奇抜な技術者
「さて、セレモニーが終わるまでどこで時間を潰すか……」
イザナギ魔術都市の中心に位置する魔術学院から離れた匠間は、いつもより活気に満ちる街並みを伺いつつ、凛の歩調に合わせてぶらぶらと練り歩く。
蝕む者の侵入を防ぐ為の外壁を最端に、イザナギはドーナツ上に区域が存在する。
三区と呼ばれる、外壁に最も近い地区はFランクの者が割り当てられており、碌に手入れもされていない、所謂スラム街に近い廃墟が並ぶ、荒んだ地区。
匠間や凛も、ここに居住している。(アキナはハルナと一緒に住んでいるので、ここには住んでいない)
次にEからCランクの者が生活する二区。
この地区がもっとも範囲が広く、イベントなどで活発化するのも常にここからである。
その奥に、BからAランク、軍人、教師などイザナギに深く関わりを持つ人間だけが居住を許可された、高級住宅街が並ぶ一区。
そしてその三つの区域の最奥に、イザナギ魔術機関が存在する。
現在匠間と凛がいる場所は二区。
二区の中でも最も賑わいのある商店街で、二人は人混みに紛れるようにして、目的もなく歩いていた。
時折、二人が着ている魔術学院の制服を目にした人が、怪訝そうな顔で見てくるが、それも当然の事。
現在進行形で、学院ではあの『七天』が直々にセレモニーを行っているはずなのだ。
学院の生徒がそんな重大な行事をサボってここにいるはずがないと、視線を向けてくる人々は勝手に自己完結し、横を通り過ぎていく。
「ふぇ、ひょうあー」
「んだよ、食うか喋るかどっちかにしろ」
当てもなく歩いていた凛が、はむはむと小動物のようにクレープを(勿論代金は匠間持ち)食みながら、真横を見上げる。
いつもどおり小言を忘れない匠間は、頬をいっぱいにしてはむはむはむはむクレープを頬張る凛に顔を向け、くしゃりと顔を歪める。
「おま、食い方きったねぇな。口の周り食べカスだらけじゃねぇか。おら動くな」
「むぅー」
すかさず匠間はポケットから取り出したハンカチで、凛の口の食べカスをぐしぐしと乱暴に拭き取り始める。
口の中がクレープでいっぱいなのか、目を細めてくぐもった声を出す凛。
どうやらお気に召さないようだ。
綺麗に拭き取れた所で、凛も口の中のものを飲み込めたのか、ふいーっと息を吐いて、また一口クレープを口に含む。
「ねぇ匠間ー。どうするのー?」
「てめぇ人の話聞いてたか? 食べるか喋るかどっちかにしろ。どうするっつったって終わるまで時間潰すしかないだろ」
相変わらずクレープに夢中の凛が、そうじゃないと小さく首を横に振る。
声も出さず、ごく自然な仕草で何かを否定した凛の真意が理解出来ず、匠間は怪訝そうに首を捻る。
「敵意はないし、これだけ人がいたらわかんないかもね。見られてるよ、あたし達」
視線はクレープに、表情はいつも通りの凛がぽそりと匠間にだけ聞こえる声量で呟く。
匠間の片眉がぴくりと跳ね上がる。
言われて気付く。
『七天』来訪による、商店街の活気に満ちた人々の気配の中にひとつだけ、こちらを覗く不躾な視線が。
殺意や悪意、そういった類のものに対しては、匠間も勘が鋭いほうだ。
しかしこの視線は、そういった何らかの敵意が全く感じられない。
寧ろおもちゃを前にして、目を輝かせる子供のような邪念や衒いの無い、純粋そのものの視線。
―――良く気付いたものだ。
匠間は手放しに絶賛する。
この多数大勢蠢く気配の中で、この視線に気付く事は極めて困難であろう。
実際匠間も言われるまで全く気付かなかった程のもの。
視界を完全に遮った状態で、針の穴に糸を通すような芸当であり、万人が真似できるものではない。
「やっぱお前すげぇな。全然わかんなかったぞ」
「害はないみたいだし、匠間も気付いてて無視してるのかなーって思ってさ。それにあたし、腐っても隠密だし」
しれっと言いのける凛だが、緊張状態である魔術師はおろか、軍の中でも隊長クラスですら気付かないような弱々しい気配を感じ取れる人間は、世界広しと言えど凛くらいだろう、と匠間は薄く微笑む。
そして思考をスライドさせ、歯車をかちりと組み合わせる。
「特定できるか?」
「それは無理。消えたり出てきたりで全然わかんないもん。それにしても凄いね。凛ちゃんレーダーに引っかからない相手は初めてだよ」
凛は軽口を叩きつつ、口の周りについた生クリームをぺろりと舐め取り、好戦的な笑みを浮かべる。
興奮を抑えられないと言った笑みを貼り付け、束ねた薄桃の髪をわさわさと意図的に揺する。
「……抑えろよ?」
「んやー、最近匠間が相手してくんないから欲求不満なんですよー。あ、ご無沙汰なんですよー」
「なんでいちいちそこ言い直した? まぁ確かに最近忙しかったからな……暇見つけてしてやるよ」
「やーん。溜まりに溜まった劣情がこのうら若き肉体にぶちまけられるのねー。朝まで寝かさないぜ……なーんつってなんつって!」
「そのドヤ顔ムカつくわぁ……って、ん?」
「んお?」
ふっ、と煙のように、今までへばりついていた視線が消える。
今の今まであったものが忽然と消えてしまい、二人は視線の主に気取られる事も忘れ、つい足を止めてしまう。
「消えた?」
「……いやいや、幽霊じゃあるまいし」
「そうそう、幽霊じゃないし、ちゃんとここにいるよ? あ、大丈夫何もしないから」
顔を見合わす二人の背後から、くすくすと小さく笑う声が上がる。
―――油断した。
雑踏に紛れ、いつの間にかこんな至近距離まで近付いていた。
即座に反応し、振り向きざまに蹴りでも繰り出そうかとする凛と匠間に、謎の声は落ち着いた様子で笑う。
声の主は見るからに胡散臭い人物だった。
まず背中の背嚢が異常にデカイ。
体の二倍はあるだろう背嚢からは、所々から謎の部品がはみ出している。
ぼっさぼさの赤髪を無造作に後ろで束ね、今時見ることが珍しい顔の面積よりも大きい瓶底眼鏡。
よれよれのカッターシャツに、これまたくたびれた白衣。
白衣の至る所には何のシミかわからないが、煤けてるわ汚れてるわ破れてるわでとにかく汚い。浮浪者かと見間違える程だ。
穴が空き、素足がこんにちわ。と挨拶している革製のブーツ。
いや靴下くらい履けよ。
すかさず匠間の心のツッコミが入るが、それは置いておこう。
そのいかにもな空気を醸し出す謎の人物は薄汚れた顔でにんまりと笑い、百七十はある匠間と目線がほぼ変わらないにも関わらず、中腰になって下からぐいぐいと顔を近付けていく。
「うひっ……な、なんだよ気持ち悪ぃ……ってかくっさ! なんだこの異臭尋常じゃねぇぞ⁉」
匠間は得体の知れないものに遭遇したかのような表情を浮かべ、小さな悲鳴をあげて後退る。
その直後、謎の人物の頭部から漂う異臭に、思い切り顔を顰めてその場でえづいた。
それはこの世のものとは思えない異臭だった。
鼻の粘膜にこびりつき、目に入れば激しい痛みを伴い、涙が止まらなくなる。
一息吸うだけで嘔吐感を催し、悶絶するほどの臭さ。
もはや毒ガスとも呼べるこの異臭を、至近距離でもろに受けた匠間は堪らず距離を離し、鼻をつまんで涙で滲んで碌に見えない視界で必死に謎の人物を探す。
このテロの主犯は悪びれた素振りも見せず、汚れた風貌からは想像もできない白く輝く歯を見せて、にっ、と笑った。
「あーごめん。そういえばお風呂入ってなかったや。ついでに洗濯も」
あっけらかんという当人だが、一ヶ月も風呂も洗濯もしないなど、小姑の匠間にとっては信じられないものだった。
現に嘘だろ? と目を剥いて驚いて、異臭が目に入ってまた悶絶している。
「はぁ⁉ お前どんだけ入ってねぇってかくっさ! 目いてぇ! へぐああああああおうえええっ!」
「ひょうまー。あたひここにいるからがむばっへー」
某大佐のように目がー目がーと叫びながら悶える匠間から、約百メートルほど離れた民家の影から、目を×にした凛が、鼻を抑えてふりふりと可愛らしく手を振っていた。
汚い。さすが隠密汚い。
汚いのは目の前の毒ガスを撒き散らすこのヘンテコな人物なのだが。
「てっめ逃げんなうおえっ! 口からも異臭が! なんだこれ穢気か⁉ ぐああああああああああ蝕まれるぅぅぅぅぅぅ!」
「やだなーほんの一ヶ月お風呂と洗濯しなかっただけだよ。そんなに臭くないでおろろろろろろろ」
小さな鼻をひくひくと動かし、自分の服の袖の匂いを嗅いだ瞬間、謎の人物は即座に蹲って盛大に胃の中のものを大リバースした。
街行く人々の目が突き刺さる。
まずい。
ここで目立つのは非常にまずい。
「自分で吐くほどかよ⁉ まずそれどうにかしてこいや! ああもうめんどくせぇ来い!」
サボっている上にここで目立ってしまえば、学院にも情報が回ってしまうだろう。
匠間は迅速に汚物を処理し、まだ蹲ってげぇげぇとえづいている謎の人物の腕をとって、全速力でその場を逃げ出したのであった。
◇
「いやはや申し訳ない。最近仕事が捗らなくてねー。あ、お風呂すっごいねあれ。どうやって作ったか知りたいなぁ」
「能書きはどうでもいい。で、俺達に何の用だ?」
「こやつ……おなごであったか。ふむふむ、素材は秀逸……しかし! 勝ったぞ! 素材の性能を活かせぬまま負けてゆけ!」
「お前はどこを見て何をほざいてるんだよ。つかそこ今問題じゃねぇよ」
場所を移し、匠間の自宅。
匠間の対面に座る、ほかほかと湯上り卵肌の謎の人物こと少女は、湯浴みをしてさっぱりしたのか、ふにゃふにゃとふやけた笑みを浮かべてもっしゃもっしゃと乱雑に髪の毛を拭きつつ、キョロキョロと周囲を見渡す。
匠間は隙あらば取り押さえる、と言った気概で畳にどっかりと腰を据え、真っ正面から少女を睨みつける。
その後ろにはなにやら神妙な表情の凛が立っていた。
