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第1章 潜入

 第1章 潜入

 橋口

 4月1日


 地下鉄の階段を上り、道路に立った途端、スプリングコートの襟もとからビル風が流れ込み、体をぶるっと震わせる。

 六本木の街を歩くのは久しぶりだ。

 あたりを見回しながら進んでいくと、その超高層ビルはあった。朝日がガラス面に反射し、輝やくさまを見上げ、しばしの間、口をぽかんと開ける。

 今を時めくIT企業はこういうビルに入っているのだ。

 1階で受付を済ませ、仮のIDカードを受け取ると、30階までエレベータで上がる。

 ホールに立てかけてある案内板には、入社式会場はこちら、と右側に向けて矢印が書かれている。

 誘導されるままに会議室に入ると、新入社員がすでに20名ほど席に着いている。

 同じくらいの年齢のはずだが、自分よりフレッシュな印象を受ける。

 ワクワク感と緊張感が8対2ってところだろう。対する私は2対8で緊張感が勝っている。3歳は年増に見えているに違いない。

 座席に着くと、険しい表情になっていないか気になって、頬を両手ではさんでもみほぐす。

 別に彼らと戦いに来たわけではない。

 時間となり、人事部長の司会で式が始まると、最初に登壇したのは社長である。海崎真一。テレビでも見たことがある顔だ。

 会社の沿革を自らの苦労話を交えて紹介するが、半分は自慢話みたいなものだ。最後に、

「ここは皆さんが日本で、いや世界で最も輝ける場所です。一流のプロフェッショナルを目指して妥協することなく自分を高めてください。開発中のセキュリティシステムが完成すれば、欧米のIT企業を一気に凌駕することも夢じゃあない。お金は世界中からどんどん集まってきています。これに、みなさんの知恵と勇気が加われば、鬼に金棒です。みんなでこの会社を世界一にしましょう」と、締めくくった。

 海外の巨大IT企業の投資額は、日本のそれとは桁が違う。到底追いつけるとは思えないが、この人が壮大な風呂敷を広げているのを聞くと、ひょっとしたらできるのかも、と思えてくるから不思議だ。

 入社式が済むと、あちらこちらで新入社員の輪ができている。

 どこに加わろうかときょろきょろしていていると、先輩社員らしき人に、ちょっとこちらへ、と声をかけられる。

 社長秘書を名乗るその人に連れられた先は社長室だった。

 部屋はガラス張りだが、ブラインドに遮られて中が見通せない。一歩入ると、そこは角部屋で、東京タワーが目の前に飛び込んでくる。

 奥には執務デスクがあり、先ほど入社式で熱く語りかけていた人物が、けだるそうにモニターを眺めていた。

 きっと自社の株価でもチェックしているのだろう。この会社は数か月前に上場を果たしている。

 秘書の人は、応接テーブルのソファに座って待つように告げて、退室していった。

 落ち着かない気持ちでソファに腰掛けるが、株価のチェックを終えた海崎がやおら立ち上がり、こちらに向かって来るのを見て、慌てて起立する。

 やはりベンチャー企業のオーナーというのは独特のオーラをまとっていて、人を惹きつける何かがある。

「君が橋口さんね。システムに詳しいと聞いたよ。今は販売用のシステム開発で大忙しだからそちらを手伝ってもらうけど、おいおい社内のセキュリティ強化にも力を発揮してもらいたいのでよろしく」

 にこやかな目つきの一方で、口元は少しひんまがっており、本音では歓迎していないことを表している。顔に出やすいタイプなのだろう。

「よろしくお願いいたします」

「まずはみんなに紹介しよう」

 海崎だけは私の立場を知っているということで、余計なことをするなよ、と釘の一本でも刺されるのかと思っていたので、少し拍子抜けする。

 はい、と答えて、海崎に続いて部屋を出る。

 海崎はフロアを見渡すと、こちらに注目、と声を上げる。

 社員は一斉に仕事の手を止めて立ち上がり、こちらを向く。

「今日から我々の仲間に加わった橋口燈さんだ。今年の新人は全部で23名。5か月間の研修を受けてから配属されるが、WARAJIプロジェクトは今、佳境に入っていることもあり、システム開発の実践経験もある橋口さんには即配属の形にしてもらった」

 そこまで話すと、私に自己紹介するよう目で促す。

「橋口です。プロジェクトに貢献できるよう頑張りますので、ご指導宜しくお願いいたします」とありふれた挨拶をして頭を下げる。

 一旗揚げてやろうと考える血気盛んな若者が多いのだろう。新人には興味がないようで、いかにもおつきあい、といった体で拍手をしている。

 矢島はどこだろう?

 事前に外事局に見せられた写真の記憶を頼りに探してみると、あっさり見つかった。みんな立ち上がっている中、一人だけ座ってモニターを睨み、カチャカチャとキーボードを打っているのがそれだ。

「プログラミングのエキスパートだからな。即戦力としてどんどん頼ってくれ。以上」と締めくくる海崎の言葉に、嫌味なものを感じたのは被害妄想だろうか。

 歩き出した海崎についていくと、矢島の席の隣で止まった。

「君の席はこちらだ。矢島、君のサポートをしてもらうからよろしくな」

「あっ。はい」

 海崎の声に矢島がようやくこちらを向く。

「よろしくお願いします」

 燈が矢島に向かってペコリと頭を下げる。

「ああ、よろしく」

 矢島の視線は再びモニターに移る。

 外見はほっそりとして平均的な身長。どこにでもいそうな若者である。

 こちらに関心がないのは好都合だ。自分のペースで監視させてもらおう。

 海崎と入れ替わるように男性が近寄ってきて、課長の菅原です、と名乗る。

「後で時間作るから、それまでこちらのパソコンを開いて中を見ておいてね。飲み物はフリードリンクなので、あそこから自由に汲んで席で飲んでいいから」と声を掛けて席に戻っていった。人がよさそうな印象だ。

 とりあえず、自分の席に腰掛ける。

 椅子はひじかけがありリクライニングも利いている。さすが最先端のIT企業だけあってオフィスは快適だ。

 JSDの古ぼけた事務所と会議室のパイプ椅子を思い返す。

 ここに出向になってよかったかも。

 机の上には、準備がいいことに名刺が用意されてある。

 “サムライ株式会社 商品開発本部 開発一部 セキュリティシステム課“とある。

 目の前のパソコンを開いてみると、プロジェクト資料がフォルダの中ににぽつんとある。

 “WARAJIプロジェクト“

 さっき社長が言ってたやつに違いない。これが戦略商品なのだろう。

 中を読んでみると、スパイウェアを送り込んで情報を抜き取る物騒なプログラムらしい。そんな犯罪を助長するようなプログラムを作っていいのかと思うが、真の狙いは、このWARAJIのようなシステムを無効化する防御プログラムの開発にあるという。

 名前は、“草鞋”からとったのだろうか。確かに草鞋であれば、忍者のように足音も立てずに侵入できるイメージはある。ただ、それならNINJYAの方がよっぽどわかりやすい。

 資料に書かれたロードマップによると、プログラムはすでに完成していて、4月時点ではテスト段階に入ったことになっている。

 ネットから遮断されたサーバ群でネット環境を仮想的に構築し、そこで試験するようだ。

 一通り資料に目を通したタイミングで、課長が戻ってきて、フロアを案内すると言う。

 ここが総務、ここが人事、などフロアを一通り説明し終わると、下の階に降りてサーバルームの手前までやってきた。

「WARAJIの試験が行われているのがこの中」

 課長が指さした先に警備員が立っている。

 部屋に入るには、この警備員にポケットの中身が空であることを示し、金属探知機で全身のチェックを受けたうえで、奥に進み、次の扉の前では、瞳の虹彩を照合し、PWを入力して初めてロック解除される仕組みになっている。

 スパイ映画によく出てくる中央銀行の金庫室が頭に浮かんだ。

 入室可能な人間は限定されていて、メーカーの保守担当者を除けば、開発者のみがここに入れる。

 部外者の侵入対策だけでなく、社員がデータを持ち出すことがないように、スマホはもちろんのこと、USBメモリやSDカード等の持ち込みも禁止されている。

 燈には当然ながら入室権限が与えられていないが、これだけ完璧なら、このフロアに自分の役割はなさそうだ。

 席に戻ると、矢島からおざなりのプロジェクト説明があった。

 熱意を全く感じさせない平板なトーンで説明を終えると、質問を受け付けるでもなく、以上、と一方的にパソコンの画面を閉じた。

「おっ、ちょうど12時か。お昼はこのビルの40階にもレストラン街があるのと、一階で弁当売ってるから適当にやって」と、燈を置き去りにして昼食に行きそうになったので、燈はすかさず、

「すいません、同期もいないし、このあたり詳しくないので、ランチの場所教えてください」とすり寄った。

 一瞬、嫌な顔を見せるものの、先輩としてのあるべき姿に気付いたか、「よし、行くか」とさわやかに言うと、ビルの40階にあるオムレツの店に連れて行ってくれた。

 会計はしっかり別会計だった。

 それからも連日、金魚のフンよろしくつきまとう燈のことを煙たがっていたが、根負けしたか何日かすると、矢島の方から、行くぞ、と声を掛けてくるようになった。

 職場と同じビル内の喫茶店かレストランで済ませるのが常だ。矢島においしい店を開拓しようといった発想はない。

 矢島は今まで一人でランチをしていたようで、案外、話相手が出来て喜んでいるようでもある。

 当初、矢島のことを、理系にありがちな、うんちく好きで、自分の専門分野の話を延々と話し続けるタイプと睨んでいたが、意外にも話す内容は仕事と無関係のものだ。例えば、東南線の列車は揺れが激しくて、つり革につかまりながら本を読むのに一苦労だ、とか、どこそこのカフェのコーヒーは酸味が強すぎて食べたランチの味が台無しだの、そのほとんどは、少なくとも燈にとってどうでもいいものであった。

 どうしてそんな小さなこと気にするんですか、と突っ込んでみたところ、

「どうでもいいようなことにこそ、改善点やアイデアは潜んでいる。そこに気が付けるか付けないかが、将来的に大きな差を生むんだよ」という返事が返ってきた。

「そんなもんですかね」

「アイザック・ニュートンが落ちるリンゴにヒントを得て万有引力の法則を発見したように、WARAJIだって、発想の大元がある。スイミーって絵本知ってるだろ? 小魚が群れになって大きな魚になるってやつ。あれからヒントを得て、情報を自由自在に集めたり分散したりする方法を思いついた」

「スイミーは“どうでもいいようなこと”とは違うと思いますが・・・」

「細かいことを言うな。アナロジー思考って言ってな。ある分野で常識になっている法則を、全然関係ないところに応用する。つまり・・・」

 やっぱり、うんちくを語る人だったようだ。

 話を聞くのは左脳に任せて、右脳では、今晩は何を食べようか、などと考えながらパンをちぎって口に放り込むのがランチでのパターンになった。

 そんなランチの席で、いつものように、ふんふんと相槌を打ちながら、昨日ダウンロードしたゲームの攻略法を考えながら、パスタをフォークに巻きつけていると、

「おい、聞いてる?」と矢島が確認してきた。

「ええ、もちろん。WARAJIはすごいですよね」

「社外でその名前を出すな」

 おまえだって、この間、話してたくせに。

 心の中でつぶやく。 

「本当は俺、セキュリティシステムみたいな堅苦しいのはやりたくないんだよね。海崎さんは先輩で、しつこく誘うから顔を立てて入社したけど、もっと面白いことがしたいんだよな」

「面白いことってなんですか?」

「AIとだけ言っておく。それを使う人の笑顔が想像できるものがいいな。やりがいが感じられるだろ?」

「じゃあ、ゲームソフトの会社に転職するとか」

「ゲーム業界は競争が激しすぎるな。当たるも当たらぬも運次第」

「自分で起業しちゃえばいいのでは?」

「会社を作るのは面倒だからな。株主やら銀行、取り引き先に頭下げてさ。そういうのはごめんだ」

「そういうのが得意な人とタッグを組めばいいんですよ。経営は任せちゃって」

 矢島は自分から振ったテーマを一方的に切り上げると、

「お前はなんでこの会社に入ったの?」と訊く。

「えーっと」

 頭の中に入っている“よくある質問”であったが、急に聞かれると答えが出てこないものだ。

「・・・高校のときからプログラミングをやってきたので、どうせなら今一番勢いがありそうなIT系ベンチャーにしようかな、と。最先端の技術が習得できそうじゃないですか」

