紡がれる絆
「また彼奴……か。後始末する此方の事も考えて欲しいものだな。そうは思わんかね?」
「……申し訳ありません。私の監督不行届です」
イザナギ魔術学院の一室。
見るからに高級素材で作られた椅子の背にもたれかかった初老の男が、巌しい表情で報告書を見つめていた。
男は報告書から視線を動かし、たっぷりと顎下に蓄えた白髭を指で弄びながら、デスクの向こうで直立不動している白衣の女性に目を向ける。
明らかに避難を受けている女性は深々と頭を垂れ、そのままの態勢で男の次の句を待った。
「何、君は良くやってくれとるよ。あの場ではああするしかなかったじゃろうし、何より被害は最小限に抑えられた。あのたわけが暴れなければ彼女は危なかったじゃろうて。……些か、やりすぎではあるがの」
「私も驚きました。まさか痕跡を残すとは思いもよらなかったので」
「彼奴なりに考えての事じゃろう。しかし……ううむ、今回は儂でもどうにもならんのぉ……」
「ゼファート学院長。やはり、彼は……」
白髭を弄ぶ初老の男―――ゼファートは皺だらけの厳しい面持ちを更に巌しくさせ、うんうんと唸り続ける。
その傍らで不安そうに佇む白衣の女性―――シエルは何かを言いかけ、口を閉ざした。
ゼファートはそんなシエルに開いているかどうか非常にわかりづらい糸目を向け、くしゃりと破顔する。
「ふぉっふぉっふぉ、美人がそんな顔するでない。確かに彼奴には過酷な任務ばかり押し付けておるが……儂は彼奴がそう簡単に倒れぬと知っておるからの。少なくとも実力は買っておる。この老いぼれが生きとるうちはキリキリ働いてもらわねば困る」
「……学院長……」
「……安心せい。彼奴を理解した上で儂が学院に引き込んだのじゃ。儂の目が黒い内は彼奴の保護を怠る真似はせぬよ」
ゼファートの言葉を受けて尚、シエルの表情は暗い。
視線を床に落としたまま、何かに耐えるように強く唇を噛み締めている。
そんな含みのあるシエルの顔を、ゼファートは柔和な表情で見つめながら、もしゃもしゃと髭を弄ぶ。
「そう。草薙 匠間としてここにおる以上は、な」
「……失礼します」
「ふぉっふぉっふぉっふぉ。まだまだ若いのぉ。若さ故に見えとらん。……さて、彼奴もなかなかやってくれる。お陰で多少無理をせねばならんではないか……のぉ?」
魔術に関するありとあらゆる書物が保管されている、学院長室。
自分以外誰もいない筈の部屋で、ゼファートはそこに何者かが存在するかのように言葉を投げかける。
当然の如く、返ってくるのは沈黙のみ。
「飼い犬は黙って従えば良いものを……愚かな選択をしたもんよの、彼奴も。ふぉっふぉっふぉっふぉ」
◇
シエルは焦っていた。
よもや自ら素性を明かすような愚行に走るとは、思いもよらなかった。
彼は何を考えているのか。
学園側でさえ秘匿にしていた力をあっさりと使い、痕跡すらも残した。
それも最高峰の魔術師である『七天』と、軍の隊長クラスがいる前で。
流石にこれは言い逃れできまい。
隠蔽しようとすれば、軍が動き、セリスやフィオナも黙っていないだろう。
匿っていた学院長、そして監視を任されていたシエルもただでは済まない。
世界の根底から覆す力を見せつけてしまった代償は、もはや止めようがないほど膨れ上がっている。
「何を考えている……これでは自分で言った事は偽りだとでも言う気か?」
シエルはこれまでにないほど苦悩に満ちた表情で長い廊下を一人歩く。
こつ、こつと規則的に、ヒールが硬質のリノリウムの床を叩く。
この一件で学院長は更に過酷な任務を命じる事だろう。
表面上では柔和な対応をしていても、裏では命を物としか扱っていない、非人道的なやり口しか行っていない。
それでも彼はやり遂げる。
どんなに身体が傷付いても、彼は決して自身の信念を曲げようとしない。
「……君は、いつもこんな気持ちで彼を見ていたのか?」
シエルは遠い目で窓の外を見つめ、斜陽の空を眺め続けた。
◇
「おい凛、これはなんだ」
「んー……なんだろーね?」
匠間は頭痛でもするのか、目頭を指で揉み解しながら目の前の瓦礫の山からそっと目を逸らし、凛に問いかける。
記憶が正しければ、凛とナズナは下着を買いに行っていたはず。
それが一体何をどうしたらこんな何に使うか分からない、用途不明のジャンクパーツを大量に持って帰ってくるのか。
恐らく持ち帰った当の本人であろうナズナは、ホクホク顔で部品の山を眺めていた。
「なんだろーね、じゃねぇよ! なんで服買いに行ったのにスクラップを大量に持ち帰って来てんだ⁉ これを着て僕が一番うまく使えるんだとでも言う気か⁉」
「なんの話してんの匠間? あたしが買った訳じゃないし、あたしに言われてもねー」
「スクラップとは失礼だね。こう見えても立派な部品なんだよ? ああ……これから何を作ろう……むふふ……うぇっへっへ……」
喚く匠間などお構いなしに、ナズナは部品の山を眺めてうっとりと恍惚の表情を浮かべる。
少女らしからぬ奇声を上げて笑うナズナの姿に、匠間は顔を引き攣らせてドン引きしていた。
「……頼むから俺の部屋に妙なモン置くんじゃねぇぞ。片っ端から叩き壊すからな」
「そんな恐れ多い事しないさ。匠の業を侮辱するほど僕は腐っちゃいない。あ、君の目ほど腐っちゃいな痛い!」
「腐ってんじゃねぇ濁ってんだオルァァァァァァ!」
「それより私の部屋はー? ラブリーキュートな部屋ー」
うまいこと言ってやったつもりの、したり顔のナズナの頭頂部に匠間の拳骨が炸裂する。
意外と頭硬いんだなと予想外のダメージを負った匠間に気付いて貰おうと、凛が服の裾をくいくいと引っ張る。
ジャンクパーツに最早興味がないのか、凛の関心は匠間が作ると言っていた、自分の部屋に向けられているようだった。
ラブリーキュートって何だよ、と内心で突っ込み、匠間は上目遣いに見上げてくる凛に優しく微笑みかける。
今の凛はまさに、ご褒美を待つ子犬が褒めてー褒めてーと尻尾を猛烈な勢いで振っているその姿にそっくりだった。
匠間はわしわしと頭を撫でたくなる衝動をぐっと堪え、笑顔のまま居間の片隅を指差した。
「ああ、お前の部屋はあれだ」
「わぁ機能的ぃ! このまま寝れるし何より寒さを凌げる上、邪魔な時は収納できる高性能!」
凛はすぐに飛びつき、用意された部屋の中に潜り込む。
匠間は気に入ってくれたか、と腕を組んでうんうんと満足そうに頷き、
「どうだ、お前の部屋は? 最高だろう」
「部屋じゃなくてダンボールじゃろがいいいいいいいい! なめとんかゴルァァァァァァァァァァ!」
