楊梅
祖母の家の匂いだ。
畳の井草と、お仏壇のお線香と、隣の工場の錆びた鉄の匂い。
じんわり汗をかきながらお針仕事をしていたときのあの匂いに似ている。
瞼を開けたが、真っ暗だった。
場の静けさから察するに今は夜中。だが夜の暗がりとも違い、濃淡がなく無機質だった。
頭を動かし視線を変えようとするが景色は同じ。代わりに柔らかい羽毛の塊が頭を擦れ、自分は今枕に頭をつけて、仰向けに寝ているのだと分かった。
「あれ、起きた?」
その晴れやかな声と共に、一枚の布で遮られていた視界が開けた。
やはり夜だった。薄暗い中、視界の端にぼんやりと橙の灯りが見える。
「おはよう」
こちらを覗き込んで微笑む彼に、今は夜じゃないの、と言おうとしたが、声にならなかった。その代わりひゅうと音を立てて息が漏れた。同時に口の端から頬に唾液が伝い、彼は愛おしげに目を細める。そのまま顔から身体に視線を下げて、彼はすっと目の前から消えた。
追いかけるように首をもち上げれば、全身に赤い糸が絡まっていた。
一本ではなく、何本も。長さも様々。
一番短いのは胸骨から右胸の途中まで。一番長いのはふくらはぎの裏から鼠径を通ってお臍まで。
真上から身体を見下ろしていた彼は、自身の身体を落としてその刻まれた赤い糸をなぞる。指先の動きは優しかったり、そうでなかったり。指の腹で撫でる時もあれば、綺麗な爪を立てて糸を太くしようとする時もある。
彼が胸骨のところで親指の爪を押し付けると、無意識に息が漏れた。
じわりと増した痛みを、彼はちろりと赤い舌を出して舐めとる。そのまま彼は、自身が刻み付けた赤い糸を回収するように、唇を這わせていった。
身体は糸ごと絡め取られるようなのに、彼の思うまま腕は動く。脚も伸びる。
やはり声にならず、再び唾が溢れた。
「どういたしまして」
その反応に彼は目を細めて、頬の唾液を中指で掬う。それを彼は自身の口に含むと、ご褒美をもらった子供のように嬉しそうに笑った。
彼の口の周りには楊梅を食い散らかしたような赤い汁がこびり付いていた。
お読み頂きありがとうございます。
本文の赤い糸についてだけ追記させて頂きます。
気にされた方おりましたら下記をご覧頂ければ幸いです。ただし痛いのが苦手な方はご注意下さい。
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赤い糸は切り傷を表現しております。
全身に絡んでいる、ということで全身の刃物傷です。
最後の楊梅の赤い汁は彼女(一応女ということで)の血液のことでした。
改めまして、お読み頂き本当にありがとうございました。