第三十五話 子供に泣かれる
廊下に足音が響く。しかし、そこは廊下と呼ぶにはいささか広すぎる気もする。白亜の内装にこれまた白い石柱が並び、視線を足音の背後へとやれば、やはり真っ白な、巨大な扉が悠然と構えていた。
「上機嫌そうだなあ、おい」
移動する足音に話しかけるは男。その広い廊下の一角に背を預け、手も足も組んで足音の主を睥睨する。軽薄な笑みを浮かべ、左右で髪が黒と黄に分かれており、服装もまた、黄と黒とで統一されていた。
「『千年夜城』が完成する。これが喜ばしくなくてなにがあろう」それから興味なさげに目を冷たくして、「……ところで何か用か。用がないなら話しかけてくれるな」
「用ならあるぜえ? ああ、ついでにこれから用を足しに行くところだってんだが、付いてくるかい?」
「……ないのだな。失礼する」
男を放ってスタスタと歩き去ろうとするのは女。長い黒髪が右目を隠していて、冷徹がそのまま形になったような相貌だった。纏うは緑の軍服。その上に、白いマントを羽織っている。腰には剣を、脚には銀のブーツを履いていて、足音がよく響くのはこのためだった。
「……待てよ、アンドラス。冗談だってーー」
「ーーその名を、呼ぶな!」
ズサっ、と剣が引き抜かれ、男の喉元に突き付けられる。男は両手を上げて降参のポーズを取り、しかし壁にはもたれかかったまま。背筋を伸ばすようなこともなければ、腰を抜かすわけでもない。本質的に舐めているのだ、アンドラスのことを。
声だけは慌てたように振る舞うのが、なおさらアンドラスの癪にさわった。
「降参、降参だ! 悪かったよ第六席! 用ってのは、城の建設の進捗を聞きに来たんだ!」
「……なら、初めから、そう言え」
アンドラスは剣を下ろす。だか興奮怒り冷めやらぬ様子で、フー、フー、と息を整えて、それからようやく剣を鞘に納める。一歩下がって、あからさまにホッとする男を眺めた。
「……ん? なんだあ、そんなに見つめて? 溜まってんなら今晩開けといてやるぜ」
「……! お前はもっと『城六伯』としての自覚を持つべきだと思っていたところだ!」
アンドラスが剣を振るう。それを危なげなく避けてから、男は言った。
「城六伯ねえ」第一席から第六席まである、マルクス配下の幹部の総称。「それも『城』が完成するんならもう意味のねえ席次だろ。確かに俺様は強えけどよ、人を纏める器でもねえしなあ」
アンドラスは心を落ち着ける。剣をしまう。この男と話す際に興奮してはいけない。心を乱してはいけない。特になんの意味もないような言葉に、惑わされてはいけない。そもそも意味なんてものを、考えてはいけない。
「……その前に、一つ前から聞きたかったことがある」アンドラスは右手の下差し指で『一』を示して、男は小首を傾げた。「どうして自分より弱い者に従っている、『序列十二位』シトリー」
シトリーは笑った。
「あんだよ。お前だって千年夜城については知ってんだろ? 理由なんてあれだけで十分だろが」
アンドラスは思う。これは嘘だ。たとえどんなにモラクスが強大でも、それに従えば願いが叶うとしても、だからといって素直に従う『ソロモンの悪魔』などいるものか、と。
『ソロモンの悪魔』とは無力に打ちのめされて、無力ゆえに閉じ込められて、無力ゆえに強くなった皮肉な存在だ。だから皆自分に対する絶対的なまでの誇りを持っている。もう二度と無力は嫌だから、誇りを守るためならなんでもする。そんなモノなのだ、と。
これ以上この男の口から真実が話されることはないのだろうな、とアンドラスは思う。誇りを汚してまでモラクスの下につくシトリー。彼には彼の目的があって、恐らくそれは『千年夜城』の完成と共に達成される目的だろうから、今それをアンドラスにバラしては邪魔されるかもしれないから。
このタイミングでさえ話さないということは、そういうことなのだ。アンドラスはそう見切りをつけて、会話を切り上げることにした。
「……そうか。千年夜城はもうじき完成するそうだ。もうすぐで、千年が経つのだ。モラクス様がここに城を建設なされてから」
「おう、それが聞けりゃ十分だ。それじゃな。発散したくなったらいつでも言えよ」
「誰が言うか!」
分かれ道で二人は別れた。シトリーは右へ、アンドラスは左へ。それぞれ先に自室があるのだ。城六伯の自室といえば、機密の宝庫である。彼らは互いに不可侵を貫いているので、そう言う点から見ても、アンドラスがシトリーを求めることはあり得ない。
「……相変わらず、まともに別れの挨拶もできないんだねえ、シトリーは」
そんな様子を高みから眺めるのは一人の女だった。屋根の上。ロール巻きの髪は金髪で、そのくせに顔立ちは整ってこそいるが粗暴。アンドラスと同じ格好。しかし軍服の裾を出しているせいで、風に煽られてはヘソが見え隠れし、マントも右肩にかけているだけ。更には葉巻まで咥えていた。
不真面目を絵に書いたような、横暴。だが、その外観に無頓着なところが、いやに煽情的だった。
