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Eclipse-蝕ム者-  作者: 叢雲@ぬらきも
第一章 鈍色の刃
7/19

赤銅の指輪持ち《ブロンズ》

「おっはよーアキナー! 聞いてよーまた匠間しょうまが朝からサカって四回も……ってあれ?」

「なんだよその顔は。と言うか朝から下品な事ばかり言うな」

 翌朝、魔専学院(スクール)に行く道中、いつもの場所で待ち合わせをしていた待ち人を見つけ、朝から元気よく下ネタに口走りながら駆け寄るりんは、アキナの隣にいる珍しい人物に目を丸くする。

 苔色モスグリーンの髪の少年はりんの不思議そうな視線を受け、居心地が悪そうに明後日の方向を見ながら憮然として口を開く。

晴比古はるひこじゃねぇか。なんでアキナと?」

「……行く方向は一緒だから、いても問題ないだろ、別に」

 続く匠間しょうま晴比古はるひこがいる事に疑問を覚えたのか、片方の眉を吊り上げて首を傾げる。

 相変わらず明後日を向きながら憮然と答える晴比古はるひこを庇うように、アキナがすっと一歩前に出て二人に笑顔を向ける。

「おはよう、二人とも。私が一緒に行こうって誘ったの。……ところで、その人は?」

 匠間しょうまりんにとって晴比古はるひこがここにいることも珍しいが、アキナにとっても珍しい……と言うより見た事がない少女に困惑の笑みを浮かべる。

 匠間しょうまりんの後ろにいた赤髪の今時珍しい厚みのある瓶底眼鏡をかけた少女―――ナズナ・ラドネ、もとい、リゼ・アイラは紹介されるでなく自ら進み出てアキナに向かってぺこりとお辞儀する。

「はじめまして。今日からイザナギに編入されるナズ……じゃなかった、リゼ・アイラ。訳あって匠間しょうま君の家にお世話になってるよ」

「あ、編入生、なんですね。って、匠間しょうま君の家⁉」

 アキナはどうもと丁寧にお辞儀を返し、頭を上げようとしたところでナズナの匠間しょうまの家に世話になっていると言う単語が耳に入り、目をまん丸にして勢いよく頭を上げた。

「……どした、アキナ」

 その過剰とも取れる反応に匠間しょうまは勿論の事、りんまでも面食らったような顔で固まっていた。

 事情を知らないアキナが驚くのも無理はないだろう。

 正確にはりんも含めて匠間しょうまの家でお世話になっている事を知らないアキナは目をぐるぐる回しながら勝手な妄想を膨らまし、自分の妄想で耳まで真っ赤になってあうあうと何やら呻いていた。

「えっと、それって、つまり、ど、どどどどど、同棲?」

「どどどどどど童貞ちゃうわ!」

「お前は黙ってろ。話がややこしくなるから」

 どこをどう聞き間違えたらそうなるのか不明だが、アキナの質問をふざけて(くどいようだがりんは真剣そのもの)答えるりん匠間しょうまは鬱陶しそうにぺいっと後ろにつまみ出し、落ち着け、とアキナの頭に大きな掌をぽんと置く。

 その瞬間、晴比古はるひこが目を見開いて凝視するが、ナズナの視線を感じてつい、と真横に視線を逃がした。

「ちと訳があってな。詳しい事情はあれだ、ぷ、プラ、プルトニウムの侵害ってやつで話せねぇが」

「一瞬で遠くなった上になんで核の原材料が出てくるんだよ、恐ろしいな。正しくはプライバシーね。しかし、一体どんな事情があって飢えた獣、性の権化である君の家にお世話になるって言うんだい? 大丈夫? 何か脅されてないかい?」

 匠間しょうまの素のボケを冷静に突っ込んだ晴比古はるひこは、戸惑い笑うことしか出来ないナズナに紳士的に優しく微笑みかけた。

「なぁんでいつもいつも俺は性犯罪者に仕立て上げられるかなぁ⁉ ねぇどう思うアキナさぁん⁉」

「か、顔が怖いよ匠間しょうま君……」

「あ、りんちゃんも匠間しょうまの家に住む事になりましたー。いぇい」

りんちゃんは納得。匠間しょうま君と一緒なら安心かな」

「あれぇ、おかしいな。なんかいろいろ失礼なこと思われてないかな。ん? んんー?」

 ナズナと反応が違う事が不服なのか、りん匠間しょうまを壁にして逃げるアキナを追いかけるように、のっぺりとした半眼の顔をぬるり、ぬるりと動かした。

 壁にされた匠間しょうまは動くたびに顔を撫でる、薄桃の髪の束を至極鬱陶しそうに顔を逸らして逃げていた。

「まぁ、事情にあるにせよ経緯くらいは知りたいかな。もし脅迫されているとしたら僕は知人を軍に突き出さなきゃいけないからね」

「オイなんで俺が犯罪者前提なんだ? オイ聞けよ、スルーすんな」

「実は、別の居住区で暮らしてたんだけど、その」

 ナズナは言いにくそうに口ごもり、俯く。

 微かに体を震わせながら、一時の沈黙を作り上げる。

蝕む者(エクリプス)の襲撃で……」

 やがて伏せ目がちに顔を上げて、絞り出すような声でぽつりと呟いた。

「……ごめんなさい」

「もしかして、家族も?」

 ナズナは目を伏せたままアキナの謝罪に首を横に振り、晴比古はるひこの問いに、無言で頷く。

 イザナギの他にも、多くの住人が寄り添って生活している居住区は多数存在している。

 各地に点在する居住区にも蝕む者(エクリプス)の侵入を阻む防壁が設置されているが、イザナギのものと比べるとあまりに脆く、弱い。

 予期せぬ蝕む者(エクリプス)の襲撃に、濁流に飲まれるが如く、瞬く間に蹂躙されてしまう惨状は珍しくない。

 残酷な現状を嫌と言う程理解している二人は揃って俯き、悲痛の面持ちで口を閉ざした。

「……そっか、辛かったね。匠間しょうま君とはどこで知り合ったの?」

匠間しょうまがナンパして……」

「おま、この状況で茶化すな」

 それは……とナズナが口を開く前に、りんが別の意味で悲しそうな表情で俯く。

 すかさず匠間しょうまりんの口を慌てて塞いで黙らせるが、今の一連のやり取りで違和感を覚えた晴比古はるひこは気取られぬように二人を覗き見、目を細めた。

 そう。ナズナが今言った事は全て空想の設定。

 ナズナ・ラドネとしての身分を隠すための、ありがちな話を固めて作った嘘。

 ナズナが迫真の演技で二人を騙していたと言うのに、りんが茶々を入れたせいで台無しにしそうだったところを匠間しょうまが慌てて止めたのだ。

 内心冷や汗が滝のように流れるナズナと匠間しょうまは二人の表情に変化がないことを確認し、ふぅ……と盛大なため息を吐きたい衝動に駆られながら胸をなで下ろした。

「命からがらイザナギの外れに辿り着いたはいいけど、その時にはもう、歩く事すら出来ずに行き倒れていたんだ。もうダメかって諦めかけてた時、たまたま通りがかったのが匠間しょうま君なんだ。介抱してもらって、事情を話したら、じゃあ家に住むか? って言ってくれて……」

「……善人ぶってかどわかす。何を企んでるんだ? 素直に吐け、今なら罪は軽いぞ」

 頬を染め、心からの感謝の眼差しで匠間しょうまを見つめるナズナ。

 事情を理解し、納得したかのように頷いた晴比古はるひこは徐に匠間しょうまの肩に手を置き、満面の笑みの下で全力の不信感を滲み出しながら理由を問いた。

 口調こそ普段通りだが、暗に何か隠していないか? と探りを入れている。

 こいつ勘付いてんな。そう直感した匠間しょうまは一瞬(りん)に横目を流して小さく舌を打つが、すぐに視線を戻してため息を吐く。

「お前は死にそうな人間が倒れてたら無視すんのか?」

「……そう、また(・・)君は厄介事を持ってきたんだね」

「……悪い。いつか理由は話す。だから今は知らない体で頼む」

 晴比古はるひこは顔を寄せ、匠間しょうまにしか聞こえないトーンで呟くように喋る。

 相変わらず勘が鋭い奴だ。

 匠間しょうまは素直に褒めながらも、こうも早くボロが出るとは予想していなかったために苦笑する。

 幸いにもアキナは気付いていないようで、俯くナズナを心配そうに見つめている。

 仕方ない、と匠間しょうまは声を落とし、晴比古はるひこにだけ聞こえるように囁いた。

 晴比古はるひこは小さく鼻を鳴らし、僅かに首肯して了承の意を見せると、匠間しょうまの肩から手を離し、小さく肩を竦めた。

「いや、しないけど。でもどうやってイザナギの魔専学院(スクール)に? 匠間しょうま君が言ったところで政府がFランクの人間に取り合うとは到底思えないけど」

 世界最高峰の魔術師育成機関であるイザナギの魔専学院(スクール)に編入出来る条件は二つある。

 一つ目は毎日指定された時間に行われている適正試験に合格する事。こちらの編入率の方が高く、試験に合格した者は高ランクに属する事が殆ど。

 二つ目は推薦によって編入される事。こちらはイザナギの教員、軍、高ランク魔術師などの推薦を受けて編入される。

 例を上げるとすれば闘技場が良い例であり、スカウト側は良い人材を引き込んだ事で評価を受け、スカウトされた側も世界トップレベルの評価を得る事が出来る、まさにギブアンドテイクの関係性。

 しかし、人間性を見極めなければならないと言うリスクも当然存在するため積極的に行われていると言う訳ではない。

 前者と異なり、後者は簡単なテストを受けて(魔術師として最低限の資格があるかどうか)編入となるため、ランクにバラつきがある事が特徴。

 匠間しょうまりん晴比古はるひこは後者―――シエルによってスカウトされた。

 晴比古はるひこはやや特殊なパターンになるので、またの機会に紹介しよう。

 ハルナは前者、完全に正面切っての実力に物を言わせた編入。

 アキナは数少ない治癒魔術師ヒーラーの腕を見込まれてのスカウト、(担当はシエル。ハルナの事情も把握しており、そのことをアキナに伝えていない)となっているが姉の曲折した愛情によって推薦、編入されている。

