寄り添う灯は雪の華の如く《凛編》
この章は凛の番外編となっております。
本編は後ほど記載致しますので、興味の無い方は飛ばしてお読みください。
なお、本編と繋がる内容もいくつかありますので読んでくださると暇つぶしができるかもしれません。
雪代 凛はいつも独りだった。
家の人間はみんなあたしを煙たがっていた。
忌子、呪われた血。大人たちはあたしを恐れ、忌み嫌い、目の届かない場所へと隔離した。
父上、母上の顔は知らない。気付けばもうこの『籠』の中にいた。
雪代の人間の顔もほとんど記憶に残ってない。『籠』に近寄る人間は誰ひとりといなかった。
来る日も来る日も狭い『籠』の中でそこに居るだけの人形として空虚な時間の中に存在していた。
音もなく、光も届かない、暗く凍てついた空間で、心までもが凍りついていく感覚を他人事のように感じていた。
それでもたったひとつだけ、あたしが心を失わずにいられた支えがあった。
雪代の人間がここに来ることはなかった。たったひとり、兄上だけを除いて。
兄上は毎日三回食事を運んできてくれた。暗い『籠』の中を照らす、綺麗なオレンジ色の灯を持ってきて。
命じられて来ていたかもしれないけど、あたしにとって兄上だけが言葉を交わせる相手であり、深い黒に塗りつぶされた無音の世界で唯一、安らぎをくれる存在だった。
兄上はいつもあたしと話してくれた。正直何言ってるか全然わかんなかったけど、オレンジの光の見るだけでも、声を聞くだけでも、変化のない世界にずっと閉じ込められていたあたしには嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。
時間にすれば短い時間だけど、時間感覚なんて分かりもしないあたしにとってはとても長い時間の幸せだった。
一回目と二回目の食事の時はそんなに長く話してくれなかったけど、三回目の食事のあとは決まってあたしが眠りにつくまでずぅっと優しい声で話してくれた。
目が覚めたらもういなくて、寂しくて、最初は泣いたりもしたけど、我慢すれば兄上に会える。そう考えて堪えてきた。
兄上は三回目の食事のときにお話以外にも、字を、言葉を教えてくれた。
木の格子越しから綺麗な和紙と筆を渡してくれて、これはこうだよ。こう書いて、こういう意味を持つんだよ。とあたしと似てない整った顔を柔らかく微笑ませて、それをずっと見ててくれた。
そうしているうちに、あたしはどんどん言葉を覚え、文字を覚えた。
そしてある時、いつもみたいにオレンジの光と一緒に食事を運んできてくれた兄上にこう言ったんだ。
『外を見てみたい。緑を、夕日を、太陽を、空を、星を見てみたい』
兄上はとても寂しそうに、悲しそうに笑って、いつか見れるさ―――いつか、きっとね。と呟いてその日は行ってしまった。
―――それから、兄上が来ることはなかった。
食事も途絶え、唯一の心の安らぎを奪われたあたしは泣いていた。
声が聞こえれば、兄上が来てくれるかもしれない。
幼心にそう思っていたあたしは、ずっと泣き続けた。
それでも、兄上は来てくれなかった。
どれくらいそうしてたかはわかんない。
自分が起きてるか寝ているかすらわからなくなった。
そんな時、確かに声が聞こえたんだ。
『何を泣いておる』
聞いたことのない声だったけど、聞いていてなぜか懐かしさで胸がいっぱいになったのを今でも覚えてる。
声はどこからともなく聞こえてきて、もう声も出せなかったあたしに気付いてるみたいに話しかけてきた。
『泣くな、強くあれ』
暗い暗い、黒の世界に、ぽつりと浮かんだ青白いまぁるい炎。
ゆらりゆらりと浮かんで、まるで陽炎みたいにゆらめいていた。
『主はまだ幼い。内に秘めたる力を御するにはあまりに幼く、小さい』
ふわりと、宙に浮くような感覚がした。
嗅いだこともない匂いなのに、鼻腔をくすぐる水仙の匂いが、酷く懐かしいと感じた。