「なんだか教科書的な答えでつまらんな。俺は面接官じゃないぞ」

 痛いところを突かれて、言葉に詰まっていると、

「この会社、結構こき使われるよ。実力主義だしね。でも、うわさで、お前は社長のコネ入社だって聞いたぞ」とさらに突っ込んできた。

「半分当たってますね。遠い親戚みたいなもんです」

「みたいなもん、ってなんだよ。課長もおまえには遠慮して仕事頼みづらそうにしてんのな。見てて笑える」

 実のところ、課長からの仕事の依頼は、半分程度スルーしている。

 申し訳ないと思いつつ、この会社で別に出世する必要はないし、本職の外事局のミッションが優先されるのは当然のことだ。

 ただ、矢島から頼まれたことについてはまじめに取り組んでいた。そのかいあって、矢島からは“使えるアシスタント”としての評価を受けている。

 矢島は、学会への出席や、プログラム開発を委託している下請け企業との打ち合わせ、お得意さんへの営業同行などで外出することが多いが、たまに燈も同行を許された。

 燈の鞄には360度撮影可能なカメラが仕込まれていて、矢島に接近してくる人物を撮影している。画像は外事局のデータベースで照合され、他国の外交官やスパイの顔情報と照合をかけている。

 矢島の机にある電話には盗聴器をセットした。

 外事局から聞いた話では、矢島の個人携帯電話と自宅の電話についても、情報を押さえているそうだ。

 サムライ社の情報システム部では、すべての社員のパソコンの操作履歴、ログデータを記録、監視しているが、海崎に依頼して、その情報を燈も見られるようにしてもらった。

 あとは、最後の仕上げだ。

 定時を過ぎて社員のほとんどが退社した中、矢島が夜食の買い出しにコンビニに向かったのを見計らって、矢島の鞄をつかむと会議室に持ち込んだ。

 鞄の縫い目をほどき、皮革の隙間に小型GPS発信機を忍ばせると、縫い目を元通りに戻して、再び矢島の机の下に戻す。これで矢島の居場所はスマホアプリを使っていつでも把握することができる。

 発信機には電波給電が必要であるが、幸いなことに矢島は燈の席に近いところに鞄を無造作に置いているので、近くに給電装置を置いておけば、絶えずバッテリーは充電されることになる。

 あとは、害虫が網にかかるのを待つだけだ。

 怪しげな団体、人物から何かと電話やメールが飛び込んでくる。メールは矢島がサクサクとゴミ箱に送っているが、こちらでも発信元と内容はチェックする。

 アプローチの内容は千差万別だが、矢島の目の前に餌をぶらさげるケースもある。役員待遇での転職の誘いや、高級リゾート・ゴルフクラブの会員権などをちらつかせて情報提供を持ち掛けるなどだ。

 今のところ、矢島にこれら誘惑に応じる素振りはない。仕事一筋といった風で、世俗のことにはあまり関心がないようだ。

 外事局から見せられた矢島の身元調査情報には目を通した。

 矢島傑留やじますぐる27歳。一人っ子。岐阜県出身で、名古屋にある私立の中高一貫校に通い、東大に入学。卒業後はマサチューセッツ工科大学の大学院に進学。帰国後、サムライ社入社。未婚。両親は健在。川崎市内の2LDKの賃貸マンションで一人暮らし。預金は2千万円を超えている。

 近隣住民や職場での聞き込みでは女性関係等のトラブルもなし。スキャンダルで誰かに強請られる心配はなさそうだ。

 社長とは先輩後輩の仲、ということもあり、会社への裏切りも考えにくい。

 大学院のときグローバル企業のハッカソンに参加して成果を上げ、IT業界で名を上げたと書いてある。

 ため息が出た。

 私も裕福な家に生まれていたら、矢島のようにもてはやされる一流のプログラマーになっていたかもしれない。

 そんなことが脳裏をかすめるが、やっかみはみっともないと、妄想を振り払う。

 入社してしばらくたった頃、外事局から追加ミッションの指示があった。

 社長の海崎も監視対象にするそうだ。

 社長から直接情報を盗ろうなんて大胆な人物・組織がいるのか疑問だったが、何か危険な兆候があったのだろう。指示とあればやぶさかでない。

 残業をするふりをし、オフィスから人気が消えるのを待って社長室に侵入した。

 電話機内部に盗聴装置を取り付ける。

 これで、データは自動で外事局に転送される。橋口の仕事はここまでで、海崎の情報へのアクセスは許可されていない。


 明日は、燈のために課で歓迎会を開いてくれる。

 矢島以外のメンバーを監視しているわけではないが、JSDのミッションを黙っていることの後ろめたさはぬぐえない。サムライ社の情報を守っているという自負はあるが、果たして自分は本当に彼らの仲間なのだろうか。

 自分に同僚への仲間意識があるか自問するが、すぐに答えを出せなかった。それに、立場の問題もある。外事局から命じられれば、彼らを裏切らないといけなくなるかもしれない。

 ひょっとしたら、私は国家に魂を売り渡してしまったのかもしれない。

 そう考えると悲しくなった。

 なぜ、こんなことになったんだっけ。


 **

 橋口燈は東京の下町生まれで、中学2年のときに、静岡に転校した。

 転校先では、すました顔で大声で挨拶したことが裏目に出たか、都会出身を鼻にかけたガリ勉、という烙印を押されて、不良グループからいじめを受けた。

 自分はみんなと違う、というオーラが出ていたのかもしれない、と反省するが、もう遅い。父親から受け継いだ悪い部分が出てしまったか。

 いじめの中身は、仲間外れだったり、物を隠されたり、落書きされたりといったもので、燈からすれば許容範囲であったので、先生や親に相談することなく、その環境を受け入れていた。

 そんな中でも一人だけ友達ができた。麻里奈ちゃんだ。

 麻里奈ちゃんはいじめられていたわけではないが、空気に近い存在で、誰にも相手にされてないという意味では燈と同じだった。家は貧乏らしく、塾に行けないところも燈との共通項だ。

 麻里奈ちゃんは、転校したばかりで勝手がわからない燈に、生徒の仲良しグループの構成や先生の特徴などを教えてくれた。それをきっかけに仲良しになる。

 一緒にいて、徐々に彼女の学校生活を送るための極意がわかってきた。

 麻里奈ちゃんはどんなときもうつむくことなく毅然としている。

 誰かにからまれたとき、麻里奈ちゃんは相手の瞳から目をそらさず、ほのかに笑みを浮かべながら、かすかにうなずく。見つめられた者は、麻里奈ちゃんの雰囲気に飲まれて、攻撃する意欲を失う。だが、一方でその瞳の奥には、うかつに近づくことを許さないバリアが垣間見えるのである。

 燈から見ても美人なのだが、麻里奈ちゃんに近寄る男子はいない。この年頃の男子は、表向き空威張りしていても、実は自信の無さと不安に支配されている。麻里奈ちゃんに見つめられると内心を見透かされそうで、それが怖いのだと燈は勝手に解釈した。

 燈にまねのできる芸当ではないが、燈自身はなぜかこのバリアを突破して、麻里奈ちゃんに受け入れてもらうことができた。自分と同じ匂いを燈に感じたのだろうか。

 古ぼけた狭いアパートだからあまり家にいたくないんだ、と自虐的に言い、いつも放課後は図書館で勉強していた。母子家庭だから日中は家に誰もいないそうだ。

 一軒家に住んでいる燈は少し優越感を感じたものだが、家にいたくないのは同じだったので、誘われるままに図書館で一緒に勉強することにした。

 麻里奈ちゃんは頭の回転がいい。燈がひとつ教えると、応用をきかせて他の問題もすらすらと解いた。

 そして人に教えることは自分の頭の整理にもつながる。

 麻里奈ちゃんとの勉強のかいもあって、燈は、県内では東大進学者数がトップクラスの公立高校へ進学することができた。でも、進学先が決まったことより、いじめが深刻化する前に中学を卒業できたことに、まずはほっとする。

 麻里奈ちゃんは、というと定時制高校に進学していった。一緒に勉強していたときに麻里奈ちゃんから聞いていた志望校とは違うところだった。

「いつのまに志望校を変えたの? あの高校ならそんなに勉強しなくてもよかったんじゃない?」と言ってしまったことが、今になって思い返される。

 そのときの麻里奈ちゃんは少し笑みを浮かべただけで何も答えなかったが、きっと本当は大学まで行きたかったのに、家の事情で働かないといけなくなったのだ。


 家庭に問題があるのは燈も同じだった。

 燈の父親は東大出身で大手メーカー勤務である。責任ある立場についてから激務が続いたのと、上司との折り合いがわるかったことがたたって、うつ病を患ってしまう。

 そんなときに、ちょうど静岡事業所に空きが出て、そちらに転勤することになった。

 亡くなった祖父母が住んでいた家から通える場所にあり、一家そろって引っ越すことになった。

 燈が中学校を転校したのはそのためである。

 静岡に移って残業は減ったものの、新しい職場、仕事内容になじめなかったのか、結局、会社を休職することになった。

 その後、復職と休職を何度か繰り返した結果、燈が高校1年のときに、会社を退職することになった。

 父親はプライドが高く、他人に厳しい人で、子供の頃は躾と称して燈のことをよく殴った。燈にとって父親の機嫌を読み取ることが欠かせない能力となった。

 中学に入ってからは暴力は減ったが、「おまえはだから駄目なんだ」とか「こんなこともできないのか」など、ことあるごとに侮蔑するような言葉を投げつけた。

 会社を辞めたあとは、自尊心が傷ついたのか、会社や世の中への不満をぶちまけるようになった。

「お前は俺のことを馬鹿にしてるのか」とか「誰のおかげでここまで大きくなったと思ってるんだ」などと被害者意識を露わにし、やたら激高するようになる。

 他人との比較や、役職・立場でしか自分の尊厳を保てない人間だった。

 東大を出たからといって幸せになれるわけではない。そう悟った。一時期は自分も東大に行くんだろうとぼんやり思っていたが、そんな気持ちもしぼむ。

 東大は女性が少ないのも燈にとってはマイナスポイントだ。

 燈は男に興味がない。頭が悪くて幼稚で、都合が悪いと声を荒げ、弱い者に手を上げる。そして、辛くなると酒やギャンブルの世界に逃げ込む、ときている。

 高校生ともなると、級友の中には男子とデートする者も出てくるが、燈からすれば何が楽しいのかわからない。“つきあっている“こと自体を楽しんでいる青春ごっこのように思えた。

 とはいえ、せっかくの短い青春時代を勉強だけで終わらせたくない。何か打ち込めるものは欲しかった。 

 運動は面倒くさいし、文化・芸術的なことには興味がわかなかった。そんなものが生きていくうえで役立つとも思えない。

 そこで選んだのがプログラミング部だ。これなら社会に出てすぐに活かせそうだ。

 実際に始めてみると、すっかりはまった。うまく作動しないことがあっても、トライアンドエラーでいろいろと試してみて、うまく動いたときの達成感は格別だった。

 手を掛けた分だけよくなる。その意味でコンピュータは裏切らない。

 めきめきと実力を上げ、高校2年のときには、仲の良い二人と組んだチームで、ロボットプログラミング大会に出場し、県代表に選ばれた。

 ブロックで製作したロボットを操作して、地震で倒壊した建物から負傷者を救い出し、病院に送り届けるのがミッションだ。

 あらかじめ決められたルール以外に、当日、新たな障害物や追加のミッションが発表されるのだが、それらを考慮して、合理的な手順と最短ルートを短時間で割り出すのは、燈が得意とするところであった。

 打つべき手を完全に読み切った燈のチームは、すべてのミッションをクリアすることができた。

 優勝が決まった瞬間、3人で飛び上がって喜んだ。

 タッグを組んだ“親友”二人とは、ずっと友達でいようね、と誓い合う。

 そのときは永遠に続くように思えた約束だったが、その後、燈を飲み込む濁流は、その約束も押し流していくことになる。


 燈の母親は、もともと自由奔放なタイプであったが、結婚以来、専業主婦に納まっていた。それが、父親の退職と同時にパートで働きに出るようになる。

 家計の足しに、と言っていたが、それはおそらく建前で、陰鬱な父親と同じ空気を吸うことが耐えられない、というのが本音だろう。

 徐々に母親の帰りが遅くなってくると、家事の役目が燈に回ってくるようになる。

 父親が、飯はどうなってんだ、と騒ぎ出し、朝、晩の食事と洗濯は燈がやらないといけなくなった。

 家にこもっていた父親は、暇に任せて四六時中パソコンの前に座っていた。退職金を元手にしてデイトレーディングで増やそうというもくろみだ。

 次第に、株の売買では飽き足らなくなったのか、先物取引に手を出すようになる。

 人間の欲望には際限がない。儲かった分を高リスク商品につぎこめばさらに儲かる、という誤った思考回路に陥る。その結果、一度の損を取り返すべく有り金をはたき、その損を取り返そうと、借金をして乾坤一擲でハイリスク商品に金を突っ込んだ。