 晴比古はるひこ別の居住区から(・・・・・・・)命からがら(・・・・・)逃げて来た(・・・・・)ナズナが出来る(・・・)人間とは思えない。ましてや匠間しょうまの実力の本質を理解し、イザナギにおける評価を正しく認識している上で疑問を投げかける。

 普通に聞けば最もな疑問なのだが、嘘を見抜いた上での本音はどういう搦手・・を使った? と探りを入れているのだ。

 こう見えて義理堅い晴比古はるひこが安易に暴露する事はないだろうが、匠間しょうまは背筋に冷や汗をかきながらナズナに目を向ける。

 天才ナズナ晴比古はるひこの言葉の裏に気付いたのか、さぁ、どう出る? と挑発的に微笑む苔色モスグリーンの瞳を真っ直ぐ見つめ、桜色の薄い唇の端を微かに吊り上げた。

「ふぅん……? 君の周りには本当に面白い人達ばかりだね。いやはや、感服するよ」

「ん? 何か言ったかい?」

 実力の底はまだ見えないが、恐らく相当の修羅場を潜り抜けてきたであろう匠間しょうま

 雪代ゆきしろの血を引き、類稀なる察知能力を持つりん

 鋭い洞察力を持ち、ポーカーフェイスを崩さず、巧みに言葉を操って懐に潜り込んでくる晴比古はるひこ

 軍人でもなければ魔術師でもない、ただの技術士である自分でも分かる。

 この少年もまた、相当に強い(・・)

 本当に外の世界は面白いな。

 ナズナは胸中で笑う。

 そして何よりも―――と視線を流そうとしたところで、晴比古はるひこの探るような視線が絡みつく。

 ナズナは仕方ない、と笑って向日葵ひまわりのような少女から目を逸らし、晴比古はるひこへと意識を向ける。

「こう見えて、僕は機械にだけは強いんだ」

 そう言ってナズナがおもむろに右腕を晴比古はるひこに伸ばし、奏でるように言葉を紡ぐ。

「出ておいで、僕の可愛い子供達」

『起動式確認。Code-Lame Chevalier』

 どこからともなく機械じみた中性の声音が響くと同時に、何の変哲もないイザナギ魔専学院(スクール)指定の制服のあらゆる箇所から機械仕掛けの腕、機巧魔操腕(アーム)が文字通り生えた(・・・)

 機巧魔操腕アームの先の、人の手に模した機械仕掛けの手、機巧魔操手マニピュレータには姿形問わず、大小様々な対蝕神抗体兵装ソーマが握られており、その鋭利な切っ先は全て晴比古はるひこに向けられている。

 ナズナはにやりと口端を吊り上げて笑い、

「どうだい?」

 僕の本分いくさはこっちだよと実力を見せつける。

「へぇ、凄いな。見たこともない対蝕神抗体兵装ソーマだ」

 ナズナの着る、アキナと同じ見た目の制服に(りんは勝手に改造しているため見た目が大きく異なる)音もなく機巧魔操腕アームが収納されていく様を、晴比古はるひこは目を見張って見つめていた。

 晴比古はるひこがこれならば、と顎に手を添え、ふむ、と納得していると、いつもはドロドロと濁っている目を少年のようにキラキラと輝かせた匠間しょうま晴比古はるひこを押し退けてナズナに詰め寄った。

「何それ何それ何それ何それ超かっけぇ超欲しいめがっさかっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

「えっと……そんなに喜ぶものかな?」

 興奮絶頂の匠間しょうまはナズナの制服の至る所を叩いたり引っ張ったり突ついたりしながら子供のように楽しんでいた。

 時折控えめな胸やお尻に触れることもあるが、匠間しょうまは興奮のあまり気付いていないし、ナズナも子供みたいだなぁと笑って流していた。

匠間しょうまうるさい。そしてウザい」

「ばっかお前あれ見てときめかねぇの⁉ 浪漫だぞ浪漫! あれには浪漫が詰まってんだぞ⁉」

 すげぇすげぇ何どうなってんのコレと、あまりの喜びっぷりと発狂っぷりに、いつもは突っ込まれるはずのりん匠間しょうまの抑制に入る。

 腰に抱きつかれ、無理やり引き剥がされた匠間しょうまは興奮冷めやらぬ様子でナズナの制服を指差し、少年のような輝く瞳をりんに向けた。

「わぁ、匠間しょうま君の目がすっごいキラキラしてる。……可愛い」

「……ただの子供じゃないか、馬鹿馬鹿しい」

「?」

 動物を愛でている時のような優しい目で匠間しょうまを見つめるアキナ。

 その隣でアキナを見ていた晴比古はるひこは憮然としながらぼそりと呟く。

 若干の嫉妬の呟きが聞こえたのか、アキナが不思議そうにことり、と首を傾げて見上げると晴比古はるひこは憮然としたままの顔でそっぽを向く。

「まぁ、技術者としてなら全然不思議じゃないね。にしても、どこでそんな技術を?」

「昔から機械ばかりいじってたのでね。それしか無かったし、今では機械が友達のようなものさ」

 腹の探り合い。しかしナズナの方が一枚上手のようで、晴比古はるひこの言葉の裏も含めて、飄々と躱されてしまう。

 ナズナ、晴比古はるひこはお互い黒い笑みを貼りつけながら、ふふふ……と笑いあった。

 なかなかやるね。君こそ。と無言のアイコンタクトを送りあっていることを、二人を除いた三人は知らない。

「なんにせよ、匠間しょうま君の知り合いなら心配はいらないか。申し遅れたけど僕は周防すおう 晴比古はるひこ。リゼさん、よろしくね」

「あ、アキナ・アルフォードです。よろしくお願いします」

「うん。二人共これからよろしくね」

 改めて晴比古はるひことアキナが自己紹介すると、ナズナもそれに倣ってぺこりと頭を下げる。

 こうして匠間しょうま達の輪の中に晴比古はるひこ、ナズナも加わり、先程のナズナの制服について熱く語る匠間しょうまの声を筆頭に、一同は魔専学院スクールへと足を動かした。


           ◇


「おやおや、これはお揃いで何より。おはよう、落ちこぼれの諸君」

「ん? 見ない顔が二つもあるな」

 賑々しく今日のカリキュラムについて、各々の過去話など他愛もない話をしながら魔専学院(スクール)に行く道中。

 晴比古はるひこの懸念が悪意を持って姿を現した。

 中肉中背、くるくると跳ね返った茶髪の男は芝居がかった口調で鷹揚と腕を広げ、鋭く吊り上がった茶色の瞳を細めて厭らしい笑みを匠間しょうま達に向ける。

 茶髪の男より頭ひとつ抜ける短めの金髪を逆立てた男は、着崩した制服から覗く厚い胸板を一目見て相当に鍛え込んでいると判断できた。

久条くじょう……」

一色いっしき……分かってたことだけど、いざ対峙するとなると少し面倒だね」

「おやぁ? おかしいな。立場をわきまえないゴミがこのイザナギにいるとは驚きだねぇ」

さん(・・)をつけろよ『落ちこぼれ』が」

 匠間しょうま晴比古はるひこの呟きを耳ざとく聞きつけていた久条くじょう一色いっしきはここぞとばかりに侮辱の言葉を投げつける。

 明らかな悪意と高圧的な態度に怯えたアキナを庇うように晴比古はるひこが前に立ち、また匠間しょうまも後ろにいるりんとナズナの壁になるように立ち位置を変える。

 その行動が一色いっしきの癇に触ったのか、片方の口端をぴくりと引き攣らせ、大きく舌を打つ。

「なんだナイト気取りか? 雑魚のクセして女の前でカッコつけてんじゃねーぞ」

「最も、そのナイト様はなぁんにも取り柄がないようなゴミクズなんだけどねぇ!」

 腹を抱えて大笑いする久条くじょうに釣られ、一色いっしきも見下した目でにやにやと怒りを煽るような笑みを浮かべる。

 壁となっている匠間しょうま晴比古はるひこは二人の挑発にも動じず、涼しい顔でそれを黙って見つめている。

 こうして虐げられ、屈辱を味わう事は最底辺であるFランクの人間にとっては常識であった。

 仕方ないのだ。これが常識(・・)として世界は成り立っているのだから。

 力のない人間が足掻いたところで、絶対的な力の差は覆る事はない。

 だからこそ耐え忍ぶしか道はないのだ。

 それを正しく理解している匠間しょうま晴比古はるひこは決して動じず、静かなる水面のような心で受け流すことに徹した。

「おい、雪代ゆきしろ。お前もこんな価値のない能無しとつるんでないで、俺について来いよ」

「……おいおい真虎まこ、冗談でもきついぞそれは。なんの役にも立たないクズだぞ相手は」

 一頻り笑った一色いっしき匠間しょうまの背後で怒りのあまり瞳孔が開きかけているりんに好色の目を向ける。

 これには久条くじょうの方が驚いており、おどけるように肩を竦めてはっきりと拒絶する。

 すると一色いっしきは眉間に皺を寄せ、短く舌を打って久条くじょうに睨みつけた。

「あ? そんなんだからお前はいつまでたっても坊や(チェリー)って言われんだよ。キスもまだのクセしてよ」

「おいちょっと今それ関係ないだろ。なんでそれ今この場で言うんだよ」

「良い女ってのはランク云々は関係ねーんだよ。なぁ雪代ゆきしろ、お前もわかるだろ? そいつといたってお前のなーんのメリットもねえ。俺がお前を鍛えてやるよ。だから俺の女になれ、雪代ゆきしろ

