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イザナイガタリ  作者: A峰
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怪異を誘う。

「聰明と落ち合う手筈が整ったぜ」

 CELIAの二階から階下の店舗へと首を覗かせた無明は、開口一番に告げた。珈琲豆を挽いていた手を止めて、何かを思案するような空白を挟んでから真知はエプロンを脱ぐ。

「場所と日時は?」

「港の集積場。今夜、丑三つ時だ」

「……急だな」

 カウンターから身を乗り出して、真知はうたた寝する美玖の肩を揺すった。身軽な猫か、器用な鸚哥(いんこ)のように背もたれのない椅子の上で膝を抱えて、彼女は夢を視ている。外側からの刺激によって意識は覚醒しそうになるが、呻くだけで目を開けようとはしない。

「意外だな。怪異殺しがこんなに子供っぽい奴だったなんて」

「まあ、先輩は成長が止まっているからね。実際、子供なんだよ。どれだけ精神が先行したところで、成熟したところで――。そういう意味ではキミも同類なんじゃないのか?」

「俺の場合はどれだけ成長が進んでいるのかも分からない感じだしな。でも、何にだってなれるぜ? 大人でも子供でも、人間でも畜生でも、それこそ原型を忘れちまうくらい」

 もうすでに忘れているだろうと返そうと思ったが、口を噤んでおく。もしかすれば、思考螺旋を使えば無明のオリジナルも探り当てられるかもしれないが、そこまで親密というわけではない。世話を焼いてやる義理はなく、彼にしても押しつけがましいと拒否するだけだろう。

「それより、聰明に引き合わせたら本当に自由にしてくれるんだろうな」

「心配するな、反故にはしない。聰明の影に怯えて、せいぜい逃げ続けることだな」

「心配なんてしてねえよ、そのための変幻自在(かいい)だからな」

 互いを睨め付けるように瞳を交錯させ、先に真知が目を逸らした。美玖を起こす作業へと戻る。かなり荒々しく肩を揺すっているというのに目覚めの兆候は見えず、ううんだとか、んにゃあだとか間抜けな呻き声が漏れてくるだけだ。本当に子供っぽいのだからと微笑ましくなる。それは僅か十歳のときの物語だ。髙田美玖という少女が誤って父親を殺してしまい、呵責の念から、罪の意識から父親を生き返らせたいと願ったのは。

 真知はそっと瞳を持ち上げて、本棚の左端に忍ばせるように収納した本を見つめる。彼の著作。怪異を綴った、怪異譚の遍歴書。あれを美玖が読もうとしたことはない。あの本の中には――美玖が登場する。彼女をモデルとした怪異譚が収められている。みづほは勘づいているかもしれない。物語に登場する少女の境遇が、あまりにも美玖と酷似していることに。

 だが、真知の前で眠る少女は、物語の中の少女と違って活字を好まない。悲しいと思うことはなく、仮に彼女が活字中毒者であったなら、この関係は長続きしなかっただろう。

 歪められていることに、食い違っていることに感謝する。

 上半身を折り曲げて美玖の耳朶まで唇を近付けると、そっと吐息を吹きかけた。ふぅー。耳朶をくすぐるそよ風にあてられて、美玖の体がぴくりと震えた。唇が少しだけ引き締められ、目元がぷるぷると震える。真知はいたずらっぽく笑い、長く伸ばされた美玖のもみあげを指で寄せた。ふっくらとした頬が現れ、真知は人差し指を伸ばすと指先を押し付けた。

 彼女の頬は低反発で、柔らかい。

「あのさ、普通に起こせばいいんじゃないか?」

 無明が介入する。真知は興醒めしたように顔を上げた。

「別にいいだろう?」

「イケメンと美少女がいちゃついてるのを見ると、こう、むず痒くなるんだよ」

「その辺りの耐性がないのは意外だな。そういう人間にもなってきたんじゃないのか?」

「少しくらいは否定しろってんだ。いやな、あんまりそういう人種になろうとしたことはないな。整えたとしても二枚目、今みたいに三枚目からそれ以下ってのが大概だよ」

「美の追求は人間の性分だろう? それはまたどうしてだ?」

 むふぅとだんご鼻を膨らませると無明は肩を竦めた。

「整えすぎるとな、偽物だってばれやすくなるんだよ」

 そうして無明は顔を引っ込め、夜に備えて俺は寝るぜとだけ声が聞こえた。

「あいつ、居座るつもりじゃないだろうな」

 当初に比べて傍若無人に振る舞い始めたことに危惧を募らせたところで、

「案外、居心地がいいんじゃないの? 今まで一人だったんでしょう?」

 むくりと美玖が顔を上げた。

「…………おはよう」

「おはよう、真知」

「確認のために聞かせて欲しいんだけど、いつから起きてた?」

「そうねぇ」

 美玖はもったいぶるようにアンニュイな表情を浮かべ、反転して無邪気に前歯を覗かせると手のひらを突き出して、真知の額を指で弾いた。デコピン。そんな可愛らしい呼称に似合うことなく、真知は背後の壁まで吹き飛ばされた。

「寝込みを襲うくらいなら起きてるときにやってきなさい」

「……悪かったけど、自分の体が常人を凌駕していることは自覚してくれないかな」

「ちゃんと手加減したわよ。お店を壊さないくらいには」

「僕の躰は壊れそうだけどね」

 首筋を軽く痛めたのか擦りつつ、美玖の隣に顔を並ばせた。

「今夜だってさ。港の集積場に、秋槻聰明は現れる」

「ちゃんと本人が来るかしら?」

「さあな。聰明がどこまで用心深いかによるだろう」

「悩んでも仕方ない、か。真知も少しだけ休んでおく? 今夜は長くなりそうよ」

「知ってるだろ? 僕は休養なんてものに縛られてないって」

 美玖の目が僅かに伏せられる。そうだったわね。薄桃色の唇が寂しそうに言葉を紡いだ。

 淹れたての珈琲をゆっくりと飲みながら時間を食いつぶし、日付を跨いでから起きてきた無明を引き連れ、一同は港へ向かった。



 刻津(ときつ)。東洋の島国を形成する地方都市のひとつであるこの町は、海洋交易の拠点として発展してきた。海に面した町は巨大な運河によって二分され、近代的発展を遂げた東地区と、明治の姿を受け継いだ西地区となる。人口はおよそ八十万。戦後の復興時に最盛期を迎えた町は徐々に居住者を増やしていき、当時の倍に膨れ上がることで今に至る。

