第六十三話 穴から出てくる
ロココ・アリカの髪の色は金色ではなくてピンク色でした。混乱させてしまい申し訳ありません。
そこは何もない空間だった。そこは何でもある空間だった。背景を瞬間ごとに変えていく宇宙空間とでも言えばいいのだろうか、ぽつり、と宙に浮いた椅子を除いて、その場所はぐにゃぐにゃと彩りが定まらなかった。
椅子にはカタストロフィが座っていた。対面にも椅子は置かれていたが、そこには誰が座っている様子もない。上下を逆さに宙を漂いながら彼女は虚空に話しかけた。
「自業自得ねえ、ソロモン?」
「……」
いつのまにか、対面の椅子にはソロモンが座っていた。カタストロフィは口元を手で押さえて笑った。
「あら、無視するの?」
現実のソロモンは今もブラズに胸を貫かれている。だがそこは『次元魔術師』カタストロフィ。規格外の領域に生きる彼女にとって、ちょっと人を精神世界に引き込むことくらいわけはない。
「……」
ソロモンは黙ったままだった。唇を強く結んで顔を顰めていた。
「じゃあねぇ、話しやすいように質問してあげるわぁ」カタストロフィは言った。「あなた、どうしてアストレアについていかなかったの?」
ぞわり、とおぞましい感覚を伴って背景が変わる。アストレアだ。四方八方どこを見渡してもアストレアが見える。そして彼女は、ソロモンに別れを告げている。
『もうこれ以上は世界の正義が許してくれない。すまないがここでお別れだ』
何度も何度も、アストレアが別れを告げる場面が繰り返される。否が応でもその光景はソロモンの視界に入ってくる。
「状況を整理しましょう」カタストロフィは言った。「あなたは選択を迫られていたわぁ。そして、あなた自身もそれに気がついていた」
カタストロフィは続ける。まるで自明の理を生徒に伝える教師のように。
「アストレアと共に『ソロモンの悪魔』と戦い続けるか、それともここに残るか、っていう選択を、ねぇ」
「……違う。俺は──」
「違わないわよぅ」カタストロフィはソロモンの言葉を遮った。「勇者の前で今の今まで大義に生きてきたソロモン・ディビルズ。そんな彼が出会ってから初めて言ったワガママが、『故郷にいる母親に会いたい』だなんて。確かに正義はその選択を許してくれるでしょう」
「……違う。俺は、どうするか悩んでて、そしたらアストレアがもう時間だと言って──」
カタストロフィは嘲笑う。
「楽だものねぇ。選択しないまま時が過ぎ去るのを待っているのは」
それは。
夏休みの宿題を後に後に追いやるような。
嫌なことを後回しに後回しにして、そして時間がどうしようもなく取り返しのつかないところまで事態を進めてしまった暁に、それを免罪符にするのだ。『もう時間がないから仕方がない』と。
「あなたは確かに選択はしていないわねぇ」カタストロフィは無情にも言葉を紡ぐ。「悩み続けていたわぁ。でも、選択しないことで楽な方を選択したのよ。もう『ソロモンの悪魔』と戦わなくていい方を、ね」
アストレアの姿が消える。ソロモンの視界がブラックアウトする。目を閉じたのだ。もう何も見たくないとばかりに強く目を瞑り、頭を押さえてうずくまる。
しかしここはカタストロフィの精神世界。背景が変わったのがソロモンにはわかった。映し出されるのはやはりアストレアの姿で、彼女は誰かと戦っている。傷つきながら必死に神剣を振っている。
「その結果がこれ」カタストロフィは言った。「楽な方に楽な方に逃げてきて、あなたはすっかり腑抜けてしまったわぁ。ソロモン、あなた──」
そして、ソロモンが一番言って欲しくない言葉を、カタストロフィは躊躇なく発するのだ。
「──冥界に行くのになんて無計画なのかしらぁ?」
行き当たりばったり。臨機応変。
ソロモンが一番嫌いな言葉だった。どうしようもなくなってそうなることは仕方がない。しかし、事前準備を怠って臨機応変に逃げることは許されない。最後の最後まで細部を詰め続け、もうこれ以上ない状態で事をこなして当たり前だと。
そんなソロモンは今回、どんな準備をしただろう?
