第六十七話 災厄が動き出す
白髪の少女──ダンタリオンは走っていた。彼(彼女?)にしては珍しく急いでいる様子だった。扉を潜る。階段を登る。廊下を通り過ぎて、豪奢な扉の前に立つ。そして、意を決したようにバタンと扉を開けた。
人の気配はなかった。黒曜に光る執務机が奥に見える。その手前には真っ赤なソファが対面するように二つ置かれていて、ソファとソファの間に透明なテーブルが置かれている。テーブルの上にはカップがあって、カップの中にはまだ暖かさを残す紅茶が注がれていた。
ダンタリオンが舌打ちをしたときだった。あまねくを馬鹿にしているような声が、背後から聞こえた。
「一足遅かったねぇ、ダンタリオン?」
ダンタリオンは振り返らなかった。悔恨に顔を歪めただけだった。
「どうしてお主がここにおる、バアル」
『全能』バアルはにたぁ、と口角を上げたのだろう。顔も見えないのに、どうしてかダンタリオンにはそれがわかった。
「いやーだなぁ。特に含むところはないって。ちょっと留守番を任されてるだけでさぁ」
そして、バアルはさらりと言った。
「サミジーナは僕を置いて冥界に行っちゃったからなぁ」
無用心だよねぇ、と。
ここはサミジーナの居城だった。ダンタリオンはバアルの言葉を聞いて、舌打ちをした。そして足早にその場を後にした。
きっと、バアルは今もにたにたと笑っているのだろう。そして今回も静観を貫くのだろう。ソロモン・ディビルズはまだ実っていないから。
○
冥界の扉が開く。アンドラスは跪いていた。敬愛する主人を、服従の姿勢で迎えていた。扉から悠然と出てくるは子供──サミジーナだった。
「僕は死者を操る」
サミジーナが言った。アンドラスは黙って耳を傾けている。決して音を立てないように。主人の口上を邪魔しないように。
「僕が苦労して手に入れた君は、生者を操る」
サミジーナは跪くアンドラスの頭を撫でた。そして背後を振り返った。そこには錆び付いた、冥界へ続く扉があった。
「そして今、冥界すらも僕の手中に収まった。全ての魂が僕の支配下にあるんだ」
歴代の勇者たちや、その他の強者たち。果ては『ソロモンの悪魔』とて、死すれば魂は冥界を訪れる。
そんな歴戦の兵士たちのその全てを操る権利を、サミジーナは得たのだ。冥界を──ブラズを調伏することで。
「『狐狗狸の人』」
概創霊装。自身が概創霊装となるリスクを負うことで、サミジーナは能力の底上げを行なっている。。子供だったサミジーナの姿は、狐と、狗と、狸。それからテーブルと硬貨に変わる。動物たちは硬貨を思い思いにつついて遊ぶ。
こっくりさん。
有名な神話だったり、言い伝えだったりを依代とする魔術は少なくない。サミジーナの『狐狗狸の人』の原型はこっくりさんである。その『降霊』という特徴だけを抽出、濃縮した魔術である。
「「「それじゃあ」」」狐は言った。狗は言った。狸が言った。「「「目を覚ませよ。もう十分眠っただろう。やられっぱなしじゃ癪だろう。冥界の檻は窮屈だっただろう」」」
硬貨が跳ねる。地面に落ちてはまた跳ねる。跳ねるたびに硬貨の数は増えていく。増えては跳ねて、跳ねては増えた。そしてあたりが硬貨で一杯になった時、硬貨は光り始めた。光はそれぞれ、人の形をとっていった。
目に見える範囲だけでも数千人。見えない範囲も合わせれば(増えた硬貨が全て英霊となったのならば)数万といるだろう。それだけの英霊が、この場に降臨していた。
いつのまにか動物たちは消えていた。無邪気な子供の姿に戻ったサミジーナが、英霊たちに命令する。
「ここに降臨せし歴戦の英霊たちよ! 僕のために、世界を壊せ! 千年越しの征服だ!」
万全を期したサミジーナの凱旋が始まった。アガレスやマルバス、アモンの力を知るサミジーナが期した万全である。
単騎で彼を止められる存在は、もうこの世にいない。世界は蹂躙を待つのみであった。
○
単騎で彼を止められる存在は、もうこの世にいない。世界は蹂躙を待つのみであった。
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単騎で彼を止められる存在は、もうこの世にいない。
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もうこの世にいない。
○
ならば、この世でなければ?
