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Eclipse-蝕ム者-  作者: 叢雲@ぬらきも
第一章 鈍色の刃
4/19

落第者の刻印

 息を切らし、傷だらけになりながらも、彼女は駆ける。

 全身が鉛のように重い。

 体中の至る所から悲鳴が上がる。

 けれども、止まる事はしない。

 出来ないのだ。

 雪代ゆきしろは日本国のみならず、世界が知る名家のひとつ。

 遥か大昔に存在していた『忍』の末裔であり、今尚衰えることなく世界中を暗躍している。

 雪代ゆきしろの人間は魔力を使わない。

 否、使えないと言った方が正しいだろう。

 彼らは魔力の代用として『丹力』と呼ばれる特殊な力を持っている。

 雪代ゆきしろの血を引く者は皆、丹力を使用し、血統者にしか扱えない特殊な術式を用い、あらゆる敵を排除する事を生業としている。

 雪代ゆきしろにとって魔力は丹力の代用でしかなく、丹力こそが最も優れた力であると疑わない。

 そして自分達より劣る力しか持たぬ魔術師達を蔑み、見下してさえいた。

 りんは、雪代ゆきしろの血を嫌悪していた。

 雪代ゆきしろが世界に名を馳せる名家である意味は、幼少の頃から刷り込まれている。

 世界の裏で、どんな汚い事をしていたかも知っている。

 先人達の血と、命によって積み重ねられた地位が、どんな意味を持つのかも嫌というほど理解できていた。

 彼女は知りたかった。

 雪代ゆきしろの屋敷だけでなく、世界をその目で見てみたかった。

 彼女は待っていた。

 血統と言う呪縛を解いてくれるきっかけを。

 そして、彼女は出会った。

 草薙くさなぎ 匠間しょうまと言う人間に。

 お世辞にも人柄の良さそうではない彼は、警戒する彼女にこう言った。

『せめぇ囲いで人生終わって満足か? もうちょい外見てみろよ。世界は面白いもんばっかだぜ?』

 何故今になって、初めて出会ったあの場所を思い出すのか。

 りんは脳裏に浮かぶ結末を頭を振って打ち消し、更に駆ける速度を速める。

 終わらせない。ここで終わらせてたまるものか。

 あの日、あの場所で、決めた筈だ。

 彼と共に、世界の果てを見に行くと。

「―――シエル先生!」

 イザナギ魔術機関専属職員棟の一室。教員に与えられた専用の住居。

 その一室に住むシエルの部屋に、扉を破壊する勢いで飛び込んだりんは一心不乱にリビングを目指す。

「シエルせんせ――――――い?」

 リビングに続く扉を叩き開けた瞬間、りんは絶句した。

「なんだ騒々しい。怪我人の治療中だ、静かにしろ」

 シエルの格好も格好だが、りんと、肩に荷物のように引っ掛けられ、凄まじい速度で揺さぶられ続けて目を回しているアキナにとって信じ難い光景が眼前に広がっていた。

「違う誤解だ。まずは落ち着いて話をしようじゃないか。これには山よりも高く、海よりも深い訳が……」

 高級ソファに寝そべる、先程の惨状の張本人である匠間しょうま

 なぜか半裸であり、ジーンズも腰から下の位置にずり落ちている。

 その状態で上から覆い被さるように、匠間しょうまの下腹部に腰を下ろしているシエル。

 惜しげもなく白磁の肌を露出し、乱れた下着の上から白衣を羽織っただけと言う姿。

 しかも片方のブラの紐だけが肩からずり落ち、豊満な二つの実りの全貌を曝け出さんとしていた。

 この状況を、誰がどう見ても答えは一つしかないだろう。

 ぷちん、と何かが切れる音がした。ような気がする。

 アキナをフローリングに降ろし、ゆっくりと匠間しょうまに近寄っていくりん

 状況を察したシエルはさっさと匠間しょうまの上から腰を上げ、匠間しょうまに向かってにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて数歩下がった。

「良かったな匠間しょうま。お見舞いらしいぞ」

「いやちょっと待て⁉ この状況作ったのあんたのそのカッコだろ⁉ 待てりん! 早まるな! 話せばわかる!」

「ナニヲハナスノカナー? アタシバカダカラヨクワカンナイヤー」

 急激に胡散臭い片言で喋りだすりん

 表情は笑っているが、目は底冷えするほどに冷たい。

 眼力だけで人を殺せるほどに。

「サッキアンナコトアッタノニナンデココニイルノカナー? ネェショウマクン、オトナノアジハドウダッタ?」

「おい落ち着け! 俺は悪くねぇ! ちょ、シエル教授! にやけてねぇで助けろよ⁉」

「いやぁ、青春だなぁと思ってな」

「生暖かい目で見守るなよ⁉ 俺助かったのに死ぬかもしれないよ⁉ 生命の危機だよコレ⁉」

「イロイロキキタイコトガアルンダー。ネェショウマクン、キカセテヨー」

「話すから! 話すから落ち着けってオイそれは洒落にならんぞ! その右手に持ったクリスタルの灰皿を置け!」

「天国ってどんなとこだろうね? 匠間しょうまぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああああああ!」