凛の自室……もとい段ボールを繋げて置いただけの、部屋とは呼べない物の中から、凛が怒り狂いながら薄い壁を突き破って這い出てきた。
その一部始終を見ていた匠間は、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて破片を指差し、
「それ捨てとけよ。お前が散らかしたんだからな」
「酷い! 期待させといていらなくなったらポイ捨てなのね⁉ あたしの体だけが目的だったのね⁉」
「うぜぇ」
うわーんと盛大な泣き真似をして、凛はわざとらしく蹲って泣き崩れる。
匠間はそれを冷めた目で見下ろし、無視を決め込む。
僅か数秒で回復した凛はケロっとした顔でむくりと起き上がり、律儀に散らかした破片を集めて匠間へ笑顔を向ける。
「まぁ、別に匠間と一緒ならどこでもいいけどね」
「さいですか。んで、本当の部屋はこっちな」
「ほいほーい」
自分の世界から戻っていたナズナは、匠間と凛のやり取りをじっと静観し、深いところで繋がってるんだなぁ、と改めて実感していた。
少しだけ、羨ましいなぁと思いつつ、この部品の山から何を作ろうかなと思考を戻したところで、匠間の声がかかった。
「何してんだ? リゼの部屋も案内すっからリゼも来い」
「あ、う、うん」
慌ててそちらを見ると、新しく作ったのであろう襖の奥から、匠間がひょっこりと顔を覗かせていた。
その少し下で凛も顔を覗かせており、来ないの? と不思議そうにナズナを見つめている。
「そっか……僕の部屋も作ってくれてたんだね……」
「ん? 何か言ったか?」
「リゼ早くー。あたしのラブリーキュートな敵役ー」
いや何だよそれ、と言う匠間の突っ込みに笑いつつ、リゼも二人の後に続いた。
匠間の作った二人の自室の評価は好評であった。
家主の好みで居間と同様、和を中心に、職人の業を巧みに使われた部屋は二人のお気に召したようであった。
必要な家具などは後で揃えるとして、部屋については一段落着く。
家事分担の話も匠間が教える、と言うことで料理、洗濯、掃除(自室は各自で行うようになった)を日替わりでローテーションしていく方向ですんなりと固まった。
料理についてはほぼ匠間担当だが、凛も手伝うと立候補した事が付き合いの長い匠間も含めて、二人に驚かれていた。
補足として凛は料理が出来ない訳ではなく、匠間の料理の方が美味しいから、と言う理由でやらなかっただけである。
「こんなもんかね。なんか質問は?」
再び居間に集まった三人は、家のルールを粗方説明し終え、一息吐いていた。
家主である匠間が目で何かあるか? と促すと、煎餅をぼりぼり貪っていた凛がはいはーい! と手を挙げる。
「お風呂はどうすんの? 一緒に入る?」
「なんで今更お前と一緒に風呂入らにゃならんのだ。女子が先でいんでねぇの。ま、一応立札作っとくか」
二人の会話に、ナズナはおや? と言うような顔を一瞬浮かべたが、あまりに自然に流していたので深くは追求せず、黙っておいた。
何気なく居間を見回した先、こんもりと盛られた部品の山に目が止まったナズナは、思い出したかのようにあ、と声を上げた。
「ん? どした」
「あ、いや、匠間君。せっかく作ってもらっといてなんだけど……」
言い淀むリゼの様子に、凛と匠間は怪訝そうに首を傾げる。
居間の隅に盛られたジャンクパーツを目にした匠間は納得したようにああ、と小さく呟き、
「研究局にしてぇのか?」
「……正確には一部をね。外観を損なわない程度にするよ。僕もあの部屋が好きだし」
叱られる子供のように身を縮めたナズナは、ビクビクと怯えながら匠間の答えを待った。
世界最高峰の頭脳を持つナズナの本分がどこにあるか、ジャンクパーツを見て思い出した匠間は、ふむ、と顎に手を添え、考え込む素振りを見せる。
匠間がどう答えるかもう既に分かっている凛は、我関せず、と茶菓子をぼりぼり貪り続けていた。
「もうあれはリゼの部屋なんだし、俺に許可を取る必要はねぇだろ。好きにしてくれ。身内に遠慮する必要なんか一つもねぇぞ?」
「え……、い、いいの、かい?」
匠間の言葉に、居候が厚かましいと怒られ、断られるだろうとばかり思っていたナズナは、意外そうに目を丸くさせた。
そこでぼりぼり煎餅を貪っていた凛が食べ滓だからの顔で笑顔を作り、握り拳に親指を立て、グッ! と謎のサムズアップした。
「おま、食い方ホント汚ぇな。あーあーテーブル破片だらけじゃねぇか。ったく……」
「リゼは遠慮しすぎなんだよ。匠間は身内にすこぶる甘いおバカさんなんだから、そんなに気を遣わなくていいんだよー」
見ず知らずの人間であったはずの自分に、ここまでしてくれる匠間と凛の優しさに、ナズナは感謝の気持ちで胸が一杯だった。
肉親である兄の前でも見せた事のない感情が、分厚い瓶底眼鏡の奥で溢れ落ちそうになる。
「……ありがとう。君達は、本当に優しいね。今なら僕、君に体を許しちゃいそうだ」
「どういたしまして。だが後半は断る」
震えそうになる声をなんとか抑えて紡いだ言葉を、仏頂面の匠間はあっさりと拒否した。
そして光の速さで反応した凛が、匠間曰く本気で殴りたくなる顔で蛇の如く纏わりつき、匠間の体を嫋やかな指で悩ましく、且つ扇情的に撫で回し始めた。
「あはぁぁぁぁぁん? こぉんなにカチカチにしといて何言ってんの僕ちゃぁぁぁぁぁん? むしゃぶりつきたいんだろ? 今すぐ昂ぶる劣情を若い肉体にぶち込みたいんだろぉ? ほれほれ素直に言うてみぃ?」
されるがままの匠間は眉一つ動かさずに暫くじっとしていたが、凛の指が這うように下腹部に向けて降りて来たところで、腕をがっちりと掴んで阻止し、凛にずい、と真顔を近付けた。
ちなみに、凛の言う『カチカチ』とは腹筋のことである。
「そうしてやろうか? お前に」
「ごめんなさいちょっと無理ですやめてください気持ち悪いですちょ、触んな寄るなマジキモい」
先程の挑発的な態度はどこへ行ったのか、打って変わって弾かれたように体を離し、ぐいぐい体を寄せてくる匠間から身を捩って逃げ惑う、目に見えて激しく狼狽している凛の姿に、ナズナは可笑しそうにくすくすと小さく笑った。
「して欲しいのか、して欲しくないのかどっちなんだい……不思議だね」
「死ぬほどどうでもいい。そういや、そろそろ学院が終わる頃かね」
一頻り凛をからかって満足した匠間は興味なさそうにナズナに答え、懐から取り出した、かなり旧型の懐中時計型魔術媒介兵装に表示されている時刻を見て何気なくぼやく。