 こうした表向きの発展とは別に、怪異に係る視点からも刻津は特筆に値する。簡潔に言えば、刻津は怪異譚のホットスポットだ。それも、他に類を見ないほどに巨大な。

 病院、神社、祠、学校、事故現場。怪異譚のホットスポットは特定の土地や建造物、座標に出現することが通常である。どれほど大きなものになろうとも、町の構成単位として見れば非常に小さなものであることが常だった。それが、非常識な怪異譚の世界での常識だった。

 それにもかかわらず、この町は全土がホットスポットに包括される。いつから町全体がホットスポットとして機能し始めたのか、その発端となる奇譚、事故、災害、現象が何であったのか把握している人物はいない。筒井崕ゆり子。あまねく怪異譚を蒐集し、世界の調停と縫合に携わる彼女ならば紐解いているかもしれないが、それを訊ねた者はいない。

 ホットスポットがホットスポットとして現在も機能していること。ただ、この一点のみが重要であり、着目すべきことである。美玖のように怪異を退治する者にとって、無明のように怪異を売買する者にとって、ゆり子のように怪異を探求する者にとって。

 みづほのように、怪異に翻弄される者にとっても。

 運河の両岸を結ぶ鉄橋を渡れば、集積場は目と鼻の先だ。港には油槽船と貨物船が停泊しており、集積場には様々にカラーリングされたコンテナが並べられている。港の東では貨物の積み降ろしが昼夜を問わず行われており、若干の騒々しさが伝わってくる。ぐるぐると回り続ける灯台の光によって、港は端から端までが周期的に照らされていた。

 フェンスを飛び越えて――そのような膂力を持たない真知は美玖に投げ飛ばされた――侵入を果たす。人目を避けるためにコンテナ群の間を進み、秋槻聰明に指定されたという場所、集積場の第八区画に着く。聰明の姿はまだ見られなかった。

 無明だけを先に行かせ、美玖と真知はコンテナの陰に身を潜めた。頭上を通り過ぎる灯台の光以外に光源はなく、辺りは月明かりによってうっすらと浮かび上がる程度だった。第八区画であることを示す「8」の字の白線上に無明が立ったとき、不意に声が響いた。

「諸君――よくぞ来てくれた。御足労に感謝しよう。さぁ、出てきてくれ。そこな金髪の少女も、黒髪の青年も。隠れる必要などどこにもない」

 互いに顔を見合わせると、二人はコンテナの陰から身を曝した。無明と合流して周囲を窺うと、不意に、目前に停泊していた油槽船からタラップが降りてきた。

「恐れることはない。中に進みたまえ」

 誘いの声に従ってタラップを登る。

「秋槻聰明というのは、思っていたよりも気障な人間なんだな」

「そうか? あれはちょっとばかし螺子が外れているだけだろ」

 軽口を叩くこともそぞろに、油槽船に乗り込む。甲板のほぼ全てを覆うように設置された液槽の蓋の間を縫うようにして、ぽつりぽつりと、足元には小さな照明が灯されていた。

(…………おっかないな)

 美玖の様子を覗き見て、無明は肝を冷やす。美玖は警戒心を隠すこともせず、小さな目を尖らせて甲板を見渡していた。体幹の重心も前に傾いており、それはあたかも獲物を狙う肉食獣のようであり、同時に天敵を前にした小動物のようでもあった。

 再び聞こえてきた聰明の指示に従って船内を移動する。辿り着いた場所は船橋だった。蛍光灯は灯されておらず、代わりに赤色の照明がぼんやりと光を放っている。船橋には人影があった。艶のある銀色の髪を背中まで伸ばして、金糸で縁取られた神父服を着た男だった。胸元には十字架に巻き付いた蛇のアクセサリーが下げられ、その男の貌には、あまりにも屈託のない笑顔が貼り付いていた。その表情を前にして、真知は無明の言葉を思い出す。

 なるほど、確かに、あまりにも整えられたものには偽物だという印象が付き纏う。この場合、男の笑顔は紛うことなくそれに該当していた。あまりにも白々しい、笑顔だった。

「久し振りだね、無明くん。そちらのお二人は、初めまして」

 一人々々に深々と低頭してから男は名乗り上げる。

「小生が秋槻聰明だ。諸君の用件は察しが付いているが、何よりも、人間とはすれ違う生き物だ。言葉という革新的な意思疎通手段を獲得しているにもかかわらず、ただ、無言のうちに察してくれるだろうという甘い期待がいとも容易くディスコミュニケーションの火種を生じさせる。齟齬があっては面倒だ。今一度、諸君の用件を小生に伝えてはくれないか?」

「伝染の真相を知りたいと言えば、伝わるのかしら」

「承知した。確かにそれは小生に合致する」

「それは、あなたが伝染を引き起こしたのだと解釈してもよいの?」

「道すがら話すとしよう。来たまえ。その話をするには、この場所は相応しくない」

 聰明は大股開きで歩き出した。呆気に取られる美玖の横を通り過ぎて船橋から出ていく。慌てて三人は聰明を追いかけ、先導する男は「確かに」と切り出した。

「伝染の実行者は小生で間違いない。だが、小生にそれを命じられた御方は別にいる」

「それは誰なの?」

「神だ」

 当然であろうと言わんばかりの語調の強さに、美玖の眉がピクリと痙攣した。

「ふざけているのかしら」

「神の拝命を語るのにふざける必要がどこにある? 神は神であり、神以外の何者でもない」

「質問を変えるわ。それは、あなたが神として崇拝する人物のことを指すのかしら?」

「人間如きが神になれるわけがないだろう。侮辱するにしても程がある」

 言葉の内容とは裏腹に、聰明の気色から不快感を見いだすことはできない。

「諸君が怪異と呼称する類でもない。神は人間からも怪異からも格別された至高の存在、崇高なる全能者だ。あの御方は時に天来の(こえ)であり、時に類稀なる指導者であり、隣人であり、悪の枢軸を被ることさえもある。神は告げられた。小生に御意思を示されたのだ。この町を怨嗟犇めく毒壺へ変えよと。怪異の伝染を通して、神の伴侶に児戯を与えよと――……」

