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伝説の男

「俺に、なんの用だ」

 病室のベットに横たわりながら、男はうめくように呟いた。

「私の名前は、猛牛操。あなたの力を借りたいの。得留股えるまた 努礼どれ。いいえ、超絶天才闘牛士、得留股 努礼ッ!!」


 ズビシィッ!


 操は形のよいその指先を男へと勢いよく向けた。努礼と呼ばれた男は、ゆっくりと上体を起こすと、操の美貌をじっと見つめ返す。

「もう、その名は捨てたんだ。俺はしがない痔持ちのハゲだ」

 男……努礼は、操から逃れるように視線をそらした。


 操は努礼の姿をまじまじと観察した。ハゲと言うには、まだまだ頭皮に希望があるものの、努礼の若々しい肉体を思えば、確かにあまりにも残酷なものがある。

 また、ベットの脇に置かれた大量のドーナッツ型クッションが、努礼の言葉に陰を落としていた。

 そう、努礼は正真正銘のハゲで、重症痔主であった。


「でも、あなたは伝説の闘牛士と聞いたわ。日本で初めての闘牛士、日本で初めてのマタドーレ、そして世界で唯一のキングオブマタドーレだったと!」

「もう、過去の栄光だよ」

「そんなこと、」

 ない、と言おうとして、操の言葉は止まった。努礼の横顔は、あまりにも深い悲しみに満ちていた。

「あなたの話は私も聞いているわ。 闘牛で、命を落としそうになった、と……」

「命ッ、ねぇ」

 努礼は鼻で笑うように言葉を吐く。

「そんなものではない、あれは、悪夢だった――」


 努礼の目に、耳に、肌に、あの日のことが蘇る。

 スペインに注ぐ灼熱の太陽光、乙女たちの黄色い歓声、それらを肌に感じながら、砂が吹き荒れる闘牛場に、努礼は足を滑り入れた。

 人々は口々に、神に愛された若き天才闘牛士の名を叫ぶ。努礼は恵みの雨に打たれるかのように祝福と声援を浴びると、拳をつきあげた。


「努礼ッ、努礼ッ、努礼ッ!」


 はち切れんばかりの音が会場を埋め尽す。努礼は人々に紳士的なお辞儀を返すと、今日の敵を睨みつけた。


 太陽よりも熱く燃え上がる瞳、雄々しく盛り上がった筋肉、それを覆う栗毛は艶やかで、挑戦的だ。そして、険しい山脈を思わせる角は、天へときりりと屹立している。今にも食らいかからんと鼻息を荒くする牡牛。


 努礼は、牛を目の前にして、熱く血潮をたぎらせていた。


 来るがいい、牛よ。

 既にお前の動きはカポテで読みきった。 俺はお前の突進を、風よりも早くかわしてやる……!


 努礼は、ひらりと赤い布――ムレタ――を取り出した。そしてデレチャソ、つまり右手でつまみあげる。

 ムレタを見るなり、その深紅に、牡牛がうめいた。今、戦いは始まる。


 砂塵が舞う。

 火は解かれる。

 赤に挑発された牛が、猛然と、努礼のムレタへと突進する。


「ふん、遅いわ!」

 努礼は軽やかにステップを踏むと、ムレタをひるがえした。

 だが。


 ふいに、突風が努礼の体に吹き付けた。

 そしてあろうことか、努礼の頭が――正確には、カツラが、ふわりと浮かんだ。


 まるで羽がはえたかのように大空を飛びたんとするカツラ、思わぬ事態に、努礼は無意識の中、ムレタを捨ててカツラを掴んだ!


 それが命取りとなった。


 猛牛の突撃は努礼の脇腹をかすめ、凪ぎ払われるように努礼は大地に倒れこんだ。

 ヤバい。

 なんとか逃げようと、努礼はよつんばいになって辺りを見渡した。

 そして。

 捨てたはずのムレタが、舞い戻ってきた。

 ……努礼の尻に。


 一瞬のこと。牛は、ムレタめがけて、つまり努礼の尻めがけて、角を突き出した――。




 努礼の視線が、宙を泳ぐ。

「あれを、悪夢と言わないで、何を悪夢と言うのか……」

 喉元を脂汗が伝い落ち、努礼はぶるりとうち震えた。あの瞬間を頭に浮かべるたび、恐怖が首筋を舐めさする。加えて尻が、醜く絶叫をあげる。


 事件の翌日、マスコミは、努礼が実はカツラであったこと、そして努礼が牛に強烈な攻撃を与えられたことを、エキサイティングに報じた。日本人がマタドーレをしていたことを、内心、 喜んでいなかったのかもしれない。面白おかしく、努礼の悲劇をネタにし、もてあそんだのである。

 それは、努礼が築いてきた地位、名誉を奪い取るにはあまりにも十分だった。身一つ、恋人も家も車も失い、ただ、寂しげな頭皮と阿鼻叫喚を奏でる痔ろうだけが残った。


「あの瞬間、俺の闘牛士としての翼は折れた。今はもう、ただの痔主になり下がったんだ。それも大痔主さ! ……俺はもう、ムレタを握り締めることはできない」


「でも、」

「帰ってくれ、俺の敵はもう牛ではない、己の肛門なんだ」


「いいえ、違うわ、努礼。あなたの敵は」

「お前に何が分かる! 髪が神により愛され、尻の痛みを知りもしないお前に、俺の何が分かるんだ!」


 努礼の怒号が操の体を強かに打ちすえる。操は努礼の罵声に怯えながらも、負けじと努礼を見つめ返した。

「それでも日本には、あなたの力が必要なの。高速道路は、日本という経済大国の背骨よ。その背骨が、今、たった一頭の牛に傷つけられている。特殊部隊でさえ倒せない牛。ほうっておけばおくほど、日本の経済は損害を受け、ひびわれてゆく」