○
透明な世界で彼女は言った。
「あらぁ。これは、ソロモンには荷が重かったかしらぁ」
そこは次元の違う世界だった。冥界とも違う、現世に干渉されず、現在に干渉できない世界。傍観者として過ごすには最適な世界。
そんな世界で悠久の時を生きる彼女──カタストロフィは立ち上がった。向かう先には扉があった。この世界と現世とを繋ぐ、唯一の通路。
「いつもなら放っておくんだけどねぇ。どうせわたしの願いは叶わないのだし。でも──」
透明な世界の背景が変わった。この世界はカタストロフィの精神と繋がっている。この世界の背景は、それそのまま、カタストロフィの情景を表す。カタストロフィの心情を表す。
「──たった一回のミスっただけでゲームオーバーじゃあ、かわいそうだものねぇ」
それは。
人外の彼女が持つ唯一の愛情。
たった一人の愛しい男。
無理無謀に正面から挑戦して、敗北した可愛い息子。
泥臭く理不尽に抗うかつてのソロモン・ディビルズの姿を背景に、カタストロフィは現世への扉を潜った。
○
『災厄』というのが人の形をとったら、きっと彼になるのだろう。彼──というより、彼の力が『災厄』なのだ。
地震よりも恐ろしい。
津波でさえも生温い。
死した英雄たちの行軍ほど、恐怖を喚起するものはない。
「ありゃ、この世のものじゃねえぜ。じゃあ何だって言われると困るが、決して一個人が抱えていい能力でありはしない」
ルーヴァン・ガランドは言った。彼はつい先ほどノーセストに到着して、意識を失ったバザドゥーズを回収した。それから数万の英霊──サミジーナの降霊した勇者たち──を見た。そして抗うことを諦めて、今はノーセストの住人の避難を誘導している。
「てめぇら、異常事態だ! 俺は『猛禽部隊』隊長、ルーヴァン・ガランド! 死にたくなけりゃ避難しろ!」
大声で街中を走り回って避難を喚起する。警告を聞いて、わらわらと住民たちは表へ顔を出し始めた。
「……ロココ・アリカは……?」
その時だった。ルーヴァンの背中に担がれるバザドゥーズが意識を取り戻した。ルーヴァンは立ち止まり、目を瞑って首を横に振った。
「……行か、なければ……」
バザドゥーズは満身創痍の身体だった。だが、なおも意思だけは冥界──ロココ・アリカに向いていた。
「ダメだ」ルーヴァンはそれを許さなかった。「絶対に勝てない。コーイントススも行かせたくはなかったが──あいつは止められなかった。バザドゥーズ、動けるようになったんなら、今はノーセストを救うことだけを考えろ」
住民たちは混乱していた。だが、冥界のすぐ近くに存在する街である。定期的に訓練も行われている。決して迅速とは言えないが、緩慢でもない避難だった。
そして、全住民があらかじめ用意されていた避難所にたどり着いた時だった。死者の英霊たちの第一波が、ノーセストに到着した。
「ああ、ああ!」
「俺たちの街が!」
「……っ!」
住民たちは悲鳴をあげた。遠目にも焼き尽くされ、破壊の限りが行われているのがわかる。
ルーヴァンはそれを悲しそうな眼差しで見ていた。目を細めて口元をひき結んで。
そして彼は小さく呟いた。
「……すまない。『契約』を、施工しよう」
避難所を淡い魔力が覆う。それは到底人間に許される魔力量ではなかった。バザドゥーズは畏敬の念でルーヴァンを見た。
「計り知れぬは天秤が二つ」
久しぶりに見るルーヴァンの本気の『契約』。寿命を犠牲に底上げされた強制力を持つ魔術。
自らの寿命を、少しも躊躇することなく、その全てを民のために使うことができる。彼が『猛禽部隊』の隊長を任されている理由の一つだ。自身を顧みない滅私奉公の精神性。
「片には気付かれぬ森の木を」
魔力が形を変える。魔力が避難所を覆う。そして、避難所ごと背景と同化する。魔術が完成する頃には、避難所はすっかり見えなくなっていた。そこには(側から見れば)ただ荒野があるのみである。
「片には外に出でぬ森の民を」
そして、『契約』には『制約』が要る。ルーヴァンのその発言を最後に魔術は完成した。
ルーヴァンは大声で叫んだ。ざわめく住人たちはびくっ、と驚いた。それから自分が注目を集めているのを確認してから、ルーヴァンは言った。
「今、俺の魔術でこの場所を隠した! 決して見つかることはねぇが、ただし! 誰かが外に出ちまったら魔術は解除されちまう! そういう『契約』を結んで隠蔽能力を底上げしてるからだ!」
子供連れは気を付けろ! ボケ老人にも気を付けろ! 遊び半分で外に顔でも出してみろ! ここにいるみんな纏めて、一緒にあの世で再会だ!
住民たちはこくこくと頷いた。親たちは自分の子供を抱きしめた。ルーヴァンはそれを見て、安心させるようににかっと笑った。
ここへきて、バザドゥーズは自分がハメられたことに気が付いた。そして悔しそうにルーヴァンに言った。
「……俺も、外へ出ることは許されないのか、ルーヴァン……」
ルーヴァンは言った。
「……ああ。お前がロココを助けに行っちまったら、ここにいる全員がお陀仏だぜ。俺の『契約』が切れちまうからな」
ルーヴァンの声色にも悲痛の色はあった。だが、『猛禽部隊』隊長として、ロココ・アリカに続いてバザドゥーズをも死なせるわけにはいかなかった。あの英霊の軍勢を見れば、ロココ・アリカが生きているとは思えなかったから。
くそっ、とバザドゥーズはルーヴァンの背中に担がれながら舌打ちした。
「単騎で彼を止められるものは〜」のくだりですが、『負けない』ことができるやつは結構います。『結局物量に押されて彼の世界征服を止めることはできない』という意味です。念のため。




