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イザナイガタリ  作者: A峰
1/7

みづほは今日も、夢を視る。

 ドリームキャッチャーを吊るす。

 父が買ってきた悪夢を払うためのお守りを取り出したのは、これが初めてだった。

 みづほは妄信的な性格をしていない。目に見えるものだけがこの世に存在するのであり、見えないものは存在しないと吐き捨てる。それを悪いと思ったことはなく、大人から「冷めた子供」だと見做されたとしても、そういうものに囚われている子はかわいそうだと思っていた。

 思っていたなどと過去形にするのはよくない。今もそうだ。みづほは変わっていない。

 それなのに五分前の自分はドリームキャッチャーを吊るした。今も外そうとすることはせず、蜘蛛の巣に似た様相へと、じっと眼差しを注いでいる。無感情の瞳を揺らす。

(……ほんと、らしくない)

 これに期待をかけているという現状が、その感覚を増長する。

 みづほは悪夢に苛まされている。実のところ、あれが悪夢なのかは分からない。ただ、毎日、毎晩、同じ夢を視る。代わり映えのしない光景が、つまらない現実が広がっている。数年に一度くらいはこんなこともあるのかもしれない。

 あれ、今日の夢、前にも視たことがあったような――。

 みづほの場合はもっと具体的で確信めいている。今日も視た。起きるなり、そう思う。

 この現象を何と呼べばいいのかは分からないけれど、普通じゃないことは確かだ。しかるべき機関を訪れれば、難しい病名を与えてもらえるかもしれない。

 そんなのは嫌だ。みづほは断固として拒絶する。何しろ、彼女はすでに現実で問題を抱えている。虚構にまでそれが及ぶなんてことは避けたい。

 それに、どうせ、醜悪なまでの現実が虚構を歪めているだけなのだ。それなら積極的な解決策を探るなんて労力の無駄づかい。信じてもいないオカルトに縋るくらいでちょうどいい。

 枕元の電灯を消して、みづほは横になった。瞼を閉じる。夢が始まる。

 みづほは今日も、夢を視る。



「不良少女」

 呼びかけられ、浮ついていた意識が戻ってくる。みづほはゆったりと視線をめぐらせた。

 遮断機が鳴り響き、列車が近付いていることを知らせている。線路は銀鏡のようにピカピカで、乱暴な陽射しを煌びやかに反射している。首筋を大粒の汗がすべり落ちたことで、みづほは思わず下を向いた。自分のつま先が見えない。大きなふくらみが隠している。

(青なんて着けなきゃよかった)

 みづほは後悔する。汗だく。

(せめて、インナーを着ておくべきだったかな)

 ぼんやりと、ゆだった頭を動かしてそんなことを思考しながら、声の主を探して背後を振り返った。知らない人だった、みづほの表情が不信感をあらわにした。

 長身痩躯の青年だった。不健康に痩せているのではなく、健康的に引き締まった体。されど素肌の青白さが、彼をどこか病人じみた雰囲気に貶めている。齢はそれほど変わらないのかもしれないと思うくらい、青年の相貌は無邪気だった。

「不良少女」

 今度はやわらかな語調で青年は言った。

(あ、この人、とても歯が綺麗。できものみたいに、真っ白)

「……なんですか」と返してから、みづほは苦笑した。七月の一週目、平日の昼間、女子高生がこんなところにいれば不良と呼ばれてもおかしくない。

「おいで」

 手招きされる。不良少女と呼ばれたくらいだから補導されるのかもしれない。逃げ出してしまおうかと考えがちらついたけれど、背後の遮断機は降りたままだし、ここは一本道。みづほが超人(スーパーマン)なら屋根を飛び跳ねて逃げられたかもしれない。

(バカね。そんなのあり得ないことくらい、私はずっと前から知っているじゃない)

 みづほは少しだけおかしくなって、苦笑して、青年の手招きに従った。歩き出してしまえば、青年にみづほを気にかける様子は認められなかった。背中を向けたままで、一度だって振り返ることはしないのだ。

(逃げちゃうよ? あなたまで、私を見ようとしないなら)

 青年はやっぱり振り返らなかったが、坂を下ってすぐに足を止めた。そして、呆気に取られるみづほを残して、あろうことか建物の中に入っていく。みづほの中の警報(アラート)がようやく鳴り始める。補導とは違う。青年には別の意図がある。

