量産型レポート集団事件
倉本教授は六月に行った中間レポートのチェックをやっていた。
彼が受け持つ世界史の講義には七十人近い生徒が受けている。その一つ一つに真摯的に向かい合い、多くの時間と眼精疲労を抱えてレポートに対峙する。飲んだ珈琲は五杯目を超えていた。しかし不思議なことにどのレポートもまったく同じ内容だった。
「これは一体どういうことだろう?」
倉本教授は淹れたばかりの珈琲を飲みながら奇怪なことに首を傾げた。せっかくの秘蔵の高級豆ブルーマウンテンの味を忘れそうになるほど奇怪な事件だった。まさか学生全員が結託して楽に中間レポートを乗り越えようとしたのだろうか。はっきり言ってそれは不可能なことだった。学年も学科も違う彼らが同じレポートにするなんて人が空を飛ぶほどありえないことだ。歴史学者としての倉本教授はこの現象に一抹の興味を抱いたが、教授としてこんな見え透いたレポートの乗り切り方は見過ごせない。温厚な倉本教授でもガツンという時は言うのである。
次の週の講義日。倉本教授は講堂室の教壇に立ち、学生たちに問いただした。
「学生諸君、先日出してもらった中間レポートだが、中身が皆同じ内容のレポートだった。もしかして結託でもしてるのかい? こう、全員でレポートの中身を揃えれば私も怒るに怒れないとか考えてる?」
しかし、誰からも反応が返ってくることはない。ただざわざわとさざめきあっているだけでキョロキョロとしている。不明瞭さが色濃く漂い、誰もが無関係であると知らんぷりをしてふんぞり返り、甚だ不毛だった。
「私だってこれが三人とかなら怒れるんだが、集団的計画としか思えないんだよ。じつに興味深いがこれじゃあ私がお上に叱られてしまうんだよ。正直に言ってくれ。誰でもいいから」
そう言っても、誰一人として動く者はいない。講堂室は空調の音がやけに聞こえる。寒々しい空気が漂った。
結局、終了時間になってもレポートの真相を話す学生はおらず、教授はため息を吐いて途方に暮れた。
研究室に戻ってヤモリに餌をあげていた助手の寺田君にこのことを話した。倉本教授は珈琲に口をつけながら撫然と口を開く。
「もしかすると堂林准教授が私の座を狙って陰謀をけしかけているかもしれない」
堂林准教授は日本史を教えている同じ歴史学の先生で、日夜倉本教授を引きずり下ろすため因縁をつけてくる倉本教授の敵だった。二人の関係は水と油のようであり、なんでもヤモリの足の裏に潜む不思議についての議論で仲違いしたのがきっかけとか。
助手の寺田君は呑気に言った。
「堂林准教授はグアムに行ってますよ」
「おそらく自分では手を汚さず学生をそそのかしたんだ。あれはそれくらい卑怯な男だからね」
「多分違うと思いますけど」
寺田君は倉本教授の剥き出しの敵意に辟易していた。だがこの案件は確かに香ばしい香りのする謎だった。彼も少し考えてみると、大学構内で囁かれるある出来事を思い出した。
「そういえば、何やらあるサークルが学生たちを裏から支配しているという話を聞いたことがあります」
倉本教授は眉をぴくりと動かした。
「なんだと?」
「確か、常闇麻雀界というサークルです」
「なんだか物騒な名前だね。法律に引っかかってないかい? 大丈夫?」
「至って健全ですよ。文字通り夜更けに集まって麻雀をする連中なんですが、なんでも毎週開催されているトーナメントの景品には偽造レポートの制作権とかが含まれているそうです。単位に悩む学生は夜な夜なそこに顔を出し、ぎりぎりの大学生活を送っているんだとかで。あくまで噂です」
倉本教授は熱々の珈琲を飲みながら「興味深いね」と呟いた。
それから量産型レポート集団事件の真相を掴むため、倉本教授は単位が危うい学生に近づいて彼が欲してやまない単位をチラつかせて常闇麻雀界に近づいた。そして今週末の金曜日に開催されるトーナメントの話を聞き、会場まで突き止めた。場所は大学最寄りの山陽電車に乗って三つほど行った東二見駅の近くのある学生の家。向かい側にある駄菓子兼タバコ屋を営む平田商店でタバコとお菓子を買い込む学生たちがちらほらいた。
倉本教授は帽子を深く被り、情報を売ってくれた腐れ大学生の横水君とともに悪の巣窟の前まできた。会場である学生の家は一人暮らしにしては広い二階建てのハイツに住んでおり、今も続々と挑戦者が入って行く。
「本当に行くんですか?」
横水君は不安そうに言うが、倉本教授は待ちきれないほどウキウキしていた。裏社会への潜入は倉本教授の大好物とするとこだった。
「もちろん。このサークルの実態を掴むことが、私の教師生活の平和を守ることに繋がるからね」
「絶対に学生統括執行部とかに告げ口しないでくださいよ? 俺がやったってバレたら兵庫の端まで逃げる羽目になりますから」
「安心しなさい。私を脅かさないのであれば、基本的に学生には不干渉だよ」
二人は平田商店でタバコを買い、東二見杯が開かれるトーナメント会場に足を踏み入れた。
もこもことタバコの煙が充満する八畳の部屋で、三つの雀卓を囲う学生たち。
「国土無双!」
窓際にある奥の雀卓で会心の役を作る巨人のような大男が叫ぶ。
「またお前かよ!」
「四万点なんて誰が追いつけるんだよ!
