荒井探偵事務所
2 荒井探偵事務所
「で、どういう案件なのさ?アオイ?こんな夜分に、事前連絡がつい一時間前ってのはずいぶんとまあ………。」
カウチソファに座った荒井総二が、湊葵警視に言った。
「どういう案件も何も、さっき言っただろうが。」怜悧な目つきになり、続ける。「ーーー〈Case:X〉だ。オマエの異能が対処すべき案件だ。拝み屋としての、な。」
「好きで、やってるわけじゃあないけどな。」
荒井総二は、ハンっと鼻を鳴らしそう言うと、カウチソファの背もたれに体重をぐぐっとかけ、虚空を見つめた。目線の先にはシーリングファンがあり、くるくると回っていた。
ーーー話は一時間前に遡る。
◆
夜の住宅街は騒然としていた。火の手が上がったとの通報があったためだ。野次馬がぞろぞろと集まり、警察や消防、探偵といった者達も集まっている。
「またか………。もうコレで何件目になる?」
「数えるのも嫌になってきたくらいですよ。」年配の刑事のボヤキに、若い探偵が答えた。
「二桁はゆうに超えてますね。自治警さんから依頼されてからのチェック分だけでもそのくらいは。」
やれやれ、といった様子で若い探偵は両の手をお手上げといった様子で振ってみせた。
「ヒヤマアキラ邸放火死傷事件発生直後から、やたらと放火未遂事件が起きやがって………。全く何なんだ。異常だよ。ったく………。」
「しかも、火の手が上がった目撃証言があるにも関わらず、現場に急行してみたらまったく物が燃えた形跡がないケースがあると来ると………。頭が痛くなりますね………。何が起こってるんだか………。」
「ーーー〈Case:X〉。」ボソリと年配の刑事が呟いた。「こりゃ、不可解難儀なウチの公安のあの部署の担当案件なのかもしれんな。ミナトのネーチャンのな………。」
「ミナト警視ですか?ミナト警視なら、僕が現着した時に連れの方と一緒に既にいらしてましたが………。もう姿が見えませんね。」
「………はあ………。やっぱりそうか。ミナト警視殿は既にこの一連の事件に目をつけていたってわけか。ああ、ということは、あれか、今頃アライんとこへ向かってる頃なんだろうな。はあ、ったく、難儀な事件だ。ミナトのネーチャンとアライが絡むとロクなことにならねえんだ。まったく………。」
そう言って、懐から煙草を取り出し、吸い始めた。
「………現場保存とか考えなくてもいいんですか?煙とか灰とか………。」
「ハッ!現場保存も何もねえよ!実際、火の手が上がった目撃証言があるだけで、実際に燃えたものはねーんだからよ!鑑識も肩すかしだ!ただでさえ人出が少なくて皆激務だっつ―のに無駄に出動させやがって………」
「実際に火の手が上がった放火事件もチラホラあるのが厄介ですよね………。まったく、人騒がせな目撃証言と事象ですよ。目撃者が嘘を付いているとは思えませんし。厄介この上ないですよね………。」
「くそ!忌々しい事件め!今度アライに会ったらとことん管巻いてやらあ!」
そう言って、年配の刑事は自動車の運転席に乗り、荒々しくドアを閉めた。そして、ウィンドウを下げて若い探偵に言う。
「オメエさんたち探偵にも矜持ってのがあるのなら、何か物的証拠のある事件でも持ってきやがれ。今回みたいに肩透かしを食らうことのない事件をな。」
「と、いわれましても、僕達乙・丙種探偵は単独で事件捜査は………甲種探偵は別ですが………」
「わーっとる。愚痴だ。スマンな。引き続き、放火案件の監視と情報提供を頼むぞ。物証がある事件なら、コッチも何とかして刑事をあてがって捜査に協力してもらうヨ。まあ、〈Case:X〉になりそうな時点で、どうにもならん気もするがな。めげずにがんばれ。じゃあな。」
年配の刑事は、そう言い終わるやいなや、エンジンを必要以上に唸らせ、現場を去っていった。
取り残された若い探偵は、頭を掻き、少しため息をついた後、現場周辺の再聞き込みにとりかかった。
………
「ふあああっ」
と、荒井総二は大きなあくびをし、背もたれにぐいと背中を押し付け海老反りになり、デスクの上に足をほうり投げた。茶色のチャッカブーツの踵がゴツンと鈍い音を響かせた。
「あー………今日も暇だなあー………暇すぎて創作意欲が逆にでてきちまうよな、逆にさあ………」
彼は、天井に設置されたシーリングファンをしばしぼんやりと見上げた後、おもむろにサイドデスクの引き出しからマッチ箱を取り出し、ジャラジャラとマッチ棒を机上に散らかし、手で弄びはじめた。すると、
「あー!ちょっと!さっき机を拭き掃除したばっかりなのに何足乗せちゃってるんですかー!ああもう!さっさと下ろす下ろす!」
三上香里がシッシッと手を振り、足を机上から下ろすように促した。
「まったくもう!暇なら掃除を手伝ってくださいよッ!」
「いやいや、俺、探偵ですから。掃除その他の雑務は助手の君の仕事じゃん?」
そう言って荒井総二は机に載せてあった帽子をひょいと取り上げ、右手人差し指を使ってくるくると回しながら答えた。