「児戯、とは?」

「神の伴侶は暇を弄ばしておられる。それならば、人間が身命を捧ぐべきであろう?」

「神の聲とやらを、キミは何を通して聴くんだい?」

 そこで初めて、真知が声を挟んだ。

「聖書は読まないのかね? 天啓は――夢を通して語られるものだろう?」

 夢を通して語られる。その文言には、その現象には真新しい記憶があった。みづほが患い、美玖が退けた怪異の発端もまた、夢の中にあった。もしや秋槻聰明も伝染の被害者であり――或いは症例の一人目であり――彼はまだ夢から醒めていないだけではないのかと考え至ったところで、聰明は足を止めた。縦横に区画された液槽の、中央部最前列にて。

 髪に絡まる潮風をどこか煩わしそうにしながら聰明は言う。

「ここが神域である。覗きたいと願うかね?」

「もちろんよ。そのために来たんだから」

 凛然と首肯した美玖の背後で、無明は真知の腕を掴み、縋るように切り出した。

「俺だけ……もう帰らせてくれないか?」

 泣き出したのではないかと勘違いしてしまうほどの、尋常ならざる声の震えに、涼しい顔を崩すことはなくとも真知は振り返った。理由は何だと、その横顔は問いかけていた。

 対する答えはあまりにも単純であり、理性によるものではなく、それは衝動、本能から来ていた。体裁を気にすることなど歯牙にもかけず、無明は心を打ち砕いて吐露する。

「嫌な予感がする」

 美玖のように怪異の天敵ではなく、真知のように人間の天敵ではなく、

 ただ化けるだけ、姿を変えるだけの怪異だからこそ鋭敏となった警戒心が叫んでいる。

「聰明との邂逅は果たした。すでにキミは自由だ。好きにすればいい」

 素っ気なく返してから、続いて、真知は口を動かす。

「けれど、キミが望むなら、僕と先輩はキミの楯となろう」

 言葉を失くし、無明は真知を凝視する。生まれ落ちたときから孤独であることを定められ、自我を得たときから庇護を得るべくもなかった彼にとって、唐突に示された守護の申し出。庇ってやるなどと、何と傲慢な言い草だろうと否定したくなる一方で、それに魅せられようとしている自分が存在することを意識する。なぜ? 戦慄く唇で訊ねる。

「俺は、アンタに銃を向けた人間だぞ?」

「あんなもの、僕にとっては害悪の範疇にも入らない。それこそ生死の垣根からも逸脱して、存在そのものから消滅させられるくらいじゃないと、僕が揺らぐには足りない。そもそもキミが怪異を売買したところで僕等に実害があるわけじゃない。売られた人間の末路なんて興味もないし、野垂れ死にしようが何だろうが、それは僕と先輩には関係ない『噺』だ」

「…………随分と冷めてるんだな。正義感に駆られてるもんだとばかり思っていたのに」

「正義なんてないさ。あるのは信念だけだ」

 真知の瞳が細められる。僅か数日間の関わり合いでしかないが、彼がこういった表情を見せるときに何を考えているのかくらいは、無明にも察することができるようになっていた。

 瞳の裏に住まうのは、あの少女、世界に取り残された金髪の少女だ。

 真知と美玖の間に流れている感情とはどのようなものなのか。千の貌と人格を形成してきた無明でさえ、把握することはできない。信頼、愛情、依存、どれからも少しだけずれている。

 その(ひず)みは、ともすれば舞台にも及ぶ。彼と彼女は同じ演劇の役者なのではなく、本来は別々の演劇の役者であった二人が、無理やり同じ舞台に放り入れられたかのように。

 だからこその、相容れなさを抱えている。

 ふと、無明の思考を察したのだろう、真知は開口した。

「怪異譚に生きる人間は、孤独であることが常だ。過程はどうあれ、経緯はどうあれ、そこにどのような思惑が渦巻いていたとしても、繋がった糸は容易く解れさせていいものじゃない。繋げたままの方がいろいろと好都合だろう? それと、差し当たって問題がある。先輩を追いかけないといけないわけなんだが、ここに単独で飛び降りるなんて真似をすれば、僕はイチゴジャムになってしまう。キミの膂力を貸して欲しいところなんだ」

 話し込んでいる真知のことなどあっさりと置き去りにして、聰明と美玖は液槽の中に飛び降りていった。怪異が絡まなければ現実世界に干渉することのない彼だから、落下したところで問題はなさそうだが、全土がホットスポットに包括されているこの町ではそうもいかない。

 触れるはずのなかったもの、触れるつもりのなかったもの、触れられない方が好都合だったものが、突如として実体を獲得してしまう。人間に知覚されないだけで、この町で生きることに限れば、真知は普通の人間と同じように縛りを受けていた。

「…………アンタ、そっちの方が本音だろ?」

「さてね、判断は任せるよ」

 無明はいっそのこと愉快そうに眦を細めると、髪を掻き上げて真知を睨め付けた。

「しょうがない。俺は、アンタに守ってもらうことにするよ」

 言うが早いか無明は真知の襟首を引っ掴み、穴倉の中へと、躊躇も抱かずに飛び降りた。



「遅かったじゃない」

「ちょっと、ひと悶着あってね」

 先に行った割に、美玖と聰明は液槽の底で待っていた。

 本来ならば原油の収蔵を果たすのであろう液槽の中には何も溜められておらず、金属の壁で囲まれただけの空間が広がる。明かりは当然のことながら存在しない。頭上に存在する、飛び降りてきたばかりの穴が唯一の光源となるが、それでは到底頼りない。前後左右、天地奥行き、方向どころか空間把握さえも困難な状況に於いて、聰明は「こちらだ」と静かに断りを入れると軽快な足取りで歩き出した。彼の目にはこの暗闇が真昼のように映っているのか、はたまた瞑目していても歩けるほどに通い詰めてきただけなのか。されど、信仰者を名乗る狂信者はにべもなく答えるだろう。神の前では、暗がりなど何の障害にもなり得ないと。

「諸君は、神とはどのようなものだと定義するかね? 全知全能、万物の創始者、信仰の対象と表してもよい。諸君等が抱く『神』とは如何様なものか。別に答える必要はない。神についていくら問答を重ねたところで、小生と諸君が等しい境地に至れるはずもなく、そのようなことが簡単に成し遂げられてしまうほど信仰とは軽くない。ただ、諸君等の胸中でのみ自問して自答してくれたまえ。神とは如何様にして神になり得たのか」

