第三十一話 アストレアはもう思い悩まない
どこからか魔術が飛んでくる。それがどんな魔術かはわからない。漠然と、巨大な魔力の塊が飛んでくるのが、蛇人の目にはしっかりと見える。きっと、まともに当たればさぞ甚大な被害をもたらされるであろう、『ソロモンの悪魔』の魔術。
だが、そんなものは神剣の前には無意味だった。
アストレアが剣を振るう。どんな魔術かも分からぬままに、その魔力の塊は掻き消えた。そこか、と魔術の飛んできた方向に駆け出すアストレアは、次の瞬間、背中を斬られている。
「こ、ん……のっ!」
振り返りながらアストレアは自分の背中のあたりを斬ろうとするが、その時には既に襲撃者はいなくなっている。『勇者の不死』があるため傷はすぐに癒えるが、敵を捕捉できない苛立ちは募る。と、またも魔術、いや、魔力の塊が飛んでくる。今度は右方向から。
「くそっ」
アストレアはそれを斬り捨てる他ない。そうして今度は全神経を集中して敵を捕捉しようとするが、そうすると、セーレは現れない。何十秒も集中し続けて、諦めて、帝都に戻ってアモンの加勢をしようとそちらに意識を向けた瞬間、またも背中に刀傷をつけられる。すぐさま背後へ剣を向けるが、やはりそこにセーレはいない。
「くっ」
そして、また、どこからか魔術が飛んでくる。
どれだけの刻が過ぎ去っただろうか。何度もこのやりとりが繰り返されていた。おちょくるように、セーレはアストレアに効きもしない魔術を放って、隙をついて斬りつける。それも必ず、背中を斬りつけるのだ。寸分狂わず同じ場所を。まるで、彼我の実力差を見せつけるように。
いや、実力差という意味では、決してアストレアが負けることはないだろう。セーレには勇者の不死を突破する方法がないのか、はたまたしないのか、いまだアストレアに致命傷は入っていない。しかし、アストレアもまた、セーレを補足することができない。
均衡状態。だから、アストレアの完敗なのだ。セーレはアモンとアマイモンの一対一を作ることが目的で、アストレアはこの状況を打開したいのだから。
「……っ」
またも全神経を集中する。蛇人の目を、勇者の知覚を、神剣の加護を、そのあまねくを使って、セーレを捉えようとする。セーレが出てこなくても構わない。ただ、こうしている間に、考える時間ができる。肉体の集中と思考とを切り離す方法は、先代勇者こと父に骨の髄まで叩き込まれていた。
さて、思考の時間である。そうすると、嫌でも脳裏をよぎる考えがあった。それは容赦なく、加減なくアストレアの誇りを汚す。脳裏を犯す。思考を止める。
ああ、ハルファスなら、父なら、歴代勇者ならこの状況をどうするのだろう、と。
劣等感に、苛まれる。
「ぐうっ……」
またも、背中を、斬られた。父の叱る声が聞こえる。その程度で集中を乱すな。いらぬことを考えるなと。ハルファスの冷めた目が見える。そんなにも楽しそうな戦いをしてるのに、なんて様なんだと。そうして、神剣の呆れた声が木霊する。ほら、どうしてソレを斬らないのだ、と。
声に従い、アストレアは背後を斬り付ける。しかしそこに既にセーレはおらず、またも神剣の落胆したため息が聞こえる。はあ、これだから今代勇者は、と。
アストレアの心に、ひびが入る。
勇者なんてやめたい。ハルファスに代わりたい。父に死んでほしくなかった。どうして私より強い剣士がいない。死人の声が聞こえる。どうして助けてくれなかった。どうしてセーレを捉えられない。ああ、どうして私は、こんなにも弱い。
「……しっかりせんか、小童」
神剣の叱る声が、聞こえた気がした。
神剣の叱る声が聞こえた気がした?