           ◇


「だから説明しただろう。治療中だと」

 落ち着いた所で、状況の説明を強いられたシエルは、煙草たばこの紫煙を吐き出しながらしれっと答える。

「どこを! どう見ても! そうは見えませんでしたけど⁉」

 だんっ! と硝子製のテーブルを力一杯叩き、三白眼でシエルを睨み付けるりん

「お、落ち着こうよりんちゃん。匠間しょうま君も無事だったんだし……ね?」

 シエルとりん、両者の間に見えない火花が飛ぶ、決して穏やかではない状況を宥めようと、アキナが懸命に割って入る。

 匠間しょうまという単語に鋭く反応したりんがぐりっと首を回し、アキナを睨めつけ、怪しい眼光を放ちながら大惨事になっている匠間しょうま(だったもの)に顔を向ける。

「とりあえず何で生きてるの? 何で生き延びちゃったの?」

「まるで死んで欲しかったみたいに言うのやめてくんないかな。泣くぞ」

 りんが変態は死ねと言わんばかりに冷たい眼差しで睨む先。

 頭からだくだくと血を流している異様な状況で、匠間しょうまがすかさず突っ込みを入れる。

 出血多量で危険な状況にも関わらず律儀に返すあたり、妙な真面目さを持っているが痛覚が麻痺でもしているのだろうか、流れる血を気にも留めず平然と会話が続く。

「それにさっきのは何? ごめんねお楽しみ中邪魔しちゃって。やっぱり匠間しょうま君もおっぱいボーン! がいいのかしらねぇ⁉」

「論点ズレてきてんぞオイ。つかシエル教授、いい加減これも治療してくんないッスかね? すっげぇズキズキするんすけど」

「ふぅ―――ああ、そうだったな、つい忘れてた」

 紫煙を吐き出し、匠間しょうまの顔を目を細めて見つめたあと、今気付きましたとばかりに平然と言うシエル。

 凶器として使用されたクリスタルの灰皿に煙草を押し付け、ソファから腰を上げ、ゆっさゆっさと双丘を揺らしながら匠間しょうまが座るソファの裏側に回り込む。

 徐に掌を頭の数センチ上に留め、静かに息を吐く。

 ぽうっ、と淡い光が掌から発せられ、匠間しょうまの傷口を柔らかく包み込む。

 光に包まれると共に、匠間しょうまの頭から流れる血がぴたりと止まった。

 その様子を、治癒ちゆ魔術師であるアキナは尊敬の眼差しで食い入るように見つめていた。

 シエルはイザナギ魔術都市屈指の治癒魔術師であり、彼女の治療は聖母による慈愛の施し、とまで謳われている。

 現段階では、このイザナギ魔術都市にシエルを超える治癒魔術師は存在しない。

「それで、あの状況をどうやって切り抜けたのよ」

 治療してもらっている最中ではあるが、りんにとってまず優先すべきは状況の把握。

 茶化した雰囲気はなく、真剣そのものの表情で真っ直ぐ匠間しょうまの目を見つめる。

「見てわかんだろ。シエル教授に助けられたんだよ」

 りんの片眉がぴくりと吊り上がる。

 自然と治療中のシエルに視線が流れ、お互いの視線がぶつかり合う。

 が、りんの視線は、相変わらずだらしない格好のままのシエルの豊満な胸に行く。

 ぎりぎりと歯を食い縛り、憎悪の込もった視線を『それ』に突き刺す。

「オイどこ見てやがる。顔怖ぇよ」

「るっさいこのおっぱい星人が! 乳に埋もれて窒息死してしまえ!」

「でも、シエル教授が助けたにしても、ここからかなり距離があるけど……」

 アキナが目で問う。

 どうやって移動したのかと。

 りんの移動速度はかなりのもので、単純な速さで言えば車よりも上回り、飛行魔術の速度すらも軽く凌駕する。

 速度だけで言えば間違いなくイザナギ魔術都市随一と言って過言ではないだろう。

 シエルの細腕で、少年とは言え男性である匠間しょうまを抱えてりんを上回り、ここまで運ぶ術があるとは想像し難い。

 りんとアキナ、両名がシエルに疑惑の眼差しを向けていると、シエルはふっと唇を歪め、ちょうど匠間しょうまの頭に胸を置くような形で前傾姿勢を取った。

「確かに私は治癒魔術師ヒーラーだが、イザナギの教師でもある」

 蠱惑的な笑みを浮かべ、匠間しょうまの頭を抱き抱えるように包み込み、りんに向かって挑発とも取れる視線を送る。

 その光景にアキナは頬を赤らめ、さっと顔を背けるが、りんは穴が開くほど凝視し、額に青筋を立てて睨みつけた。

 匠間しょうまはと言うと、すんげぇ柔らかいマシュマローやなーつか重ぇなーと暢気に感触を堪能していた。

「あまり教師を見縊みくびるな、と言う事だ。私があの場に居合わせていたのはたまたまだ。ちょうどサンプルを採取しに頂上に行っていた帰りだったのでな。移動手段については……企業秘密だ」

「……腑に落ちないけど、匠間しょうまがここにいるって事は事実だし……。で、さっきのアレは何? 生徒と教師の背徳行為?」

「ちっげぇよ。シエル教授の性格がどんなんかお前も分かってるだろが」

 顎をしゃくって聞いてみろ、と言わんばかりに目で訴える匠間しょうま

 もともとやる気のない瞳に、どこか諦めの色が見えるのは気のせいだろうか?

「……先生、なんで服着ないんですか?」

 答えは分かっていても、りんは敢えて問いかける。

 シエルはさも当然のように堂々と胸を張り、笑みを貼り付けたまま口を開いた。

「面倒だからだ。規則でなければ校舎でもこの格好でいたいくらいだからな」

「だから言ったろ」

「「残念美人……」」

 堂々と胸の下で腕を組み、胸を張るシエルに、りんとアキナは揃って深く嘆息した。

「さて、匠間しょうま。大方君の外傷は治した。内臓もさして損傷は見当たらん。だが、くれぐれも無理はするなよ?」

「へいへい、毎度世話かけます。りん、アキナ、帰るぞ」

 匠間しょうまはシエルに一礼するとともに、二人に目配せする。

 そして二人の返事も聞かぬまま、さっさとシエルの部屋を出て行った。

 りんとアキナも匠間しょうまの後を追うように、シエルに頭を下げて退室する。

 三人がいなくなると、シエルは新しい煙草たばこに火を点け、鬱陶しそうにブロンズの髪を掻き上げながら、虚空に向かって紫煙を深々と吐き出す。

雪代ゆきしろ……あれで勘が良いから扱いに困る。ほんのわずかに残った匠間しょうまの『残滓ざんし』に反応した人間は私以外で君だけだよ」

 煙草を咥えたまま、シエルは思考の世界に潜り込む。

 旧市街地での雷獣ヌウアルピリの奇襲。

 白霧の尾根での徹甲虫ガラムウリュクスの出現。

 短期間で本来起こりえないイレギュラーが立て続けに二件も起きている。

 イザナギ魔術都市の教師として長く勤めるシエルにとって、決して楽観視出来ない事象。

「偶然……にしては出来すぎているな。裏があるとは考え難いが……探りを入れておくとするか」

 サファイヤの瞳をすっと細め、立ち昇る紫煙を眺める。

 紫煙はゆらゆらと宙を漂い、やがて消えていく。そして、ため息がひとつ溢れる。

「全く……嫌な役柄だな」

 苦笑を浮かべ、もう一度だけ短くため息を吐いた。


           ◇


「で、本当はどうなの?」

「お前まだ言ってんのかよ……何回同じ事言わせりゃ気が済むんだよ」

 場所を移し、匠間しょうまの自宅。

 漸く腰を落ち着けたと思った矢先、道中散々問答してきた内容を、りんが再び匠間しょうまに問い質していた。

 これには匠間しょうまもうんざりとしており、両手を上げて降参の意まで示す程であった。

りんちゃんは何がそんなに気になるの? シエル先生が助けたってことは納得できると思うよ? だって、先生は治癒魔術師ヒーラーだけど魔力許容量キャパシティが桁違いなんだよ? 魔力許容量キャパシティだけならSランクにも匹敵するって……」

