王族を助けたら夜逃げすることになったんですけど?
昔話コメディみたいなものを思いついたので書いたものです。
恋愛要素は薄めです。
私、アンドレアナ・リンドーニと申します。貴族どころか騎士階級の家の娘です。つまり普通の街娘ですね。
ある日のことです。
「助けてくれ!」
家に続く裏道を歩いていると、いきなり現れた身なりのいい青年にそう言われてしまっては、私もよく分からず助けてしまいます。
「うちに来ますか?」
「ああ、何でもいい! 匿ってほしい!」
「分かりました、こっちです」
そういうわけで、私は家にその青年を連れていきました。
何の変哲もない一般的な家屋でしかない粗末な家には、父がいます。母はすでに亡くなっており、私は騎士として出仕する父と一緒に暮らしていました。
休みの日で、のんびり新聞を読んでいた父のところに、私がいきなりその身なりのいい青年を連れて帰ってきたものだから、父は驚いています。
「ど、どうしたアンドレアナ。その男性は?」
「知らないけど、匿ってって言われたから」
事情はよく分かりませんが、助けを求める人を放っておくことはできません。それは父も同じだったようです。
「とにかく、奥へ。アンドレアナ、茶を」
「分かった」
そんなこんなで奥の部屋の椅子に座った身なりのいい青年は、お茶を飲んで落ち着いたのか、私と父へこう言いました。
「助かった。私はメビウス王国王子ジョシュア、暗殺者の手から逃げてきたんだ」
はあ、なるほど。
私も父も、大して興味はなく、同じ顔をしています。つまり——信じられないけど困っているようだから事情を抜きにして助けてあげよう、という結論に達したのです。
「それはともかく、何日かいていいよ。大丈夫になったら帰ってね」
「ああ、ありがとう」
その数日後、お城から偉い人が騎士を引き連れてやってきました。
「ここにおられましたか、ジョシュア王子!」
「その声は、大臣か! ああ、無事だ! この家の者たちに匿ってもらっていた!」
何だか感動の再会をしていますね。ここ、私の家の居間なんですけどね、騎士たちのせいでとても狭く感じられます。そのままジョシュア王子は大臣と騎士たちと一緒に帰っていきました。後でお礼はする、と言い残して。
別に私はどうでもよく——一応王子だと信じましたが、下々の人間に気を遣う王子はいないだろうと思って——帰ってきた父に顛末を話し、そうか、うん、そう、くらいの話で終わりました。
ただし、その翌日。
ジョシュア王子がやってきて、父に勲章と書状を渡したのです。
「私の命を救ってくれた礼として、リンドーニ家にはローウェン男爵位を与える」
なんか、うち、貴族になったようです。
さて、リンドーニ家にはローウェン男爵という爵位が加わりましたが、領地は猫の額ほどの遠隔地、父は地元の役人と連絡を取って、税は免除しておいてくれ、という話をしておいたそうです。別にうちは貧乏だけどお金に困っていないし、貴族だからとやることが増えるわけではありません。何百とある男爵家の一つに、ピンポイントで誰かが何かを言ってくる、ということはないのです。舞踏会だって出ませんから、ドレスもいりません。
ただ、私はまたしても拾ってしまいました。
街中の小さな橋を渡っていると、橋の下から苦しそうな呻き声がしたのです。どうしたのだろう、と私が橋の下を覗くと、マントを羽織った少壮の男性が肩口から血を流して座り込んでいました。
これはいけない、と私は話しかけます。
「大丈夫ですか? お医者様を呼びますか?」
少壮の男性は、うつろな目で頷きました。私は急いで父を呼びに帰り、少壮の男性を家に運びます。近所のお医者様を呼んできて手当てをしてもらい、父のベッドを使って看病、というほどのこともありませんが、食事を作ってあげました。
「……ありがとう、助かった。少しばかり、休ませてくれ」
「分かりました。お元気になるまで、ここにいていいですからね」
「ああ、気にすることはない。アンドレアナ、お世話を頼むよ」
「うん」
そんな感じで一週間ほどすれば、少壮の男性も立ち上がれるくらいには回復しました。