気がしただけだ。虫の知らせ。しかし、その声はいやにはっきりと聞こえて、そして、父の声とも違う。他の誰でもない。また、その幼い少女の声が、神剣の声だと、どうしてかアストレアにはすぐに分かった。
「……え?」
気付けばアストレアは草原にいた。アストレアは仰向けに寝転がっている。ここは小高い丘の上で、あたり一面に草っぱが生い茂っていて、そして、遠くには、ばかみたいに大きい大樹が見えた。
「いつまでそうしておるつもりじゃ」
こてん、と頭を蹴られた。見上げればそこにいるのは年端もいかない幼女である。おそらく歳は十もいっていない。画家の被るような真っ赤などんぐりみたいな帽子を被って、目は白目の多い三白眼。鼻も口も小さく、その小さな口の奥には八重歯が見えた。真っ赤な髪を、肩口で切り揃えている。
「いつまでそうしとるんじゃと言っとろうが!」
今度はさっきよりも強い力で頭の後ろを蹴り上げられて、アストレアは無理矢理に立たされる。目の前にしてみると、やはり背丈の小ささが目立つ。アストレアの腰ほどまでしか無かった。
だが、どうしてかアストレアには、その幼い少女が神剣であるということが、分かった。
「……シュテルネンハオフェン?」
八重歯の幼女こと神剣は、深く深く、ため息をついた。
「違う。じゃが、儂は、神剣じゃ」
困惑の表情を浮かべるアストレアに対して神剣はがしがしと頭をかいて、赤子に説明するように改まって、やはりため息をついて、話し出す。
「儂は神剣で、そしてここは儂の中、現世と隔絶された──厳密には違うが──空間。そこまでは正しい。じゃが、儂はシュテルネンハオフェンではない」
「……?」
「シュテルネンハオフェンは第三代勇者の神剣じゃ。もう何年も前に引退しておる」
「……! 神剣にも代替わりがあるのか……! それでは、君の名前は一体……?」
驚愕するアストレアに、しかし、神剣は答えない。
「教えぬ。教えぬ教えぬ教えぬ!」駄々っ子のようにそう言って、「儂はお前みたいな奴が一番嫌いなんじゃ! じゃから勇者に就任した時も出てきてやらんかったし、それが一向に改善されんようじゃから、これからも会ってやるつもりはなかった! じゃが──」
神剣はアストレアにどこからか取り出した剣を放る。そして、自分もやはりどこからか取り出した神剣を、構える。
「──もう、面倒じゃから、これで終わらすことにした」
「……!?」
「……構えい。神剣の効果の前に勇者の不死がかなうと思うまいよ。本気でやらねば──」
幼女が駆ける。そうして剣を振りかぶり、アストレアに斬りかかる。アストレアは咄嗟にもらった剣で防ごうとするが、ただの剣で神剣を止められるわけもなし。剣ごと左腕を斬り飛ばされる。
「──死ぬぞ」
どくどくと血を流し続ける左腕は、一向に回復する気配がなかった。
○
アストレアは必死に逃げ続ける。神剣を防ぐ術はない。防御不可能。回復すらもさせてもらえない、圧倒的な攻撃力。神剣とはそんな理不尽であるからして、アストレアはそれを躱す他ない。もらった剣も左腕と一緒に折られてしまったし、反撃することすらできない。
「儂程度を屈服させることもできんのか、このたわけが! 貴様はそれでも当代最強の剣士か!」
そんなことを言われても、アストレアにはどうすることもできない。自分がどれだけ凶悪な武器を担いでいたかを改めて実感する。そうして、そんな強力な武器をもってしても、ソロモンの悪魔一匹倒すことのできなかった自分に辟易する。
「ああ、またじゃ! お主のそういうところが、儂は大嫌いなんじゃ!」
どうやらこの神剣、心が読めるらしい。それともここが神剣の中だからか。だがそんなことはどうでもいいと、アストレアは剣撃を躱し続ける。神剣は決して剣の扱いに拙いわけではない。どころか達人の域にある。いかにアストレアといえどそれを避け続けることはできず、刀傷はどんどんと増えていく。
どうにか折れた剣で反撃しようと試みる。が、それを神剣で弾かれてしまい、そうなるとまたも刀身は短くなる。攻撃した方が剣を折られるってどういうことだ、とアストレアはたまらず後退するが、それを逃す神剣ではない。すかさず距離を詰めて、至近距離で剣を振り回す。
「くっ……」
アストレアは避ける。そこは勇者、圧倒的な体捌きと足運びで、どうにかその窮地を脱することに成功する。
ずざざ、と足を滑らせて静止して、アストレアは神剣に向き直る。逃げてばかりのアストレアに、神剣は顔をしかめて怒鳴った。
「その程度か、今代勇者は!」
たまらずアストレアは叫び返した。
「無理だ、勝てない! こんな剣じゃあ勝てっこないだろう!」
「……こんな剣?」
神剣は呆れたように、しかしやはり苛立ったような口調のまま、顎でアストレアの獲物を示す。
「お主のそれも神剣じゃろうが」
「……!?」
アストレアは自分の右腕を見る。右手を見る。そして、その先に握られている、もう刀身は十五センチ程になってしまった剣を見る。右手を開いて、その剣の柄の部分をよく見てみる。
「あ、ああ……」
それは、確かに、神剣に他ならなかった。
「あああああ……!!」
「ふん」
幼女が襲いかかる。折れた刀身で、しかし今度は自信とともに、アストレアはそれを迎え撃った。剣戟の音が響き渡る。どうにか、剣を打ち鳴らすことができている。剣を折られることがない。