凛は着替えがなかったため、やむなく匠間の服を着ている少女の胸板あたりを凝視し、自分のサイズと見比べ、拳を振り上げて歓喜していた。
凛を無視して話を進めようと、匠間は少女をじっと睨みつける。
少女は匠間の視線に気付いたのか、ふにゃりと頬を緩めて、改めて匠間に向き直った。
「えっとなんだっけ? ああそっか、僕はしょじ」
「てめぇぶっ飛ばされてぇか? いつどこでそんな話になった」
少女が口走った言葉を無理やり遮り、額に青筋をくっきりと浮かべる匠間。
少女はさも当然のように首を捻り、
「え?だって君の目が僕を舐め回すように見てくるからてっきり……」
「なんでお前ら女子はいつもいつも俺を性犯罪者に仕立て上げるんだよぉ! もういいから何の用だゴルァ!」
ズッバァァァァン! と全力で叩かれたちゃぶ台が凄まじい大音を立てる。
匠間は烈火の如く怒り狂い、今にも飛びかかろうとしたところで、凛に羽交い締めにされて事なきを得る。
「大丈夫? 目が腐って……もともとかなぁんだ痛い!」
「納得すんなゴルァ! 腐ってんじゃねぇ濁ってんだオラァ!」
だが追撃の言葉で再び沸点に着火し、器用に足で座布団を少女の顔面目掛けて蹴り飛ばし、口角泡が飛ぶ勢いで怒鳴り散らす。
否定するところはそこではないと思うが。
「匠間、どうどう。完全に輩だよそれ。で、とぼけたフリはいいから用件を言って欲しいなー」
「……なかなか鋭いねぇ。うん、君達なら大丈夫そうだ」
匠間を宥めつつ、凛は目を細めて少女に問いかける。
茶番はそろそろ終いにしろ、と目で訴えかけている。
凛が割と本気になったことで、少女は瓶底眼鏡の縁を中指と親指で押し上げ、不敵に笑う。
「何がだ? 俺がわざわざお前を家に入れた意味、わかるよな?」
「叫んでも誰にも聞こえねぇぜ。お前の瑞々しい肉体を堕ちるまで凌辱してやるからよ……ぐへへ……って事だねわかりますぅあいっだだだだだだだだ割れる割れるわーれーるぅぅぅぅぅ!」
「お、ま、え、は、だ、まっ、て、ろ……!」
真剣味を増した空気をぶち壊すかのような凛の一言に(凛は真面目に言っていた)、匠間は大きな掌で凛の額をぎりぎりと締め上げ、ゆさゆさと揺さぶりつつ、これでもかと言う程の痛みを与える。
「あははー、仲良いねぇ。夫婦?」
「てめぇもこうなりたいか?」
匠間はけらけらと快活に笑う少女をギロリと睨めつけ、だらんと四肢の力が抜けて動かなくなった凛を畳に放り投げ、ドスの利いた低い声で脅す。
少女はひぃ、と小さな悲鳴をあげて縮こまり、こほんと咳払いして改めて居住まいを正す。
「ん。まず自己紹介からかな。僕はナズナ・ラドネ。イザナギのしがない技術者だよー」
ふにゃりと笑うこの少女の名前を聞いた途端、目が飛び出すんじゃないかと言う程驚いた匠間は勿論の事、遠い世界に旅立ったはずの凛まで飛び起きた。
ナズナ・ラドネ。
蝕む者に対抗しうる全てを作り出した人物。
この世界に流通する全ての魔術媒介兵装、対蝕神抗体兵装は全て彼女が手掛けたと言っても過言ではないだろう。
現に彼女は蝕む者出現から半年で魔術媒介兵装を開発し、対蝕神抗体兵装を生み出し、このイザナギを作り上げた天才。
年齢不詳、性別不明。
どこで何をしているかも、一切謎に包まれていた、世界最高機密人物。
そんな人物とは思いもしなかった匠間はあんぐりと開けたままの顎をなんとか元に戻し、深い深いため息を吐いて区切りをつける。
「……どこがしがない技術者だよ。あんたの名前を知らない人間がこの世に存在するのか?」
「イザナギの生みの親……。『七天』なんて名が霞むほどの超有名人じゃん……」
驚きを隠せない二人に、ナズナは人差し指で顳顬の辺りをこつこつと叩いて小さく唸る。
「んー。僕は基礎を教えただけだから、正確には生みの親じゃないけどねー」
ナズナは軽くそう言うが、その基礎があるからこそ今があり、今やイザナギは世界最高峰の大国に発展している。
一言ぽんと助言しただけで、国がひとつ出来上がるなどあってはならない。
有り得ないレベルのものだ。
「その基礎が発展してここまででかくなったんだろ。あんた以上の技術者なんてこの世に存在するかよ」
「そこだよ」
ずい、と顔を寄せ、にんまりと笑顔を貼り付けたナズナが、匠間が常に携帯している腰のナイフに瓶底眼鏡の奥から視線を注ぐ。
「そこなんだよ。君達に興味が湧いたのは」
商店街で感じた、あの視線が注がれる。
ナズナは子供のようにきらきらと目を輝かせて、ナイフを指差してにんまりと微笑む。
「君のナイフ、誰が作ったんだい?」
―――良く見てやがる。
あの軍人達といい、化け物どもが雁首揃えてお出ましか?
匠間は苦々しく心で舌打ちして、腰のナイフを抜いてナズナの眼前に持っていく。
「こんなもん、ただの大量生産品だろ」
「いいや違うね。僕はそのナイフを見たことが無い。僕は記憶力には自信があってね、自分が手掛けた子供達は全部ここに入ってる。さて、もう一度聞くよ?」
即答で否定し、匠間からナイフをもぎ取って色んな角度から矯めつ眇めつしてから、ナズナは満足そうに微笑む。
「それでこれは、どこで、誰が作ったものなんだい?」
ナイフから逸れ、匠間に真っ直ぐ注がれる視線は、ただただ純粋な興味のみ。
化物が。
匠間は笑いながらも、心で毒づく。
自分に絶対的な自信があるものしか見せれない余裕を見せつけ、名を刻もうとしている。
嘘は通用しねぇな、と匠間は胸中でため息を吐き、仕方なく口を開いた。
「これは俺の古い知り合いでな。あんたが期待するようなもんじゃねぇと思うが、これは華玄っつー刀匠が打ったもんだ。最も、奴からしたら妥協もいいとこの駄作らしいがな」
「ふんふん……確かに見た目は一般的な刃物と変わらないね。でも、同じ鉄を使っているにもかかわらず、硬度がまるで違う。作る過程が根本から違うんだろうね……うん、見事だ。こんな駄作と呼ぶものでも、刀匠の魂を感じれる。これは本人が直接打ったものでしょう?」
「見ただけでそんだけわかるっつーことは本物だな。そうだよ、華玄に直接依頼したもんだ。つっても片手間に作ったもんだから、判断するなら凛の方を見な」
「ほいほい、ちょっと待ってねー」
ちらりと目配せすると、凛は主に使える従者のように恭しく一礼し、奥の居間から二振りの刀を持って来る。
「ほい。刀匠華玄作、業物の一振り『凛ちゃんブレード(小)』と『凛ちゃんブレード(大)』」
「こっちの短いのが『薄氷』。こっちの長いのが『陽炎』。どれも市場にゃないもんだ」
凛の紹介をさらりと受け流し、匠間はやや得意げに語る。
刀の価値を知る者は世界にそう多くはない。
自慢の玩具を見せる子供のような目で、匠間はずい、とナズナに刀を近づける。
手にとって見てみろ、と言いたいようだ。
「へぇぇ……凄いな、美しい……」
「その名前ごつくて可愛くなーいー凛ちゃんブレードー」
「お前華玄にハンマーで殴られるぞ。それで済めばいいが」
鞘から抜かれた『薄氷』と『陽炎』は反りが全く存在しない、直刃の忍刀。
『薄氷』は突くことより斬る事に重点を置き、『陽炎』に比べて刀身が薄く鋭く、刀身が短い。
『陽炎』は逆に突く事に重点を置き、刀身が厚く、非常に高い硬度の鉱石で鍛えられており、刀身が長い。
『薄氷』には鍔が存在しないが、『陽炎』には鍔があり、凛に合わせて誂えたであろう、雪の結晶を模した紋が彫り込まれている。
どこを見てもケチのつけようがない業物に、ナズナは感嘆のため息を漏らしつつ、慈しむように眺め続ける。
「これは素晴らしいね。うん、この技術は僕には再現不可能だ」
「やけにあっさりだな。『叡智の神』とも謳われたあんたが、簡単に諦めるとは」
自分でも不可能とあっさりと認めるナズナに、匠間は意外そうに目を瞬く。
それもその筈。
ナズナはイザナギを作り出した類い稀なる頭脳の持ち主なのだ。
見よう見まねでも、常人とは比べ物にならない技術を持ちうる人物が、そう簡単に諦めるものなのかと、匠間は怪訝そうに首を傾げる。
ナズナは困ったように笑いながら首を横に振り、小さく肩を竦めた。
「似せる事は出来るよ。でも、僕じゃこの子の命、いや魂かな? それまでは吹き込めない。やっぱり外は面白いね。僕の知らない事が山程眠ってる」
ナズナはくい、と瓶底眼鏡を押し上げ、遠いどこかを見つめるように目を細める。
匠間はぽりぽりと頭を掻き、少なくとも悪意がある人間ではないな、と判断を下す。
「……んで、結局ナイフを見たいだけだったのか?」
「おっと、本題を忘れてたね。折り入って君達に相談があるんだ」
言われてはっと我に帰るナズナ。
対面に座る匠間に居住まいを正して向き直り、瓶底眼鏡の奥の眼をしっかりと匠間の目に向ける。
「……話だけは、聞こう」
「うん。ありがとう。この通り僕は研究者としてはそれなりと自覚は持ってる」
世界で最も重要視されている人物がそれなりかよ、と匠間は心の中で苦笑するが、黙って傾聴の姿勢を取る。
「でも、それ以外はからっきしなんだ。今回君達に近付いたのも、歳が近そうだったってこともあるし、変わったナイフを持ってたこともある。後は君達、相当修羅場潜ってるでしょ? それもランクなんて関係ないほどに」
「まぁ、それなりには……な」
凛の視線に気付いた匠間は視線を宙に泳がせ、かりかりと頭を掻く。
実力の程を見抜いた訳ではないだろうが、やはりイザナギの生みの親。
相手の真意を知るまでは、迂闊な行動は避けたい。
凛の無言の視線を察した匠間は、曖昧に言葉を濁し、目で続きを訴える。
ナズナはそれを気にする素振りも見せず、小さく息を吸い込んで、意を決したように口を開いた。
「僕の護衛を引き受けて」
「断る」
迷いも躊躇もなく、そして茶化す様子もなく、真剣に断る匠間。