「本当に助かった。すぐに、とはいかないかもしれないが、必ず礼はする」
そう言って、少壮の男性は家を出ていきました。私と父はそれを見送って、また日常に戻ります。
その数日後です。確かに家を出ていった少壮の男性は、戻ってきました。また騎士を引き連れて。今度はとても整った身なりをして、うつろな目ははっきりと生気がみなぎっています。
「その節は大変世話になった。俺は現国王王弟のデーニッツという。城内の陰謀に巻き込まれ、危うく殺されかけたところを君たち親子に助けられた。この命の礼として、これらを受け取ってほしい」
デーニッツの手には、また勲章と書状がありました。
「礼として、リンドーニ家にはアルテ子爵位を授ける」
なんか、うちに二つ目の爵位が加わりました。
リンドーニ家にはローウェン男爵位とアルテ子爵位、という二つの爵位が与えられ、かといってやはり領地経営というほどのことをするような規模でもなく、同じように地元の代理人に税や裁判の管理は任せました。割と一般的にそういうことはやられているので、うちだけおかしいということもないようです。
いつもと変わらず、私は家で父と朝食を食べていました。
そこへ、隣の家のおじさんが慌ててやってきました。
「おい、聞いたか? 城で反乱が起きたらしいぞ」
「ほう、それは大変だ。アンドレアナ、戸締まりはしっかりとな」
「うん、分かった。雲の上のことなんて関係ないもんね」
「そういうことだ。静かになるまでじっとしているに限る」
まあ、うちの方針はそんな感じです。王家に義理があるわけでもないですしね。騎士だったからってそれ忠誠心云々じゃなくて、ただの契約なので。
ところが、突然偉い人がやってきました。
「リンドーニ、しばらくここを使わせてもらうぞ」
「はあ、かまいませんが」
「悪いな。さ、レーダー国王陛下、こちらです」
促されて入ってきたのは、豪華なマントと王冠を被った、老年の域に達するであろう男性です。これはもう見て分かりますね、おそらくメビウス王国のレーダー国王です。
父は少しびっくりしていましたが、まあだからと言ってやることはないので、しょうがなく私たちは居間を明け渡し、ちょこちょこご飯の用意くらいはしていました。お金はもらえたので、食料の調達くらいはできるのです。
とはいえ、反乱はすぐに収まったようで、三日もすれば国王は城に帰っていきました。
「何だったんだろうな」
「さあ?」
嵐が去って、私と父はまた日常に戻ります。反乱とやらも、あっさり片がついたようなので、市民は誰も気にしません。
その四日後、私と父は城に呼ばれました。
父は騎士服を持っていますが、私はきちんとした服なんか持っていないので、普段着で行きました。白い目で見られたような気がしますが、しょうがないです。
城の大広間で、レーダー国王が直々にこう言います。
「リンドーニ、お前には助けられた。聞けば、息子のジョシュアも弟のデーニッツもお前と娘に助けられたというではないか。その褒賞として、レーベン伯爵位を授ける」
父は差し出された勲章と書状をまたもらっていました。
というわけで、うちには三つ目の爵位が来ました。
さすがに、伯爵位をもらって何もしない、というわけにはいきません。ただ、父はまだ騎士なので、名目としては領地に代理人を送る理由があります。なので、今度もまた代理人を送り、税金をちゃんと受け取ることになりました。
となれば、家もそろそろ引っ越しですかね。これ以上は周囲に迷惑がかかります。三度あったことは四度あるのではないか、と父が冗談を言ったので、私はそれは冗談じゃ済まないかも、とつぶやきました。すると父は神妙な顔になりました。
「なあ、アンドレアナ。実は、爵位は全部親族に渡してしまおうと思うんだが」
「いいんじゃない? できるなら、そのほうがいいよ。うちはそもそも、貴族になんか向いてないもの」
「そうだよな。よし、早めにそうしよう」