 みづほの女の部分が青年への猜疑心を掻き撫でた。やっぱり逃げ出そうと、建物を素通りすることを決める。青年はみづほの動向を少しも探ろうとしていない。

 足を速めた。少しだけ駆け足になる。建物に差しかかり、なぜか、みづほは止まった。

 青年が入った建物は住宅ではなく、一軒のお店だった。ノスタルジックな装飾が施された店頭には「CELIA」と書かれた看板が提げられていた。半開きの扉からは冷気が漏れ出ており、外の暑さを殊更に感じさせられる。吸い込まれるようにみづほは扉に近付いた。

「いらっしゃい」

 青年が迎えてくれる。扉を入ってすぐにカウンターがあり、テーブル席がない代わりに背後では本棚がひしめき合っていた。いらっしゃいと青年がもう一度繰り返したことで、みづほは店内にめぐらせていた視線をカウンターの中に戻した。

「……喫茶店?」

「兼小料理屋」

「私、お金持ってない」

「招待したのは僕だからね。今日はすべて御馳走するよ」

 あれは招待だったのかと首を捻り、それならばとみづほは席に着いた。青年は静かに微笑み、初めにお冷を差し出した。結露したグラスを見つめるうちに先程までの暑さが思い起こされ、同時に喉の渇きも覚え、みづほは一気に飲み干した。あまりの冷たさに胃がひっくり返るような思いをしたが、注がれた二杯目も同様に喉に流した。三杯目には手を付けず、続いて珈琲が出された。こんな猛暑日にホット珈琲なんてとみづほは思ったが、冷房のよく効いた店内にいると温かいものが欲しくなるのも確かだった。

 小さな壺に入れられたカソナード――砂糖の一種――とミルクがカップの横に並べられる。

「最初の一口は何も入れずに味わうこと。それがお勧め」

「あの」

「訊きたいことがあるのは分かるけど、まずは飲んでから」

 言葉を遮られたことでみづほは唇を尖らせ、されど素直に従う。

「どうかな」

「美味しいです。少し、酸味……があるけど私は好きな味かも」

「いい舌をしているね。酸味に気付いたのはキミが初めてだ」

「そろそろ質問しても?」

「ああ、どうぞ。どうして私に声をかけたのかとか、そういうのだと思うけど」

「…………」

「じゃあ答えよう。何か学校に行きたくない事情があるのだとしても、こんな日に外にいるのは自殺行為だよ。熱中症にでもなったら目も当てられない。こういうお店にいた方が涼しくて快適だろうし、店員が僕みたいな人間なら、外をうろついているときよりも学校に通報される心配がない。しかも今日は僕の機嫌がよかった。どう、納得してくれた?」

「した。ことにしておきます」

「いい子だ。学校が終わるまで好きにしていいよ。あいにくとお客さんは他にいないし、暇潰しの本もある。キミが嫌ならそれだけ飲んで出ていってもいい」

 背後の本棚を指差して、それで話は終わったと言わんばかりに青年はカウンター内の椅子に腰かけた。直後にキーボードを叩く音が聞こえてきたので、みづほからは見えないけれどパソコンを弄り始めたようだ。声をかければお喋りにも付き合ってくれそうだけど、みづほと青年はそこまで気を許し合っているわけでもない。

 青年には聞こえないように嘆息を溢してから、みづほは本棚を振り返った。初めて見るような本から、最近話題になっているような本まで種類には事欠かない。中にはちっとも読めたものではない外国語の本や、写真集やピアノの譜面までが収蔵されていた。

 みづほは少しだけ手を躍らせてから、本棚の最上段、右端に隠すようにしまわれていた本を引き出した。真っ黒に装丁された本の題名(タイトル)は「世奇恋語(よきこいがたり)」といった。

 ページを捲る。昔から本を読むことは好きだったので、みづほはすぐに没頭した。

「世奇恋語」は四部から構成されていた。「こい」の漢字だけを変えて「恋・鯉・請・扱」と続き、それに副題が伴う。描かれているものは総じて「怪異」と呼ばれる存在に振り回され、苦しめられ、摩擦を味わう、怪異を背負った人間達の恋の模様。ハッピーエンドを迎えたのは「恋」だけ。残りは全て、そうとは言い難い。何かを得た代わりに何かを失っている。