凛はと言うと居間の隅まで退避しており、腕で身を掻き抱くようにしてへたり込み、息も絶え絶え、頬を紅潮させてぶつぶつと恨み言を呟いていた。
「ふぅ、はぁ、危なかった……もう少しで凛ちゃんの純潔が魔物に奪われる所だった……」
「誰が魔物だ。つか、耐性ねぇ癖におちょくるなっての……あ、アキナからメール入ってた」
手持ち無沙汰で暇なのか、魔術媒介兵装から投影されたホログラム・システムをぽちぽち弄ってた匠間がアキナからの新着メールに気付く。
送られたのはほんの数分前、どうやらセレモニーが終わり、匠間の姿が無い事に気付いて送ったのだろう。
大抵、お叱りの内容なのだが。
その事を嫌と言う程知っている匠間は、生真面目で気弱な少女が送ってきたメールを渋い顔で開いた。
「『サボり魔さん達にお話があります』だってプークスクス!」
「お前も入ってるからな? 笑ってるけどお前もだからな?」
「でぇすよねぇー……」
後ろから覗き見ていた凛がからかうように笑うと、匠間は半眼でじろりと睨めつけ、ため息を吐きながら頭を掻いた。
基本的にアキナはいつ、どこで、なにをするかなどの目的をメールに必ず書いている。
それがない時は、私怒ってますと言うサインである。
いつもは控えめなアキナだが、本当に怒った時だけに見せる静かな怒りの爆発の恐ろしさは、匠間と凛両名が身を持って知っていた。
二人はとある事件で手酷く絞られ、理由を聞かれ、何故そうしたのか、こうしました、と理由を答えると、じゃあ何故そうしたの?と能面のような笑顔を貼り付けたアキナに有無も言わさず答えを追求され、延々と理詰めされて精神的に打ちのめされた苦い過去がある。
今回はそれと同等か、もしくはそれ以上かな、と送られてきた文面を眺め、匠間はまた一つ大きめのため息を吐く。
「……あ、あたしもメールきてた……」
匠間と同じようにコンパクトサイズ板型の魔術媒介兵装を弄っていた凛からも呻き声が上がる。
「『サボり魔さんへ。匠間君と一緒にふれぇばぁに来ること。来なかったら……どうなるかわかるよね?』だってさ」
「ん?友達とお茶かい? あそこのシュークリームは絶品だよね。良く兄が買ってきてくれたよ」
「ソウダネー。シュークリームハゼッピンダヨネー」
「ショウジキアジナンテシナイトオモウガナー。イキタクネェヨー」
「だ、大丈夫かい? 凛ちゃんまで匠間君みたいに目が腐ってるよ?」
二人の事情を知らないナズナが楽しそうに言うと、頭上に暗雲が立ち込め、どろどろと擬音が聞こえてきそうな位に暗い表情の二人は揃って乾いた笑い声を上げた。
自身の招いた結果であり、自業自得なので同情の余地はないが。
「……しゃあねぇ。行くか」
行きたくないが、行かねばまた説教の時間が増える。
匠間は重い腰を上げ、のそのそと玄関へと向かう。
凛も匠間の後を無言でついていく。
そこでふと何かに気付いたように立ち止まり、心配そうに二人の背中を眺めていたナズナに振り向く。
「リゼも来る?」
「えっ? ぼ、僕はいいよ。部屋の改造しとくから」
「お前さらっと逃げ道作ろうとしてんじゃねぇぞ。余計話が長くなるだけだ」
「ふええ……匠間のいけずぅぅぅぅ……」
「んじゃ、行ってくる。ないとは思うけど、知らんやつが来ても家に上げんなよ」
「あたしの事……忘れないでね……」
「い、いってらっしゃい……」
一体どこに行くつもりなのか、あからさまに暗い二人を、ナズナは苦笑して見送った。
◇
一区と二区のちょうど境目にある、知る人ぞ知る、絶品シュークリームで有名な喫茶店『ふれぇばぁ』。
イザナギの住人はおろか、軍、教員、果ては国外までにも絶大な人気を誇るこの喫茶店は、その日のカリキュラムを終えた学院の生徒が足を運ぶことが多い。
ここではランクの垣根を越えて、一種の交流場として機能しているため、ここでの揉め事は一切ない。
その為『落ちこぼれ』と言われるFランクの生徒もこぞって利用している。
匠間、凛、アキナもまたその中の一部であり、凛に駄々を捏ねられて放課後に良く訪れていた。
その勝手知ったる店の前で、丁度肩にかかる程度の長さの、陽の光に透けて、柔らかくもどこか神々しい、眩い輝きを放つプラチナホワイトの髪の少女は、瑠璃色に縁どられたぱっちりとしたアーモンド型の大きな瞳を不機嫌です、と胸中で渦巻く感情を隠そうともせずに細め、呼び出した人物が来るのを待っていた。
今のアキナ・アルフォードには、自分の表情を一目見て、孫を愛でる親のような顔で店に入っていく人々の姿は目に入っていない。
そろそろ来てもいい頃だ。今回はどんな言い訳をしてくるのか。
あの二人は言い逃れに関して天下一品の舌を持っている。
カリキュラムを日常的にサボる事は多少目を瞑っていたが、『七天』自らがセレモニーを行う、極めて稀な重要事項をサボるとなると話は別。
真面目であるアキナにとって、今回のサボタージュは相当お冠のようだ。
「今日という今日は、絶対に許さないから」
本人は怒ってます、と表情になっているつもりだが、元より幼い容姿の為か、どう見てもへそを曲げた子供が拗ねて立っているようにしか見えない。
と、そこで待ち人である、見覚えのある灰銀色のボサボサ頭と、パイナップルの蔕を連想させる、頭頂部で束ねた薄桃色の長い髪をわさわさと揺らしながらこちらへ向かってくる人物の姿が視界に入った。
向こうもこちらの存在に気付いたのか、よう、と言いたげに片手を上げて合図した。
アキナはその一瞬だけ怒っていた事を忘れ、二人の姿を見て柔らかく微笑む。
だがすぐに本来の目的を思い出し、むむっと目に力を込めて二人に向かって開口一番雷を落とそうとしたと同時に、真横から現れた少年が意外そうな声を上げた。
「しょう」
「あれ、灰色駄犬と鳥頭じゃないか。何してるの?」
「悪いアキナ待たせた……っと、根暗野郎じゃねぇか。何してんだ根暗」
「アキナごめーん、待った? ……あれ、なんでハルヒコが一緒にいるの? 知り合いだっけ。と言うかまだ生きてたんだ」
いきなり出鼻をくじかれ、呆気に取られているアキナを余所に、少年は匠間と凛の知人であるのか、遠慮なしに話している。
少年は匠間と凛の視線を追い、ぽかんと薄く口を開けて固まっているアキナを一瞥し、微かに首を傾げた。
「いや、違うけど。それと凛さん、さりげなく僕を殺さないでくれる? その鳥頭叩いて直してあげようか?」
「えっと……」
大人しそうな外見に似つかわぬ毒舌を平然と吐くこの少年は、一体誰なのだろうか?