 確か、大豆か小豆のようなものだ。

 最終的に、祖父母が住んできた家を手放すことになった。

 燈が高校3年になった春、家を引き渡してアパートに引っ越した。近所では体裁が悪いという理由で、移転先は隣の愛知県になった。

 麻里奈ちゃんとは中学卒業後、年賀状のやりとりだけは続いていたが、引っ越したのを契機にそれも止めてしまった。アパートに引っ越すことが何だかみじめに感じられたからだ。

 これで私と同じね。麻里奈ちゃんがそんな意地悪いことを思うはずがないと知っていても、猜疑心が湧き上がるのを抑えることができなかった。

 燈は、片道2時間かけて静岡の高校に通い、帰ってきて家事をこなした。そして、土日には近所のコンビニでバイトする、といったハードな毎日を送ることになる。

 ろくに勉強もしていない状況で、東大なんてはなから無理である。それどころか、家の経済状況を考えると、大学進学すら無謀な気がしてきた。

 夏頃になって周りが受験モードに突入するなか、学校で進路面談があった。

 担任の先生に、就職を考えていると伝えると、これだけの学力があるのに就職するのはもったいない、と再考を勧められた。

 そうだ、と先生は思い出したように、立ち上がると、ちょっと待ってろ、と職員室に戻っていった。

 5分ほどして戻ってきた先生の手には大学のパンフレットが握られている。

 先生によると、1週間ほど前、そこの大学の職員が高校を訪ねてきて、1名の推薦枠で生徒を受け入れたいとの申し出があったという。奨学金など金銭的なサポートがしっかりしているので、燈にその気があれば、学校として推薦すると言ってくれた。

 先生にもらったパンフレットには『横浜国際女子大学』とある。初めて聞く名前だったが、パンフレットを見る限り、設備も充実していて、よさそうなところだ。家からは通えないが、学生寮もあるという。

 推薦とはいえ試験は免除されないが、燈の成績なら十分狙えるとのことだ。

 もともと住んでいた東京にも近いし、学費の心配もないという願ってもない話だった。

 もし、これに落ちたら就職、と自らに言い聞かせ、一念発起した。

 10月になってバイトを辞めて、4か月間、猛烈に勉強した。

 結果、試験は上位で合格した。

 本当は、情報工学系の学部に進みたかったのだが、募集していたのはなぜか法学部だけだった。

 プログラミングは趣味で続ければいいか。

 入学金も免除なので、書類だけ整えれば手続きはOKだ。保証人である親のサインは燈が無断で代筆した。親にことわる必要もない。


 待ち望んだ日がやってきた。

 高校の卒業式を終えると、翌日、家を出て入寮する。

 出発の日、父親は具合が悪いと寝たままだったので、行ってくる、と一声かけて、家を後にした。

 母親は、ここのところ静岡の以前の友達のところに頻繁に行っているようで、家に帰ってこない日もたびたびであった。この日も不在であったため、メモをテーブルの上に残しておいた。

 二人とも、このメモを見て初めて、娘が大学に進学したことを知るのだろう。

 父親はどう過ごすのか、少し気になったが、子どもではないから飢え死にすることはあるまい。

 寮なので家具などの準備は不要だ。服だけは、二度と家に戻る必要がないよう夏服から冬服まで一式を段ボール3箱に詰めて、宅配便で寮に送っておいた。

 大きなバッグ二つを抱えて東海道線を乗り継ぐ。

 本人的には希望に胸膨らませての旅行なのだが、傍から見れば夜逃げに見えていたかもしれない。

 大学生活は充実したものであった。バイトをして生活費を稼がなくてはいけなかったが、父親の世話をしないですむだけでも、肉体的、精神的な負担はかなり軽減された。

 大学に入って3年間で大きな波風が立つことはなかったが、ひとつだけトピックを上げるとするなら、母親からはがきが届いたことだ。

 父親と離婚したという。

 父親もあれから少しずつ仕事を始めたらしく、一人でも生きていける、と言い訳のように書き添えてあった。

 特段の感慨は湧いてこなかった。

 橋口家はすでに事実上、解散していたのだ。それが、戸籍という国家のお墨付きがついただけの話である。

 4年生になり、就職をどうするか、はたと考えた。せっかく法学部に入ったのだから、と司法試験を受けることも頭をかすめるが、ロースクールに進むのは経済的に無理だ。であれば、どこかの会社でプログラマーとして働くか。

 どんな就職先があるのか学生課に相談しに行ったところ、数日たって、学生課の横峯という人から電話が入った。相談した人とは別だ。

 要件は、日本セキュリティ開発という会社で一名の募集枠があるが話を聞いてみないか、というものだった。

 初めて聞く会社名で、なぜそんな無名の会社の募集話をわざわざ電話してまで勧めてくるのか、いぶかしむが、話をよく聞くと、かなりの好条件であることがわかった。

 防衛省からシステム開発業務を受託しているので、つぶれることはない、と横峯は安定性を強調した。

 初任給は上場企業の平均額の1.5倍程度だという。

 ごく一部の大学のみに推薦枠があり、一般に募集はしていないそうだ。

「まずは話を聞いてみて損はないんじゃない? 電話番号を先方に伝えてもいいかしら」

 と言われ、1名だけという特別感に惹かれて、はい、と答える。


 翌日になって、その会社の野上という人物から電話があった。

 リクルーターといえば、学生からみて親しみやすい若者が一般的であるが、電話口のその声はおじさんのものだった。直接会って業務内容を話したいのでお越し願いたい、と言う。

 悪徳商法か何かで騙されるんじゃあ、と少々不安に陥りながらも、学生課の勧めならそんなに変なところではあるまい、と東海道線と中央線を乗り継いで、本社に出向く。

 本社は市ヶ谷の防衛省近くにあるペンシルビルにあった。ハイテク企業ということから全面ガラスで覆われた最先端ビルのイメージを膨らませていた燈は、古ぼけたその建物にがっかりする。

 受付の人に案内された会議室には、電話の主である野上という人物が座っていた。

 燈は勧められるままにパイプ椅子に腰かけると、履歴書をバッグから出して提出する。

 野上は、それに目を通すでもなく横に置くと、逆に1枚の紙を燈に差し出した。

 タイトルは“秘密保持誓約書“だ。

「我々は防衛省とノン・ディスクロージャー・アグリーメントを交わしていて、ここで私が話す内容は国家機密にあたります」と言う。

 燈はざっと目を通し、署名する。

 野上は、誓約書を受け取ると、会社の説明を始めた。

「日本セキュリティ開発。略称JSDは、防衛省からの委託を受けて、外国に関する情報を収集するとともに、外国を拠点に日本の利益につながるような工作活動を行っています」

 なにやら物騒な用語が出てきて、一瞬、燈の頭は混乱したが、思い浮かぶものはひとつだ。

「つまり、システム開発というのは表向きで、実はスパイってことですか?」

 燈の直球の質問に、野上は肩をすくめながら、

「ご想像に任せます」と返答した。

 燈の脳裏に007やミッションインポッシブルの映像が駆け巡る。

 そわそわしだした燈を安心させようと思ったか、野上は、にこやかな表情を作って説明を続ける。

「JSDには二つのタイプの職員がいます。一つはエージェント職といって、ミッションを与えられ、それを実行するためにあらゆる権限を与えられるタイプ。世間でスパイと言われるイメージはこちらに近いです。主に海外で働いてもらう。もう一つはスタッフ職。調査と状況分析、エージェントをサポートする役回りです。原則としてデスクワークです。今回の募集はスタッフ職の方ですので、国内勤務になります。危ない仕事ではありませんので安心してください。何かあっても国家があなたの安全を守ります」

 燈が安堵の表情を浮かべたことに意を強くした様子で、野上は話を続けた。

「我々は、国益を守る重要な仕事を国から請け負っています。何かといえばカネカネと世知辛い企業と比べて、とてもやりがいを感じられる仕事ですよ」

 正直なところ、国益と言われてもピンとこないが、外国の機密情報を分析するのは何となく面白そうな気がしてきた。

 だが、一番の魅力はなんといっても金銭面だ。アパートも会社で契約してくれるらしい。

 将来への不安、世間体などを考えれば、こういった秘密組織に入ることに躊躇しそうなものだが、燈がこの会社に惹かれたのは、親や世間に仕返ししたいという深層心理が働いたせいなのかもしれなかった。

「では、最後に質問させてください。これまでのあなたの経験はJSDの業務にどのように活かせると思いますか?」

 野上から訊かれて、これが面接であることに初めて気付く。

 取り繕っても仕方ないと思い、

「自分の家はわけあって崩壊していて、掃除、洗濯、炊事、コンビニバイト、クラブ活動、なんでも一人でこなしてきましたので、想定外の事態が起きても柔軟に対応できる自信があります。プログラミング部に所属していますが、そこでは、ソフトがうまく作動しないとき、その原因を追究して一つずつ対策を施すことでゴールを目指す、という作業を繰り返してきました。ここで培った能力は、他国の動きを分析して有効な対応策を検討するうえで生かせるのではないかと思います」とありのままでアピールした。

 業務内容を説明したいと言うから来たのに、なんだか私から志望したようになっているな。

 内心、苦笑する。

「わかりました。では、最後に適性検査を受けてからお帰りください。あくまで形式的なものですけどね」

「あの。今後の手続きはどのようなステップになりますか?」

「本日で手続きはすべて終了です。追って、正式に書面でご連絡します」

 燈は道すがら、首をかしげる。

 普通、就職となれば、一次面接、二次面接と進んで役員面接まであるのが普通だ。


 野上の面接から数日後、JSD名での内定通知と、“研修カリキュラム”と題された数ページの書類が届く。それによると、卒業するまでの12か月間、合宿所に缶詰で研修を受けることになっている。

 そんな話、この間は言ってなかった。

 嵌められたような気もするが、合宿には手当が出ると書かれている。お金をもらえて学べるのだから悪い話ではない。

 なんだか自分の意思というより、何かに流されている気がしないでもないが、JSDに入社することを決める。

 学生寮も出ることになるが、寮での付き合いはほとんどなかったので、別れを惜しむ人もない。


 4月になると、小平にある陸上自衛隊の研修所に対象者が集められた。

 教室のような場所に入ると、中にいたのは十数人程度。燈と同じような学生やすでに社会人経験がありそうな人もいる。

 カリキュラムは、国際情勢、心理学、暗号解読などの講義と、護身術、拳銃・ナイフなどの武器操作、救命医療、危険物取扱などの実習に分けられる。場所は自衛隊の敷地の中であるが、カリキュラムは独自のものが組まれているとのことだ。

 研修生は番号で呼ばれる。燈は11番だった。私語は一切禁止だ。コミュニケーションも諜報員にとって必要な技能だと思うのだが、局員同士が相互に依存心を抱くことはミッション遂行にとって逆に弊害があるということらしい。

 昼間は大学で講義を受け、終わると、そのまま研修所に直行する。

 19時から23時までみっちり研修。その後に研修所内にある風呂に入り、個室に泊まる。個室は3畳程度の広さにベッドと机があるだけで、テレビすらない。

 鉄格子こそなかったが、監獄に収容されたような気分だ。

 楽に就職が決まってよかったと喜んでいたが、まさか、受験勉強を凌ぐ濃厚さで特訓を受けるはめになるとは思わなかった。

 だが、腕立て伏せ100回とか、グラウンド10周など、罰ゲームや根性論的なしごきはないので、根っからのインドア派の燈でも続けられた。

 こんなマニアックな訓練をして、将来活かせるときは来るのかと思うが、もちろん、活かせる機会など来ない方がいいに決まっている。同じJSDでも自衛隊に入ったつもりはない。