そうと決まれば、父は行動が早いのです。親族中を回り、困っている家に爵位を譲る、という話をつけてきました。これで何とかなります。生前贈与、という形を取って、分割相続したそうです。よく分かりませんが、つつがなく譲れたようなので何よりです。
ところが、ところがです。
レーダー国王が崩御しました。あーあ、せっかく反乱を何とかしたのに、と思っていたのも束の間、その正室であるシュニーヴィント妃が、女王に即位したのです。
なんか、城では色々あったようですね。ジョシュア王子とか王弟のデーニッツとか、そういう人たちはどうしたのかというと、シュニーヴィントに弱味を握られていて玉座を譲ったそうです。平和的解決です。
さて、我が家では、新たな問題が起きていました。
女王シュニーヴィントから、私を王宮へ出仕させるように、という命令が届いたのです。書状によれば、何でも女王は、三度も王族を救ったリンドーニ家の娘ならば、しかるべき教育を施し、しかるべき配偶者を見つけなければならない、というお節介を思い立ったようなのです。
もう私も父も嫌気が差してきました。
「……アンドレアナ、逃げようか」
「そうだね、本当もう、嫌になってきた」
というわけで、私と父は王都からすたこらさっさ、お金をありったけ持って夜逃げを敢行しました。
目指すは隣国ドゥウォーキン帝国です。人が多く大きい国なので、入ってしまえば足跡も分からなくなり、誰も追ってこないでしょう。
郵便馬車や貨物馬車を乗り継ぎ、一週間もかからず私と父は旅人の格好で国境近辺までやってきました。
「平和だね。誰も拾わないし」
「そうだな。もうあれは遠慮したいな」
「拾っちゃってごめんね」
「気にするな、誰もあんなことになるなんて思わないさ」
のんびり、私たちは馬車で旅をします。
なのに、ですよ。
馬車の後方から、騎馬隊が追いかけてくるではありませんか。それも装備の整った王宮騎馬隊です。先頭には、見たことのある顔がいました。ジョシュア王子です。わざわざ王子自ら馬を駆って、何をしようと言うのでしょう。
「アンドレアナ! 待ってくれ、君には恩がある!」
名指しされては反応しないわけにはいきません。私は走る馬車から叫びます。
「おかまいなく! お幸せに!」
「いいや、もう婚約者のマリアとは婚約を破棄してきた!」
「はあ? けっこうです、お帰りください!」
「そういうわけにはいかない! 私は、君と帰りたいんだ!」
「私は嫌です!」
そんな言い合いをしているところに、馬車の進路方向の右手側、別の方向から、また別の騎馬隊がやってくるではありませんか。
何だあれは、と馬車中が騒然としているところに、やはり先頭の馬に乗った——甲冑姿の女性が、叫びました。
「ジョシュア! 婚約破棄など許しません! その小娘を始末すれば、婚約破棄など無効です!」
「マリア! やめてくれ、君が私と争うということは、アーネセン公爵家は王家に弓引くことになるぞ!」
どちらもまあその論理はどうなのか、と私は思いました。
つまり、私はマリアさんとやらに恨まれて、今殺されかけていますね?
とはいえ、できることはありません。馬車には早く国境へ行ってもらいたい、それを祈るばかりです。
やがて、ジョシュア王子の騎馬隊と、マリアさんとやらの騎馬隊がぶつかり、大乱戦となりました。
その隙に、私と父の乗った馬車は辛くも逃げ出し、やっとの思いで国境に辿り着きます。あとは、国境兵にこう訴えるだけです。
「助けてください! 殺されそうです!」
馬車の乗客にドゥウォーキン帝国民がいたことも功を奏しました。すぐに国境兵たちは臨戦態勢となり、指揮をするハンザ辺境伯がやってきて、他の乗客たちとどさくさに紛れて私と父を保護してくれました。私たちのせいであの大乱戦が起きている、と知られれば、ドゥウォーキン帝国にまで影響を及ぼすなと突き出されてしまいますので、バレなくてよかったです。
それでもまあ、バレるまであまり時間はかかりませんでした。
すぐにメビウス王国とドゥウォーキン帝国は停戦、和平調停が行われることになりました。私と父はドゥウォーキン帝国側の国境に留め置かれています。何でも、騒動の原因となっている、とジョシュア王子のせいでバレてしまったようです。