ナズナは少しばかり落胆したように目を伏せ、小さくため息を吐く。
「……即答だね。理由は?」
「めんどくせぇ」
匠間の回答も予想の範囲だったのか、続けて匠間の背後に立つ凛に視線を向ける。
「君はどうだい?」
「……匠間がやらないならあたしもやる理由がないなー」
ほんの少しだけ首を傾げ、僅かに思考する素振りを見せる凛だが、滑り出た答えは否定の言葉だった。
それでも諦めがつかないのか、ナズナは膝の上で拳をきゅっと握り締め、身を乗り出して言葉を続ける。
「然るべき報酬も払うよ? あ、なんなら僕を自由にしてくれても構わない。一応生物学上は女だし、まだ清い体だよ」
「お父さんそういうの感心しないな。もっと自分の体を大切にしなさい」
「誰だよお前は。さっきから下衆い発言しかしねぇお前が言っても説得力ねぇからな?」
真顔でとんでもないことを口走ったナズナに、匠間が顔を顰める。
匠間の口が開く前に、芝居がかった凛の言葉がそれを遮る。
腕を組み、頻りに首肯しながらしたり顔でナズナを見つめている。
そんな凛に匠間は目を細め、何言ってんだ?と言いたげに冷たい視線を突き刺す。
「一応聞く。なんで護衛だ? あんたほどの人間が打てば嫌というほど響くだろ。なんで俺達なんだ? Fランクの、落ちこぼれの俺達に、何を望むつもりだ?」
「……兄に言われてね、一生研究室にこもってるままなのかって。僕はそれでいいと思ってたよ。―――兄に連れられて、外を知るまでは、ね」
ぽつり、と懐かしむように呟く。
そして天井を見上げ、遠い過去を思い返すように、ナズナは語る。
「もっともっと知りたいんだ。この世界を。人々を。僕の子供達がどうやって使われてるかを……ね」
それが僕の本心だよ。
そう付け足して、ナズナはそれきり黙り込む。
長い沈黙の後、静寂を破ったのは、がりがりと頭を掻いていた匠間だった。
「……具体的な内容は?」
「受けてくれるのかい⁉」
ずい、と身を乗り出してきたナズナに、匠間は掌を突き出して制止をかける。
まだ続きがある、というように。
「いや、受けるとは言ってねぇよ。つか近い。話は聞くっつっただろ。受けるかどうかはそれからだ」
匠間の言葉にナズナは頷き、一度深呼吸して内容を話し始めた。
「明日から僕はイザナギ魔術学院に編入されるんだ。勿論偽名で、だけど」
「なんでまた自分で作ったところに偽名使ってまで……」
「言っただろう? 僕は基礎を教えただけ。完成させたのは他の人間。つまりナズナ・ラドネが作った訳じゃないんだ」
「ゼファート学院長か」
絶大な魔力を持ち、かつて『七天』と共に聖戦を戦い抜いた英雄の一人。
このイザナギ魔術学院をたった一人で作り上げた、大魔術師。
彼の手によって、このイザナギ周辺の安寧は守られていると言って過言ではない。
彼については匠間も色々と思うところがあるのか、神妙な面持ちで黙り込む。
ナズナはその沈黙を催促と受け取ったのか、再び話を続けた。
「僕でも自分の名前がどんな意味を持つかくらい判断出来るさ。僕は僕として、一人の人間として、イザナギの学生でいたい」
「ははぁ、読めたぞ」
「は? なんだよ気持ちわりぃな」
それまで静観していた凛が突然会話に割り込み、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。
匠間はいまいちわかっていない様子で凛の方に向き、眉を顰める。
「匠間には一生わかんないよ。匠間が持ってるものは誰もが持ってないから。……ようするに、大人に頼めない理由は一つ」
ぴん、と人差し指を立て、もったいぶるかのように溜めを作った後、ナズナを真っ直ぐ見据えて言う。
「友達が欲しいんでしょ?」
ナズナは顔を伏せ、寂しげに微笑んで弱々しく頷く。
「……君はズバリ言うね。そうだよ、友達が欲しいんだ」
緩く握られた拳に力が込もり、消え入りそうな声で、言葉を紡ぐ。
「僕には同年代の知り合いはおろか、親しい人間は兄だけなんだ。だから、その……僕の護衛と言う名目で、側にいて欲しい」
「……金で契約する友達関係なんざ録なもんじゃねぇぞ」
「だ、だって、僕には分からないんだ。外に出る事だって怖くて仕方なかったんだ。今だって、本当は怖いさ。人との会話なんて、必要なかったんだから」
匠間の鋭い視線に、おろおろと狼狽するナズナ。
本当にわからない、と言った様子でしどろもどろに答え、視線から逃れるように俯き、黙り込む。
酷く怯えた様子で震えるナズナから視線を外し、匠間はため息を吐いて後頭部に手を添える。
似ている。
ナズナは出会ったばかりのあの頃の、人の心配ばかりしている心優しき少女に、酷く似ている。
―――こりゃ、ほっとけねぇな。
匠間は薄く笑い、もうひとつため息を吐いた。
「……どうするの? 匠間?」
「……裏はねぇと思うが、念の為聞く。俺達と友達になりたくて近付いたってのか?」
聞かずとも答えは決まってるでしょ? と言った副音声を含めて、凛は匠間に問う。
それはついていく、と凛の意思表示でもあった。
それを理解した匠間は最終確認の意を込めて、再度ナズナに問いかける。
「『七天』主催のセレモニーに参加しない生徒なんて聞いたことがなかったし、見たこともなかった。君達のやりとりを見ていたら、まだうんと小さかった頃を思い出すんだ。兄に手を引かれて、一緒に遊び回ってた頃を」
それはまだ、何もかもが光に満ちていた時。
苦しいなれど、そこには心を満たす何かがあった。
今はもう、二度と戻ることはないけれど。
「……まぁ、なんだかんだ、付き合い長いしな」
「そうそう、突き合って何年も経ってるしね。もう激しくて激しくてあたしゃ相手がたいへっと待ったそれなしホント割れるからぁぁぁぁぁぁぁっ⁉」
風を切る音とともに、ごつい掌が凛の額をがっつりと掴み、頭蓋骨を砕く勢いで指先がめり込んでいく。
もはや小言すらなくなった匠間は、粛々と凛に制裁を下す。
それをナズナは羨むように見つめ、寂しそうに笑った。
「……ホント仲良いね。羨ましいよ……」
何がだよ? と言いたげに睨む匠間に、ナズナは胸の前で小さく手を振って首を振り、小さく微笑む。
「いや、他意はないよ。本音同士でぶつかりあえるって、僕には到底出来ないからさ」
「俺に遠慮する必要はねぇぞ。凛と同じ言動するなら話は別だが」
「凛ちゃんの美顔に傷がぁぁぁぁぁ! 責任取って嫁にしろ養えー!」
「うるせぇよ。家事全般ほぼ俺だろうが。なんでお前の分まで俺が洗濯せにゃならんのだ」
「下着は洗ってくれないじゃんかー! どうせ見てないところでくんかくんかすーはーすーはーして、あああああごめんなさいもうやめてぇぇぇぇぇ!」
「だったら言うなっつーのぉ……っ!」
「らめぇ! 壊れちゃうのぉ! 嘘冗談あんぎゃああああああああああああああああ!」
匠間のアイアンクローを受けつつも尚、よからぬことを散々口走る凛を黙らせるべく、本気の力が手に込められた。
凛は喚き散らしながら手足をばたばた暴れさせていたが、やがてだらんと四肢を力なく投げ出し、、完全に沈黙した。
「……いつもこうなの?」
「だいたいな。見ての通り俺はいつも疲れるんだ……よっ!」
苦笑するナズナに答え、動かなくなった凛をぺいっと畳の上に転がす匠間。
怪我しないように優しく転がす辺り、匠間の優しさが垣間見えるものだが、凛の行動を見る限り同情の余地はないと見える。
「……楽しそうだね。僕もこんな風になれるかな?」
「や、こうなられると俺の体が持たん。普段通りでゆっくり慣れればいいんでね?」
ぐったりと横たわる凛を見つめ、楽しそうに微笑むナズナ。
本気でこうなられてはかなわん、と匠間は割と本気でそれを拒絶する。
これ以上ストレスの元を増やされてはたまったものではない。
そう言いたげに、濁った目が更にドロドロと濁ってナズナに向けられている。
「そっか。それで、報酬の話だけど……」
「いらんっつったろ。凛からも一応、生活費としていくらか入れてもらってるし、そこまで金に困ってねぇよ」
「そ、そっか……」
と、そこでナズナがもじもじと小刻みに体を揺すり、落ち着きなく視線を泳がせる。
恥ずかしそうに頬を染め、伏せ目がちに匠間をちらちらと見上げている。
匠間は眉間に皺を寄せ、訝るようにその仕草を注視する。
生理現象ではないなと失礼なことを思いつつ、何か言いたいけど言えないのであろうな、と察した匠間は、とりあえず何か聞いてみる。
「……なんだよ」
「……すっごく言いづらいんだけど」
「んだよ。聞くだけ聞くから早く言え」
「ここに、住んじゃダメ、かな?」
「……は?」
「なんですと⁉」
突拍子のない話に、目を丸くする匠間と、旅立っていた筈の凛までも飛び起きる。
ほぼ初対面に等しい匠間達に、いきなり何を頼んでいるのか。
そこそこ交流のあるアキナならまだしも、出会って数時間しか経っていない少女を、安寧の場所である寝座に住まわせる。
この意味をわかっているのか定かでないが、ナズナは言いづらそうに俯きながら、か細い声で会話を続ける。
「研究所に寝泊まりしてたから、家と言う家がないんだ。それで、研究所なんだけど、実験に失敗して吹っ飛んじゃったんだ」
「で?」
「……お恥ずかしながら、家がなくて」
匠間の冷たい視線から逃げるように顔を背け、萎縮してしまうナズナ。
叡智の神とも謳われた人物が、一人の少年―――それも、落ちこぼれと蔑まれるFランクの人間を頼り切っている。
頼ろうと思えばいくらでも伝手はあるであろうに、そうしようとしない。
理由があるにしろ、それを強引に聞き出すのはよしとしなかった匠間は、がりがりとめんどくさそうに頭を掻き、鼻からふすーっ、と息を吐き出した。