「違うよアキナ。私が聞いてるのはそこ(・・)じゃない」

 テーブルを挟み、困惑した顔で肩をすくめる匠間しょうまを見据え、りんは鋭い視線で睨み付ける。

「どうやってあれを退けたの? そして、どうやってその腹と腕を完治させたの?」

 徹甲虫に貫かれた腹の傷、地面に激突した際に折れた筈の左腕。

 服の上からでは腹の傷を伺うことはできないが、腕に関しては目立つ傷跡もなく、シエルの治療のお陰か、完治しているように見える。

「だからシエル教授が全部―――」

「ふーん。細胞レベル(・・・・・)まで完治させたの? シエル先生が?」

 腕、腹と順に視線を流し、りんの群青の双眸が匠間しょうまの目に真っ直ぐ向けられる。

 その言動で、匠間しょうまの表情から一切の感情が消え失せる。

「……お前、使わない(・・・・・)んじゃなかったのかよ?」

雪代ゆきしろの血は今でも嫌いだよ。でもそれとこれとは別。話を逸らさないでよ」

 二人の間に険悪な空気が流れ始める。

 会話についていけていないアキナはおろおろと狼狽し、必死で止めようと会話が切れるタイミングを測っていた。

「知らなくていい」

「―――何、それ? そんなので納得すると思う? あたしがどんな思いで見てきたか知っててそう言ってるの?」

 はっきりと紡がれた、拒絶の言葉。

 心が潰れそうな程に締め付けられる。

 今まで寄せていた信頼が、たった一言で裏切られた。

 体の奥から感情が止めどなく溢れていく感覚がはっきりと自覚出来る。

 りんの群青色の瞳から一筋の雫が頬を伝い、ぽたり、と畳の上に落ちていく。

「なんで、なんでいつもそうなのよ……。どうして、あたしをあそこから連れ出したのよ……。あんたを知らなければ、こんな思いしなくて、良かったのに……」

「世界を見たい……だったか。確かに約束した。世界を旅しようってな」

 匠間しょうまは徐に立ち上がり、唇を噛み締め、きつく拳を握り、涙を堪えて震えるりんの傍へと歩く。

「約束は死んでも守るさ。だから泣くな」

 優しく微笑み、大きな掌でりんの頭を梳くように撫でる。

 りんは俯いたまま、匠間しょうまのされるがまま撫でられる。

「今はまだ、話せねぇ。けどいつか、必ず話す。お前と……アキナにも。まだ知って欲しくねぇんだ」

「……ぜったいだぞ……」

「おう。俺がお前との約束破った事があったか?」

「……ん」

 ぽすっ、と音を立て、りんが額を匠間しょうまの胸板にぶつける。

 匠間しょうまはそのままの態勢で暫くりんの頭を撫で続けた。

「……仲直りってことで、いいのかな?」

「そうなるのかね? りん、落ち着いたか?」

「すんすん……匂う、匂うよ匠間しょうま……。この服から若い雄の匂いがするよ……やっぱり大人の階段を先に登ってしまったのね、匠間しょうま……」

「匂いを嗅いでんじゃねぇ! そして妙な事ばっか口走るなっつーの! アキナの頭の上に? が浮かんでるだろーが!」

「雄の匂い? ……汗の事?」

「やっだー奥さん、雄の匂いって言ったら白濁色のあれしかないであだぁ⁉」

「おっさんかっての! 嬉々としてセクハラしてんじゃねぇぞ!」

 一悶着あったようだが、無事元の鞘に収まったようである。

 この件で恐らく、りんは勘付いたであろう。

 匠間しょうまとシエルの関係と、匠間しょうまに隠された過去。

 本来あの場所に出現するはずのない徹甲虫ガラムウリュクス

 りんは気付いていない。そして匠間しょうまりんのやり取りを見て、楽しそうに笑うアキナさえも。

 蝕む影は、緩やかに広がっていく。

 誰もが気付かずに、その影に足を落とす。

 こうして、三人の休日は瞬く間に過ぎていった。

「なんだかんだで随分時間食っちまったな。どうする? 飯食ってくか?」

 空洞内の要所に作られた窓の外を見た匠間しょうまが、アキナの顔を伺いながら首を捻る。

 りんに至っては食事どころか自由奔放に訪れ、散々騒ぎ散らした後に泊まって行くことが日課だったので、匠間しょうまの中では自然と生活の一部と化していた。

 りんを含め、本人に自覚は全くないのだが。

 アキナは薬草がぎっしり詰まった背嚢に目を動かし、困ったような笑顔を浮かべて首を横に振った。

「そか。薬作るって言ってたしな」

「うん。せっかく誘ってくれてるのに、ごめんね」

 アキナが体を縮めて俯くと、匠間しょうまはがしがしと頭を掻いて視線を宙に泳がせた。

 その癖をよく知るりんはくすりと小さく笑って、また何か考えてるなー、と成り行きを傍観していた。

「入院した姉ちゃんの為だろ? 俺はアキナと姉ちゃんの関係をよく知らねぇから気の利いた言葉は言えねぇけどよ。まぁ、なんだ。その、あんま一人で気負うなよ」

 匠間しょうまはがりがりと頭を掻きながら、照れくさいのかそっぽを向いたままぶっきらぼうに励ましの言葉を投げ掛ける。

 余計なお世話だろうと思ってはいても、言わずにいられないのが匠間しょうまであった。

 弾かれたように頭を上げたアキナは、目を丸くしてぱちぱちと瞬きを数度繰り返した。

 その表情からは驚きの色が強く出ている。どうして知っているのかと。

 未だそっぽを向いたままの匠間しょうまの横からぴょんと身を乗り出したりんが、にっこりと満面の笑みを浮かべて、アキナの肩を優しく叩く。

「ハルナちゃんは有名だから。アキナがなんか元気ないなーって気付いてあげれた匠間しょうまを褒めてあげて。そして気を付けて。抵抗が弱くなったアキナに欲情して、暗がりに連れ込まれた挙句乱暴されちゃうかもしれないから」

「オイ待て、いつどこで俺がそんな事企んだ? ちょっと待てアキナなんで顔が引き攣ってるんだ? そんな事しないよ⁉ 俺しようと思った事もないよ⁉」

 りんの発言を真に受けたのだろうか、アキナが匠間しょうまからすすっと半歩身を引き、無理やり作った笑顔でやんわりと首を横に振る。

 必死に弁明しようと頑張る匠間しょうまが一歩近付くと、怯えたアキナが小動物のような速さでずさささっと後退る。

 匠間しょうまは思い切り避けられたショックで、しばしその状態で固まった。

 やがて伸ばされた手が虚空で遊び、力なくゆっくりと下ろされた。

「俺は何もやってない……あれおかしいな、前が霞んで見えねぇや……」

「あ、ご、ごめんなさい。その、びっくりしちゃって」

 匠間しょうまが流す、きらりと光る雫を見たアキナが慌てて近寄る。

 えっと、その、と何事かをもごもごと口ごもり、しばし身動ぎした後、 体を守るように両腕を前に回し、緩く握った右手で唇を隠し、潤んだ瞳でそっと匠間しょうまを見上げる。

「い、痛いのは嫌だから、その……優しくして、欲しいかなぁ、って」

「がっはぁぁぁっ!」

 上目遣い、且つ頬を朱に染めて放たれたアキナの爆弾に、致命的なダメージを受ける――――――りん

 突如吐血し、奇声をあげて胸を押さえるりんを、匠間しょうまはゴミを見るような白けた目で一瞥する。

 ちなみに、アキナは暴力を振るわれると勘違いしており、それでいつもの優しいままがいいと言っただけである。

「何これ天使⁉ マジ天使⁉ 優しくするなら……いいよ……だってよ⁉ ヘイヘイ旦那ー! 据え膳食わぬは男の恥だよ! いっちゃえよ! ヤっちゃえよユー!」

「うるせぇ黙れクソ親父。少し寝てやがれ」

 すこぶるテンションの上がったりんが口角泡を飛ばす勢いで絡んできたところで、匠間しょうまの手刀が振り下ろされ、きゅう、と風船が萎むような声をあげて敢え無く撃沈させられた。