 24時を回った頃にベッドに入り、スマホを取り出すのがほっとできる唯一の時間だ。

 他の研修生とこっそり電話番号を交換して、LINEグループができていたので、そこでその日の愚痴などをこぼしあう。

 これまで自由を謳歌してきた人には、この生活はきっと耐えられないに違いない。


 大学卒業と同時に、長かった研修も終了した。

 セキュリティのしっかりしたアパートをJSDから紹介され、引っ越しする。

 久しぶりにまとまった時間が取れたので、大学のプログラミング部の友達と連絡を取り合い、飲みに行ったりした。

 気持ちがリフレッシュされただけでなく、友人の連絡先や就職先などの情報を聞けたことも大きな収穫だった。

 春休みも終わりに近づいたころ、野上から呼び出しを受けて、1年ぶりにJSD本社に出向く。

 早めに家を出たので、桜を観ながら行こうと思い立ち、手前の四谷駅で降りる。

 外堀沿いの土手の上の遊歩道を市ヶ谷方面に歩いていく。

 桜はほぼ満開で、子どもたちが落ちてくる花びらをつかもうとやっきになっている。燈も真似して手を伸ばしながら歩いてみた。

 掴んだと思うが、手を開いてみると何も入っていない。それはするっと手のひらをすり抜けたようで、意外と難しいことがわかった。

 土手を降りて少し進むとペンシルビルがある。

 いよいよ配属が決まるのか。そう思うと身が引き締まる。どんな仕事に着くのだろう。まだ、職場の様子は見せてもらったことがない。

 それに、野上の所属も役職も聞いていなかった。外見は結構なおじさんだったので、それなりに地位のある人なのかもしれない。

 ちなみにJSDについてネット検索をしてみても公式サイトはヒットせず、口コミサイトすら見当たらなかった。幽霊のような会社だ。

 事務所に入ると、受付の人に会議室まで案内された。

 遅れて野上が入ってくる。燈の対面に腰掛けるとパソコンを開き、

「研修結果の報告を受けたが、君は優秀な成績で修了したと聞いている」と、1年間の研修をねぎらった。

「これまでは内定という扱いだったが、今日からは正式にJSDの一員になる。そこで、今まで話せなかったことを伝えておく。JSDという会社は、実は防衛省の外事局という組織とミラーになっている。つまり、君はJSD社員であり、公務員でもある。ただ、外事局は非公式な部局なので、公務員としての制約を受けることはないし、また、地位が保証されているわけでもない」

 意味不明瞭な説明にぽかんとするが、結局のところ公務員でない、ということはわかった。

「JSDでの所属は、調査部だ。文字通り、各種調査、分析を行うところだ。早速ではあるが、君の優秀な能力を買って、4月から重要なプロジェクトに参加してもらうことになった」

 野上は続けてミッションの内容説明を始めた。

「サムライという急成長の会社に出向し、矢島というプログラマーの動向を監視する役目を担ってもらう」

「えっ? スタッフ職って、本社勤務じゃないんですか?」

 話が違うではないか、と訴えると、

「本社とは限らない。スタッフ職とは決められたタスクをマニュアルに則ってこなす職務になる。盗聴器と発信機を使って、矢島の日々の動向を監視するだけの簡単な任務だ。尾行や敵の確保などは要求されないから安心していい。それにこれは官房長官から直々に依頼があったミッションだ。官房長官自ら先方の社長に電話を入れていただいてある。ミッションは重大だが心配することはない」と野上はまくしたてるように話す。

「はあ」

 “簡単な任務”と“ミッションは重大”の二つの言葉が、頭の中でうまく結びつかない。

 重責から解放させたいのか、モチベーションを上げさせたいのか?

「このことを知っているのは我々以外ではサムライの社長だけだ。わかっていると思うが、JSDや外事局の話は漏らさないように。あと、出向と言ったが、表向き新入社員として採用されたことにしてあるから」

 納得感は湧かないが、あまりに急な話で頭の中が整理できない。

 野上はそんな燈の戸惑いを知ってか知らずか、パンフレットを差し出しながら、

「では、4月1日からサムライ本社に出社するように」

 と言って話を打ち切った。

 燈がサムライ社のパンフレットを鞄にしまうのを見届けると、野上は、健闘を祈る、と、扉の外を指し示した。

 なんだよ。私はJSDに入ったんじゃないのか?

 会社と言いながら、実質、税金で事業をやっているから、このおじさんも所詮は公務員気分だ。部下を外に放り出して失敗しても、失うものは過去の教育費くらい、ということなんだろう。

 そんな不満をぶつける先もなく、ぶつぶつ独り言を言いながらアパートに帰る。

 野上から帰り際に渡された注意事項のメモを読んでみた。

『・ターゲットにはフレンドリーに接し、コミュニケーションを密にすること。ただし、相手が異性の場合、好意を抱いていると誤解させないよう注意を払うこと。

 ・政治的、宗教的な信条についてはニュートラルな立場に立つこと。ターゲットの考え方に迎合や反発をしない。

 ・ターゲットに不正または不適切な言動があっても、任務に直接の影響がない場合、これに介入しないこと』

 こういう接し方は、言われなくても普段より無意識にやってきたような気がする。

 それにしても新人に対する会社のサポートがこのぴらぴらの紙1枚か。

 野上の顔が浮かび、再び怒りが湧きあがってきた。

 ベッドに仰向けに寝転がって天井を眺める。

 アパートの部屋の間取りは2LDKで広いのは嬉しいのだが、今日はそのことが却って寂しさを倍増させる。

 ふと、大学時代の友人が、子猫が増えて困っている、と言っていたのを思い出した。LINEで連絡を取ると、最後に残っていた一匹のメスの子猫を譲ってもらえることになった。

 その友人は早速、車で届けに来てくれ、

「燈はラッキーだよ。自分ちで飼ってもいいように最後までとっておいたお気に入りなんだから」と、残りものには福がある的な話をして帰っていった。

 我が家にやってきた子猫は白と黒のブチで、確かにかわいい。

 動画は事前に見ていたが、実物を見てさらにほれ込む。

 姉妹がいない自分にとっては、初めてできた妹のように思えた。

 コーネルと名付けた。無防備に仰向けでスヤスヤ寝ている姿がキュートだったので、ネコを逆から読んだ言葉と、“寝る”をくっつけた名前だ。ちなみに米国のコーネル大学とは何の関係もない。

 嫌なことがあったらこいつに聞いてもらおう。なに、一緒に悩んでくれなくていい。聞いてくれさえすればいいのだから、猫でも務まるだろう。

 こうして燈の社会人としての生活はスタートした。

 **


 セキュリティシステム課で、歓迎会が開かれた。

 どう振舞えばいいか感覚がつかめず、少し緊張しながらワインバーに向かったのだが、いざ始まってみるとみんな勝手に盛り上がっている。

 あまり考えすぎなくてよさそうだ。

 そもそも、新人を採用するようになったのは昨年からで、同僚はみんな転職組だ。他人のことは詮索しない風土なのかもしれない。

 周りのペースに釣られて、燈も勧められるままに飲む。

 運が悪いことに、この職場は酒豪揃いだったようだ。アルコールには強いつもりだったが、途中から記憶が飛んだ。

 気付いたときは朝になっており、自分のベッドでしっかりパジャマに着替えて寝ていた。

 自分の帰巣本能に驚くと同時に、飲んで意識を失くすとは諜報員失格だな、と反省する。こんな姿を野上が見たら激怒したことだろう。

 翌日から再び平凡な日常に戻るが、みんなの自分に対する態度が今までよりフレンドリーになったような気がする。

 自分が職場に溶け込むにつれて、自然とサムライのプロパー社員になったような気がしてきた。

 このままこの会社でずっと務めていようかな。なにせJSDではただの一日も働いていなければ、名刺すらもらっていないのだから。


 入社して2か月が過ぎると、監視対象に少し変化が現れた。

 それまで深夜残業続きだった矢島の帰宅時間が早くなったというだけのことなのだが、チームリーダーとして一番忙しいはずの人がそそくさと定時で帰る姿に、燈の第六感はアラートを鳴らしている。

 GPSでの監視は続けているが、矢島は会社帰りにどこかへ立ち寄ることもなく、まっすぐ帰宅している。

 家で一体何をやっているのだろう?

 聞いたところペットは飼っていないという。仕事が趣味のような人間で、SNSが更新されることはないし、Youtubeをやっている様子もない。そもそも他人へのサービス精神も自己顕示欲も持ち合わせていない人間だ。女ができたような浮ついた様子もない。

 念のため、情報システム部が収集しているWARAJIのサーバルームのログ情報を確認すると、USBメモリによりデータが抜かれた形跡があることがわかった。

 矢島が抜き取ったのかもしれない。

 外事局に報告すべきかと思ったが、何か理由があってのことかもしれない、と思い直す。確認してからでも遅くないと思い、外事局に報告を上げるのはいったん保留した。

 自分はまだ外事局に100%の忠誠を誓ったわけではない。

 WARAJIを自宅に持ち帰ったと睨んだ燈は、まずは矢島の自宅に踏み込むことにした。

 電話を盗聴している時点ですでに立派な犯罪だが、自宅に侵入するとなると明らかに一歩踏み出すことになる。ためらいがないわけでないが、ここで手を打たないと手遅れになる恐れがあるし、自分の存在価値が問われている。


 翌朝、課長にチャットして、風邪をひいたと嘘の申告をして休みをとる。矢島が出社していて家にいないことも併せて確認する。

 通勤時間帯を過ぎたころを見計らって愛車に乗り込む。

 中古車店で一目ぼれして購入した青いリッターカーだ。

 買った後で、車は白か黒にしろ、と野上が言っていたのを思い出した。

 確かにこれでは目立ってしまう。しくじったと思うが、買ってしまったものは仕方がない。

 矢島の住まいは川崎の少し小高い住宅街にある。

 エンジンのうなり声が気になりながら坂道を登っていくと、それらしき賃貸マンションはあった。

 車を少し離れたところに停め、玄関からオートロックのパスコードを入力して中に入る。パスコードは事前に外事局より入手してあった。

 部屋の鍵は、外事局の研修で習った解錠方法で対処可能なはずだ。

 今日は珍しくワンピースを着て、慣れない化粧もしてやってきた。部屋の前でこそこそやっているところを住民に見つかったときに、彼女のふりをするためだ。声をかけられたら、「合鍵をもらってたんだけど、開かなくって・・・鍵を換えられちゃったかな」とか言ってごまかせるだろう。

 ピッキング用の工具を鍵穴に差し込み、ものの2分ほどで解錠できた。幸い誰にも見られていない。

 やれやれ。自分がまさかこんなコソ泥のようなマネをするはめになるとは。

 中に入り、ドアが自動で閉まるのを待って鍵をかけると、玄関から伸びる廊下を進む。

 右側のベッドルームの扉は開きっぱなしで、覗くと服が散乱している。これだから独身の男は、と胸の内で苦言を呈する。

 ここには何もないと踏んで、左側の扉を開けてみる。

 仕事部屋のようだ。こちらには雑誌が散らばっており、足の置き場に気を付けながら奥に進むと、仕事机の上に置かれたパソコンの前に立つ。

 電源を入れてロック解除を試みる。矢島が会社で使用しているパスワードから類推して試していくと30分ほどで解除することができた。

 パソコンにキーロガーを仕込む。手際よく処理を終えるとパソコンをシャットダウンして部屋を後にする。

 矢島はプログラミングについては一流であっても、パソコン周りの技術で言えば、おそらく私の方が上手だろう。キーロガーが仕組まれていることに気付くことはあるまい。

 部屋の散らかりようからしても、そんなことをチェックするほど細やかな神経は持っていなさそうだ。

 これで、矢島が入力した内容は、クラウドに転送されて、どこからでも確認することができる。

 棚の上や机の引き出しも一通りチェックするが、特段変わったものは見当たらない。念のためリビングとダイニングキッチンを見回すが、こちらはきれいなものだった。 

 彼女の影はまったくない。ひょっとすると、私の逆バージョンで女性には興味がないのかもしれない。

 自分のアパートに戻って、コンビニ弁当の夕食を済ませたあと、矢島のパソコン内のデータを見ていると、夜の8時を回ったころ、パソコンに動きがみられた。矢島が帰宅したのだろう。

 矢島がアクセスした先のアドレスをたどってみると、その中に大手都銀のものと思しきサーバに接続した履歴があった。

 ひょっとすると、WARAJIの持ち出しにとどまらず、矢島が犯罪に手を染めている可能性が出てきた。

 セキュリティシステムなんてやりたくない、とか言いながら、実はシステムを悪用して安易に金をせしめようと企んでいたのでは?