「俺には」

「関係ないというの? 日本が、人々が牛に苦しめられているというのに。それでもあなたは、誇り高きマタドーレだった人間? 誇りまであなたは、捨ててしまったの?」

「捨てた? 違う、俺は牛に、そしてマスコミに奪い取られたんだ!」

「いいえ違うわ、あなたは捨てたのよ」


 操はきっぱりと言い放った。努礼の身体が一瞬、たじろぎをみせる。操の眉根は、戦いの女神ニケのように凛々しくそりあがっていた。

「あなたは屈辱に耐えられずに全てを捨てて逃げたのよ、尻をまくって。本当は分かっているはずよ」

 努礼は操の情熱的な問いかけから、思わず目をそらした。それが、全ての答えになった。



 努礼の中には、後悔と悲壮、恥辱が存在する。


 スペインから去ったのは、それらから逃れるためだ。彼自身、よく理解している。いや、理解せざるおえないと言った方が正しいかもしれない。何故なら、彼の中で後悔たちは、日を追う毎に大きくなっており、操の言葉に感情が激しく揺れ動いているのを感じているからだ。

「あなたの敵は、牛でも、薄い頭皮でも、傷付いた肛門でもないわ、あなたの心よ」


 俺の、心。


 努礼は、胸元を掴んだ。

心臓が命を鼓舞し、言葉するには難しすぎる感情が、魂をかき回している。

「俺は、どうすればいい……」

「マタドーレとして、牛に勝つのよ。その、ムレタで」

 操は努礼のベットを指差した。小さくため息をつき、努礼はシーツをあげる。シーツの裏側には、びっしりとムレタが縫い付けられていた。

「いつ、気づいていた?」

「最初から見えていたわ、チラチラと」

「女にするにはもったいない洞察力だ。 だが、操、俺にムレタを握ることはできない」

「なぜ」

「尻が痛いからだ」


 努礼は腰を軽く動かした。刹那、刃が皮膚の下に埋められているような鈍痛が努礼を襲う。脂汗を滂沱と流しながら、努礼は小さく息を吸った。

「この通りだ、操。俺の痔は地獄から湧き上がるマグマのようなものだ。ほんの僅か動いただけで、尻に齧り付く。……血も出るんだ。お陰で、男の癖に生理用ナプキンをつけるしまつさ」


 努礼はエリエール羽つき多い日夜用のナプキンを操に投げつけた。操はそれをなんなく受け止めると、形の良い唇を小さく動かす。

「大丈夫よ、麻酔を打てばなんとかなるわ」

「本気か」

「熊用だから大丈夫よ」

「そういう問題なのか」

「だってあなたしか牛をとめられる人間はいないのよ」

「もっと頑張れないか」

「無理よ。もう戦車を使うしか手は無いくらい。だけど、高速を破壊することはできない」

 操はナプキンに目を落としながら、続ける。

「いい? この依頼を受け、無事に成功させることが出来たら努礼、政府はあなたに幹細胞の移植による高度再生医療を駆使した痔の手術と、和田アキ子も裸足で逃げ出すような植毛と育毛を施すつもりよ」

「な、何ィィィ!!」

「それだけじゃないわ、地位も名誉も、誇りも復活するのよ、努礼」

「誇り……」

 努礼はシーツの裏側を捲ると、ムレタに指先を置いた。

血のように赤いムレタの、扇情的な色が、指先に熱を灯す。

 闘牛士に憧れ、スペインに渡り、最初に買ったものは観光用のムレタだった。

 ムレタの紅を目に映していると、その日のことがありありと思い出された。


 しかし。


「それだけでは、闘えない」

「どうして?」

「支えるものがないからだ」


 努礼は、己の弱りきった身体をさする。かつてあった筋肉美はそこにはない。

「あの頃の俺は、支柱があった。 闘牛士になるという羨望、闘牛士になってからはマタドーレになるという野望、マタドーレになってからは人々の声援という、支柱だ。だが、今の俺は、なんだ? 痔が治ろうと、ハゲが治ろうと、汚名を雪ごうと、その後に何が残る? この観光用のムレタだけ。なれるのはせいぜい、普通レベルのニートさ」


 努礼は、百合のように立つ操を見上げた。聡明な顔、ブランド物のスーツ、ふわりと匂うデキルオンナのオーラ。

 まさにヒロインの後光が、彼女からは放たれている。


「君と俺は、雲泥の差だな。君は女神で、俺はヒトモドキ。君には分からないだろうな、この苦しみは」

 操は魅力的だ。努礼が直視できないほどに。美しく、世界に愛でられた、女。

「もし君のような女が妻にでもいたら、どんなものが待ち受けていようが、戦場へ赴き、男としての使命を果たすだろうに。君のような恵まれた人物には分かるはずも」

「私が妻になればいいのね?」


「ぎょぺ!?」


 操の返答に、努礼は素っ頓狂な声をあげて操を見返した。

「何を言ってるんだ?」

「何をって、あなたが言ったのよ」

 操は呆れたように腕を組んだ。結果、彼女の胸が強調される。努礼はごくりと唾を飲んだ。

「ほ、本気か?」

「ええ、本気よ。もしあなたが、破壊神ハデスを止めることができたら、結婚してもいいわ」

 操が艶やかに微笑む。

 二人を包むかのように、ふいに窓から光が差し込んだ。


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