 アキナはその様子を苦笑するしか出来ず、乾いた声であはは……と笑った。

「もう帰るんだろ? 近くまで送るぜ」

 匠間しょうまの申し出を、アキナは笑顔で柔らかく首を振る。

 背嚢に目を向け、ほんの少しだけ沈んだ表情で微笑む。

「捨てられちゃうかもしれないけど……早く良くなって欲しいから。私にとっては、たったひとつの家族だから」

「素直に受け取らねぇんなら、こっそり置いときゃいい。どんなへそ曲がりでも心配されて嬉しくねぇ奴はいねぇよ」

 そう言うと、アキナは小さくうん、と答えて首肯した。

 そうだね、と小さく呟き、遠い昔を思い出しているのか、心から嬉しそうな笑みを浮かべて。

「それじゃ、今日は本当にありがとう。今日はもう帰るね」

「おう。気をつけてな」

 背嚢を大事そうに抱え込み、玄関に向かうアキナ。

 見送りの為に玄関まで着いていった匠間しょうまに向かって、アキナは胸の前で小さく手を振り、またね、と笑顔で出て行った。

匠間しょうまは優しいね」

 扉が閉ざされ、匠間しょうまが一息吐くと同時に、背後からりんの声がかかる。

 声と共に細腕がするりと腰に回され、柔らかな衝撃が背中から走る。

「なにがだよ。つかくっつくな、ガキじゃあるまいし」

「嬉しい癖にー。……匠間しょうまは優しいよ。こっそり上薬草採って来てたでしょ? あの辺じゃ採れないからすぐわかるよ」

 軽く体を揺すって離そうとする匠間しょうまだが、本気で嫌がっている訳ではなく、それを理解しているりんは腰を抱く腕の力をほんの少し強めて笑う。

 見透かされていた匠間しょうまは無言でかりかりと頭を掻き、小さくため息を吐いた。

「家族の為なんだろ。だったら俺も協力するさ。俺には良くわからねぇが、大事なもんだってのはなんとなく知ってる」

「今はあたしがいるじゃん。寂しくないよー? うりうり」

「脇をつつくな。つかそろそろ飯の支度すっから手伝え」

「はいはーい! 今日は塩鮭が食べたいでーす! 私鮭が焼けるのを見る担当!」

「お前しれっと手伝う気皆無なの宣言するのやめてくれる? ぶっ飛ばすぞいい加減」



「……はぁ、なんだかんだで疲れたな……」

 たっぷりと湯気の立ち込める、天然の岩窟風呂の中で盛大なため息が吐かれる。

 結局何一つ手伝わなかったりんに、絶えず小言を入れ続けた匠間しょうまは、疲れ切った体を唯一休める事の出来るこの浴室で、ゆったりとした時間を満喫していた。

 この洞窟をくり貫いて作ったこの浴室は、匠間しょうま最大の力作である一室。

 リビング、居間もかなり力を注いでいるのだが(実際岩肌を綺麗に削って板張りにし、畳まで用意してある)この岩窟風呂には並々ならぬ匠の業が惜しげなく使用されていた。

 半径三十メートル四方の空洞。

 濡れた足で踏んでも怪我しないように、丹念に丹念を重ねて磨き抜かれた乳白色の岩盤。

 天井、四方を囲む岩肌の要所に設置されている照明器具の光を受け、幻想的な金緑色の光を放つヒカリゴケが至る所にびっしりと敷き詰められている。

 そして匠間しょうまが最も力を注いだ、岩壁から滝壺のように静かに流れ落ち、天然の岩で作られた浴槽を満たすコバルトブルーの湯。

 もし見ず知らずの人間がここに訪れた時には、誰しも必然と感嘆の溜息を漏らすであろう芸術がここに広がっていた。

 その芸術品を生み出した匠間しょうまは、浴槽を囲む岩に背中を預け、徐に左腕を高く上げ、腕を眺めつつ先の徹甲虫との戦闘を思い返す。

「パッと見、わかんねぇよな。魔力で表面上の傷は治ってるんだがなぁ」

 シエルに治してもらった腕をまじまじと眺め、ひとりごちる。

 魔術による治療は完全ではない。

 と言うのも表面上の傷、骨や神経、血管などの大部分は完全に治療できたとしても、体組織に関しては完全に治療することが出来ない。

 如何にシエルの完璧な治療を受けたとしても、細胞までは完全に治すことは出来ない。

 とは言え、治癒魔術師ヒーラーですら細胞の欠損までは気付かない。

 時間が経てば自然に治るレベルの微々たるものであり、患者自体にも全く影響のない程度のもの。

 それに気付いたりんを思い浮かべ、匠間しょうまはぼんやりと腕を眺める。

「あの頃に比べると、力の支配が格段にうまくなってきてやがるな。あいつが力を使いこなす日もそう遠くねぇか」

 匠間しょうまは心の中で呟く。

 その時が来たら―――あいつは泣くだろうな、と。

「まだその時じゃない。それまではまだ、お前にも話せねぇんだ。どれもこれも、俺の都合なんだけどよ」

 悪いな。

 心の中で謝罪し、湯船に左腕を沈める。

 そして浴槽に流れ落ちる滝壺の水音だけが、いつまでも浴室に反響していた。



「はぁ? 事情聴取?」

「何度も言わせんな、こっちも遊びで来てる訳じゃねぇんだよ」

 翌日、匠間しょうま、アキナ、りんの三人がイザナギ専門学院に向かう道中の事。

 待ち伏せしていたと思われる三人の軍人に足止めを食らっていた。

 軍から事情を聞かれるような事に覚えがない三人は、不信感を顕にして事情聴取を断ろうとする。

 だが、この三人の軍人の中のリーダー格であろう金髪の男は頑として譲ろうとしない。

 かれこれこの押し問答は十分近く続いていた。

 やがて今まで金髪の男の後ろで黙っていた、やたら小柄な軍人がすっと前に出て匠間しょうまをじろりと睨み上げた。

「これは依頼でなくて命令。ここに所属する人間は軍の命令に対して逆らえないの、知ってるよね?」

「だからさっきから言ってるだろ。俺らに軍から聴取されるもんはねぇって」

匠間しょうま君、少し落ち着こうよ。えっと、あなた方が軍人だとしても、正式な令状が無い限り従う必要はないですよね?」

 理由も話さず、ただ事情を聞かせろとだけしか言わない軍人達に、苛立ちを募らせる匠間しょうま

 段々と敬意を払うどころか、対応が粗暴になってきた匠間しょうまを見兼ねて、アキナがすかさずフォローに回る。

 アキナの言葉に、小柄な軍人がうぐっ、と小さく呻いて一歩後退る。

 そして、今まで静観していたもう一人の軍人が深々と溜息を吐き、やれやれ、と大袈裟に肩を竦めた。

「ホレ見ろ。ゴリ押しで通る訳ないだろ? 大体、しゅうのタバコが原因で令状燃やしたんだろ。カティに再発行してもらえば良かっただろうに」

 そう言って男は目深まで被っていた帽子を脱ぎ、めんどくさそうに首を鳴らす金髪の男にジトっとした視線を向ける。

「うっせぇぞまこと。大体カティに頼んだら説教と仕事がセットでついてくるだろ。んなもんやってられるか」

 金髪の男ことしゅうは至極だるそうに首を巡らし、後頭部を乱雑に掻いてちっ、と短く舌を打つ。

 まことと呼ばれた男は呆れたようにまた一つため息を吐き、自分を見上げてくる小柄な軍人の、腰のホルスターに携えられている拳銃にジト目を向ける。

「いや仕事しろよ。十六夜いざよい十六夜いざよいだ。話聞きに行くだけなのに、なんで対蝕神抗体兵装(ソーマ)持ち出してんの? 軍規違反だぞ、それ」

 対蝕神抗体兵装(ソーマ)とは蝕む者(エクリプス)用に作られた兵器であり、魔力を使わずとも効果的なダメージを与えられる武装の総称を指す。

 軍用に支給されている対蝕神抗体兵装(ソーマ)の殆どが極めて高い殺傷力を持っており、魔術師の障壁ですら容易く破る威力を誇る。

 軍に所属するものならば誰しもが持つものだが、治安を重視する為に、基本は許可なく持ち歩く事は厳禁されている。

 その許可を取っていなかったと見える小柄な軍人、十六夜いざよいは突然勢い良く帽子を地面に叩きつけ、呆れた目で自身を見下ろしてくるまことを三白眼で睨みつけた。

「私を見下ろすな! バカにしてんのか、おお⁉」

「いや、身長差考えろよ……、しかも今それ関係ないし」

「誰が豆粒だゴラァ! その青頭丸刈りにしてホントの青ハゲにすっぞてめぇ!」

「言ってないし煩い。てかお前なんで対蝕神抗体兵装(ソーマ)持ってるのマジで。カティの説教どころか、恭介きょうすけの拳骨もんだぞそれ」

 まことは足元でぶんすか腕を振り回して憤慨する十六夜いざよい片手であしらい、理由を問う。

 すると十六夜いざよいはぴたりと動きを止めたかと思いきや、我関せず、と言った様子で煙草を吸っているしゅうを真っ赤な顔で指差した。

 まことはなるほどね、と得心して頷き、肩を竦めた。

「はぁ……なんにせよ、任務だからしゃあないな。えっと、悪いな。俺達は正規の命令を受けてここに来てる。その女の子の言う通り、令状はない。だから協力って形になるけど……頼めないか?」

 このままでは埒が明かない、と踏んだまこと匠間しょうま達に向き直り、努めて柔らかい口調で話し掛ける。

 警戒心を強めていた三人は、まことの言動で幾分か警戒を緩めるが、まだ警戒を解こうとはしない。

 三人が顔を見合わせていると、畳み掛けるようにまことが言葉を続ける。

「ああ、学院ならこっちから事情を話しておくからそこは心配しないでくれ。俺はイザナギ魔術軍所属第壱師団の御津みと まこと。で、こっちの幼女みたいなのが二条にじょう 十六夜いざよい

「誰が幼女だ頭吹っ飛ばすぞゴルァ!」

「うるさい会話の邪魔。で、あっちのやる気ない穀潰しが石動いするぎ しゅう。とりあえず、草薙くさなぎ 匠間しょうま雪代ゆきしろ りん、アキナ・アルフォードで間違いないよな?」