「そんな体たらくで『余生を過ごす』だなんて大層な願いが叶うわけないでしょう」
あなたは最強を目指しているくらいがちょうど良かったわぁ、と。
「だから」カタストロフィは宣告する。「今回、私に簡単に助けてもらえると思いなさんな」
○
やはり冷たい風が荒野を凪いだ。ノーセスト。ただでさえ僻地である北東の街のその郊外。そこは見渡す限りが赤土の何もない荒野だった。
そして、一組の男女──バザドゥーズとロココ・アリカの目の前には大きな穴がある。どうやら魔術で作られた穴らしく、きっと誰かが冥界に入っていったのだ。それもそう遠くない時間に。
「どうしますか」ロココ・アリカがピンクの髪を指で梳いた。「つまり、待つか、行くかということですが」
「行く。その方が勇敢──格好いいだろう?」
バザドゥーズが言った。ロココ・アリカはため息をつく。
「はあ。わかりまし──ん?」
あれ何でしょう、とロココ・アリカが指をさす。冥界に続く穴。そこから何かが這い出てこようとしている。身に纏う瘴気が、その何かが冥界の住人であることを示していた。
「……亡者」バザドゥーズが言った。「死者の彷徨える魂──それがなぜ、生者の世界に存在している」
死者は冥界の門を越えて生者の世界にくることはできない。それは不可侵の、基本的なルール。
何かが起こっているのは間違いなさそうですね、とロココ・アリカは言った。
「どうしますか」そして冷たい表情で、「つまり、私がやるか、バザドゥーズさんがやるかということですが」
「俺がやろう。お前は女で俺は男だ、ロココ・アリカ」
「そうですか。また『その方が格好いいから』ですか」ロココ・アリカはにやりと笑った。「早い者勝ちにしませんこと?」
亡者が完全にその身を荒野に晒す。辛うじて人だということだけわかる五体。ただし能面、のっぺらぼうのように凹凸がない。それでいて全身を真っ黒な瘴気が纏っているのだから、不気味なことこの上ない。
ロココ・アリカは服装を整える。真っ赤なドレスの埃を払いどこからか日傘を取り出す。
「了解した」
そうこうしているうちに、バザドゥーズは亡者のほうへ向かう。疾風迅雷、飛ぶように駆けたバザドゥーズは瞬く間に亡者のもとへ到達する。
「……」
掛け声は発さない。寡黙に、冷静に。淡々と業務をこなすように行う静かな殺しが一番、格好いいから。
バザドゥーズは亡者の懐に潜り込み、手のひらをその腹に当てる。先ほどの疾駆の速度と比べれば赤子を扱うような優しい接触だった。ふわり、と手のひらは吸い込まれるように亡者に触れて、次の瞬間。
ぎゅるるるる! と亡者の身体を纏っていた瘴気がバザドゥーズの手のひらに吸い込まれた。自身の身を守る衣を失った亡者をバザドゥーズは力一杯殴りつける。抵抗虚しく亡者はちぎり殺された。
「継承魔術」ロココ・アリカがぼそりと呟く。「わたしが見たことがないという事は、バザドゥーズさんもそうなのですね」
継承魔術。それは生得魔術とも呼ばれる、生まれる前に親が子の魂に刻む魔術。もしくは単純に一族で秘匿され、子に継承される魔術。
一番の特徴はその秘匿性。『せっかく開発した魔術をパクられたくない』という魔術師のエゴから生まれたそのシステムは、ある特定の個人にいわば専用魔術とでも呼べるような代物を与えた。
「わたしも負けてられませんわ」
亡者は絶えることなく沸き続けている。今バザドゥーズが三体目を屠ったところだが、それでも明らかに殺害が湧出に追いついていない。バザドゥーズの脇を通り抜ける亡者の一体にロココ・アリカは照準を合わせた。
「『ばーん』」
と。
指を銃のような形にして片目を閉じ、ロココ・アリカは雑に呟いた。
ピシュ、と指先から魔力が飛び出る。それは凄まじい速さ──それこそ弾丸を優に超えるくらい──で亡者の眉間に吸い込まれていき、着弾した瞬間爆発する。後には四肢が分かたれた亡者がいた。
「あら、爆散しただけね。消滅するかと思ったんだけど」
亡者ってのも意外と丈夫なのね、とロココ・アリカは呟いて、バザドゥーズの撃ち漏らしを狙撃し続けた。
ぞわり、と。
「ロココ・アリカ!」
「分かってますわ!」
単純作業のように亡者を駆逐していた二人が一気に後退する。冥界に続く穴から離れて様子を伺う。
ぞわり、ぞわりと。それが近づいてくる気配を感じる。冥界の穴それ自体が瘴気を発しているように、そこからおぞましさの塊のようなものを感じる。
「バザドゥーズ、さん……」
ロココ・アリカの頬を冷や汗がつたる。だが、つぅっ、と流れるそれを気にも止めずロココ・アリカは腕を下ろさない。両手を絡めた指先を穴に向け照準を合わせた姿勢で静止している。
「……安心、しろ。俺がついてる」
バザドゥーズもやはり鳥肌を立てながら両手を前に突き出す。魔術の性質上それがファイティング・ポーズなのだろう。こんな状況でも格好をつけるバザドゥーズのメンタルにロココ・アリカは不覚にも心を動かされた。
ぞわり、ぞわりと。
それは穴から頭を出した。まるで宙に浮いているように──いや、確実に空を飛んでいる。重力なんてないかのようにふよふよと漂うそれは、人間だった。
特徴のない顔に、長くも短くもない黒髪。中肉中背で特に低くも高くもない背丈。手はだらんとぶら下げられ、まるで操り人形の糸に吊るされているように浮遊する男。
男はゆっくりと目を見開いた。下界の様子を確認して、それから天を仰いだ。先ほどまでカクカクと動いていたのが急に滑らかになる。操り人形だったのが、自分の意思で動くようになる。
男は地上に降り立った。不思議そうに自分の手足を見下ろして、それから目の前に構える一組の男女を確認した。バザドゥーズもロココ・アリカも、隙だらけだったはずの男を攻撃できなかった。本能が攻撃してはならないと言っていた。
「……誰よ、あなた」
返答を期待した問いかけではなかった。ただロココ・アリカはその空気に耐えられなかっただけだった。
返答があった。
「……俺? 俺に言ってんの、それ?」
やる気が無さそうに男は言った。バザドゥーズのようなフリではなくて、本当に心から面倒くさそうに男は頭を掻いた。
「俺は……そうだな、あ──」しばらく思案して、閃いたように男は言った。「──俺はバアル。ソロモンの悪魔の『序列一位』だ」
ちぃっ、と誰かが舌打ちをした。それはこの場の誰かのものかもしれなかったし、ここにいない誰かのものかもしれなかった。




