第七十一話 捕まり、そして壊す
最初にそれに気付いたのは誰だろう。きっとカタストロフィだ。
だけど、最初に叫んだのはソロモンだった。
「コーイントススッ!」
そうしてソロモンが見るのは荒野に横たわるコーイントススとアンドラス。双方ともに満身創痍に見えるが、しかし。
アンドラスの指先に魔力が集まる気配がした。
「ちぃっ、もう限界だってのに!」コーイントススは舌打ちをした。「『止まれ! 動くな!』」
呪言。対象を意のままに操る呪いの言葉。
果たしてそれは──アンドラスには届かなかった。いや、腐ってもアンドラスは『ソロモンの悪魔』。満身創痍のコーイントススでは力が及ばなかった、と言った方が正しいか。
仰向けに倒れたままアンドラスは力を振り絞った。先ほどまではコーイントススの反呪によって意識を失っていたが、コーイントススの疲労が溜まるにつれて、視界がはっきりしてきた。そうして完全に現状を理解したとき、アンドラスは自分が何をしなければならないのか悟った。
すなわち。
「『喚起の指輪』」
概創霊装の顕現、そして発動。感情を操る神の器が紫色に光る。
狙いはもちろん──
「くっ、『万物の主』ッ!!」
──『冥界の主』、ブラズである。
次に動いたのはソロモンだった。悪魔のごとき禍々しい身体を振りかざす。
「『止まれ』!」
まずは魔力に命令した。アンドラスの指輪から放たれた紫色の魔力。『感情を操る』権能を込められた魔力が、静止する。
『万物の主』が支配するのは生命だけではない。なんの変哲もない草木すら操るし、そもそも魔力とは生き物である。操れない道理はなかった。
続いてソロモンは命令した。
「ブラズッ! 『冥界へ帰れ』ッ!!」
すなわち、逃走。
死者を操るサミジーナ。生者を操るアンドラス。故に、完全無欠の世界征服。
そして今、『死者の衣』を脱ぎ捨てたブラズは生者である。彼をアンドラスの射程に入れておくのは危険すぎる。
「ッ!」
ブラズは迅速に従った。ソロモンに背後を守られながら『大穴』──冥界の入り口へと駆けて行く。
その時だった。
「よくやった、アンドラス」
サミジーナが言った。
ぴくり、とブラズの動きが止まった。
何をやっている、とソロモンは抗議しようとした。そもそも『万物の主』の支配下にあるブラズがソロモンの命令に背くためには、尋常でない精神力──ごときではない労力を支払っているだろう。そうまでして、なぜ立ち止まる。
だけど、だけれど、だけれども。
わかってしまった。ソロモンは気付いてしまった。ブラズが立ち止まった意味にも、サミジーナの言葉の意味にも。
「……ご、ごめんなさい、ブラズ……」
少女の声がした。ソロモンが目を向けると、少女はサミジーナによって、首筋にナイフを当てられていた。まるで人質にされているみたいに。いや、人質よりなおタチが悪い。
それは白髪の少女だった。背丈は高くなくて、まだ子供のよう。子供の姿で成長を止めていた。右手には真っ黒に瘴気を放つ大鎌を握っていて、瞳には申し訳なさに涙が浮かんでいた。
すなわち──
「……姉さん」
──『冥界の女主人』にして、小人族の姉弟の姉の方。
「さあ。交渉といこうじゃないか、マスターハデス」
彼女は最悪のタイミングで到着して、そしてサミジーナに捕まっていた。
○
前兆はあった。そもそもシストは冥界を目指していたし、数刻前、アンドラスも言っていた。
『そういうわけにはいかなくなった。もうすぐ姉がやってくる』と。
「ちぃっ」
ソロモンは舌打ちを一つした。チェックメイトがひっくり返された。当然だ。
「おい、くそ人間族」ブラズがそれを詰めた。「お前、その舌打ちはまさか姉さんに対してのものか?」
「だったらどうする」
本当はタイミングの悪さに思わずこぼれたものだったが、説明するのも面倒でソロモンは適当に相槌を打った。
ブラズはソロモンを睨みつけた。
「これだからお前が嫌いなんだよ。俺が姉さんに甘いのは自覚するところだが──今姉さんが捕まってるのはお前のせいだ、ソロモン」
「……というと?」
「おまえのその悪魔の身体……概創霊装だったか? それは全方位無差別攻撃なのだろう」
「あっ……」
ソロモンは思わず声を上げた。ブラズはため息をついた。コーイントススがじとっとした目をしているのが見えた。
「つまり……」
「ああ」、とブラズは説明する。「俺たちを助けようとして『万物の主』の効果範囲に入って、お前に支配されて、一瞬意識を失ったところを囚われたんだ」
ふとシストの方を見れば、真っ赤にした顔を両手で覆っていた。首筋にナイフを当てられているというのに余裕そうなことであるが、サミジーナの拘束が甘いのは逃がさない自信があるからか。
「……ご、ごめんなさい……」
再度謝るシストにソロモンは心の底から申し訳ない気持ちになった。
「アンドラス」
サミジーナがアンドラスを呼んだ。もう立ち上がれるようになっていたアンドラスがサミジーナのそばに寄った。
「はっ」
「身体の調子はどうだ? 指輪を問題なく使えるか?」
アンドラスは思案してから答えた。
「はっ。しかし、あの呪いは操れませんでした。感情がない、とのことでしたが、『感情の回路が違う』と言った方が正しいです。とにかく、あの呪いは操れません」
サミジーナは黙って続きを促した。
彼らは悠長に会話しているようだが、シストを人質に取られている以上、ソロモンらから迂闊に手を出すわけにはいかない。