「仕事の問題じゃあないですッ!自分の生活環境を整えるための人間としてごく当たり前の行為ですッ!ほら、これで本棚でもはたいてくーだーさーいッ!」
そう言って三上香里は、接客用のカウチと低いテーブルの狭い空間をぶつかることなく器用にすり抜け、ツカツカと歩み寄り、荒井総二の鼻先にはたき棒を付き出した。荒井総二はそれを手の甲で逸らしつつも、手首を返し、渋々受け取り、
「へいへい。わーった、わーったよ。お掃除しますかね………せっかくマッチ棒で建物のミニチュア芸術作品をつくろうと思ってたのになーメンドクセーなー」
「はいそこ!めんどくさい言わない!」
三上香里は勢い良く顔を荒井総二の方に向け、キッ!と睨みつけ、続ける。
「まったく、花の女子高生のアタシが制服姿で奮闘してるっていうのにこの男は………丁稚の如く酷使される薄幸少女を見てチョットは手伝おうとか思わなかったんですか?」
ズビシッ!と右手人差し指を突き出しながらそう言った後、両手を上げて〈やれやれ〉といったポーズを取りながら荒井総二に言った。トレードマークのポニーテールがふわりと揺れた。
「〈薄幸少女〉ねえ………」
そう言ってじぃっと三上香里を上から下へ、下から上へと見つめる。心なしか遠い目と呆れ顔を伴っている。
「ああー、カオリ。オマエ、ホント母親とは似ても似つかないなあ。ミサトさんはあんなにも可憐なのに。ああ、会いたいなあ………デートしたい………それなのにオマエときたら、〈薄幸少女〉どころか醸す方の〈醗酵少女〉だよ。制服のままなのも着替えるのがメンドクセーだけだろ。それに、小言が多くておばさん臭………」
と、言い終わるのを待たずに、荒井総二の顔面を勢い良く布巾が覆い、それ以上の言葉を発することを禁止した。バッチーン!と大きな音とともに。
「まったく。アラッチときたら………」
パンパンと両手を払いながら続ける。
「完璧超人のママと比較するなんてデリカシー無さすぎですよッ!女子高生をおばさん呼ばわりなんて失礼千万ですよッ!それに娘のアタシの前で母親への愛をさり気なく語るなんて、悪趣味ですよッ!パパとママは超仲良しなんですからねッ!アラッチの入る隙なんかありませんよッ!いい加減あきらめてくーだーさーいーッ!」
「そうは言ってもなあ………」
顔にへばりついた雑巾をつまみ、ひょいと机の端にほうり、ペーパータオルで顔をゴシゴシと拭いた後、机に突っ伏しながら続ける。
「荒井少年の憧れのお姉さんだったのよ?香里ちゃん。それがよう、二十歳になった途端結婚ですよ?俺、十四歳の時っすよ?どうにもできないハートブレイク少年だったわけですよ?引きずらないほうがおかしいってぇもんですわぁ………」
「ママは美人で完璧超人だからアラッチが好きになるのもわかりますけど、さっさと諦めてくださいねッ!娘のアタシとしたら母親がアラッチに言い寄られるかもなんて思いながら生活なんてしたくないですぅー」
「ううう………くそう………こんなことを言われる位ならコイツの身元引受人なんてなるんじゃあなかったわ、くそう………これをきっかけに近づこうと思ったのにくそう………」
「ほら!また気持ち悪いこと言ってるッ!そんな夢物語を語ってないでさっさと掃除するッ!さあさあさあさあ!」
そう言って三上香里はぐいぐいと荒井総二の腕を引っ張った。
「っだーっ!わーったよ。やればいいんだろ………はぁ………」
と、荒井総二はため息混じりに言いつつ立ち上った。と、三上香里が、
「あー、その前に机の上のそのマッチ棒の山、片しといてくださいね!最近色々と物騒ですし………ニュースでも言ってるじゃあないですか。だ・か・ら、火の用心ですよ!」
腰に左手をあて、右人差し指をちっちっちっと左右に揺らしながら言った。
「へいへいわかりましたよ。全く可愛くない娘だこと………(ボソリ)」
「な・に・か・い・い・ま・し・た・?」
ギ・ギ・ギ・ギ・ギ・ギとコマ送りのように荒井総二の方に振り向きながら片方の口の端を引き上げじっとりとした目で三上香里は荒井総二を見てそう言った。
「イヤイヤ。ナンデモナイデスヨ?サーテ、オ掃除オ掃除………」
ーーーヘルズイヤーめ。どこぞの悪魔人間かよ!そう思いつつ荒井総二はしぶしぶ机の上のマッチ棒を片付け、はたき棒を手に本棚の埃払いをするために席を立った。
◆
荒井総二は探偵である。愛知県名護屋市で探偵事務所を開業している。当然、事業主であるから、乙種探偵免状以上の資格を有していることは明らかである。古くからの許可制であった探偵業同様に、細々とした捜し物の依頼や浮気、素行調査、企業信用調査といった依頼も依然として業務として取り扱っているが、荒井探偵事務所のような小さな事務所にはそんな依頼すらやってくるのは稀だ。
なにしろ、圧倒的に人手が足りない。正式な従業員は彼のみ。助手として、姪の三上香里をアルバイトとして雇ってはいるが、それでも総勢二人………民間の、普通の仕事が大手に流れて行ってしまうのも当然のことだ。
しかし、彼は探偵としてきちんと生計を立てることができている。それは何故か?