 一色いっしきの思わぬ暴露に、鷹揚と構えていた久条くじょうは素に戻って早口で捲し立てる。

 一色いっしきは焦ってボロが出ている久条くじょうに取り合うことなくりんに話しかける。

 不快しか感じない直球のアプローチにりんは分かりやすく顔を歪め、んべー、と舌を出して拒絶した。

「そうかいそうかい。そんなに能無しのそばがお望みってんなら……分からせて(・・・・・)やるしかねーよなぁ?」

「感謝しろよ? 優しい俺達が、価値のないお前達のために、魔術の勉強をしてやるんだからねぇ」

 一色いっしきの首。久条くじょうの右中指。それぞれの赤銅色の指輪が不穏な輝きを放つ。

「最後にもういっぺん聞いとく。雪代ゆきしろ、俺の女になる気はねぇか?」

「こっちから願い下げだね。あたしはあんたみたいな人を見下して優越感浸ってるような器もナニも小さい男は大っ嫌いだよ!」

 りんの放った言葉に一色いっしきはそうかい、と不敵に笑うが、りん一色いっしき除く五人はナニの意味を理解した上でそれぞれ異なった反応を見せた。

 なんで知ってんだよ……つか、言い方。

 女性に無理やり局部を見せたか、相手がアレで魅力の欠片もない鳥頭だが下衆の極みだな。

 ナニって……え、えええ⁉ は、恥ずかしいよぅ……。

 何だろうねこの空気。それになんで彼の下半身事情を把握してるんだろう? ああ、露出癖ありそうな顔してるなぁ。

 ん? なんかこれ空気おかしいぞ?それになんでサイズを知ってる口ぶりなんだ?

 様々な思いが渦巻く中、一色いっしきりんが生み出す緊張は徐々に高まっていく。

 一色いっしき魔術媒介兵装デバイス魔術回路ドライヴを展開させた瞬間。

 耳によく通る、怜悧で、限りなく透明に透き通った声が響く。

「あら、これはなんのお祭り騒ぎかしら?」

 声の主は腰まで伸びた艶のある金髪をなびかせ、凛としたたたずまいで遥か彼方を見据えるように、緑柱石アクアマリンの輝きを宿す双眸そうぼうを真っ直ぐ前へ向けている。

「は、ハルナ・アルフォード……っ⁉」

「なんでここにいやがる、入院中のはずだろ⁉」

「まるで幽霊でも見ているような顔ね。私はイザナギの魔専学院スクールの生徒なのだから、ここにいて当然でしょう?」

 さも当然のように言い放つハルナに二人は動揺を隠せない。

 それは匠間しょうま達も同じ。

 ハルナは雷獣ヌウアルピリとの戦闘で全治三ヶ月の重傷を負い、イザナギ高等魔術医療施設に入院しているはず。

 それがなぜ、今、ここにいるのだ。

 誰もが驚愕と困惑が織り交ざった視線をハルナに向けている。

 福音ギフトのひとつ、神癒リザレクション―――シエル教授か。

 その中でただ一人、今この現状を作り出せる術を持った人間を知る匠間しょうまは目を細めて魔専学院スクール校舎を一瞥した。

 奇跡とも呼べる魔術の存在と、その反動も十二分に理解している。

 これはくさびか。

 シエルが身を投げ打ってまでハルナを治療した意味を汲み取り、強く歯を食いしばる。

「そう言えば、魔術のご教授をしてくださるのよね? 貴方達が」

 久条くじょう一色いっしきはCランク。Aランクであるハルナに教えることなど有りはしない。

 それを承知の上での皮肉を込め、ハルナは凛然と微笑む。

 久条くじょう一色いっしきは思わぬ横槍に苦しげに呻くが、何も言わずに身をひるがえし、すごすごと退散していった。

「馬鹿じゃねぇの、お前」

 いつかを繰り返すように、匠間しょうまはハルナに投げかける。

 あの時と同じようにハルナは固まる。しかし、今度は違う。理解している。

「借りを返しただけよ。それに、あなたに用事があって来たわけじゃないから勘違いしないで」

 ほんのわずかに口角を上げるハルナの視線の先―――大切な宝物。

「お姉、ちゃん……」

 決して目を合わせず、怯えるように身を萎縮させる姿に胸がちくりと痛む。

 過去をかえりみれば当然の結果。

 しいたげてもさげすんでも、妹は家族と認めてくれていた。

 突き放してしまえば楽だったろうに、そうせずに真っ直ぐ向き合ってくれた。

 今度は私の番だ。それを伝えるためにここに来たのだ。

「退院、したんだね。もう、大丈夫、なの?」

「……うん、シエル教授に治療してもらったから。普通に動く分は、平気」

 良かった……と心から安堵しているアキナを前に、ハルナはいざ伝えようとすればするほど言葉が出ないもどかしさに歯噛みし、結局黙り込んでしまう。

 伝えなくては。謝らなくては。焦りが募るばかりで体が言うことを聞いてくれない。

 もう失いたくない。たった一人である家族を。

 迷うなと。見失うなと。教えてくれた人がいるだろう。

 本当の強さを、私は欲したはずなのだ。


           ◇


 夢を見ていた。

 幼い頃の夢。

 まだ魔力のことを知らなかった頃の無垢な自分は、笑っていた。

 隣にいる幼い妹も幸せそうに笑っていた。

 自分と妹を柔らかい眼差しで見下ろし、くしゃりと破顔する、その表情が大好きだった。

『お父さん』

 誰よりも早く起床し、鼻歌を歌いながら料理している姿を目が覚めるまで眺めることが大好きだった。

『お母さん』

 大好きな笑顔と温もりが消えてから、ずっとそばで支えていてくれた、あの豪快な笑い声が大好きだった。

 父親そっくりのごつごつした大きな掌で髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫でられることも。

