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短編

陽黎宮の書庫係

作者:

 つんと尖った唇が、彼女の不機嫌さを示していた。

 父アツギはそれに気付かない。見向きもしない。正反対の輝かんばかりの笑顔には、だらしなくゆるんだ頬が付随する。自慢げな様子がありありと見てとれて、ミサギはひそかにため息をついた。そのため息も、父が意気揚々とふり向いたときにはきれいに消し去ってみせる。

「ミサギ、これが父の仕事場だ。陽黎宮《一の庭》、皇室直属の書庫! 素晴らしいだろう、ここに勤めるために、父がどれだけの研鑽を積み重ねたことか!」

「はい、父さま。……あの、それで、皇宮見学のほうは」

「よく見ておくといい、ミサギ。我が家の書斎でも見ることすら叶わぬ本ばかりだぞ。汚さなければ手に取ってみても構わぬから」

「はあ」

 ミサギは気の抜けた返事をした。この父親は、一人娘の話などろくに聞いてはいないのだ。

 確かに父の自慢ももっともなことである。皇族の住まう陽黎宮、その書庫の管理を任されるまでの道程が、どれほど険しく困難なものであるかを知らないミサギではない。だがミサギとて少女の楽しみを知りはじめたばかりの娘だ。諸侯でさえやすやすと入ることのかなわない皇宮に足を踏み入れたはずが、わき目もふらずに書庫へ誘われては流石に渋面にもなる。

 ――あとで非難しておきましょう。

 ミサギは心に決め、仕方なしに書棚のほうへ目を向けた。父が文官であることもあり、近い年頃の儒子らと比べれば、学問にはいくばくかの心得があると自負している。だが、やはりと言うべきか、連なる本の題のどれにも心が惹かれることはない。ミサギがげんなりとした表情を隠せなくなってきたころ、書庫の扉から呼ぶ声があった。

「アツギ殿、おられますか」

「ええ、ここに。どうなさいました」

 父が早足で応対に出る。外から顔をのぞかせたのは、おそらく官吏のひとりなのだろう。そこはかとなく湧いた所在なさにミサギは指先を擦り合わせる。

 いくらか会話が交わされ、アツギが大きくうなずいた。

「解りました、参りましょう。……ミサギ、聞いていたね」

「え、は、はいっ」

 父が困ったように笑う。「父は少しばかりここを離れる。そのあいだ、ミサギ、お前はここで待っていなさい」

 わかりました、いってらっしゃいませ。仰々しく頭を下げる。官吏の青年が微笑ましいものを見るように目を細めたのが癇に障ったが、ひとりぽつんと残された瞬間にそんなことはどうでもよくなった。

 友人たちの言う、『書の前に縛りつけられるよう』という例えはまさにこのようなものだろうか。さほどの興味も持てない場所で父を待つことは、ただひたすらに苦痛だった。光のほとんど入らない書庫にはかすかに埃のにおいがして、それがミサギの気持ちをさらに深く沈ませる。

 ためしに書の数冊を手にとっても、そこに綴られているのは帝王学と呼ばれるもののたぐいだ。ミサギの理解が追いつくはずもない。むっつりと顔をしかめたのもわずかのあいだで、再度扉が開かれる音に首を動かす。

 静かな所作で足を踏み入れてきたのは、腰の曲がった老人であった。緩く身を包む道袍トポは暗い深海の色。それだけでも珍しくはあるが、生地にはさらに細かな蔦の刺繍が為されている。意匠をこらされたつくりはそう手に入るものではないだろう。

 ――高貴な方だわ。

 幼心にそう思い、ミサギは足元から徐々に視線を上げてゆく。だがその顔を眸に収めようとしたとき、彼女の目の前が突如、黒に塗りつぶされた。同時にむんずと口をふさがれる。そのまま書棚の陰にひっぱりこまれ、ミサギは抵抗も許されずに後ろへ転がった。