理由は二つある。ひとつは、事務所が入っている五階建てのビルのオーナーである彼には、それなりに安定した家賃収入があることである。
彼が母方の祖父から相続したこのビルは、昔は会社向けのオフィスとしてテナントを受け入れていたが、現在は改装し、住居賃貸物件として貸し出している。五階建てのビルの一階はエントランスになっており、二階を荒井探偵事務所兼荒井の住居スペースとして使用している。三階から五階は一フロアに二部屋の住居を有している。元々、オフィスだったものを改装した結果、その部屋面積は大きく、家賃も値が張る。そのため、満室とは行かないが、それなりの家賃収入が毎月入ってくるのである。ただし、その中の一部屋については、三上香里がタダ同然で使っているのであるが。
もう一つの理由は、彼が乙種探偵免状を取得した探偵であることに起因する。
ーーー彼には自治体警察からの捜査協力依頼とその特定の部署との専属契約料が舞い込んでくるからである。
それは戦後、国の警察機構が大きく変わり、大都市ーーー横濱、名護屋、京都、大坂、神戸、福岡にある自治体警察において、犯罪捜査の民間委託が可能になったからだ。
国家警察や首都警察、道府県警察と違い、民間と協力し、第三セクターとして改変された自治体警察は組織の運用並びに法執行面において自由度が高く、人手不足とコスト削減のために、法務省外局である公安調査庁の管理監督下における試験と審査による免許制となった探偵業に目をつけた。
免許制となった探偵業には、甲・乙・丙の三種の位がある。
甲種探偵免状保持者は極僅かしか存在しない。ほとんどが警察OBやその他の法執行機関出身者であり、彼らは警察と同様に単独で事件の捜査をすることができる。権限も法執行者とほぼ同じくらいの権限を有しており、有能な法執行者を規定の年齢で退職した後も捜査に投入できるようにとの思惑で規定された。言わば、独立開業した警察とでも形容できようか?
乙種探偵免状保持者は、今までの認可制であった探偵業開業者をそのまま取り込むことを目的として規定された。認可制から免許制へと変わった結果、審査と試験が必須となり、悪徳な業者を一掃する目的もあった。この制度の施行により、従来の探偵業者は幾分減ったものの、審査と試験に見合った付与権限として、警察官、検事、麻薬取締官など法執行機関に属する者、法制上で言えば、司法警察職員の権限を有する者の許可があれば、刑事事件の捜査に着手することが可能になった。ただし、単独での捜査には制限があり、現場における調査や捜査資料の閲覧には司法警察職員の同伴が必要な場合が多い。
丙種探偵免状保持者は、甲種及び乙種探偵免状保持者が開業している探偵事務所に所属し、所定の訓練を受けた者に与えられる免状である。彼らは甲種及び乙種探偵免状保持者の指揮の元、探偵として捜査に従事できる。
こうした、探偵業の免許制化と、自治体警察における警察業務の一部民間委託化が可能になったという社会的背景から、極僅かな甲種探偵免状保持者を除いては、捜査権において、司法警察職員が同行する場合ならば、司法警察員とほぼ同等の法的執行権を有することが許可される乙種並びに丙種探偵免状保持者に捜査協力依頼を仰ぐことが日常化していった。その一つの形が、法執行機関と探偵事務所との間の捜査協力専属契約といったものなのだ。
こうした背景が、荒井総二が小規模な事務所で探偵業を営める理由となっている。
そして彼は、ほとんど専属契約をしている自治体警察の一部署〈特殊犯罪課〉の仕事の依頼しか取り扱っていない。荒井総二と、特殊犯罪課の専属契約の内容に、〈あらゆる案件よりも優先して事件捜査に協力する〉ことが条件になっているため、他の長期に渡る仕事ができにくいと言う理由もあるのだが………。その条件がある中、通常の探偵業務である行方不明のペットの捜索や浮気調査、企業信用調査などの依頼も受けてはいるのだが、それは彼の本懐、本質でない。
彼の主たる収入源となる仕事は、特殊な事件ーーー自治警特殊犯罪課が〈Case:X〉と呼ぶーーーの解決に特化した〈拝み屋〉としての仕事なのだ。