私と父をメビウス王国に引き渡す、それは簡単です。しかし、私たちの事情を聞いたハンザ辺境伯は、違う意見を持っていました。
「正直、メビウス王国の君たちの扱いはひどいものだ。民は王族のおもちゃではないのだから」
ハンザ辺境伯、真っ当な感性の持ち主です。
そういうわけで、私たちは逃げ出した、ということにして、ドゥウォーキン帝国に入ることができました。これで安心です、少なくともメビウス王国からの追手は振り切りました。
のんびりどこかの都市に行こう、私と父は馬車の休憩時間に草原に寝そべって話します。
「これからどこに行く?」
「そうだな、海なんかどうだ?」
「わあ、私、行ったことない」
「観光がてら、住めるかどうか確かめに行こう。だめなら他の場所を探せばいいさ」
そんな計画を立てながら、そろそろ馬車に戻ろうか、としたときのことです。
一頭の早馬が駆けてきました。何か急ぎの伝令なんだな、くらいに思って眺めていると、私たちの前に止まったではありませんか。馬に乗った伝令役の兵士が声をかけてきます。
「リンドーニ親子だな? 足労をかけるが、帝都に来てもらえるか。このとおり、皇帝陛下の召喚状もある」
「いや、なぜです? 私どもは、皇帝陛下に呼び出されるようなことをした覚えはございませんよ」
「大変申し訳ないが、ハンザ辺境伯からのリンドーニ家の話が皇妃陛下へ伝わり、ひどく同情なされた皇妃陛下を思いやって、皇帝陛下が召喚するようにと申し付けられたのだ。それに、リンドーニ家は、帝都ではこう言われているぞ。三度も王族を助けた娘がいる、幸運の娘だ、ぜひとも見合いの席を設けたいと」
私と父は、視線を合わせ、無言で頷きました。
「分かりました、ただしすぐにはお伺いできません。できるだけ早くまいります、どうかお待ち願えれば」
「そうか、分かった。そうお伝えしておく」
兵士はそのまま、来た道を引き返していきました。
「……アンドレアナ。海に行って、船に乗ろう」
「そうだね、逃げよう」
そういうわけで、私と父はさらに遠くへ行くことにしました。誰も私たちを縛らないところに、のんびり暮らせるところに、です。
幸運の娘なんて冗談じゃないです。不幸の間違いです。そのせいでここまで追われているのだから、最悪です。
何かいいことはないものか。私のそんな思いは、港町で叶いました。
港町には、屋台がたくさんあります。魚醤をかけたイカの丸焼きの屋台の前で、私はイカの丸焼きを頬張っていました。味が濃くてとても美味しいです。
そこへ、一人の騎士がやってきました。真っ黒の甲冑で、胸元に金色の家紋のような刻印があります。顔も隠れていて、性別も分かりません。腰にある剣は立派ですが、古そうです。
その黒い騎士は、私へ突然話しかけてきました。
「君、アンドレアナ・リンドーニだね?」
私はびっくりして、違います、と言いそうになりましたが、その前に黒い騎士は話を進めます。
「突然話しかけてすまない。これを」
黒い騎士は、私へ古ぼけた真鍮製のペンダントを渡してきました。何だろう、と私が眺めていると、父が走ってきました。
「これは、ハーキュリーズ卿! お久しぶりです、十数年前の戦以来ですか」
「いや、正確には貴殿の妻の葬儀以来だ」
「失礼、そうでした。アンドレアナ、こちらは父さんが所属していた部隊の隊長を務めていらした、ハーキュリーズ卿だ。お前の母さんも随分お世話になったものだよ」
へえ、と私は相槌を打ちました。父と母にそんな知人がいたとは、初耳です。母は私が物心つく前に亡くなったので、葬儀のことなんかさっぱり憶えていませんでした。
「じゃあ、このペンダントは?」
「それは病床の君の母上から、誕生日にこっそり買っていたプレゼントで、いつか娘に渡してくれと頼まれていたものだ。君の父上はよくものを失くすから信用できない、と言っていたぞ」
それを聞いた父は、恥ずかしそうに笑って誤魔化していました。別にいいですけどね。
ハーキュリーズ卿は、踵を返してそのまま帰ろうとしていました。
私と父は引き止めます。