匠間と変わらない位の身長、匠間に比べるとやや線の細い体型。
深い静逸さを感じさせる苔色の長い髪が顔の左側を隠している為、他人に対して壁を作っているような印象を受ける。
髪の隙間からちらりと覗き見えた、髪と同じ色のややつり目の瞳は意志の強さを表しているように見える。
イザナギ魔術学院指定の制服を着ており、襟元に何の刺繍も無いことから同じFランクであると判断できるが、アキナはこの少年を一度も見た事がない。
元々気が弱いアキナは初対面の少年を前に、すっかり萎縮してしまっていた。
「ああ、この口悪ぃ根暗野郎は根暗 野郎」
「殴り殺すぞクソ駄犬が」
「あ? 喧嘩売ってんなら買うぞ根暗」
それに気付いた匠間は失礼を承知で少年を親指で指し、少年の名前を告げる。
しかし少年はすかさず毒を吐きつつ、握り拳を匠間の顎下で寸止めし、にっこりと笑う。
一瞬本当の名前かと信じかけたアキナは、引き攣った笑顔で睨み合う少年と匠間におろおろと狼狽える事しか出来なかった。
「この影薄くて口汚い地味男は周防 晴比古。外見通り口は達者でも腕は対したことないよ」
「嫁に行けない顔にしてやろうか鳥頭? 女子だからって何言っても許されると思うなよ?」
「ひたいひたいひーたーいー! ひゃめろひんひゃんのびびゃんがひははへふー!」
困っているアキナに助け舟を出した凛だが、漸く紹介された少年、周防 晴比古にとっては不服だったらしく、今度は凛の頬を両手で餅を捏ねるかの如く、みよんみよんと引っ張り始めた。
当然凛は涙目になって抵抗している。
「あ、えっと、アキナ・アルフォード、です。は、はじめまして……」
「はじめまして。周防 晴比古です。この二人の知り合い? にしてはものすごく真面目そうに見えるけど」
止めようにも、どうしても怯えてしまうアキナがか細い声で名乗ることにより、晴比古は凛からぱっと手を離し、首だけを巡らせてアキナを一瞥した。
解放された凛はあうー……と頬を撫でながら匠間にキズモノにされたー! と泣きついていた。
無論、で? と冷たく突き放されていたが。
ぎゃーすかぎゃーすか憤慨する凛とそれをめんどくさそうにあしらう匠間の声を余所に、晴比古が改めてアキナへ向き直る。
洗練された執事のように恭しく一礼する晴比古に釣られて、アキナも慌ててぺこりと頭を下げる。
晴比古はまだ何事か言い争ってる匠間と凛を交互に見やり、アキナに視線を戻し、薄く微笑んだ。
「あ、ごめん。気に障ったなら謝るよ。僕にとってこの二人はぶっ潰したい人物トップクラスだからね」
品定めするような視線を感じたアキナは、思わず謝罪の言葉を口にして半歩後退り、俯いてしまった。
晴比古はすっかり怯えてしまったアキナの様子に、少し不躾だったかな、と口内で言葉を転がし、匠間と凛を交互に見ながら苦笑する。
「おいアキナに触るなよ地味菌が移るだろー」
「ちゃんと消毒殺菌しろ。アキナに未知の病原菌が感染する」
「僕はウイルスかなにかかよ。お前らここが衆人の目に着くところじゃなかったら本気で殴り殺してるぞオイ」
いつの間にか言い争いが終わっていた凛が怯えるアキナの肩を抱いて身を寄せ合い、晴比古に向かってしっしっ、と虫を払うような動作で手を払った。
匠間もまたアキナを庇うように前に立ち、汚物を見るような目で晴比古を軽く睨んでいる。
あまりに存外な扱いに、温和な表情を崩さなかった晴比古もひくひくと口端を痙攣させてうっすらと額に青筋を立てた。
「け、喧嘩は、ダメ、です……!」
不穏な空気が漂い始めた中、凛の腕の中にいたアキナがぎゅっと目を瞑って途切れ途切れながらも、はっきりと強い口調で言い放った。
突然の大声に、三人は目を丸くさせながら呆気に取られていた。
「いや、喧嘩って程のもんじゃねぇんだが……その、悪い」
「ごめんねーアキナ。晴比古とはいつもこんな感じだから大丈夫だよー」
ばつの悪そうに頭を掻く匠間と、よしよしとアキナの頭を撫でる凛。
アキナは心優しい性格であり、争い事を極度に嫌う。
匠間と凛にとって、今までのやり取りは日常茶飯事のものである為、全く気にも留めていなかったのだが、アキナにとっては『喧嘩している』と映ったのだろう。
気の弱い彼女が初対面の晴比古に大声を出すことが、どれほどの勇気が必要だったか理解している二人は素直に謝罪し、険悪な空気を打ち消した。
晴比古は完全に毒気を抜かれたようで、居心地が悪そうに頬を掻き、小さくため息を零した。
「……調子狂うな。おい灰犬。こんないい子誑かして恥ずかしくないのか? 人じゃないとは思ってたが一体どんな下劣な真似したんだ」
「してねぇよ。つか人じゃねぇなら俺はなんなんだよ」
「僕が知るか。……で、匠間君と凛さんは『七天』主催のセレモニーをサボってここで何してるの?」
また言い争いが始まるかと思った矢先、アキナの涙ぐんだ避難の目を浴びた晴比古は大人しく舌を収め、当初の疑問を匠間に投げかけた。
「アキナと待ち合わせだ。お前こそ何してんだよ」
「晴比古こそ何してんの? こんなとこうろつく人だっけ?」
匠間が呼び出された理由を告げると、アキナはそういえばそうだった、と思い出したようにむむっと目に力を入れた。
涙目、凛に抱きつかれたままの姿では、なんとも迫力に欠けてしまっているが。
晴比古を良く知る匠間と凛は背後の『ふれぇばぁ』の事を言っているのか、訝しげに晴比古を見つめた。
晴比古は唇を噛み締め、屈辱に耐えるかのような素振りを見せて、盛大なため息と共に言葉を吐き出した。
「……『ふれぇばぁ』は僕の姉の店で、僕の家だ。いて当然だろ」
「は? マジかよ」
「え? ほんとに?」
「おい」
晴比古のカミングアウトに、匠間と凛は揃って目を丸くさせる。
基本的に目立つ事を嫌う、悪く言えば非常に地味な印象しかない二人にとって、この事は意外としか言いようがなかった。
それを侮辱と捉えたのか、晴比古は温和な表情を一変させ、ドスの効いた低い声で本気の脅迫とも取れる言葉と共に、匠間と凛を殺意さえも覗かせる目でぎろりと睨みつけた。
「僕はいい。姉さんの店を貶すならお前らでも容赦しないぞ」
晴比古の長い前髪が、風も靡くでなく、ざわざわと波打ち始める。
晴比古から向けられた敵意を、匠間は慌てる様子もなく、まぁ待てよと言いたげに片手を突き出して制する。
そこで一旦は牙を収める晴比古だが、表情からまだ腹の虫が治まらないと言った様子で匠間を睨んでいる。
「別に貶すつもりはねぇよ。結構ここに来るけど、お前を一回も見た事がなかったからな。ちょっと意外だっただけだ」
「本気で怒るなよー。てことは、晴比古もお店手伝ってるの? 皿洗い? トイレ掃除? 買い出し要員?」
「なんで雑用限定なんだよ。まぁ殆どは姉さんが作ってるけど、一番人気のシュークリームだけは僕が作ってる。数量限定の理由は僕が学院に行ってるから、時間がそこまで取れないからだよ」
一日50個限定の、『ふれぇばぁ』の看板と言って差し支えない絶品シュークーム。
ふわっふわの柔らかいシュー生地は勿論の事、滑らかな舌触りと、まるで雪解けのように口の中でさぁっと溶けて広がっていくクリームの甘さと軽さが絶妙な調和を奏で、それを口にした者を感動と幸福の世界へ誘う、開店と同時に完売が当然の超が付くほどの絶品スイーツ。
無論、ここにいる全員が口にした事がある為、そのシュークリームにどれだけの価値があるか熟知している。
だが、作り手に関しては店長が頑なに教えようとしなかった為、誰が、どのようにして作っているか謎に包まれていた。