◆
荒神の翁の監視と湊葵の部署との専属契約の縛りさえなければ普通の探偵業務や、近藤貞清警部麾下の刑事部との刑事事件合同捜査に手腕を振るえたかもしれない………。荒井総二はそう思うとうんざりした気持ちになった。〈拝み屋〉なぞ、本当はやりたくない。面倒くさいと投げやりに思った。
よっこらせと声を出しながら荒井総二は立ち上がり、三上香里から投げつけられた雑巾を手に取りながら思う。
(つっても、それで食えてるのは事実だし、家賃収入と基本専属契約料だけじゃあ税金やら何やらを払うだけでカッツカツだし………本業だけじゃ食えねえし、やるしかねえんだよなあ………)
はあーあっと、ため息をつきながら、じっと手のひらを見つめ、呟く。
「………まったく、めんどくさいモノを俺に預けやがったもんだよ、あの人はよう………」
「はあ!?めんどくさいって失礼な!」
三上香里が『その言葉、聞き逃すまじ!』といった様子でつっかかる。
「人をモノ扱いしないでくーだーさーいー!失礼千万ですよ!ママに言いつけますよ?『アラッチがママのことをめんどくさいモノ このアタシ! を押し付けた極悪人って言ってた』って!」
「はあ?んなこと言ってねえー!めんどくさいモノってのはお前のことじゃねえし!つか、極悪人だなんて言ってねえし!なに盛ってるんだよ!むしろミサトさんに失礼なのはオマエじゃねーか!」
「ほぼ同義です!『アラッチ、アタシの事を〈めんどくさいモノ〉と表明。コレ、ママのことを極悪人と表明とみなすと同義。』うむ。全然間違ってないし盛ってもないです!」
三上香里は腰に手を当て、ハタキで荒井総二をズバッと指し、聞く耳など持たぬ様子で、自己流の解釈を荒井総二につきつけた。
「だーかーらー!人の話をちゃんと聞けっての!オマエのことじゃねーってーの!何でお前は人の話をちゃんと聞かねえんだよ。メンドクセーなあ………あっ、」
あっ、と荒井総二は自分の漏らした言葉を意識したが、時既に遅し。三上香里はその言葉を聞き逃さなかった。そして、荒井総二の予想通りに、曲解する。
「あーっ!ほら!今〈めんどくさい〉ってアタシに向かって言ったじゃないですか!?〈あっ〉って言ったし言ったし!迂闊なこと言っちゃったってことじゃないですかー!やっぱりアタシのことじゃあないですかー!アタシ、ぜんっぜん間違ってないですかー!」
「だーかーらー………」
ああ、また誤解されてしまったと思いつつ、荒井総二は弁解しようと言葉をついだが、二の句が見つからない。この状態の彼女相手では、何を言っても無駄だろう。そう判断した。
「………ああもういい………掃除するべ………」
ああ、もうどうしたらこの娘はわかってくれることやらと、荒井総二は思いながら、肩をがっくりとたれ、説明をするのを諦めた。
「そうそう。わかればいいんですよ。言葉には気をつけてくださいね。一個貸しですよ。ママには言わないでおきます。アタシの温情に感謝してくださいね。」
三上香里は勝ち誇った様子でふふんと笑い、パタパタとハタキを振るい始めた。荒井総二はもうどうとでもなれと頭を振り、デスクを拭きながら思う。
(これ以上話しても、曲解どころか有ること無いこと捏造しかねんしなあ………それに………)
ちらと、自分の手を見つめる。その手には古めかしい形をした鍵があった。手のひらいっぱいの大きさをしているそれは、鈍く淡い光を放っている。その光は、和蝋燭の炎のようでもあり、周りの空間が揺れているように見えた。
この鍵のことを三上香里に話したところで、理解してくれるとは思えない。しかし、いつかは話さねばならないだろう。もう、十分にこちら側の世界に巻き込んでいるのだから。さりとて、知らなくても良いことではある。話すにしても、いつ話したものか………。
荒井総二はうーむうーむと悩み、はあーあっと、再び深いため息を付いた。手のひらを握り締める。すると、彼の手にあった古めかしい形をした鍵は、ふっと姿を消した。