 母親そっくりの柘榴石(ガーネット)のような深紅の瞳を子供のように輝かせ、友人のことを話していたことも。

 良い子にして待っててれよ。お姉ちゃんの自分がそんな顔してたら、アキナが泣いちゃうだろう? と優しく抱きしめてくれた温もりも。

『ナツ兄』

 いくら声を枯らしても、いくら手を伸ばしても、もう戻らない。

 大好きだった家族は、二度と戻ってこない。

 弱かった自分を恨んだ。

 あの心地よい温もりを奪った奴らを憎んだ。

 何度もいるはずもない神に祈った。

 この歪んだ世界を変えたいと、強く願った。

 家族のためならどんな苦しいことも耐えられた。

 家族のために傷を負うことを誇りに思えた。

 自分に残された、たったひとつの居場所。

 命に代えても守りたい、かけがえのないもの。

 妹の幸せのためだけに、自分は生きている。

 それだけを考えてがむしゃらに駆け抜けた。

 けれど、世界はいつだって、残酷で、冷徹で、どこまでも正しいのだ。


           ◇


 緩やかに広がる白の世界をぼんやりと眺めていた。

 ふわふわと宙を漂うような、現実味を帯びない感覚から、ここは死の先の世界なのかな、とぼんやり思う。

「気付いたかね?」

 鈴を転がしたような声が耳に滑り込む。

 視界がそちらに滑ると、見知った顔がこちらを見下ろしていた。

「シエル教授……?」

 そこでようやく自分がまだ生きていることに気付かされた。

 同時に忘れていた、忘れようとしていた一つの現実を思い出させる。

「軍の医療施設だ。まだ動くな、完全に癒えたわけじゃない」

 労わるようにかかる声は、いつもより幾分か柔らかい。

 その優しさが、今は深く心に突き刺さる。

「……終わっちゃったん、ですね」

 ぽつり、と声が漏れる。

 心の中の世界に、ぽとりとひとつの雨粒が落ちていく。

「何がだね?」

「……私は、強くなれば、守れると思ってました」

 ハルナの心中を察していないシエルは当然何のことかわからず首を傾げる。

 妹の幸せを掴むまでは、妹の自由を与えるまでは、誰にも打ち明けまいと心の奥底に閉じ込めていた想いが、ぽつ、ぽつと雨粒となって世界ハルナに降り注いでいく。

「世界はいつだって正しく、冷徹で、残酷です。力がないものは、奪われるだけだって、わかってました」

 思い浮かぶは父の優しく、柔らかい眼差し。母の変わらない、安らぎをくれる背中。兄の今にも聞こえてきそうなほど、耳に残っている豪快な笑い声。

「それでも……っ、わたしは……!」

 瓦解した想いは堰を切って溢れ出し、藍緑色の瞳から一筋の雫が頬を伝って落ちていく。

「守りたかった……!」

 雨は降り止まらない。心の拠り所を失った感情は濁流の如く、次から次へと押し寄せてくる。

 止める術などどこにもない。

 激情は大雨に変わり、言葉に変わり、涙と変わって、ただただひたすらにこぼれ落ちていく。

「家族を! たった一人の家族を! アキナを守りたかった!」

 わかっている。今ここに自分がいることが何を意味するか。

 もう、生きる意味を、駆け抜ける意味をなくしてしまったのだ。

「アキナを守れる力が欲しかった! でも、もう……アキナは……っ!」

「何を言っている?」

 失った悲しみで泣き崩れるハルナに、シエルは巌しい面持ちで首を傾げる。

 なぜ泣いている。失うだの守るのだの、この少女は何に怯えているのか。

 自身が知る限りでは、アキナ・アルフォードは友人がいつものごとくサボりに走ったことを珍しく本気で怒っていた。

 シエルの中で何か(・・)がざわついた。

「アキナに……異端審問がかかってるって……! わたしにはもうこれしかなかった……!」

異端審問・・・・?」

 ハルナの嗚咽混じりの言葉に、シエルは目を見開く。

 そのような話、この私が(・・・・)知らないはずがない。

 シエルは氷のように急速に冷めていく自身を認識しながら、悲しみに暮れるハルナへ視線を落とす。

「何を言ってる? 異端審問などかかっていないぞ」

 えっ? と声も出せない状態のハルナが瞬きも忘れてシエルを凝視する。

 何かある。そう確信したシエルは内なる焦燥を隠して鋭い声音で言葉を紡ぐ。

「詳しく話せ。包み隠さず、全てな」


           ◇


「なるほど。軍だけに走った情報か」

 ハルナから事情を聞き出したシエルは胸の下で腕を組み、右手の親指と人差し指で細い顎をつまむようにして添えて目を閉じる。

 鴻平こうへいとの面会。謎の男の出現。軍だけに(・・・)走った不可解な異端審問。

 異端審問は通常、軍、学院側に必ず通達される。

 特級極秘事項に値するのだが、軍の都合だけで優秀な魔術師を処罰、ないし処刑されてはたまったものではないからだ。

 そして今回、学院でゼファートに次ぐ権限を持つシエルに知らされていなかった事実。

 それも決して無視できない極めて異例の事態だが、シエルにはそれよりも引っ掛かるものがあった。

 ハルナから聞いた話では外見の特徴などほぼ不明に近いが、おぞましい不快感しか覚えない特徴的な嗤い方をする人間がただ一人、記憶の中に存在している。

 それはかつて共に戦い、私欲を満たさんがために裏切った、絶大な魔力を持つ男。

「やはり生きていたか……」

 あの戦いで消息不明になってはいたが、よもやあんなところで死にはしまいと予想はしていたことではあるが、なぜ今になって姿を現したのか。

 異常事態イレギュラーに続く予測不可能の事態にシエルは強い焦燥感と頭が割れそうな程の頭痛に襲われた。

 と、そこで白衣の裾を弱々しく引っ張られる。

 目を開けてそちらを見ると、いろいろとぐしゃぐしゃになった顔のハルナが不安そうな目でシエルを見上げていた。

「シエル教授……アキナは、アキナは無事なんですか⁉」

「まずは落ち着きたまえ。それと、動くなと言ったろう」

 無理に起き上がろうとするハルナを優しく押し留め、持っていたハンカチをハルナにそっと差し出した。

 すん、と鼻を鳴らし、ハンカチの意味がわからず黙ってそれを眺めているハルナに、シエルは思わず苦笑した。

「いろいろと酷い顔だぞ。美人が台無しだ」

 言われて気付いたのか、ハルナは頬を淡く染めてハンカチを受け取り、掛け布団の中に隠れて目と鼻から溢れ出していた液体を拭う。

「そのままでいい、聞きたまえ。彼女は無事だろう。異端審問がかかれば私達教員にも知らされる。学院側と軍は連携しているからな」

 盛り上がった布団の中で安堵する気配が伝わる。

 シエルはそれを見てふっと微笑むと、ならばなぜ、と疑問を口にする。

「それほど大事な家族ならば、なぜあそこまで冷たく当たるのかね?」

 答えは帰ってこない。

 代わりにすん、と鼻を啜る音が聞こえる。

「無理に聞き出そうとは思わんよ。ただ、あそこまで酷い顔をする君を見るのは初めてだったのでな」

「……私が強くなるまで、守れるようになるまで、一緒にいちゃいけないんです」

 からかうように笑うシエルは布団の中で恥ずかしそうにもぞもぞ身動ぎするハルナを見てまた可笑しそうに笑う。

「君は思い違いもはなはだしいな。アキナは君が思うほど弱くない」

「どういう……事ですか?」

 そこでようやく目を真っ赤に腫らしたハルナが布団からちょこんと顔をだす。

 シエルは一回りも歳の離れた少女を慈愛に満ちた目で見つめてそっと微笑む。

 やはりまだ子供なのだな、と実感しつつ、待っているであろう答えを口から滑らせた。

「確かに世界は等しく残酷で冷徹だ。弱いものが強いものに従う。世界に悪しき風習が染み付いている。しかし、本当に弱いものは心に負けたものだ。常識、決められた縛りに満足し、他者を虐げることしかできない人間は等しく弱者だ。本当の強さとはなんだね? 力か? 魔力か? 扱える魔術の質か?」

 真っ直ぐ目を見て、真剣に耳を傾けているハルナにシエルは問う。

 問うたところで答えが出ないことを知っていた。

 その答えを欲するがためハルナは強さを求め、間違い続けてきたのだから。

「どれも違う。強さは己の心を貫き通す事だ。折れたとしても、砕けたとしても、決して挫けぬ心こそ強さだと私は思うがね」

 あくまで、考えのひとつだがねと付け足し、シエルは改めてハルナを見る。

「さて、君は一体どちらかな?」

「会い、たい」

 薄く微笑むシエルに、ハルナは本当の気持ちを、魔術師としてではなく、アキナ・アルフォードの姉、ハルナ・アルフォードとしての気持ちを告げる。

「アキナに、会いたい。そして……謝りたい!」

「ダメだ」

「……っ」

 本心をさらけ出したハルナの言葉を、シエルはにべもなくすっぱりと否定する。

 愕然とするハルナにシエルは意地の悪い笑みを浮かべてベットを指差して見せる。

「そんな体で行かせると思うかね? 今日一日治療を施すからじっとしていろ」

「教授……!」

「私は軍人ではない。教師だ。そして」

 シエルはぱあっと笑みを咲かせるハルナに任せろとばかりににやりと笑い、腰掛けていたパイプ椅子から腰をあげた。

「イザナギ随一の治癒魔術師ヒーラーだ。心配するな。一日もあれば動けるようにしてやろう」


           ◇


 シエルが何をしたかまでは眠らされていたため分からないが、酷く憔悴していたことから、相当な魔力を使ったに違いない。

 そうまでしてここに送り出してくれたのだ。

 ここで全てを話さないでいつ話すと言うのだ。

 意を決したハルナは頭を振って迷いを振り切り、アキナに向き合った。

「いろいろ……ごめんね。今更謝っても……許されるとは思ってないけれど」

「ううん。わたしは今でも、お姉ちゃんが大好きだよ」

 ようやく、ようやく、長く言えなかった想いを伝えられた。

 目の前で破顔するアキナから目を逸らさず、真っ直ぐ視線を注いでいたハルナの瞳にじわりと涙が浮かび上がる。

「アキ、ナ……っ」

 ハルナは感情を堪えきれず、アキナをぎゅっと抱きしめる。

 アキナは首元に顔を押し付けて啜り泣く姉の頭を優しく、慈しむように撫でる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

「お姉ちゃんがいてくれるだけで、私は嬉しいんだよ。だって、家族だもん」

 繰り返し繰り返し嗚咽と共に絞り出される言葉を聞きながら、アキナはおかえり、と静かに微笑んだ。

「めでたしめでたし、ハッピーエンドってところかね?」

「よがっだなぁぁぁアギナぁぁぁぁぁおいぢゃんがんどうじだよぉぉぉぉ」

「いや誰だよ。って汚いな僕の制服で鼻水を拭くな鳥頭ぁ!」

「家族っていいものだね。僕も……」

 蚊帳の外の三人が各々やり取りを交わす中、ナズナもまた思うところがあるのかしみじみと肯いていた。

 そして兄である軍の整備士、ライラック・ラドネを思い浮かべたのだが、あの機械をいじって直すためだけに生まれてきたような男が、あんな感動的な場面を生み出す事はありえない、と結論を出し肩を落としたのだった。

