそうだ。
このまま考えていても頭の中をグルグル回っているだけで、何の結論もでないことに気付き、気分転換を図ることにした。
映画を観ようとリモコンを操作する。アクション映画は身につまされるし、ホラー映画は心臓に悪すぎる。コメディでいいや、と適当に選んで鑑賞するが、結局、意識はそこにあらず、何にも笑えないままエンディングを迎えた。何の映画だったか、タイトルすら全く頭に残っていなかった。
次に手に取ったのはマンガだ。
ぴらぴらめくっていくが、しばらくして、マンガは手をすり抜けて床に落ち、いつしかリクライニングチェアの上で眠りに落ちた。
気付くと朝の9時だった。同じ姿勢でずっと寝ていたせいで腰が痛い。
抹茶オレを淹れて部屋に戻ると、テレビをつけて朝のニュース番組をチェックする。
『昨日、博多港の倉庫で堂島龍二さんが死亡しているのが見つかりました。堂島さんは広域指定暴力団の菅野組の幹部だということです。鋭利な刃物で複数個所刺されており、死後数日経過しています』
ふーん、物騒だな、とありきたりの感想を抱きながら半分聞き流す。
『これに関連するニュースです。二日前に、神奈川県内で車を運転中に海に転落し、運転手の女性が行方不明になる事故が発生していますが・・・』ここまで聞いて、自分のことだとはたと気付き、画面にくぎ付けになる。
『警察が転落した車を引き揚げたところ、殺害された菅野さんから奪ったと思われる覚せい剤が車内から発見されたということです。また、菅野さんの殺害現場近くの植え込みで見つかった包丁からは、菅野さんのものと思われる血痕と、この女性の指紋が検出されたことから、警察ではこの行方のわからない女性について強盗殺人の容疑で逮捕状を請求しています。ただ、事故を起こした際に亡くなっている可能性もあり、海上保安庁が海上を捜索しています』
テレビの前で茫然としていると、画面いっぱいに私の顔写真が映しだされた。そしてテロップには“橋口燈 容疑者”としっかり表示されている。
自動車事故の報道はなかなか出なかったのに、報道されたと思ったら、覚せい剤や自分の指紋付きの凶器まで発見されていて、そればかりか、自分の顔写真が用意されているという手際の良さだ。
話に尾ひれがついた、ではない、尾ひれにいきなりお頭がついてしまったような話である。
完全に嵌められた。
殺し損ねたので、いっそ犯罪者にしてしまえってことか。
どこまでねちっこくてあくどいやつらなんだ。
姿の見えない敵に心の中で悪態をつく。
私が総理の犯罪を知っている、ということは、事故の時点では矢島しか知らない。
ということは、敵は警察か。矢島を取り調べる中で私の存在が明らかになり、私も総理の犯罪を知っていることがばれたのだろう。
矢島のやつ、私のことをしゃべったな。
怒りが込み上げる。
あとは、外事局がからんでいるかどうかだ。外事局が私を消しにかかっているとは思いたくなかったが、何の連絡も来ないということは、少なくとも関与はしないという方針なのだろう。元からいなかったことになっているのかもしれない。
国家というものの非情さをひしひしと感じた。
そちらがそのつもりならこちらにも考えがある。
昨日から脳裏をかすめていたアイデアを実行することにした。自分の中にある価値観に反するので葛藤を感じていたが、そんなことを言っていられなくなった。
計画を実行する前に、腹ごしらえをしようと考え、コンビニに買い出しに出た。
朝食兼昼食のおにぎりとサラダを買って、ビニール袋を左腕にぶら下げてネットカフェに戻ってくると、フロントにただならぬ雰囲気が漂っていた。よく見ると、その筋らしき、いかつい男二人組が中にいる。
半袖のシャツから伸びる太い腕には、入れ墨の一部がのぞいており、鋭い眼光はプライベートで来店したのではないことを示している。
私を探しているのだ。
一人が店員に詰め寄ってあれこれ質問し、その隙を縫ってもう一人が中の個室を一つ一つ改めていく。
買い物に出たのはラッキーだったと言えよう。
血の気が引くのを感じながら、貴重品のポシェットを身に着けていることを確認し、そのまま後ずさりするように店から離れる。
どこに泊まればいいだろう?