その人物は砂鉄のような髭を生え散らかし、幼児のごとくつぶらな瞳で高らかに笑っていた。
「盛り上がってるね」
倉本教授はなんだか懐かしい気持ちになりながら学生たちの熱気に当てられた。
「さあ、先生もやりましょう。手前の卓が空きました」
横水君に促されて倉本教授は席につく。帽子を取った倉本教授の顔を見て、他の学生たちがギョッとした。やばいところを見られたっという具合に慌てる学生たちに倉本教授は「まあまあ」と宥める。バツが悪そうにする学生たちに温和な顔で倉本教授はニコニコと笑う。
「安心しなさい。ここでは私も教授ではなく一人のプレイヤー。優勝景品をかけて戦おうじゃないか若人諸君」
倉本教授は、学生たちに優しいホワイト教授ということで学生たちに人気が高かった。堂林准教授は己の野心である教授昇進に躍起になって頻繁に出すレポートのせいで敬遠されがちなぶん、倉本教授は優しさに定評がある。おかげですんなり彼は溶け込めた。
しかし、倉本教授は温厚な性格とは裏腹に勝負事には鬼神のごとき強さを発揮した。
「一盃口」
「七対子」
「九蓮宝燈」
怒涛の勢いで役を揃えていき、倉本教授は瞬く間に圧勝した。
「ふふふ、久しぶりに血が滾ったよ」
タバコをもうもうと吹かし、ロマンスグレーの髪色も相まって地下世界の首領という空気が彼から漂った。貫禄ある姿は教壇に立つ時よりも勇ましく獰猛で、おっかなさが半端ない。奥の卓で国土無双を決めた巨人のような男すらも意に介することなく準決勝で蹴散らした。
倉本教授の快進撃は止まることを知らず、あっという間に東二見杯をせしめた。
東二見杯がまさかの倉本教授によって持ち去られてしまい、横水君も他の学生も唖然とした。
「倉本教授、強すぎです」
「世界史を学べば、これぐらいのこと造作もないよ」
きょとんとする横水君であったが、格言っぽく聞こえた彼は明日からそのセリフを使おうと思いながらタバコを吸った。
倉本教授は景品である偽造レポート制作権なるものを手に入れた。当初の狙い通りの結果と血気盛んな若者を容赦なく打ち負かした快感にほくほくした教授はその夜、参加した学生たちに酒を奢ってさらなる器の強大さを見せつけた。
翌日、倉本教授は暗黒舞踏会なるサークルに赴き、偽造レポート制作権を持って行った。偽造レポートはかのサークルで制作され、学生たちの間で取引がなされている。教授という身で大学の裏社会に飛び込んだのは倉本教授が初めてだった。彼が暗黒舞踏会に顔を見せたとき、代表は夜逃げの準備をしたほどだという。白日の下に晒してはならないブラックボックスを前に、倉本教授は世界史でよく見かける陰謀論に挑戦する心地で血が騒いでいた。
「倉本教授、どうか僕たちのことは内密にお願いしたく」
「もちろん。私だって裏大学の掟を破るつもりはないよ。それより聞きたいのだが、先週の私の中間レポートの偽造もここでやっていたのかい?」
「ええ、はい。その時は六つほど注文が入ったので」
倉本教授は首を傾げた。
「六つ? 七十近い数が出ているはずだろう?」
暗黒舞踏会代表は困惑した顔を浮かべた。
「いえ、六つです。その日は僕がいたので間違いないです」
量産型レポート集団事件はさらなる迷宮へと入り込んだ。
「おかしい。同じレポートが七十もあったんだよ」
倉本教授の言葉に、代表の学生はレポート提出に関する経験からピンときた。
「おそらくですが、ここで製造したレポートを別の学生がさらに拡散させたんでしょう。僕たちの許可もなく量産して世界史を受けてる学生に売ったんです」
倉本教授は研究室に戻って後頭部を掻いた。
気分はさながら難事件に挑むシャーロック・ホームズ。タバコをもうもうと吹かし、容疑者七十人近い学生を相手にした倉本教授はもういいかなと匙を投げかけていた。
「それでどうでしたか? 常闇麻雀界は?」
棚の整理をする寺田君が訊ねてくる。倉本教授は深く椅子にもたれかかり、真っ白な天井を茫然と見つめた。