 他人から見れば、まさに似た者同士なので自分のことも言えないのだが、それに気付くはずもないナズナは羨ましそうにハルナとアキナを眺め続けていた。


           ◇


「ん? アキナとリゼはどうした?」

「校舎の案内してるみたいだよ。ここで待ってれば来るんじゃない?」

 本日の全カリキュラム終了後、(この二人は神がかった睡眠スキルによりほぼ寝ていた)魔専学院スクール校舎の入口で待ち合わせしていた。

 ちょうど入口から出てきた匠間しょうまりんの姿を認め、他の二人を探してキョロキョロと周囲を見回す。

 りんの答えに匠間しょうまはそうか、と言って校舎の壁に背を預け、二人を待つことにする。

 すると艶のある金髪を靡かせながら、普段はこの場所に留まることのない人物がぴたりと足を止めた。

「……アキナは?」

「リゼに校舎の案内してるんだとよ。待ってりゃ来るんじゃねぇの」

 口を効くことも汚らわしい、と言った表情でハルナが目の端に匠間しょうまを映して尋ねる。

 匠間しょうまは気にした素振りも見せず顎で校舎を示し、腕を組んだまま小さく肩を竦める。

「そう。りんちゃんはともかく、あなたと一緒の空間にいるのは耐え難いわね。消えてくれないかしら」

 どうやらアキナを待っているようだが、その場にいると邪魔だと辛辣な言葉を匠間しょうまに浴びせかけ、りんの隣に並び立つ。

 あんまりな物言いにさすがの匠間しょうまも顔を顰めるが、灰銀色の頭に手を突っ込んでがしがしと掻き毟った後、仕方ない、と言ったようにため息を吐いた。

りん、先に買い物してくる。寄り道すんじゃねぇぞ?」

「ほいほーい。匠間しょうまもか弱い女子襲うなよー」

「誰が襲うか」

 りんといつものやり取りを適当にあしらいながら、匠間しょうまは片手を上げてその場から立ち去っていく。

 小さくなっていく灰色の頭をじっと眺めていたりんは、それが見えなくなってから隣へと視線を移す。

 ハルナは表面上は無表情で立っているが、髪をいじったり、流れゆく生徒を注意深く目で追っていたりとどこか落ち着きがない。

「ハルナちゃんはさ」

 それまで黙って見ていたりんは、本当に何気なく話題を切り出した。

 突然話しかけられたハルナは一瞬びくりと肩を跳ね上がらせるが、不思議そうに首を傾げるりんの方へと顔を向け、んん、と咳払いする。

「えっと、何かしら?」

匠間しょうまの事どう思う?」

 いきなり何を聞いてくるのか。

 いまいち要領を得ない質問にハルナが目を丸くしていると、りんはにひ、と白い歯を見せて笑った。

「別に深い意味はないよ。何かと目の敵にしてるから、ちょっと気になって」

「嫌い、と言うかどうでもいいわ」

「じゃあなんで邪険にしてるの?」

 なぜ、と聞かれてハルナは理由を探す。

 ハルナは自分の中での匠間しょうまの印象を思い浮かべ、感じたものを正直に口から滑らす。

「……羨ましいのかもしれないわね」

 ほう? と興味津々に薄桃の髪を揺するりんに苦笑しながら、ハルナは思ったことをそのまま口に出していく。

「失礼だけど、ランクで言えばあいつは私よりも遥かに下。でも、あいつは私にはないものを持ってる」

 そう。匠間しょうまは確実に、自分にはないものを持っている。

 この世界の常識から逃げず、折れず、踏まれても、千切られても、力強く地に根を下ろす雑草のような、そんな―――。

「心の強さ?」

 今まさに思ったことを言葉にされ、ハルナは驚愕で目を大きく見開く。

 りんはやっぱり? と言いたげに笑い、空を眺めてぽつり、ぽつりと話し始めた。

匠間しょうまはねー。馬鹿でアホで鈍ちんで不器用で頑固親父で小姑で盛りのついたケダモノでしょうもない奴だけど」

 散々な言われようだが、これはりんなりの愛情表現なのだと、ハルナは苦笑しながら清聴する。

 最も、この場に当人がいれば激しい愛情表現が返ってくるであろうが。

「誰よりも何よりも優しいんだ。何かと小言がうるさかったり、えっらそーにしてるけどさ。でも、匠間しょうまは身内に対して遠慮しないし、本気で怒ってくれる。そんで、強いんだ。どこまでもまっすぐな信念を持ってる匠間しょうまの隣にいて退屈しないよ?」

 時々、きつい時もあるけどねと小声で零し、ハルナに向けて微笑むりん

 ハルナはりん匠間しょうまがどんな関係なのか知らない。

 だが、誰よりも信頼し、強い絆があるのだな、と今の話だけでも十分理解できた。

りんちゃんは、その……あいつのか、彼女なの?」

「んー……みんなそう聞くけど。あたしは匠間しょうまの隣にいれればいいんだ。家族みたいなもんだよ」

 恥ずかしそうに聞いてくるハルナに、りんは何故か寂しそうに笑って答える。

 それに疑問を感じたが、深く問うことはなかった。

 それぞれの事情があるのだろうし、そこまで匠間しょうまに興味が沸かなかったからだ。

「まぁ、ハルナちゃんはアキナのお姉さん。だから、匠間しょうまの中でも身内の中に入ってると思うよ。だからああやって気を使って先に帰ったんだと思う」

「余計なお世話ね」

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くハルナに、りんは微苦笑しながら乾いた笑い声を上げる。

「まぁ、急には変われないと思うけど、見てて退屈しないと思うよ」

「そう……ね、考えておくわ。アキナも世話になってるみたいだし」

「それにしても遅いなー。普段使うとこしか案内しないって言ってたのに」

 この話は終わり、とばかりに話題を変えるりん

 ハルナも腕の魔術媒介兵装デバイスを操作し、時刻を確認する。

 ここに来てからいつの間にか二十分は経っている。りんの言う通り、普段使われる場所はそう多くないし、それぞれの距離も隣接しているためそう時間はかからない。

 何をしているのか、と疑問を抱いたところにちょうど、晴比古はるひこのあれ? と言う声がかかった。

 見ると晴比古はるひこは不思議そうに目を丸くしており、真っ直ぐこちらへ向かって歩いてきていた。

りんさん、どうしてここに?」

「お? 晴比古はるひこじゃん。なんでって帰るからいるんじゃん」

「じゃなくて、二区に行ったんじゃなかったの? さっき二人とすれ違ったけど、君と匠間しょうま君、ハルナさんで二区で待ち合わせしてるんじゃなかったのかい? ……僕は呼ばれてないみたいだけど」

「は? なにそれ、聞いてないけど」

 晴比古はるひこの言葉に、ハルナとりんは顔を見合わせる。

 すかさず魔術媒介兵装デバイスを操作し、呼び出し(コール)してみるも、どちらも繋がらないのか、無言で首を横に振る。

「……なにかあったのかい?」

りん! ハルナ!」

 不穏な空気を敏感に感じ取った晴比古はるひこは、みるみる険しくなっていく表情の二人に説明を促す。

 りんが口を開こうとするのと、怒声と共に帰ったはずの匠間しょうまが駆け込んできたのはほぼ同時だった。


           ◇


 二区の外れ、今は使われていない工場や倉庫が乱立する工業区域。

 人が訪れることが少ないこの区域は治安が悪く、ごろつきたちがうろつく危険区域のため、好んで近寄る人間はいない。

 軍の人間が巡回してはいるが、あまりにも入り組んだ作りのため、監視の目が隅々まで届いていない現状。

 その監禁場所とはしてはうってつけの、今は使われていない廃工場にアキナとナズナは連れ去られていた。

「ごめんねぇ。でも、これもあいつと一緒だったお前が悪いんだよ?」

 むせ返るような古びたオイルと鉄の匂いが充満する、埃臭い寂れた空間に悪意を孕んだ下卑た笑い声が響く。

 その声に魔術の鎖で拘束されているアキナはびくりと体を震わせ、血の気を失った顔で俯く。

 アキナの隣、同じく拘束されているナズナは極めて冷静にそちらに顔を向け、眼鏡の奥の目をスッと細める。

「何をするつもりだい? こんな場所に連れ込んで」

「黙ってろクズが。お前らみたいな能無しがイザナギにいる事自体がムカつくんだよ」

 その態度が気に食わなかったのか、一色いっしきはナズナの髪を乱暴に掴み、すぐ横に積まれている硬い金属製のコンテナに強く叩きつけた。

 がつんっ、と鈍い音が工場内に響き渡り、ナズナの表情が苦痛に歪む。

「リゼちゃんに、ひどいことしないで!」

 その瞬間、怯えていたはずのアキナが顔をあげ、今にもこぼれ落ちそうな雫が滲む瑠璃色の瞳で一色いっしきを睨みつけ、強い抵抗の意を見せる。

「はぁ?」

 ナズナの髪の毛を掴み、もう一度頭を叩きつけようとしていた一色いっしきがアキナへと顔を向ける。

 ナズナをコンクリートでできた硬い床に放り投げ、ごとりと頭から落ちたナズナなど目もくれず、今度はアキナの髪を力いっぱいに掴みあげた。

「立場わかってるか? お前らがどうなろうと、誰も気にするわけねぇだろ?」

「うぁ……や、やめて……ください……」

 一色いっしきは恐怖と痛みで苦悶の表情を浮かべるアキナの身体をじろりと見回し、好色へと目の色を変え、厭らしい笑みを浮かべた。

「……喜べ、使い道のないお前を、俺が使って(・・・)やるからよ」

 くっくっと喉の奥で笑い、アキナの制服へと手をかけ―――力任せに引き裂いた。

「―――いやっ! 離して! やだぁっ!」

 その瞬間アキナは激しく身を捩って抵抗するが、頭を押さえつけられ、魔術で拘束された身ではそれも何の意味も成さなかった。

 アキナの行動がさらに劣情を高ぶらせたのか、一色いっしきは嫌がるアキナを押し倒し、強引に組み敷いた。

「……女性に無理やりとは、恐れ入るね。恥ずかしくないの―――うあっ⁉」

 強かに打ち付けられ、頭から血を流して倒れているナズナが、朦朧とする意識で一色いっしきを睨みつける。

 少しでも意識をこちらにと目論んだナズナだが、強烈な蹴りが腹に叩き込まれ、言葉が遮られてしまう。

「誰が喋っていいって言ったぁ? 黙って見てろよ、落ちこぼれ」

 けらけらと肩を揺すって笑う久条くじょうを見上げ、ナズナは咳き込みながら悲鳴を上げて抵抗しているアキナへと目を向ける。

 抵抗虚しく、既にアキナの上半身に纏うものは引き千切られ、形の良い胸が露になっていた。

 それを一色いっしきは片手で乱雑に、無遠慮に触っている。

 アキナの悲鳴が嫌と言うほど工場に反響する。

 ナズナの脳裏に、家族を奪われたあの瞬間が蘇る。

「やめ、ろ……」

 声を絞り出しても、ひゅうひゅうと風のような音が喉から通り抜けるだけ。

 それでもナズナは歯を欠くほどの強い力で食いしばり、力の限り叫んだ。

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 その空気を揺るがす叫びにより、一色いっしき久条くじょうの動きが止まった。

