第六十二話 冥界に入る
寒くて暗い地下空間。先ほど開けた『穴』を飛び降りたその先。
そこでソロモンは『扉』を前に立ち止まっていた。
「あー、えー?」表情を歪めて言う。「入、れないこともない、けど……」
ソロモンはため息をついた。
「嫌な記憶しかないんだよな……ってことが、あるわけではないけど……」
釈然としない態度を取りながらソロモンは懐を漁った。そしてソレが『手荷物』なんかに存在しているわけがないことを思い出した。
「えーと、たしかこうやって、こう」
練るは魔力、想うは『死神』。かつてシストが教えてくれた手順に則って魔力は精製され続け、それはいつしか顔が隠れるほど深い、フード付きのローブとなり──
「──『死神の衣』、だっけか」
『死神の衣』。着用者を『死者』とする最強の防護服にして、冥界への切符。死者のみに入ることを許される冥界に生者が行くために必須の衣。
「……はあ」
ソロモンはため息をついてそこにある『扉』に手を触れた。衣を纏った今、ソロモンは死者として扱われる。冥界の扉は来訪者を歓迎するようにゆっくりと開いた。
○
侵入までは呆気のないものだった。
「やあ」
そしてソロモンはブラズに会った。シストの姿は見えない。彼一人らしい。彼は寂しい洞穴の奥に、ぽつりと座っていた。
「お前……」ブラズはソロモンの全身──真っ黒な瘴気を放つ衣を纏った姿──を見回して言った。「それは……姉さんに授かったものだな」
「ああ。『私はこれを持っていても「扉」の向こうに行けないから』ってさ」
「……姉さんはわかってない。そうでなくとも『死神の衣』は最強の防護結界なのに」
そういえばシストは戦闘の際、『死神の鎌』しか使用していなかった。ブラズは瘴気を節約して『衣』を出さないのだと思っていたが、そもそもソロモンに譲渡していたらしい。「まったくあの人は……」とブラズは呆れた。
「そうなのか?」とソロモンは聞いた。
「……例えば」とブラズはソロモンに向かって『瘴気』を放つ。「いまどんな気分だ?」
ソロモンの周りをもやが漂う。『瘴気』とやらの恐ろしさはソロモンも知っていた。武器を溶かし肌を炎症させ、果ては大気すら爛れさせる有害物質。それなのに。
ソロモンは言った。
「……なんともない」
「……そうだろう。今のお前は『死者』だからな。死人をもう一度殺すことはできん」
しばらくソロモンは感心していた。真っ黒な衣を被ったままでは彼の表情は見えない。ブラズは気持ち悪そうにソロモンを眺めていた。うへえ、と実際に嗚咽もした。
やがてソロモンはブラズに向き直って言った。
「それで……冥界で何が起こってる?」
それは抽象的な質問だった。だがしかしそれでいて、断定的な口調でもあった。問い詰めるような言い方のそれはまるで詰問しているようにも見えた。
果たしてブラズはとぼけた。
「何が、とは」
ソロモンの語調が強くなる。
「誤魔化すなよ。おかしいだろ。魔力の流れも瘴気の濃さも。何より──」ソロモンは周囲を見渡した。「──亡者の数が少なすぎる」
亡者。魂。生きとし生けるものの成れの果て。そして、冥界を数多席巻しているはずの者たち。ソロモンはブラズに会うまで、冥界でそれらの姿を一度も目にしていない。
ブラズは面倒なクレーマーを見るような目でソロモンを見た。昔からこういうところがブラズにはあった。かれら姉弟──小人族の事情に、部外者が首を突っ込むのを嫌った。
しばらく黙っていたが、ため息をついてからブラズはなんでもなさそうに言った。
「何か、か。起こっていると言えば起こっている。起こっていないと言えば起こっていない。ただ、そうだな。どうしても知りたいのならばアレを見ろ」
そうしてブラズはソロモンの背後を指で示した。素直にソロモンは従った。そこにあるものは、ソロモンにはただの岩盤に見えた。寂しく冥界を彩る洞窟の、水滴が滴るただの岩肌。
「おい、別に何にもない──」
ぞ、と言いかけたソロモンの胸を、ドス、と貫くものがあった。
「──え?」
ソロモンは振り向きかけた姿勢のまま、眼下を見下ろした。胸を何かが貫いている。自分の胸から何かが生えている。それはソロモンの血で赤黒く染まっている。ごきゅ、とより胸を抉るように、それは滑らかに蠢いた。
それは何者かの腕だった。
「……ブラ、ズ……?」
精一杯といった風にソロモンは名前を呼んだ。そこにいたのはソロモンとブラズだけだった。亡者の姿なんてひとかけらも見えなかった。
果たしてブラズは応えた。
「……ずっと前から、俺はお前が嫌いだった」
何かが起こっていると言えば起こっているし、 起こっていないと言えば起こっていない。
そんな状況でさらに、その場所の主はソロモンを嫌いだという。
これは無理だ、とソロモンは失意の中に意識を失った。
○