「返事くらいしなさいよ。あなたもシトリーと同類ってこと?」
「……話しかけてるのか独り言なのか、わかりづらいんだ、お前は」ひとしきり悪態をついて、「……同類かどうか断言できるほど、俺はシトリーのことを知らない」
律儀に質問にも答えるは少年。色素が薄く、髪は灰色。この世の全てを呪っているような酷い目つきをしていた。左頬には古傷が一本斜めに入り、それだけが幼い少年に、兵士という印象を加えていた。同じく屋根の上に、あぐらを組んで、右手に体重をかけて、座っていた。
女が笑う。
「知るも知らぬも、見たまんまじゃないあいつ」
「……見たまんまかどうかも、よく知らねば判断できぬだろう」
「そういうもんか。まあ、あんたは城六伯の中で唯一ソロモンの悪魔じゃないしねえ」
少年はその言葉に眉をしかめて、組んでいた腕の力を抜いて呆れたように肩をすくめた。
「お前だって自称じゃないか。大体、ソロモンの悪魔が六体も一箇所にいるというのが疑わしい。何体か偽物がいたところで、俺は驚かん」
「あら、辛辣。でも、それを可能にする器があるってことよ、『序列二十一位』モラクスは。正確には千年夜城は」
それにね、と女は葉巻を咥え直す。口調に似合わず無作法に足を開いて、膝の上に手をだらりとかけて屋根の上に座ったまま、女は言う。
「私からすれば軽々に名を明かしてる方が不思議だわ。『ソロモンの悪魔』が敵にならない保証なんてあるのかしら」
つまり、情報が漏れるのではないか、と。結界の中で共に六百年過ごしたのだ。互いの手の内を知り、知られていることなんかザラだ。だから女は名を隠す。偽名を名乗るのみである。
「……皆、バレても問題ないと思っているのだろう。名を知られ、弱点を、手の内を知られたところで、自分が負けるハズはないと。往々にして悪魔というのは自信過剰なものだ」
少年が立ち上がる。彼も自室に戻るつもりなのだ。
「……それもそうね。あーあ、じゃあなに、私は臆病者ってこと?」
「臆病は美徳だよ。普通の悪魔に持ちえぬものを持っているという点では、俺はグリーディアは優れていると思う」
グリーディアと呼ばれた女は、少年の下手な慰め方に笑った。
「私が臆病なことは否定しないのね」
○
ところ変わって魔界と現界との境界あたり、魔界より。ソロモンらが魔界で入った最初の町。そこで思い思いに買い物をするローブ姿は全部で四つあった。二つずつ、二箇所にわかれている。
『儂は用事があるが、お主らは今日は自由行動じゃ。適当に羽根を伸ばせい』
今朝、朝食を食べる折にダンタリオンがそう言った。羽根を伸ばす、と言うが、情報収集が主であろう。であれば二手、三手に分かれた方がいい。魔界の言葉が分かるのはアストレアとシストだけだったので、ソロモンとブラズはそのどちらかと一緒に行くことになるのだが、ここでシストがソロモンに話しかけた。
「ねえ、ソロモン。一緒に行かない?」
ソロモンとしてはアストレアと一緒に行きたかったのだが、シストの意味ありげな視線に絆されて現在に至る。シスト。小人族の姉弟の姉の方。冥界の女王にして、生き霊。彼女はソロモンに大きな借りがあれば、ソロモンもまた、シストに大きな借りがある。
結局ソロモンとシスト、アストレアとブラズが共に行動することになった。といっても夜には帰らなければならないので、周辺をうろつく程度になるだろう。ダンタリオンには何か考えがあるらしいから、これは形だけ役割を与えてやるから邪魔をするなということなんだろうな、とソロモンは思う。
「……それで、話ってなんだよ」
いくつか買い物を済ませた頃だった。シストが買った野菜なんかをソロモンが持ってやる。感謝しながらこれを手渡して、シストはにっこり笑った。
「話があるなんて言った?」
「いや、言ってないけど……」
いじけるソロモンは話を切り上げることにした。頭をぽりぽりとかいて前をむく。なにが面白かったのか、シストはそんなソロモンの様子を見て笑い出した。
「あはは。ソロモンが拗ねるなんて珍しいねえ」
「拗ねてねえよ……ん?」
その時だった。ソロモンのローブの裾が何者かにひかれる。シストはソロモンの隣を歩いていれば、じゃあ、誰がそんなことをする?
「……あ」
子供だった。心細さを感じさせる呟きはソロモンと目が合った時に溢されたもので、ソロモンらと同じようなフード付きローブを纏っている。裾を持っていない手でフードを少し上げて、ソロモンらに緑の淡い髪と、人間の顔を見せびらかす。
「……人間?」
子供。女か男か、中性的な顔立ちだった。それはだんだんと涙ぐみ、ひく、ひくと痙攣し始め、やがて大きな声をあげて泣き出した。
「うわあああーー!!」
「ーーおい、待て止めろ! 今すぐ泣きやめこのクソガキが!」
周りの目が厳しい。腰くらいまでしか背丈のない子供を泣かせるフードを被った怪しい男女。ソロモンらは慌ててその場を後にした。