「私がチャンプになったよ。我ながら年の功が恨めしいね」
「何があったんです?」
珍しく若々しい自信に満ちている倉本教授を彼は怪訝に思った。
「ともあれ、収穫はあった。ある学生の卑劣な売買行為であることが判明したね。これを特定することは極めて困難。前期の講義期間が終了すれば私は大学当局で今回の件を怠慢の一言で片付けられ、下手を打てばこの快適研究室を没収の上、愛しいヤモリを残酷な自然界へ帰さねばならない。背水の陣というやつだ」
倉本教授はいつも二文ほどしか喋らないのに、人が変わったような饒舌ぶりに寺田君は不気味がった。
「ではどうするんですか?」
寺田君の疑問を待っていたかのように倉本教授は口の端をつり上げた。
「初歩的なことだ友よ」
「本当にどうしたんですか?」
ロンドン探偵の名台詞を吐き捨てて、倉本教授は翌週の講義を迎えた。
迎えた世界史の講義。
いつもの空調。なんとなく見覚えのある学生たち。いつも同じ色の服を着た男子。目を惹く美貌の女子。講義開始ギリギリまで音楽を聞く前方の学生。それはいつもの講義風景。早く昼休憩にならないかと茫洋とするすべての学生たちは、今日も単位取得のため渋々講義を受ける。時間になり、照明が薄っすら落ちて教壇の明かりが強くなる。プロジェクターが降りて倉本教授が姿を現した。
「やあ、学生諸君。今日はじつに天気がいい。初夏らしい風も吹いている。私の講義のあとはうんと羽を伸ばして三宮にでも出かけることを勧めるよ。私以外の講義は出たところで実りはないからね」
数人の学生がヒソヒソと囁き始めた。
今日の教授は何かおかしい。漠然とだがそれは確かに多くの学生が感じ取っていた。何より他の講義を小馬鹿にするなど倉本教授の性格からしてあり得なかった。あるとしても堂林准教授に対する悪態のみである。愛妻家であることで広く知られる倉本教授の身に、破局の悪魔がやってきてヤケになったのではと学生たちは勝手に妄想し、勝手に盛り上がった。
「さて、マリーアントワネットと人道的処刑を突き詰めたサンソン一家とギロチンの登場や神の指モーツァルトなどなど今日の講義はフランス話でてんこ盛りなのだがその前に、諸君らに言わねばならない話があってね」
暗転する講義室。プロジェクターで映し出されたのは一人の学生が出した中間レポートだった。そして画面が切り替わって同じ内容のレポートが早送りのように映し出されていく。
「察しのいい学生ならわかるだろうが今回の中間レポート、ほぼ全ての学生たちが同じ内容だったのは記憶に新しいことだろう。君たちが単位取得のために並々ならぬ努力をしていることは私も理解している。講義の内容よりもその先にある単位のためという過程よりも結果を重視するやり方は私の好みではないがね。だがいくらホワイト精神溢れる私だって、これじゃあ単位を出せない。出した途端、私の研究室がなくなる。可愛いヤモリもいなくなる。この中にレポートを安価で量産し、高価に売りつけた卑劣な黒幕を暴くのもじつにスペクタクルだがここでは目を瞑ろう」
すべての学生が倉本教授はドラッグに手を出したと確信した。心外なことを思われてる倉本教授は推理ドラマの探偵になった気分で横に広い教壇を悠々と歩いた。
「ここで問い詰めたところで量産型レポートを作った黒幕君を見つけることは不可能だ。木を隠すなら森の中。張本人も七十人いれば核を見つけるなんぞ、私の手に余る。ならば手っ取り早く中間レポートの再提出をやってもいいと思わないかい?」
再提出という毒に満ちた言葉に、学生たちはため息を吐いて心底鬱陶しそうに騒然とした。思った通りの反応が返ってきた倉本教授は変わらず余裕の笑みを見せる。
「だが私も鬼ではない。なので諸君らを試そうと思う。君たちは誰からレポートを買ったのか、今から配る紙に書いてもらう。もし書かなかったらすぐにわかるからね? その者は問答無用で再提出コース直行だ。我ながら卑劣ではあるが、書く者に責任はないから安心して書きなさい」