 鯉の怪異に見舞われた恋人を助けるために、青年は彼女との想い出を、

 自分が殺してしまった父親を生き返らせることを怪異に願った少女は、人間であることを、

 怪異を扱い切れずに大切な人を失くした少女は、自分自身の存在を――失くした。

 本を閉じる。珈琲はとっくに冷め切っていた。

 みづほはため息を吐く。どうにも後味の悪い、やるせない気持ちにさせられる本だった。

 つと、視線を感じてみづほはカウンター内へと目をもたげ、驚いたように叫んだ。

「うわ、なんで見つめてんの」

「真っ先にその本を手にしてくれるなんて、嬉しいこともあるものだなぁと」

「そんなに思い入れのある本なの?」

 青年は含み笑いを浮かべながら本をひっくり返し、表紙をみづほに向けた。題名の下に添えられた著者名を指差して、少しだけ誇らしそうに続けた。

「これが僕の名前」

「はい?」

 思わず聞き返す。青年は高揚した面持ちでもう一度繰り返す。

「改めて、僕の名前は和宮(かずのみや)真知(まち)。この本の作者だ」

「小説家なの?」

「それが本業とは言い切れないけどね。出版されたのもそれだけだし」

「このお店は?」

「僕の店じゃないんだ。店長は先輩――高校の時のね――なんだけど彼女はいろいろと他の仕事で忙しくて、店を空けるときの方が多いんだ。閉めていてもいいと言われているけど給料はもらっているし、それに時々こうしてお客さんも来る」

 真知はみづほを見て、片目を瞑った。

「私は自分の意思で来たわけじゃないんだけど」

「店に入って来たなら、経緯はどうあれ客だよ」

「さっきからキーボードを叩いていたのは?」

「執筆。その本の続編を。まだ物語は動いていないから書けないんだけど」

 真知の言い回しに引っかかるところを感じてみづほは口を開いた。けれど、見計らったように壁時計が時報を鳴らし始めた。午後五時。学校はとっくに終わっている時間だ。

 出かかった言葉は飲み込み、みづほは本を戻すと珈琲を飲み干して立ち上がった。

「楽しかったわ」

 珈琲のことか、真知との会話か、本についてかは分からない。

「学校をさぼりたくなったらまたおいで。出世払いってことでサービスするよ」

「甘えさせてもらうわ。――伝え忘れていたけど、私の名前は」

「みづほ」

 言葉の先を真知が引き継いだ。みづほは目を瞠り、どうして知っているのと凡庸に訊ねた。

「さて、どうしてでしょう」

 真知は疑問を煽るように答えると店の扉を開けた。

「次に来るときまでに考えておいで。答え合わせといこう」

 真知と別れた後も、みづほは不思議そうな顔を絶やさなかった。坂を上りながら、ふと、みづほは脇に抱えた学生鞄を見て「あ!」と声を上げた。

 鞄には刺繍が(あつら)えられている。ローマ字で「みづほ」と。

 分かってみれば簡単なものだったが、真知の行動は、みづほにとってやはり謎めいたものであることに違いなかった。心が浮足立つ。楽しかったと思いながら家路に就くのはいつ以来だろう。きっと、とても久しいはずだ。

 坂を上り切る。真知に声をかけられたときと同じく、遮断機は水平に降りていた。

 列車が近付いてくる。ふと踏切の向こう側を見る。人が立っていた。遠目ではよく分からないけれど、何かの模様が印刷されたフードを目深まで被った女の子だ。

 列車が差しかかる。巨大な鉄の塊がゴウゴウと音を立てて通り過ぎると、そこに女の子の姿はなくなっていた。遮断機が上がる。みづほは首を傾げ、踏切を渡った。

 もうすぐ夜が訪れる。みづほはまた、夢を視る。



 相貌失認症なのだと思う。誰に対してもではなく、クラスの人に対してだけ。そんな器用な病気があったものかと一笑に付されるかもしれないけれど、みづほのクラスでの立ち位置を思えば納得できる事実があることも確かだった。惨めな子羊(スケープゴート)。みづほはクラスの憎まれ役だ。