『大海を知れ。知り、感じ、両の眼で見ゆるものを糧とし、強くあれ。主が相応しき器と成りし刻を、儂は此処で待ち侘びよう』
声はだんだんと遠くなっていき、青い炎もゆっくりと消えていった。
炎が消えるほんの少し前、また黒で塗りつぶされていく世界で、声は確かにあたしの名前を呼んでいた。強くあれ、凛、と。
◇
嗅いだことのない匂いと、りぃりぃと優しい音で目が覚めた。
黒かった世界に、ぼんやりと明度が宿っていった。
『―――うわぁ』
思わず声を上げた。
肌を撫でる風。青々と生い茂る草花。どこまでも広がる藍色。藍色の中に輝く白い点、大きな丸い点。
どれも見たことがない、『外』の世界だった。
あたしはどこにいたかも忘れ、夢中で叫んだ。
すごいすごい、綺麗、いい匂いとバカみたいにはしゃいだ。
時間にすれば深夜だったんだろうね。
からりと引き戸を開ける音が聞こえて、その音も珍しかったあたしが振り向いた途端、その男の人が大声で叫んだ。
『忌子だ! 忌子が外に出たぞ!』
訳がわからなかった。突然の大きな声にあたしはびっくりして動けなくなった。
大声でたたき起こされた大人たちが次々と屋敷から出てきて、まるで化物を見るような目であたしを睨みつけていた。
怖かった。悪意の視線に抵抗のない子供のあたしは足が竦んで身動きがとれなくて、震えながら立ち尽くしていた。
大人たちが口々に何かを怒鳴っていたけど、怖くて気が動転してて何を言ってたか覚えていない。
その中の一人、白い羽の刺繍が入った着物を着ていた白髪のおじいさんが鈍い光を放つ何かを腰から抜き取った。
おじいさんは日本刀を両手で持ち、無言であたしに近づいた。
殺すつもりだったんだろうね。子供のあたしでも、それが怖いものであると本能的にわかっていた。
怖くて、とにかく怖くて、あたしはぎゅっと目を瞑った。
そうすればまたあの黒の世界に戻れると思ったから。
でも、戻れなかった。
『凛、逃げろ! 逃げるんだ! 早くっ!』
大好きな兄上の怒鳴り声で、あたしの体が言うことを聞くようになった。
あたしは走った。生まれて初めて走った。すぐに息があがり、足がもつれ、何度も転びそうになったけど、後ろからずっとついてくる足音と怒鳴り声から逃げてくて、必死に足を動かした。
走ってる真っ最中に、ふわりと水仙の匂いがした。
あたしはその匂いに導かれるように走った。
どれくらい走ったかわからない。とにかく怖いものから逃げたかった一心で走り続けていたから。
もう走れなくなったあたしはその場に倒れた。
大人たちの足音も、怒鳴り声も聞こえない。
りぃ、りぃと優しい音が響いているだけ。
その音だけに耳を傾けていたら、遠くからあたしがいる方向に向かって近付いてくる音が微かに聞こえてきた。
逃げなきゃと思っても、履物もないまま走り続けた足はもうボロボロで、血まみれになっていた。
また怖い人がくる。あたしはぎゅっと目を瞑って体をできるだけ縮こまらせてた。
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお⁉』
あれは本当にびっくりした。何かが絶叫しながらすぐ近くに大きな音を立てて落ちたのだから。
『いっててててて……なんだよ人かと思ったらいきなり襲ってきやがって……つか、ここどこだ?』
ほんのすぐ近くで声がする。その声は大人たちと違い、どこか若い印象があった。それでも怖くて目は開けられなかった。
『おあ? なんだでっけぇ屋敷だなぁ。樹海の奥にこんなもんがあるとは……ん?』
男の声は屋敷の方を向いていたけど、何かに気付いたようにあたしの方に向く。
見られていた。何も言葉を発さず、ただじっとあたしを見ていた。
もうダメだ、と思っていた時、声の主はあたしに近寄って、こう言ったんだ。
『なんだどうした? んなとこに寝てると風邪引くぞ。ちゃんと部屋で寝ろ部屋で』
もう怖いしか思えなかったあたしは体が震えて、強く体を抱いた。
少しの間、その人は何も言わずに、じっとあたしを見ていた。
