第五十七話 故郷にたどり着く
ソロモンは名も無き村に生まれた。かつて人間は虐げられるべき弱者で、だからソロモンには両親がいなかった。また、だからこそ村の人たちはソロモンを実の息子のように扱ってくれた。そのような時代だからこそ人間は助け合って生きていかねばならなかった。
生誕から程なく村には魔女がやってきた。程なく──というのはその妖精族の魔女から見た時の話で、彼女の来訪時にソロモンの齢は十をとうの昔に数えていたが、彼女がソロモンに「ひよっこ」以外の呼称を使うことはなかった。何百年の時を生きる妖精族にとっては人間なんて誰もが「ひよっこ」だろう
ああ、もう一つだけ温かな呼び名があったかもしれない。
魔女はソロモンを「息子」と呼んだ。
だからソロモンは魔女を友人と呼んだ。
○
まあ、こんなところだろうと思った。
「……間違いはないのか?」
アストレアが遠慮がちに聞いた。珍しく──はないが、狼狽えているようだ。状況が状況でなければその上目遣いはとても愛らしく見えただろう。
「ああ」
そうソロモンは答えた。簡潔に、感情を込めずに。その目はアストレアを振り返ることもなく前方に据えられ、そしてその『前方』には何もなかった。
「ここが、俺の故郷で間違いない」
ソロモンが十数年を過ごし、ソロモンを大切に扱い、ソロモンに大切に扱われたその名も無き村は、千と数百年の間に一切の痕跡をなくしていた。
○
話は随分遡る。名残惜しくも魔界は既に後にしたころ。残ったのはソロモンにアストレア、ダンタリオンのみで、思えばこの三人だけで行動するのは随分久しぶりのことだった。
「本当にいいのか?」
そこは荒野で、ソロモンは二人の一歩後ろを歩いていた。たまに方向の指示をするだけで、決して先導しようとはしないままに、彼は背後から二人に問うた。
歩きながら二人は振り返ってソロモンをしばらく見て、それからアストレアが言った。
「いいのか、というのは?」
「この旅路の目的地だよ。俺の故郷っていうのは本当に何にもないところなんだ。『ソロモンの悪魔』との関係も一切ない」
アストレアは顎に手を当てた。そして笑った。
「思えば、君が願望を持ったのは随分久しぶりな気がするからね。『成長するから食事を寄越せ』と言った時以来じゃないのか?」
「……そうか? まあまあわがままだったと思うんだが、俺は」
「いいや。君は降りかかる火の粉を払っていただけだよ」
朗らかに話していたアストレアはそこで急に黙り込んだ。口元を押さえてそっぽ、前方を向いてソロモンに顔を見せないようにした。ソロモンは訝しんで問いかけた。
「……アストレア?」
「……い、いやっ、なんでもない……。ダ、ダンタリオンは構わないのかっ?」
耳まで真っ赤にするアストレアは決してソロモンに顔を見せなかった。その様子を横目で見ながら、ダンタリオンはひどく愉快に声を弾ませて質問に答えた。
「……はあ。儂は別に構わんが……なんじゃい。その様子じゃとお主ら、初対面の時に何かあったのかのう?」
アストレアに答える様子がなかったのでソロモンが記憶を辿った。
初対面。結界を容易く噛み砕く獣に、それを叩き斬ったアストレア。アストレアもまたソロモンの結界を容易く切り裂いて、それで食事をしてもらって──
「──いや、毒を盛られたくらいだが」
アストレアの肩がぴくんと跳ねた。
「それは、お主がアストレア嬢に、ということかのう?」
「ああ。それからアストレアは分身して斬りかかってきて──」
「──もうそれ以上は言うな!」
アストレアは素早く振り返りざまにソロモンの喉元に剣を突き立てて、「ひえっ」とソロモンは両手を上に挙げて降参の意思を示した。得物は神剣だった。本気だ。本気でアストレアはソロモンの口を封じようとしている。
きらり、と目の前の神剣が陽の光を反射した。
ようやく拝めたアストレアの顔は真っ赤だった。はぁ、はぁと荒く息を吐いていたが、冷や汗を流すソロモンを見て剣を引いた。それから恥ずかしくなったのかゴホン、と咳払いを一つして、何事もなかったかのように歩き出した。
「あ、あの時のことは……悪かったと思ってはいるが、醜聞には変わりない。あまり吹聴しないでくれると助かるのだが」
「あ、ああ。すまなかった。勇者のくせに神剣の使い方を知らなかったのも元はと言えば俺が魔力を封じたせい──」
「──ソルモ!」
ダンタリオンはうまく呼吸ができなくなっていた。過呼吸というやつだ。笑うのを堪えきれずに笑ってしまって、ひゅー、ひゅーと変な呼吸を繰り返していたが、やがて何に憚られるともなく笑い出した。
「はーはっは! ほっほ……はー! や、やめよお主ら……儂を笑い殺す気か!」
アストレアは顔を朱に染めたままむず痒そうな顔で「死ねば……」と言いかけて自粛した。それを見てダンタリオンは笑顔をいっそう晴れやかなものにするのだからソロモンとしては笑えない。すっかり機嫌を悪くしてしまったアストレアと笑い続けるダンタリオン。収集の付け方が全くわからなかった。
しばらくそのまま何とも言えない行進が続いて、ようやく冷静になったダンタリオンがソロモンに尋ねた。
「おい、お主や。今の儂は気分が良いからの、大体でいいから場所を教えてくれたら、『転移魔術』を使ってやらんこともない」
「……え?」
「だから、転移魔術じゃ。転移、転送、瞬間移動」
「……え、それは、どこにでも飛べるのか? 制約もなしに?」ソロモンが聞いた。
「大体は」ダンタリオンは答えた。
「距離、とか、人数、は?」とソロモンは確かめるように聞いた。
「別にどこへでも、何人でも問題はないが」
「は?」とソロモンは怒りを通り越して困惑した。
「そんな便利なものがあるんだったら最初っから使っとけよ!」
○
この世界には四つの大陸があるが、そのうちの二つは北と南の両極、とても人間が住めそうに無い気候条件に存在しているので、大陸というと『西の大陸』ウェスタンゲア、もしくは『東の大陸』イスタンゲアのことを言うことが多かった。
ウェスタンゲアには『王国』や『帝国』、それから魔界もあって、イスタンゲアには『皇国』がある。ウェスタンゲアはイスタンゲアの約二倍の大きさを持っていて、南西側と北東側が出っ張っている平行四辺形のような形をしている。
「本当にお主が言った『座標』は間違ってなかったのかのう」
そこはウェスタンゲアの北東。肌寒く、見渡す限りの痩せた土地は決して居住に適していないように思える。
「お前の『転移』が失敗したって可能性は、ダンタリオン?」
「あるわけなかろうて」
「じゃあ、この辺りで間違い無いよ」
それでも彼らは必死に生きていた。獣を狩り、夏の間は冬に備えて食べ物を蓄えて、冬の間は寒さを凌ぎながら春の訪れを待つ。
「……ソルモ」
「遠慮しなくていいよ、アストレア」ソロモンは言った。「何もないここが、俺の故郷で間違いない」
ソロモンの心に特別に到来した感情はなにもなかった。強いて言えば当然だ、という気持ちと、多少の後悔。もしも自分が世界最強なんて目指さなければ彼らはなおも生きながらえていたのではないか、と。
ああ、それからもう一つ。
「あんたがいてこの様かよ、大魔術師」
それはかつての師への怨嗟の声だった。
三話も使っていまだ話が進んでいないという事実