 だがすぐに動きを取り戻し、久条くじょうが唇を不気味に吊り上げてナズナへと近づく。

「そうか、仲間はずれは嫌か。落ちこぼれなどに興味はないけど……使えれば(・・・・)なんでもいいか」

 そして、久条くじょうの手がナズナに伸びた瞬間。

 空気が、爆ぜた。

 凄まじい轟音と共に鋼鉄製の分厚い扉が吹き飛び、コンクリートの床を砕きながら転がっていく。

 砂埃を巻き上げ、入口に並び立つ四つの影に目を細め、久条くじょう一色いっしきがにやりと笑う。

「おやおや、随分お早い登場で」

「お楽しみ中だったんだがなぁ。まぁいいか、余興があったほうが本番が燃える」

「アキナ!」

「リゼ! アキナ! 大丈夫⁉」

 ハルナとりんが血相を変えて工場内へと駆け込む中、匠間しょうま晴比古はるひこは工場内にくまなく目を走らせ、ゆらりと足を動かした。

「私の妹と、その友達になにしてくれてるのかしら? 身の程を弁えない人間は嫌いなのだけれど」

 先頭に立つハルナはアキナの姿を認識すると同時に、両手に視認できるほどの高密度の魔力を纏わせ、一色いっしき久条くじょうにゆっくりと詰め寄る。

 Aランク魔術師であるハルナの全力の魔術を防ぐ術などあるはずもなく、一方的に蹂躙される立場にいるはずの二人は余裕綽々の笑みを貼り付け、心底可笑しそうに肩を揺する。

「何がおかしいの?」

 恐怖のあまり狂ったか? とも思えたが、どうも違う。

 ハルナは腹を抱えて笑い始めた二人に顔を引き攣らせ、もはや言葉は不要、と魔術回路ドライヴを展開しようとした直後。

 笑っていた久条くじょうが薄笑いを貼り付けたまま顔をあげ、ぱちんと指を鳴らした瞬間、魔術回路ドライヴが一瞬で霧散し、体から力が抜けていくような錯覚に陥った。

「なに……これ……っ⁉」

 ハルナから驚愕の声が上がる。

 それは背後にいる匠間しょうま達も同様だった。

 全身から力が抜けていく感覚に、四人は揃って膝をついてしまう。

 何が起きたかわからない、と言った表情で睨み付けるハルナに、久条くじょうは満足そうに口端を吊り上げ、鷹揚に腕を広げた。

「君は厄介だからねぇ。少しだけコネを使わせてもらったよ」

「これは……魔術抵抗触媒兵装キャンセラー? 軍にしか流通してないものを……なぜ……」

 一色いっしき久条くじょうを除く誰もが苦痛で顔を歪める中、この現象を良く知るナズナは呻くように言葉を繋いだ。

 ご名答、とばかりに久条くじょうはにやりと笑い、自身の右手、中指に嵌めた指輪を見せつける。

「俺達がなんなのか、忘れてないかい?」

赤銅の指輪持ち(ブロンズ)ともなると、色々と融通が効くんだよ」

 再び腹を抱えて笑う二人を、ナズナは唇を噛んで睨み付ける。

 自分の生み出した子供(・・)達は、決してこんなことをするために作ったわけじゃない。

 そして、子供をおざなりに扱う軍の対応についても怒りを覚えた。

 されどこの状況ではどうしようもできない。

 魔術抵抗触媒兵装キャンセラーは一定範囲に作用し、範囲内のあらかじめ設定した人物以外の魔術を封じ、魔術師の力の源である魔力を奪い続ける対魔術師用の切り札とも言える魔術媒介兵装デバイス

 おそらく久条くじょう一色いっしきには作用しておらず、彼らは自由に魔術を使えるだろう。

 完全に立場が逆転してしまっていた。

 あとは弱った獲物をじっくりと料理していくだけ。

 絶望に打ちひしがれるナズナの耳に、信じられない声が届いた。

「汚い真似をするね。どっちがクズだクソが」

「ほぉ……立つか。確か周防すおうだったか? ちょっとばかし体術ができるからって、魔術師おれたちに勝てると思うなよ?」

 無力化されている空間で、立ち上がっている人物がいた。

 晴比古はるひこ苔色モスグリーンの髪を波打たせながら、久条くじょう一色いっしきを強く睥睨へいげいする。

 二人は最初に驚きこそしたが、覆ることのない状況を確信しているのか、余裕の笑みを浮かべて挑発する。

「へぇ」

 晴比古はるひこは波打つ髪が逆立ち、髪に隠れていた左目が露出すると同時に、引き結んでいた唇に大きく弧を描く。

「じゃあ、試してみるかい?」

晴比古はるひこ! 上だ!」

「っ!」

 晴比古はるひこが腰を落とし、前傾姿勢を取るとほぼ同時に、匠間しょうまの鋭い声が上がる。

 間髪入れずに飛来した炎の矢を後ろに飛んで回避し、ぐるりと周囲を見回す。

 工場内の至るところから、今まで隠れていたであろう男達が、天井、物陰、裏口と至るところからぞろぞろと姿を現し、晴比古はるひこ、倒れている匠間しょうま達を囲うように集まっていく。

「やっぱり仲間か。気配はすれど、何もしてこないからごろつきかと思ってけど、ね」

 晴比古はるひこは視線だけを走らせ、冷静に数を確認する。

 五、八、十―――ざっと十五か。数を把握し、考える。さすがに一人では厳しい人数だ。

 それにアキナとナズナも人質に取られている。

 状況を把握し、迂闊に動けないと理解すると晴比古はるひこは苛立ちと共に舌を打った。

「聞きしに勝る下衆っぷりだな貴様ら。まだ鳥頭のほうがマシだ」

「おいおい、力こそ正義だろ?」

「黙って見てろよ。Aランク魔術師サマの大事な妹がキズモノになる瞬間をよ」

 動けない晴比古はるひこを嘲笑するように、一色いっしきの手がアキナに触れようとした刹那。

 ぐしゃり、と柔らかい何か(・・)が潰れる音と共に、二人の男の体が宙を舞った。

「あーもーめんどくせーや。もういいわ、うん。もういいよ(・・・・・)

匠間しょうま、いいよね? いいよねぇ⁉ もう我慢出来そうにないよあたし!」

 晴比古はるひこに続き、匠間しょうまりんまでもが立ち上がったことに、久条くじょう一色いっしきに明らかな動揺が走るが、それもすぐに消え去り、まだ人質があるうちは何もできないとタカを括った一色いっしきがくっくっと笑い声をあげる。

「妙な真似すんなよ? こいつらが―――」

「こいつらって誰の事だい?」

 真横から聞こえた、晴比古はるひこの鼻で笑う声。

 弾かれたように振り向くと、囲まれていたはず(・・・・・・・・)晴比古はるひこがアキナとナズナを脇に抱え、不敵に笑っていた。

「てめ……っ、いつの間に……⁉」

「なっ……馬鹿な⁉」

「お前ら馬鹿だな。僕はともかく、あの二人を本気・・で怒らせるなよ」

「へぐっ!」

「ぐへぁ!」

 晴比古はるひこが鼻で笑った直後、奇声と共に再び二人の体が吹き飛んでいく。

 そちらに素早く視線を動かすと、大勢の魔術師に囲まれている状況にも関わらず、首を鳴らしながらゆっくりとこちらに近付いてくる匠間しょうまと、鼻血でもかかったのだろうか、顔に返り血を浴びているりんがゆさゆさと薄桃の髪を揺らしながら近付いてくる姿が映った。

 二人が一歩進めるたびに、囲っている男たちは怯えたように一歩後ずさっていく。

「別によぉ、俺に手ぇ出す分には黙ってたんだけどよぉ」

「あたしは前からあんた達半殺しにしようと思ってたよ。匠間しょうまが言うから我慢してただけであって」

 言いながら、今度は三つの体が吹き飛ぶ。受身も取れず床に叩きつけられた男達はぴくりとも動かない。

「一番やっちゃいけねぇことやっちまったなぁオイ」

「身内に手を出しといて、ごめんなさいで済まさないよ。今日のりんちゃん抑えられそうにないから覚悟しといてね」

「……つけあがるなよクズどもがぁぁぁぁ!」

 一色いっしきの絶叫で、魔術師達が一斉に魔術回路ドライヴを展開した。

 凄まじい数の魔術が、全方位から匠間しょうまりんに襲いかかる。

 地鳴りに似た振動と共に凄まじい量の砂埃が巻き上がり、視界が悪くなった瞬間を狙いすまし、晴比古はるひこは即座にその場を離脱する。

 そして乱戦状態になっている中心で倒れているハルナを、アキナとナズナを抱えている状態にも関わらず片手のみで拾い上げ、心の中で詫びつつも荷物をぶらさげるようにして安全圏である工場の入口付近へと運ぶ。

「ハルナさん、動ける?」

「大丈夫……これくらいで……」

 三人を下ろし、晴比古はるひこは唯一意識のあるハルナに安否を取る。

 口ではそう言いつつも、ハルナの表情は芳しくない。

 無理に動こうとするハルナを晴比古はるひこは無言で押し留め、気絶しているアキナとナズナに目を向ける。

 と、同時に明らかな動揺が走った。

 横向きに寝かせているアキナの腕の隙間から覗く、豊満な肌色が視界に飛び込んだからだ。

 晴比古はるひこはごくりと喉を鳴らし―――。

 アキナに自分の制服を優しくかけた。

「……あなたも……りんちゃんも、あの男も……一体何者なの? どうして、立ってられるの?」

 浅い呼吸を繰り返し、弱々しい声で問うハルナに晴比古はるひこは薄く笑って向き直る。

「視野が狭いね。それじゃあ見えてるものも見落とすよ。何も魔術が全てじゃないのさ、ここはね」

 そして未だ晴れない砂埃の中から聞こえる戦闘音に目を向け、自身もまたその中へと駆け出していった。

「オラオラ腰が入ってねぇぞ! 当てる気あんのかコラ!」

「ほい、ほい、それ、ちょいなーっと。遅い遅ーい。そんなんじゃ小型蝕む者(エクリプス)にもあったんないよー」

 砂埃がもうもうと立ち込める中、匠間しょうまりんは極めて悪い視界の中で、高速で飛んでくる魔術の雨をまるで来ることがわかっているかのように最小の動きで躱し、拳を叩き込み、蹴りを放ち、肘を打ち込み、一人、また一人と地にひれ伏し、確実に数を減らしていく。

「なんだこいつら⁉」

「Fランクだろ⁉ なんで当たらないんだ⁉」

 この劣悪な視界の中で魔術を躱し続けることも驚愕に値するが、魔術師達にとって一番の驚きは自身より劣っているはずの匠間しょうま達に押されている(・・・・・・)ことだ。

 最も、匠間しょうま達からすれば、この程度(・・・・)造作もないことであり、言ってみればカモである。

 馬鹿正直に真正面からしか放たれない魔術など恐るるに足らず。

 軌道さえわかれば、軸をずらし、回避するだけの簡単なお話。

 問題は発動までの時間と、自身に到達する距離と速度を正確に、それもコンマ何秒単位で見極められるか否か。

 それさえクリアすれば、ガラ空きの懐に飛び込むだけ。

 通常、複数の魔術を同時に発動できない。

 魔術回路ドライヴを組み込む際に魔術媒介兵装デバイスにかかる負担が大きすぎ、最悪の場合魔術媒介兵装(デバイス)が砕け散る。

 更には魔術回路ドライヴを組み上げる集中力が足りず、流し込んだ魔力が逆流し、一時的ではあるが魔力枯渇と同様の症状、精神消失マインドダウンに陥り、行動不能となってしまう。