 そうと決まったわけではないが、才能に恵まれていても安易な誘惑にはまってしまう人は多い。やるせない気持ちになった。

 自分の任務は矢島の犯罪行為を暴くことではないし、糾弾しようとも思わない。だが、縁あって同僚になったわけで、道を正してやるのがあるべき態度とも思う。刑事事件になってしまったら、自分のミッションもどうなるかわかったものではない。

 こういうときは、本人に問いただすのがいい。


 翌朝。矢島は、昨日、早く退社したくせに時間ぎりぎりになって出社してきた。

 眠そうな顔で席に着いた矢島に、「おはようございます。来て早々ですけど」と切り出す。

「この間ニュースでやってましたけど、会社のデータを自宅に持ち帰って、懲戒処分を受けるプログラマーが多いんですって」

「ああ、そうかもな」

 かまをかけてみたが、とぼけているのかまたは自覚がないのか、矢島は興味なさげな返事だ。

「矢島さんのことが心配になって。最近帰宅早いですよね。自宅のパソコンで仕事するのはご法度ですよ」

「えっ? そんなことしてねえよ」

 そう言いつつも、動揺したのか脚が左右にそわそわ動いている。

「ごまかそうとしても無駄ですよ。サーバールームのログ情報見たらUSBメモリが差し込まれた記録が残ってました。その時間帯の入退室記録と照合したら、矢島さんが入室していた時間と重なっています。WARAJIを持ち出して、自宅で試験してるんでしょ? 矢島さん、仕事熱心だから」

「何言ってるんだ。俺のことを監視して、世話女房か。お前はアシスタントなんだから大人しく俺のサポートをしてればいいんだよ」

 この言い草にむかっとしたが、こういう反応を示す、ということは追及が的を射ており、心の余裕がなくなった証拠だ。あと一押し。

「私だって好きでやってるんじゃありません。社長からセキュリティ管理も頼まれてるから仕方ないじゃないですか。この記録も提出しないといけないんでしょうね」

 モニターでログデータを眺める燈のいたずらっぽい表情を見て、矢島も観念した様子で、ちょっと来い、と言って会議室に燈を連れていく。

 矢島は、会議室の扉を閉めて、

「お前、ぼーっとした見かけによらず鋭いな。女の勘ってやつか? 自宅でWARAJIを試しているのは確かだ。サーバルームに一人で籠っていると気が滅入ってな。自宅に持ち帰ってテストをしていた。ほら、最近、残業規制が厳しいだろ?」と認めた。

 矢島の心の防衛線を一つ破った。一つ越えるとガードが下がる。この先はつつけばペラペラしゃべってくれるはずだ。

「家で仕事する方がよっぽど気が滅入ると思いますけどね。家では仕事を忘れた方がいいですよ。で、銀行のシステムに侵入したところ、魔がさして、自分の口座に金を振り込むよう指示しちゃったってことですね?」

 こういうときは、本人の想定のさらに上を追及するのがみそだ。本当のことを話しやすくなる。

「何言ってるんだ。そんなことするわけないだろう」

 矢島は顔を真っ赤にして怒りながらも動揺を隠せない様子だ。

 嘘は許しませんよ、と目の奥をじーっと見つめてくる燈に、矢島が観念した様子で説明を加える。

「サムライ社内の仮想サーバに侵入できたからって、社外のシステムにも侵入できるとは限らないだろ? どうしても実物のシステムに侵入してみる必要があった。セキュリティがもっともしっかりしてそうな銀行を選んだだけだよ。もちろん、情報をサンプルで抜いただけで、誰にも被害は与えていない」

 本人の言うことを100パーセント信じるわけにはいかないが、被害を与えていないと聞いて少しほっとする。

「わかりました。矢島さんのことを信じます。本当は侵入するだけで犯罪ですけどね」

「ばれなけりゃ問題ない。サーバ側は侵入されたことも検出できないからな。それがWARAJIのすごいところだ」

 矢島は追及の手が緩んだとみて表情を緩め、

「お前、話を聞き出すが上手だな。そう言えば、先日、社長が海外の諜報機関から情報を狙われてるから気を付けろとか言ってたけど、お前がそのスパイじゃないだろうな?」と逆襲にかかる。

「違いますよ」

 慌てて否定してしまい、逆に怪しまれないかとさらに焦る。

 矢島は燈の顔を凝視している。

「そう言えばお前、なんか中国人っぽい顔立ちしてるよな?」

 そんなこと言われたことがない。中国人っぽい顔ってどんな顔だろう。一瞬、真に受けて考え込むが、矢島のにやけた表情を見て、からかっているだけだとわかる。

「私、社長の遠い親戚なんですけど」

「そんな噂があったな。でも、お前、歓迎会の席で社長とは関係ありませんって思いっきり否定してたぞ」

「社長はWARAJIシステムの存在を隠して補助金の申請をしてたらしくて。週刊誌で記者やってる友達がそのネタを私に教えてくれたんです。社長を少し脅したらあっさり採用してくれました」

 こちらも適当なことを言っておいた。

「へえ。あの人がそんな脅しにのるとは・・・。思ったよりちっちゃい人だな。お前は大人しそうな顔してるけど、実は欲しい物は力づくでとる肉食女子ってことか」

 その言い方に、自分のことを軽蔑したのかと思い、矢島の表情を確認すると、意外にも感心している様子だった。

「スパイじゃないとしたらなぜ俺につきまとう? 俺に気があるとか。彼氏はいないのか?」

 にやにやして燈を見る。

「それってセクハラですよ」

「そう言うと思った」

「ええ、確かにいませんよ。負け惜しみじゃなくって、男には興味ないので」

「なるほど。最近の子はあっさりカミングアウトするんだな」

 自分だって若いくせに。こいつは、自分は周りのやつとは違う、というプライド意識が言葉の端々に感じられて嫌味だ。

 それなのに、なぜか矢島の前ではついつい余計なことまでしゃべってしまう。外事局からはプライベートなことは話すな、と言われているが、任務には直接関係ない情報だからノープロブレムだろう。

「ちなみに、サーバルームの厳しいセキュリティをかいくぐって、どうやってUSBメモリをサーバルームに持ち込んだんです?」

「靴底に隠した」

 その場は矢島のことを開放して席に戻ると、取り急ぎ、矢島が自宅からWARAJIにアクセスしていることを外事局にメールで報告する。ただ、銀行システムにアクセスしたことは伏せておく。

 野上からの返信には、矢島のWARAJIプログラムの持ち出しを「望ましくない」としつつも、「引き続き矢島の自宅からのアクセス先についても監視を続けるよう」と指示が記されていた。実害がない限り個人の不正は関知しないのがルールのようだ。

 このまま泳がすという方針に少しほっとした。

 その代わり、これからは家に帰ってからの監視業務が任務に追加されることになった。もちろん、その分の残業手当は出ない。


 7月1日 


 矢島が外出すると、これまで通りスマホをときどきチラ見してマップ上の動きをチェックするのが日課だ。

 今日も真面目に下請企業を回っているな。感心感心。

 上司になった気分で独り言ちるのが、ささやかな楽しみだ。

 すると、訪問先の下請企業から動き出した矢島のアイコンが、なぜか駅と反対方向に向かっている。おや、と気になって注視していると、ある場所で止まった。

 下請企業の先には、確か昭和の匂いがする喫茶店があったはずだ。寄り道はしない矢島にしては珍しい。

 嫌な予感がして、バッグをつかむと、

「矢島さんに忘れもののお届けに行ってきまーす」と周りに告げて席を立つ。課長は上目遣いでこちらにちらっと視線を送ったのみで、知らぬふりだ。

 下請企業の最寄り駅は赤羽橋だ。六本木から地下鉄で二駅移動する。

 矢島が入ったと思われる喫茶店の前に着くと、店内をガラス越しに覗きながら通り過ぎてみる。矢島が男性と向き合って話をしているのが見えた。

 その男性は、背筋をピンと伸ばして座っており、友人ではなく、ビジネス関係であることが推測される。

 何を話しているのか? 詳しく調べるためには喫茶店に入ってみるしかない。

 幸いなことに矢島は店の入り口に背を向けて座っているので、堂々と店内に入っても気付かれることはない。こちらも矢島に背を向けて座る。

 ウェイターがメニューを持ってくると、最初に目についたメロンソーダを指さして注文する。

 ウェイターが去るや否や、鞄に組み込まれたカメラと、指向性の高い収音マイクを矢島のいる方向に向けて、スイッチを入れる。

 耳に着けたイヤホンから会話が飛び込んできた。

「・・・これが記事になれば大スクープですけど、これだけだと弱いんですよね。こんなデータいくらだって改ざんできるでしょ。写真とかもっと決定的な証拠がないと・・・。私も裏付けの取材をしてみますけど・・・」

 矢島の対面に座っている男の声だろう。声色からは、矢島のことを突き放したようでいて、実のところかなり興味を抱いているのがわかる。

「この情報が万一洩れると、圧力をかけられてつぶされる恐れがありますので、取材はぜひ慎重に願います」

 矢島の声だ。

「僕は永年、暴力団の取材をやってきて、いろんな修羅場をくぐってますからね。こういうことは慣れています。任せておいてください」

 話の内容から判断すると、相手は記者らしい。

 矢島は何らかの情報をマスコミに売り渡そうとしている、と考えてよさそうだ。

 矢島の持っている情報と言えばプログラムデータだが、そんな情報をマスコミがもらっても記事にしようがないだろう。

 他に矢島が持っているとしたら、サムライ社の不正情報だろうか?

 だとすると、これは外事局員としてではなく、サムライ社員の立場で確認すべき内容ということになる。

 ここまで聞けば十分だろう。矢島より先に店を出た方がいい。

 5分ほどしてウェイターが持ってきたグラスにストローをつっこむと、メロンソーダを一気に口の中に吸い上げる。それを2回繰り返すと、おなかの中が一気に冷たいもので満たされた。

 満足感と不快さが胃の中でせめぎ合うなか、立ち上がって伝票を取ると、会計を済ませて外に出る。

 少し移動すると、街路樹の脇でスマホを取り出し、カメラ機能を使って後ろ向きに店内の様子を窺う。

 流れ落ちる汗に、やっぱり、もう少し店内で待てばよかったと後悔し始めたころ、矢島と記者が店から出てきた。

 二人は会釈を交わすと、矢島は駅方面へ、記者はこちら側へ向かってくる。

 記者が私の後ろを通り過ぎるのを待って、後を追う。

 記者がタクシーを拾うのを見て、慌てて次のタクシーを捕まえる。

「前の車を追ってください」

 こういうのを一度やってみたかった。

 後部座席から前に乗り出し、運転手にはあたかも刑事のような口調で矢継ぎ早に指示を出す。「信号は黄色でも行っちゃってください」いちいち口を挟む燈に運転手は少し迷惑そうな表情を浮かべているが、気にはしていられない。

 前のタクシーが停まったのに続き、こちらもタクシーを停めて降りた。

 男が入っていったビルを見上げると、毎朝新聞社という看板が掲げられている。

 おそらくここが本社だろう。

 エントランスから中に入ろうとしたが、ロビーの先には社員専用ゲートがあってIDカードがないと入れない。

 諦めて地下鉄を使ってサムライ社に戻った。

 喫茶店で撮影した写真データについて、外事局のデータベースにアクセスして照会をかける。すると、顔のイメージから1件ヒットした。

 名前は東園久志。勤務先は確かに毎朝新聞だ。社会面担当とある。

 喫茶店での動画と音声データは、外事局に提出しないことにした。余計な情報を渡して話が思わぬ展開になっては困る。

 矢島に話を訊くのが先だ。

 どこかで昼食を取ってきたのだろう。30分ほど遅れて戻ってきた矢島にかまをかける。

「さっき毎朝新聞の東園さんという方から電話がありましたよ」

「へえ、新聞購読の勧誘かな?」

 とぼけ方が子供じみていて心の中でうける。

「ひょっとして、矢島さん、新聞社に情報を売ろうとしてるんじゃないですか?」

 押し殺した低い声でにじりよると、矢島は不意を突かれて、少しのけぞる様子を見せるが、態勢を整えると、ちょっと来い、と燈を会議室に連れていく。

 部屋の中に入ると、あっさり口を開いた。

「お前にはかなわないな。どんだけ疑り深いんだよ。会社に迷惑をかける話じゃない・・・。実はな。超やばいものを見つけてしまった。総理大臣の犯罪だ」

「総理大臣の犯罪?」

 てっきりサムライ社の不正情報と思っていたので、思わずトーンが半音上がった。

「声がでかい。外国の企業から賄賂を受け取ってた」

「どうやってそんな情報をつかんだんですか?」

 矢島は言いづらそうに少し口ごもっていたが、覚悟を決めたように話しだす。

「この間話した銀行のサーバへアクセスした件だけど、ちょっとした興味から、 “マネーロンダリングが疑われる巨額送金“という条件を出した。そしたら、総理や日本護国党の政党支部や政治資金管理団体の口座に断続的に20億円が預け入れられていたことがわかった。そして金の出どころを辿っていったところ、ある会社に行きついた」