 暴れる。が、何者かの手はミサギをとらえて離さない。じたばたと手足を振り回すあいだに、暗闇の向こうからは老人の呟き声が届いてきた。

「管理官はおらぬか……ふむ、出直すとしよう」

 すぐに扉の閉められる音が続く。それにともなって、ミサギを抱えていた手が払われた。跳びはねるようにして離れると、小さなまなこと目があう。

 そこにいたのは、果たして、少年であった。奴婢のようなつぎはぎだらけの服からひょろりと伸びた手足に、服装に似合わないぬばたまの黒髪、日焼けのない肌。町で見かければふり返るような外見をしているが、あいにくと今のミサギにその分別はない。

「なにをするのよ!」

「それはこちらの台詞だ!」叱りつけたミサギの意に反して、少年は声を荒げる。「おまえのような童がどうしてこのような場所にいる、ここは皇宮の書庫だぞ! よもや今おいでになった方がどなたか、存じぬとは言うまいな!」

 その剣幕にたじろぎ、「だ、誰だって言うのよ」と返す声はひ弱になった。

 少年は面食らったように一度口を止め、それから肩をすくめる。

「呆れたな、おまえ。それでも臣民か。自分の仕える帝の御姿も知らぬとは」

「帝、って、皇帝陛下!? 今のが!?」

「声が大きい!」

「あなたも十分大きいわよ!」

 しばし睨みあったふたりだが、らちが明かないと先に引いたのは少年のほうであった。ひとつ息をついて、うなずいてみせる。

「……わかった。わかった、ひとまず落ち着くとしよう。お前は陛下の御姿を存じ上げていなかった、だからご尊顔を眺めようなどと考えたのだな」

 ミサギはうっと詰まって、しぶしぶうなずいた。

 皇帝の眸には神の威光が宿る。臣民がそれを目にすればたちまち両目がつぶれ、二度とものを見ることはままならなくなる――それは俗説を越え、もはや確然たる事実として語り継がれている。ひとは布越しでなければ皇帝の顔を見ることはかなわないのだ。

 少年は納得したのか、ふむと声を漏らして腕を組んだ。

「もうひとつ、おまえは何故ここにいる? 町娘がやすやすと入りこめる場所ではあるまい」

 ここ陽黎宮は皇族と、かれらに仕える官吏のみが出入りを許される皇居だ。その敷地は《一の庭》と《二の庭》に分けられている。《二の庭》には迷いこみこそすれ、《一の庭》まではそうはいかない。皇族の寝室やこの書庫を含む《一の庭》は、小鼠一匹入らせようとはしない警護の下にあるためだ。

 ミサギは自分の手柄ではないものの胸を張る。父の自慢は娘の自慢だ。

「私の父さまはこの書庫の管理をしているの。だから私を連れてきてくださったのよ」

「アツギ殿の? 娘がいるとは伺っていたが……似ていないな、おまえ」

「なんですって!? あなたが父さまの何を知っているっていうのよ!」

 これでも叔父さまや叔母さまからはそっくりだと言われているんだから。頬を膨らませて怒るが、少年はむ、と眉を寄せた。

「知っていて当然だろう。私は皇子なのだから」

 時が止まったかのようだった。

 ミサギは目を丸くし、わずかな沈黙ののち、腹を抱えて笑いだした。怪訝な顔をした少年を前にひとしきり笑い転げたのち、「馬鹿なことを言うものじゃないわ!」と大きく首を振る。「皇子殿下を騙るなんて、あなた、天罰が下るわよ。それに残念ね、私は皇太子殿下を見たことがあるの。あなたとは似ても似つかない立派なお方だったわ」

