湊葵の訪問
3 湊葵の訪問
荒井総二と三上香里の喧々囂々としたやり合いが終わり、粛々と事務所の掃除をしていると、
《ホマホマホマホマホマッ!ホマホマホマホマホマッ!》
と、事務所の固定電話の着信音が鳴った。スピーカー部分がおかしいのか、普通の電話機よりも低めなその着信音はくぐもった特徴的な音を響かせる。どうにも間の抜けた音がするので、三上香里は、早く買い換えろと荒井総二に口うるさくいうものの、荒井総二はこの音が気に入っている。彼の好きな海外刑事ドラマに出てくる電話の着信音に似ているからとのことだ。彼の尊敬する探偵が使っていたものと同型であることも買い換えない理由となっている。
「あーあーカオリ助手。電話をとってくれたまへ。」
「えーワタシがですか?っていうかアラッチ本人がとればいいじゃないですかー。どうせ仕事の依頼だろうし、ワタシが出ても意味ないじゃないですかー?」
「体裁、ってのがあるだろ?助手が出て、その後に探偵本人が出る。そのほうがちゃんとした探偵事務所に見えるってもんさ」
「うーん………そんなもんですかねぇ………この事務所に依頼をしようと考える時点で色々と期待してないような気もするんだけどなあ………体裁………うーん………」
と、三上香里はブツクサと言いながらも電話の方へ向かっていった。位置的に、彼女のほうが電話に近かったからだ。狭い事務所ですれ違うにはちと面倒なので仕方ない。自分が出るほかないのだ。
「はい、もしもし?お待たせ致しました。こちら荒井探偵事務所でございます。」
声はいつもより高めのよそ行きのトーンだ。
「………あ、アオイさん!お久しぶりですー。はい。はい。わかりました。お待ちしております。はい、失礼致しますー。」
ガチャンと受話器を置くと、荒井総二は埃落としの作業を止め、三上香里を見つめ、くいと顎を少し付き出し、電話の内容を自分に伝えるように促した。 まあ、〈アオイ〉という名前が出た時点でおおよその内容はわかってはいるのだが。
「今から十五分後にこちらに来るって言ってましたー。依頼ですよッ♪依頼ッ♪」
そう言ってパチンと指を鳴らし、満面の笑みを浮かべ、続ける。
「久しぶりの大仕事の予感じゃあないですか。アオイさん経由ですもん♪ここ最近は仕事が入ってもペットの捜索とか不倫調査を依頼してきた人の相談とかで、大してお金にもなってなかったじゃないですかー。しかも選り好みするもんだから相談だけ受けて、他の探偵に仕事を回しちゃったりして………ここらでガツンと!ですよッ!アタシにも特別ボーナスをですよッ♪」
荒井総二はそれを聞きつつ両の手を組んでぐいっと上方に突き上げ伸びをして、
「暇だ暇だと言ってたら仕事かよ。なんかもうこれ、ジンクスになってる気がするな。しばらく暇が続いたら、アオイの仕事が舞い込んでくるっていうさ。俺、ソッチ系の仕事はやりたくねえんだけどなあ。ヒャーめんどくさいぜー」
後頭部に回した左腕の肘をグイグイと右手で引っ張り、ストレッチをしながら言った。
「何言ってるんですか!一応探偵なんですから依頼が来たら喜ぶことはあってもマイナスに考えることなんてないじゃあないですか。そもそもアオイさんのところとの専属契約料だけじゃあ経営がカッツカツって言ってたじゃあないですか?………はっ!」
はたと、何かを思いついた三上香里は頬に両手を押し付け、あさっての方向を見ながら続ける。
「もしかして、アタシのパパとママから預かっているアタシの生活費に手をだしてるんじゃあ………?そこんとこ、どうなんですか!?」
ずずい、ずい、と距離を詰めながら三上香里が問い詰める。眼が三角になっている。そんな三上香里の様子に辟易しつつも荒井総二は「断じてそのようなことはない!」と主張するが信じてもらえない。一応、家賃収入があるので、三上香里が言うほど経営状況が悪いということはないのだが………まあ、余裕がそれほどないというのは確かである。三ヶ月前の手痛い臨時支出も響いている。
「あー………もうその辺の話はともかく、だ。とりあえずアオイが来るまでに、ちゃちゃっと掃除を終わらせようや。まずそっちが先決だわ。」
そう言って、そそくさと今まで乗り気でなかった掃除に本腰を入れた。
三上香里はああ言うものの、荒井総二は本当に、彼女の生活費には手を付けていない。そこまで経済状況が困窮しているのであれば、最初から、彼女が使用している部屋の家賃を徴収している。そしてふと思う。
(………ってか、アイツ、俺にデカイ借りがあるの忘れてねえか………?)