 何よりもクラスが結束を高め、調和と秩序を保つための。

 ぎりぎりの出席日数を維持するために登校した朝、みづほを待ち受けていたのは机上に飾られた花だった。道端から手折ってきたのか、それとも私財を投じて調達したのか、黄色いカーネーションが。少しも表情を崩すことなく花瓶を掴み、トイレに行って水を捨て、花はゴミ箱に放り捨てる。そうしてみづほは席に着いた。

 その様子を眺め、便宜上の級友はつまらないと吐き捨て、みづほへの理不尽な悪感情を増長させる。けれど級友達は気付かない。未熟な少女達は知らない。

 表情とはあくまでも見せかけ、本質にそぐうとは限らない仮面(ペルソナ)でしかないことを。

 毅然と取り繕った表情の裏側で、どのような感情が揺らめいているのか彼女達は知らない。

「今日はね、花が飾られていたの。四本。根とかけて『死ね』と洒落たつもりなのかな。それにね、カーネーションだなんてすごい皮肉だと思わない? 軽蔑だよ、カーネーションの花言葉って。私から『軽蔑されている』ことなんて、分かり切っているはずなのに」

 みづほは淡々と語る。喫茶店「CELIA」にて。

「みづほは気丈にふるまうね。果たしてそれが本心なのかは知らないけど」

 グラスを拭く手を止め、真知はみづほを抉る言葉を平気で打ち立てた。彼女の必死の虚勢を失くしてしまう言葉を。

 みづほがCELIAに通い始めてから七日が経ち、学校のことを打ち明けられるくらいには真知とも仲良くなった。近付いた。けれど、今の言葉は踏み込みすぎだった。

 みづほの表情が険しくなる。眉間に寄せられた皺は、嫌悪を露わにしていた。

「私は大丈夫」

 大丈夫だと自分に言い聞かせる。大丈夫、私は少しも傷つけられていないと、呪詛のように。

「本当に?」

 されど真知は引き下がらない。

 苛立ちの全てをぶつけるように、みづほは声を荒げた。

「私は、大丈夫」

「大丈夫じゃないって言ってみな。言ってみるだけでいいから」

 真っ黒な瞳が覗き込んでくる。みづほは思わずたじろいだ。話転しようにも、そう言わない限り、真知が引いてくれないことは明らかだった。

 喉を鳴らし、ぎこちなく震わせて、みづほは決壊した。

「大丈夫じゃ……ない……」

 ボロリと大粒の涙がこぼれる。言葉の魔力が、押し付けてきた心を解放する。

「たまには、大丈夫じゃなくなってもいいんだ」

 うなだれるみづほの頭をそっと撫でて、真知は告げる。慰めを、受容を、理解を、彼女が泣き止むまで、真知は静かに注ぎ続けた。

「もう平気……ありがとう」

 いつまでもあやされていることが恥ずかしくて、真知の手をそっと除ける。

「大丈夫じゃなくなったらまたおいで。この店で取り繕う必要なんてないんだから」

 真知が送り出そうとしてくれたときだった。店の扉が不意に開いた。

 カラコロとベルの音とともに入って来たのは、130センチあまりの女の子だった。もみあげだけを長く伸ばしてあとは短く揃えた金髪の、蛇のような紅い瞳の女の子。その体も、纏った雰囲気も小さくて繊細で、キュッと抱き締めれば壊れてしまうのではないかと不安になるほどだった。

「真知に泣かされたの?」

 みづほの赤く腫れ上がった目を見て、女の子は言う。小さすぎる女の子は座っているみづほよりも僅かに低く、自然と、女の子はみづほを見上げる形となる。

「う、ううん、違うの。これは慰めてもらっただけで、泣かされたのとは違うの」

 目を擦って涙の跡をぼやかし、それからみづほは女の子に向き直った。

「それとね、真知なんて呼び捨てにしたらダメじゃない。真知お兄ちゃんでしょう?」

 宥めるように言った瞬間、カウンター内から盛大に噴き出す音が聞こえた。目をやると、笑い出すのを堪え切れないといった感じに、真知が口を押さえながら激しく肩を震わせていた。

 対照的に女の子は「あぁ⁉」と怒り心頭の様子で歯牙を剥き出しにした。

「真知さん! 何ですか⁉ 何で笑い死にそうなの⁉」

「い、いや、真知お兄ちゃんって」

「それのどこがおかしいの? 小学生なんだから、お兄ちゃんぐらい付けたって」

「ぶふうっ――ヒィィ、イヒッ」

 笑い声は決壊して、真知はカウンターに突っ伏して息も絶え絶えに笑い始めた。

(本当に何なの?)

