廃工場/対峙
1 廃工場/対峙
「さてさてさてっ、っと。」
一呼吸ついて、続ける。
「今何故に、俺が君の前に現れたのかはわかっているかな?」
荒井総二はそう言って、目深にかぶった中折れ帽を、くいっと正した。
彼が目線を投げかける先には、ぼんやりとした人影のようなものがあった。この世のものとは思えない禍々しい雰囲気を持つ〈それ〉に対して彼は、臆することなく正体している。
場所は廃工場。もう既に十数年以上もそのままに放置されているそれは、経年変化によってところどころ崩壊し、錆だらけの様相を呈している。壁面と屋根の一部には、火事に遭ったと思われる焦げ跡も見て取れる。
今にも崩れそうな廃工場に長居するのは危険そのものだが、荒井総二は自分の〈仕事〉を遂行するためには危険も厭わない。
彼が対峙しているものは〈澱〉という。それは、人々の無意識にある悪意や願望がこの土地に存在する霊脈に起因する強力なレンズ効果によって生み出されるものだ。それは様々な姿形を取って現れるが、荒井総二の前に現れたそれは、ぼんやりと少年のシルエットを形作っており、緑色の光をぼうっと放っている。
その少年の形をした〈澱〉は、ただただそこに立ちつくしている。荒井総二の方を向いてはいるものの、どうにも視点が定まっていない。
ーーーいや、元よりその存在が曖昧なのだ。存在の輪郭が。ただただ曖昧模糊として存在し、自分が何者なのか全くわかっていない様子だった。存在の輪郭線が、自己と世界の境界がぼんやりとしているのだ。
(さながら、匿名の少年といった風体だな。まあ輪郭線を強制的に描きだしてやるのが俺の仕事だ)
荒井総二はそう思い、再び少年に向き直した。
通常、目と口と鼻の穴がある空間がぼんやりとしたがらんどうの空間となって見える。 その形相は埴輪のようであると表現すれば可愛いものではあるが、実際はその少年の形をしたモノが纏う雰囲気も相まって非常に気味の悪い表情であった。
ーーーそれを、表情と形容するならの話ではあるが。
◆
「アラッチ、大丈夫なのかな………」
三上香里が心配そうに呟いた。雨に濡れた車の窓から荒井総二がいる廃工場を見つめている。ため息がガラスを曇らせ、彼女の視界を遮る。そのたびに、カーディガンの袖でくしくしと窓を拭く。既に袖はびしょびしょになっていた。
「まあ、そんな心配は奴には無用よ。しくじったところは観たことがないから。安心して。大丈夫。」
湊葵は運転席から身を捩り、後部座席に座っている三上香里に声をかけた。
その言葉には、荒井総二に対する心配の念は一欠片も存在しない。信頼しきっているのか?それともどうでもよいのか?その語感の表す意味については不明だ。しかし、少なくとも不安げな三上香里のことを気遣う態度は言葉の抑揚の端々に感じられた。
「アタシの〈勘〉もそう言ってるから大丈夫よ♪カオリン♪」
と隣に座っている天音佳奈が場違いなほど陽気な調子で声をかけた。
「ね?アマネもそう言ってるから大丈夫よ。彼女の勘はただの思いつきでなくそういう〈能力〉だから。ね?」
「そうそう。アオイさんの言うとぉーりぃー♪心配ご無用っ♪」
天音佳奈はそう言うと、三上香里をぎゅっと抱き寄せた。その行動に、わわっ!っと少し動揺した面持ちの三上香里だったが、天音佳奈の突飛な行動により、少し落ち着きを取り戻したようだ。
「うーん………なんだかよくわかんないけど………そうですよね………大丈夫ですよね、きっと。アタシ達の他にも警備会社の人達が待機してるし………うん。大丈夫!きっと大丈夫!」
三上香里は自分に言い聞かせるようにそう言った。
三人は今、荒井総二がいる廃工場の前に停めた車の中から事態の進捗状況を見守っている。事件の解決を見届けるために、そこに居合わせる必要がある。
ーーー決して、この事件にまつわる記憶を忘却しないために必要なことなのだ。
(毎度毎度のこととはいえ、私の権能が行使できない領域だというのはわかってはいても、もどかしいものだ………)
湊葵は自分の無力さに少し苛立った。ステアリングを強く握り締める。警察官として、自分のできることは全て行った。それでも、この最後の詰め 事件解決のための最終段階は、彼女の手だけで行うことができないのだ。この事件はそういった案件だ。通常の理解、常識では解決できない特殊な事件………〈Case:X〉に関しては荒井総二の〈特別な能力ーーー〈異能〉ーーー〉に頼らざるを得ないのだ。
雨が降っている。にわか雨は小雨に変わり、フロントガラス越しの景色が歪み始めた。湊葵はワイパーを動かし、視界を確保し、目線を車の外に向けた。つなぎの作業服を着た者たちと、背広姿の者が徐々に廃工場に向かって移動をしている。
彼らは〈統合警備保障〉に属する者たちだ。湊葵の依頼を受け、人払いを行なっている。この場に一般人を近づけないために、だ。それも、荒井総二と同様、超常的な方法で。彼らもまた、〈異能〉の使い手なのだ。
彼らは、廃工場を囲むように、複数の班を展開している。背広姿の者は、携帯電話で各班と連絡を取り合いながら、徐々に距離を詰めていく。作業服を着た者たちが、パラボラアンテナのような物がついた装置を携えて、それに続いた。