「私は第二皇子だ。お前が目にしたのは兄上ではないか」

「まだ言うのね、嘘ばかりついていると本当に天罰が下るわよ。雷が落ちても知らないから」

「だから本物だと……ああもういい! 信じるつもりがないのはよくわかった」

 当然でしょうとミサギは首肯した。つい先ほど皇帝の双眸の話をしたところでもある。彼が真に皇族であるならば、その威光の少しばかりでも宿していてしかるべきだ。

 証明する手段を持っていないことを自分でも感じていたのだろう。諦めた少年が肩を落とす。

「これほど無礼な輩は初めて見たぞ。おい、童。おまえはここで何をしていた?」

「童って呼ばないで。もう十三よ。……父さまの留守を預かっていたの」

 まったく不本意なことではあるが。心のうちに秘めたひとりごとには気付かれてしまっただろうか。少年が首をかしげた。

「随分つまらなそうにしていたが」

「なによ、見ていたの? 仕方ないでしょう、書はあまり好きじゃないの。外で遊ぶ方が楽しいし、父さまはろくに皇宮を見せてくださらないから」

 そうして元通りに唇が尖ってしまう。少年はその顔をじっと眺めていたが、やがてにいと笑った。

「ならば私に付き合え。ちょうど暇を持て余していたところだ」

「そ、そんなことできないわ。父さまの言いつけだもの」

 家の主にして自分を産んだ父、科挙に合格して陽黎宮の書庫管理官となった父。敬うべき相手にして、娘からすれば絶対の相手だ。

 だが少年は満面に浮かべた笑顔を崩さない。きらきらした眸は、威光を宿さずともミサギの胸を突いた。

「皇宮のなかを見たいのだろう? えも言われぬ美しい調度が沢山あるぞ」

「…………み、たい」

 でも。付け足そうとした逆接は、突如彼に手を取られた驚きにかき消された。息を飲んだミサギに、遊び相手を見つけた喜びで顔を輝かせた少年は力強くうなずいてみせる。

「ならば見れば良い。私が許す」

「許すって、あなたね」

 眉をひそめる。文句を言おうとしたミサギであったが、少年はああそうかと思い至ったように呟いた。

「イグナ=エジ。私の名だ。おまえは?」

 ――まだ皇子を騙るつもりね。

 こちらが信じないことなど関係ないと言わんばかりである。かつて書堂で聞かされたたことのある第二皇子の名にむっとしつつも、礼儀として「ミサギよ」と名乗り返した。

「よしミサギ、まずは外からだ。翔園の池をまわるぞ」

 手を引いて、無邪気な表情でイグナが書庫の扉を開け放つ。途端に目に入った太陽の光に目を刺されながら、ミサギは自身の受難を思わずにはいられなかった。




 陽光をたたえた翔園の池、さざ波に翼をはためかせた飛べない鴨の群れ。蓮の花は輪廻転生の行く先を憂うように薄紅の花弁を揺らし、切りそろえられた庭園の草木を和やかな風がさらっていった。

 伽語りのなかのような風景に眸を輝かせたミサギの手を無遠慮に引いて、イグナが次に向かったのは《二の庭》であった。《一の庭》に比べいくらか人通りの多いそこには、あちこちに書堂が構えられている。皇室の血を引く者が日々勉学に励んでいるのだと片手間に説明しながら、イグナはずんずんと歩を進めてゆく。

「《一の庭》の書庫に入れるのは、彼らよりももっと位の高い……皇帝の座を受け継ぐ者か、管理を任された者のみだ」

 説明がてらのつもりだったのだろう、早口のそれを、しかしミサギは聞き逃さなかった。

「それじゃあ、あなた、やっぱり勝手に忍び込んだのね。白状なさい、どこの町の子どもなの! 父さまに言いつけてやるんだから」

「だから私は皇子だと……っと、隠れろ!」

 反発する間もなく、押し込む形で庭樹の茂みに連れ込まれる。強引な態度は先と同じだ。ミサギがいらだち紛れに彼の腕を引きはがして体制を整えたとき、すぐそばを足音が通り過ぎていった。

 《二の庭》に仕える官吏の者だろう。ふたり連れの彼らが遠くに消えるのを見送って、イグナがささやいた。

「あれは皇太子仕えの者だな。おいミサギ、見つかるでないぞ。いくらアツギ殿の娘とあっても、こんなところでうろうろしているのを見つかればただではおかない。頼みのアツギ殿も共には……ミサギ?」