指名手配され、ご丁寧に顔写真がアップで出ている以上、ホテルには行けば、すぐに通報されてしまうだろう。
そのとき目に飛び込んできたのがカラオケルームの看板だ。
これだと思い、店内に飛び込むと、とりあえず3時間で申し込む。
一人でカラオケルームに入るのは初めてのことだ。もちろん、歌う気力などないので、ポテトとドリンクを注文すると、ソファの上にごろんと横たわった。
まず、さきほどのヤクザのことが気になり、調べることにした。
寝ころんだまま彩恵子に借りたスマホを操作する。
“すがのぐみ”と打ち込んで、画面に出てきたのは、九州北部をシマにして殺人などの事件を何度も起こしている凶悪な組織だった。
九州の暴力団を東京の街でのさぼらせておいていいのか、このあたりの暴力団に問いただしたかった。
東京の暴力団事務所に「ちゃんと縄張りを守れよ」と匿名の電話を入れてガチャ切りしてやろうか、などと妄想を膨らませるが、ここらあたりをシマにしている組がどこなのかも知らないし、自分がそんなことをしている場合でもないことはわかっている。
妄想から覚めて、やるべきことを進めることにした。
機内モードにしてある自分のスマホを開く。
スマホには矢島にコンタクトしてきた怪しい組織のリストが残っている。その中には中国の諜報機関であることが判明している番号があった。外事局の記録に載っていたものだ。その番号を見つけると、今度は彩恵子に借りたスマホを取り出して電話をかける。
「はい。東アジア貿易振興協会」
無愛想な応答に、何と言っていいのかわからず、
「WARAJI。興味ある?」と訊いてみた。
なぜか、話し方が片言風の日本語になってしまった。
「誰だ? 電話をかけたら名乗りな」
「橋口燈。逮捕された矢島の同僚」
「・・・なるほど。指名手配されている人がどんな御用かな?」
その筋では自分もすでに有名人のようである。
「あなたも名乗って」
「私は李勇だ」
「もう一度聞くけど、プログラムに興味ある?」
「あんたが持ってるとでもいうのか?」
「もちろん」
「で、それをどうすると?」
「あまり興味なさそうね。不要なら他所をあたるわ」
「まあ待て。こちらで買い取ってもいいが、何が希望だ? 金か?」
「金も必要。だけど他にも願いがある」
「言ってみろ」
「日本の総理大臣の犯罪についてしっぽをつかんだ。あなた達の持つ調査能力で証拠をそろえてほしい」
「ふふ。日本という国がつくづく嫌になったってことか。国に裏切られて復讐に走ろうと・・・面白い」
「ううん。真逆よ。これは日本の未来のため。もちろん私の未来のためにもね」
「金はいくらほしい?」
「100億円」
「調子に乗るな。出せるのは10億円までだ」
「そちらのトップに掛け合ってみれば。本当に100億円が高いと思うのかって」
「わかった。確認はしよう」
「取引の段取りだけど・・・」
「私にはこの件について権限がない。担当から折り返し電話させる。そちらがかけてきた番号でいいか?」
「いいよ」
電話はプチっと切れた。
嘗められないように横柄な日本語を使ったが、これでよかったか?
とりあえず100億円とふっかけたが、金額に根拠はないし、何に使うというあてもない。ただ、矢島達が苦労して作ったものはそれなりの金をもらわないと申し訳ないような気がしただけだ。向こうから値切ってきたら、それで手を打つつもりだ。
本来ならその金はサムライ社に渡すべきものかもしれないけど、実際問題としてどうやって渡せばいいのかはわからない。
サムライ社からしても、ああそうですか、と受け取れるものでもないだろう。矢島個人に渡すのも違う気がするし・・・。いざとなれば恵まれない子供を支援するNPOにでも寄付すればいいか。
3時間が経過し、カラオケルームを2時間延長するが、なかなか連絡はこない。
これ以上延ばすと店員から疑われそうだ。
どのくらいたったろうか。突然鳴りだしたスマホのメロディに飛び起きた。知らないうちに転寝していたらしい。
着信音が派手で少し調子が狂うが、彩恵子に借りたスマホだと気付き、急いで通話ボタンを押す。
「プログラムを売りたいそうだな」
「そう。あなたの名前は?」
「東アジア貿易振興協会の張志雲だ。取引に応じよう。プログラムの入った媒体を今から言う場所に送れ」
「その前に、総理の犯罪の証拠を集めて」
「先にこちらが働け、というのか? そんな都合のいい話は通用しない。もしプログラムが偽物だったらこっちは大損だ」
「そんなこともないんじゃない? 総理の犯罪をあばけば、政府を揺するなり恩を売るなり、外交カードにも使えると思うけど」
「外交とはそんな単純なものではない。が、一応話を聞こう」
「総理はタイフーン社から賄賂をもらって無人戦闘機F99の発注を決めた。裏金の入金ルートをつかんだので、後は、総理サイドの人間がタイフーン社と密会している証拠が欲しい」
