第七十二話 黒幕と対峙する
実のところ、ソロモン・ディビルズはそこまで冥界について詳しくない。
例えば姉弟と冥界との間にどんな契約が結ばれていて、冥界で姉弟がどんな役割を担っているのか、など。断片的に、表層だけは知っているものの、深いところは今ひとつぴんときていない。
だから、ソロモンがブラズの忠言に即座に従ったのは英断だった。
『姉さんが本気を出せないのは、俺が現世にいるからだ』
ブラズが転移魔術を使って冥界に帰った直後だった。
シストの身体──いや、大鎌から吹き出る瘴気の量が目に見えて増した。首筋に突きつけられていたナイフが音を立てて腐り落ちた。ぐじゅり、と。
「!?」
異変を感じ取ったアンドラスは腐り落ちたナイフを捨てた。そして距離を取りながら指輪に魔力を込めて、指先が紫色に光り出すが、しかし。
シストが大鎌を振る方が速かった。
ぐわん、と。
横薙ぎに振るわれた斬撃は青く透明な波紋を撒き散らしながら、飛んだ。ソロモンはアンドラスに注視していたので気が付かなかったが、その斬撃は同時に、あの勇者アストレアにも直撃していた。
もちろん、即座に後退したサミジーナにも。
彼ら三人の胴体と足とが分かれる。上半身だけでは受け身も取れずに彼らは荒野に打ち付けられた。
「か、はぁっ」
喀血、吐血。サミジーナの口から緑色の血が漏れる。血が、緑色であった。そういうところを見ると、やはり元は魔物なのだなあと思う。もぞ、もぞとサミジーナは腕だけで大地を這おうとするが、叶わない。
一方、アンドラスとアストレアも無造作に大地に転がる。分たれた胴体の断面から瘴気が溢れ、腐食が進行していた。指先だけが抵抗を見せていたが、それ以上大きな動きを見せることはない。
ざり、とシストが歩を進める音がした。
「ま、あなたたちは『死人』だもの。腐り朽ちるのが自然の摂理ってもんだわ」
死者を操る、小人族の姉弟。『冥界の女主人』システィーナ・セィブリングズ。
その大鎌──『死神』の名を冠する大鎌に斬られて、死者が無事でいられるわけもなし。
相性、と一言で言ってしまえば簡単だけれど。
肩に得物を担いで語るシストはそれはもう格好良かった。
しばらくののちにアンドラスとアストレアは完全に動きを止めた。ぴくりとも動かなくなった。目の奥に光はなく、それこそ死んだ魚のようだった。
ならばサミジーナは、と思うが、彼も動きを止めていた。
「あら」
とシストが何かに気がついた。
「どうした?」とソロモンは尋ねた。
「サミジーナ、さん? 本当にあの男の子がサミジーナさんでいいの?」
「あ、ああ。俺たちはそうだと思っていたが」
しばらく思案してからシストは言った。ソロモンの視界の端で、サミジーナだったものが腐り朽ちるのが見えた。
「違うわ。彼もただ操られていただけの死人よ。本人は──サミジーナさん本体は、別にいるわ」
おう、まいしっと。
操作系の性だろうか、お約束だろうか。
危険な前線に本人が出てくるわけもないのだろうか。いやでも、仮にも『ソロモンの悪魔』だし、本体に戦闘能力がないなんてことはないと思うが、とにかく。これで終わって万事解決とはいかないらしい。
と、そんなことを考えている場合ではなかった。
「あっ」
呆然の呟きと共に、理解。薄れゆく意識の中で、ソロモンは自分の状態を理解した。
「……か、過労、です……」
ばたり、と受け身も取れずにソロモンは荒野に倒れた。曖昧だった意識が転倒の衝撃で、トドメを刺された。
「ソロモン!?」
最後に、仕事を放棄しようとする鼓膜の奥にシストの悲鳴を聞いた。
でも、もうだめだ。
一体どれだけの間俺は『万物の主』を起動していただろう?