湊葵は廃工場に目線を移した。しばらくすると、廃工場を中止として、少しずつ霧が出てきた。それはゆっくりと広がっていき、廃工場全体を包み始めた。霧はどんどん広がっていき、湊葵らの乗る自動車にまで達してきた。
「アライの結界の展開がはじまったな。そろそろ時間か」
その様子を見て、湊葵は呟き、親指と小指を使って顔を覆うようにして眼鏡の左右のヒンジを掴み、正した。
再び、車の外を見やる。統合警備保障の者が装置を設置し、操作をしているのが見えた。装置は、低くく唸るような音を出し、パラボナアンテナの皿を、舵のようにくるくると回している。アンテナの心棒は、廃工場の真ん中に向けられている。そして、アンテナから、光が照射された。紫色の光だ。それは、廃工場の中心から発生した霧に溶け込み、辺り一面を紫に染めた。
湊葵の携帯電話が着信を受け、三度振動した。統合警備保障からの合図だ。準備が整ったという符丁だ。
(荒神様の部隊の結界構築も整った。あとはアライ。お前次第だ………)
霧はどんどん濃くなっていく。荒井総二の展開する結界を、統合警備保障の展開した結界が強化している。湊葵はステアリングに体を押し付け、紫の霧の中におぼろげに見える廃工場を藪睨みした。フロントガラスのワイパーの規則的な運動を見ながら、ただただ、事が終わるのを待つ………。
◆
「………さて………。」
ふう、と息をついた。
〈紫煙〉の主力隊員である亜黒清志郎は、湊葵の携帯電話にコールをした後、首を捻り、コキリと鳴らした。パタンと二つ折りの携帯電話を畳み、背広の内ポケットに入れ、指をポキリポキリと鳴らす。
骨を鳴らすのは彼が緊張している時の所作だ。脂汗が彼の額に浮く。彼はそれをハンカチで拭い、ずれたサングラスの位置を直した。
これから、彼は、過去と対峙する。忌々しい、しかし、看過できない過去に。
〈奴〉は必ずここにいる。この事象を見届けるために、必ずここにいる。
彼が〈奴〉を捜索するのに使える時間は限られている。ーーー荒井総二が、〈摂理の鍵〉によって、事を終わらせるほんの十数分の間だ。それを逃せば、〈奴〉はまた、どこかに姿をくらますだろう。そう予測ができた。
彼は、懐から煙草を取り出す。〈異能〉を発揮させるための魔術装具だ。パッケージには、〈ハウンドドッグ〉と書かれている。
彼のデュポンが、キンと音を鳴らし、発火装置を露呈させる。フリントを擦り、〈ハウンドドッグ〉に火をつける。紫煙を思い切り肺に充満させる。効果は直に出てくるだろう。
彼は意識を深遠に集中させる。
ーーー奴〉を補足するために。
(多田経由、荒神様の命とはいえ、流石にブルっちまうな。十五年前を思い出しちまう。だが、俺も、ケジメってもんをつけねえとならねえのヨ。たとえ、彼我の戦闘力差がダンチだとしても、俺は行かにゃならん………。)
そう、心のなかでつぶやくと、亜黒清志郎は、〈奴〉の捜索を始めた。
◆
自分の目の前に立ちつくす〈少年のようなモノ〉に対峙している荒井総二は、はあーあ、とため息を付いて、帽子を脱ぎ、頭を掻きながら、
「リアクションはなし、と。まあ当然だよな………」と呟き、続ける。「これから、俺の〈仕事〉をするにあたって説明をしなけりゃあならない。これは、君自身にとって重要なことだ。同時に俺自身にとっても仕事の流儀上必要なものでもある。むしろ儀式だ。君の存在の輪郭を恣意的に描き出して祓い給う………」
少年のようなモノには何の反応も見られない。ただただ立ち尽くしてこちらを見ているだけだ。それでも荒井総二は続ける。
「ま、聞いちゃあいねえか。所詮その程度の〈澱〉よ。オツムもその程度だ。だが、君の撒き散らす能力は危険だ。大いに危険だ。メンドクセーほどに危険だ。厄介なのだよ、少年。打率が時間に比例して急上昇だ。コーチもびっくりの成長率だ。一軍入りも遠くはない。故に危険だ。危険も危険。なので、こいつを使って強制的に祓わせてもらう。場外乱闘万々歳さ。」
荒井総二はそう言うと、右手の袖口からするりと鍵を滑り出させた。鍵には鎖が付いており、袖口の奥につながっている。それをつまみ、不当速度でくるくると回す。鍵と鎖がチャリンチャリンと音を立てる。そして、くいっと上腕を上方に振り、重力に任せてそれをまた袖口の中に戻し、言う。
「コイツはあまり使いたかなかったんだが、まあ仕方ねえ。早期解決の必要性だ。これ以上打率をあげられると困るんでね。強制排除だ。なるべくなら地力で殺ろうかと思ってたんだが………まあ、仕方ない。地力じゃ力不足なのは否めない。正直、マウンド上じゃあ勝てる気がしねえ。時間は君の味方だ。ストーンズだな。俺にとっての不利条件を覆すにはこれしか方法はない。厄災の種は小さい内に始末したいんでね。バッターボックスに入る前に潰させてもらう。しかし、この方法にゃあ、俺と君との相互理解と了解が必要なんだよ、少年。それが俺の〈摂理の鍵〉の使用上のルールなものでね。めんどくせーが、そういうこった。」
荒井総二は、そう言い終わると同時に、くるくると回していた鍵を掴んだ。そして、とうとうと少年のようなモノに対して、事件の全容を語り始めた。同時に、自分に言い聞かせるように。時折自分の発言に「うんうん」と相槌を突きながら。
さわさわと、雨音のノイズを背景に。