 みづほが困り果てたとき、下方から伸びてきた手がみづほの胸倉を掴んだ。

「ちょっと真知! なんだってこんな無礼な子を店に入れたのよ!」

 真知に答える余裕はない。呼吸するだけで精一杯のようだ。

「だいたいアンタ! どうして私が真知を『お兄ちゃん』なんて呼ばなきゃいけないの⁉」

 みづほは目を白黒させて何も言い返せない。女の子はさらに憤慨を募らせて、

「私は真知より年上よ!」

 みづほの思考を止めた。

「その人、僕の先輩。この店の主人だよ」

 ようやく笑いを呑み込んだ真知が補足する。みづほは目を瞠り、女の子と真知を交互に見つめ、次いで自分と女の子の姿も見比べた。導き出された結論は、

「あり得ない」

「事実よ!」

「だって、ロリじゃん。ちっちゃいし、おっぱいないし、貧乳どころか壁、くびれもなくて、もはや幼児体型。それで真知より年上っていうのは、ちょっとないというか、かわいそう」

 つらつらと吐き出された言葉は容赦なく女の子の胸を抉り、彼女を崩れ落ちさせるには充分だった。不運なことに女の子の手はみづほの胸倉を掴んだまま。元より張り詰め気味だったボタンは負荷に耐え切れずピンッと弾け、ピンピンッとリズミカルに弾け飛んでいき、女の子とは対照的なまでによく成熟した、みづほの豊満な胸を曝け出した。

「ヒュウ……」

 真知が口笛を吹く。ふるりと、みづほのぎこちない挙動に合わせて、彼女の胸はやわらかさを誇示するように揺れた。下着(ブラジャー)で支えきれないほどの大容量と、大質量。

「うわああん! 見せつけるなあ!」「いやああああ!」

 女の子は劣等感から、みづほは羞恥心から頬を紅潮させ、狭苦しい店内にあらん限りの悲鳴を轟かせ、机上の珈琲カップを僅かに揺らした。


「さて、落ち着いたかな? 落ち着いてね、頼むから」

 女の子とみづほ、二人が落ち着きを取り戻したことを認めてから、真知は咳払いとともに切り出した。彼の両頬には真っ赤な(もみじ)が咲いていた。ひとつは「見ないで!」とみづほに付けられたもの。ひとつは「真知の裏切り者!」と女の子に付けられたもの。

 女の子の場合は「届かない! 屈め!」と前置きしてからの椛だった。

髙田(たかだ)美玖(みく)。前にも話したけど、僕の高校時代の先輩だ」

 金髪の女の子を手で示して真知は言う。

「僕が十九で先輩は二十歳。みづほは……」

「高校二年生、十七」

「うん。だから三歳差。間違っても、というより間違えた結果がこれなんだけど、みづほより年上だから。人生の先駆者と言ってもいい」

「年上……」

 言葉の意味を吟味するかのように慎重に繰り返して、みづほは美玖を見つめた。説明されたところで実感は湧かない。美玖の外見は、どれだけ高く見積もったとしても小学校六年生が限度というものだ。肉体的な成熟だけのことではない。たとえ成熟が普通よりも著しく低いのだとしても、齢を重ねれば顔立ちや表情といった点でも変化は訪れるはずだ。老いが垣間見えるはずだ。それなのに、美玖にはそれさえもない。心だけが大人びている。まるで、時が止まり、成長という概念から切り離されて、精神だけが先行したかのように。

「その、ごめんなさい」

 仏頂面でカウンター席に腰かける――床には届かないため両足はぶらぶらと浮いていた――美玖に向けて、みづほは頭を下げた。美玖はふん、とそっぽを向き「もういいわよ」と諦めるように言った。そういうことを言われるのは聞き飽きたと言わんばかりに。