 再び暴れだした十六夜いざよいを片手であしらいつつ、まことが順繰りに匠間しょうま達の顔を見る。

 のぺっとした平淡な表情のため、何を考えているのか全く読めないが、少なくとも敵意はないようだ。

 そのことが分かった匠間しょうまは警戒を解き、改めて話を聞く姿勢に入る。

 しかし腑に落ちない。なぜ軍がFランクであり、末端であるはずの自分達に話を聞きに来るのか。

 匠間しょうまは状況を把握するべく、灰銀色の髪に手を突っ込んでがりがりと頭を掻いた。

 ふと、一点だけ軍が関連する出来事が思い浮かぶ。だが、結局証拠となるものは残っていなかったはず。

「……白霧の尾根のことか?」

 匠間しょうまがぼそりと呟くと、全員の表情が変わった。

 惨状を目の当たりにしたアキナ。

 沈んだ表情を浮かべるりん

 どうしてわかったと言わんばかりに驚き、目を丸くするまこと十六夜いざよい

 その中で、しゅうだけが違った動きを見せた。

「―――ッ⁉」

 突如、匠間しょうまの声が上がる。

「正直に話せ。お前、あそこで何があったか知ってるな?」

 上から降ってくる、冷たい声音。

 一瞬の隙にしゅう匠間しょうまを組み倒し、関節を完璧に極め、一体どこに隠していたのだろうかと思われる自動小銃型対蝕神抗体兵装(ソーマ)を後頭部に押し付けていた。

 その一瞬の出来事に、りん、アキナ、当の匠間しょうまですら驚きを隠せなかった。

 速い(・・)。初動の挙動すらも目で追えないほどの体捌き。

 そして同時に理解する。

 初めからこうすれば、簡単に拘束出来たであろうと。

 後頭部に密着された銃口が、強く押し付けられる。

 素直に吐け、としゅうの無言の脅し。

 それまで呆然と立ち尽くしていたアキナとりんが状況を飲み込み、匠間しょうまを助けようと動いた瞬間、間の抜けた声と同時に、鈍い金属音が響いた。

「……おいまこと。どう言うつもりだ?」

 しゅうは若干の怒りを込めた目を、真横から伸びる腕の主―――まことに向ける。

「どうもこうも無いだろ。それが丸腰の相手に軍人がやることか? とりあえずそれ(・・)しまえって。なんでしゅうまで対蝕神抗体兵装(ソーマ)持ち出してんだよ……」

 変わらず平淡な表情のまま、まことがため息を零す。

 だがその右手に握られているナイフは、匠間しょうまに押し付けられていた自動小銃型対蝕神抗体兵装(ソーマ)を上へ押し上げていた。

「どう考えても黒だろ。今のは自白したも同然だ」

「それは俺も驚いたが、まだ話聞いてないだろ。いいから退いてやれよ。向こうの女の子、鬼の形相してるぞ」

 まことしゅう対蝕神抗体兵装(ソーマ)を完全に押し上げると、つい、と顔をりんとアキナの方へ動かす。

 そこには眉根を寄せ、滅多に見せない怒りの表情を浮かべるアキナと、目を剥いて今にも飛び掛りそうな形相でしゅうを睨めつけるりんの姿があった。

「……ちっ、めんどくせぇな。まこと、そこまで言うならお前がやれよ」

 渋々、と言った様子でしゅう匠間しょうまから体を離す。

 拘束から解かれた匠間しょうまが、関節を完璧に極められていた肩を摩りながら立ち上がろうとしたところで、まことが無言で手を差し出す。

「悪いな。あとで何かお詫びするよ。立てるか?」

「いや、まぁ、大丈夫だ。さっきからホントなんなんだあんた達は。一体何を探ってんだ?」

 匠間しょうままことの手を無視して、愚痴をこぼしながら立ち上がり、ぐるりと肩を回す。

 少し痛むが、加減していたのだろうか、骨や神経に問題はないようだ。

 そのことを確認し、匠間しょうまは目の前のまことの目をまっすぐ見つめて問いかける。

 まことは差し出した手を引っ込め、切れ長の濃紺の瞳を細めて、口端を微かに吊り上げた。

「このところイレギュラーが続いてね。旧市街地と、白霧の尾根。元々蝕む者(エクリプス)は神出鬼没だが、個体ごとに生息、ないし出現する領域は大抵限られてる。旧市街地で雷獣ヌウアルピリ、白霧の尾根で徹甲虫ガラムウリュクスの出現が確認された。だが妙なことがあったんだ」

「妙な事?」

 復唱する匠間しょうまに、まことは無言で頷き、

どれも残骸が(・・・・・・)残っていない(・・・・・・)。おかしいだろ? 蝕む者(エクリプス)を完全に消滅させる程の魔力の持ち主は、今イザナギにはいないんだ」

 まことは口角だけを上げ、楽しそうに語る。

 まことの言葉通り、蝕む者(エクリプス)は絶命すると暫く死骸だけがその場に残される。

 そして人間に有害な穢気えきを周囲に撒き散らしながら、汚染を広げていく。

 通常蝕む者(エクリプス)を討伐した後は、軍の特別処理班が死骸を回収し、適切な処理を行う事が当然の流れになっている。

「たまたま処理できる人間がいたんじゃねぇのか?」

「有り得ないな。穢気えきを撒き散らす死骸を運搬し、処理出来るのは第伍師団の連中だけだ。それに旧市街地にいた第伍師団の軍人は全滅している(・・・・・・)恭介きょうすけやカティが見ていた状況で、忽然と消えた雷獣ヌウアルピリについて説明がつかない。『七天』ならまだしも、学生と俺達しかいなかったあの状況で、消滅させる術を持つ人間はいないよ。それが出来るのは、『浄化の巫女』か、それこそ―――」

 まことの濃紺の双眸が、匠間しょうまの瞳を深く覗き込む。

 表情の動きを、目の動きを一つも逃さない、監視の視線。

 口を真一文字に引き結び、目を細めて見つめてくる匠間しょうまに、まことは薄く笑って最後の一句を声に出した。

穢気えきを持つものでないと不可能だ」

「つまり人間に穢気えきを持つ奴がいる。そう言いてぇのか?」

 有り得ない。匠間しょうまの目がそう語っている。

 人が穢気えきを持つなど有り得ない。

 あってはならない事実。

 もし、仮定の話ではあるが、そんな人間がこの世界にいたとすれば、間違いなく新たな禍いを齎す。

「あくまで仮定の話さ。実際にいる訳がないと俺も思ってる」

「旧市街地に行ってもねぇ俺がどうこう出来るかよ。それに徹甲虫に関してはシエル教授に助けられた。そんだけだ」

 それ以上は話すつもりはない。

 はっきりとした拒絶の意を態度で示す匠間しょうまに、まことは肩を竦め、あっさりと引き下がった。

「そうか、ありがとう。『浄化の巫女』は八年前に『聖天の戦』で行方不明、穢気えきを持つ人間もいるはずもない……。とすると誰が? って事になってな、僅かな情報でも掴みたかったんだ」

 話はこれで終わり、とまことはくるりと踵を返し、少し離れた場所で待機しているしゅう十六夜いざよいの元へと歩く。

 背後から刺さる視線に気付いたのか、首だけで振り向き、匠間しょうまに向かって片手を上げる。

「協力感謝する。後日、お前ら宛にお詫びの品を送るよ。協力の感謝も込めてな」

「んなもんいらねぇよ。もう済んだ話だろ。とりあえずもういいか?」

 匠間しょうまは返事も聞かず、りんとアキナの元へと足を向ける。

 話が終わったと同時に、りんとアキナが落ち着かない表情で駆け寄ってくる。

 おそらくは、しゅうに組み倒された時の肩の具合を心配しているのであろう。

「いいの、匠間しょうま?」

「大丈夫? 肩、痛む?」

 不安の色を浮かべた表情で顔を覗き込んでくる二人に、匠間しょうまはなんて事はない、と僅かに笑ってひらひらと手を振る。

「心配すんなって。それより学院に急ごうぜ。確か今日は選定試験の表彰式かなんかがあっただろ?」

 本日、イザナギ魔術機関専門魔術学院では、全学院生徒が参加を義務付けられたセレモニーが行われる。

 先日行われた選定試験の合格者に、学院長から勲章と、その実力の証である指輪が進呈される特別な儀式の一つ。

 今回の試験に合格した生徒はハルナを含む四人。

 途中で打ち切られたとは言え、それまでに討伐した数、速度で実力が認められた、歴とした実力者達。

 本来であればこの晴れ舞台に、ハルナも参加する筈なのだろうが、絶対安静の入院生活の真っ最中。

 それ故に、わざわざ匠間しょうまが指輪を届けにいったのだろう。

「ああ、そうそう」

 学院にいざ向かおうと足を動かしたとほぼ同時に、まことの声がかかる。

 今度は何だ、と言わんばかりの表情で三人が振り返ると、軍用の帽子を目深に被り直したまことがまぁ聞けって、と態度で示すように肩を竦める。

「その表彰式だが、政府からではなくて『七天しちてん』が直々に行うみたいだぞ。ついさっき走った情報だけどな。多分、学生はまだ知らないんじゃないか?」

「おい」

「ちょっと、軽々しく軍の情報教えていいの?」

箝口令かんこうれいが発せられてるもんじゃないし、軍規違反してるお前らが言えないだろ。どうせすぐ情報が回るさ」

 何を口走っていると目で語る同僚二人に、まことは平淡な表情のまま横目を流し、微かに口角を吊り上げた。

 『七天』という言葉を耳にした途端、匠間しょうま達に目に見えて動揺が走っていた。

「『七天』がわざわざ? どういうこと?」

「俺が知るかよ。『七天』は今日本国にいねぇはずだろ? 表彰式の為にわざわざ出向くか普通?」

「イレギュラーがあったとは言え、選定試験を突破したのはあのハルナ・アルフォードだろ? 『七天』自ら志願したんだと。自分の後釜になるかもしれない人材を、自分の目で見極めたいって事だろ」

