壮絶なる肉の雄叫び
破壊神ハデスの鼻息が蜃気楼に溶ける。その重厚な体を鋭い太陽光が舐めるように這う。
粉塵が丸太のような四肢を駆け抜けた。圧倒的な体躯、その周囲に、無残にも裸体の自衛隊員たちが蹲る。まるで王にひれ伏す愚民のように。
「く、クソ、化け物が……」
熱したコンクリートの上で、裸体のひとりがうめいた。ハデスの尾が、その言葉にピクンと反応する。大地を削るように軸をずらす蹄。その切っ先は、無防備な彼に向けられた。
「ケッ、来るならこいよ。裸のマグナムしかねえけどな……」
にじりよるハデスにかけられる悪態。だがそこに、戦う意思はもう残ってはいない。諦めに陰る戦士へと、残酷にも破壊神は近づいてゆく。まるで、空腹に唸る獰猛な猛禽のように。遅々と、しかし確実に。彼の頭蓋に、その影が差し込む−−。
「待ちやがれ、お前のディナーはこっちだろう?」
その声と同時に、ハデスの頭上へと何かが解き放たれる。それはハデスの肉体をも凌駕する大きさの牛用餌袋だった。
ハデスの頭目掛けて落下する餌袋。ハデスは光る瞳でそれを一瞬のうちに捉えると、その逞しい双の角で貫いた。
瞬間、刃のような閃光が飛散した。大地を揺るがす爆音と共に、粉塵がハデスの体を包む。
完全に奪われる視界の中、先ほどの声が再び木霊した。
「おい自衛隊! 今のうちだ、マグナム抑えてさっさと逃げろ!」
掛け声に押されて、わぁっと走り出す全裸の男たち。騒然とする周囲を気に留めることなく、ハデスだけが時と粉塵にその身を委ねる。
やがてゆるやかな風に押されて、層を薄めていく空気。
青い空が再びハデスの頭上によみがえった時、辺りにはあの男たちは一人もいなかった。そしてその代わりに、ハデスの見慣れぬ黒マントの男がハデスの目の前に立ちふさがっていた。「よう、ずいぶんオテンバしてるじゃないか、兄弟。どうだい、お前のために用意したニトロ味の餌は。少しは刃こぼれでもしたか?」
不快そうにブルブルと喉をならすハデスを目の前に、物怖じすることなく男はにやりと唇をあげた。
−−そう、我らがヒーロー。超絶天才闘牛士、得留股 努礼その人である。
「ああ、ちっとも美味しくないか、そりゃあ残念。だがな、ハデス」
マントがはためき、努礼のしなやかで長い右手が天へ伸ばされる。その指先には、ムレタ。血のように赤く、血よりも赤く。真紅のムレタが今、太陽を背にする。
「お前のプレゼントはこれからさ。なぁ……兄弟!」
努礼の言葉を遮るように突っ込むハデス。努礼は瞬間的にマントを翻すと、天空へと飛翔した。猪突猛進、ハデスの角がガードレールを熱した鉄のようにぐにゃりと曲げる。
「ふう、すごいな」
努礼は空中でくるりと体勢を整えると着地した。無残にも拉げた鉄のリングの姿に、生唾の飲む。
もしも努礼がわずかでも隙をみせてしまったら、たちまち死神が彼の首をかっさらっていくだろう。ハデスの攻撃力は努礼が見てきたどんな牛よりも高く、その性格は獰猛という言葉をはるかに超えている。草食動物のそれではない。猛禽。過酷なサバンナを生き抜いてきた猛獣のそれだ。
破壊神という名にふさわしい。いや、それ以上。
だが。
「でもな、ハデス」
振り向く破壊神に対し、努礼は再びムレタを構える。
「お前は所詮、牛なんだよ!」
怒りの咆哮をあげながらのハデスの突進。努礼はその機関車のような動きに集中し、寸前のところで再びかわした。
避けたはずのなのに努礼の両腕を激しい振動が食らう。かまいたちのごとき風圧がムレタの布地に噛み付く。雄たけびをあげながら、ムレタで嵐を掻っ切った。
努礼の背後で、煙が空高く飛散する。ハデスがガードレールにぶつかったのだ。いや。
「これは、ブレーキ音!?」
瞬間的に努礼は横に飛んだ。努礼の影をハデスの巨体が踏み砕く。まさに間一髪、努礼はごろごろとコンクリートの上を転がると、受身をとって瞬時に立ち上がった。
マグマよりも熱い肉体に、氷河がドッと流れていく。
この牛、俺の動きを読んでやがる。
圧倒的な驚愕が努礼の頭に警鐘を鳴らせる。ハデスは努礼が牛に持つイメージを覆すのには十分なほど賢く、俊敏性に優れていた。今まで相手にしてきた牛がまるでBabyのようだ。
対する努礼には、天才的な勘と運動能力がある。だがそれは所詮、過去のことだ。戦闘をしながら何ヶ月ものブランクを埋めるには、あまりにもハデスは危険すぎた。
それだけではない、努礼は深い傷を負っているのだ。
尻に敷いた生理用ナプキン夜用36センチ二枚重ねに、湿った感触がある。麻酔が効いているので痛みはないが、活動的に出血をしているのだ。努礼に死を招くだろうリットル級の出血とは程遠いとはいえ、それも時間の問題。
努礼は戦闘態勢を保ちつつ、息巻くハデスの燃える瞳を見やった。
牛に挑発を試み、何度もかわす。そしてその闘争心を奪う……、それが闘牛士の勝利の方程式だ。
だが、その方程式から解を導くにはどれほどの時間がかかるのだろう。
(お前の瞳から炎を消し去る時間は、俺に与えられているか?)