「どこですか?」答えをせかす。

「アメリカの軍需会社タイフーンだ。WARAJIは直接振り込まれていなくても、金額規模、タイミング、イレギュラーな金の流れ、当事者の関係性等を数値化して計算し、点と点をむすび、その金の実質的な出所を推測することができる」

「それ、公表するつもりですか? 情報元を辿られると、矢島さんもクビ、て言うか、下手すれば逮捕されちゃいますよ」

「マスコミは基本、情報源は守るのがルールだから大丈夫だ。それにそんなことを恐れてる場合じゃないだろう。日本の一大事だぞ」

「そりゃ確かにでかい話だけど、そんなゴシップより矢島さんが手がけてるプログラムの方がずっと人類にとって大事じゃないですか」

「プログラムは俺が開発しなくても、いつかは誰かがやるだろ。俺はそれを早めただけ。でも、賄賂は、確実に国の政治をゆがませる。タイフーンから買おうとしている無人戦闘機だけど、米国の意図を忖度していざというときに暴走するかもしれんぞ。ちゃんと検証されたのか気になるところだ。それに、金を受け取った政治家は、金の力で政界も牛耳るようになる。議員同士は平等なはずなのに、裏金を集めた方が上に立つっておかしいだろ? だから絶対に暴露しないといけない。最悪、今、俺がパクられてもプロジェクトは大丈夫だ。すでに完成しているからな。もちろん、俺もつかまりたくはないからやり方は考える」

「言いたいことの理屈はわかりますけど・・・」

「なら、このことは誰にも言わないでくれ。俺の責任でやる。お前には迷惑はかけない」

 正義感はごりっぱだが、正しいことをしていればうまくいくなんて、世の中はそんな単純じゃない。だが、ここで苦言を呈してみても、話が折り合わない。

「わかりました。誰にも言いません。でも、条件があります。話が進展したら、必ず私にも教えてください」

「いいだろう」

「それと、外国の経済スパイも嗅ぎまわってますからね。万一、そちらに嗅ぎつかれると面倒ですから気を付けてくださいよ」

 矢島は燈が同意したのを見て安堵したのか、燈の懸念はどこふく風といった様子で、

「俺は隙がないから誰にも漏れていない。お前を除いてな。その記者は証拠固めの取材を進めると言っていたから、それを待つことにする。少し前のめりだったのが気になるが、日本を代表する新聞社だし、取材ノウハウは確かなんだろう。ところでその記者は電話でなんて言ってた?」と訊く。

「たいした用事じゃない様子でしたよ。また電話するって」

 今さら、電話は嘘です、とも言えないのでごまかした。

「お前にばれて焦ったけど、かえってよかった。一人でこんな秘密を抱えているのは精神衛生上よろしくないからな。さて、日本のために働くか」

 矢島は、軽口をたたきながら席に戻っていった。

 それにしても、この男は、話し始めるとぺらぺら全部話し出す。いくら頭がよくても、結局のところ、男は虚栄心が強くて幼稚だ。

 自分の席に戻ると、タイフーン社に関する最近のニュースを検索してみた。

 1か月ほど前のニュースで、日本政府がF99という無人戦闘機45機の購入についてタイフーン社と合意に達したと出ている。詳細な条件が決まるのはこれからであり、米国議会の承認も必要ではあるが、2年後には運用開始予定とある。この戦闘機の配備が完了すれば、パイロット不足は解決し、人命を危険にさらすことなく、制空権を支配できるだろう、との有識者のコメントつきだ。

 さらに過去にさかのぼって記事を調べていくと、米国では3年前にすでにF99を導入していた。当時、日本もF99のライセンス生産をアメリカ側に打診したが、ライセンス供与を望まないタイフーン社が協力的でなく、米国政府も軍事機密保護の観点から後ろ向きであったことから、交渉は頓挫した。そこで、仕方なく、国内の事業者に開発を委託する方針に切り替えていた。名乗りを上げたのは京浜重工と幕張電子工業の企業連合だ。

 ところが、着陸制御に関する設計上の問題から、F99がオーバーランを起こす恐れがあることがわかり、米国の連邦議会で問題視されたとある。

 また、2年前には、有人戦闘機であるF35の1編隊との共同訓練中に、誤ってこれを全て撃ち落とす、という未曽有の事故を起こした。

 これは大きくニュースで取り上げられていたから覚えている。

 F35にロックオンされたことで誤ってキルモードに入ったらしく、パイロット4名が死亡し、かろうじて1名が脱出するという大事故であった。F99の自爆機能もAIの判断によって無効化され、米軍は地上から対空ミサイルを矢継ぎ早に発射して、5発目でかろうじて撃墜した、とある。

 皮肉にもF99の実戦能力の高さが証明されたわけだが、米軍はF99の運用を中止するとともに、発注済の45機の契約をキャンセルした。

 この事態に焦ったタイフーン社は、製造中のF99に対して、AIに制限をかける形でプログラムを更新して着陸制御システムにもマイナーチェンジを施し、これを日本に売り込むことへ舵を切った。この1年間、タイフーン社は防衛族と言われる日本の国会議員達に向けて猛烈なロビー活動を行ったようだ。

 それが功を奏したのだろう。政府の方針転換に対して、国会では、F99が暴走する危険性について野党から追及がなされた。答弁にたった富岡首相は何度も回答につまり、役人がその都度、メモを差し出す、といったことが繰り返されて、国会は紛糾したが、首相は強硬な姿勢を崩すことはなかった。

 マスコミからの追及に対しては、官房長官がいつものように質問をのらりくらりとかわしている。

 そして、富岡内閣は、国内企業連合との開発委託契約を解消し、タイフーン社との売買契約締結を強行した。

 こうしてみると、日本政府の決定はあまりに不自然かつ急な方針転換であり、背後に収賄があったとしてもおかしくない。

 矢島は、任せてくれ、と言っていたが、本当に大丈夫だろうか? 

 矢島と毎朝新聞の記者に証拠が集められるのか、という疑問もあるし、そもそも矢島の身に危険が迫ることがないのか、という点も心配だ。

 矢島にはもっと大事なミッションがあるし、それは私のミッションにもかかわることだ。矢島を手伝った方がいいのか、それとも止めさせるべきなのか? 

 外事局の力を使えば証拠を集められるかもしれないが、目的外のことに協力を得られるはずがないし、外事局が味方に付くとも限らない。政治的な思惑により総理擁護に回る可能性を否定できなかった。


 それからしばらくは矢島から新しい情報が来ることはなく、WARAJIもあれ以来使っていないようだったが、矢島を問い詰めてから1週間たった日、矢島は会社を休んだ。

 矢島の携帯電話にかけるがつながらず、LINEを送っても既読にならなかった。GPSの位置情報は矢島の自宅を示している。

 10時過ぎに複数の刑事が職場を訪ねてきたことで、初めて状況が飲み込めた。矢島は不正アクセス禁止法違反容疑で逮捕されたという。

 悪い予感は現実となってしまった。

 海崎社長を初めとして、矢島の同僚が一人ひとり会議室に呼ばれて、刑事から話を聞かれた。

 燈の順番が来て会議室に入ると、刑事二人が奥に並んでいて、その前に座るように言われる。

 矢島の素行や最近の様子、矢島との関係性についていろいろと尋ねられたが、余計なことは話すべきでないと考え、矢島から聞いた話は秘密にしておいた。必要があれば矢島本人が警察に話すだろう。

 一方で、刑事は、捜査に影響するからという理由で、矢島の容疑については何も教えてくれなかった。

 聴取が終わると、ほっとする間もなく、矢島の机に設置された電話から盗聴器を取り外す。

 矢島の鞄にはGPS発信機がついたままだが、矢島の自宅にあるので手を出しようがない。警察がそこまでは調べないことを祈る。

 あとは、矢島の自宅パソコンだ。

 矢島さんの逮捕にショックを受けたので、と課長に告げて、早退を認めてもらう。

 自宅に帰ると、遠隔で矢島の自宅のパソコンにアクセスして、データや矢島のアクセス履歴をデリートした。それらのデータの代わりに、無関係の動画データを大量にパソコンに送り込んでおくことにする。

 てっとりばやく、矢島の閲覧履歴にあるサイトからダウンロードしたが、たまたまエロサイトだったようだ。矢島も女性に興味はあるらしい。

 この大量の動画を警察が見れば、矢島が変な誤解を受ける可能性もあるが、それで罪が重くなるわけではなかろう。

 最後にキーロガー自体をデリートして燈の痕跡を消す。

 それにしても、WARAJIは痕跡を残さないという矢島の説明だったのに、どうしてばれたんだろう?

 外事局には矢島がWARAJIを会社外に持ち出したことは報告したが、WARAJIを使って銀行のシステムに侵入したことについては伝えていない。外事局が警察に通報したわけではないだろう。

 そう考えると、総理サイドが、東園という記者の動きを察知し、これに接触していた矢島が情報源であることを突き止めて、口封じのために逮捕した、と考えるのが正しいのかもしれない。

 今回の逮捕に政治的な力が動いているのは間違いなさそうだ。

 単なる不正アクセスで実害がないなら処分保留で釈放される可能性が高いし、証拠となるパソコンのデータが消えた状況では、捜査も頓挫するだろう。

 だが、総理の権力がからんでいるとなると、強引に起訴に進むのかもしれない。

 次の日、出勤すると、机の上にあったパソコンや書類は軒並み姿を消していてガランとしていた。近くにいた先輩に聞いたら、警察が持っていったとのことだ。

 みんな、パソコンが無いなかどうやって仕事をすればいいかわからず茫然と佇んでいる。

 きっと矢島の自宅のパソコンも押収されたに違いない。

 ぎりぎりのタイミングで間に合ったことに、ほっと胸をなでおろす。

 ふと顔を上げると、社長室から海崎が出てくるのが見えた。燈のことを待ち構えていたらしく、目が合うや否や手招きした。

 燈が社長室に入ると、いらだちを隠さずに、

「まいったな。これからというときなのに。矢島はなんてことをしてくれたんだ。橋口は何か知ってるのか?」と訊いてくる。

「いえ、何も知りません。私は矢島さんの位置情報をJSDに知らせていただけです。ニュースによると銀行のシステムに侵入したそうですね。会社のパソコンから不正にアクセスした様子は見当たりませんから、矢島さんの自宅パソコンから侵入したんでしょう」

 社長に本当のことを話すわけにはいかない。

「仮にあいつが銀行のシステムに侵入したとして、証拠を残すようなそんなドジを踏むか?」

「そうですよね。それじゃ、WARAJIを作った意味がないです」

 首をかしげてみせたが、私にばればれだったのは事実だ。

「幸い、WARAJIも“ディテクター”も完成し、後は“ディテクター”の検査工程を残すだけだ。残りのメンバーで完成させることはできるとは思うが、この事件を契機に政府とかから圧力をかけられて握りつぶされてはたまらんからな。橋口から上に口を利いてもらえないか。矢島を釈放させるように警察に圧力かけるとか・・・」

「私にそんな権限や影響力があるわけでないでしょ」

「情報だけでも集めてくれるとありがたいんだがな」

「私から勝手にJSDに連絡をとることは禁じられています。海崎さんこそ、直接訊けばいいじゃないですか?」

「俺も実は連絡先を知らんのだ。園田という男に一度会ったが、無愛想な奴でな。あいつ、名刺すら渡してこなかった。こっちは出したのに・・・。園田の連絡先を知らないか?」

「残念ながら園田という人は知りません」

 言われてみれば、外事局の職員で名前を知っているのは、野上ただひとりだ。

「代表番号は?」

「そんなものありません」

「そうか・・・まさか、いきなり官房長官に電話するわけにもいかんしな」と自嘲気味に笑う。

 社長室から出て自分の席に戻るが、燈自身とて腑に落ちているわけではない。

 海崎に言われるまでもなく、野上には確認のメールを投げていたが、何の返信もない。

 プロジェクトの保護対象が逮捕されたのに外事局が何も考えていないはずはないだろう。指示が降りてこないのはなぜ?