そのミステリアスな雰囲気がまたこの人気に拍車をかける原因の一つであるが、当の晴比古はそんな事知る由も無い。(晴比古専用の調理場が設けられており、店長と晴比古以外立ち入り禁止となっている為、スタッフも誰が作ったか知らないでいる)
長く謎に包まれていた事実が、よもや知人であり、喧嘩仲間だった事に驚きを隠せない三人は、暫し口を開けて呆然と立ち尽くしていた。
「ねぇ……晴比古くぅん?」
と、突然凛から猫撫で声が上がる。
くねっとしなを作ってすすす、と擦り寄り、露骨に嫌そうな顔の晴比古にしなだれかかり、胸板を人差し指でぐりぐりと押しながら妖艶に微笑む。
「あたしぃ、お菓子作りが上手い男の人ぉ、超すきなんだぁ」
「寄るな鳥頭。気持ち悪い」
「変わり身早えな。つかきめぇ」
下心見え見えの言動に晴比古ならず、匠間までも嫌悪感を丸出しにした半眼を投げて寄越す。
晴比古の手によって、至極鬱陶しそうに引き剥がされた凛は、口を尖らせてぶーぶー文句を垂れつつ、怒りの矛先を匠間へと向ける。
「あーん? 菓子の一つも作れねぇロクデナシが何言ってんだ? ぺっ!」
「お前今日から飯抜きな」
「ああっ、冗談だってばぁ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
すこぶる馬鹿にした目で匠間を蔑む凛だったが、冷めた目の匠間が放った言葉にあっさり態度を改め、半泣きでしがみつく。
それを適当にあしらいながら、匠間は晴比古へと視線を流す。
視線に気付いた晴比古が顎で店を指し、くるりと踵を返すと、三人は揃って首を傾げた。
「店に用があるんじゃないの? そこにずっといられると、他のお客さんの邪魔なんだけど」
見ると二人組の学生が困ったような顔で匠間達を見ていた。
慌てて道を譲り、店内へ入って行く学生に続いて、匠間、凛も店内へと入っていく。
扉を開けて入店を促していた晴比古は、難しい顔でうんうん唸って動こうとしないアキナの姿を目にして、何をしている?と首を傾げた。
「周防 晴比古……周防? 周防ってどこかで……」
「……アキナさん、入らないの? 二人は先に入ったよ」
「あ、ひゃ、ひゃい!」
何やらぶつぶつと呟き、頻りに首を左右に捻る愛らしい姿に、晴比古はくすりと小さく笑って変なの、と小声で呟く。
放っておくといつまでもそうしていそうだった為、仕方なく声をかけると、突然話しかけられたのと初対面と言う緊張の相乗効果が合わさり、アキナは素っ頓狂な声を上げて猫のようにびくっ!と身を跳ね上がらせた。
その姿がまた面白かったのか、晴比古は笑いを噛み殺しながら目を細め、開け放した扉の奥を右手で示し、主人をエスコートする執事のように恭しく一礼した。
「……いらっしゃい。あいつらは歓迎したくないけど、君はゆっくりしてってね」
「あ、ありが、とう」
◇
店内に入った四人は、晴比古に促されてそれぞれ席に着く。
シュークリームは当然売り切れている為、ケーキとコーヒー、紅茶をそれぞれ注文し、一息着いたところで、店内を何気なく見回していた匠間が徐に口を開いた。
「なぁ晴比古」
「ん? 君が僕を名前で呼ぶなんて気持ち悪いね。殴りたい」
「うるせぇよ。店長さんがお前の姉ちゃんなのか?」
いつもは嫌味でしか自分を呼ばない、普段とは違う匠間の態度に警戒した晴比古は、冷静に舌刀を翳して斬りかかる。
晴比古の牽制を顰め面で流した匠間は、店内をひっきりなしに動き回る、とある女性に目を向ける。
目を向けた途端、晴比古がテーブルのフォークを握り締めてにっこりと微笑んだ。
「お前姉さんに何する気だ? 姉さんに良からぬ気を起こさないように、ここで永眠させるのも優しさかな?」
「二人でやってんのか?」
相変わらず視線は晴比古の姉である店長に固定したまま、匠間は会話を続ける。
毒を抜かれた晴比古は白けたようにフォークを置き、注文したコーヒーを一口口に含んでため息を吐く。
ちなみに凛は晴比古が懸念した良からぬ事を想像しており、店長が動く度にぽよんぽよんと弾む胸をがっつり見ながらはぁはぁと息を荒くしていた。
無言無表情の匠間に頭を強かに叩かれ、沈黙していたが。
「……もともと姉さんだけがやってたんだけどね。姉さんだけじゃ切り盛りできないから、僕も手伝ってるだけ」
「だからわざわざあんな目立つ事したわけか」
「……変な詮索するな。気持ち悪い」
匠間の含みのある言葉に、晴比古は露骨に顔を歪める。
だが匠間は機敏に動き回る店長を見つめ続けている為、晴比古もそれ以上言葉を発することは無かった。
「えっと、目立つ事って?」
事情が飲み込めないアキナが二人の間に漂う不思議な空気に首を傾げると、美味しいケーキに舌鼓を打ち、大層ご満悦の凛が小首を傾げて、クリームだらけの顔をアキナへ向ける。
「ん?アキナもしかして知らない? 闘技場で毎年やってる大会あるでしょ? 今年の大会優勝者だよ、晴比古」
大会優勝者と言う単語に、アキナは漸く合点がいったようで、目を丸くしてあっ! と声を上げる。
一区にある、腕に覚えのある強者が世界中から集まる闘技場。
年に一度、闘技場で行われる大会は、世界中から人が集い、純粋な力と力がしのぎを削り合う、イザナギの代名詞の一つである大きなイベント。
蝕む者の脅威に晒されている現状で、娯楽に興じる暇があるのかと批判も上がっているが、この大会を通して優秀な魔術師、軍人、傭兵などのスカウトが行われており、主催者側、学院、軍にとってデメリットがない。
それ故に年々難易度が上がっており、今や軍の隊長クラスの実力者までも参加するようになっている。
それを知っているアキナは、目の前で余計な事を言いやがって……と不機嫌そうに押し黙る晴比古を凝視していた。
同じFクラスの人間が、そんなハイレベルの大会に参加するだけでも注目の的であるのに、(大半は惨敗して恥をかきたくないと理由で参加しない事が多い)しかも優勝している。
これが驚かずにいられるだろうか。
大会の優勝者には莫大な賞金と、猛者どもを退けた確固たる実力に対する地位、名声、栄誉が与えられる。
晴比古を良く知らないアキナでさえ、疑問に思う。
失礼な言い方をすれば、どこまでも地味でしかない晴比古がそんな華やかなイベントに進んで参加するとは思えなかった。
晴比古は疑問と尊敬の眼差しを向けてくるアキナに気付き、一つ咳払いして匠間の方へと顔を向ける。
「……好きで出た訳じゃないんだけどね……」
「なんで俺を見る?」
「君が出るって聞いたから出たのに、あっさり初戦敗退しやがったしね……それに、あそこの連中はつまらない。まぁ、おかげで賞金が出たから良かったけど」
あまり乗り気ではなかったと自白する晴比古は、原因はこれだよとばかりに匠間を恨めしそうに半眼で睨む。
当時晴比古が出ているなど露知らずの匠間は、睨まれた理由が分からず、片眉を吊り上げて顔を僅かに顰める。
晴比古は普段から匠間と腕試しと称して拳を交えているが、お互い本気でやりあったことはない。
自分と同じく目立つ事を嫌う(Fランクの人間は大抵目立つ事を嫌う傾向があるが)匠間が大会に参加すると耳にした晴比古は、それはもう嬉々として大会に参加した。
魔術師ではなく、純粋な格闘家として草薙 匠間とどこまでやりあえるか。
期待に震える胸を感情で押し留め、いざ大会に向かえば、当の匠間はあっさりと初戦で退場してしまったのだ。
参加してしまった以上やれるところまでやるか、と勝ち進んでいった結果、あっさりと優勝してしまったのである。