まるで神頼み。いや、やつの異名をなぞるのならば、やつこそが神。
「神殺し、か」
努礼がそう漏らした時、ハデスが激しく息巻いた。そして自身の吐息を貫くように再び大地を蹴り上げる。
電光石火。努礼は天才的な瞬発力をもって交わし――きれなかった!
「うぐぅ!」
ハデスの雄雄しい角が努礼の横腹を掻っ捌く。血の円弧を描きながら、衝撃で努礼の体が回転し、コンクリートの地面に叩きつけられた。
鈍い振動とともに、再びあたりが砂塵に染まる。煙は、悠々と歩くハデスの姿を浮かべながら横に流れていく。その中で、努礼は屍のように横たわっている。
いや、腹部を押さえて蹲っていた。努礼は生きていた。虫の息で。
懸命に息をする。努礼の腹部からはドクドクと熱い血潮が流れていた。
(くそ、肋骨が持っていかれた、か)
油のきれたブリキ人形のようにギシギシと悲鳴をあげる体。燃えるような痛みに震えながら、努礼はコンクリートをまさぐった。その手は、ムレタを探していた。ぼろぼろに傷ついてもなお、努礼の意思は固かった。
戦える。まだ闘ってみせる……。
ふいに、右手に布の感触があった。ムレタだ。
俺はまだ、やれる!
努礼は意気込みながらムレタを引き寄せた。
だがその瞬間、ポキリ、と努礼の中の何かが音を立てた。
ムレタは、破けていた。
微塵に切り裂かれたムレタを目に写し、努礼の闘志が一気に青ざめる。命の次に大切なムレタ、努礼の人生そのものだったムレタが、見るも無残な姿で努礼の手のひらに収まる。まるで引き裂かれた心臓のように、寂しげな風に揺れる。
と、ムレタの赤が翳った。生臭い吐息が努礼の頬を舐める。ハデスが、勝ち誇った姿で努礼を見下ろしているのだ。
王者の影にひれ伏す、醜い闘牛士。まるであの日のようだ、と努礼は思った。
(俺はまた、お前に勝てないのか)
眼球が燃え盛り、景色が霞んでゆく。流れ出ていくものを留める術を努礼はもう持っていない。持っているものといえば、痔くらいのもの。
(いっそのこと、殺してくれ)
努礼は望み、目を閉じた。それを理解したかのように、ハデスがゆっくりと蹄をあげる。
そして。
今まさに、神の裁きが一人の闘牛士の頭を砕かんとした時だった。
「努礼〜!」
懸命な乙女の叫びが努礼の頭で弾けた。瞬時に覚醒し、マントを翻す。狼狽えた牛は、努礼の耳すれすれにその轍を踏んだ。
激烈な痛みに喘ぐ体を意志で押さえつけて努礼は立ち上がり、牛から距離をとった。
「はぁ、はぁ」
心臓が早鐘の如く鳴っている。乾ききった喉が熱した空気を必死に飲み込む。が、胸が痛くて巧く呼吸も出来ない。 瀕死の状態、死神に鎌をかけられながら努礼はその声の主を探した。今さっき己が聞いた、救いの女神を。
「努礼〜〜!!」
操。……努礼の女神は、彼の頭上にいた。
大気を切り裂くプロペラ音。小型ヘリの扉を開き、そこから垂らした鎖梯子に足を引っかけ太陽を背にする。勇ましく、そして可憐な戦乙女。
「今行くわ!」
操はヘリから飛び降りると、華麗に着地した。赤いヒールが艶やかに光る。
「操、どうしてここに……」
「あなたが心配だったからよ」
満身創痍の努礼の体を支えると操は口角を柔らかくあげた。
「馬鹿な。ここは危険だ。女は帰れ……」
「イヤよ。あなたを置いてなんかいけないわ。それに元々これは政府の食料対策の果てに起こったこと。本当は私たちの仕事なのよ」