「……知り合ったばかりの野郎の家に転がり込む気かよ。ちっと無防備すぎんじゃねぇか?」
「んー。私はいいけど……ここの家主は匠間だしね」
ちらりと凛に目配せする。
凛は一瞬考える素振りを見せるが、すぐに匠間に視線を戻し、任せると丸投げする意を見せる。
「はいそうですかって頷けねぇわな……。つっても、どうしたもんか」
がりがりと頭を掻き毟った後、暫しの間沈思黙考する匠間。
固唾を飲んで見守るナズナとは対照的に、どうするかもう分かっている凛はごろりと寝返りを打ち、畳の上でぴこぴこ足を振って遊んでいた。
「あー……まぁ、いいや。家事はできるか?」
「僕は研究に没頭してた人間だよ? できるわけがないじゃないか」
「ドヤ顔で言われると腹立つな……。まぁいいや、細かいルールは追い追い説明するわ。住むんだったら衣類とかねぇと困るぞ」
「何着か白衣の予備があるから大丈夫かな? あ、下着がないかも」
「……まぁ、一ヶ月風呂も洗濯もしねぇんだったら、買い物もいかんわな。しゃーねぇ、おい凛、買い出し頼む」
「あいあいさー。あれ、匠間は行かないの?」
「なんで俺が女の下着を買いにいかにゃならんのだ。悪いが頼む」
「ほいなー」
言うや否や、そそくさと支度を始める凛と匠間。
本当に住めると思っていなかったナズナは目を丸くし、暫し二人の行動をぼんやりと眺めていた。
理由は包み隠さず話したとは言え、赤の他人を自分の安らぎの場所に起き、家族として迎え入れる。
事の重要性を理解していただけに、こうもとんとん拍子に話が進むと呆気に取られてしまう。
「い、いいの本当に? こんな簡単に決めて……」
「それをあんたが言うかね? ……いいも悪いもこれからずっと野宿でもすんのか? お偉いさん方に頼めねぇ理由も大方予想つくし、生活費さえもらえれば別に構わん。幸い部屋は拡張する予定だったしな」
工具と思しき機材を押入れから漁っていた匠間が、一旦そこで話を区切って普段着に着替えている凛を見やる。
ちなみに凛は匠間の前であろうが、平気で下着姿でうろつくので、匠間も見慣れている為なんとも思っていない。
「ん? なんであたしを見るかね。あ、いやんえっちぃ。この可愛いお尻に見とれてたなー?」
「うっぜ。お前が毎日入り浸ってるから部屋作ってやろうって言ってんだよ。つかなんだよお前の家。ゴミ屋敷かっての」
「あたしに生活力を求めるのが間違いだよー。ぜーんぶ匠間がやってくれてたしね! ビバ! ニート!」
「……こうならんようにあんたはしっかり教えてやるよ」
高々と腕を突き上げ、何かを宣言するかのようにしたり顔の凛を無視して、匠間は疲れきった表情をナズナに向ける。
元々覇気のない目に、どんよりと陰が込もっているように見えるのは果たして気のせいだろうか。
匠間の伝えたい事が十二分に理解出来たナズナは、苦笑を浮かべて小さく頷いた。
そうしている間にも、凛はパンツ丸出しでジークなんちゃらと猛々しく吠えていた。
三回繰り返した所で匠間の手刀が延髄に炸裂したことは言うまでもない。
「君も大変なんだね……あ、裁縫だけはできるよ。兄がしょっちゅう服をボロボロにしてたから」
「おい聞いたか凛。裁縫できるってよ。裁! 縫! できるってよ!」
「あーあー聞こえない聞こえなーい。あ、あたしだって薪割りと特売品調達できるもん! 役立たず返上だー!」
「あっそ。で、それ以外は?」
「夜のご奉仕?」
「いい加減本気で落とすぞ?」
くねっとしなを作って誘惑するかのような態勢を取る凛に向かって、匠間は笑いながら指をベキベキと鳴らす。
凛は冗談ダヨーと笑いながらそそくさと退避して、着替えを続行する。
匠間が疲れきったため息を吐いたところで、ナズナが思い出したかのようにぽむ、と握った拳を掌に打ち付ける。
「そういえば、学院はいいのかい?」
「軍から連絡が行ってるだろうし、大丈夫だろ。セレモニーなんざかったるくてやってらんねぇし」
「そ、そうか……『七天』主催なんて滅多にないから、絶対参加だとばかり……」
「ほんとは出なくちゃいけないんだけどねー。匠間はこういった類のイベントに出た試しがないよ」
「つまり、君は不良と言うやつなのかい?」
「うっせうっせ。出たところで退屈なだけだろうが。それに俺が出ようが出まいがどうせ誰もわかんねぇよ」
自分のランクの低さを揶揄しているのか、自身の存在の価値を正しく理解している匠間の言葉に、ナズナの表情が少しだけ歪む。
悲しげに細められた二つの瞳が、匠間にまっすぐ注がれる。
匠間はナズナの言わんとする言葉を予想したのか、めんどくさそうに頭を掻き、小さくため息を吐いた。
「君だって、僕だって、生きているんだ。そんな、自分が無価値みたいな言い方はやめてくれよ。……悲しくなるじゃないか」
「同情で生きてられるなら、この世界はもっと違った形になってるだろうな。やれるかやれないか。ランクじゃねぇ、生きる為には力がいる。それこそ、人が決めた囲いなんかじゃ決められねぇよ」
「……僕の記憶が正しければ、過去そう言ってた人がいたね。もう随分前の事だし、その本人は戦死したんだけど」
「へぇ、気が合いそうだな。生きてるうちに会いたかったぜ」
軽い調子で相槌を打つ匠間の、工具を漁る手が次の一言でぴたりと止まる。
「『剣聖』と謳われた凪 斎心。彼はそれはもう、とても強い人でね。僕は密かに憧れてたんだ」
『剣聖』。
その単語が出た瞬間、匠間の表情が一瞬だけ強張る。
微弱な空気の変化を感じ取った凛が、固まった匠間の背に怪訝の目を向ける。
『剣聖』を知らぬものは、恐らく世界中を探してもいないだろう。
聖天の戦―――聖戦を戦い抜いた伝説の英雄の一人。
浄化の巫女と共に、蝕む者の本拠地である地下世界に潜り、激戦の果てに命を落としたと語り継がれる、伝説の剣士。
聖戦より時が経つ今でも、未だ彼を越える剣士は世界に存在せず、魔術師、果ては軍人までもが彼を目標に剣の道を進んでいる。
匠間もまた、彼の伝説は知っているはずなのだが……。
「……は、『剣聖』って、伝説の英雄じゃねぇか。俺と同じ考えを持ってたなんざ意外だな」
「全部が同じじゃないとは思うけど、そうだね。君は、彼に似ている。彼じゃないけど、とても似ているよ。もっとも、彼はこんなに腐った目はしてなかったけど」
そこで、ナズナの柔らかな視線が匠間の背中に向けられる。
背後からむず痒い視線を感じた匠間は僅かに身じろぎし、首だけで振り向いて、ナズナに半眼を寄越した。
「腐ってんじゃねぇ、濁ってんだよ」
「否定するとこ違うでしょ。それに匠間が英雄なんて……片腹痛いわ! 英雄が特売品を血眼で求めてたまるかってんだ!」
「どの口でほざくか! 誰のせいで食糧難になってると思ってやがる! 米10キロが一週間でなくなるとか笑えねぇんだぞこっちは!」
くわっと目を見開き、心の底から否定の言葉を放つ凛に、主夫である匠間が顳顬に血管を浮き上がらせて声を荒げる。
その細い体のどこに入るのか、と目を疑いたくなるほどの大飯食らいである凛の食料消費量は半端ではなく、匠間の悩みの種のひとつでもある。
外食しない分まだマシだが、それでも食費でかなりの金額が瞬く間に飛んでいく。
仕事の斡旋をしてもらい、結構な金額を報酬として貰っているので困ることはないのだが、きっちりと生活費を決め、その中でやりくりしている匠間にとっては家計は常に火の車であった。
無論、そこで楽して妥協したことは一度もないのだが。
食費に関しては遠慮のない凛だが、自分が欲しいものや、必要なものはきちんと自分のお金で購入しているし、生活費もしっかりと収めているので匠間としてもそこまで口喧しく言わないでいる(食は生活で最優先すべきことと思っている為)。
「……まぁいいや。俺は今から部屋の改造すっから、ナズナを頼むな」
「あいさ。って、そういえばナズナって本名で呼んでていいの? まずいんじゃない?」
「ああ、そうだね。僕の偽名はリゼ・アイラだよ。リゼって呼んで」
「あいあい。じゃあリゼ、行こっか。匠間ー、一人で大丈夫なのー?」
「他人がいたらかえって邪魔だ」
身支度が済んだところで、早速買い出しに出かけようと玄関に向かう途中、凛がごそごそと部屋の増築の準備に取り掛かっている匠間の背に話し掛ける。
匠間は作業の手を休めず、背中越しにひらひらと手を振って、それに答える。
その背中から真剣さが感じ取れた凛は、茶化すことなくそっか、と小さく頷いて微笑む。
「んじゃ、行ってきまーす」
「買い食いすんなよ。リゼ、こいつが散財しねぇかしっかり見張っててくれよ」
「あはは……うん、分かったよ。それと……ありがとう」
「気にすんな。今更一人増えようが二人増えようが対して差はねぇ。んじゃ、気をつけてな。あ、それと凛。いるもんあったら家寄ってこいよ?」
「ん? あそこには何も置いてないから寄ることないよ。ラブリーでキュートな部屋をお願いね!」
ばちこーん! とウインクする凛に、匠間は絶対零度の眼差しで白けた視線を無言で送りつける。
ぶーぶー文句を垂れる凛は、苦笑を浮かべたナズナに背中を押されながら匠間の家から出て行った。
二人が出かけた後、静まり返った部屋をぐるりと見渡し、ひとつ頷く。
「さってと、気合入れて仕事しますかねっと」
◇
場所を移し、イザナギ高等魔術医療施設の個室。
窓から見える街の風景を眺め、絶対安静中のハルナ・アルフォードは深いため息を吐く。
『七天』来訪により、活気づいてる街の様子がより一層ハルナの心に影を落としていく。
「……『七天』が来ているのに、私はこの体たらくか」
街の中心部、今頃学院では『七天』主催のセレモニーが行われてる真っ最中だろう。