 弄舌を重ねながら聰明は暗がりの奥へ奥へと向かう。彼が神域と呼称したこの場所には、神を祀るための祭壇もなければ、信仰の寄る辺となる偶像も存在しない。ここは船の一角に過ぎない。分厚い鋼に囲まれた、無粋なまでの部屋でしかない。

「小生にとっての神とは、すなわち奉献を受けるものだ。それは創造されるものだ。神話の神々はすでに翼を休めておられる。現在の世界を統治為される神とは、人間こそを根源とする偽物(フェイク)だ。されど偽譚(ぎたん)も信仰を受ければ真実となる。信仰によって、狂信によって、人間によって神へと召し上げられる。初めに神があったわけではない。小生があって神があり、神がその存在を確定されたときに因果関係は逆転して、神の御業の前に小生があるようになった」

「つまり、あなたは神を否定するの?」

「事実から目を背けてはならない。小生の神は創造物であり、想像物である。これは覆しようのない事実だ。されど、すでに神が小生を支配していることも変わらぬ事実だ」

 一人相撲。秋槻聰明の信仰は『ごっこ遊び』に等しい。誰にだって憶えのあることだろう。幼い頃、自分の隣には『想像された人間(イマジナリーフレンド)』が存在した。その人間を忘れることは疎か、捨てることもなく、離れることもなく、隣人という枠組みから神にまで昇華させたのが彼だ。

「小生は今でも神を創造することに全霊を捧げている。その結果が、これだ」

 あたかも不可視の境界線が引かれていたかのように、その一歩を踏み込ませた瞬間、無機質な金属の部屋は豹変した。光、臭い、音、五感に訴える情報量は瞬くうちに膨れ上がり、美玖の背筋をぞわぞわと掻き撫でる。暗闇は陽の光さえも霞むほどの白光に押しやられ、鮮烈なまでの血の香り、肉が腐敗したような汚臭が鼻を穿つ。そこには巨大な肉塊が存在していた。

 変哲のない船の一角を瞬時にして異質なものへと歪める原因物、それこそこの場所、この空間を神域へと押し上げてしまうほどの『人間離れした生物』が鼓動を刻んでいた。

「見テクレタカネ? 小生ノ姿ヲ」

 ギチ、ギチ、ギリと歪な挙動で、先頭に立った聰明の首が回る。それを今まで人間だと認識していたことが不思議に思えるほど、振り返った聰明の貌は、顔面は人間から乖離していた。目玉は白濁したガラス玉で、顔面は起伏のない一枚の板、艶やかさのあった銀髪はセラミックの糸。そこに存在するものはただの人形でしかなかった。

 人形の向こう、生物に目を注ぐ。正直なところ、それを生物と呼称してよいのかどうか、生物として認識してもよいのか推し量ることはできない。ただ、それが脈動していること。動いていること。それを生物だと見做す理由はそれだけで、そこに生物らしさは一切存在しない。

 人間の肉を無造作に抉り取り、断面同士を無秩序に結合させることを何十、何百の人間で繰り返すことでできた物体。その生物の外見はそういうものだった。目玉が、口が、腕が、性器が、肋骨が、臓器がでたらめに本体となる肉塊にへばりついているだけだ。

 確かな鼓動音とともに肉塊は大きく膨らみ、肉の一部がパックリと裂けて、そこからどす黒い血糊を噴き出しながら縮んでいく。これがその物体の唯一の挙動だった。

「自分自身を――違う、数多の人間を怪異に喰わせたというの⁉」

「コレハ儀式ダ。神ニ近付クタメニ、人間ヲ神ノ庇護下ニ棲マワセルタメニ、小生ハ蠱毒ノ創造ヲ命ジラレタ。蠱毒ヨリ生ジタ呪イハ人間ニ憑依シテ、人間ノ本性――怪異ヲ心理ノ奥底カラ(いざな)ウ。神ノ使徒トナルタメニ、神ト同一化スルタメニ誘ウ」

 怪異を誘う。夢を通して人間を煽動し、心理の奥底から怪異を引きずり出す。

 怪異譚の伝染、怪異譚の蔓延を引き起こす。これが、秋槻聰明の語る伝染の真相だった。

「ひとつ訊いてもいいかしら。私達が伝染の根絶を目的としていることはあなたも理解しているはずよね。それなのに、どうして真実をこうも明け透けに語ったのかしら?」

「神ハ試練ヲ降サレル。小生ニソレヲ選別スルコトナドデキナイ。信仰ト、狂信ト、全霊ヲモッテ神ノ正シサヲ証明スルダケダ」

 カタカタと板を張り合わせただけの口を動かして人形は応え、ふと言葉を濁らせた。

「ソレニ――……」

 カタ。カタカタカタ。カタタタタ。板が震えて、打ち合わされる。

「マダ、マダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダ足リナイ! 蠱毒ヲ埋メルニハ、神ヲ創造スルニハ足リナイ! 圧倒的ニ! 絶望スルホドニ!」

 悶えるように両腕を広げて人形は叫び、折れ曲がるはずもない角度まで首を傾げると、そのガラス玉に美玖の肢体を収めた。小さく、華奢で、されど苛烈なまでの人間の姿を。

「生贄ガ! 貢物ガ! 足リナイ!」

 伽藍洞の喉から叫びを反響させて、人形の腕が無造作に持ち上げられた。正面から抱き着くような挙動で美玖に迫った人形は両腕を交差させ、腕の中に何も掴むことができず、空回る。見失った矮躯を探そうとガラス玉は動かされ、次いで、人間であれば鼻梁にあたる箇所から、人形の顔面は撓んだ。

 人形に突き付けられた美玖の右手では、親指の腹に中指が引っかけられ、内側から溢れ出す膂力を溜め込んだ後に弾かれた。真知にやったことと同じ。悪事をはたらいた子供を諫めるような、罰ゲームじみた他愛のない行為は、込められた膂力に関していえば、真知のときとは桁違いだった。人間を遥かに凌駕するように作り込まれた躰の性能の全てが、遠慮容赦なく、一切の手加減もなく詰め込まれていたのだから。

 撓んでいった顔面を起点として人形の頭部は二つに割れ、それだけでは収まるはずもないエネルギーの余波は寄木造りの人形全体に伝播していき、螺子の一本に至るまでを粉々に破壊せしめた。カタカタカタ。最後に震えた板が何を訴えようとしていたのかは分からない。