「相手は牛だ。お前等の敵は市民だろう。 ……ここは危ない、人の檻に帰れ」
「でもっ」
操の情熱的な目尻が朱に染まる。努礼はハデスの動きに注意しながら操の手を掴んだ。
「いいか、今はハデスがこちらを観察している。チャンスは今しかない、帰るんだ。少し早めの夫婦喧嘩をしてる場合じゃない」
「いやよ。いや」
努礼の説得に応じず、後ずさる操。
「だって、……あなたは傷だらけだわ!」
操の指摘通り、努礼は傷だらけだった。わき腹を角で抉られた体はわけもなくガタガタと震えており、二枚重ね羽付きナプキンはこともあろうことかモレ始めている。
顔も蒼白で、唇から血を吹き出しながら
「なんじゃこりゃ〜!」
と倒れないのが七不思議のひとつになりそうな勢いだ。死にそう、至って健全に死んでしまいそうな状態なのである。操が食い下がるのも無理はない。
「武器は持ってきたわ。あなたの代わりに私が戦う」
どこから出したのか操は、22口径マグナム・コルト・クーパーを両手に持つと、陽炎の漂う高速道を颯爽と駆けだした。
「やめろ、やめるんだ操」
「見ていて! あんな牛、すぐに止めてやるんだから!」
走りよる操に気づき、ハデスが操に向き直る。前足でコンクリートを軽く削りながら、ハデスは操を観察した。
自衛隊の攻撃を鼻息で吹き飛ばし、天才と謳われた闘牛士ですら赤子の手を捻るように潰した破壊神にとって、ポッと出てきてヨチヨチと近づいてくる操は戦闘の対象ではないらしい。
そんなハデスの余裕を感じ取りながらも、操も銃を構えた。経験があるのか体勢はさまになっている。だが、
「そんなものがハデスに効くものかっ!」
努礼は肋骨を右手で押さえ、足を引きずりながら操の後を追う。その距離あと僅かというところで努礼は操の肩に触れようと手を伸ばした。
その時だ。
一迅の風が高速道を駆け抜け、操のミニスカートの端を不意に舞いあげた。
スカートがふわりと操の腹まで捲れあがり、禁断の逆三角地帯が色鮮やかに浮かび上がった。
瞬間、ハデスの目の色が変わった。
なんという偶然、なんという運命のイタズラ。努礼は神を末代まで恨みたくなった。
レッド。
操は、なんとも扇情的な真紅のハイレグパンティを履いていたのだ!
「モ〜! モーレツ!!」
と言ったか言わずか、ハデスは瞬時に戦闘態勢に入ると、恐ろしい速さで駆けだした。
突然の事態に眉根をよせつつも、操の発砲。空気をつんざめく六発の銃声が鳴り響く。 立ち止まらぬハデスの頭めがけて解き放たれた六つの光の矢。その輝きに身じろぐことひとつないハデスの突進。
ふたつの輝く気流は見事にぶつかり、勝敗は刹那よりも早く決まった。操の――負け! 土石流のようなハデスの瞬きが操を包むっ。
「きゃああああ〜〜!!」
光の玉が肥大しながら周囲の情景と共に操の悲鳴を飲み込む。道路が割れ、砕けたコンクリートが舞い上がり次々に塵と化す。光はハデスを中心に飛散すると、轟きを引きずり出した。
破壊神を賛美するように瓦礫がぶつかり合い激しい音色を奏でる。地獄に音楽があるならば、まさにこのようなものであろう。
やがて音が消えると、あれ荒んだ土煙がゆっくりとたち、大地を舐めながら四方へと吸い込まれていった。
惨劇の後には終焉が静かに横たわる。
ハデスに噛みついた者の姿はどこにもなかった。そればかりか、高速道路を覆っていた灰色の鎧は円を描きながらひしゃげており、中央にはハデスがただ一匹佇むだけであった。