 ざわめく三人の会話を遮ったのは、またしてもまことの声だった。

 しゅう十六夜いざよいの疑惑の眼差しを背中に受けつつも、まことは変わらず抑揚のない平淡な声で言葉を続ける。

「……お姉ちゃん」

 姉の名前を耳にしたアキナの表情が、一変して暗く、沈んだものに変わる。

 そんなアキナに匠間しょうまは無言で頭に手を置き、わしゃわしゃと撫で回した。

 えぅ、はぅ、と可愛らしい悲鳴を上げ、目を回すアキナだが、暗い表情が一瞬で吹き飛び、どことなく嬉しそうに綻んでいた。

「ああ。そういや、ハルナ・アルフォードは入院中だったな。まぁ『七天』が来るんだし、最悪車椅子での参加だろうな」

「で、『七天』の誰が来るんだ?確か殆どが日本国にいねぇだろ」

「『光』と『水』のふたりだな。日本国こっちに任務で来るついでに訪問するらしいな」

 『光』と『水』。

 その単語を懐かしむように目を細め、匠間しょうまはへぇ、と短く相槌を打ち、くっくっと愉快そうに喉を鳴らす。

 一瞬だけ見せた突然の態度の変化に、まことはほんの少しだけ眉を顰め、元の表情に戻った匠間しょうまを注視する。

「『七天』が二人も……ねぇ。まことこれ(・・)もイレギュラーじゃねぇのか?」

「……そうだな。まぁ、何か情報が入ったら教えてくれ」

 りんとアキナが見守る中、今度こそ話は終わりだと踵を返したところで、三度目の抑止の声がかかった。

「……おい、薄汚れた犬みてぇな奴」

「……さっきからなんなんだよ。さっさと行かせてくれよ」

 苛立ちを隠そうともしない匠間しょうまの眉間に深い皺が寄る。

 振り向きもせず答えた匠間しょうまに、呼び止めたしゅうはさして気にした様子も見せず、煙草の紫煙を吐き出しながらゆっくりと口を開いた。

「お前、魔術を使えるのか?」

「……どういう意味だよ。ランク見て馬鹿にしてんのか?」

「違ぇよ。ランクなんざどうでもいい(・・・・・)

 しゅうは心底馬鹿にしたように鼻で笑い、深々と煙を吸い込み、ぷはぁ、と紫煙を大量に吐き出す。

 その下りに反応した匠間しょうまが、ぴたりと足を止める。

「やれるかやれないかで決まるだろが。さっきお前に触れて分かったが、お前から魔力を感じなかった。完全に魔力の流出を抑えたとしても、あそこまで何も感じなかったのは初めてだ。で、本題だ。お前に魔力はあるのか?」

「……さっきから思ってたが、俺を疑ってんのか?」

 そこで初めて、匠間しょうましゅうに顔を向ける。

 しゅうは煙草を地面に落とし、足でもみ消しながら匠間しょうまと視線を交差させる。

 お互いがお互いを探るような、洞察に集中した視線。

「それもある。が、これは純粋な興味だ。魔力が存在しない人間なんていないからな」

「……生まれつき魔力が極端に少ないんでね。穢気えきの侵蝕を防ぐ程度しかねぇんだよ」

「……なら、いい。悪いな、呼び止めて」

 僅かな間を空けて匠間しょうまが答えると、しゅうはスッと目を細めてふん、と小さく鼻を鳴らしてくるりと身を返した。

 遠ざかる三人の背を見つめ、匠間しょうまはただじっとそこに立ち尽くし、その背が見えなくなるまで見送った。

匠間しょうま

 少しばかり、厄介な連中に目をつけられたな。

 がしがしといつも以上に乱雑に頭を掻く匠間しょうま

 あの場にシエルがいればうまく言いくるめられただろうが、終わってしまった結果は覆せない。

匠間しょうま君?」

 あの幼女のような体型の少女には気付かれていないだろうが、しゅうと言う金髪猫目の男と、のぺっとした青髮のまことには薄々勘付かれているだろう。

 流石はイザナギ所属の軍人、洞察力が常人の比では無い。

 匠間しょうまは優れた二人の能力に内心舌を巻きながら、同時に面倒だと嘆く。

匠間しょうまってば」

匠間しょうま君? 大丈夫? どこか痛むの?」

 これからどう動くか。

 今ここで隠していた事実が露顕ろけんするのは好ましくない。

 更に言うと、『七天』までもがここに来る。

 恐らく表彰式で大々的に行われるセレモニーは、理由をつけてサボったほうが無難だろう。

「ま、そこまでしなくても分かりゃしねぇんだけどな」

 くくっ、と喉で笑い、匠間しょうまは仄暗い笑みを浮かべる。

 その時、強い力で腕を引っ張られ、掌にむにゅっ、と柔らかで弾力のある感触が伝わった。

「んっ……」

 なんだこれ?と思わず手を動かすと、柔らかいそれはむにゅむにゅと心地良い感触と共に形を変え、元の形に戻ろうと掌全体を押し返す。

 と、そこで真横から艶かしい声が上がった。

「ふぁ……はぅん……」

「ん? アキナどうし―――た?」

 ようやく思考の迷路から抜け出した匠間しょうまがアキナへ顔を向けた瞬間、絶句し、硬直した。

「これは既成事実だよね、匠間しょうま? 目撃者はここにいるんだよ。そして、証拠は上がっているんだよ。さぁ観念してお縄につけ犯罪者!」

 やけに芝居がかったりんが、鬱陶しいくらいにしたり顔で、匠間しょうまの腕をぐいぐい引っ張る。

 無論、腕の先はアキナの胸元。

 思考が停止した状態の匠間しょうまは、手を止めるどころか、思わず更に力を込めて揉みしだく。

「……あっ……んん……しょうま、く……いやぁ……」

 胸を揉まれる度に、アキナの体がピクピクと小さく跳ねる。

 頬を紅潮させ、熱を帯びた甘い吐息を吐き、潤んだ瞳で匠間しょうまを上目遣いで見つめる。

 たっぷり一分経過したところで(その間胸はしっかり揉んでいた)、惑星を七回回って帰って来た思考がカチリと音を立てて動き出す。

「う、わっしょぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおい!」

 りんの拘束を力付くで振りほどき、訳のわからない奇声をあげつつ匠間しょうまは全力でその場から飛び退った。

 と思いきや、体のバネを最大限に活用し、凄まじい跳躍力を披露する。

 宙を華麗に舞い、サーカスよろしく三回転半捻りを見事に決め、両手両膝で地面に着地、と同時に擦れる程に額をなすりつける。

―――最終奥義『ジャンピング土下座』である。

「あっはっはっはっは! 何ソレ何ソレ⁉ あっはっはっはっはっはっは!」

 りんは声を大にして笑い転げ、文字通り地面をゴロゴロと転がり回った。

 被害者兼、加害者である匠間しょうま顳顬こめかみに青筋を立て、今すぐぶっ叩きたい衝動に駆られるが、今はまずアキナを優先すべきと判断したのか、そのままの体勢で微動だにせず反応を待った。