「上等!」

 美玖の全身が沈み込んだ。屈折された脚は途轍もない反動とともに伸ばされ、彼女の体を聰明に向けて押し進めた。そして、その姿を真知と無明は離れたところで眺めていた。

「手伝わなくてもいいのか?」

「荒事は先輩の領分だからね。それに、対怪異は管轄外だ」

「結局は女頼りかよ。情けない野郎だな」

「技術は気合いなんかじゃ埋められないよ。だいたい、それを言ったらキミもだろう?」

「バーカ」

 肩を竦め、だんご鼻を少しだけ膨らませて、作り物の貌で無明は言った。

「俺のオリジナルが男だなんて、誰が決めたんだよ」

「………………女だったのか?」

 ここ最近の中でも一番の間抜け面を披露してくれたことに、気分をよくする。

「根源を知らない半端者にだってな、分かってることくらいはあるんだよ」

 無明の顔面が揺らめく。変幻の波は肢体にまで及び、彼を『彼女』へと至らせる。

 フードには収まり切らないほどの髪が肩越しに溢れた。あたかも豹を思わせるような精悍な顔付きの彼女は横目で真知を瞥見し、パンツのポケットからバンダナを取り出して口元に巻き付けた。フードに印刷された髑髏の上半分と、バンダナに印刷された髑髏の下半分。

 まさに彼女は『髑髏の貌』となって、

「アンタはそこで眺めてな。俺は化けることしかできないが、その先で人間を越えられる」

 美玖に匹敵するほどの膂力をフルスロットルで振り絞り、聰明の元へと跳躍した。守ってもらうと言いながら、それに甘んじることは性に合わない。無明はそういう人種だ。

 様子を探るように無明の周囲を駆けている美玖の隣に並んで、手のひらを振る。

「何をすればいい?」

「私が彼に触れるまで、あしらってくれればいいわ」

「了解」

 快活な返事とは裏腹に、無明が次に取った行動はあまりにも不気味だった。彼女はポケットからカッターナイフを取り出すと、僅かに錆びついた刃をギヂギヂギヂと押し出して、自分の手首に当てる。一瞬だけ貌を強張らせることで恐怖心を垣間見せ、そんな感情はくだらないとでも吐き捨てるかのように、ナイフを横に滑らせた。

 肌を裂き、肉を裂き、動脈を裂いて――錆びついた刃は燃えるような痛みとともに無明の手首を切り開いた。反射的に握り締められた拳へと、手首から溢れ出した血が伝う。血潮はそのまま床に落ち、床に触れたものから順に姿を変えていく。水墨画が実体化したような体を持つ、不可思議な生物へと変わっていく。生物は無明が流した血の分だけ膨れ上がり、増殖して群れを成すと、一斉に聰明に群がった。

 襲われていることを認識して、牡丹餅のような形をしていた聰明の姿が変貌する。それはあたかも蕾が花開くように、真っ赤なあだ花を咲かすように、肉塊は八つに分かたれた。自由自在にしなる鞭となって暴れ狂い、血潮から生じた幻獣を打ち払おうとする。

 獰猛そうに口唇が裂けた生物が聰明へと飛びかかり、鞭に打たれて飛散した。直後、血潮のカーテンを突き破り、美玖が聰明の元に到達した。彼女の右手は限界まで広げられていた。

 怪異を殺す、怪異を崩落させる魔性の手が――聰明に触れた。

 その場の誰もが聰明の敗北を悟った。美玖の勝利を確信した。それは呆気ないと思えるほどの終幕だったと、誰もが信じて疑わなかった。怪異を壊し、怪異を瓦解させ、吸収する特異性を持った美玖が、逆に聰明に呑み込まれる光景を目撃するまでは。


「――――美玖!」


 鋼の部屋に絶叫が轟く。少女の名前を叫んだのは、黒髪の青年、真知だった。

 無明は初めて目撃した。和宮真知が一切の感情を取り繕うことなく、隠すことなく叫ぶ姿を。

 美玖の両足が、そこに意思を介在させない挙動で動く。手掌から始まって肘までを呑み込まれていた右腕は強制的に聰明から引き抜かれはしたものの、肘より先に正常な姿は見て取れず、爛れた肉がこびりついた骨だけが存在していた。

「ありがとう……引き抜いてくれて」

 駆け寄ってきた真知をおぼろげな目で見つめながら、美玖は僅かに震える声で礼を告げた。思考螺旋によって強制的に体を動かされたということが、彼女には分かっていたから。

「どうなってんだよ、アンタ、触れるだけで怪異を切り崩せるんじゃなかったのか?」

優先度(プライオリティ)の問題よ。見誤ったわ」

 忌々しそうに舌打ちして、美玖は聰明を見据える。

「秋槻聰明の存在設定は『喰らう』こと。呪いだとか、人間を怪異に誘うとかは副産物に過ぎない。そうなれば、等価交換の副産物として『捕食』を武器とする私は太刀打ちできない。私が喰らう前に、優先度に従って私の方が喰われるだけね」

「……それじゃ、アイツには勝てないってことか?」

 狼狽える無明を、美玖は鼻で笑う。

「馬鹿言わないで。捕食できないくらいで負けるなら、怪異殺しなんて呼ばれないわ」

 骨が剥き出しになった右腕に左手を添えると、美玖は唇を噛み締めながら等価交換を発動させた。損傷を負った腕はパキリと根元から捥げて、あたかも蜥蜴の尻尾が生え変わるかのように、新しい骨肉がずるりと生じた。

「真知、お願いしてもいいかしら。もう空っぽなの」

「まったく。だから貯蓄した方がいいって言ったのに」

 美玖の隣に腰を下ろすと、真知はシャツのボタンを外して首筋を露出させた。

「無明。今から先輩に食事をさせる。その間、あれの相手をしてもらってもいいか?」

 目で示された先にあるものは、聰明だった肉塊、蠱毒の怪異。八つに分かたれた肉塊は鞭打つように蠢き、その挙動こそ拙いものの、確実にこちらへ向かってくる。

 正直に言えば逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。もとより無明は戦闘に向いていない。創意工夫で補っているだけで、化けるだけの怪異には対怪異としての強みが欠けている。

(別に、もう逃げてもいいんだよな?)