二重の意味で肩透かしを食らった晴比古は、当時の事を思い出して深いため息を吐くが、視界の隅を走り過ぎた姉の姿を見て、小さく微笑んだ。
元々あまり欲のない晴比古は賞金だけを受け取り、店の経営の足しになればと全額姉に渡していた。
その甲斐あって『ふれぇばぁ』は小ぢんまりとした狭い店から一転、大型喫茶店と生まれ変わったのである。
「確か匠間、参加賞の中のお米目当てだったっけ」
「タダより安いもんはねぇしな」
「米目当てに参加したのは君だけだろうね……呆れる……」
晴比古が呆れるのも無理はない。
闘技場で開催される大会の賞金は準優勝であったとしてもかなり高額であり、参加賞の米十キロなどの比ではなく、向こう三年は遊んで暮らせる程の金額。
地位、名声、栄誉を勝ち取る為に、この大会に優勝せんが為に、世界各国の腕利き達がこぞって参加しているにも関わらず、匠間はお遊び、しかも米十キロの為だけに参加したのだ。
当然参加した理由を問い詰めた晴比古は、匠間の参加理由を聞いて呆れを通り越して尊敬の意を抱いた。
期待した自分が馬鹿だったと後悔し、匠間は良くも悪くも匠間のままなのだな、と痛感した瞬間でもあった。
結果的に見れば、店も改装し売上も上々。文句無しの結果であるので、晴比古も悪い気はしていない。
「えっと、それじゃあ、晴比古君、ものすごく、強いん、じゃ?」
「アキナさん、そんなに僕に気を使わなくてもいいよ。疲れない?」
匠間達の知り合いと言えど、完全に打ち解けていないアキナはおっかなびっくりと言った様子で、だが凄いんだ、とキラキラと輝く尊敬の眼差しを交えて晴比古を見つめる。
晴比古はそんなアキナに柔らかく微笑みかけ、ぜ、全然、そんな事ないでしゅ! と緊張のあまり噛んで赤面する姿を見つめながら、面白い子だな、と小さく笑った。
「心配しなくてもこの二人とは一応仲良くやってるよ。さっきみたいに口喧嘩がしょっちゅうだけど、たまに匠間君の家に夕飯を食べに行ったりするしね」
その言葉でほっと安堵したようにため息を吐くアキナに、晴比古はそれと、と言葉を続ける。
「強いか弱いかで言われると、わからないかな。見ての通り僕はFランク。魔術師として未熟だから」
強いかはわからないけど、弱くはないのかな。と呟いて、晴比古は首を捻る。
「純粋な格闘家としてなら、晴比古を越える奴は学院にいないんじゃね?」
「君が言うと馬鹿にしてるようでムカつくな。僕は君に一度も勝てた試しがないのに」
「あんだけボッコボコにしといて何言ってやがる。あの後大抵飯が食えなくて泣を見てんだぞ、こっちは」
匠間の言葉に、凛もクリームだらけの顔をうんうんと縦に振り、賛同の意を示す。
突然のヨイショに他意は無いと分かっていても、晴比古はいい気分になれなかった。
晴比古は何度も拳を交えた匠間に自分が勝った、と思えた事がない。
良くて引き分け。悪くても惨敗と言う結果を残さない辺り、実力の高さが伺えるのだが、晴比古はそれを認めようとしない。
それを把握している匠間は苦虫を噛み潰したような顔でハッ! と鼻を鳴らした。
「……匠間君と晴比古君って仲良いんだね。少し、安心したかな」
「……まぁ、退屈はしないよ」
晴比古と匠間の顔を交互にじっと見つめていたアキナが、嬉しそうに破顔する。
どうもこの少女と話すと調子が狂うな。と晴比古は苦笑する。
凛と匠間との騒がしいやり取りに慣れているせいか、アキナのような奥ゆかしい女性がその中に加わるとなると、どうにも違和感を感じてしまう。
だからと言って嫌悪感や鬱陶しさを感じる事は全くないのだが。
彼女が笑う度に、鼓動が少しだけ速くなるのは気のせいだろうか?
「なんだかんだ本気でどつきあえるのこいつだけだしな。俺は嫌いじゃない」
「あたしは好きだよ晴比古。口悪いし不器用だけど根は優しいし、何より体動かす時に最適!」
「君の出鱈目な速度に付き合う僕の身にもなって欲しいかな。僕はサンドバックじゃないんだよ? あと、僕は君が苦手だ。嫌いじゃないけど」
「下ネタ無理だしな」
「僕はお淑やかな女性が好みなの」
からかうように笑う匠間を、晴比古は涼しい顔で受け流す。
あたし超お淑やかじゃーんと宣う凛に、匠間、晴比古、アキナまでもがどこが? と白い目を送りつける。
騒がしくも賑やかに談笑が続く中、丁度空いたテーブルの片付けを終えて通りがかった店長が何かに気付き、あれ? と声を上げて立ち止まった。
「ハル、帰ったなら声かけろよー。友達連れてくるなんて珍しいじゃん」
「……ああ、ただいま。冬慈姉さん」
人懐っこい笑みを浮かべたウエイトレス姿の女性――周防 冬慈。
晴比古より少し明るい若葉色のポニーテールを揺らしながら、髪色と同じ若葉色の少し垂れ下がった目を細めて、コーヒーを啜っている弟に明るく話しかける。
推定165センチと女性にしては少し高めの身長と、すらりと伸びた四肢が強く印象に残る。
晴比古同様、整った顔立ちをしており、言われればどことなく似ているような気もする。
匠間の隣からおほっ! と歓喜の声が上がったような気がするが、聞かなかった事にしておこう。
晴比古の静謐さとは対照的に、冬慈は明朗快活、底抜けに明るい性格。
人好きのする笑顔があらゆる年代の客層から人気を得ており、店長と言う重要なポストにいながら看板娘としての知名度が非常に高い。
そんな売れっ子店長の冬慈は弟の返事を聞くや否や、ふんすと鼻を鳴らしてエプロンの下から激しい自己主張をしている胸の下で腕を組み、何故か偉そうにふんぞり返った。
「店では店長と呼びなさい」
「はいはい……。残念ながら友達じゃないよ」
そんな少し変わった反応の冬慈を晴比古は疲れたように左に受け流し、ため息を吐く。
遠巻きに見ればこの四人は仲の良い友達同士に映るのだろうが、晴比古にとっては違うようだった。
「じゃあ何?」
「……うーん……」
あんたのそんな楽しそうな顔私見たことないぞ、と心で思いながら冬慈が尋ねる。
改めて聞かれるとこの関係性をうまく言葉に出来ない晴比古は首を捻った。
なんと表現すればいいものか……と小さく唸り、黙り込んでしまう。
「喧嘩仲間じゃね?」
「ちょうどいいサンドバック?」
「お前らホント遠慮ないな。後で覚えてろよ」
それを察したかどうかは定かではないが、匠間と凛がぽんと軽く答えを投げる。
それにしても言い方があるだろ、と不満ありありの晴比古が食って掛かると、そのやり取りを見ていた冬慈は小さく呻いてふらりとよろめいた。
「……何? どうしたの? まさか貧血……っ!」
「いい友達じゃん。私は嬉しいよ……」
「病院行く? どこをどうみたらそう思えるの」
どれだけ根を詰めて働き通しているか間近で見てきた晴比古は、その動作を悪い方向に勘違いしてさっと腰を浮かせる。
しかし、冬慈は地味で暗くて捻くれた晴比古が! ついに! 友達を連れて来た! と声を大にして叫び、そのまま赤飯でも炊こうかと勢いで感極まって涙すら流し出す始末。
心配して損したと深いため息を吐き、椅子に腰を下ろした晴比古は興奮冷めやらぬと言った状況の冬慈を半眼で見やる。
晴比古の呆れたような視線も言葉も届いていない冬慈はふんふんと鼻息荒く凛、アキナを交互に見比べ、にんまりと悪戯を思い付いた子供のような笑顔を浮かべた。
「で、どっちがハルの彼女?」
「ぶふぉ⁉」
思わぬ爆弾発言に、無視を決め込もうと温くなったコーヒーを一気に煽っていた晴比古が盛大に吹き出した。
「おま、きったねぇな飛沫飛んだぞオイ!」
「あぁぁぁぁぁあたしのミルフィーユがぁぁぁぁ!」
