第十九話 臥薪嘗胆する(2)
それを見て、すごい、とは思わなかった。
レラージェ・フォーテは最初の一時間何をしていたかというと、森の把握を主にしていたと思う。場所を指定した当人であるイグシルはそんな必要もないので罠を張っていたが、アストレアから目を離せなかった関係でそれらを悟られていたか、仕込みをことごとく潰していくレラージェを、イグシルはそんな冷たい瞳で観察していた。
もともと、アストレアを介して互いを監視できるようにするというのは、イグシルなりのハンデだった。こうでもしなければ、あまりに一方的になってしまうと思った。だから、一時間という時間を設けるのをイグシルが望んだ、というのは少し思い違いがすぎる。レラージェの目を掻い潜って森を動き回ることなど容易だからだ。
ふと、レラージェがイグシルの仕込みをひと段落つけたところで、あたりを見回した。イグシルは咄嗟にそれにならい、『負け筋』を探す。
森の巡回の成果はこれか、と納得した。
レラージェが弓矢を頭上に番える。図っていたのだろう、そこは森の中では少し開けた場所だった。すっ、と音もなく放たれた矢はかなりの高度に達し、推進力と重力とが釣り合い、静止する。
「『流星矢』」
そのつぶやきを聞こえるほどの余裕が、イグシルにはあった。
静止していた矢はまたも音もなく弾け、最初の弓矢を始点に円形に何十本にもわかれ、またも重力に従い、落下する。矢の軌跡でドーム状の檻が形成されるような形だ。その数はこの辺り一帯を覆い尽くすほどで、とても避けられそうにはなかった。無事でいられる威力とも思えなかった。
安全地帯は、始点の真下であるレラージェの傍のみ。
イグシルは迷わず白兵戦を選択した。もとよりイグシルの斥候技術は対人戦闘において決定打になり得ないことなど承知している。イグシルはそれらを相手の手の内を明かすもの、また嫌がらせの意味を持った精神攻撃と割り切っていた。だから、ここで迷わず懐に潜り込める。
待ってました、とレラージェが構える。
白兵戦。弓術士のレラージェがそれに誘い込むのは不自然だろうか、いや、不思議なことではない。
白兵戦とはいっても、斬り結ぶわけではないのだ。イグシルはレラージェの『流星矢』のせいで弓矢が落ちてくるまでにレラージェ付近の安全地帯に入りきらねばならず、その隙がレラージェにとって絶好の好機となる。つまり、レラージェがカバーしなければならない範囲が今この瞬間だけ、極端に狭まっている。
この真っ向勝負を制した方が、勝者だ。イグシルは全霊を集中させた。
勝負は、一瞬だった。終わってしまえば呆気なかった。
レラージェは動き出したイグシルの気配を察して、安全地帯内をイグシルと反対方向に動いた。射線を確保するためだ。そこで、これ見よがしに矢を引く。そこは雑に作られたものではあったが、紛れもなく死地だった。イグシルは、どうあがいてもそこに飛び込まねばならない。
弓では、敵わない。それは遥か昔の決闘でも、今この瞬間もイグシルが感じていることだった。だからイグシルは短剣を構えて、無造作に歩き出す。
イグシルが安全地帯に入る直前あたりで、レラージェが矢を射った。この矢が自分に当たるまで、あとコンマ数秒。『流星矢』が着弾するまで、あと三秒。
だから、イグシルは上に飛んだ。くるり、と捻りを入れた後方一回転。『流星矢』は、着地してから避けても十分回避できる。上からの攻撃で、レラージェはイグシルの行動を制限しているのだ。この状況で上への回避は予期してないだろう、という意味を込めた選択だった。
なんと、安易な選択だったろう。レラージェがにやり、と口角を上げた。
「『散矢』」
空中で身動きの取れないイグシルの眼の前で、矢が弾けた。まるで散弾銃のように、何十個の木の破片、石の破片がイグシルに襲いかかった。ああ、どうしてこんなことすら予想できなかったのだろう。『流星矢』を既に見ていたのに。射ったのちに矢を操作することができるのは、知っていたのに。
そんなことを、しかし後悔することなく思って、イグシルは懐から一丁の拳銃を取り出した。
先ほど、爆ぜた矢を『散弾銃のように』と形容したのを覚えているだろうか。
喩えられるということは、その存在を知っているということだ。
バン、と無造作にイグシルは引き金を引いた。空中で、頭を下にして、両手で拳銃を構えて、片目を瞑って。それは世にも珍しい、散弾拳銃だった。放たれた散弾はあろうことか、今にもイグシルを射止めんとしていた数多の破片を、一つ残らず落とした。神業だった。
「ハハ」