 そんな風に思ってしまうのは仕方ない。無明は仲間になったというわけでもないのだから。ただ、へまをやらかしたために捕まって、自由を得るために協力しただけなのだ。

 義理堅く最後まで付き合ってやる必要なんて、道理なんて存在しない。

 けれど、戦う手段を持たないという点では真知も同じだ。彼が逃げ出さないというのに、彼よりも力を持っている自分が先に背を向けるのは、少しだけ癪なものがあった。

「ああ、もう。女は度胸!」

 両手で頬を叩き、カッターナイフを握り締めると聰明に対峙する。

「終わったら飯と寝床、あとシャワー!」

「どんと来い! 真知のご飯は最高よ!」

 まだ新しい傷口にカッターナイフを滑らせる。血管を新たに切り裂かれたことで、僅かに収まりを見せていた出血はぶり返した。粘ついた血潮は強烈な鉄の匂いを振り撒きながら落ちていき、床に触れたものから生物へと変貌する。

 真っ赤な血潮。或いは無明の命は、ゴウゴウと燃え滾る焔のように不定形の意思を獲得して聰明へと群がった。爪があるわけでも、牙があるわけでもない。ただ群がって、周囲をちょこまかと跳ね回るだけのそれにさえ、聰明は敏感に反応する。八つに分かたれた血肉の鞭を暴れさせ、いっそのこと躍起になって無明の片割れを潰していく。

 一度圧殺された生物が再生することはなく、それは使い捨て、消耗品でしかない。分が悪いことには変わりない。少なくとも出血過多で気を失う前に『食事』とやらを済ませてくれよと願いつつ、ちらりと背後の美玖を見遣り、彼女は頬を熱くした。

 首筋を露出させた真知に正面から抱き着き、青白くぷっくらと膨らんだ血管へと、美玖は鋭く研ぎ澄まされた犬歯を沈ませていた。百八十センチの青年に、百三十センチの少女は落ちないように両手でしがみつきながら、その喉をゆったりと上下させる。

 何かを飲んでいる。何かを口に含んでいる。

 その『何か』について心当たりが生じないほど、美玖のことを知らないわけではなかった。

 それはかつて吸血種と呼ばれた怪異のことであり、

 数多の民話に登場する高潔な不死者のことであり、

 その名をヴァンパイアと轟かせた鬼のことであり、

 されど、はたまた、彼女はそのどれとも乖離する。

 血液を啜っていることは確かだけれど、血液を通して吸い取っているものは違う。

 それは純然たる怪異。

 怪異を喰らい、それを源に創造を行う、二次産物としての怪異の捕食者。

 それにしても、と無明は頬を赤らめた。この光景は心臓に悪い。怪異といえど曲がりなりにも人間の姿を留めている彼等だからこそ、或いはそれが異性によるものだからこそ、美玖が喰らい、真知が捧げる姿はひどく艶やかで、煽情的に映る。

 見惚れるほどに美しい。火傷してしまうほどに熱を孕む。嚥下する都度に赤みを帯びていく美玖の頬も、反して白皙に染まっていく真知の頬も、何もかもが高揚に拍車をかける。

 そっと眉根に皺を寄せ、無明は目を逸らした。

 捕食されるとはどのようなものなのだろう。自分が吸い出されていくそこに、失われていくそこに存在するのは恐怖だけなのか。言葉にできそうもない背徳的な快楽が息を潜めていそうで、どこか、胸を鷲掴みにされるような息苦しさを覚える。

 そんな経験に引力を感じてしまう一方で、生存本能に基づく理性が、そんなのはごめんだと歯止めをかける。そう、そんなことに身を差し出せるようには、人間はできていない。

 はずなのに、どうして、真知はそんなにも簡単に魂を差し出してしまえるのか。

 考えたところで答えに辿り着くことはできなくて、無明は聰明のみに意識を専念させた。

 ただひとつだけ分かることは、そこに渦巻くものが無償の愛などではなく、人間が賛歌する博愛などではなく、ひたすらに醜悪な依存であるということだった。

 カッターナイフを何度も斬り付けた手首は元の姿を見て取れないほどに杜撰な形状となって、深く傷付けたのだろう動脈からは留まることなく血潮が溢れ出す。命が流れ出す。

 目が霞む。唇はとうに色気が褪せて紫となり、無明の内側では警鐘が打ち鳴らされている。

 彼女の衰弱を認めたためか、聰明に変化が訪れた。周囲に分かたれた八つの肉塊、その中心部が盛り上がり、耳障りな引き攣り声とともに姿を現す。人間の胸部より上の肉塊が。耳朶から上は肉の膜に覆われて能面となり、歪に生えた銀髪が、肉塊の動きに合わせて振り乱される。

 あれこそが秋槻聰明の本体だったものだと察したが、攻める手段はすでになかった。

 血潮は限界まで絞り尽くした。触れてはいけないのだから、無明にできるのはここまで。

「もう、充分か?」

 両腕をだらりと垂れ下げ、ポツリと降ってきた影につられて上を仰ぐ。背中を床に向けたままで全身を弓形に反らし、随分と高いはずの天井すれすれを跳躍する少女を認める。

 それは、重力のしがらみから解放されたかのように軽やかな姿だった。

 美玖の体がぐるりと回転する。その手は細長い物体を掴んでおり、下方で蠢く聰明と相対した瞬間にそれは投擲された。その行為が生身の人間によるにもかかわらず、投擲された物体は空気を圧し付け、切り裂き、衝撃波とともに鋼の部屋に突風を吹かせた。瞬きひとつすることも許さずに彼我の間隙を駆け抜け、それは聰明に突き刺さった。衝撃で船が揺れる。

 体勢を崩した無明はよろめきながら、その物体が何であったのか確かめようとして、聰明からそそり立つ物体の、神具とも呼べる壮麗な美しさに見惚れた。

 一振りの劔。

 世界そのものを掌握せしめてみせると言わんばかりに注がれる全ての光を吸い込んで離さず、その刀身に如何様な光景も映さない劔が聰明を串刺しにしていた。痛覚が存在するのか、全身を暴れさせて呻吟する聰明の上へと、劔の柄へと小さな影が降り立つ。