「入手可能か確認しよう」
「うまくいけばF99の導入を中止させることもできるかも。お宅の国からすると脅威なんでしょ? 米国空軍のシミュレーションによるとお宅の戦闘機、殲20の勝率は2%とか」
「そんなフェイク情報にはコメントする価値もない。ところで、一応、聞いておくが、我々にWARAJIを渡して悪用されることを心配していないのか?」
「まだ言ってなかったけど、あなた達はWARAJIは使用しない、っていうのがこちらの条件」
「おかしなことを言うな。使わないものに金を払えと?」
「このプログラムは新しいセキュリティシステムを作るうえで欠かせない。これがあれば、あなた達のセキュリティ技術は飛躍的に進歩するはず。それに、もし、あなた達が外国に向けて悪用すれば、必ず報復を受ける。だから、私に約束する、しないに拘わらず、結局は使えないってこと。ルーズ・ルーズの結果になる」
「日本人は口だけだ。報復なんてできっこない」
「政府にはできなくても私ができる」
「では、本当にWARAJIにその能力があるのか示してもらおう。こちらが指定するサーバをダウンさせてみろ。上海に試験運用中の最先端銀行システムがある。日本の銀行とはリンクしていないから、愛国者の君も気にすることはない。期限は三日以内だ。」
上海の銀行システムがダウンしたら国家として大損害ではないか。一体何を考えているのか。
「自分の国のシステムを攻撃してみろ、なんて面白い提案だけど、いいよ。ダウンさせればいいんでしょ」
「あとでサーバのアドレス情報を送る。親切心までに警告しておくが最新のセキュリティシステムが作動している。ヘタを打ったときは覚悟が必要になる。つまりその瞬間、WARAJIとお前の存在価値はゼロってことだ。いやマイナスと言うべきか」
「問題ない。システムがダウンしたら、総理犯罪の証拠をそろえて私の指定する住所に送って頂戴。証拠が届いたらプログラムデータが入った媒体をそちらの指定した先に送る。中身が確認できたら100億円を私のスイスの銀行口座に振り込む、という順序でどう?」
電話の向こうでしばらく沈黙が続くが、
「いいだろう。ソースコードが使えないものだったら、契約は解除だ。そのときはどうなるかわかってるな。信用は命だ。裏切りは許されない」と返ってきた。
この場で即決できるということは、それなりの立場の人間なのだろう。
「大事なことね。私も裏切りは許さない。もし、裏切ったら、北京が上海と同じ目にあうことになる」
そう言うか言わないうちに、電話は一方的に切られた。
賽は投げられた。
こんなスパイごっこがうまくいくのかわからないが、どのみち何もしなくても誰かに殺される身だ。敵が一つ増えたとして、たいした問題でもなかろう。いちかばちか賭けるしかない。
そういえば、上海の金融システムがどんなものかも知らずに軽々しく引き受けてしまったが、今さらにして気になってきた。
ネットで検索してみる。
上海市肝いりで世界に先駆けて開発された金融システムネットワークとある。上海銀行が中心となり、上海市にあるすべての金融機関を接続し、瞬時に暗号化された情報が細かく分散されて共有される。もし、どこかの銀行のシステムがクラッシュしても、他の銀行のサーバ内に仮想サーバを自動で立ち上げ、そこに暗号化データを集約し、復元することで、即座にリカバリが可能になる仕組み、とのことだ。
それぞれの銀行が高額なコンピュータの予備機を購入、整備する必要がなくなり、事実上、システムダウンすることがない完璧な情報システムが完成することになる。安くて、速くて、完璧、ということだ。
稼働が開始された初日は、新聞の一面を賑わせていたようだ。上海がロンドン、ニューヨークを超えた、と。
そんな最新のシステムに侵入できるだろうか? 不安がよぎる。
矢島の作ったプログラムを信じるしかない。
ふと、今の矢島に思いを馳せる。あいつは今ごろ留置所でぬくぬくと三食昼寝付きで過ごしているのだろう。なのに、こちらはその尻ぬぐいでハードワークを強いられている。なんとも割に合わない話だ。そう思うと涙がにじむ。
これでWARAJIがうまく作動しなかったら許さん。
冷静になれば、矢島が誘ったわけでもなく、こちらが勝手に首を突っこんだのではある。そう自分に言い聞かせ、暴走しそうな感情にブレーキをかける。
何はともあれ仕掛けは整った。
カラオケルームの料金を支払って外に出ると、ネットで調べた公衆電話の場所に向かい、久しぶりに外事局の野上に電話をかける。
「橋口です」
「生きてたんだな・・・」
野上の声だ。あっさり電話に出たことにびっくりする。
そうか、公衆電話からかければよかったのか。
「それだけですか? 私のこと、陥れたのは野上さんですね」
「それは濡れ衣だ。我々は矢島の逮捕にも、君の指名手配にも一切関与していない」