三上香里は、荒井総二に借りがある。それは、荒井の所有するこのビルに移り住んできた初日のことだった。
あれから三ヶ月も経っていないのに忘れているのだろうか?それではたまらない………何故、あのしっかり者でおしとやかな美里さんから、こんなど忘れ鳥頭のお転婆娘が生まれてきたのだか………。この娘はいつも、荒井総二の頭を悩ませる。
ーーーはあーあ、と溜息をひとつ。
荒井総二と三上香里の二人は事務所の掃除をささっと終わらせた。しばらくすると、事務所のチャイムが鳴った。ドアホンのカメラには湊葵が映っている。
「はいはーい。いらっしゃいませアオイさーん。今すぐ開けますねー」
そう言って三上香里はドアのロックを外し、湊葵を迎え入れた。肩まで伸びた後ろ髪にきっちりと額の真ん中で分けた前髪をしている。アンダーリムの金属製の眼鏡にブルーグレイのスーツ姿の彼女は、凛とした雰囲気を醸し出していた。
「こんばんは。カオリちゃん。うん?ポニーテール。少しサイドに寄せた?」
「あ、ありがとうございますー。そうなんですーちょっとサイドポニテにしてみたんですよー。そんなの言ってくれるの、アオイさんとカナさんくらいですよ。アラッチなんてその辺全然気が利かなくて!」
そう言って三上香里はブンと首を回し、荒井総二をキッと睨んだ。ふぁさりとポニーテールが一瞬遅れてそれに続いて揺れる。荒井総二は下唇を突き出して、頭をゆらゆらさせて、おどけた調子で応えた。
「ほんとにもう!腹立ちますッ!」
その様子を見て三上香里はむくれてしまった。
「まあ、アイツは昔からそういう奴だったよ。今も変わらんな。」
と、苦笑交じりに湊葵が答えた。そして続ける。
「で、早速だが仕事の依頼だ、アラカミ。」
そう言って事務所の奥のデスクに居る荒井総二に向かって言った。
「ーーー〈アラカミ〉。」
深い溜息とともに、荒井総二が言い、続ける。
「………昔の名前で呼ぶなってーの。今は〈アライ〉だってーの。ホントお前、その辺の切り替えが不器用だよな………最初に覚えたことを引きずるっつうかよぉ………」
やれやれ、相変わらずだな。といった様子で荒井総二は呆れ顔をしながら言った。
荒井総二は、訳あって改名をしている。といっても戸籍上の苗字は変わっていないのだが。湊葵とは、旧知の仲 改名前からの付き合いである なので、二人の初対面時においては、荒井の苗字は〈荒上〉だったのだ。湊葵は、荒井総二が言うように、最初に覚えたことを引きずる傾向がある。真面目な彼女は、これを自分自身の欠点として恥じていた。………が、生来の性格なのだから治るものでもない。
「な、名前の間違いなんてどうだっていいだろう!だ、第一だな、オマエの戸籍上の名前は未だアラカミであって、アライではないんだ。そういう意味では私は間違っていないんだ。むしろ正確だと言えるだろう。けっ、決して、名前をいい間違えたわけではないぞ?たっ、ただ、私は法執行者としてだな、法には厳しいのであってな?それでわざわざ戸籍上の正確な名前で呼んだわけであって………」
湊葵はうろたえた。今まで保っていた凛とした表情は一気に崩れ、焦りの表情に変わる。わたわたと両手を胸の前で上下させ、必死に言い訳をしている。クールビューティの雰囲気が一気に崩れる。そんな彼女のことを三上香里は可愛いなあと思いながらニヤニヤ見ていた。隙のある感じがたまらなく可愛いようだ。
「まあまあ、名前の事はとりあえず置いておいて、アオイさん。依頼の話に入ったらいかがですか?アタシ、早く聞きたいです。」
三上香里が、助け舟を出した。本音を言えばもうちょっと湊葵の可愛い姿を見てみたかったのだが、あまりこのままにしていても湊葵がかわいそうだというものだ。
ニヤついた表情の三上香里に促され、湊葵は冷静さを取り戻し始めた。
「そ、そうだな。兎に角、だ」
心の中で三上香里のナイスフォローにガッツポーツをし、咳払いを挟み、続ける。
「これからオマエに捜査協力を依頼したい事件の概要を話す。オマエに私が依頼した時点でわかっているだろうがーーー〈Case:X〉だ。」
一瞬にして、湊葵の雰囲気が元の凛としたものに戻った。仕事をするモードに。それを受けて荒井は、
「湊葵警視。」
と畏まった様子で湊葵に階級をつけて呼び、続ける。
「貴女が今回、私に依頼をしようとしている案件が、私にしか対処できない〈Case:X〉である根拠は?やはり彼女の………?」
「ああ、ウチのアマネの判断だ。〈嘘憑き〉としての彼女の力に疑いはない。法的証拠にならないのは残念だが、〈Case:X〉と判断するには十分だ。」
まっすぐ視線を向けてそう言った。鋭く、怜悧な視線だった。
「なるほど。じゃあまず間違いはない、と。それじゃあ話を聞こうじゃないの?カオリ。茶菓子でも用意してくれや。」
湊葵は来客用のカウチに座り、事件の概要を話し始めた。