冷たい風が一組の男女の間を凪いだ。北東に位置するこの街は季節を問わず寒々しい。一通りあたりを席巻して満足したのか風はすぐに止んだが、それでも肌寒さは変わらなかった。
二人の間に会話はなかった。目的地が一緒だから同行しているだけだという風に彼らはずんずんと歩む。だから男の発した言葉も、きっと独り言だった。
「……面倒くせぇ」
ぼそり、とその声は空気に溶けた。ぼさぼさの黒髪は男の目元を隠している。高い背丈と動かない口元に、少女は一瞬それが誰の声かわからなかった。そしてそれが男の声だと気付いたからといって、返答したのはやはり少女の気まぐれだった。
「ルーヴァン隊長の命では仕方ないでしょう」
言葉が返されると思っていなかったのか、男はちらりと少女の方を見た。ネイリングされた爪、派手派手しい真っ赤なドレスをゴシック風に仕立て上げた衣装。ぱっちりと大きくされた目に、唇に塗られる口紅はやはり鮮やかな赤。ピンク髪の縦ロールが歩行に合わせて揺れた。
「……驚いたな」男は大して表情を変えずに言った。「君が話すのは初めて聞いたが、思っていたより理性的だ」
「……はあ。わたしは想像通りですが」少女はツンとした態度で言った。「バザドゥーズさんはきっと失礼な人だろうと思っていました。わたしだって年上の人に対する礼儀くらいは弁えていますわ」
初対面で『思っていたより理性的だ』と言うのは確かに失礼だろう。バザドゥーズと呼ばれた男は納得してふっ、と微笑んだ。それから言った。
「褒めてるんだ。素直に受け取れよ。ちなみに俺は十六だが、お前は俺より年下なのか?」
「……な、え、は? じ、じゅうろ、く……は冗談です、よね……?」
本当だが、とバザドゥーズは言った。少女はしばらくそれを信じられない様子だった。うそよ、三十代でも通じるわ。目元がぼさぼさの髪で隠れてるのがいけないのよ。
「年齢を間違えるなんて失礼なやつだな、ロココ・アリカ」
「うっ……。それを言うなら、女性に年齢を聞く方が失礼ではなくて?」
「敬語でなくても構わないぞ。お前の方が年配だろう」
「うぐっ……。い、いえ、今更変えるのも何ですし……。あ、バザドゥーズさんこそわたしに対して敬語で話してくれても構わないんですよ」
ロココ・アリカと呼ばれた少女の言葉にバザドゥーズは困ったように言い澱んだ。実際に困っているかどうかは、その読み取りづらい表情のせいでわからなかった。
「それは──聞けない頼みかもしれない。舐められたら殺される。そういう環境に身を置いていた時期がある。気に触ったのなら謝るよ」
「……あ、いえ、別に気に触るほどでは、ないですわ……」
ロココ・アリカはすっかり興を削がれた様子で肩を落として歩む。しばらくの間やはり会話は無かったが、二人の仲はそこまで険悪なわけでもないらしい。今度はロココ・アリカが話しかけた。
「もっと寡黙な方だと思っておりましたわ。会議も寝てるし、いつも面倒くさがっているし」
ふむ、とバザドゥーズは思案する。それからまるで自慢の一品を振る舞うように胸を張って言った。
「……さっきも言ったようにな、舐められたら終わりの環境にいたんだ。その方が格好いいだろう? だから俺はいつもダルそうにしてるんだ」
本当は実力のある奴が、面倒がって本気を出さないのはかっこいいだろう! と。
「……え、は? は、はあ、そうですか」ロココ・アリカは戸惑う。「でも、ただいまバザドゥーズさんの株は大暴落中ですわ……」
ぼさぼさの黒髪。高い背丈。細身だが引き締まった身体に軍服を着た姿は若年兵と言った具合だが、落ち着いた物腰と無精髭がその印象を吹き飛ばす。ロココ・アリカにとってそんな彼のアイデンティティは、ついさっきまでは寡黙で面倒くさがり屋、ただし実力は一級品。そんなものだった。
それが全て、意図して演出された雰囲気だとバザドゥーズは言う。だが、バザドゥーズは弁解するようにこうも言った。
「面倒くさいのは本当だ。特に今回なんて──」バザドゥーズはあたりを見渡した。「──どこだ、ここは? ノーセストの郊外も郊外、世界の端っこみたいな荒野真っ只中じゃないか。こんな場所の精査が必要とは思わないし、必要だとしても猛禽部隊が出るほどじゃないだろう」
ロココ・アリカは薄く笑った。
「……ルーヴァン隊長の命では仕方ないでしょう。おや、あれは何でしょうか。わたしには穴のように見えますが」
ロココ・アリカが指で示すその先には確かに大穴があった。まるで台風に直撃でもされたかのような荒れ方を見せる大穴。
バザドゥーズが言った。
「魔術の仕業だ。魔力痕が見える」
ロココ・アリカもそれに気がついて表情を引き締めた。
「……そう、ですね。そしてあそこは──」
「ああ」バザドゥーズが髪をかき上げる。ぼさぼさの黒髪の向こうに覗く眼光が鋭くなった気がした。「──冥界の入り口、その真上だ」