「じゃあ、誰です」
「それは、わからん。我々は国内で起きていることのすべてについて把握できているわけではない。警察が独自で動いているんだろう。どのみち、外事局はWARAJIプロジェクトから手を引く、というのが組織の決定だ。残念ながら我々はこれ以上君に関与できない。親切心で教えておくと、菅野組という九州の暴力団が総力を挙げて君を探している」
「その方々はさきほどお見掛けしました。おかげでおちおちネットカフェでも寝てられません」
「警察に出頭したらどうだ? 命は助かる」
「それ本気で言ってますか? そんなことしたらどうなるかご存じですよね」
あまりに無神経な言いように怒りが湧いた。冤罪で一生を棒に振ることになる。野上もフォローのしようがないのか黙りこんでいる。
「こっちは矢島さんが開発したプログラムデータを持っています。意味はわかりますよね? 自分を守ってくれない国家に義理立てする必要はないってことです。官房長官に会わせてください」
「会ってどうするつもりだ」
「警察から守ってもらいます」
「・・・WARAJIについてお前から電話が入ることだけ官房長官に伝えておく。最後の情けだ。だが、おそらく取り次いではもらえんだろう。あまり期待はするな」
受話器を置くと、電話ボックスを速やかに離れる。逆探知されていたらまずい。
別の場所にある公衆電話まで移動すると、野上に教えられた番号に電話をかける。
官房長官の秘書を名乗る者が電話口に出る。
「橋口と言いますが、外山官房長官と話をさせてください」
「橋口燈さんですね。話は聞いています。明日の20時、赤坂の葵亭に来ていただければ官房長官はお会いするとのことです」
電話を保留することもなく、淀みなくそう告げる。
ほっとした。礼を述べて電話を切る。
少し驚いた。あまりあてにはしていなかったが、野上はあれからすぐに官房長官に電話をしてくれていたようだ。官房長官が会う気になったということは、こちらの意図は通じたらしい。
別のカラオケルームを探して、ロビーで申し込み手続きをしていたところ、奥から何やら会話が聞こえてくる。
「警察です。少し中を見せてください」
「勝手に入んなよ、おっさん」などと、もめている様子だ。個室をひとつひとつ開けて回っているのだろうか。
急いでトイレの個室に駆け込む。ここまでは踏み込んでは来まい、と思うが、びくびくしながら40分ほどを中で過ごした後、トイレから出ると、警察官の気配はすでに消えている。
やれやれ、暴力団の次は警察か。
夜明けまで眠れぬ夜を過ごすと、明け方、カラオケルームを出た。白み始めた街を秋葉原駅まで歩く。
山手線のホームに着くと、ちょうど電車が滑り込んできた。乗り込むと中はがらがらで座席の端に陣取ると、腕組みをして睡眠の態勢に入った。
寝ぼけ眼で時計を見ると10時過ぎだった。東京の街を何周したのだろう?
腰は痛いが、睡眠のおかげで気力は回復した。
神田駅で電車を降りると、中央線に乗り換えて四谷まで行く。
近場の喫茶店に入り、朝食兼昼食をとることにする。
さすがに腹が減ってはいくさもできぬ。ハムサンドにぱくつき、アイスレモンティーで喉を潤す。
腹が満たされたあとは、身支度だ。
近くのアパレルショップに入る。
できるだけ高級そうに見える濃紺のスーツとブラウス、パンプスをチョイスし、会計を済ませる。高級そうといっても財布に残っている金を考えると、予算は4万円が限度だ。
近場の銭湯をスマホで検索すると、割と近くに表示が出てきた。5分ほど歩くと、それはあった。
ネットカフェでもシャワーは浴びずじまいだったので、久しぶりの風呂だ。汗を流し、湯舟でくつろぐ。
風呂から上がると、買ったばかりのブラウスとスーツに袖を通す。そして久しぶりに鏡の前に座り、気合を入れて化粧をした。
官房長官と会うのに、みすぼらしい恰好をして同情を買う、という戦術もないわけではない。だが、ああいった政治家にそういう方法が通用しないことは知っている。どちらが上なのか、絶えず相手を値踏みして、強い者にはしっぽを振り、弱い者は叩き落してここまでのし上がってきた輩だ。
毅然とした態度で臨み、はったりでも同等の立場で話をしないと通用しない。ヤクザではないが、嘗められた時点でおしまいだ。せめて外見だけでもちゃんとしておかなければと思い、眉毛は濃い目にばっちり描く。
銭湯を出たとき、財布に入っている残金は5千円ほどであった。
これが“兵糧攻め”ということか。
この表現が今の自分の境遇を言い現している気がした。ここで決着をつけないと、これからは路上生活をするはめになる。
段ボールで寝るのは背中が痛そうだ。そもそも段ボールってどこで手に入れるんだ? 炊き出しってどこでやってるのかな。
頭に浮かんでくるとりとめない考えを振り払う。
まずは目の前のことに集中だ。