 ミサギが勝ち誇った笑みを浮かべる。訝しげにしたイグナに、彼女はふふんと笑声を漏らした。

「ほおら見なさい! あなただって見つかりたくないんだわ、皇子なんて嘘をついているのが丸わかりよ!」

 イグナは目をぱちくりさせ、それから数秒、ついに笑いだした。なにがおかしいのかと睨みつけたミサギをよそに長いあいだ笑い続け、腹が痛くなったのか苦しそうに息をする。

「ふう、ここまで無礼だと、いっそすがすがしいな。おまえは大物になるぞ」

「あ……当たり前でしょう。父さまの娘なんだから」

「ほお、先ほどは勉強が嫌いだと言っていたではないか」

 痛いところを突かれた。ややあって、「べつに」と首を振る。「勉強が嫌いなわけじゃないわ。楽しいと思えないだけ。将来のことだって、まだ決まっていないのに」

 ぼそぼそと言い訳じみた返答をすれば、イグナは意外そうにまばたきをくり返した。

「アツギ殿の後を継ごうとは思わぬのか。自慢の父君なのだろう」

「もちろん、素敵な役職だとは思うわ。でも私、まだ十三よ。それに女だわ。今は知らないだけで、もっと違う世界があるかもしれない」

 文官以外にも生はある。そう言ったのは他でもない、父であるアツギ自身だ。女性が科挙に合格した例が未だかつて存在しないことを鑑みれば、父が息子を望んでいたのは明らかなことである。それでもアツギは一人娘の未来を案じてくれたのだ。

「おや、もう十三だと言っていたのはどこの誰だったか」

 茶化された。自分が真剣に話していたのが無性に悔しくなって、ミサギはだんだんと地団太を踏んだ。

「うるさい! ……って、ああっ、衣が汚れてる! もう、あなたのせいよ!」

「ははは、似合っているぞ、ミサギ」

「うるさいうるさいうるさーい! 馬鹿! ばかあああ!」

 けたたましい声で叫ぶ。その声が目の前の少年を含めて誰の耳にも入らなかったのは、果たして幸運なことであったのか。




 書庫を飛び出したときにはまだ頭上にあった太陽が、朱の衣をまといながら山の端へと沈みこもうとしている。《二の庭》を大回りに巡り、ふたたび《一の庭》へ戻ってきたころには、ミサギの細い脚は悲鳴を上げる寸前だった。気を抜けばがくがくと震えだしそうになるのを、歯を食いしばって抑えつける。

「歩きまわりすぎたな」

 申し訳なさそうにしたイグナに、ほんとうよ、と返すのが精いっぱいの有様である。彼は空の色を目に収め、いくらか残念そうな顔をした。

「そろそろ書庫に戻るとするか。送っていこう」

 そうして先を進んだイグナは、しかし数歩のところで立ち止まってしまう。なにごとか言ってやろうとするも、陰になった彼の表情に勢いがかき消された。

 どうしたのとだけ問うと、イグナは迷うように口を開閉して、うなずいた。

「もうひとつだけ、ともに来て欲しい場所がある」

 言いながら、目はすでに、一点に向けられている。ミサギが彼の視線をたどると、そこには《一の庭》に不釣り合いな屋敷が構えられていた。町人が住むには大きいことに違いはないが、かと言って貴族身分である両班が居を置くにはいささか小ぢんまりとしているふうがある。陽黎宮の《一の庭》に建てつけられるならなおのことだ。

「誰が住んでいるの?」

「兄上だ」

「あにうえ?」

「皇太子殿下、第一皇子。そう言ったほうが馴染みはあるか」

 まだ皇子だなんて言うつもり、と反目しようとしたのを、ミサギはすんでのところで飲みこんだ。飲みこませるだけの重みを感じていた。彼女をちらと見やってから、イグナは足を遊ばせるかのようにゆらりと進みだす。

「兄上は重病を患っておられる。心の臓の病らしい。医者の見立てでは、成人するまでもたないという」

「皇太子殿下が? 嘘でしょう、私たちの前に御姿を見せてくださったときは、あんなにお元気そうにしていらっしゃったのに」

 イグナが苦々しく笑った。なにも知らないのだな、と言いたげな表情はどこか遠いもののようで、ミサギに一抹の寂しさを感じさせる。

「やがては一国を負う皇太子の御身で、容易く民草の前に出てゆかれるとでも思うのか? おまえが見たのはおそらく影だ。よく似た別人が、兄上の代わりに喋っていたのだろう」言葉を失うミサギに目をやることもなく、イグナは続ける。「兄上が逝去なさったなら、私が皇帝になる。いつかは帝位をも継承するだろう。私はそれが、恐ろしい」