 動けない的など格好の獲物。

 魔術発動後に目標が健在であれば限りなく(・・・・)最速で次の魔術回路ドライヴを展開し、近寄る隙を与えず圧倒的な火力と物量で殲滅せんめつすることが魔術師の本懐。

 それを理解している匠間しょうまりんは、魔術回路ドライヴを展開する暇さえ与えず発動直後を狙って凄まじい速度で奇襲していく。

 上級魔術師、軍人との戦いであれば、これはセオリー通りの戦闘スタイルであり、いかに距離を離すか、いかに距離を詰めるかの駆け引きが絶対的に生まれる。

 この魔術師たちは一言で言えば、Fランクである二人から見ても鼻で笑えるほど、なっちゃいない(・・・・・・・)

「ランクなんぞせめぇ囲いで判断すんなボケェ! 実力がランクで測れるか!」

「ランク=弱いって判断がもうねー。目安にはなるけど、そいっと。実際やってみないと、ほいなっ。わかんないよそんなの。こんな風に……ねっ!」

 あらゆる方角から矢継ぎ早に飛んでくる魔術に一歩も引かず、二人は破竹の勢いで魔術師たちを薙ぎ倒していく。

 魔術? そんなの関係ねぇよと言わんばかりに魔術回路ドライヴを展開している魔術師目掛けて突進し、発動寸前で踏み込んだ床を砕くほどの力を乗せた強力な拳を叩き込む匠間しょうま

 魔術の軌道を見極め、おちょくるようにぴょんぴょん飛び跳ねて回避し、飛んでいる真っ最中に急激な方向転換を行い、まるで空中から跳躍しているかのように舞いながら、発動直後の隙だらけの魔術師に勢いを乗せた痛烈な回し蹴りを叩き込むりん

 剛と柔。二つの力はさながら暴風のように荒れ狂い、次々と阻む者の意識を刈り取っていく。

「楽しそうだな。()も混ざっていいか?」

 やっと半数、と数が減った時、二人の背後から完全に髪が逆立った晴比古はるひこが飛び出してきた。

 二つの苔色モスグリーンの瞳が紫紺の色に縁どられ、がらりと口調を変えた晴比古はるひこは普段とはかけ離れた好戦的な笑みを浮かべている。

 それの意味を理解する二人は晴比古はるひこを見るなり、にやりと口端を吊り上げた。

「ヤルヒコになってるぅ。久しぶりだねぇ」

「あれからやってねぇからわかんねぇが、鈍ってねぇだろうな?」

「勝手にほざいてろ。雑魚は任せてさっさと潰してこい!」


「よう。黙って一発殴らせろよ。なぁに心配すんな、一ヶ月は天井のシミ数えるだけだ」

「あたしは優しいから右か左か選ばせたげる。―――二度と動かないけどね」

 後方を晴比古はるひこに任せ、砂埃の中から抜け出した二人は、工場の奥で事の成り行きを見守っていていたであろう久条くじょう一色いっしきを見つけ、フレンドリーに話しかける。

 もっとも、口走っている言葉は穏やかではないが。

「お、お前ら、なんなんだよ」

「え、Fランクだろ? 落ちこぼれがここまで……」

 じりじりと距離を詰めていく匠間しょうまりんに気圧され、一色いっしき久条くじょうは恐怖を色濃く出して後退あとずさっていく。

「別にてめぇらは弱くねぇよ。ただ、喧嘩を売る相手を間違えただけだ」

「ぶっちゃけてさー。匠間しょうまが止めてなかったらあたし、初見であんたら殺してる自信あるよ?」

 どん、と背中に衝撃が走り、一色いっしき久条くじょうはそこで初めて壁際まで逃げていたことに気付く。

「へっ、へへっ……」

「Fランクなんぞに……クズどもなんぞに……」

 二人は揃って下を向き、クズだと、落ちこぼれだと見下していた匠間しょうまりんを恐れていると自覚した。

 ふざけるな。認めてたまるか。俺が、俺たちが圧倒的に劣っているはずのFランクに―――ビビってる?

「ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 久条くじょうは右手中指に。

「うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 一色いっしきは首に。

 それぞれ絶叫と共にありったけの魔力を魔力増幅器ブースターである赤銅の指輪に注ぎ込み、指輪の力を解放した。

 大量の魔力を注入された指輪は眩い光を放ち、その名のとおり倍増された魔力を持ち主に返還し、その余波で凄まじい突風を巻き起こした。

「アははハは! 凄いヨこれェ! 力がみナぎってくル……!」

「クズどもガ調子に乗ってんジャねぇぞォ!」

 荒れ狂う嵐の中、赤銅の輝きに包まれた二人の目に正気の色は見えない。

 この現象を知る匠間しょうまりんは若干の焦りを滲ませた表情で二人を見つめる。

「魔力の暴走……魔力許容量キャパシティを超えた魔力が耐えられず、体内で暴れまわる……ってやつだったっけ?」

「過ぎた力は毒にしかならん。風船だって空気入れすぎりゃ破裂すんだろ、アレと同じだ」

「ってことは……」

「ああ、ほっときゃ自滅する。挽き肉(ミンチ)になってな」

 その姿を想像したのか、りんがうへぇと嫌悪感剥き出しの顔で舌を出す。

「馬鹿かてめぇら、何くっちゃべってやがる。さすがにこいつは不味いだろうが」

 嵐の中心で徐々に膨れ上がっていく魔力を前にして軽口を叩き合う匠間しょうまりんを、いつの間にか魔術師の集団を片付けていた晴比古はるひこが諌める。

 魔術の出力は自由に調整できる。あくまで正気でいる時の話であるが。

 魔力の暴走が起きた魔術師は、無意識にかける安全装置であるブレーキが崩壊している。

 つまり、単純な魔力でも威力が桁違いに跳ね上がっている。

 一時的な戦力強化とはしては著しい効果をもたらすが、暴走が起きた魔術師は確実に死亡・・する。

 匠間しょうまの言う通り、器に入る量は決まっている。

 それを過ぎれば当然形を失う。風船が破裂するように、血肉、臓物を撒き散らしながらぱん、と破裂する。

「おい無茶言うな。あんなデタラメな魔力の塊に突っ込んでみろ。障壁あってもバラバラになんぞ」

「だからっつって放っとく気か? 俺は殺人犯として捕まりたくねぇぞ。冬慈とうじが泣く」

匠間しょうま! 晴比古はるひこ!前!」

 りんの言葉に二人はそれ(・・)を確認する間もなく、左右に飛んで回避する。

 拳大の火球はそのまま入口まで飛んでいき、入口を抜けた先の工場と衝突し―――。

 イザナギ全域を揺るがす震動と共に、大爆発を引き起こした。

 目も眩むほどの閃光が収まり、入口から見える景色を目にした三人は絶句した。

 先程まで確かに存在していた複数の工場が跡形もなく消し飛んでいた。

 代わりに存在するものは、奈落の底へと誘うようにぽっかりと大口を開けた巨大クレーター。

「おいおい……洒落になんねぇぞこれ」

「あははははハはハ!」

 戦慄する三人を嘲笑うかのように久条くじょうの狂った笑い声が工場内に木霊する。

「殺しテやル……殺シてヤる殺しテヤる殺シてやンよォ!」

「マジかよあれはさすがに……⁉」

 一色いっしきの叫び声が上がると同時に、暴風の中から、夥しい数の魔術回路ドライヴが展開される。

 優に二十を超える魔術回路ドライヴの数に、匠間しょうまりん晴比古はるひこは顔を蒼くする。

 あれだけの威力の魔術が同時に放たれるとなると、辺り一帯は間違いなく焦土と化してしまうだろう。

 防ぐ術はない。止める術はある。だがそれは、荒れ狂う暴風に突っ込むと言うことになる。

 たとえ抜けれたとしても五体満足はまず不可能。

 間に合わない(・・・・・・)