「ソロモンも同様に不可能です。一度目はともかく、二度目となれば『第一位』が身体を明け渡してくれませんでした。マスターハデスも現在そのソロモンの支配下にあるので、私の指輪で支配を上書きするには労力がいります」
「んー、やっぱそう簡単にはいかないかー」
サミジーナは首に手を当ててしばらく黙る。
ソロモンは頭を回すが、何かいい考えが出るとも思えなかった。八方塞がりとまではいかないが、解決しようと思えばシストを見捨てることになる。
そして、ブラズはそれを決して許さないだろう。ソロモンとしても本意でないし。
ちらり、とソロモンはカタストロフィを見た。目が合うと彼女はにこりと笑った。ソロモンの結界の中で悠々と観察を続ける彼女。助けてくれる気はなさそうだった。
サミジーナは静止した状況の中で、大胆にも戦力を整えていった。シストをアンドラスに任せ召喚を行ったのだ(概創霊装『狐狸狗の人』は使わなかった。手をかざしただけだ。専門家ではないソロモンではそれ以上何が起こったのかはわからない)。
そうして召喚されたのは──青年アストレアだった。
「おい、どうなってる。冥界の門は閉じたんじゃないのか。どうしてサミジーナはまだ死者を操れている」
ソロモンの質問にブラズは眉を潜めながら答えた。
「ちっ。俺が魂を奪還できたのは、あいつが今日片手間で召喚したやつらだけだ。実際アンドラスとやらもまだ動いてるだろ。あいつが元から持っていた魂──死体を入手したか、長い年月をかけて手駒にしている英霊の支配権まで奪うのは厳しい」
ブラズは青年アストレアの得物を指差しながら言った。
「見ろ。神剣を持ってないだろ。それは神剣シュテルネンハオフェンはサミジーナがついさっき冥界から呼び出した霊だからだ」
ソロモンは希望が潰える音を聞いた気がした。神剣がなくなったからなんだ。勇者が最強なのには変わりないのだ。
「交渉だ、と言ったね」勇者を侍らせ、万全に仕切り直したサミジーナは言った。「僕の要求は簡単だ。マスターハデス、君が大人しく冥界の門を開くなら僕は彼女を解放しよう」
ブラズの瞳が揺れた。シストはずっと謝り続けている。謝りたいのはソロモンの方だった。せっかく助けに来てくれたのに本当にごめんシスト!
「『動くな』」
だけれど、ソロモンは非情に徹さなければならなかった。ブラズが意識を冥界に向ける気配がしたので、すぐにソロモンはそれを禁止した。
シストを助けるために勝手に冥界の門を開かれてはたまらない。
動きを封じられたブラズは忌々しそうにソロモンを見た。
ソロモンはそれを敢えて無視してサミジーナに言う。
「どうして交渉なんかしてる。アストレアがいれば満身創痍の俺たちなんて、簡単に蹴散らせるだろう」
サミジーナは自明の理を説明するように言った。
「ああ殺せるさ。だがマスターハデスが冥界に逃げる事はできる、だよね?」それは、ソロモンが考えていた『解決策』の一つだった。「マスターハデスに冥界に逃げられてしまったら僕たちは手を出せない。不用意に誰かが侵入して『繋がり』でも作ってくれれば別だけどね。そしてマスターハデスに逃げられると冥界の門は永久に閉ざされて、世界征服が難しくなる」
今頃は動きを止めた死霊たちに世界中の人々が安堵していることだろう。それを思うと、シストを解放するために軽率に冥界の門を開くわけにはいかない。
ソロモンは抵抗しようとするブラズをより強い力で押さえつけながら尋ねた。
「冥界の門を開いたら、俺たちはどうなる」
「それはわからない。僕が約束できるのはミストレスハデスの解放までだ。それからは──気が向いたら見逃すかもしれないし、邪魔をするようなら殺す」
理不尽な要求だった。しかし、主導権が向こうにあるのもまた事実だった。
んー、んー! とブラズが何かを訴える。下手なことを言わないように(言葉を用いて冥界の門を勝手に開かれるかもしれない)していたが、その顔を見るにどうやら違うらしい。
「『喋っていいぞ』」とソロモンはブラズに許可を出した。
「おいくそ人間族、よく聞けよ!」ブラズは器用に、ソロモンにだけ聞こえるように小さな声で叫んだ。「いま姉さんが捕まってるのは、俺が現世にいるからだ!」
「……!?」
それが意味するところを理解して。
それからソロモンの決断ははやかった。まずブラズに『許可』を出した。
身体の自由を取り戻したブラズは魔術を使った。『転移魔術』だ。慣れないだろうに、この土壇場でサミジーナの目測を誤らせるためだけに、ブラズはぶっつけ本番、失敗を恐れずに挑戦した。
果たして『転移』は成功して──シストが叫んだ。
「ソロモン、命令!」
勘違いして欲しくないが、シストは現在も『万物の主』の支配下にある。下手に暴れられてもすぐにサミジーナたちに殺されるだろうと思ったからソロモンは指示を出さなかったが、しかし。
「『よし、やれ』!!」
アンドラスが指輪を光らせる。青年アストレアが剣を構える。そしてサミジーナは全力で後退した。
だが、何もかもが遅かった。というよりシストが速過ぎた。
いつの間にか彼女の手に握られる大鎌の瘴気は増していて。
いつの間にか彼女は拘束を振り払っていて。
そしていつの間にか、彼女の周りにいた者の胴と足とが斬り離されていた。
「おつかれ、『死神の鎌』」
はは、と誰かが乾いた笑い声をあげた。ソロモンだ。笑わずにはいられなかった。