倉本教授は助手である寺田君に紙束を渡して、教授としての権力を惜しみなく使って学生たちの炙り出しを始めた。やっぱり奥さんと破局したんだと誰もが思いながらそれぞれ紙に名前を書く。ボールペンが走る音が鳴り止み、後ろから順に前へと書かれた紙が教授の元へ戻ってくる。それを寺田君と共に精査すると、白紙の紙はものの見事にある一人の学生の名前でいっぱいになった。
「社会学科の2回生、城島君。いるかね?」
名前を呼ばれた城島君は豪胆な心臓を持っているのか、最前列の席に座って手をあげていた。
「君かい?」
「はい。黒幕は僕です」
講義室の空気が一変する。悄然とした雰囲気は霧散してさざめき立つ声と視線が二人の体に降り注ぐ。一気に注目された城島君は2回生とは思えないほど落ち着き払った顔つきで倉本教授を見た。
「皆に売られた気分はどうだい?」
「今日の天気くらい晴れやかですよ。僕はレポートを量産して売ったことに後悔はありません」
鉄の意志を持って城島君は教授と相対した。互いに交錯する視線。物静かな二人の瞳の奥はゆらゆらと小さな炎が燃えてる。
「なぜこんなことをしたのか、聞かせてもらっていいかい? 量産レポート並みに軽薄な動機なら大学当局に引き渡してあげよう。尋問中は私秘蔵のブルーマウンテンをご馳走しようじゃないか。どれ、言ってみなさい」
静寂の中、城島君は澄んだ声で言った。
「単純なことです。大学のマドンナ泉さんにプレゼントを渡すために僕は資金を集めたかったんです」
大砲でも落ちたかのように周囲はどよめいた。
彼らは加担者であり取引相手。今となっては都合よく教授に売り飛ばした薄情者。自分たちにレポートを売りつけた城島君は単なる金欲しさで大学生の単位取得への執着を利用した小狡い男だと講義室の学生は思っていた。それが蓋を開けてみればどうであろう。一人の高嶺の花へプレゼントを贈る。なんと純情で可愛らしく、強かな奴であろうか。
流石の倉本教授もそんなことが動機だと思わなかった。
「……そうかい」
ようやく静かになった講義室で倉本教授は拍子抜けに言った。
「それで、泉君は喜んでくれた?」
「ええ。僕があげたネックレスを売ってソシャゲの課金に回したようです。とても、喜んでくれました。今度お茶に行ってくれるんです」
果たしてそれは喜ばしいことなのか。
城島君以外の人は等しくそう思ったが、彼の屈託ない無垢な笑顔は微塵も不幸を感じさせなかった。彼は心から喜んでおり、そんな純愛戦士を保身のために売ったことに他の学生たちは涙した。罪悪感と感動が渦を巻いた。倉本教授は静かに微笑み、助手の寺田君はもらい泣きしていた。他の学生たちは城島君の勇敢さと愛の心を目の当たりにして、自分たちから中間レポートの再提出を希望した。
涙から始まった講義は昼休憩もぶっ通しで行われ、フランスの歴史を学んだ学生はマリーアントワネットの愛にさらに涙を流し、教授が流したきらきら星でさらなる涙を流した。その日の講義室は雨でも降ったかのように湿った空気で満ちてしまい、入室した途端、瞳から自然と涙が流れてしまうことから三限目以降の講義は別の教室になった。
この歴史的な瞬間、量産型レポート集団事件の真相は瞬く間に大学構内に広まり、多くの学生が感動で胸を打たれた。大学当局も倉本教授へはお咎めなしとし、ブルーマウンテンを進呈した。城島君の恋は見事な失墜を描いたらしく、そのことに世界史を受けていた学生はまた涙を流して城島君と酒を飲んだらしい。この年の初夏に出されたあらゆる講義のレポートは愛と涙に溢れていたという。グアム旅行から帰ってきた堂林准教授は「何ごと?」と唖然としたそうだ。
こうして倉本教授は大学に誕生した名探偵として勇名を馳せ、日夜奇妙な事件に巻き込まれていくのだが、それはまた別の話。
4「量産型」
アイコス吸うとトイレ行きたくなるよね。おかで頻尿である。ヨホホホホ!