機転を利かせて被害が少ない方へ顔を向けたはいいが、それでも吹き出した水飛沫はあらゆる方面へ被害を出しており、隣の匠間、匠間の対面、晴比古から見て右斜め前に座る凛からも避難の声が上がった。
「えっと……」
最も被害を受けた対面のアキナは、ポタポタと髪から滴る雫に困ったような笑顔を浮かべる。
激しく噎せて涙を浮かべている晴比古も、これはまずいと咳き込みながら慌てて立ち上がる。
「げほっごほっ! ご、ごふっごめんっ! すぐ、げふぉっ! 拭く物、ごふぉ! 取って、くる!」
「あ、平気だから、そんなに気にしないで。洗えば落ちるし、そこまでかかってないから。それより、晴比古君大丈夫?すっごい顔真っ赤だよ?」
すぐさまタオルを取りに行こうとする晴比古だが、ダイレクトに気管に侵入したコーヒーのせいで喋る事も、動く事も録に出来ずにその場でしゃがみこんでしまう。
そんな晴比古の背中を、アキナが濡れたままにも関わらず、心配そうな顔で優しくさすって大丈夫? と気遣いの言葉を掛け続けた。
大丈夫? 辛くない? と心から気遣ってくる少女を、晴比古は手で口を覆って咳き込みながら見つめる。
息苦しさが収まり、呼吸が楽になってもまだ、晴比古は惚けたように背中をさすってくれるアキナを見つめ続けた。
「おい晴比古」
「なにぼーっとしてんのさ。さっさとタオルとってこい。そして新しいミルフィーユとモンブランとチーズケーキ持ってこい」
「お前、厚かましいぞ」
咳が収まったにも関わらず、アキナをぼーっと見つめる晴比古を不審に思った匠間と凛が、何してんだよと言いたげに非難の目を送る。
どさくさに紛れてさりげなくダメになったケーキの倍以上を要求する凛に、匠間は軽く頭を叩いて嗜める。
「あ、ご、ごめん! すぐ取ってく―――」
「ほい。ごめんねうちの愚弟が」
アキナの髪から滴り落ちた水音で、はっと我に帰った晴比古が大慌てで立ち上がるとほぼ同時に、申し訳なさそうに眉を落として微笑む冬慈がいつの間にか持ってきたタオルをアキナに差し出した。
「あ……すみません。ありがとうございます」
「いやいや、悪いのはからかった私だから。ほんとごめんね。ダメになっちゃったケーキの替え持ってくるね。えっと、そこの可愛いコはミルフィーユとモンブランとチーズケーキでいいんだっけ?」
「うぇっ? いや、冗談ですから⁉」
タオルを受け取ったアキナが微笑むと、冬慈もまた気にしないで、と言ったように微笑み返した。
そして自らが招いた惨状であるテーブルの上を見回し、凛に向けて意地の悪い笑みを浮かべ、先程凛が口走った言葉を復唱した。
泡を食った凛が慌てて否定するも、冬慈はさして気を悪くした素振りも見せず得意げに片目を閉じてウインクする。
「いーのいーの。晴比古の友達だし、お詫びも兼ねてお姉さんがサービスしてあげる。そこのDHA豊富そうな目をしているコは何がいい? 晴比古の奢りだから気にしないで」
「いや俺は別にいいで……ちょっと待て遠まわしに死んだ魚のような目って揶揄すんのやめてもらえます?」
そんな話聞いてないぞと訴えかける晴比古と、回りくどい目の批判をされた匠間の怨嗟の視線を背に受けながら、冬慈は上機嫌で店の奥へと歩いて行った。
◇
「本当にごめん。僕の不注意で制服を汚してしまって……クリーニング代はちゃんと払うよ」
「ううん、染みになる程かかってないし、大丈夫だよ。気にしないで」
結局、あの後話もそこそこに切り上げ、(説教の事は完全に忘れ去られてしまっている)本当にケーキの替えを持ってきてくれた冬慈に一同はすっかり恐縮してしまい、お詫びだからと聞かない冬慈の好意に甘え、いくつかのケーキを見繕ってもらい、お持ち帰りする事となった。
その帰り際、店の外まで見送りに来た晴比古はアキナに向けて真っ直ぐ腰を折り、深々と謝罪した。
学院指定の制服の色が濃紺である事が幸いして染みが目立つ事はないだろうが、それでも不愉快な思いをさせてしまった事に猛省する晴比古は一向に頭を上げようとしない。
「責任取って毎日あたしに限定シュークリーム持って来い。そうすれば忘れてやる」
「茶化すな馬鹿」
困り果てたアキナが匠間達に目で助けを求めると、凄まじく上から目線の凛が何やら宣うも、匠間に頭を叩かれてすごすごと引き下がる。
アキナは頭を下げたまま微動だにしない晴比古に弱ったなぁ……と苦笑する。
本当に気にしていないし、そこまで真摯に謝られると対応に困ってしまう。
どうしたものかと頭を悩ませていると、いつもの如くじゃれあっている二人の姿が目に映る。
何かを思い付いたアキナは、地面に視線を縫い付けている晴比古に向かって、それじゃあ、と頬を綻ばせる。
「匠間君と凛ちゃんと、もっと仲良くしてあげてね。二人とも、すごく晴比古君に気を許してるみたいだから……喧嘩ばかりしてないで」
ふわり、と優しく頭を撫でられる。
まるで我が子を慈しむ母のような優しい手つきで髪を梳くように指が滑っていく。
晴比古は弾かれたように顔を上げる。
そこには突然の動作に驚くことなく、慈愛に満ちた笑みを浮かべるアキナがいた。
アキナは晴比古と目が合うと念を押すように、「ね?」と首を微かに傾けて微笑んだ。
晴比古は言葉を失った。正確に言えば、思考回路も完全に停止した。
なんと優しい少女なのか。
避難して当然の立場の自分を、他人をここまで気遣える人間を見た事がない。
この少女の微笑みを見ているだけで、穏やかな気持ちになれる。
自然と鼓動が速くなっていく。
この体感した事のない気持ちは―――一体なんだ?
戦うときに感じる高揚感とは違う、体の底から熱くなるような錯覚。
何か言葉をと思っても、声が喉から出てくれない。
見とれていた。
笑顔に大輪の華を咲かせる可憐な少女に見とれてしまっていた。
―――晴比古は自身でも気付かぬ内に、一目惚れしてしまっていた。
「うーわー見ました旦那ぁ?完全にオスの顔ですぜアレ」
「は? 晴比古は男だろ。何言ってんだ?」
「旦那ぁ……ありゃあ雌を欲しがる飢えた雄の目ですぜ。『は、晴比古君……』『アキナさん……いや、アキナ。君が、欲しい……!』『待って……! 私はじめ……あっ!』とかなっちゃったりしてぶべふぉぁっ⁉」
「おーすげ。綺麗に入ったわ今の」
下衆顔の凛が下卑た発言を繰り返し、妄想に耽ってげひょげひょと不快極まりない笑い声を上げていた真っ最中。
アキナに向いたままの晴比古から風を切る音と共に音速の蹴りが放たれる。
横っ腹を蹴り飛ばされた凛が奇声を上げながら凄まじい速度で吹っ飛んでいく様を、匠間は手で庇を作り二回、三回、四回と、どこまで転がって行くか楽しそうに眺めていた。
十四回転がった所で勢いが止まり、起き上がろうとしていた凛が、「これが、二つの意味で二皮向けた……大人……ぐふっ……!」と呻いて力尽きた。
南無南無と両手を合わし、ご冥福を祈った匠間はまだ見つめ合ったまま固まっている二人に目を向ける。
さすがに身長差がある為、もう頭を撫でてはいないのだが、このままではずっとこうしているのでは?と思った匠間は仕方なく足を動かした。
「あー、なんだ。邪魔なら先に帰るが」
「っ、い、いや、大丈夫。と言うか邪魔ってなんだよ」
気まずそうに言う匠間の言葉で晴比古は分かりやすく狼狽えながらアキナから顔を逸らした。
それじゃ帰るかと踵を返す匠間に、アキナは笑顔で頷いた。
そこで漸く凛の姿がない事に気付いたアキナがあれ? と首を傾げた。
数メートル先にうつ伏せで倒れている凛を発見するや否や、血相を変えて駆け寄っていく。