意識の消失と共に、ソロモンの姿は悪魔のそれから人間に戻る。なんともまあ、締まらないなあと自分でも思う。
○
目が覚めたとき、そこは見たことのない家屋の中だった。知らないベッドに寝かされて、知らない天井を眺める。
既視感を感じた。
あれはそう、ベリアルに殺されかけて、アストレアに助けられたときだ。あのあとソロモンは結界で周囲を探査しようとして、アストレアにそれを叩き斬られて。アストレアがお粥を持ってきてくれて、一緒に食べた。
「アストレア……」
いま、彼女は何をしているのだろう。今更後悔の念が押し寄せてきた。臆病が故に、彼女について行かなかったことに対する後悔。
それはそうとソロモンは自身を中心に結界を広げた。探知結界だ。それに触れた物体を認識する。
そこは二階建ての一軒家で、ソロモンがいるのは二階の一番奥の部屋だった。隣の部屋も個室で、階下にはリビングルームがある。そして、そこには人が四人集まっていた。
そのうちの二人が立ち上がった。ガタタッ! という椅子をひっくり返す音が二階にまで聞こえた。
ダダダダダッ、とそいつらは階段を駆け上る。二人が、我先に、と。敵襲ではない──はずだ。介抱してくれているわけだし。
そもそも、今のソロモンに外敵に抵抗しうる程の余力はないし。
「ソロモンっ!!!」
「おい、ゴミ虫っ!!!」
だから、ソロモンは無防備に来訪者を受け入れた。
扉は勢いよく開かれた。留め金が外れそうなくらいの爆音を立てて。
果たして顔を覗かせたのは二人の可憐な少女。
「無事だったのねっ!」
一人は白髪の小人族。きっとソロモンを介抱してくれた者で、目には安堵の涙が浮かんでいた。
そして、もう一人は──
「ようクソ野郎、決闘だっ!!!」
──怨嗟呪物、コーイントスス。
世界の誰よりソロモン・ディビルズを憎む呪いが、満身創痍のソロモンに、あまつさえ戦いを申し込んできた。
「絶対に殺してやるっ!!」
「……あっ」
理解した。コーイントススとは何者で、そして、ソロモンがかつて何をやらかしたのか。
「ああ……」
諦観のため息が漏れた。きっと、カタストロフィはこれを見てゲラゲラ笑っているのだろう。絶対に助けに来てくれなどしない。
怒りに頬を染める継ぎ接ぎ顔のコーイントススを眺めながら、ソロモンはそれだけを癪に思った。
○
そして、ほぼ同時刻。もう一つの戦いが幕を開けようとしていた。
城。全容を黒く不気味な装飾と共に鎮座する、大きな大きな城。白亜の反対は何か、と聞かれればこの城を見せれば納得するだろう。そんな悪趣味な黒城。
そこに踏み入ろうとする二人の少女がいた。
侵入は呆気なかった。もとより警備などはいなかったし、いたとしても、きっと彼女らには太刀打ちできなかっただろう。
彼女らはやがて、黒城の最奥に豪奢な扉を見つけた。真っ赤な扉。高級絨毯をそのまま扉に貼り付けたような煌めく紋様に、金でできた取手。成金趣味とはまた違う、贅の限りが尽くされた鋳型。
「行くかのう」
少女のうちの一人が呟いた。白髪の彼女がここへ来るのは初めてではなかった。
少女は扉を開けた。キィィ、と音を立てて開いた扉の奥で出迎えたのは、細身の男だった。いやらしい笑みを浮かべる白衣の男。ふかふかのソファに腰を据えて寛ぐ男。
「いやはや、だいぶ無駄な時間を過ごしてしまったわい」
少女は徐に話しかけた。男はくつくつと笑った。男の笑うのに合わせて、柔らかそうなソファが軋み音を立てた。
「さて。なんの話だろう、ダンタリオン?」
ダンタリオン。『序列七十一位』のソロモンの悪魔にして、人間賛歌を謳う傑物。
白髪の少女──ダンタリオンは言った。
「貴様に責任がないとは言わせまい、バアル。少なくともお主は嘘をついたのじゃ。あのサミジーナが冥界──戦場ど真ん中に参上するわけあるまいて」
「いんやあ、私はサミジーナの言葉をそのまま伝えただけだが? 実際に彼がその後どこで何をしたかについてまで責任は取れないよ」
ふん、とダンタリオンは鼻を鳴らした。彼(彼女?)はバアルに煙に巻かれるためにここへ来たのではない。
「まあ良い」そして、ダンタリオンはもう一人の少女──赤毛の少女に命じた。「アストレア、頼んだ」
「あい承知した」
ザン、と。斬、と。
赤毛の少女──アストレアは待たなかった。一時の猶予も与えず、居合一閃、懐の神剣エンハンブルを振りかざす。
神の剣は、あらゆる魔術を斬り崩す。
斬撃が放たれた直後からだった。
途端に黒城にヒビが入る。音を立てて軋み出し、崩壊こそしないものの、まるで電源が切れたように黒城は気配を変える。
神の剣はあらゆる魔術を斬り崩す。
今回斬られし魔術は──隠蔽魔術だった。
ダンタリオンでさえ一度は騙されたほどソレは高度な隠蔽だったのだろう。だが、神剣の前では赤子同然であった。
「アハ」
「!?」
どこかで、誰かが呟いた。
どこか、ではない。目の前だ。いつのまにか部屋の中に人影が増えていた。
「よぉく気付いたねぇ」
緑色の髪の少年。これといって特徴のない外見。だが、べったりとその顔に張り付く笑みは、邪悪を極めしバアルに勝るとも劣らず。にたぁ、と三日月のごとく口元は開かれる。
『序列四位』サミジーナ。この緑髪の少年でさえ本体かどうか疑わしい。
だがしかし、神剣により、世界征服を目論む邪悪はここに顕現させられた。
「ふん」ダンタリオンは神剣に手を添えるアストレアを制しながら言った。「余裕を取り繕いよってからに。お主がついさっきソロモンらに負けて消耗しておること。儂が知らぬと思うたか」
「消耗? アレは偵察だよ。僕だって代々冥界の管理者を務める小人族を簡単に手駒にできるとは思っていなかった。だが──もう見たからね。次は負けない」
「どうだか。それに、その『次』とやらがお主に来ると思うてか?」
ダンタリオンは杖を構えた。サミジーナは逃げも隠れもしない。こちらには勇者が付いているというのに、余裕そうなその様子が、少し怖い。
「来るさ。『次』は君たちも手伝ってくれるんだろ?」
サミジーナが言い終わるのを待たず、ダンタリオンはアストレアを制していた手を除けた。
瞬間、『許可』をもらったアストレアが神速で斬り込んで。
ここに、正義対悪の戦いが始まった。




