第四十九話 ぐちゃぐちゃになる
五十話目です。こんなに書き続けられたのも読んでくださる方がいらっしゃったからだ、というどんな書き手の言葉も、嘘ではなかったんだなあと思います。改めて、いつも読んでくださってありがとうございます。
「ブラズ、ブラズ」
焦っていた。表情は歪んで、眉は顰められて、頭の中はもうぐちゃぐちゃになっていて、時間を戻せるのなら戻したくて、どうしようもなくて私は叫んだ。
「もう、何やってるのよ!」
それでもブラズは、私の手を離さない。ずんずんと進む足は迷いなく、バティンの城から遠ざかる。
「俺の手を振り解けばいい」
そうだ。私は口で文句を言うばかりで、力尽くでブラズに抗おうとはしていなかった。でも、ただでさえブラズには窮屈な思いをさせているのに、これ以上私はブラズを縛りたくはなかった。『封印』すれば、ブラズの足を止めるなんて造作もないことなのに。
「でも、でも! ねえ、ちょっとだけでもいいから!」
ブラズはため息をついて足を止めた。それから私に向き直って、険呑な瞳で私の目を見つめた。
「姉さん」
険呑、ではあったけれど、その奥に優しさだとか、慈愛だとか、そういう慮る光が見えるのが、シストの口を閉ざさせるのだ。
「あなたはいつもそうだ。あなたがちょっとだけと言うから、俺は僧侶を蘇らせた。蘇生魔術なんて禁忌を犯したやつらの仲間なんて、俺は一度たりとも許したくはなかったのに」
まして、とブラズは言葉を続けようとして、私の顔を見てやめた。私は涙ぐんでいた。うっ、うっ、と嗚咽は止まらなくて、服の袖でごしごしと涙を拭った。それでも、顔の筋肉は歪み続けた。
「……っ、で、も……」
私は他人に優しいのではない。甘いのだ。他人に甘いのではなくて、自分に甘いのだ。『優しい』なんて、そんな優しい言葉は使わない。私は自分に甘いのだ。
だから、目の前で困っている人は助けなければ気が済まないし、助けられる命を見過ごせば罪悪感に殺されそうになる。それがもしも一生懸命努力している人だったならばなおさらだ。私はソロモンの努力を知っていた。
ブラズが申し訳なさそうに言う。
「ごめん。俺は姉さんほど『強く』ないんだ。俺は、姉さんをもう一度失うかも知れない恐怖に勝てない」
それで私以外を切り捨てる決断をできるのならば、せっかく仲良くなったアストレアや、ソロモンを見殺しにできるのならば、それはもう『強さ』だ。それを言うのならば、私こそ弱いから、こうしていつまでもぐずぐずしているんだ。ブラズは強いよ、と言ってやりたかった。
でも、私は今癇癪を起こしていた。今は、ブラズへの恨みの念の方が強かった。特に残されたのがソロモンである。彼は私の最も大切な人の一人だった。
「……っ」
私は悩んだ。一つだけ、選択肢があるにはあるのだ。でもそれは他の何よりブラズを傷つける選択だろうことも、確かだった。
ブラズの『強さ』を、見習おうと思った。たった一つの信念のために、他の全てを犠牲にするようなブラズの生き様を、見習おうと思った。
そうして、私は私の『弱さ』を受け入れた。これがあってこそ私なのだと胸を張りたかったから。
「……ごめん」
だから、私はブラズの『封印』を解いた。
ブラズは少しだけ驚いたようだった。まさか私がここまでするとは思わなかったのだろう。でも、私の自慢の弟は、ついに微笑んでくれた。
「いいよ。……待ってるからね、姉さん」
ブラズに施していた封印。『冥界の権能』を剥奪する封印。これで、ブラズは真に『冥界の主人』に返り咲いた。その身体が粒子となって消えかかる。冥界に向かっているのだ。ブラズの役割は扉の『内側』の管理。いつまでも外にはいられない。
これで私が死んでも、『冥界』で再会できる。死ななければ、もう一度ブラズを封印して、また一緒に過ごせば良い。私たちはもう、冥界に縛られてはいないのだ。
そして、やっぱりブラズは強かった。私がこんなにも勝手をしているのに、彼は私の全てを受け入れて、赦してくれた。