「ハーキュリーズ卿、よければお話でもしませんか?」
すると、ハーキュリーズ卿は快諾してくれました。
「いいだろう。急ぐ用事もなし、それに私はもう果たす務めもないからな」
私がイカの丸焼きを食べ終えてから、三人で波止場へやってきました。潮風が涼しくて気持ちがいいです。
ハーキュリーズ卿は特に隠すこともないのか、目的などを話しはじめます。
「ここに来たのは、別の大陸に行くためだ」
「私どもと同じですか」
「ああ。リンドーニ家のことは噂になっていた、ひょっとするとと思って来てみれば、運よく会えた、というわけだ。ペンダントを渡すために少しばかり急いで無理をしたがね」
何だか悪いことをした気がしますが、しょうがないです。結果オーライということで納得してもらいましょう。
兜を脱いだハーキュリーズ卿は、実に精悍で頼り甲斐のある顔つきをしていました。騎士として体格もよく、おまけにハンサムです。ちょっと頬や首筋に古傷があるところくらいしか、欠点がありません。
「お若いんですね」
「二十九だよ。若くはない」
「お父さんの上司だったということで、もっと年上の方かと思っていました」
ハーキュリーズ卿は苦笑しています。そこへ、父が本題に入る、とばかりに問いかけます。
「しかし、ハーキュリーズ卿。一体、あれから何があったというのです。ドゥウォーキン帝国のこんな場所に、メビウス王国の誇る騎士がなぜ」
ハーキュリーズ卿はしばし黙って海を見つめ、それから答えました。
「戦に明け暮れ、疲れたのだ。私は、平和に暮らしたい」
ぽつり、と漏らした答えも、その表情も、どうにも寂しそうです。ハーキュリーズ卿、騎士だからと戦ってばかりでは、確かに疲れるでしょう。父は怪我の些細な後遺症があることが理由で王都の巡回警備の任務に就いていたので、ハーキュリーズ卿とは違う道を歩みましたが、多くの騎士は大抵ずっと戦場に出向いています。ほぼ強制です。
うーん、と私はハーキュリーズ卿のために何かできないか、と思い、こう提案してみました。
「そういうことなら、途中まで一緒に行けばどうでしょうか。私たちも追われて仕方なく逃げていますし、二人より三人のほうが安心です。それも、立派な騎士様だったというのなら、なおさら私は危ない旅路でも安心できます」
そういう建前があれば、ハーキュリーズ卿も私を危険に晒すまいと戦いを避けられるはずです。一人でいると自暴自棄になりかねませんし、旅は道連れと言いますからね。
ハーキュリーズ卿は納得したようで、喜んでいました。
「なるほど。淑女を守るのは騎士の務めだな。分かった、そうしよう」
こうして、私と父はハーキュリーズ卿とともに船に乗って別の国へ向かいました。
ハーキュリーズ卿は立派な騎士で、紳士です。
私がうたた寝をしていると毛布をかけてくれますし、嫌いな食べ物を避けていると食べてくれました。まるで兄ができたようで、私はとても嬉しくて、厳しい旅の毎日でも楽しく過ごせています。
あるとき、赤煉瓦の都市で、ハーキュリーズ卿は私へ本を買ってくれました。
「知識は自分を助けるためにある。簡単なことからでいい、君がよりよい未来を掴むために、いい夫に巡り会うために、本を読むといい」
なるほど、それは道理です。私は文字の読み書きはできますが、積極的に本を読むということはしてきませんでした。
まあ、それはいいのですが——最後の言葉に、私は引っかかりました。
この本を読めば、いい夫に巡り会うのでしょうか。この本を読めば——たとえば、ハーキュリーズ卿のような方と結婚できるのでしょうか。
ちょっと胸にもやもやを残したまま、私は本を読みます。
そのもやもやは、とある断崖絶壁の都市で解消するのです。
断崖に築かれた都市を見上げていた私は、父が宿を取る間に、ハーキュリーズ卿とこんな話をしていました。
「ハーキュリーズ卿はお嫁さんはいないんですか?」
「一度も女性と結婚したことはないよ。昔、婚約の話はあったが、振られてしまってね」
「どうしてですか?」