 矢島が逮捕された今、私がサムライ社にいる意味は失われた。

 手元には、矢島から託されたUSBメモリがあった。中にはWARAJIサーバーへのアクセス方法と総理の犯罪の証拠となるデータが入っている。矢島が白状したときに、コピーを預かってくれ、と託されたものだ。肌身離さずポシェットに入れて持ち歩いている。

 矢島は自らの逮捕を予想して、私に託したのだろうか?

 矢島の同僚としての立場、外事局の職員としての立場、いち日本人としての立場、いずれを優先すべきなのか? そして、矢島にとって、また私にとって、どう動くことが最善の策なのか? 複雑な二次方程式の問題を出されたようで、頭が混乱する。

 テレビでは矢島逮捕のニュースが流れているものの、肝心の総理の犯罪については何も聞こえてこない。

 矢島は総理の犯罪について警察に話したのだろうか?

 逮捕されてなお秘密にする理由はなさそうだが、矢島が警察に真相を話したとしても、警察が総理周辺への捜査に入るとは限らない。上からの圧力でもみ消されてしまうかもしれない。

 捜査に入るにしても、ことの重大性から、裏が取れるまでは公にはできまい。つまり、状況が明らかになるのは相当先の話ということだ。

 それを見極めてから動くのでは遅すぎることはわかっている。

 私がどう行動するかに拘わらず、外の世界が私のことを放っておかないだろう。私も総理の犯罪を知っていることはじきにばれる。

 そのとき、外事局は、警察は、自分をどうしようと考えるのだろう。

 ポシェットの紐を握る手に力が入った。


 園田

 7月14日 


 官邸に入ると、内閣官房長官の部屋に向かった。

 外山長官は、園田の姿を見つけると、いつものことながら雑談を挟むことなく本題に入る。

「総理から相談を受けたんだが、毎朝新聞の記者が永田町を嗅ぎまわっている。どうやら総理に関するネタを探しているようだ。そろそろ選挙も近いからな。総理も気をもんでいる」

 それと外事局に何の関係が? そう思いながら聞いていると、外山長官は、

「公安が毎朝新聞に出入りする人物を監視カメラの映像から過去にさかのぼって洗い出した。その調査結果を見せてもらったが、サムライ社の社員が映ってたって話だ。まさか、お宅のお嬢さんじゃあるまいな?」と言って写真を園田に示した。

 橋口だ。

「確かにうちの橋口というメンバーです。矢島という保護対象のプログラマーに張り付けています」

「まさか、君のところのお嬢さんが新聞記者に何かリークしたわけではあるまいな?」

「それはないでしょう。矢島が記者に何等かの情報を渡していることに気付いて後をつけたのかもしれません」

「いずれにしてもお嬢さんが何か知っていそうだな」

「矢島が会社、個人携帯、自宅電話からアクセスしたアドレスや電話番号はすべてチェックしていますが、毎朝新聞社員との接触履歴はありません。抜け道があるとしたら彼の自宅パソコンからですね。橋口にも再度確認を取ります」

 橋口は何か隠しだてをしているのだろうか? 万一、橋口が犯罪行為に加担していたらやっかいだし、警察から目を付けられるだけでも困ったことではある。

 ふと、気になって外山長官に尋ねる。

「先生、ひょっとして橋口のことを誰かに伝えましたか?」

「いや、そこは誰にも言っていないから安心しろ。でも、大ごとになると守り切れなくなる。その前に手を打て。とにかく君の方でも記者と橋口とやらの裏をとってくれ」

 外事局はその名の通り、外国をターゲットにしていて、日本人を監視する組織ではない。だが、ここまで聞いてしまった以上、動かないわけにもいかない。その新聞記者について内偵することにする。

 外事局の調査部長に東園を調べるよう指示を出す。橋口にはこのことは伝えないことにした。


 調査部から報告が上がってきた。

 内偵対象だった東園という記者が2日前から会社に出勤していないということだ。

 行動を見張っていたが、外出先で見失ったという。

 翌日、外山長官から電話が入った。

「このあいだの件だが、警察情報によると、総理が言っていた新聞記者が行方不明になった。公安が暴力団の仕業を疑って記者のアパートに踏み込んだところ、中にあったパソコンから、サムライ社のプログラマーが金融機関のサーバに不正アクセスしていた証拠がでてきた。矢島というプログラマーの逮捕状を取るそうだから、外事局はこの件から手を引け。お嬢さんの存在が総理の耳に入ったら大変なことになるぞ。さらに外事局の存在が明るみに出るリスクもある。わかっていると思うが、痕跡をすべて消せ。連絡も一切取るな」

「わかりました」

「ちなみに、今朝も総理と会ったが意外にもご機嫌でな。あの件はもう問題ない、と言われた。だが、俺は佐々木国家公安委員長の動きがどうも気になる。本来の業務ではないが、佐々木の動きをマークしてくれ」

 承知しました、と伝えて電話を切る。

 やれやれ。俺は外山長官の部下じゃないのに、とつぶやく。

 橋口に関するすべての書類を廃棄し、データ、ログも消去するよう、外事局内で指示を出す。

 かわいそうだが、仕方ない。

 そして、調査部長に連絡を入れる。

「今度は国家公安委員長、警察庁長官をマークしてくれ。我々のプロジェクトの妨害に関与している疑いがある。外山官房長官の指示だ。センシティブな案件だから慎重に頼む」

「わかった」

 調査部長は防衛省入省時の同期であり、もっとも気心の知れた人物だ。


 佐々木

 7月5日


 富岡総理に呼び出されて官邸に向かった。

 何事だろう? 閣内にいるとはいえ、総理と個別に会う機会は滅多にない。

 総理はいつになく苛立った様子で、

「新聞記者が私の近辺を嗅ぎまわっているようで不愉快だ。私に関するなんらかの情報を握ったらしい。私にやましいところは何もないが、選挙が迫ったこの時期に記事にされれば、いくら事実無根であっても印象がよろしくない。わかるな。君のところでなんとか手を打ってくれないか」とまくしたてるように言った。

「はい、調査して、しかるべく対処します」

 事態がよく呑み込めないが、あまり詮索すると、総理の機嫌がさらに悪くなりそうだ。

 帰り際に、総理の秘書から“毎朝新聞 東園”と書かれたメモを受け取った。

 事務所に戻って、早速、警察庁長官の真田に電話をかけ、新聞記者の調査を指示した。


 指示から数日たって真田がその結果について報告に来た。

「東園がつかんだのはどうやら総理の口座への入金情報のようです。どうやらタイフーン社がからんでいるらしいです」

 真田の報告に顔を曇らせる。

「タイフーンか・・・、それはまずいな。この間、国会で取り上げられたばかりだ。痛くない腹だとわかっていても、探られれば政局になる」

「もしタイフーン社から金を受け取ったのが事実なら、警察が動かなくても東京地検が動くでしょう」

 真田は自分の力では、事件をなかったことにするのは無理だと言いたいらしい。

「タイフーンの戦闘機がすぐれていて、我が国に必要だから契約したというだけの話だ。もし、金が渡っていたとしても、それはタイフーンが勝手に行ったことであって、賄賂ではない。政治に金が必要なことは君も知ってるだろう」

「その理屈が通るかどうか。そもそも外国企業からの献金は違法ですからね」

「君はいつからそんなに書生臭くなった? 理屈なんて後からなんとでもつけられる。法律は大義を守るための道具でなくてはならん」

「はあ」真田は戸惑いの表情を隠せない。

 つい、苛立ちの表情を浮かべてしまったが、事態を収拾させるための具体的なプランはすでに佐々木の頭の中に浮かんでいた。

「井岡という男が九州の公安にいる。警備部長だったかな。東園の口封じなら彼に任せればうまくやるはずだ。昔の俺の部下だが、極めて優秀な男だ。君から指示を出してくれれば、その後は君が関与せずとも話は進んで行くだろう」と園田は妙案を授けた。

「井岡・・・? 九州の、ですか?」

 なぜそんな男を、といった風に首を捻る真藤に、佐々木は補足する。

「井岡は私が警察を退任する直前までさまざまな特命を担っていた。目的のために手段を選ばない男で、汚れ仕事もずいぶんこなしていたよ。君も使ってみればその便利さがわかる」

「汚れ仕事って、まさか、始末するとかじゃないですよね?」

「何が最善の手なのかは井岡が考える。すべて任せればいい」

 具体的な指示を出す必要がないことがわかって気持ちが軽くなったのか、真藤は、

「わかりました、井岡という者に指示を出しておきます」と引き受ける。

「よろしく頼む。君の方では井岡に権限を与えて、暴対や刑事部、鑑識が邪魔をしないよう目を配ってくれ。俺は東京地検が変な動きを起こさないよう法務大臣に釘をさしておく」

「了解しました」

「私は富岡総理がいてここまで来れた。君も警察庁長官で上がりってつもりじゃないんだろう?」

 念押しすると、真田は意を決したように頷いて部屋を出ていった。

 生真面目で腹が据わり切らない真田に頼りなさを感じつつも、井岡につなぐだけであり大丈夫だろう、と不安を打ち消す。

 もともと自分は警察官僚で警察庁長官まで登りつめ、当時、日本護国党の副幹事長であった富岡の目に留まって政界入りした。今回、大臣になれたのも富岡総理のおかげだ。

 富岡総理のことは絶対に支えなければならない。

 そのためには何でもやる覚悟だ。真田も自分が目をかけてきた一人であり、裏切ることは考えられない。

 力が正義であり、力がなければ正義を貫くこともできない。それは、警察官時代に思い知らされてきたことだ。妥協や躊躇が生み出すのはカオスだけである。真田とて、そのことは重々承知しているはずだ。

 今回のことを自分が解決すれば、富岡総理の信任は盤石なものとなる。そうなれば内閣でさらに重要ポストを任されることも夢ではない。

 未来への展望が見えてきた。


 井岡

 7月9日


 週に1回は、東九州市の繁華街を回り、経営者や店員から生の声を聴くことをルーティンにしてきた。

 もともとは東京の出身であり、土地勘がない。この地元特有のパワーバランスを正しく理解するためには、自分の脚と耳を使って直接情報を集めることが大事だ。

 外出先から戻り、席に着くと電話機にメモが貼ってある。警察庁長官の真田から電話があったようだ。

 長官じきじきとはどういった要件だ、といぶかしむ。

 今の長官とは面識すらない。よほどの要件か。

 ひょっとしたら佐々木案件かもしれないと勘を働かす。

 長官に折り返し電話してみると、総理近辺を嗅ぎまわっている新聞記者をどうにかしろ、との指示だった。

 俺は便利屋じゃあない。

「私は長官の直接のラインではありません。ちゃんと県警本部を通していただかないと困ります」カチンときてそう答える。

「気持ちはわかる。だが、これは私からの指示ではない。佐々木大臣からじきじきのご指名だ。この件を知っているのは、大臣と私、そして君の3名だけだ。それ以外に決して漏らしてはいけない。必要な要員や金があれば言ってくれ。私の方でなんでも協力する」

 悪い予感があたって井岡は顔を曇らせた。

 なぜ、警視庁を離れて九州に移った自分にそのような裏の話が回って来るのか。しかも、相手は新聞記者だという。

 やっかいだな。

 それが率直な感想だ。

 ヤクザであれば、見返りや脅しで言うことを聞かせることもできようが、新聞記者を黙らせる方法はかなり限られる。

 佐々木がまだ警察にいたころ、「自分の言うことを何でも聞く便利なヤクザを作るのが私のやり方です」と話したことがある。それが佐々木の頭にまだ残っていたのだろう。

「どうして九州に異動になった私が、東京にいる記者の対処をしないといけないのか理解できません」

「警察広しといえどもヤクザを動かせるのは君だけ、ということだ」

「まさか一般人を始末するためにヤクザを使えって言うんですか?」

「口を慎みたまえ」長官は叱責の言葉を吐くが、間を空けて、

「もし、今回のミッションに成功すれば、警察庁か警視庁の望みのポジションを用意する。約束だ。早く東京に戻りたいんだろう? 私だって好きでこんなことを頼んでいるんじゃない。佐々木さんの顔を潰すわけにはいかんのだよ」と、今度は飴をちらつかせて穏やかに説得してきた。