 降り立つと表現するのは実情に適していない。もとより深々と突き刺さっていた刃はさらに減り込み、またもや船体を大きく揺さぶる。影は柄を蹴り付けることで後方に跳躍して、去り際に劔を掴んだ。金属が裂ける甲高い音を響かせながら劔は少女と共に動き、聰明の疵をいたずらに広げていった。あまりにも鋭利な刃で斬られたため、劔が抜かれてから数秒が経過したところで、ようやく思い出したように流血が起こる。

「あれは……何だ……」

 無明が呻く。

「あれが怪異殺しの第二の武器『怪異による妖刀』だ」

「怪異を切り裂く劔なんて、聞いたことねえぞ」

「虎の子だからね、そうそう広められていても困る。詳しい出自は定かではないが、あれは人間を殺すために鍛えられた武器だった。人間を斬り捨てること、それだけが存在理由として与えられ、それを果たすためだけに振るわれた。人間の命を奪い続け、多くの血に塗れた。多くの怨念と無念を纏い、妖刀と呼ばれる遺物に成り果てて、そこに先輩が干渉した」

「等価交換が?」

「先輩がやったことは拡張領域を設けただけだが、あの妖刀にとってはそれで充分だった。素質は備わっていたんだよ。人間を斬り続けた劔はヒトの感情にまで干渉するようになり、感情から派生する怪異にまで侵害領域を拡げた。ヒトを殺す刃と、怪異を殺す刃を兼ね備えた劔、それこそが等価交換によって産み落とされた妖刀だ」

「それにしちゃ腑に落ちない。妖刀を使うことと『食事』に何の関係があるんだ?」

「あぁ、それね」

 何でもないという風にぼやいて、真知は劔を指差した。

「あれね、エンジン搭載型なんだ。動かすにはガソリンがいるんだよ。それこそ妖刀と呼ばれた所以なんだけど、あれは持ち主の魂を喰らうんだ。珍しくもない話だろう? 妖刀の使い手が、殺戮と栄華の果てに相次いで命を落とすなんて」

「要は吸収した怪異を魂代わりに喰わせてるってことか。偽物で騙されながら使われているなんて、妖刀様も気分を損ねるんじゃないか?」

「そうしたら用済みだよ。斬れない劔はただの棒きれだ。棍棒として使うのもありかもしれないけれど、そんな非効率に縋るくらいならもっと優秀なものを産み落とすだけだ」

「お前等、それこそ呪い殺されるんじゃねえか?」

「殺してみなよ、できるものならね。怪異は言わずもがな、果ては祟りから呪いに至るまで討伐するのが生業だ」

 そして、彼は眦を鋭敏に細め、

「だいたい僕等は怪異討伐に命を賭けてはいるけど、捧げているわけじゃないからね」

 眼窩に澱んだ影を落として、底冷えのする言葉で続ける。

「たとえ彼女が望んだとしても、そんなことは僕が許さない」

 真知の裏側に見え隠れする狂気を感じ取ったのか、喉まで上ってきた言葉を呑み下して、無明は事の推移を見守ることにした。自分達の前で戦う少女、その手に握られた劔へと注がれている怪異こそ、真知の命ではないのかと訊ねたくなるのを堪えながら。



 美玖の戦い方は子供の遊びのようなものだった。その道に僅かでも覚えのある人が見たなら、自分の熟練度なんてお構いなしに戦法とは何たるかを説きたくなるほどに無秩序であり、無駄な挙動で溢れていて、弓で矢を射るのではなく殴りかかるように物の扱い方も分かっておらず、それでいて、説教の全てを跳ね除けるが如く純粋な強さで溢れていた。

 人間離れした膂力で底上げされているだけとは説明しきれない。そこにあるのはもっと別の何か。それを見極めようとして、無明はあまりのくだらなさに失笑した。

 純粋に、強いだけだ。等価交換という怪異が、髙田美玖という人間が殺戮に特化しているだけだ。そういう風に、定められているだけだ。

 凡人が積み重ねた如何なる努力も修練も、費やした情熱も時間も嘲笑うように、髙田美玖は天賦の才能を与えられている。誰にも劣ることのないようにと設定を捻じ曲げられている。

(誰によって? 奴の言葉を借りるのは癪だが、そうだな、神様なんだろうよ)

 美玖にとっての神が誰であるのか、それは無明の知ったことではない。そんなことを探るつもりなんてこれっぽっちもない。ただ、美玖が聰明を凌駕していることだけが信頼できるものであり、信頼する価値のあるものであり、そこに絡んでいる思惑なんて彼女には関係ない。

(とはいえ、どんな奴かくらいは、明白だけどな)

 無明は彼を視た。和宮真知を視た。

 他人の目を窺い続けてきた自分だから分かる。他人の目を晦ましてきた自分だから視える。その人間が何を視ているのか、その瞳に描かれている世界がどのように歪められているのか。

 和宮真知が視ている世界は完璧だ。一部の隙もないほどに整えられて、磨かれて、理想を突き詰めているばかりに歪だ。彼は髙田美玖の過去を、現在を、未来を視ている。髙田美玖が歩んできた道、歩んでいる道、これから踏み出す道を俯瞰して、描いている。そこに一切の不安要素を孕ませずに、髙田美玖に危害を及ぼす要素を徹底的に排除して。

 美玖に如何なる逆境が訪れようとも、彼女自身が困難を感じようとも、そこには必ず『突破口』が用意されている。真知の諫言によって、甘言によって、美玖は知らず知らずのうちに用意させられる。換言すれば怪異の使途を、等価交換の運用を真知によって支配されている。

 そのことに彼女は気付いていない。気付くことを許されていない。

(始まりがどこからかは知らねえが、随分と根深いな。怪異殺しに親でも殺されたのか? だが、それにしちゃ、アイツの孕んでいる感情は恨みとか嫉みとか、そういう負の側面じゃなくて、相手に危害を加えようっていう類じゃなくて、そうだな、庇護欲を掻き立てられているというか、怪異殺しが間違った道に進まないように見張っている感じなんだよな)