小さく息を吐く音が聞こえたとほぼ同時に、あたしの体がふわりと持ち上がった。
『ふぇ……っ?』
『なんだ、しゃべれるじゃねぇか。もしもーし、聞こえますかー』
思わず声が出てしまい、目を開けてしまった。
その人はどこかふざけるような声音であたしに言っていた。
目の前の男の人は、光に透けてきらきらと輝く銀色の髪の毛だった。
もしゃもしゃといろんな方向に跳ねていたけど、あたしはそれを一目見て綺麗、と思った。
でもその下のドロドロした二つの黒い丸を見た瞬間、暴れた。
お化けと思ったし、取って食べられると思った。だって本当に腐ってたもん、アレ。
力の限りに手足をばたつかせて、銀色の人の腕の中で暴れまわった。
『うごっふ⁉』
その時ちょうど肘がいい角度で顎に入ったんだろうね。がつんと鈍い音と一緒に、肘がすごく熱くなって、ズキズキし始めた。
銀色の人は変な声をあげて、あたしを落っことした。
お尻から落ちたあたしは痛みで動けなかった。
『こいつなかなかパワフルな駄々っ子パンチを持ってやがる……いつつ』
その人は顎をさすりながら、怒るわけでもなく、苦笑いしていた。
そしてあたしに向けて手を差し出し、にっ、と歯を見せて笑った。
『悪ぃ、立てるか?』
意味がわからなかったあたしは、その手をぼうっと見ていた。
その人がん?と声を上げた瞬間、耳をつんざく怒声が響き渡った。
『貴様何奴だ⁉ どこから入り込んだ!』
『え? いや、入ったと言うか、落ちたとか言うか……』
『何をぶつぶつと言っている! ―――そうか貴様、雪代の財宝が目的だな?』
『は? 財宝? 雪代? いや森の中歩いてたらいきなり変な甲冑着た爺さんが出てきて、わけのわからん光に包まれたと思ったらここに落ちてきたんすけど』
『賊の言葉など聞く耳持たぬ! 大人しく死ねい!』
白髪のおじいさんと銀髪の男の人が何か言っていたけど、おじいさんは男の人の話してる途中で刀を構えて勢いよく斬りかかった。
男の人はうひぃ⁉ と変な声を出してぐねぐねと気持ち悪い動きで刀を躱し、一目散にあたしへと走ってきた。
『なんかよくわからんが……!』
男の人はあたしを軽々と抱え上げ、おじいさんへと向き直ると、あたしに向かって問いかけてきた。
『お嬢ちゃん、素直に答えてねー。あのおじいさん、好き?』
即座に首を横に振る。
『じゃあこの場所は、好き?』
兄上がいる。だけど、あの黒の世界は嫌いだ。首を横に振る。
『オーケー分かった。じゃあ聞こう。外に出たいか?』
男の人はあたしを見ていなかった。唇の右端をくいっと吊り上げて、おじいさんを真っ直ぐ見つめていた。
でも、あたしは迷った。わからなかった。だから強く首をめちゃくちゃに振る。
男の人はハッ、と鼻で笑い、あたしの頭に大きな掌をぽんと乗せると、優しい声音でこう言ったんだ。
『怖いか。当たり前だよな。でもな、ここにいたらお嬢ちゃんはもっと怖い思いをするかもしれねぇ。多分あの甲冑着た爺さんがこうするために俺をここに呼んだと思う』
見下ろすその人は、今も変わらない笑みで、笑っていた。
『せめぇ囲いで人生終わって満足か? もうちょい外見てみろよ。世界は面白いもんばっかだぜ?』
思えばあの時から、あたしはあの笑顔に惹かれたんだと思う。
屈託のない、どこか憎たらしい―――匠間の笑顔に。
そしてあたしは、匠間の家族になることを選んだ。
兄上と同じくらい、大好きなこの人の家族に。
信じてたからこそ隠さないで欲しかった。
他の誰でもないあたしだけには話して欲しかった。
あたしはあなたに全部あげた。心も、体も全部。
あたしの命はあなたがくれたものだから。
あなたがあたしでいられるようにしてくれたから。
だから一人で抱え込まないで。あたしがそばにいるから。
あたしにだけは素直でいて。あなたがいれば笑えるから。
だから、あなたにだけ気付いて欲しい。
あたしはいつだって、あなたのそばで笑っていたいんだ。