本来であればハルナも参加し、『七天』を間近で拝見出来るまたとない機会であったというのに、今の自分はベッドに横たわり、あちこちギプスで固定され、まともに動くことさえままならない状態。
もう一つため息を零し、掌の中に収めていた赤銅色の指輪に視線を落とす。
「もうすぐ、もうすぐだから。待ってて。私が守るから」
決して離すまいと、強く指輪を握り締め、祈るように額に握った手を宛行う。
「―――誰?」
気配を感じ、素早く入口に目を向ける。
ハルナが気付くとほぼ同時に、控えめに扉が開かれ、軍服を纏った男が静かに入ってくる。
男は警戒するハルナに腰を折って一礼し、柔らかく微笑んだ。
「失礼。ハルナ・アルフォード嬢でお間違えないですか?」
「そうだけど、あなたは?」
「申し遅れました。第弍師団所属、藤 鴻平と申します」
鴻平と名乗る男は簡潔に自己紹介し、再び一礼する。
鴻平の名を耳にしたハルナは目を見張り、すぐに警戒を解いた。
「ロシア支部、盾の守護者……かの有名なお方にお会い出来るとは、光栄の極みです」
「いえ、恐縮の限りですが、私など恭介隊長に比べればまだまだ未熟です」
苦笑し、謙遜する鴻平だが、第壱師団隊長を勤める一之瀬 恭介と同様、数々の修羅場をくぐり抜けた歴戦の軍人の一人。
彼の特徴は、顔にある二つの爪痕と、右目から頬にかけて残る傷跡。
動物の尾を連想させる腰よりも長い束ねられた茶髪。
鷹のように鋭い眼光は、隊長としての威厳と雄々しさを物語っている。
ハルナは人目見ただけで、鴻平がどれだけの戦を重ねてきたのか瞬時に理解する。
例え全快した自分が全力で挑んだとしても、彼を倒すことは不可能だろうな、と一人納得する。
最も、鴻平は盾の守護者の二つ名通り、守る戦いに長けた軍人、無意味な争いはしないことはハルナも知っていた。
「私ごときに対して敬語はやめてください。私は鴻平隊長がどのようなお方だとは、噂で聞いておりますから。どうぞ、こちらに掛けられてください」
「それでは、お言葉に甘えて」
ハルナは柔らかな微笑みを浮かべ、入口で棒立ちしている鴻平に向けて、ベッドの脇にある椅子を手のひらで指し示す。
鴻平は促された椅子に腰を降ろし、んん、と咳払いして改めて口を開く。
「入院中すまないが、大事な要件があってね。正直に答えて欲しい」
「私が答えれるものなら」
鴻平からの真っ直ぐな視線を受け、ハルナも姿勢を正し、檜皮色の瞳に視線を合わせる。
鴻平は無言で頷き、ほんの数秒だけハルナの固定具だらけの体を見つめる。
言葉にする事が憚られると言った様子で顔を歪め、苦々しく本題を切り出した。
「君は旧市街跡地で選抜試験を受けていたね?」
「……はい、結果はもう、ご存知ですよね?」
「君はそこで、何を見た?」
「雷獣……ですね」
「俺が聞きたいのはそこじゃないんだ。一体誰が、どうやって雷獣を葬った? しかも、跡形もなく完全に……だ」
「私は、お恥ずかしながら、気を失っていたので……」
ハルナが口を閉ざすと共に、病室に静寂が訪れる。
この件について、ハルナは事情を聞きに来た軍人、教員にありのままを何度も話している。
雷獣の雄叫び、白く包まれた世界。
そこまでは記憶している。
しかしその後は意識を完全に手放してしまっている為、その後の事については一切関知していない。
ハルナにしてみれば、本当に知らない事を話せと言われても無理な話だと何度も丁寧に説明している。
しかし、鴻平の質問は今までとは少しばかり意図が違うように感じる。
そこにいたかもわからない何かをはっきりと追求している。
檜皮色の鷹の瞳は一切の機微を見逃さず、未だ見えない真実を見据えている。
そこでハルナはある疑問が浮かび上がる。
確かに不可解な点がいくつもあるが、何故軍がそうまでして追っているのか。
Aランクとは言え、たった一人の魔術師の為に、隊長格である鴻平が蝕む者の被害が深刻な筈のロシア支部を離れ、戦力の整っている日本国を訪れている。
―――何が起こっている?
言いようのない疑心感に、ハルナは俯き、黙考する。
「何度も聞かれて気持ちのいい事ではないと思ってる。だが、これは君の妹にも関わる事なんだ」
「アキナに? どう―――」
不意に出た肉親の名にハルナは弾かれたように顔を上げるが、何事もなかったのように装い、次の句を滑らせる。
「私には関係ない事ですけれど、私は何も知らないんです。見てないものを話す事なんて不可能でしょう? 虚偽の報告をしたとしても、私には何のメリットもないのですし」
「……隠している訳では、ないか」
ハルナの一瞬だけの反応を見逃すはずもない鴻平だが、敢えてそこには触れず、目を伏せて小さくため息を吐く。
「卑怯な手口を使ってすまない。だが、これだけは君に伝えておく。これは軍だけに走っている情報だが」
視線だけで周囲を伺い、鴻平は静かに息を吐く。
突然の前置きに、ハルナは訝しげに鴻平を見つめる。
一体これから何を話すつもりなのかと。
頭の中に警鐘が鳴り響く。
今までの会話からすると、十中八九厄介事しか残っていないだろう。
ハルナは知っている。
白霧の尾根での事件を。そこにアキナ・アルフォードが居合わせていたことを、知っている。
そして今朝、病室の前に絶対に見間違える筈のない、お手製の回復薬が置かれていた。
冷静を装おうとすればするほど、最悪の方向へ思考が向かっていく。
「君の妹に異端審問がかかってる。近く、第陸師団が動くはずだ」
まさか、まさかアキナが。
そんなはずはない。何度も否定し、不安を打ち消したハルナに突き付けられた現実。
吐きそうな程に襲いかかる嫌悪感を堪え、ハルナはどうにか鴻平と目を合わせる。
「……それで? 落ちこぼれがどうなろうと、私には全く無関係の話ですけれど」
「……本心でそう言っているのか?」
鴻平の顔が歪む。
ハルナは毅然としているつもりなのだが、鴻平から見たハルナは、今にも崩れ落ちそうな儚さを持つ、硝子細工の人形にしか見えていない。
何が彼女をそうさせる―――鴻平は内心で強い苛立ちを覚える。
表面には出さず、あらゆる人間を見てきた鷹の目は、眼前の少女をじっと見つめ続ける。
「ええ、勿論です。イザナギに所属する以上、実力がなければ弾かれるのは当然でしょう?」
「そうか。なら、君の妹が追放ではなく、処刑されても無関係と言うことでいいんだな?」
「……それが摂理なら、仕方ないでしょうね」
「……君も、結局変わらないのか」
僅かな沈黙の後、吐き出された答えに鴻平は目に見えて落胆する。
伏せられた瞳に浮かぶものは、諦観。
「何がですか? 軍人が情に流されるなど、もっての他ではないのです?」
鴻平の言葉を侮辱と取ったハルナは、目を細めて鋭い視線を鴻平に向け、口調を荒げる。
ハルナの怒りを感じ取った鴻平は徐に顔を上げ、愚直なまでに真っ直ぐな、強い意志を宿した双眸を向ける。
「……ああ、俺は軍人だ。だがそれ以前に人間だ。俺はこの世界のシステムが嫌いだ。なぜ弱い人間を守らない? なぜ力を持つものしか生きてはいけない?」
「そんなもの、私に聞かれても答えようがないじゃないですか。それが常識として成り立っているのですから」
「なぜ疑問に思わないんだ。おかしいと思っていても、否定してるんじゃないのか? これが当たり前だ、当然だと。俺には理解出来ない。本当に力を持つものだけが生き残るのであれば、俺たちと蝕む者……何が違うと言うんだ? 心まで失くしてしまえばそれこそ、人間は化け物と変わらないだろう」
「……ロマンチストなんですね、あなたは」
この冷徹で残酷な世界で、鴻平は己を貫き通し、真っ向から常識を否定している。
それが正しい事なのだと刷り込まれている今の人間にとって、鴻平の言っている事は異端に思えるだろう。
しかしハルナもまた、その常識に流されながらも抗っている。
だがどうにもならない現実を知っているからこそ、ハルナは行動する。
それが唯一の方法と信じて疑わない。それしか道が無いと分かっているから。
鴻平は違う。
濁流に飲まれながらも、前へとひたすら突き進んでいる。
彼の言葉は理想論でしかない。だが、彼はその理想を実現すべく、軍の隊長格まで上り詰めている。
ハルナは鴻平と自分を重ね合わせ、鴻平の駆け抜ける様と、自身がその場で無様にもがく姿を想像し、俯いた。
なぜこうも違うのか。
それは自分が弱いから。
だがそれは、ハルナにとって決して認めたくない現実だった。
「戯言と聞き流してくれていい。俺は今までそうしてここまで生きて来たんだ。これからもそれは変わらない、変われない。今の話を聞いて、君がどう動くかは君に委ねる」
「……どうして、こんな事を?」
「俺は、人を守る為に武器を取った。勝手ながら調べさせてもらったが、君がなぜ力に拘るのか、それはたった一人の家族を守る為だろう? いや、それ以外考えられん。いくら邪険に扱っていても、君の行動を追えば追うほど、どれだけ妹を大切にしてるかはっきりとわかってくる」
「……それが、軍の意向ですか?」
本当にこの人は、人に優しく出来る人間なのだな、とハルナは思う。
暖かい眼差しが向けられ、居心地が悪くなったハルナは身動ぎし、話題を逸らすかのように呟く。
「これは俺の独断だ。本当にどうなってもいいのであれば、この事を軍に密告するなりするといい、そうすれば俺は処罰を受けるだろう。だが、君は助けるんだろう?」
ハルナは答えない。答えられないのだ。
軍に逆らえばどうなるかくらい、イザナギの人間なら誰しも理解している。
そして、動くと言う事は、自分が今まで無我夢中で追い求めてきた全てを捨てると言う事になる。
―――それでいいのだろうか?