 もしかして筒井崕ゆり子の差し金かと疑う。そもそも怪異の天敵と人間の天敵がタッグを組んでいることが妙にわざとらしい。普通は反発するだろう。

 純粋な怪異である真知は美玖を、人間を残している美玖は真知を忌避しなくてはおかしい。

 天敵とは生存を脅かす存在だ。好き好んですり寄っていくわけがない。

「無粋な詮索はよしなよ。それは今回の噺じゃない。次の噺だ。伏線は露骨に立てればよいというものでもない。ちょっとした矛盾点に収めておくくらいが好ましいからね」

 はたと挟まれた言葉に顔を上げ、あぁ、これは消されるなと確信した。

 いま抱いてしまった思考は、次の瞬間にはきれいさっぱり消されている。それに無明は抗えない。そんなことを看過してくれるほど和宮真知という怪異は寛容ではない。

 それなら、何も考えずに今の噺を楽しむことにしよう。

 どうせ、考えたところで消されるだけなのだ。



 妖刀が振るわれるたびに聰明の肉は削ぎ落とされていく。牡丹の花に似た肉袋はすっかり小さくなり、散らばった肉片の中心部が現れてくる。秋槻聰明の本体だった部分は狂ったように雄叫びを上げて美玖に立ち向かうが、いとも容易くあしらわれて、肉――聰明にとっての怪異の源泉――を奪われていく。触れることができないという怪異殺しに対してのアドバンテージは、妖刀によって覆された。

「怪異! 怪異! 小生ノ怪異ガ!」

 銀髪を振り乱して聰明は暴れる。怪異の伝染を誘い、感染者を喰らい続けてきたことで蓄えてきたものが失われる。怪異として弱体化する。聰明はとっくに錯乱していた。ぐちゃぐちゃに入り乱れた思考の中で、自分が追い詰められていることを自覚していた。

 怪異を奪わなければならない。これまでそうしてきたように、美玖を捕食して、己の怪異譚を補強しなければならない。それなのに触れない。一方的に切り刻まれて、蹂躙されるだけ。

 彼女はダメだと、太刀打ちできないと悟った。そして、前を視た。美玖の背後を視た。

 聰明は心から笑う。怪異を見つけた喜びから、自分が蹂躙できる相手がいたことから。

 それまでの緩慢な動きが嘘であったかのように聰明は跳躍した。躍りかかった。美玖を素通りして、彼女の背中に隠れた矮小な存在、真知と無明に向かって。

「待て!」

 背後の声に従う道理などない。聰明は愉悦を瞳に宿らせ、自分の設定を存分に振るった。

 喰らう。喰らい尽くす。髪のひと房に至るまで、断片に至るまで怪異を喰らい、強くなる。

「貴様ノ怪異――小生に寄越せ!」

 刹那、全てが静寂に立ち返る。励起した思考螺旋が聰明を射抜いた。真知は冷え切った目で聰明を眇め、小さく哄笑した。全身の自由を奪われた聰明を憐れだと見下ろした。

「ようやく視えた。お前はまだ人間性を残している。お前はまだ純粋な怪異にまで落ちていない。そうなれば、僕の侵害対象だ」

 思考螺旋の呪縛が聰明を雁字搦めにする。自由を剥奪された聰明は身動ぎひとつできず、断罪の鎌が落とされるときを待つだけとなった。

「さあ、先輩。奴の怪異は僕が抑えた。だから、もう食べれるよ」

 言葉の直後、聰明の胸に背後から穴が開けられた。怪異を壊す美玖の腕が突き立てられたのだ。ボロリと聰明の躰が欠け落ちる。煤のように変質した躰は靄となり、彼が抱える怪異譚の全ては美玖に呑み込まれていく。等価交換の糧へと貶められていく。

 怪異譚を剥ぎ取られ、搾りかすとなった聰明は頽れた。

「……へえ。こんなになっても人間は生きていられるのか」

 人間としての形が辛うじて残っているのは上半身だけだ。下肢は肉袋と完全に癒着してしまい、無明が目を逸らしたくなるほどに醜怪だ。それでもまだ息はある。

「これで……終わりか?」

「そうね。あとはゆり子に引き渡すだけ。事後処理は向こうでやってくれるから」

「俺はどうなる?」

「約束通りよ。私達にあなたをどうこうするつもりはない。ただ、それがゆり子の考えと合致するかは分からないから、聰明の件が片付くまでは一緒にいてもらうけど」

「どうせ俺に拒否権はないしな。それに、まだ飯とシャワーが終わってない」

「そうだったね。とっておきのディナーを御馳走するよ」

「それならみづほも呼ばなきゃ!」

 殺し合いをしていたとは信じられないくらいに和気藹々としながら、聰明の神域を後にする。聰明は自力では動けない。ゆり子の部下が到着するまでに逃げられるはずもなく、せいぜい、それまでに死なないかだけが気がかりだったが、それはそれ、助けてやる義理はない。

 斯くして聰明を打破したことで『伝染』は収束する――……はずだった。


「悪い報せです。新たに五十人が怪異に喰われました」

 筒井崕ゆり子は言う。秋槻聰明は――……黒ではなかったと。

ここまでで第2章『むみょうフェイス』です。


更新が2週間止まりっぱなしになりました。現実の方があまりにも忙しく、趣味にかまけている余裕が全くなかったためですね。実際、慌ただしい時期はこれからも続くので、この更新以降も同じように続けられるかは全くの不明です。


さて。本章では『みづほドリーム』を踏まえ、ようやく話の軸となる怪異譚の伝染に触れることになりました。登場人物もこれで出揃いました。秋槻聰明は敵ポジなので別として、何か、女の子ばっかりですね。意図していたわけではないのですが。

お気に入りは無明です。原型を忘れるほどに姿を変え続け、いつからか印刷された『髑髏』の絵のみが自分のアイデンティティの拠り所となっている人物。このキャラクターの構想を友人に話したところ、私が意図しないところまで深読みされ、何だろうその格好いいキャラはと唸ったものです。作者の人、そこまで考えてないと思うよを素でいっています。

露骨に伏線を張りましたが、そうですね、次章以降は『真知』がキーパーソンになってきます。小説を書くうえでこの話の主人公は誰だろうかと最初に悩みます。語り部は多々あれど、誰を軸に据えた物語とするかによってまるで変って来るものですから。『イザナイガタリ』は初めは美玖の物語でした。ただ、構想を練るうちに、これは美玖の物語を主軸にしているだけで、実質的な主人公は真知なのではないかと思い始めてきました。こういった宙ぶらりん状態、いけませんね。猛省します。

とにもかくにも連載作品の中での初・2章掲載となります。他に掲載してなかったよね?前半はこれにて終わりなので、後半もお付き合いください。

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