「ごめんね、ブラズ」
最後にそう呟いて、私は踵を返す。向かう先、もう随分遠くなってしまったバティンの城へと。
○
「エンハンブル……?」
アストレアが硬直する。その隙を助けたソロモンだったが、態勢を立て直してなお、アストレアは動揺から完全に回復してはいなかった。
「何をやってる、アストレア!」
ソロモンが叫んだ。
「おかしいんだ。神剣の声が聞こえない!」
神剣には意識がある。それはソロモンも旧アストレアから聞いたことがあった。『シュテルネンハオフェン』の名もその時教えてもらったものだ。
その声が聞こえない。それがどういう状況なのかソロモンにはわからなかったが、一つだけ、断言できることがあった。
「神剣が魔術の影響を受けるわけないだろ! だったらアストレアの方に呪いかなんかがかけられてるんだよ!」
フェネクス・ポイニクスの『審判の時計』の仕業だろう。さすがは審判を名乗るだけはあるといったところか、都合よく神の剣を封じられてしまった。
アストレアが神剣で自分を斬り付ける。ソロモンの言葉を聞いて、自分にかけられた『呪い』を斬ろうとしたのだろう。だが、それで何が斬れるわけでもなかった。
「(アストレアが斬る対象の『選択』をすること自体を封じているのか……? 確かに神剣は何を斬るか定めなければなまくら同然だ)」
からくりがわかったところで、対処法が無いというのが一番の問題だった。そして、この問題を解決できなければソロモン達は負ける。なぜならば──
「おらぁっ!」
──シトリー・グリフォン、アストレアの全盛期の力を纏う彼に、勝てる者がいないからだ。
「くうっ!」
アストレアが応戦する。かろうじて耐えることができるのは勇者のなせる技か、しかし確実に押されていた。神剣は鞘にしまって、あの長くも短くも無い直剣で戦っている。
ソロモンはその間に、フェネクスにちょっかいをかけてみた。結界に閉じ込めようとしたのだ。魔力の動きを察してか、それは簡単に避けられてしまった。
「……避ける、ってことは、今はこの程度の結界を破壊する力もないってことか、クソガキ?」
「さあね」
「ああ、待て。神剣自体の力は生きてるんだよな。俺が神剣でアストレアを斬ってやれば……ってのは、さすがに無理だな」
神剣の扱いは繊細を極める。勇者の『不死』さえ貫通するソレの扱いを誤れば、アストレアが死ぬことになる。ソロモンにそんなリスクを冒す勇気はなかった。
「そうだと嬉しいな」
フェネクスはひょい、ひょいっと結界を避けながら、そう宣った。ソロモンの予想は当たっていたようだ──というより、神剣の性質上そうでなければ困るのだが。
今必要なのは人。神剣を扱える人。フェネクス・ポイニクスの『審判の時計』に対抗できる人。
いるじゃないか、とソロモンは一人に思い至った。幼い頃から勇者の家系に仕えているから神剣について知っていて、剣の腕は達人をも凌いで、それでいて、もうすぐこの場に駆けつける人物に。
「ツラトゥストラ……! さっさと来やがれ、この女たらし! 癪だが、それまで俺が時間を稼いでやる……!」
ソロモンは今にも押し負けそうなアストレアを見て、目の前で笑うフェネクスを見て、そして、とても楽しそうに蹂躙するシトリー・グリフォンを見た。
と、ここで一つの疑問が脳裏に浮かぶ。というより、当たり前のように受け入れていた不自然。不条理。不可解な事実。
つまり、フェネクス・ポイニクスはどうして一度、ソロモンを助けてくれたんだ、と。
今目の前にいるフェネクスと、最初に対シトリー戦で一緒に戦ったフェネクス。この二人の纏う雰囲気が、どうしてか違うように思われた。
「まだなにかあるんだね。僕も気を引き締めないと。我らが王、バティンのために」
奮起するソロモンの眼前で、以前と少し違う様子のフェネクスは、王の名前を呟いた。
○
城外。もう目の前に城を映して、二人は立ち止まった。一人は自分の意思で。もう一人は、連れの異変に気がついて。