ハルナは動けない。失うものが多すぎるのだ。
今までの全てが否定された。そしてまた、世界は残酷な現実を突きつける。
どうにもならない思いが溢れ出し、ハルナは頭を抱えて呻く。
「……あいにく、俺はこれ以上動けない。誠や恭介に頼んではいるが、それも限度がある。本当の意味で、君次第だ」
そう言い残し、鴻平は振り返ることなく病室から出て行く。
閉ざされた扉。静寂が包む病室で、ハルナはぽつぽつと呟く。
「アキナが……処刑……?」
心を支配するものは、絶望。
「どうして……? やっと、やっと辿り着いたのに……なんでよ……」
希望を求めて手を伸ばした先、光は見えなかった。
「私はどうしたらいいの? 誰か教えて……」
ぽろぽろと流れ落ちる涙。どうすればいいか、自分では分からない。
堪えきれない激情は、止めどなく流れ落ちていく。
また失ってしまうのか。
失いたくない。けれど、自分はどうすればいいか、どうすべきか分からない。
ハルナは声なき慟哭を上げ、泣き崩れる。
絶望に囚われた少女の元に、それは姿を現した。
「妹を助けたいかァ?」
「……っ、誰⁉」
突如かかった声に、ハルナは面をあげて臨戦態勢を取る。
声の主は狂気を孕ませた笑い声を上げ、ゆっくりとハルナの元へと歩み寄っていく。
「誰だって良いだろォ? 妹を助けたくないのかァ? 今まで必死で守ってきた大事な大事な宝物なんだろォ?」
「……第参師団が動いてるのなら、今更足掻いたって……もう……」
「くひっ……そうだなァ、普通なら手遅れだよなァ? だが、助かる方法を俺が知っているとしたらァ?」
謎の男は唇を三日月に歪め、蛇のように細長い目を更に細めて、ハルナに顔を近づける。
本来のハルナであれば、この時点で働きかける警告の鐘に気付いて即座に行動していたであろう。
しかし、今はそんな余裕は欠片も存在していなかった。
男は怯えるハルナを舐めるようにじぃっと見つめ、くひっ、と不快な笑い声を漏らす。
「……私には、関係……」
「俺は一行に構わないぜェ? お前のつまンねェ意地で妹を見殺しにしたとしてもよォ」
「―――ッ!」
男の言葉で、ハルナに動揺が走ったことは目に見えている。
男はハルナの反応を、ハルナ自身を玩具のように見立てて楽しんでいる。
頭を抱え、小刻みに震えるハルナを見つめる男の唇は快楽で歪んでいた。
「ひひっ……さァ、どうするゥ?」
「……どう、すれば、いいの?」
正常な判断能力を失った少女に囁かれる、悪魔の囁き声。
今のハルナにとって、救いの手はそこしかない。
藁にもすがる思いでハルナは差し伸ばされた手を取る。
それが深淵へ誘う闇の入口だったとしても。
「素直な奴は嫌いじゃないぜェ……くひっ、ひゃははははは!」
男は狂ったように笑い、絶望に打ちひしがれるハルナを見下ろす。
「なァに、簡単だァ。お前は―――」
そして大きく弧を描く唇から、奈落への招待状が言い渡された。
◇
「あ? 軍の動きが怪しいだと?」
「ギルがそない言うてはったわ。なにしとん、自分」
匠間と和服姿の女性は、何一つ視界を遮るもの無き灰色の世界で会話している。
そこに存在するものは匠間と、少女とその背後にぽつんと浮かぶ漆黒の鏡のようなもののみ。
ひとつだけ分かる事は、ここが匠間の自宅ではない事。
異世界とも思える空間に浮かぶように立つ匠間は、少女の咎めるような視線を受け、ばつの悪そうに頭を掻く。
「学院絡みじゃねぇ、十中八九軍だな。めんどくせぇ奴に目をつけらちまったみてぇだし」
「自分、もしかして勘付かれたとちゃうんか?」
「いや、そこまではわからねぇだろ。とはいえ、いらん疑いがかかってるのは事実だしな。最悪拘束されて尋問コースかね」
睨むように目を細める少女に、匠間は肩を竦める。
なにやらご立腹のようだが、匠間はさして気にした様子もなく、普段通りの口調で少女に返す。
「んな甘い話やあらへんよ。異端審問がかかっとるで、自分ら」
「らって、俺の他に―――」
言葉にする前に頭が答えを導き出した瞬間、匠間は少女を無視して鏡に向かって駆け出した。
「待ちぃや!」
それを遮るように少女が眼前に立ち塞がり、匠間を押し返そうと肩を掴む。
匠間は構わず鏡に向かおうとするが、掴んだ手がそうはさせまいと力が入っていく。
匠間は短く舌打ちし、鋭い視線を向けてくる少女を三白眼で睨みつけ、肩を掴む手を振り払おうと掴み返した。
「俺以外に疑いがかけられるなら! 凛とアキナ以外いねぇだろうが!」
「闇雲に動いてもどうにもならへんやろ! ちったぁ頭冷やし!」
少女の剣幕に押されたのか、匠間が動きを止めて掴んだ手を離す。
聞き入れてくれたか、と少女がほっと胸を撫で下ろし、肩から手を離した瞬間、背筋がぞわりと粟立った。
「オイ、どこだ」
普段凛に見せる怒りの表情とは掛け離れた、憤怒の表情。
低い声で少女に言い放ち、全身から殺気を撒き散らす。
答えねばどうなるか。匠間は言葉にせず態度でそれを示した。
恐らくこの少女は二人がどこにいるのか、どうしているのかを把握している。
知った上での行動と悟った匠間は、強い焦燥感を表面に滲み出しつつ、少女に対し敵意を剥き出しに脅しに近い対応を取った。
「知ってんだろが。言え。言わねぇんならお前でも容赦しねぇぞ」
「たかが小娘二人にえらい執着しとるようやけど、自分、目的忘れたんか?」
「たかが、だと? もっぺん言ってみろ。その首斬り飛ばすぞ」
緊張が極限まで高まり、まさに一触即発の状態で睨み合う二人。
緊張が破裂する前に折れたのは少女の方だった。
睨み付ける匠間から目を逸らし、深々とため息を吐く。
少女の行動にも匠間は身動ぎ一つせず、ただ無言で見つめていた。
「……あの時も、そんな目しとったな。今のあんたは昔と違う。今の自分と、自分の状況を理解した上で事を起こすゆうことがどうなるんかは、わかってるんやろな?」
「俺は俺の生き方を曲げるつもりはねぇ。そうあいつにも約束したんだからな」
迷いも淀みもなく言い切る匠間に、少女はもう一度深いため息を吐く。
少女の漆黒の瞳には、悲しみと諦めの色が強く滲み出ていた。
どうしてこの男はこうも我が身を省みないのか、と内心で愚痴を零しながら匠間に再び目を向ける。
「あんた……自分を見てる人間の気持ち、少しは考えてたりいな」
「俺がどうなろうが世界は変わらねぇ。だが、あいつとの約束を果たすまでは、死ぬつもりは毛頭ねぇよ」
「そう言うことやないんやけど……ん? なんや……バーンズからや。はいはい、どないした?」
普段の口調と覇気のない目付きに戻った匠間は、もはや決まり文句となってしまった台詞を口にする。
少女は呆れ果てたように目を細め、視線だけで咎める。
この男は一度言い出したことは頑として譲らない事を嫌という程見てきているからだ。
と、そこで少女のネックレス型の魔術媒介兵装にコールがかかる。
少女は一旦会話を切り、魔術媒介兵装をちょいちょいと操作して通信先の相手とやり取りを始めた。
しかし数秒も立たないうちに少女の整った面持ちが激しく歪む。
「……は? ハルナ・アルフォードが病院から消えた? ちょちょ、何しとん自分。任せろゆうてうちをこっちにやったんやなかったんかい!」
