第九話「地上の海」
午前10時。入場が始まった。体育館は1000人を超える観客で埋まった。通常の公演では若い男性の比率が高いが、今回は見たところ老若男女満遍なくいる。当然、料金は取らない。学校には俺が許可を得た。予定では1曲のみのライブに向け、moonは新しい曲を用意している。1曲分のCDしかないので、残りはトークで埋める。
10時15分。moonがステージに上がる。拍手で迎えられた。高校の体育館なので照明や音響の設備が整っていない。ピンマイクを横須賀から持っていくのが精一杯だった。つまり、ごまかしがきかない純粋な歌で勝負するということだ。曲は唐魏野さんの心情を辻さんが詩に、根本さんが曲に表して、それを合体させたものだ。
曲が終わる。観衆は静かに聞いていた。静寂はやがて拍手に変わった。5人とも頭を下げる。拍手は次第に一定のリズムを刻むようになった。アンコールを表す。
「ありがとうございます。ただ、他の曲のCDを持ってきてないんです。ごめんなさい」
唐魏野さんが説明した。
最後の挨拶を終え、退場しようとしたmoonを、わざわざ避難先の愛知県からいらした唐魏野さんの恩師が呼び止めた。お礼の手紙を用意していたそうだ。唐魏野さんがちらっと2階の俺を見たが、俺も聞いてない。あれだ、サプライズってやつだ。朗読を終え、手紙が唐魏野さんに渡された。
唐魏野さんが手紙を受け取った手は左手だった。moonはみんな右利きだし、唐魏野さんは渡されたものは両手で受け取る人なので珍しかった。だが、右手の行方を見た瞬間納得した。それは唐魏野さんの目を押さえていた。これで俺はmoon全員の喜怒哀楽をコンプリートした。個人的に俺は人の表情をコンプリートすれば親しい人と認識するようにしている。
ライブが終わり、横須賀に帰る。見送っていただくのはありがたいのだが、衆人環視の中で車を運転するのはあまり得意でない。窓の外には三陸の海。今日の波は穏やかだ。学校が見えなくなってから高速道路に乗る。横須賀までは結構かかるので、金成パーキングエリアで休憩しよう。売店があったので見るだけ見てみる。
「あの自販機……珍しいやつだよ……」
志村さんがいきなり何か言い始めた。我が同僚が反応した。
「あの白いやつ?」
「うん……普通の自販機の中で1番細長いんだって……」
「そうなんだ」
志村さんは自動販売機に詳しいらしい。みんな細長い販売機の前で写真を撮っている。俺だけ何か買ってこよう。売店に入る。パンにすべきか、はたまたおにぎりか。
「私はパンが食べたいです」
「おわあっ!?」
いつの間にか唐魏野さんがいた。驚かせてすみませんと謝られた。謝らなくていいんですよ。
唐魏野さんのリクエストはイーグルスとタイアップされたカレーパンだった。
「佐藤さんは、野球に興味ありませんか?」
「ええまあ、近代五種競技の牡鹿 志保さんは応援してますが、そもそもスポーツ全体があまり……」
「へえ。牡鹿志保さんって、聞かない方ですね」
確かにメジャーな人ではない。だが、今年のオリンピックでメダルを取れると俺は確信している。
「牡鹿さんはロンドンオリンピックから有名になりますよ。賭けてもいいです」
「あら、じゃあ私も賭けます。イーグルスはいつか日本一になりますよ」
これが野球賭博ってやつか。冗談はさておき、賭けに勝ったほうが夕食を1度奢る約束になった。ほとんど唐魏野さんの一方的な約束だったが。まさかこの時、ロンドンオリンピック直後、そして2013年11月、お互いの夕食を奢り合うことになるとは思っていなかった。