 ついに屋敷の前に足を止める。体裁だけが取り繕われた扉を見上げ、彼はまぶしそうに目を細めた。

「兄上の座を奪うようなものだ。死に乗じて皇帝になるなどと」

 ミサギは彼の顔を仰いだ。薄い扉越しに見つめるのは、病に伏した兄の寝姿だろうか。

 そうして昼の会話を思い出す。将来に迷うのは、ならば、彼も同じなのだ。しかしそれは選択肢が増えるゆえの苦悩ではない。ひとつに定められているゆえの苦悩だ。

 黙っているのがいたたまれなくなって、ミサギは指を擦り合わせた。「私は、まだあなたを信じられはしないけど」もごもごと口を動かし、不思議そうな顔をしたイグナを見つめた。「亡くなった母さまは、私に幸せになるなとは言わなかったわ。最期まで笑っていてくださった。あなたの兄さまも、そうじゃないかしら」

「おまえ、母君を……」

「あなたは皇太子殿下ではなくて、兄さまに会いに来たのでしょう? ほら、行ってらっしゃい。私はここで待っているわ」語気を強くして、ミサギは無理に笑ってみせた。

 イグナは扉とミサギとを交互に見て、やがて力の入っていた肩をゆっくりと下ろす。彼のこわばった表情がやわらいでゆくのがはっきりと見て取れた。

「今日は楽しかった。おまえのおかげだ。あちこち連れまわしてすまなかった。……ありがとう。ほんとうに、ありがとう。ミサギ」

 凛と笑んだのはひととき。屋敷に姿を消した彼を見送って、ミサギは息をついた。それまで彼女を支えてきたものがなくなったのか、足が崩れ、地面に尻をつく。

 風がそよぐ。まとめられるほどには長くない髪がなだらかに波打った。

 ――ありがとう、なんて。まるでお別れの言葉じゃない。

 立ち上がろうともせず、じんと痛む膝を抱えて彼を想う。衣が汚れてしまうのも気にはならなかった。はしたない娘になったものだと唇を噛む。

 ――ううん、お別れなんだわ。イグナは本物の第二皇子なんだ。

 うすうすと気付いていたそれを信じようとしなかったのは、認めてしまった瞬間に、あの少年が目の前から消えてしまうような気がしていたからだ。すべてのものが新しく、大きく、きらびやかでうつくしい世界へ。ミサギは夢見るような心地で立っていたが、彼にとってはこの地こそが現実なのだ。

 夢は醒める。一日が終われば。

 遠くに声を聞いて、ミサギはそこではっとした。四方から彼女を目がけて走り寄ってくるのは、一様に槍を手にした警護の兵たちだ。逃げようと頭では思っても、すでにがたの来てしまった足では立ち上がるだけの力すら出ない。あっという間に取り囲まれ、研ぎ澄まされた穂先を向けられる。

「娘、ここで何をしている! 陽黎宮《一の庭》と知ってのことなら許さぬぞ!」

「言え、狙いは皇太子殿下か!」

 恐れに導かれて目を凝らせば、穂先はいっそう鈍い輝きを放つ。薄くこびりついた汚れが何であるかぐらいはすぐに想像がついた。

 ひとりでに体が震えだす。事情を話さねばとはやる心とは裏腹に、歯はかたかたと揺れて噛み合おうとしない。立ち向かうだけの勇気が、イグナを相手にしたときのような言葉が出て来ないのだ。