「性悪女?」
少女の口から出た聞き覚えのある名前が出ると同時に、匠間もまた眉間に皺を寄せて首を傾げる。
匠間に異端審問がかかり、それに関連する凛やアキナが関係者として疑われるのは納得がいく。
しかしハルナは選定試験での負傷で現在入院中のはず。
Aランク魔術師とは言え、わざわざ監視を回す必要もないだろう、と匠間は訝しげに少女を見つめる。
「はぁ⁉ ぐちゃぐちゃ言い訳すなや! 後できっちり締めたるさかい、覚悟しときや!」
匠間の疑問を他所に、通信先の相手に凄まじい剣幕で怒鳴りつけている少女は相手に有無も言わさず通信を切り、深く嘆息して掌で顔を覆う。
「ったくあのドアホ……なんで肝心なとこいつもいつもやらかすんや……」
「どこだ?」
ピクリと少女の肩が跳ねる。
ゆっくりと掌を顔から離し、不機嫌そのものの目付きで匠間をギロリと睨み付ける。
「あんた、さっきの話聞いとったんか? 自分から虎穴に飛び込んでどないする気や」
「正直あの性悪女は気に食わねぇが……アキナの家族だ。見捨てる訳にはいかねぇ」
「……しゃあないな。ちょい待ち」
こうなった匠間は梃子でも動かない。
それを理解している少女は、根負けしたかのようにがっくりと肩を落とし、不承不承と言った様子で目を閉じ、感覚を研ぎ澄ましていった。
その直後、水面を走る波紋のように黒い靄が疾走する。
やがて波紋が見えなくなり、お互い無言の時間が数秒続いたところで、少女がすっと目を開き、薄く微笑んだ。
「―――めっけ。って、軍の施設に向かっとるんか? アホちゃうかこのコ」
「悪いなクロ、助かる。場所さえわかりゃ、後は俺がやる」
匠間はやっと名指しで呼んだ少女の肩を叩き、微かに微笑んだ。
少女は憮然としながらもそれを受け止め、すっと半身を引いて鏡への道を空ける。
そして無言で鏡に向かう匠間の背中に、クロと呼ばれた少女は最後の忠告を飛ばす。
「ヘタ打つなや? うちもサポート出来るようにはしとく」
「サンキュー。さてと、お姫様奪還と行きますかね」
匠間は忠告を振り返る事なく、片手を上げる事で答え、鏡の中へと吸い込まれていった。
◇
「これはどう言うつもりかしら? ハルナ・アルフォードちゃん?」
「正面切ってここまで来れたのは褒めてやる。だがそれまでだ。てめぇ何考えてやがる」
黒煙立ち昇る演習場―――何人もの軍人が地に伏せている中で、カティと愁は殺気を漲らせ、対蝕神抗体兵装を構えてハルナと対峙していた。
狙撃体勢を取るカティ、迎撃態勢のまま引き金に指をかけている愁を制するように、ロングソードを肩に担いだ恭介が無言で一歩前へ踏み出す。
「ハルナ・アルフォード。お前ほどの実力者が、自分が今何をしているかわかってるよな?」
「わかってますよ。邪魔をしないでください―――加減しませんよ?」
言葉は不要、とばかりにハルナの魔力が一気に膨れ上がる。
恭介は咥えていた煙草を投げ捨て、腰を深く落としてロングソードを構えた。
「カティ! 愁! 手ぇ出すな!」
怒号を飛ばすと同時に大地を駆け抜け、ハルナ目掛けて風の如く疾走していく。
それを眺めていた愁は眉間に皺を寄せ、ぷはぁ、と紫煙を吐き出し視線を横へと動かす。
「おい馬鹿かあのオッサン。相手はハルナ・アルフォードだぞ?」
「何か考えがあるんでしょ。ここは恭介に任せましょ」
「……ま、いいや。サボれるし」
「こら愁、聞こえてるわよ」
対蝕神抗体兵装を降ろし、気怠そうに肩を鳴らす愁に、カティは半眼で睨みつけ、軽く肘で小突く。
愁はへいへい、とまたも気怠そうに返事し、恭介とハルナの戦闘に目を向けた。
「ハルナ・アルフォード! お前がやっていることは軍を、そしてイザナギを敵に回すって事だぞ! 指輪を手に入れたからと言って、力に溺れたか!」
「違いますよ。力に溺れるほど私は自惚れていない。もう一度言います。私の邪魔をしないでください」
魔術と対蝕神抗体兵装がぶつかり合い、激しい轟音を奏でる。
高速で飛来する炎の矢を躱し、重ねて襲いかかる氷の槍を剣を振るって叩き砕き、死角から放たれた風の刃を超人的な身体能力で難なくと躱し、恭介はハルナへと肉薄していく。
魔術を放つには発動に必要な魔力と時間、発動させる為の魔術回路を組み込む時間が必要がある。
魔術媒介兵装、ないし虚空に魔術回路を展開する。(後者は物を通さない、固定された軸ではない為、魔術回路を組み込むには相当高い技術と集中力が必要とされ、今では滅多に見ることは出来ない)
この時、発動する魔術の規模によって組み込む魔術回路の複雑さが変わってくる。
無論、魔術回路が複雑になればなるほど発動までに時間を要する。
そして組み上げた回路に魔力を注ぎ込むことによって初めて、魔術の発動が可能な段階に移る。
それは拳銃の弾倉に弾丸を込めると同等の行為に値し、いつでも引き金を引けば撃てる、と言った状態。
しかし、同じ魔術回路でも魔力の質と量が異なれば、魔術の威力は劇的に変わってくる。
Aランク魔術師のハルナが恭介相手に放つ魔術はどれも初級、最も低いレベルのもの。
逆を言えば、魔術師であれば、誰もが使える簡単で手軽に発動出来る魔術。
それゆえに、強い。
高速で魔術回路を組み上げ、断続的に放たれる魔術は流石の恭介でも舌を巻く。
ハルナが放つ火の魔術、火球の飛礫も一般的には当たっても障壁があれば軽い火傷程度で済むものなのだが、Aランク魔術師の魔力によって放たれた火球は厚さ十ミリの鉄板ですら容易く貫通し、溶解させる。
当たれば重傷は免れない魔術の雨にも臆せず、恭介は瞬きすら忘れて最小の動きで全て躱し、突き、斬り上げ、斬り下ろし、薙払いと角度を変え攻める速度を変えてハルナを猛襲する。
ハルナは続けざまに繰り出される斬撃を障壁で防ぎ、風の力でいなし、ひらひらと蝶が舞うかの如く回避し、追撃を許さぬ怒涛の勢いで魔術を放ち、恭介に隙を与えない。
攻めあぐねた恭介は短く舌を打ち、一旦距離を離して仕切り直しを図った。
「何が目的だ? こんな事やらかしたら、家族だってどうなるか―――」
「その家族を奪おうとしているのは! 貴方たちでしょう!」
対蝕神抗体兵装を隙なく構え、鋭い眼光でハルナを捉える恭介は、理由を問う。
軍の施設を強襲する。この事が軍を、そしてイザナギに対する宣戦布告だとは言わずとも理解している筈。
Aランクと言う高い評価を得ている実力者が、自ら処刑台に上がる行為を行うメリットは皆無。
あるとすれば周囲の期待に押し潰されて気でも触れたか、純粋に力を求め、破壊を求める戦闘狂のいずれか。
恭介はハルナを知らない。だが、数多の修羅場をくぐり抜け、磨き抜かれた観察眼は本質を的確に見抜いていた。
ハルナは力を得た者によく現れる、己の欲を満たす為だけに力を振るう傲慢な人間ではないと言う事。
そして強い決意を宿した真っ直ぐな眼をしていると言う事を。
だからこそ理由が分からない。
いくらハルナが優秀な魔術師であろうと、今この場にいる恭介、愁、カティは例えAランクとは言えど易易と倒す事は出来ない屈強な軍人。
何が彼女を駆り立てる?