「美玖さんは……」

「美玖でいいわ。真知のことは真知って呼んでるんでしょ?」

「じゃあ、美玖は、何のお仕事をしているの? この店以外にも忙しいって聞いたけど」

 気のせいか、美玖の眼光に翳りが落ちた。妖艶だと、みづほは息を呑む。改めて意識すれば美玖ほどミステリアスという形容詞が似合う人間に出会ったことはない。誰も警戒心を抱くことのできない端麗な少女としての相貌、庇護欲と愛情を注ぎたくなる繊細な雰囲気。その陰から唐突に危うさが顔を覗かせる。悪寒と恐怖を抱かせる紅い瞳。鋭い眼光に射抜かれると背筋が凍る。それは、もう、人間ではないかのように。そう、それこそ真知の小説に登場したヒトならざる存在なのではないかと疑ってしまうほどに。

「詳しいことを話したところであなたにはまだ理解できないだろうけど、私の仕事は複雑に絡み合った糸をほどくことよ。人生というしがらみの中で形成された巨大な糸の塊から、たった一本の赤い糸を見つけ出して、取り除くか、折り合いをつけること」

「赤い糸?」

「複雑な事情が生んだ、複雑な感情が成長させた目に見えない腫瘍。心の癌。放っておけば本人に破滅をもたらすばかりか、周囲の人間にも危害を及ぼす」

 意味を解釈するために、みづほはしばらく頭を悩ませた。

「…………心理カウンセラーみたいなもの?」

「もっと凶暴で、もっと人間に踏み込んでいるけれどそんなものだよ」

 真知が代わりに答える。グラスを拭く音が、静かな店内に響いた。

 要領を得ないけれど美玖と真知が意地悪をしているわけではない。おそらく、本当に理解できないのだ。包み隠すことなく伝えたところでみづほは「そんなことはあり得ない」と否定する。それほどまでにみづほの常識からは乖離した世界に、彼等は身を置いている。

 背筋に伝った震えが効きすぎの冷房によるものなのか、美玖と真知が発する言い知れない雰囲気によるものなのか、みづほには判別が付かなかった。

「みづほ。そういうあなたも、複雑な事情を抱えているわね」

 身を寄せられて、みづほは驚いたように目を瞠り、ゆっくりと真知を見つめた。

 伝えたの?

 みづほの眼差しは訊ねる。真知を首を振ることで否定した。

『複雑な事情』が学校のことを指すのか、夢のことなのかは分からない。けれど、美玖が真っ赤な双眸を通して何かを認めていることだけは確かだった。

「分かるの?」と凡庸に訊ねた。

「分かるわ。この店に来ていることが理由のひとつ」

「私は真知に招待されただけなんだけど」

「でも入れたでしょう? 店が見えたでしょう? いいえ、真知が見えたでしょう?」

「でも、そんなの、当たり前で――」

「そうね、それなら目を晴らしてあげる。そうしたら理解できるようになるから。理解――できなくなるから」

 美玖は椅子の上で器用に正座をするとみづほを手招きした。訝しみながらも素直に従い、みづほは美玖の前に立つ。

「動かないで、目を瞑って」

 命じられたままにすると側頭部に小さな手が添えられ、ちゅ、ちゅ、と両目にやわらかな何かが触れた。美玖にキスをされたのだと――目にされるだなんてマニアックなことは普通は考えないけれど――みづほは感じた。

「開いて」

「…………何も変わらないけど?」

「店を出れば分かるわよ。あなたの事情に関しても、もうすぐに。殻が破れるまで三日というところかしら。気を付けなさい。予兆はあったはずよ」

(知っている。この人は、私のことを私よりも理解している)

 開かれた唇に、美玖は指で封をした。少女にしか見えない大人は、少女であるみづほをそっと諭す。人生の、世界の真理の先駆者として――

 追い打ちをかけるように壁時計が午後六時を知らせた。

「もう帰った方がいいね」

 真知さえも冷たい。みづほの仮面が僅かに崩れる。気丈な言葉と毅然とした表情で取り繕ってきた、隠してきた、他人に逆らえない自分がぬらりともたげてくる。

「分かり……ました」

「見送るよ」

 真知が扉を開けてくれる。俯いた顔を持ち上げることができないまま、みづほは敷居を跨いだ。外に出た。背中を向けたままで、ありったけの勇気を振り絞って訊ねる。

「明日も、来ていいですか?」

「明日からは来れないと思うよ」

 真知の答えに驚いて、背後を振り返る。突風がみづほを貫いた。

 そこに喫茶店はなかった。荒れ果てた空き地が、ひっそりと広がっているだけだった。

「うそ……」

 沈みゆく太陽を背景に、扉を閉める音だけが聞こえた。

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