 彼が子供であったから反抗心が生まれた。大人を相手取れば、ミサギの確かな自負心と自尊心も指先ひとつ動かす力にすらなりはしない。

 なにか、何か言わなければ。ついに重圧に押しつぶされそうになったそのとき、勢いよく背中の扉が開け放たれた。

「槍を引け!」

 果敢な声。聞き慣れたはずのそれに反応してふり仰ぐ。背に立った少年の影が、やけにくっきりとミサギの目に映った。

「それは私の友人だ。槍を引け」

「殿下、ですが」

「身元の確認は取れている。《一の庭》の皇室書庫管理官、アツギ=ジド殿のご息女だ」

 アツギ殿の。ささめき声が漏れる。彼らのような武官に名が伝わるほど、父は有能な文官なのだ。そしてそれを認めさせるだけの権威が、少年にはある。

 いくらかして渋々といった体で槍が下ろされたとき、ミサギは呆けた顔で少年を見上げていた。大勢の大人を相手に物怖じすることのなかった彼はそれに気が付き、一度だけ視線をよこしたが、すぐに兵たちに向き合う。

「アツギ殿を呼んで参れ。書庫に戻っておられるだろう、彼女を捜しているはずだ」

「御意に。……殿下、私どもが戻るまでは」

「ああ、ここにいる。雷も甘んじて受けよう」

 彼の言葉に嘘はないと確信したのか、彼らは「失礼いたします」と言い残して去っていく。最後までミサギに謝さぬままで背を向けたのは、彼らに残った矜持の一端であったのだろう。ミサギとて自身が不審であったことの理解はあった。

 ふたり残され、彼らを見送ったイグナがミサギに手を差し出した。躊躇の末にその手を取って、震えながらも立ち上がる。

「あの、ええと」

 第二皇子であり、未来の皇太子であり、ゆくゆくは皇帝となる少年だ。まるで貝が殻を閉じてしまったかのように口ごもって、それ以上は一言も発することができなかった。イグナが馬鹿にするように笑う。

「随分間抜けな顔だな、ミサギ。昼の威勢はどうした?」

「間抜けって……!」

「おまえなら、あれに食ってかかるぐらいはすると思ったがな」

「で、できるわけがないでしょう!? あなたじゃ、……あるまいし」

 声がか細くなる。自分がみっともなく思えて、ミサギは人知れず奥歯をかみしめた。対する彼はきょとんとして、それから納得したように大きくうなずいた。

「そうだな、おまえにはできない。その通りだ」

 やけに素直な物言いをミサギが訝しんだのはつかの間。イグナは急に真面目な表情を見せ、正面から彼女の眸を覗きこんだ。

 彼の目にらんらんと輝くこれは、自信の光だろうか。見るものを惹きつけるものは、もはや威光をも超越した為政者の力ではないのか。

「おまえには私にできないことができるのだろう。町を駆け回ることも、民と同じ目線で会話をすることも。だが、おまえにできないことが、私にはできる。それがもはや天に定められたことであるなら、」息をつくことを。瞬くことを、許さない。イグナの眸に映った少女がごくりとつばを飲んだ。「なあ、ミサギ。私は皇太子になるぞ。そしていつか皇帝になる。そのときには、決して、おまえに偽物などとは言わせぬ。おまえが目を見ることすら畏れるような皇帝になるぞ。楽しみにしていろ」

 日が沈む。白壁をまとう陽黎宮が朱金の輝きに彩られる。翔園の池が、道行く官吏らの白い衣が、全くのあかに染め上げられる。

 自らを呼ぶ父の声を耳の端にとらえながら、ミサギはきつく拳を握りしめた。「イグナ、それなら私は、父さまの後を継ぐわ」十三の身には早すぎる望みであるかもしれない。女には不相応な願いであったかもしれない。だが、ミサギが幼い顔を突き合わせた彼だけは、気高い誓いをするに十二分な相手であった。「そしてあなたが皇帝になるのを、すぐそばで見届ける。待っていなさい、私は絶対にここに戻ってくるから」

「ああ、ああ!」心から。心から、嬉しそうに。イグナが笑う。「いいか、あまり待たせるなよ。私は気が短いぞ」

「上等だわ。あなたこそ、皇帝になる前に怖気づいたりしたら許さないから」

 交わされた笑みは、なによりも強い約束の証。燃え上がるかのような太陽と、心に踊ったのは野心の炎。

 官吏に連れられ影となった少年の後ろ姿は、少女の双眸にくっきりと、いつまでも焼き付いていた。




 ミサギ=ジド。先史以来初となる女性皇宮書庫管理官。

 これは、その幼少期の話である。

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