「……はぁ、ん、もう大丈夫だよ。匠間しょうま君、もういいから。ホラ立って」

 やがて、小さく喘いでいた声も止み、幾分か落ち着きを取り戻したアキナの柔らかい声が上からかかる。

 言われて顔を上げるが、アキナの顔はまだ赤い。

 気を遣わせないように微笑んではいるが、浅い呼吸を繰り返し、うっすらと汗も浮かんでいる。

 その艶やかな表情に、匠間しょうまは思わずごくりと喉を鳴らす。

 アキナはまだそっち方面の知識に乏しいが、女性としての魅力はほぼ仕上がっている。

 そして、控えめの性格の為、あまり知られていないが、姉のハルナと同様、美人の部類に当てはまる。

 幼さの残る面持ちだが、出る所はきっちりと出て(姉の一部は残念な事になっているが)しっかり自己主張している。

 シエルほどではないが、制服のブラウスを下から押し上げ、その存在を強くアピールしている。

 Dカップ。これはりんの暴露により明らかになっている事であるが。

 いくら匠間しょうまとて朴念仁ではない。

 それなりに意識もするし、見たりもする。

 シエルの胸を余す事なくがっつり見ていたりもする。

 マシュマロ最高だとかごっつええメロンやだとかも思っていたりもする。

「アキ―――ごえっ⁉」

「野獣発けぇぇぇぇぇん!逃げてアキナ!ここは私が食い止めるから!」

 見惚れてしまっていた匠間しょうまがアキナに手を伸ばそうとした瞬間。

 ごっすぅ! と鈍い音と共に匠間しょうまの体がくの字に折れ、弾丸のような速度で転がって行った。

 犯人であるりんは、超低空弾道ミサイルキックで匠間しょうまを吹っ飛ばした後、親指を立て、すこぶるいい表情でサムズアップ。

 アキナに行け、と顎をしゃくって促す。

 これには目を丸くするアキナだが、ひたすら顎をしゃくるりんに根負けし、終始地面にぐったりと横たわる匠間しょうまを気にかけながら、学院へと向かってった。

「……おま、ちょ……入ったぞクルァッ!」

「アキナの危険を感じたからね。匠間しょうま段々目がマジになってたもん。こりゃいかんと思って……てへっ」

 脇腹を押さえ、咳き込みながらも苦悶の表情で起き上がった匠間しょうまは、したり顔でサムズアップするりんを三白眼で睨み付ける。

 りんはやだこわーい✩とふざけながらぺろっと舌をだし、自分の頭をこつんと叩いた。

 その瞬間、凄まじい殺意を覚えた匠間しょうま顳顬こめかみに、ぶっとい血管がビキッ! と浮かび上がる。

「今まさにマジの目なんだがどうすんだオイ?」

「やだ、こんな所で……。せめて布団の中で……」

「安心しろ。お前にゃ殺意しか湧いてねぇからよ」

 くねくねと体を踊らせながら頬を染めるりんに対し、匠間しょうま本気でグーで行こうかパーで行こうか真剣に悩んでいた。

 尚、殴ることは確定している模様。

「それにしても、あのしゅうって人、相当強いね。あの匠間しょうまが人相手に倒されたの、初めて見たよ」

「……てめこの誤魔化しやがってからに……。確かにしゅうまことは相当の修羅場くぐってる。だが、あん中で一番ヤバイのはあのちみっこだろ」

 良し肘で行こう。と早速行動に移ろうとした途端、キリッと真面目な表情に切り替え、話題を違う方向に持って行く事で難を逃れようとする策士、りん

 匠間しょうまはぎりぎりと歯を剥き出しにして食いしばり、寸での所で肘を戻して真面目に答えを口にする。

「……匠間……そっちの趣味があったの? ごめん、流石にそれは心の広いあたしでもドン引きだわ……」

「ちっげぇよ何でそっちに持ってくんだお前は⁉ お前も気付かなかったか? あいつだけ地面が妙に陥没してたろ。どんだけ重てぇ拳銃ぶら下げてんだ、あのちみっこ」

「何足フェチ? キモいよマジで変たいっだぁ⁉ 今本気だったでしょ⁉ 火花出たぞ火花!」

 りんが半目で何こいつマジキモイ、と態度で示すと、とうとう匠間しょうまからの制裁が加わった。

 振り下ろされた拳骨がごすっと鈍い音を立ててめり込み、りんは思わず頭を抱えて座り込んでしまった。

「真面目に話してんのに茶化すからだろが! もういい行くぞ!」

 ふん、と鼻を鳴らして肩を怒らせて学院に向かう匠間しょうま

 頭部に走る鈍い痛みで動くこともままならないりんは、うーうー唸りながら涙目でその背を目で追う。

「なんだよもー癇癪起こしてー。うあー久しぶりに本気の拳骨もらったー。―――さて、匠間しょうまはサボるだろうし、あたしもサボるとしますかねー」

 痛む頭をさすりながら、りんは楽しそうに笑い、遠ざかる匠間しょうまの背を追いかける為に駆け出した。


           ◇


 イザナギ魔術学院、特別応対室。

 所謂VIP用の客室であり、その部屋の全てが高級素材で作られた物で構成されている。

 その一室で、白衣を流麗に着こなした金髪美女―――シエルがソファに深々と腰掛け、くつろぎながら煙草の煙を燻らせていた。

 と、そこにとんとん、と控えめのノックの音が響く。

 シエルは来たかと呟き、煙草を灰皿に押し付けて朱塗りの木製扉に向かってどうぞ、と声をかける。

 開かれた扉の奥に立つ二人の女性に、シエルは懐かしむように微笑みを浮かべる。

「久しいな。フィオナ、セリス」

「まぁ、また綺麗になったわね、シエルちゃん」

「ちゃんはよせと言ってるだろう、フィオナ。セリス……も変わらんな。好き嫌いは治ったかね?」

 先頭に立っていた女性は、緩いウェーブがかかった天青石セレスタイトの髪と、同じ輝きを持つ瞳の美しい淑女だった。

 一見、薄い水の膜が体を覆っているかのように見える、特殊な繊維で精製されたであろう青碧と花緑青で彩られたローブを纏う女性は、唇の前で両手を合わせ、ほぼ同じ目線で微笑むシエルに微笑み返し、くすくすと小さく笑った。

 シエルも目の前で楽しそうに笑う『水』の七天魔術師であるフィオナ・マリーネに釣られて頬を緩める。

 そしてフィオナの後ろでそっぽを向き、腕を組んでいる少女に悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべて、からかうように話を振る。

 容姿こそまだ幼さが残るが、精密なビスクドールのような端正に整った眉目は思わず目を奪われる。

 純白の袖なしドレスコートの上に、華奢な体躯には似つかわぬ重厚な鎧を装備し、その背格好は中世の西洋騎士を連想させる出で立ち。

 ドレスコートから覗く、汚れを知らぬ雪の結晶を思わせる透き通った白い肌が、より一層装備の異例さを際立たせていた。

 少女は雄々しくも幼さの残る目尻をキュッと釣り上げ、むっと頬を膨らませて、シエルを恨みがましい目つきでじろりと睨んだ。

「……もう、いつまでも子供扱いしないで。そっちこそ露出癖は治ったの?」

「これは失敬だな。学校ではご覧の通り着衣しているだろう?」

「いや、ここであの格好はしないでしょ普通に考えて……」

 どうだ? と大仰に腕を広げて見せるシエルに、『光』の七天魔術師ことセリス・ルナミスは鋭く吊り上がった黄水晶シトリンの瞳を細め、半眼で何言ってるの?と小さくため息を吐く。

 シエルをよく知った旧友であろう二人は、相変わらずだなと嘆息しつつも再会を喜んでいるようにも見えた。

「まぁそれはそれとしてだ。セレモニーの参加を志願したと聞いたが、どう言った風の吹き回しだ? いくらイザナギとは言え、Sランクの二人が一箇所に集中するなど異例の事態だぞ」

 シエルの言葉に、フィオナはことりと首を傾け、唇に人差し指を添えて困ったような笑顔を浮かべる。

 心なしか、セリスの表情も若干であるが曇っている。

 一体どうした、とシエルが眉を顰めると、フィオナは柔和な表情のまま、ふっと微かな吐息を吐き出す。

「忘れちゃったの? もうすぐよ、あの日(・・・)は」

「……そうか、そうだったな。もう八年も経つんだな……」

 シエルは目を閉じ、遠い遠い過去を思い返すかのように、その言葉を、その意味を、深く噛み締める。

 フィオナ、セリスも同様、沈痛な面持ちのまま口を閉ざし、応対室に静寂が包まれる。

「まぁ……ここで辛気臭い顔を突き合わせていても仕方ないだろう。それより、ハルナを見に来たのか?生憎と彼女は入院しているぞ」

 ぱん、と柏手を打ち、この話は終わりだ。と話題を切り替えたシエルに、フィオナ、セリスは無言で頷いた。

 フィオナは頬に人差し指を添え、うーん……と唸りながら何事かを逡巡する。

「うーん……その子も気になるんだけど……。私が気になるのは違う子なの。ねぇシエルちゃん、この匠間しょうまって子……似てない? 彼に(・・)