 誰もが絶望の色に染まる。

 その中でただ一人、匠間しょうまだけが躊躇った。

 使う(・・)か? 一瞬だけ、匠間しょうまに禍々しいモノ(・・)が蠢く。

 だが、その躊躇いをもう遅いと言わんばかりに、久条くじょう一色いっしきが組み上げた魔術回路ドライヴが完成し、引き金が引かれようとしていた。

「イザナギの学生は随分と騒がしいのね」

 声と共に、無数の光の剣が天井を突き破って降り注いだ。

 降り注ぐ剣は久条くじょう一色いっしきの周囲に突き刺さり、暴風をかき消し、展開していた魔術回路ドライヴをも打ち消していく。

 剣の牢獄に囚われた二人の前に、大穴が空いた天井より純白のドレスコートを纏う、黄水晶シトリンの輝きが舞い降りた。

「『七天』……⁉」

「セリス……様⁉」

 瞳と同じ黄水晶シトリンの彩を宿す髪を靡かせ、悠然と降り立つその姿は紛う事なき『光』の『七天』セリス・ルミナス。

 突然のSランク魔術師の乱入に、りん晴比古はるひこはこれでもかと言うほど目を剥く。

 セリスはそんな背後の二人に反応することなく、光の檻に囚われ、もがいている久条くじょう一色いっしきに語りかける。

「指輪を持つものとしてあるまじき行為。これはどう言うことか、きっちり説明してもらうわよ」

「邪魔すンな女ァァァァァ!」

「殺ス殺ス殺ス殺スッ!」

 既に正気を失っている二人に、セリスの姿は映らない。

 殺すべき対象、ただそれのみ。

 獣と成り下がった二人に、セリスは視線を落として憂いを帯びた息を吐く。

「言葉すら理解出来ないほど、魔力を増幅したのね。可哀想に」

 言葉をかけても、返ってくるものは獣じみた咆哮。

 セリスは二人に向けて右手を伸ばし、魔術回路ドライヴを展開した。

「過ぎた魔力は全てを蝕む。皮肉よね、奴らを滅ぼす力が自らを蝕む穢気えきに変わるなんて」

 そして迸る魔力を解放し、微笑みを浮かべる。

「眠りなさい。母なる慈愛の光にいだかれて」

 輝く純白の光の剣が周囲を包み込み、久条くじょう一色いっしきは閃光の中へと飲み込まれていった。

 その後、駆けつけた軍人の手によって久条くじょう一色いっしきを筆頭に共犯者だった魔術師複数も拘束された。

 セリスも交えた簡単な事情聴取を受け、匠間しょうまたちはようやく解放された。

 終始セリスの視線を感じていた匠間しょうまだが、あえて気付いていない振りをして必要以外のことは口にせずその場を離れていく。

 向かう先は無論、五人が集まっている輪の中。

 やっと終わった、と表情にありありと出ている匠間しょうまを認め、りんが微笑を浮かべて輪の中から外れ、匠間しょうまへと向かっていく。

「おつかれさま。どしたの? すっごい疲れた顔してるけど」

「あいっつらしつけぇんだよ同じこと何度も何度も。それになんだ?セリス……様? 距離近ぇし話してる間ずっと俺ガン見してんの。何アレ好きなの俺のこと」

「は? マジキモいありえないんだけど。うわー自意識過剰ドン引きだわー」

 憔悴しきった匠間しょうまが恨みつらみをぶちまけるように愚痴を零すと、りんは真顔ですすっと距離を離し、半眼で匠間しょうまに寄越した。

 ここでいつもの小言と制裁が加わるか、と思われたが匠間しょうまは何も言わず、ぼうっと呆けたように虚空を見つめていた。

 これにはりんが目を丸くし、首を真横付近まで傾けた。

「どしたの? ほんと大丈夫?」

「……なんでもねぇよ。キモくて悪かったな」

「…………匠間しょうま? ねぇ、匠間しょうま?」

 これしきのことで匠間しょうまが傷つくはずもないことを理解しているりんは、どことなく上の空の匠間しょうまを呼びかけるが、生返事と言うか、ワンテンポ遅れて返事が返ってくる。

 様子が明らかにおかしいことに気付くりんは思わず匠間しょうまの手をぎゅっときつく握り締めていた。

「……あ? なんだ、どうしたりん。いてぇよ」

「どうしたの? ねぇ、ほんとどうしたの? ちゃんと言ってよ。あたし馬鹿だから、そういうの、わかんないんだよ」

「……なにがだ? お前こそどうした。つかいてぇって」

「どう見てもおかしいじゃんか! なんであたしにも言ってくれないんだよ! どうしてなんでもかんでも一人で抱え込もうとするの⁉」

「なんもねぇっつってんだろが! しつけぇんだよ!」

 怒声と共に、強く握り締められた手を乱暴に振りほどく匠間しょうま

 突然の大声に、そこにいた誰もが匠間しょうまりんに目を向ける。

 しん、と静まり返った工場内にの空気に、匠間しょうまは今自分が何をしたか気付き、ハッとりんを見やる。

 りんは振りほどかれた手を胸の前で押さえ、悲痛と驚愕に満ちた目で匠間しょうまを見つめていた。

「……あ」

「なん……でだよ……なんで……あたしは……」

 ぽろぽろと群青の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、くしゃくしゃに顔を歪めたりんはきゅっと強く唇を噛み締め、匠間しょうまに背を向けると全速力で駆け出した。

 伸ばした腕が空を切り、力なく下ろされる。

りんちゃん!」

「アキナ! ちょっと! その格好でどこ行くの⁉」

 脇目も振らず目の前を駆け抜けていったりんは、アキナの呼び止める声も聞かずに、瞬く間に小さくなっていく。

 匠間しょうまりんに対し怒ることも驚きだが、何よりもあのりんが、くだらない下ネタばかり言って常に明るく振舞っていたあのりんが、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて、子供のように泣いていたのだ。

 りんの涙を見るのは初めてではない。だが、あの表情は今まで見たことがない。

 本能的に追わなければならないと悟ったアキナの行動は早かった。

 晴比古はるひこの制服をかき抱くようにして掴むと、ハルナの抑止の声を無視して駆け出しのだ。

 仰天したハルナも後を追うように走り出し、静寂が訪れると、残された者たちは呆然と立ち尽くした。

 ナズナとアキナを介抱していた晴比古はるひこは短く舌を打ち、匠間しょうまに向かって一直線に地を蹴り、項垂れるように佇む匠間しょうまの顔面を思い切り殴り飛ばした。

「―――っ!」

「ちょ、晴比古はるひこ君⁉ 何をしてるんだい⁉」

 砂埃を巻き上げ、受身も取れずに床に転がる匠間しょうまを、晴比古はるひこはかつてない冷徹な目で見下ろしていた。

 背後から声を張り上げるナズナを無視して、晴比古はるひこは苦しげに小さく呻く匠間しょうまの胸ぐらを乱雑に掴みあげ、無理やり引き起こして屈んだ自分の目線まで匠間しょうまの顔を持ち上げる。

「なんだ今の。僕にはお前の考えなんてわからないけどさ、八つ当たり(・・・・・)はみっともないと思わないのか?」

 見下ろすような形で匠間しょうまを睨み付ける晴比古はるひこの目は怒りに満ちていた。

 何も答えず、人形のような虚ろな目を向けてくる匠間しょうまに、晴比古はるひこはぎしりと歯を食いしばって胸ぐらを強く揺する。

「お前、あの一瞬何か躊躇ったろ。いや、それはどうでもいい。今こうしてお前を殴れるんだから、生きてるんだからどうでもいい。違う(・・)のか?」

「……わりぃ、ほっといてくれねぇか」

「ああ?」

 ようやく声を絞り出した匠間しょうまの言葉に、晴比古はるひこの表情がみるみる憤怒に染まっていく。

「お前は……この……っ!」

 顔を逸らし、お前には関係ないと明確な拒絶の意を態度で示す匠間しょうまに向けて、晴比古はるひこが怒りに任せて拳を振り上げた瞬間。

 背後から伸びた腕が、晴比古はるひこの腕を掴んだ。

 振り向いた先に、頭に包帯を巻いたナズナ。

 ナズナはそっと晴比古はるひこの腕を下ろさせると、無言で首を横に振る。

 晴比古はるひこはナズナから視線を外し、匠間しょうまへと再び視線を走らせ、何事かを言おうとして肩を震わせたが、結局何も言わずに強く舌を打って胸ぐらから乱暴に手を放した。

匠間しょうま君。りんちゃんは僕たちでなんとかする。だから君は頭を冷やしてきてくれ(・・・・・・・・)

 俯き、二人に顔を合わせようともしない匠間しょうまに、ナズナは諭すような声音で話しかける。

 だが、匠間しょうまからの返事はない。ナズナは小さくため息を吐き、くるりと踵を返してもう一人の方へと足を向ける。

「行こう、晴比古はるひこ君。りんちゃんが心配だ」

「……うん、わかった」

 振り向きもせず歩いていくナズナに肯き、晴比古はるひこは一度だけ匠間しょうまを一瞥し、やがて見損なったと示すように視線を外してナズナの後に続いた。


           ◇


 誰もいなくなった廃工場に、ごぉん、ごぉんと何かを打ち付けるような音が定期的に鳴り響いていた。

「くそっ! くそっ! くそっ! くそぉっ!」

 自分以外存在しない閉鎖された世界で、匠間しょうまは一人哭いていた。

 何度も何度も何度も拳を金属の箱に打ち付け、肉が破れ、骨が軋み、鮮血が流れてもなお、匠間しょうまは拳を振り抜く。

 こうなることは予想してたはずだ。

 二人を助けると決めた時点で腹は括ったはずだ。

 だが、まさか魔力の暴走までして来るとは思いもしなかった。

 一瞬でもためらってしまった自分が憎い。

 身内と自己保身を天秤にかけてしまった自分の愚かさが憎い。

 何より―――弱い自分が憎い。

 心に負け、命と立場を秤にかけ、立場を選んでしまった自分は、自身がこの世でもっとも嫌う自己保身と私欲にまみれた奴らと何も変わらない。そう、何一つ(・・・)変わらないのだ。

 生きてればいい? 違う。自分の生きる意味は、そんなことを許されるために生かされたんじゃない。

 憎まれて、恨まれて、蔑まれて、路傍の石ころのように価値のないまま果てることが正しいのだ。

「俺は! 誓ったんだ!」

 拳を叩きつける。

「守るって! てめぇ自身を犠牲にしてでも! 守るって!」

 拳を叩きつける。

「俺は! 俺は! 俺は!」

 既に手の感覚はもうない。枯れ木が折れたような音が聞こえる。それでもまだ、慟哭と共に拳を振るい続ける。

 どごん、と一際大きい音が鳴り、一切の音が止む。

「俺は……弱いんだ。動けねぇんだ……もう……失うものはねぇって……わかってたのに……」

 体が震える。熱い吐息が喉に絡む。絞り出した声が弱々しく震えた。

 あの日、弱かった自分が失った時間。

 あの時、弱かった自分が失ったもの。

 太陽のような微笑みに誓った想い。

 それを裏切った。命よりも大切に想う、守るべきものより自分を優先してしまった。

「あああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 絶叫を上げ、砕け折れ、紅く染まりきった拳を振り上げる。

「やめとけ。使いもんにならなくなんぞ」

 男の声と共に、腕が掴まれる。

 柘榴石(ガーネット)のような柘榴色の短髪の男は力のない目を向ける匠間しょうまに向けてにっ、とを歯を見せて笑った。

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