「……っ!!」
そうして遂に、アストレアは幼女こと神剣を押し返すことに成功した。隙を見せた神剣の喉元を掻っ斬ろうとして、たまらず神剣が後退したのだ。神剣は肩に自分の獲物を担いで、自慢げに言う。
「どうじゃ。すごいじゃろ、儂は」
「……ああ」
「それに比べてお主はどうじゃ。卑屈に、悲壮に、嫉妬深く、そのくせ見えっ張り。いつも周りに助けられてばかりで、自分一人では何もできない」
アストレアは返す言葉がなくて、黙り込む。下を向く。俯く。剣を握る手の力が入らなくなる。もういっそ、殺してくれと思う。ああ父よ、ハルファスよ、と。どうか勇者の責務を代わってくれと請い願う。
その姿をやはり睨み付けて、神剣は静かに言った。
「……と、思い込んでいる」
「……?」
神剣がまたもアストレアに襲いかかった。対応しようとするがアストレアは剣を取り落としてしまい、慌てて幼女の剣を避けざまにしゃがみ込んで自身の剣を拾う。拾いながら足を払って幼女を転ばし、その勢いのままに立ち上がる。
転ばされた神剣は剣を握っていない左手で受け身を取り、その体制のままアストレアの剣を受け流す。返す刀でアストレアの顔を狙う。
スパァン、と。血が、舞った。
神剣の右腕が、斬り飛ばされたものだった。
右腕が舞いに舞い、はるか後方にぼとりと落ちる。それに握られたままの剣もしかり。既に武器をなくした幼女には反撃する術がない。そのまま仰向けに寝転がって、神剣はくはは、と笑い出した。
「あーあ、負けてしもうた」
「……」
ひとしきり笑って、神剣は言う。
「折れた刀で儂を倒す。それでどうして卑屈になれる」
「それは……」
「助け得ぬ数多の命のためか。ソロモン・ディビルズの活躍のためか。自らの出自のためか。それとも、それがお主の元来の性なのか」
そうして、笑みは鳴りを潜めて、真剣な顔で、その幼女は断言した。
「……お主は、じゃから、強くなれる」
「……!」
「卑屈になれるということは、自分を省みれるということじゃ。自分に満足ができぬということじゃ」神剣は、穏やかに笑った。「まさしく、無限の時を持つ勇者にふさわしい」
神剣の身体が光り出す。と同時に、この世界もまた、端から端から光の粒子になっていく。終わりが近づいているのだ。それを悟ったアストレアは、消え続ける神剣に向き直る。
「……名も知らぬ、神剣よ。どうもあり──」
「礼は言うな!」
が、その言葉は神剣自身に遮られた。
「儂は、儂より強い奴が嫌いなんじゃ。そのくせお主は、まだ卑屈であろうとしておる。じゃから、礼を言うくらいなら、もっともっと強くなれ。そして、儂も高みに連れて行け」
「……」
「……ふん。一度しか言わぬぞ。覚えておけよ。我が名は──」
そうして、凄まじいまでの光と共に、その世界は姿を消した。
○
「はっ」
アストレアは素早く状況を確認する。背中の傷が癒えていない。斬られた直後。どうやら、あの世界にいる間に時間は進んでいないらしい。便利な能力だな、とアストレアは思って、背後を斬りつける。やはりそこにセーレはいない。
それに落胆することはない。アストレアの心は澄んでいた。まるで何もかもが自分の味方になったように、世界が自分を祝福しているのを感じる。そうして、だからこそわかるこの場所の異質さも。
「……なるほど。この世界そのものが、貴殿の能力だったわけか」
恐らくは、一番最初に転移させられた時。イグシルが知っている場所だったから、てっきりここが現実であるかのように感じていたが、あの時に世界ごと転移させられていたのだ。恐らくはセーレの創り変えた、彼女の都合の良い世界に。あの時はまだ神剣に魔力を通わせていなかったから、アストレアを連れ去ることも可能である。
だから、アストレアはここにいては決してセーレを補足することはできないし、恐らくは攻撃を与えることも不可能だろう。だが、そんなことは関係ない。
「行くぞ、壊し尽くせ──」
アストレアが、神剣を何もない空中に振りかぶる。
脳裏によぎる者は多い。父が、ハルファスが、ソロモンが、ツラトゥストラが。アストレアを支持してくれた老年の師範や、アストレアを非難した父に心酔していた弟子が。
そして。
「──神剣エンハンブル!!」
私の愛しい神の剣。
剣を振り下ろした直後、世界に亀裂が走った。
ぴき、ぴきぴき、ぴき。どんどんと亀裂は大きくなり、そして、いつのまにか目の前にはセーレが立ち尽くす。気付いたとしてもどうすることもできなかったのだろう。全ての魔術を壊し尽くす神剣を止めることなど。
「……貴様……」
「すまない、セーレ殿。お待たせしてしまったな」
パリン、と、完全に世界が割れた。放り出されるは最初にいた場所で、周りを見るとイグシルとソロモンも一緒に放り出されている。そうして、そこではアモンとアマイモンとが戦っているはずでーー
「ーーえ?」
それが誰の困惑の声か、アストレアではないことは確かだ。イグシルか、ソロモンか、それともセーレか。血だらけで結界に閉じ込められるアモン。それを治療しているブラズに、治療を見守るお嬢さん。そんなものよりも、信じがたい光景が広がっていた。
すなわち、跪く、満身創痍の姿のアマイモン。
そして、その目の前に佇むは、仁王立ちに邪悪に微笑むシストであった。




