第五十六話 解散する
暗い。ぴちゃ、ぴちゃと冷たい水が滴る音がする。顔を上げると遠くに針の先を通ってきたかのような明るい光が見えて、しかしそれを手に入れようと手を伸ばすと、たちまちに光は姿を消す。
そして、ぴちゃ、ぴちゃと水が滴る音がする。
男は地べたに座って蹲っていた。体操座りで壁に背を預け、虚な瞳は何を見ているとも知れず。時折思い出したかのように立ち上がって、彼は『仕事』をこなす。
──うぁぁぁあぁ……
慟哭が聞こえる。怨嗟、怨念、この世の全てを呪わんとする亡者の泣き声。
彼は声のする方に赴いて口を開く。手をかざす。
鎮魂歌。彷徨える魂を輪廻の元へ返すか、そうでなくても、たとえその魂が冥界で裁かれるのだとしても、ひと時の安寧を与える慈悲の歌唱。
──ラーーララーーラー……
鋭い目つきに似合わない優しい声音で彼は歌った。かざした手からも暖かな光が現れて、それは冥界の亡者たちを癒やす。やがて、彼らの呻き声が聞こえなくなってから彼は歌うのをやめた。
しん、と再び冥界に静寂が戻る。先ほどまで暖かく冥界を照らしていた光も、優しく包み込んでいた歌声もなくなった。松明の消えた洞窟のように寂しい空気が蔓延する。
「……寂しい、な」
そう、寂寥。前まではなんともなかったのに。冥界の主として一人で過ごすことは、決して苦ではなかったはずなのに。
「……っ泣き言言ってんじゃ、ねえ」
しかし、それを認めてしまうことはできない。それは姉の覚悟を無駄にして、小人族の誇りを穢す感情だから。
誰もいない冥界で、彼は黙って膝に顔を埋める。
○
別れというのがもたらす感情といえば、どのようなものがあるだろう。
寂しい。悲しい。心にぽっかりと穴が開く。
だが少なくともソロモンにとって、その別れは嬉しいだけのものだった。
「……」
警戒する獣のように唸り声を上げるソロモンの視線の先には刀傷のある袴姿が一人。
ことの発端はツラトゥストラがアストレアに挨拶に来たことだった。彼は金髪ロールの女の子──フィランソロフィを連れて今後の行動について話していたソロモンらのもとにやってきた。
『お嬢様。私は──もうこれ以上修行する必要もなくなったので道場に帰ろうと思います。お嬢様はどうされますか』
アストレアは儚げに笑った。故郷を懐かしむようなその表情にソロモンは疎外感を感じたが、これはいわば『最後の挨拶』というやつなのだろう。それを邪魔するほど彼は無粋ではなかった。
『私は旅を続けるよ。ソロモンの悪魔は未だに殲滅には程遠いほど依存しているし、それに──妙な縁もできたのでね』
アストレアは神剣と、ダンタリオンと、それからソロモンを見た。故郷を懐かしむ光。そしてその奥の、未来を見据える意思の光。
知らず、ソロモンは胸中を熱くした。アストレアに仲間だと認められていたことが何より嬉しかった。
『そうですか。お気をつけて』ツラトゥストラは、多分出会ってから初めて笑った。『いつでも帰ってくれて構いませんよ』
『馬鹿を言え。一度約束したことくらい完遂しよう。帰るのは──ソロモンの悪魔を殲滅してからだ』
そしてツラトゥストラは大きくお辞儀をして、フィランソロフィと共に歩いていく。それをソロモンは悶々とした気持ちでただ見ている。
ソロモンにとって、その別れは嬉しいだけのもののはずだった。
「ツラトゥストラ!」
気がつけばソロモンは彼の名前を呼んでいた。
「おまえ、こういうのできないだろ!」
それは多分、最後の最後で力をともに千年夜城を御し切った際に生まれた魔力的な繋がり。それがソロモンに『絆』のようなものを感じさせているのだ、と。ソロモンはそのように納得した。
魔力が起こる。それはソロモンが生涯をかけて編み出した『結界魔術』。ツラトゥストラが未だ到達していない領域のそれ。
「……だからどうした」
ツラトゥストラは困惑とともに、少しだけ憤ったようだった。むっ、と表情を落として彼はソロモンに向き直る。
果たして──ソロモンは挑発を続けた。
「これも、これも、これもできないだろ! おまえさあ、その程度の理解で結界魔術師名乗ってんなよ!」
「それを言うなら──」ツラトゥストラはソロモンに詰め寄り、ソロモンの結界を叩き斬った「──貴様こそ、そのお粗末なものはなんだ」
「はあ!? これは対打撃用の結界じゃないだろうが! おまえはできないからわからないだろうがな!」
「だが──それは……だから、──だろう!」
「それは……なんだよ! それが──であれが……して──」
ぎゃーぎゃーと彼らは喚き続ける。
ソロモンとツラトゥストラはそれから二時間ほど議論を続けた。フィランソロフィとアストレアは馬鹿を見るような目でそれを傍観していたが、時折彼女らの間にも会話と、笑顔が生まれた。「いやね、男って」
喧嘩するほど仲がいい、とは言うが、傍目にはこの討論でツラトゥストラとソロモンの仲が深まったとはとても思えなかった。
「あばよ! 次会う時までには精進しとくんだな!」
「……言われるまでもない」
彼らも彼らで、互いをどのように扱っていいのかよくわからないらしかった。
○
「じゃあ、私も帰るわね」
ツラトゥストラが旅立ってしばらく。皆が揃ってからシストが言った。
ソロモンは尋ねた。
「帰るって、どこに?」
「……私の故郷。いま、ブラズをそこに置き去りにしてるの」
「ついていかなくても平気か?」
「もちろん。特に今の私なら誰にも負けないわ」
シストは力こぶを作って笑って見せた。えっへん、と年相応に微笑む様は可愛らしいが、ソロモンはその言葉が決して嘘ではないことを知っている。今の彼女はいわば『全盛期』の彼女だ。
「短い間だったが楽しかった。ありがとう」
「こちらこそ。勇者さんも頑張ってね」
アストレアも挨拶を交わして、シストは呆気なく去っていってしまった。誰が余韻に浸る暇もなく、気がつけば彼女は颯爽とその場を後にしていた。
だから、誰も彼女の瞳の奥にある焦りに気がつかなかった。
「……ブラズ……どうなってるの……?」
彼女は足早にその場を後にした──のではなく、急いで『故郷』へと向かっていた。そこにいるブラズに危機が迫っているのを知っていたから。
○
「故郷か……」
残されたのは三人。城六伯も清貧姉弟も、ツラトゥストラはさっさと魔界を後にしてしまった。残されたのは魔界残留組と、ソロモンとアストレア、それからダンタリオンのみ。
「なんだ。気になるのか?」
ソロモンの呟きをアストレアが拾った。
「気にならない……ってのは嘘になる。でもなあ……」
ソロモンは深く逡巡しているみたいだった。行きたいけれどどこか気恥ずかしい。その様はまるで子供のようで、微笑ましくてアストレアは笑った。
「ダンタリオン。火急の用事はあるか」
「いいや。サミジーナの動向がわかれば別なんじゃがのう」
白い髪の少女は言った。それを聞いてアストレアは頷いた。
「よし。じゃあソルモ、君の故郷に行こう。私が見てみたいんだよ、そこを」
「えぇー」
やはりどこか気怠げに文句をつけるソロモンに対して、アストレアは笑顔で、強引に話を進めた。