探りを入れようと放った言葉は、思いの外ハルナに変化を齎した。
ハルナは悲鳴じみた怒声を上げ、内なる感情を体現するかのように両手に高密度の魔力を集中させた。
「……なるほど、鴻平が何か探ってると思ってたら、こう言うことか」
ハルナの魔力量に目を見張りながら、恭介は目を細めて小さく呟く。
「誰に唆された? こんな事すれば、余計に自分の首を絞めるだけだぞ」
「では言われの無い罪で処刑を実行する、それが軍の意向なのですか? 私を仕向けたのもどうせ貴方達なんでしょう?」
「何の事かさっぱりだが……その口振りだと裏で糸を引いてる奴がいるんだな? どうやらまんまと踊らされちまったようだが」
「何と言われようと構いません。事実、第陸部隊は動いているのでしょう?」
「それについては俺達も調査中だ。だから」
「だから何です?」
恭介の言葉を、怒りに震えるハルナが遮る。
両手に集う魔力の波が、荒れ狂うように増大していく。
「身を引けとでも? 失ったものは戻らないんですよ?」
そう、失ったものは戻らない。
あの日失った大切なものは、もう二度と戻らない。
大切な家族と、笑う事を忘れた自分自身は戻れないのだ。
「失う前に、守らなきゃ。私が守らなきゃいけないんです。たった一人の家族を……私からアキナまで奪わないでよぉ!」
絶叫とともに放たれた紅蓮の業火が、ハルナの気迫に押された恭介へと容赦なく襲いかかる。
恭介は寸での所で回避したが、炎の余波で衣服のあちこちが焼け焦げていた。
これには静観していた愁、カティにも焦りが生じ、すかさず援護態勢を取った。
「恭介!」
「押されてんじゃねぇか! オッサンが余裕こきすぎだ!」
「手加減出来んなこりゃ……骨の二、三本は勘弁してくれよ……!」
本気でこちらを消すつもりでいる。そう判断した軍人の動きは非情なまでに迅速だった。
ハルナの関節に狙いを絞り、狙撃態勢に移るカティ。
自動小銃型対蝕神抗体兵装の引き金を絞る愁。
凄まじい速度でハルナに疾走する恭介。
三つの驚異を滅ぼすために、更なる魔術を放たんとするハルナ。
四つの力が今まさにぶつかり合う刹那、四人の間に漆黒の颱風が吹き荒れた。
「ッ⁉」
「何だ⁉」
激しい突風を伴い、土煙を巻き上げ、突然現れた『影』に四人は驚愕する。
未知の装備を纏った人型の『影』は緩やかな動きで背中の日本刀の柄に手を伸ばし、やや前傾姿勢を取ったまま動きを止めた。
「黒い……影……? 人間、なのか?」
土煙が晴れ、視界が確保されたと同時に、その姿を捉えることの出来た恭介が『影』を凝視する。
「ありゃあ……刀? ―――おい恭介! 避けろ!」
「ぐぉっ……⁉」
続けて愁が姿を認識した瞬間、愁が逸早く危険を察知して怒声を上げる。
だがその声が恭介の耳に届く前に、恭介の体は紙切れのように宙を舞っていた。
「恭―――あうっ⁉」
「な―――うごっ⁉」
それを認識する間も無く、カティ、愁も弾丸のような速度で吹き飛んでいく。
地面に激しく叩きつけられ、勢いのまま転がっていく愁は、薄れる意識の中で一瞬だけ見えた現象に、激しく混乱していた。
あの『影』はたった一回の踏み込みで恭介に気取られることなく、いとも容易く懐に潜り込んでいた。
そして、刀の柄を握ったまま、吹き飛ばした。
吹き飛ばした直後、カティが吹き飛んだ。
そして瞬きすら許さぬ速度で自分の眼前に出現し、刹那の煌きと共に自身の体が宙を舞った。
それは一回の瞬きの出来事。
人間の限界を超えた速度。湧き上がる恐怖の感情。抗えない絶対の力。
愁は薄れゆく意識の中、悠然と立つ『影』を睨みつけ、ぎしりと歯を食い縛る。
「化け……モン、がっ……」
意識を手放し、がくりと地に伏せた愁から体を反転させ、『影』はハルナへと向き直る。
「あ……あ……」
ハルナはびくりと体を強ばらせ、ガタガタと怯え始めた。
『影』はそんなハルナに構うことなく、静かに一歩を踏み出す。
「いや……来ないで……」
知っている。私はこれを知っている。
ハルナの脳裏に、失ったあの日の映像が鮮明に蘇る。
「やめて……来ないで……」
『影』は答えない。
あの日と同じように、ゆっくりと、着実に忍び寄り、死神の鎌を振り上げる。
「うあ、あああ……あああああああああああああああっ!」
舞う血飛沫。木霊する悲鳴。蘇る痛み。
全てが恐怖で塗りつぶされたハルナは子供のように泣き叫んだ。
そして『影』は緩慢な動きで柄に手を伸ばし、研ぎ澄まされた白刃を鞘からゆっくりと解き放つ。
「待て! やめろ!」
片手剣型対蝕神抗体兵装を構えた鴻平が飛び込むように演習場に現れ、『影』へと風の如く疾走する。
だが『影』は鴻平が到達するよりも速く、幼子のように泣き、怯えるハルナに向けて白刃を振り下ろした。
「あ……うあ……アキ―――」
「―――ッ、貴様ァァァァァァァ!」
全身に走る鋭い痛み。舞い散る紅の花弁。緩やかに進んでいく世界。
暗く染まっていく意識の中、ハルナは最愛の妹の名を呼び、地面に崩れ落ちた。
その瞬間、憤怒に満ちた表情の鴻平が『影』に斬りかかった。
『影』は背後からの鴻平の斬撃を振り向くことなく後ろに刀を回して防ぎ、加速を乗せた一撃の勢いすらも片腕で完全に殺し、その場から微動だにせず悠然と佇む。
「なぜ斬った⁉ 彼女に罪はないだろう!」
鴻平の怒りの言葉に反応したのか、鍔迫り合いの最中、『影』がゆっくりと首をそちらに回す。
漆黒のバイザーの奥には何も映らない。ただただ暗い闇が鴻平を無言で覗き見る。
鴻平は全力を込めているにも関わらず、腕一本で押し返されている状況に顔を歪め、力任せに刀を弾いて後ろへ跳躍して距離を離す。
「―――⁉」
仕切り直し、そして一気に片を付けるつもりで踏み込んだ鴻平に戦慄が走る。
肌を焼く、放たれた殺気。そして剣を扱うもののみが感じ取れる剣気。
半身を捻り、片腕を前に突き出し、刀の峰を背面の腕と肩のラインにぴったり合わせて構える独特の構え。
『孤月衝』。かつて鴻平が見た、『剣聖』の剣技の一つ。
絶句し、硬直する鴻平に向かって『影』の腕が振り抜かれると、一陣の風が鴻平に向かって吹き抜ける。
「それは……剣聖……凪……」
『影』が納刀し、チン、と鍔鳴りの音が奏でられると同時に鴻平の腹部に一直線の筋が走り、乾いた音を立てて鮮血が吹き出した。
鴻平は意識を手放すまで『影』を凝視し、ごふっ、と口から大量の血を吹き出して膝から崩れ落ちた。
『影』は倒れた恭介、愁、カティ、鴻平へと順に首を巡らせ、ハルナへと向きを固定させる。
左肩から腰にかけて斜めにバッサリ斬られた傷からは夥しい量の血が流れていた。
薄い胸が弱々しく上下していることから、まだハルナが生存している事が確認出来た。
『影』は瀕死のハルナの胸元に手を伸ばし、そこから何かを毟り取った。
―――と同時に、首筋に細剣がぴたりと宛行わられ、冷ややかな声が『影』の動きを静止させた。
「動けばその鎧ごと、瞬きの間に消し去ってやるわよ?」
「おいたが過ぎたようねぇ。たっぷりとお仕置きしてあげる」
背後には迸る魔力を抑えようともしない『七天』のセリスとフィオナの姿があった。
Sランク魔術師の二人の目に映る、明確な敵意。
セリスは文字通り、動きを見せれば即座に魔術を用いて殲滅にかかるだろう。
フィオナも同じく、背中に固定してあったロッドを構えてじっと『影』の背中を睨みつけていた。
数秒の間の後、『影』の全身が小刻みに震え始めた。
セリスは眉間に皺を寄せ、妙な真似はするな、と細剣の刃を『影』の首筋に強く押し当てる。
刃先から伝わる感触から、防刃素材のものを着込んでいると分かり目を見張るが、そんなもの魔術の前では無意味、とばかりに空いている掌に魔力を集中させる。
やがて『影』からくぐもった笑い声が聞こえ始める。
笑うことを辞めると同時に、『影』は細剣の刃を片手でがっちりと掴み、背後のセリスとフィオナに振り向く。
刹那、ただならぬ悪寒に襲われたセリスが魔力を開放し、無数の光の矢を『影』目掛けて放射した。
セリスと合わせるように、フィオナも地を凍らせながら走る氷の魔術を放っていた。
『影』がいる地点に到達した氷は連なる巨大な氷塊を作り出し、光の矢は氷塊を砕きながら次々と『影』に降り注ぎ、轟音と共に土煙を巻き上げていく。
風に煙が流され、視界が晴れてきた所で二人は揃って絶句した。
凄まじい魔力によって演習場に大穴が開いているが、『影』の姿がどこにもない。
この距離では絶対に避けられまいと踏んでいたセリスとフィオナは僅かに狼狽するが、すかさず神経を研ぎ澄まして周囲を警戒する。
しかし、どこにも『影』の姿は見当たらない。
「逃げられた……ようね」
「あの状況で回避出来る魔術じゃない筈……それに、一体何が目的なの?」
ロッドを背中に固定し、フィオナは深いため息を吐く。
演習場に開いた穴を凝視しながら、セリスは悔しそうに歯を食い縛る。
あの『影』は一体何者なのか?
シエルから軍の演習場で何かあったらしいと聞き駆けつけてみた所、この惨状が目の当たりになった。
あの未知の装備で身を固めた『影』はどこから現れたのか。
謎は深める一方で、時間だけが風と共に過ぎていく。
「そっちは後回しだ! まずは負傷者を!」
シエルの声で我に帰った二人は一旦思考を切り替え、倒れている軍人達の治療へと行動を移した。
幸い死者が出るような深刻な事態には陥っておらず、軍人の大半が気絶しているだけであった。
『影』にやられた恭介達も気絶していただけであったため、苦しげに呻いているが次第に意識を取り戻していった。
軍人達の介抱をしていたセリスとフィオナを、シエルが巌しい表情で手招きする。
シエルは真っ先にハルナに駆け寄り治癒を施していたのだが、何かあったのだろうか?
イザナギ屈指の治癒魔術師である彼女がただならぬ様子でハルナを見つめている。
フィオナとセリスは無言で頷き、シエルのもとへと駆け寄った。
「シエル? 一体どうし―――⁉」
「見てわかるだろう。傷が全く塞がらんのだ。雷獣の穢気も完全に浄化されていない事はわかるが、これは明らかに雷獣によって汚染が広がったものではない」
駆け寄ったセリスとフィオナは、治療されているハルナの傷口を目にして目を見開いた。
ハルナの治療を施すシエルにはうっすらと汗が浮かんでおり、相当の魔力を治癒に注いでいることが分かる。
事実、あれだけ流れていた血は止まっている。
だが、止まっているだけなのだ。
ぱっくりと開かれた傷口は治癒の光を浴びているにも関わらず開かれたまま、塞がる気配は一向に見えない。
そして傷口からどす黒い靄のようなものがしゅうしゅうと蒸気のように立ち昇っている。
通常、治癒を受けた傷はたちどころに塞がり、見た目は完全に治療される。
だが穢気を浴びた傷口は汚染を広げ、浸蝕していく。
治癒によって進行を遅らせることは出来るが、穢気自体を浄化しない事には浸食は止められない。
魔術師は魔力を用いて毒となる穢気を少しづつ浄化する力はあるが、それは微々たるものであり、長い時間を要する。
短時間で浄化出来る力を持った人間はただ一人、『浄化の巫女』だけであるが、彼女はもういない。
だが人はいつまでも同じ場所に留まっていない。
軍の治療施設には、彼女の力には及ばないが、穢気を浄化する設備が整っている。
そのことを知るシエルは呆然と立ち尽くすフィオナ達に目だけを向け、飛びそうになる意識をなんとか保ちながら口を開いた。
「私は浄化専門ではない。これでは傷口が広がる事を阻止することしか出来ん。すまんが早く軍の医療班を呼んでくれ。このままでは命に関わる」
言われて二人は弾かれたように先程覚醒した恭介のもとへと駆ける。
顔面蒼白の二人は、背後で治療を受けているハルナの傷を思い浮かべ、重々しく呟く。
「これはイザナギ……いいえ、世界を覆すものよ」
「あり得ない……確かにおかしな外見だったけど……あれは……」
「人を模した蝕む者なのか、蝕む者を模した人なのか……いずれにせよ、人が穢気を使うなんて、あってはならないことよ」