 フィオナはそう言ってローブの懐から、一枚の写真を取り出す。

 そこに写る人物は、りんと何事かを言い争っている最中に撮られたであろう匠間しょうまだった。

 シエルはその写真を一瞥すると、額に手を当て、呆れたように深々とため息を吐いた。

 二人を知る教師として、何をしているのだこいつらはと、不安を煽るものでしかない一枚だった。

 りんが手に持って広げているものは恐らく下着。

 それを匠間しょうまの頬にこれでもかと言う程押し付け、にまにまと黒い笑みを浮かべたりんが嬉々とした表情で写っている。

 かたや匠間しょうまはドロドロと腐った目でりんのされるがままに、ハイハイニアウネカワイイネーと音声が再生されそうなほど投げやりな表情で写っていた。

 尚、どうでもいい話ではあるが、この直後にアキナに見つかり、二人は恋人と勘違いされた黒歴史の始まりの一枚である。

「……何をしとるんだこの馬鹿どもは……。万が一にこれがそうだとしても、彼はもう24になる成人男性だぞ?しかもこんな腐った目はしていなかったが」

「酷い言われようね……でも、そうね。確かにこの世のものとは思えない淀んだ目よねぇ。セリスちゃんですら見間違うほどだったから少し気になって。ごめんなさいね」

 写真を懐にしまい、ちらりとセリスに視線を向けるフィオナ。

 釣られてシエルもそちらを向くと、

「……あの状況で、あいつが生きていられるはずないわ。もし生きていたら……」

 きゅっと唇を引き結び、黄水晶シトリンの瞳を三角に釣り上げて、

「私は絶対にあいつを殺す」

 憎しみすら滲ませた、ドスの利いた声で言葉を紡いだ。

「セリス……」

「セリスちゃん……」

 そんなセリスに、二人は声のトーンを落として表情を曇らせる―――。

「愛は深いものだなぁ。八年も経つのに今だに燃え続けていたか」

 訳がなかった。

 にやにやと厭らしい笑みを浮かべたシエルは、何度もうんうんと頷いて勝手に納得している。

 心なしかサファイヤの瞳が爛々と輝いている。

「んなっ⁉」

 セリスは憎悪すら込めた表情から一変、あんぐりと口を空けて出し抜かれたような表情で固まった。

「セリスちゃん、殺したいほど愛していたのね……。若いっていいわねぇ……」

 こちらもほう、と悩ましいため息を吐き、激しく狼狽するセリスに追い打ちをかけるように悪意の込もった視線と一緒に笑いかける。

「ちちちちち違うわよ! にゃんでそうにゃるの⁉ 私はただあいつが約束を守らなかったから憎いだけであってあああ、ああ、愛してるとかそんなの違うわよ!」

 違うんじゃないけど、違う、絶対違う。

 セリスはそんな事を葛藤しながら、自分でも訳がわからなくなるほど狼狽し、わたわたと両手を振り乱す。

 その光景が面白くて堪らないのであろう、大人の姿をした子供の約二名は、ここぞとばかりに追撃を加える。

「ほぉーう。ならばその首のものはなんだ? 新品同様じゃないか」

「こ、これは……そう! 捨てるのが勿体無いから持ってるだけよ! 決してあいつがくれた初めてのプレゼントだからってうわわわわわっ、今のなし今のなし!」

「セリスちゃんはヤンデレちゃんなのねぇ。ところでシエルちゃん、ツンデレって何かしら?」

 左右から揺さぶられ、ぼふんっ、と音が聞こえそうなくらいに首まで朱色に染まったセリスは、とうとう堪えきれずに違うの違うのぉぉぉぉぉ! と悲鳴を上げながら応対室の片隅まで逃走した。

 ひとしきりからかって満足したシエルは、首を傾けて、頭の上に疑問符を浮かべるフィオナに思わず苦笑した。

 分かってなくて発言する悪癖は未だ治ってなかったかと。

「無理に世代について行こうとしなくていいぞ、フィオナ。もともと天然のお前の発言は超ド級の爆弾でしかない」

「あらあら、シエルちゃん。私と一つしか違わないのに、私をお年寄り扱いするなんていい度胸ね。またお仕置きしてあげようかしら?」

 にっこりと微笑み、頬に人差し指を添え、僅かに首を傾げるフィオナ。

 空いている左手は、金具で背面に固定されている厳格な装飾のロッドの柄をしっかりと握っていた。

 その瞬間、シエルの背筋がぞわりと粟立つ。

 しまった、とばかりにシエルは目を泳がせ、たらたらと冷や汗を流し始める。

「……それは、ごめんだな……」

「うふふ、素直でよろしい。ではそろそろ、セレモニーの準備に取り掛かりましょうか?」

 案外あっさりと引き下がったフィオナに、シエルはほっと安堵のため息を吐き、胸を撫で下ろす。

 忘れていた心的外傷トラウマがふっと顔を出そうとした所で頭を振ってそれを打ち消し、部屋の隅で頭を抱えてぶつぶつ何事かを呟いているセリスに矛先を向けた。

「そ、そうだな。セリス、遠征で疲れているだろうが、君も手伝いたまえ」

「あ、う、え、ええ、勿論。あ、そうだ。終わったら皆で食事でも行かない? 滅多に顔を合わせる機会もないし」

「……ふ、そうだな。では、面倒な作業をさっさと終わらせるとしよう」

「ふふ、なんだかんだで一番楽しみにしてたのは、やっぱりセリスちゃんだったみたいね」




「で、なんでお前がここにいるんだよ」

「んー? どうせ匠間しょうまはサボると思って先回り。しっかしホントここ好きだね。やっぱり腐った目と煙はなんとやらってやつ?」

 応対室からもその姿を窺う事の出来る、イザナギの観光名物のひとつである樹齢百年は超えると噂される大樹。

 この大樹は膨大な魔力を蓄える性質を持っており、夜になると幻想的な光を放つ事で、観光客の中で人気な事は勿論、この大樹の下で告白すると永遠の愛で結ばれる、夜に白い影が彷徨っている、などなど学生達の中でいろんな噂が絶えない、御神木なのである。

 そんな大樹の遥か上方……枝分かれした太い幹のちょうど中心部に、気持ちよさそうに寝そべる匠間しょうまりんの姿があった。

 制服が汚れないように配慮してあるのか、木の枝で編み込まれ、干し草を敷き詰めた天然のベッドの中で、匠間しょうまにくっつくような形でりんが寝転がっている。

 この場所は匠間しょうまのお気に入りの場所であり、木々の隙間から差し込む日差しと、吹き抜ける優しい草木の音と匂いが心地よい眠りに誘ってくれるからだ。

 元々匠間(しょうま)は木の枝に寝っ転がって眠っていたのだが、りんがここに来るようになってからは、このお手製のベッドで眠るようになった。

「どっちにしろ馬鹿にしてんじゃねぇか。殴るぞ」

「痛いのやだーだっこー」

「だぁもうひっつくな! 落ちるだろが!」

 このベッドで眠ると必ず甘えてくるりんに、匠間しょうまはもう慣れきってしまっているのか、さして気にした素振りも見せずに好きなようにさせている。

 だがベッドのサイズ的にやや小さめ(枝と枝の隙間が狭い為)なので、りんがぐいぐい身を寄せて抱きついてくると、必然的に端に追いやられてしまう匠間しょうまは、身を捩ってべりっとりんを引き剥がした。

「恋に落ちてもいいんだぜー腐った目の少年ーって、うわわわ! 冗談冗談!」

 ふへへ、とおっさんじみた声を出して転がってくるりんに、匠間しょうまは無言で足で押し返し、落ちる寸前で力を緩めて再び眠りに入ろうと目を閉じる。

「もー冗談通じないなー……って、うっわあれセリス様とフィオナ様じゃん! すっげ何あれ人形みたい! 何あのケツ腰! やらしいのぉやらしいのぉ! ぐへへっ! おいちゃんとスケベしようや!」

「……お前、俺でも時々不安になるわ……」

「ひっ⁉ 何か悪寒が⁉」

 突如奇声を上げ、げへへと下卑た笑みを浮かべ始めたりんを、匠間しょうまは汚物を見るような目で半眼を寄越す。

 釣られて校舎に目を向けると、応対室から廊下に出てくるシエル、フィオナ、セリスの姿が見えた。

 どこからか身の危険を感じたのか、セリスがびくん! と肩を跳ね上げ、頻りに周囲を見回していた。

「うわーいーなーいーなー心ゆくまで尻揉みてーなー……ってあれ、どこ行くの匠間しょうまー?」

「お前馬鹿か。式典サボってるのに、バレたらめんどくせぇことになるだろが。とっとと逃げるぞ」

「あ、確かに。あいあい、どこへなりともお供しますよーっと」

 パッと身を起こして、ベッドから飛び降りようとしている匠間しょうまに、セリスを視姦していた下衆顔のりんが不思議そうに首を傾げる。

 匠間しょうまは嫌悪感を丸出しにした顔でりんを横目で一瞥した後、ひらりと軽やかに飛び降りていった。

 今まで寝ていた場所は、地上から約十メートルは離れている高所にも関わらず、着地した音はほとんど鳴らず、匠間しょうまは平然と歩き始める。

 その様子をベッドの縁から覗き込んでいたりんは、今頃得心したかのように頷き、匠間しょうまに続いて軽やかに飛び降りた。 

「……なんだ、元気そうじゃねぇか」

「ん? 何?」

 聞こえないように呟いたはずなのに、りんが後ろからひょこりと顔を出して覗き込んでくる。

 匠間しょうまは薄く微笑んだまま、なんでもねぇよ、とだけ返した。

 りんほど目は良くないが、それでもはっきりと見えた。

 シエルとフィオナにからかわれながら、顔を真っ赤にさせて怒るセリスの首元に光る、磨き抜かれた銀の指輪が。

 失われた時間を刻む、忌まわしき刻印はまだ、一途な想いと共に帰りを待っている。

 匠間しょうまは胸をちくりと刺す痛みを覚えながら、振り返る事無くその場を離れていった。

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