「その婚約予定の女性が、他の男を好いていた。しかし、私はその男を、決闘で完膚なきまでに負かしたことが過去にあって、それを知った女性に刺されそうになってね」
わあ、大変な修羅場です。
それ以来、ハーキュリーズ卿は女性に近づかなくなった、とのことです。おいたわしいとはこのことです。
あれ? と私は浮かんできた疑問をぶつけます。
「私は? 女性に近づかなくなったんですよね?」
「ああ……まあ……君は、妹のように可愛いからね」
いや、そうじゃないでしょう。私は思わず、ハーキュリーズ卿に迫ります。
「でも私はハーキュリーズ卿のことをとってもすごくていい人だと思いますよ。こんな方が夫となればいいなって思います」
ハーキュリーズ卿は照れ笑いを浮かべていました。
「嬉しいことだな。だが、君はもっと若くて財産のある男性と結ばれたほうがいい」
「でもジョシュア王子とか嫌なので」
「そういえば求婚されていたのだったな」
「ハーキュリーズ卿ではいけませんか? 私だって、ひとところに留まれればゆっくり結婚相手を探しますけど、そうじゃないなら絶対ハーキュリーズ卿がいいです」
私はどうしてそこまで必死になって訴えているのだろう、とふと思いましたが、大して悩むこともなく答えが出ました。
これはきっと、私はハーキュリーズ卿に好意を抱いているのです。だから、他の男を夫にするようになんて言われれば、ちょっともやっとしていたのです。
そこは私の妻となって、とか、私を夫とするくらいに、とか言ってもらえれば、私もこんなにもやもやせずに済んだのです。
ならもうそう言っちゃえ、と私は実力行使に出ます。
「ハーキュリーズ卿、私と結婚してください!」
「アンドレアナ、淑女がそんなことを言ってはいけない」
私をたしなめようとするハーキュリーズ卿、でも耳を真っ赤にしています。これは、脈があるのでは? 私はさらに追い詰めようとしたところで、父が戻ってきていることにやっと気付きました。叱られるかな、と思っていると、父はにっこり笑います。
「うむ、ハーキュリーズ卿。ぜひ娘をもらっていただきたい」
「いや、それは」
「娘がここまで言うのです。非常に珍しい、大人しいこの娘の気持ちを察してやっていただければ、親としては感無量なのですが」
そんなに私は大人しくはないのですが、まあいいでしょう。
ハーキュリーズ卿は私と父に押されに押されて、ついには頷きます。
「分かった、拒みはしない。ただ、私などよりもっといい男を見つけたなら、そちらに行くといい。私よりも、君の未来のほうが大切だから」
またそういう謙遜のような保険のようなことを言う、と私はちょっと怒ります。
「じゃあ、私はハーキュリーズ卿の妻にふさわしくなるように頑張ります。そうすれば捨てられずに済みますから」
私の皮肉をハーキュリーズ卿はまずい、と思ったのか、それ以上何も言いません。
半ば好意、半ば旅の道連れとして、私はハーキュリーズ卿と結婚することにしました。
しかし、結婚と言っても、すぐに夫婦になるわけではなくて、ハーキュリーズ卿は条件をつけました。
「一つ、結婚式を挙げるまで私は君をしっかり立派な淑女となるよう教育する。二つ、君がそのとき引く手数多となってよりよい夫を選べるようになったなら、君はそのことをちゃんと考える。三つ、私は君の好意を素直に受け取ることはしない。それでも、私を好こうと思うのなら、結婚に同意しよう」
前提条件が多いものの、それはハーキュリーズ卿が私を思ってのことだと分かります。
だったら、拒否する理由はないのです。
「じゃあ、それで」
その一言で、私は未来を決断しました。
ハーキュリーズ卿は目を丸くしていましたが、やがて諦めて、私と毎日戦うように淑女教育やら好意のやりとりやらどんぱちやることになるわけですが、それでも楽しそうなのでよしとしましょう。
ねじれねじり曲がったここまでの私の人生、この先も似たようなものかもしれませんが、とりあえず前に進もうという気力はあるので頑張っていきます。
あとハーキュリーズ卿をどうやって落とすか考えるのは充実感があるので、これでオッケーなのです。父も協力してくれていますしね!
おしまい