『海』
中学三年生、ちょうど受験の頃だった。私も周りも神経を擦り続ける日々だった。
そんな中私はある歌を聞いた。
ただ淡々と暗い現実にある微かな希望を謳うそんな歌を。それを聴いた時、まるで夢のように現実と乖離するような奇妙な感覚を覚えた。音階が泉のようにあふれ、歌意が私の中を廻る。全てを手放すような解放感があった。
私はその世界に憧れた。地を這う人が空飛ぶ鳥に、籠の中の鳥が自由に憧れるように。それは必然的なものだった。
何となく、これだ。と思った。これが私が人生を賭けたいものだと。
そして、誰かにこの想いを伝えたいと強く願った。
薄暗い部屋の中。ゆっくりと目を覚ましてスマホを付ける。5時57分。今日の体内時計は比較的正確だ。
一度大きく伸びをしてパジャマから着替える。制服のシャツは布団と違ってまだ冷たい。
階段を降りてリビングに向かうといつも通り母さんがいて私の朝食が用意されていた。
「おはよう。」
「おはよう。そこでいいから顔を洗いなさい」
母さんに台所に押されて顔を洗う。水は母さんが使っているから、ぬるま湯だった。
顔を拭ってもう一度シンクを見ると、僅かな水垢で曇った金属板にぼんやりとした人影が映る。何度も見たその影に溜め息をつき、そのまま緩慢な動きで席に着く。
この時間に朝食を摂るのは私しかいない。母さんはもっと早くに起きて私達の朝食と弁当を用意する片手間に食べているし、父さんと妹は朝に弱く7時半くらいのギリギリに起きてくる。必然的に少し遠めの高校に通い、朝に多少強い私だけで朝食を摂ることになる。
独りだけの食卓は幼い頃から見慣れたものではあるが、あの頃のように雑然と物が置かれてはなく、私の心に関わらず広々としている。
朝食は千切りキャベツと目玉焼き、トーストにスープ。目玉焼きは私が好きな半熟。キャベツと目玉焼きをトーストにのせてソースをかける。とろりと卵が垂れそうになりながらトーストをほおばる。そして、それの片手間にスマホのゲームを開き、食べながらいくつかのゲームのログボを貰っていく。我ながら行儀が悪いと思うが、母さんから注意されることには慣れた。
「行ってきます。」
私は重いリュックを持って家を出た。
青くも決して広いとはいえない空、灰色のコンクリートで舗装された道、代わり映えしない緑。毎日二回通るというのにこの道は他の顔を見せることはない。
教科書とファイルと入学祝いのノートパソコン、そして毎日溜まる憂鬱感を背負って門を潜る。
「おは」
「よお、ちょっとこれ見て」
毎日友達と表面だけの他愛もない話しをして、退屈な授業を受ける。
「じゃあ問題解けそうかな」
「無理でーす」
「せんせー、もーちょっと待って」
一時間目は数学だった。
数学は比較的好きだ。指示通りに行えば、見えないお手本をなぞるように出来るから。
たった今、問題を解き終わったノートをサラリと撫でる。ただ誰かの努力をなぞって書かれたそれに自分の苦労も想いも無い。それでも母が買ってきたノートの手触りは良かった。
窮屈な学校を終え、いつもの道を通って帰る。部活や委員会に所属するほど青春を楽しもうなんて想いも無い。いつも通りの道で朝と違うのは途中まで友達がいることだけ。
「―は攻撃特化で装備を組んで」
「―は―と一緒にしてHP主体のほうがよくね」
「つか、課題出来てないんだが。」
「それ。課題の量やばくね」
「別によくね?」
いつもと変わらない会話をして、笑って、それから日が傾いている影の濃い駅前広場に背を向ける。
歯車のように寸分狂わず廻る私の日常。
「ただいま」
「おかえりお兄ちゃん。おやつ食べる?」
「いいかな」
「じゃあうちが食べる!」
元気な妹の声を聞きながら階段を上って私の部屋に入る。
教科書の入っていない勉強机、整えられた普通のベット、数着の服が吊るされているクローゼット。殺風景な北向きの部屋は唯一私が自由な場所だ。
明かりをつけることもなく机についてリュックからパソコンを出す。そしてヘッドフォンをつけてパソコンを起動する。作詞用のソフトで拙い詩を綴る。ほんの少し書き出して、口ずさんで、それを消す。たまに音楽ソフトで音を並べたり、ちょっと良いと思える詩ができたりする。試行錯誤といえば聞こえのいい、ただ何も生み出さない行為の繰り返し。
「♪〜♪〜」
永遠に終わりが来ないのではないかと錯覚してしまうほどに、この日々が淡々と過ぎ去る。
まるで櫂のない小舟とひとり残されるように。判別式を忘れてありもしない解を探すように。そして夜の海に沈むように。
それでも、何か、運命の手違いでも起きて水面から遠ざかる手を誰かが取ってくれるのを待っている。