「どうした、グリー……フィランソロフィ?」
一人──ツラトゥストラが尋ねる。勇敢にも一緒に行くと言ってくれた、臆病なはずの連れに。かつてはグリーディアと名乗っていた、フィランソロフィに。
「……ツラトゥストラ」
フィランソロフィは呟いた。その顔はだんだん青くなり、身体はだんだん震えだす。そうして、まるで自分自身に確認するように、繰り返す。
「あなたは、ツラトゥストラ。私は、フィランソロフィ……よね?」
「……あ、ああ。どうしたんだ、ここへきて」
ツラトゥストラは困惑した。それはあまりに突然の変化だったからだ。つい先程まで、フィランソロフィにおかしなところはなかった。
フィランソロフィが、恐る恐るといった風に尋ねる。
「……あ、あなたは、バティンを倒しに、行くのよね……?」
「ああ」
「バティンが、モラクスを裏切ったからって……千年夜城の完成を妨害するから……」
「……ああ」
何を当たり前のことを聞くのだ、という風に、ツラトゥストラは頷いた。
そうして次の瞬間、ばっ、とツラトゥストラはその場を離れた。それは信じたくない光景だったが、本能か反射か、ツラトゥストラは咄嗟にそれを避けていた。
「何をする、フィランソロフィ!」
フィランソロフィが、ツラトゥストラに斬りかかっていた。
その顔面を蒼白に、いや、いやと頭を抱えながら。
「でも、でも! だって、私たちの王はバティンでしょう……? バティンがモラクスを裏切ったからって、それが何になるの……?」
「……!? 千年夜城はモラクスにしか作れない! それをバティンが邪魔をして、それで俺は──」
「違う、違うわ。裏切り者はモラクスよ。あなた、何を言っているの……?」
フィランソロフィは赤子のように取り乱す。どうして、とか、なんで、とか、そんな言葉を吐いて、そして、ツラトゥストラを狂人かなにかを見るような目で見据えた。
それが、ツラトゥストラにはわからない。そうしてついに、フィランソロフィの手が止まることはなかった。
「……! 自分でも情緒が無いのはわかっているわ。ついさっきまではあなたを聖人だと思っていた!」
それは初耳だった。でも、泣きながら訴えるフィランソロフィを無視できる状況でもなければ、ツラトゥストラは現状について理解したかった。どうしてフィランソロフィがこんな強行に走っているのか知りたかった。
だから、ツラトゥストラは黙って話を聞くのだ。
「でも、私はそれ以上に死にたいの。千年夜城には完成してもらわないと困るの!」
「……だから、モラクスを裏切ったバティンを──」
「私たちの王は、バティンでしょう!」
そう、ここだ。ここでツラトゥストラとフィランソロフィの意見が食い違う。ここへきて、思いもよらぬ邪魔が入ってしまった。ツラトゥストラにしてみれば、アストレアが立ち直っていた以上、千年夜城にこだわる必要はない。むしろ、フィランソロフィの思いを踏みにじったから、ツラトゥストラはバティンに憤っていたのだ。
「どうしてなんだ、フィランソロフィ……!」
「あなたよ、ツラトゥストラ。バティンの邪魔をするなら、たとえあなたでも──」
ついに、フィランソロフィは『貧民の剣』を抜いた。彼女の人生を狂わせた魔剣。転じて、それほどの脅威を孕む魔剣。それを抜いたということは、フィランソロフィが本気だということ。この瞬間、彼女の言葉は冗談やなにかではなくなった。
「──たとえあなたでも、殺すわ」
ツラトゥストラは彼女の剣を避け続ける。剣を抜きすらせず、フィランソロフィに訴え続ける。だが、彼女は聞く耳を持たず、袋小路のようにツラトゥストラは追い詰められる。
「……俺には、お前を斬ることはできん」
「……そう」
打開策を。どうしてこんなことになった、と、ツラトゥストラは思考を止めなかった。
そうしてついに、無情にも、フィランソロフィの刃は振り下ろされた。