レラージェが乾いた笑い声をあげて顔を強張らせ、次の矢を構えた。
そう、まだ終わってはいない。着地して、まずは『流星矢』を避けなければならない。イグシルは残り少しの距離を移動して、まず安全地帯内に入った。その時にはもう、レラージェは矢を構え終わっている。
先ほどは、避けてから反撃しようとしていた。矢を受けてしまってはそれだけ反撃が遅れ、次矢を構える時間を与えてしまうからだ。避けるのならば距離は遠い方がいい、また上への回避を悟られないために、安全地帯外で相手取った。それが今は安全地帯内。距離が近くなったため、純粋に反応が難しくなっている。
どん、と凄まじい音がした。『流星矢』が着弾したのだ。それとほぼ同時に、レラージェが矢を射った。イグシルは隕石の落下にも思えるその着弾音に、微塵も気を払っていなかった。
それが、いけなかった。
たまたまだった。『流星矢』によって破壊された木の破片が、こつん、とイグシルの頭を打った。まるで威力はなかった。ぽんと置かれただけと言ってもいい。がしかし、紛れもなくそれは視覚外からの奇襲だった。イグシルの極限の集中が、鋭敏な感覚が牙を剥いた。
矢はもう、放たれている。あとはその矢を爆散させるだけで、イグシルは無数の礫に襲われる。レラージェは一度は強張らせた顔にもう一度笑みを浮かべ、呟いた。
「『散矢――……え?」
気付けば、レラージェは大樹に埋まっていた。
今まで気付かなかったのが滑稽なほど、存在感を放つ大樹だった。高さは自分の十倍はくだらない。横幅も大人が五人は手を回せただろう。そんな大樹の中ほどに、レラージェはいつのまにか埋め込まれていた。
「え?」
「ようやく隙を見せたか」
しわがれた声で、イグシルはレラージェの眼前に立った。レラージェは手足を大樹に埋め込まれているので、矢を構えるどころか、身動きすら取れない。
「そこまで!」
遠くから見ていたアストレアがいつのまにか近寄ってきて、そう言った。それと同時に、レラージェが魔力を練って、力を込めて大樹を突き破った。それを見てソロモンが「わあ」と感嘆の声をあげる。その膂力は素直に羨ましかったのだ。
「レラージェ殿。あなたの戦闘不能時間は十三秒ありました。ご理解していただけますね?」
「……ああ」
悔しそうに、レラージェはどかん、とその場にあぐらをかいた。頬杖をついたかと思えば、手をそわそわと動かし、今度は髪をがしがしと搔き上げる。
「……だがしかし、解せん! なあ、イグシル、最後のあれを説明してはくれんか?」
これに、踵を返そうとしていたイグシルがレラージェの方を向いて、「これのことか?」と言った。その手には、一本の矢が握られていた。
「ーーな!?」
レラージェの驚きは、確かに発動した魔術によって爆ぜたはずの弓が、原型を保っていることへのものだった。それに対して、イグシルが回答を続ける。
「俺の奥の手でな、相手が発動しようとした魔術の魔力を利用して、大樹に相手を埋め込むのだ」
ソロモンがなるほど、と呟いた。遥か太古の戦いで、ソロモンが大樹に閉じ込められたのはいい。だが、その直前に発動しようとしていた大魔術がキャンセルされてしまったことは、不可解だったのだ。
「先ほど弓矢に当てた銃弾は溶けなかった。腐敗の魔術と、破裂の魔術。任意にどちらかを選択しているのだろうと当たりをつけた。ならば、破裂を封じてしまえば捌くのは容易い」
イグシルが矢を持った手をひらひらと振りながら言う。「ただの弓矢だしな」
「『流星矢』で爆ぜた木の破片に気付かず、当たったのは?」
「……あまり誇るほどのことでもないが、わざとだ。あそこで俺が対応できそうであれば、仕切り直される恐れがあった。それに、お前にもまだ見せてない手があるだろう?」
「……ぐむぅ」
レラージェも破裂が発動しなかったことが気がかりだったのだろう。その上、見事フェイントにも引っかかっていたという。なされた説明にうめき声をあげて、レラージェは難しい顔で腕を組む。
「完敗だ、完敗! 今夜は飲ませてもらうぞ!」
悔しそうに、しかしどこか嬉しそうに、レラージェは喚いた。一千年、虚ろに過ごしてきたところに、念願の再戦。それが思っていたよりも充実したものだった上で、完敗した。その心情はソロモンにもよくわかった。
「よし、じゃあ乾杯するか!」
景気を上げようとそう呟いたソロモンに、アストレアも頷く。レラージェは立ち上がり、イグシルは弓矢を返して、そうして、帝都でもメインイベントは終わったのだった。
臥薪嘗胆(ただし失敗)