「少し考えさせてください」

 いったん電話を切った。

 自分を九州に派遣したのは、今の警視総監であり、東京での井岡の功績をよく知ってのことだ。

 九州で絶大な力を持つ菅野組という暴力団を抑え込め。それが特命であった。

 赴任以来、警察官という立場を失うリスクも承知のうえで、対抗勢力である八坂組に近づいて関係を築いてきた。八坂組を強化して、菅野組に対抗させようという戦略だった。

 それをこんな形で私的に利用しようと言うのか。

 これまでの苦労を思うと怒りが湧いてくる。

 井岡をやり切れない思いにさせたのには他にも訳がある。その新聞記者の名前だ。

 その名前は、警視庁に勤務していたとき、何度も取材を受けたことがある記者だった。

 親友というほどの間柄ではないが、お互いに話せるぎりぎりのところで情報をやり取りして、持ちつ持たれつでやってきた。こちらも世話してやったが、彼の情報によって手柄を上げられたことも1回や2回ではない。

 そういう意味では、記者の年齢はずいぶん下ではあるものの、同士と呼べないこともない。

 そいつを始末しろと言われている。

 立場が変われば、昨日の友だって蹴落とさないといけなくなる。それは仕方ないことだ。

 単身でこちらに赴任してきたが、東京に戻るには、斜陽の八坂組の復活に賭けるより、このミッションをやり遂げる方が手っ取り早いことは確かだ。

 組織で泳いでいくには上の指示は絶対だ。

 そう自分に言い聞かせた。

 再度、受話器を取ると、リダイヤルボタンを押す。

「井岡です。先ほどの話、承知しました。方法については任せてください」

 要件を告げると、電話を切った。


 **

 九州を地盤としている暴力団である八坂組に、八坂圭三という男がいる。組長代行だ。八坂組は地域に根差した八坂一家の世襲のヤクザだが、菅野組との抗争に敗れ、今は全く勢いがない。壊滅寸前のところまでいったが、陰で井岡が動いて菅野組と手打ちをさせた。

 八坂圭三は直情的な人間だが、義理堅いところがあり、恩を売っておけば、いざというときに使い道がある。菅野組を抑える切り札として育てる考えだった。

 ちなみに、菅野組と手打ちをさせるときに、公安がバックにいることを菅野組に知られないように、第三者に仲介を依頼している。

 エサは菅野組構成員である畠山という男による殺人事件への関与だ。この件は警察の中でもごく一部の人間しか知らない。物証がでてきた時点で、井岡の権限でいったん捜査を止めているので、容疑者本人も警察から嫌疑を受けていることは知らないだろう。井岡がゴーを出し、強制捜査ということになれば菅野組のダメージは相当なものになる。連中を黙って従わせるには十分すぎるネタであった。

 ただ、一方でこの事件の真相は八坂組に知られてはならない。仲介者がそこのところはうまく立ち回ってくれた。

 八坂組にこの情報を流すのは、八坂組に実力がついてからになるだろう。

 暴力団の弱みをついて懐に入り込んでは、他の組と競わせて自滅させる、という手法を得意としてきた。これができるのは警察の中で井岡をおいていない。  

 井岡が私立中学に通っていたころ、クラスの不良に目を付けられ、様々な嫌がらせを受けた。相手には仲間が多数いて、真正面から刃向かうのは得策でなかった。先生に言ったところで、その場を取り繕うように仲直りさせておしまいで、その後報復を受けることになるだろうと思った。

 この不良を排除するにはどうすればいいか、冷静に考え抜いた。

 わざと下手に出て隙を見せては、その不良の言葉を録音し、それを合成した音声データに告発文を添えて学長と文部科学省に送った。そして、不良の家には、音声データに、これ上続くと警察に告訴する旨の警告文を添えて送った。

 紆余曲折はあったものの、最終的にこの不良は自主退学し、井岡の目の前から消えて行った。彼の仲間も学校から厳しく諫められた結果、すっかり大人しくなり、その後の学校生活は平穏を取り戻した。

 そのときの成功体験が井岡のその後の思考回路のベースを作った。

 正義のためであれば、どんな手段も許されるということ、そしてどんなに困難な状況に見えても、とことん考え抜けば打開策はある、という信念だ。そして、その信念は公安において見事に発揮された。

 関東では、二つの暴力団を対抗させたうえで、疑心暗鬼に陥ったそれぞれの組から情報を入手し、双方の組長を相次いで逮捕することに成功した。その二つの組はほぼ壊滅状態になった。

 その実績を買われ、ヤクザの抗争が表面化している九州に異動になったのが1年半前のことだった。

 ただ、このやり方は諸刃の剣である。暴対がこれをやると癒着が生じかねないし、下手すると、逆にヤクザに弱みを握られて手出しできなくなる。

 通常の捜査に関わらない方が却って動きやすい、というのが、井岡が公安にいる理由だ。

 **


 今、歯車が軋みながら動き出した。井岡の想定とは違ったが、流れに逆らわない方がいい。

 すでに気持ちは固まり、八坂を使って東園を始末させる方策に思いを巡らせた。

 八坂組が崩壊寸前までいったときに、組の若い者を手なずけることに成功している。

 八坂圭三の不正行為を報告させて、その都度、現金を渡してきた。その結果、いつでも八坂をしょっ引けるネタもつかんでいる。盗んだ自動車を分解して、その部品をロシアに輸出していたのである。

 検挙せずに泳がせていたが、この情報を使うときがきた。

 東園という新聞記者が自動車部品の盗品リストを掴んだ、ということにして、八坂圭三の反応を見ることにする。

「そんな情報をどこから仕入れた?」と、八坂は珍しく電話口で興奮した様子だった。

 想像以上の食いつき様で、八坂は必ず動くと確信した。

 八坂組は財政的にも厳しいはずで、虎の子の密輸の道が閉ざされれば資金も枯渇するだろう。金が無くなれば組織の求心力はさらに弱まる。

 八坂との電話を切った後、約束通り、その盗品リストを八坂宛にメールで送った。

 続けて、自分のスマホの連絡帳に残っていた東園のメアドを見つけると、同じリストを送信した。

 フリーメールを使って発信元は匿名とし、タイトルは「八坂組の悪事を断罪する」として一般人の垂れ込みを装ってある。

 これで、仮に八坂が東園に接触したとしても、盗品リストの存在という点で話がかみ合うだろう。仮に八坂が動かなかったとしても、このリストだけであれば、独り歩きして記事になることはない。

 2,3日すると、八坂組の内通者から連絡が入る。

 思惑通り、八坂が東京へ飛んだとのことだ。

 翌日、八坂の後を追って羽田に飛んだ。

 羽田に着くなり、毎朝新聞社に電話をかける。

 電話口の人物に東園に代わってもらうよう依頼すると、予想通り、本日は出社していない、という返事が返ってきた。

 すでに八坂が手を下したのだろう。思い立った時の行動は実に迅速だ。

 電話を切ると、空港からその足で東園のアパートへ直行する。

 玄関のチャイムを鳴らして反応がないことを確認すると、アパートの管理会社に連絡を入れる。警察という身分を明かにしたうえで、東園の部屋の解錠を依頼した。

 管理会社の社員が到着するまでの空き時間に、今度は所轄の警察署にも連絡を入れる。東園久志が暴力団から狙われていて行方不明であることを説明し、家族に急ぎ連絡を取るよう要請した。

 30分ほどして管理会社の社員がやってきた。

 令状がないことを知ると、男は鍵の解錠を渋ったが、「一刻を争う事態だ、責任は取る」と詰め寄ると、しぶしぶ、マスターキーで鍵を開ける。

 井岡を先頭に部屋の中に足を踏み入れる。

 人気はない。

 凄惨な光景も覚悟していたが、部屋はきれいなものだった。

 屋外でやったのだろう。

 机の上にノートパソコンが置かれているのを認めると、風呂とトイレの確認を管理会社の男に依頼し、奥へと追いやる。

 その隙にパソコンをすばやく裏返しにすると、ネジをまわしてケースを開ける。ハードディスクを抜き取ると自分のバッグにしまい。パソコンを元の位置に戻した。

 まもなくして、所轄の警察官が自転車でかけつけてきた。交番勤務の若い男だ。

 この警察官に、ここの住人である東園久志という人物が九州にある菅野組という暴力団に命を狙われていることを伝え、見つけ次第保護してほしいと要請する。

 警察官は、九州の公安が東京まで出しゃばってきたことに、納得がいかない様子であったので、井岡が警察庁長官の特命により九州の暴力団の捜査に関する一切の指揮権限を与えられていることを明かすと、承知しました、と姿勢を正して敬礼した。

「自分は暴力団の方をマークするから、東園の捜索は所轄で頼む」とこの警察官に言い残し、東園のアパートを後にする。

 抜き取ったハードディスクを顔なじみのシステム屋に持ち込み、ロック解除を依頼する。

 ここは料金は高いが、腕は確かで秘密も保てる。

 システム屋は、手慣れた様子でハードディスクをパソコンに接続して、手際よくロックを解除すると、モニターとキーボードをこちらに向けた。

 キーボードを操作し、ハードディスクの中身をUSBメモリにコピーする。そして、中身を確認した。

 いくつかフォルダがある中に、“サムライ社矢島”という一番新しいものが目についた。開いてみると、音声データとこれを書き起こしたと思われる取材メモがでてきた。

 これを読むと、どうやら総理が外国企業から賄賂を受け取っていた、ということらしい。これが明るみに出れば政界は大混乱だ。佐々木が動き出した理由に得心がいった。

 取り急ぎ、ハードディスクからフォルダごと削除する。


 ハードディスクとUSBメモリをホテルに持ち帰り、真田長官に電話をかける。

「東園は行方不明になりました。捜索願が出されることになると思いますが、そっちは所轄の警察に任せてあります。東園の自宅にあったパソコンの情報はいったんハードディスクごと抜き取ってあります」

「ご苦労だった。情報の中身はなんだ?」

「サムライ社の矢島という人物にインタビューしたデータが入っていました。この矢島という人物が金融機関のシステムから極秘情報を抜いてそれを売り渡そうとしたようです。東園のメールボックスには矢島とのやりとりはなかったので、メモリ媒体で受け取ったのでしょう」

「金の出どこはタイフーン社か?」

「おっしゃる通りです」

 少し沈黙が流れた後、真田長官は、

「正式に令状をとって、そのパソコンを押さえるから、やばいデータは事前に削除してハードディスクは戻しておいてくれ」と指示した。

「承知しました。今晩のうちに戻しておきます」

「あと、東園が新聞社にもコピーを残しているとまずいな」

「新聞社の上層部を事前に少し脅しておきますよ。そうですね・・・、毎朝新聞の中に東園さんに恨みを抱いている人間がいるとのタレコミがあった、と。今のところ東園さんの失踪に事件性はないと考えているが、もし事件性がでてきたら、毎朝新聞本社の家宅捜索に踏み切らざるを得ない、とでも言っておきます。そうすれば、彼らもヘタな動きはしないでしょう」

「うむ。よろしく頼む。ちなみに、東園が矢島と会っていたことは、監視カメラの映像で分かっている。矢島を逮捕して金融機関のシステムに侵入した証拠を押さえる」

「わかりました。関係者はそれですべてですね?」

「いや。ほかにサムライ社で矢島のアシスタントをしている橋口という女がいて、東園と接触した可能性がある。だが、しょっぴく容疑がない。君の方でそっちの対処をお願いしたい」

「わかりました。考えます」

「あとでそいつの資料を送信する」

 やれやれ、また一般人か・・・。

 うんざりした気持ちで電話を切る。

 頼んでおいたルームサービスのウイスキーが届くと、グラスに琥珀色の液体を注いだ。右手でグラスを揺らし、丸い氷が音を立てて回るのを聞きながら、スマホに届いた資料を眺める。資料には橋口の住所や履歴情報が書かれている。

 橋口を処分するプランを練るのにさほど時間は要さなかった。

 井岡は顔をにやりとさせてスマホを置くと、グラスを一気に飲み干した。


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