遠ざかるアキナの背中をじっと眺めていた二人は倒れていた凛を抱き起こし、目を回している姿を見て全く同じタイミングでふっと笑った。
お互い隣から聞こえた笑い声に顔を向けると、ぱちっと視線が交差する。
暫し無言で見つめあった数秒後に聞こえてきたアキナの悲鳴で、匠間がゆっくりと視線を外す。
「んじゃ、帰るわ」
「ああ、迷惑かけてごめんね。アキナさんには改めてお詫びするよ」
俺と凛にはないのかよ、と内心で苦笑するが、晴比古がどういう状態なのか大方理解した匠間はそれを表面に出すことなく、おう、と短く答えた。
「ま、気が向いたらでいい。今度姉ちゃんと一緒に飯食いに来いよ。そん時はアキナも呼んでやる」
「……考えておくよ」
アキナと言う単語に反応した事は明らかであるが、それを悟られまいとする晴比古は努めて冷静に答えた。
そんな晴比古の姿を見て匠間はやはり苦笑するしかなかった。
無粋な真似はすまい、と目を回して助けを求めているアキナに向けて歩き出した所で、晴比古があ、と声を上げた。
「気をつけなよ」
「何をだ?」
薮から棒に何を言い出すのか。
匠間は眉根を寄せて肩越しに晴比古を見る。
晴比古は匠間の反応を予想していたのか、それとも主語が抜けている事に気付いたのか、小さくため息を吐いて会話を続けた。
「……まぁ、サボってたから知らないだろうね。今回の選抜試験の結果は知ってるかい?」
「性悪女が指輪持ちってことくらい」
「性悪……? いや、誰だよそれ。まぁ、いいや。今回の選抜試験で四人、指輪持ち―――赤銅の指輪持ちが新しく増えた」
「ふーん。で?」
匠間は対して興味なさそうに素っ気なく答えた。
指輪持ちが増えた所で私生活になんら影響はない。
身内が赤銅の指輪持ちになったと言うなら話は別だが、最低ランクの三人にそんな可能性は毛ほどもない。
それが何だ? と言わんばかりに目を細める匠間に晴比古は黙って聞けと口を開く。
「まず、ハルナ・アルフォード。彼女については分かりきってた事だから言うことはないけど……ん? アルフォード? どこかで聞いたな……」
「……アキナの姉ちゃんだよ」
「お姉さん⁉ そうだったのか……いや、似てないな……」
「で、赤銅の指輪持ちが何なんだよ?」
またもアキナの名前に過剰な反応を見せる晴比古に、匠間は少し呆れながら先を促した。
「あ、ああ。後は響先輩、一色、久条の四人なんだけど」
「へぇ、飛鳥先輩が赤銅の指輪持ちか」
響 飛鳥。Cランク治癒魔術師であり、同じ治癒魔術師であるアキナの良き先輩。
匠間も何度か顔を合わせた事があり、実力はあるのだが、引っ込み思案の性格が災いして実力を発揮できていない印象が残っていた。
学年の区別がないにも関わらず、なぜ匠間と晴比古が先輩と呼ぶのかと言うと、イザナギ魔術機関専門魔術学院、通称魔専学院が設立された七年前に話は遡る。
『聖戦』終了と同時にゼファートが魔術機関イザナギを設立。その一年後に、世界各国に点在していた魔術師育成機関である魔専学院を設立。
歩く魔道書の異名を持ち、大魔術師として名高いゼファートが手がけた魔専学院は瞬く間に世界最高峰の魔術師育成機関となった。
年齢、国籍を問わない魔専学院に小中高などの学年の区別はない。
しかし編入された年によって、第何期生と区別されている。
区別されていると言っても実力主義の世界の為、特に意味がある訳ではないが古来よりの習わしとして先輩後輩との上下関係は一応存在する。
ランクで判断されるこの世界で、各下の相手に敬意を払う人間は皆無。
だが、少なからずこの風習を律儀に守る人間も存在し、匠間、凛、アキナ、晴比古もその少数派の中に属している。
設立当初を一期とし、今年で七期となる魔専学院における区別で言うと、匠間、凛、アキナ、晴比古、ハルナは七期生となる。(編入された年で呼ばれるので、年内であればいつ編入しても変わらない)
そして匠間が先輩と呼ぶ響 飛鳥は六期生。
匠間達より一年早く魔専学院に編入されている。
その為、先輩と呼び敬意を払って接しているのだった。
出会った当初の頃を思い出すかのように、匠間は薄く笑って遠くを見つめる。
「僕が言いたいのはそこじゃない。残りの二人、久条と一色、この名前に覚えはない?」
「自慢じゃねぇが同期の顔と名前全部一致しねぇ自信があるぞ」
同期どころか魔専学院の全生徒すらあやふやな匠間が得意げに胸を張る。
晴比古は何だよそれ……と盛大なため息と零すと同時に肩を落とした。
「……君が一番知ってると思ってたんだけどね。久条と一色は、君に毎朝見せしめをやってた連中だよ。久条が茶髪の狐ヅラで、一色が金髪の眉なし」
「ああ、あいつらか」
悪意の込もった、しかし適切な特徴を捉えた説明に漸く匠間が晴比古の言う人物を理解する。
「そう。その二人が赤銅の指輪持ちになったんだ、これからどんなちょっかいをかけてくるか分からない。君は何かと目立つ、気をつけなよ」
◇
匠間は思考の世界に入り込んでいた。
晴比古、凛、アキナに買い物に行くと告げて別行動を取り、硝子張りのショーウインドウに映る自分を凝視しながら沈思黙考する。
少々面倒な事になっている。
編入されてからほぼ毎日と言っていい程絡んできた厄介な二人組―――久条 龍也、一色 真虎。
二人共Cランク魔術師であり、そこそこ腕も立つ。
今まではシエルの介入や黙って言う通りにする事でやり過ごしてきたが、赤銅の指輪持ちとなるとあらゆる可能性が浮上してくる為、楽観視は出来ない。
さて、どうするか。
匠間は自身の事ではなく、身内である数名を頭に浮かべて幾つもの過程を脳内でシミュレートする。
考えうる全ての可能性を再現し対応した結果、あまり好ましくない結果が弾き出された。
正直、自分一人であれば久条と一色などどうとでも出来るが、払った火の粉がどこに飛び火するか分からない。
今は下手に動けない。
多少強引に暴れたせいで監視の目が煩い。
クロに頼めば狸爺に勘付かれてしまう。
自身の実力を少しでもひらめかせてしまえば、今までの苦労は全て水泡に帰してしまう。
思ったより選択肢がない事に苛立ちを覚えつつ、目の前の細い糸を手繰り寄せながら最善の答えを探り出す。
きっかり五分。
考え抜いた先に出た答えはこれしかなかった。
いくら考え直しても答えはここにしか結びつかない。
匠間は自分を納得させるように力強く頷き、帰路へと足を進める。
ところで、匠間がずっと悩んでいた場所だが、いかにもな空気を醸し出し、言葉にする事も憚られるものを取り扱っている知る人ぞ知るお店。
匠間が凝視していたショーウインドウの中に、どこから見てもこれは飾っちゃダメだろと突っ込みが入るレベルのものが堂々と飾り付けてある。
年端も行かない幼い少女の裸体に、緑色のぬるぬるしてそうな粘着質の軟体生物が全身に絡みついた、極めてアレなフィギュアが『いらっしゃいませ』と言わんばかりに存在している。
時間にして二十分はそれを真剣そのものの表情で凝視していた匠間は誠に不名誉なレッテルを貼られていた事に気付いていない。
そうだよな。これしかねぇもんな。と呟きながら離れていく様子を汚物を見るような目で見ていた奥様方の井戸端会議は今まさに最高潮の盛り上がりを見せている。
そして噂は風の如く伝わっていき、いずれ二人の少女の耳にも届く事であろう。
そう遠くない未来を知る由もない匠間は、「やっぱぬるぬる地獄! 快楽に溺れた少女達しかねぇよな」と無意識に口から出た言葉に「ぬるぬる? 快楽? ぬるぬる?」と終始疑問で首を傾げていたのであった。