残影
この世界は魔力に満ちている。何をするにしたって、魔力が絶対必要不可欠。
そんな当たり前の世界で俺は生きている。もっとも、ただ生きているって表現が一番近い。
魔力が強い者ほど優遇され、魔力の弱い者はその日の飯と寝床を確保することすら難しい。
そういったやつは蝕む者に襲われて喰われちまうのが大半。抵抗する力も術も無いからだ。
このシステムに慣れきった奴らは気付いてない。いや、気付いていても決して口に出さない。
明日は我が身。いつ死ぬかわからない切羽詰まった状態で、人を助けようって気持ちは湧いて来ないのかもしれない。それも人間だ。
俺は問う。
命の重さに優劣があるのかと。
力の有無が人を否定できるのかと。
人は弱い。弱いからこそ、知恵を絞る。魔力を解明し、世界に一般普及までさせた人間の英知はそんなものなのかと。
弱者を排除し、強者のみ存在を許される世界なんざ、ある意味がない。
蝕む者の存在がそうさせるのなら、潰せばいい。
世界の常識がそうあり続けるのなら、否定すればいい。
人間までもが互いを食い合うのなら、俺達も蝕む者となんら変わりない。
俺は問う。お前が守りたかったのは、こんな世界だったのかと。
俺は願う。伸ばした手の先、微笑むのはあの頃と同じ太陽であると。
そして俺は生きる。世界がどうあろうと、変わらず信念を貫くと。
俺は戦う。この戦いの先、求めた答えがきっと掴めると信じて。
◇
イザナギ魔術機関専門魔術学院。世界中の選りすぐりの人材のみが集う魔術師の為の施設。
この世界では誰しもが魔力を持つ。その中でも特に優秀な実力を持つもののみが所属することを許される、世界最高峰の魔術機関。
そのイザナギにも『落第者』『落ちこぼれ』というものは存在する。
魔力をうまく支配できていないものや、微弱な魔力しか持てないもの、莫大な魔力を持つが故に、制限がかかっているものと様々である。
その落ちこぼれ―――ランクFの生徒に与えられるものはほとんどないに等しい。
早朝。まだ生徒の過半数が眠りにつく頃、魔術学院の敷地内、切り立った崖を背負い、森林に囲まれた人気の全くない場所にがんがんがんがんと何かを力強く打ち付ける音が響く。
「おーーーーーーーーーい朝だよーーーーーー起きろーーーーーーごはんーーーーー」
快活な声と共に鳴り響く打撃音。早朝の薄暗い光に照らされた薄桃色の長い髪が腕を動かすたびにわっさわっさと揺れる。
やや線の細いそれは、崖にはめ込まれた木製の扉のようなものを、ごはんごはんと連呼しながら頻りに叩き続ける。
これが普通の住宅街であれば住人が苦情を言いに殺到するレベルの騒音である。
周りが森林であり、目の前が崖という極めて辺鄙な場所だからこそ薄桃色の人物はやっているのだろう。
がんがんがんごはんおきろがんがんあさだよがんがんと何かに取り憑かれたように叩き続けること数分。
変化は突然起こった。
「おーなーかーすーいーたー! ごーはーんんんん!」
「うるっせぇな今何時と思ってんだ腹減ってんならそのへんの草でも食ってろボケェ!」
桃色の人物が渾身の力を込め、扉に拳を叩きつけようとした刹那、凄まじい怒声と共に扉が叩き開けられ、どごんっ!と大きな音を立てて腕を振り上げていた人物にめり込んだ。
「……いたい……」
「人様の安眠邪魔しといてお咎めなしで通るか! つか毎朝飯をたかりに来てんじゃねぇよ! それに今五時半だろが! 来るのが速すぎるって何遍いやわかんだこの鳥頭!」
「おおう……ひよこが踊ってる……おお、お星様がー」
「……こいつは……人の話微塵もきかねぇな。ったく、疲れて寝てたっつーのになんでこんな朝早くに叩き起されにゃならんのだ。おい凛、とっとと入れ。どのみちお前も少し寝るんだろが」
「乙女の顔をキズモノにして自分に責任はないかのような口ぶり……許すまじ!」
「お前朝飯なしな」
「やーやー冗談冗談。ほんじゃ、お邪魔しまぁーっす」
「……本気で殴りたくなるよな、お前」
「毎度思うけどさ……物増やさないの? あまりにも洞窟……もとい洞窟だよこの家」
匠間に招かれた桃色頭こと凛は勝手知ったる顔でずんずんと奥へと進み、寝座である崖の内部をぐるりと見渡す。
扉の奥には岩をくり貫いて作られた広い空洞が存在していた。
くり貫いたと言っても歪な形ではなく、綺麗に角が取れ、およそ人の手で作れるような代物ではないと一目で判別できる空間。
凛の言う洞窟らしい剥き出しの岩肌はどこにもなく、美しい木目が映える木張りの壁板。その奥は物置であろう和紙で作られた上品な襖。日焼けひとつない上質の草で編みこまれた畳。
数えて十畳。一人で生活するには十分すぎる広さの部屋が切り立った崖の内部に存在していた。
凛の言う通り、桐箪笥、水屋、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機、オーブンやレンジと必要最低限のものしか置かれていない。
もっとも、このイザナギ魔術機関で冷蔵庫など魔力を使用しない器具は稀であり、骨董品と呼ばれる代物。現段階では匠間くらいしか所持していないのだが。
「人の家にケチつけんな。つかうちは土足厳禁って言ってんだろが! 畳が痛むからとっとと靴脱ぎやがれ! なんで毎回同じ事で怒らにゃならんのだ出禁にすっぞクラァッ!」
「あ、ごめん本気で忘れてた。この畳高いんだっけ? 板張りにすればいいのに物好きだねぇ」
「その台詞お前の親家族親戚一同居る前で抜かしてみろ。鉄拳飛んでくるぞオイ」
「鉄拳で済む訳ないじゃーん。あたしそこまで命知らずじゃないですよーだ。……で? 今日はお疲れだけど仕事だったの?」
玄関にぺいっと革製のブーツを放り投げ、今まで剽軽としていた態度を一変させる凛。
振り向いたその顔には茶化した様子はない。やや吊り上がった黒の瞳が憤慨する匠間を射抜く。
まだ言い足りない様子だった匠間は口をへの字に歪め、仏頂面で凛を睨んでいたが、やがてがりがりと頭を掻き、ため息を吐いた。
「わかってんならいちいち来るんじゃねぇよ。いつも通りだりぃだけだ、第一俺がヘマしたところで何一つ変わりゃしねぇんだって。そもそも―――」
「匠間のそういうとこ嫌い。ウザイ。キモイ。かっこつけんなバーカ!」
「お前は喧嘩売りに来たのか? そうかそうなんだな? よし顔出せや」
「やだよーだバーカバーカ! 寝る! 朝ごはんよろしく!」
言うや否や、ぴしゃりと襖を開け放ち、綺麗に畳んであった布団を豪快に広げ、電光石火の速さで布団に潜り込む凛。これ以上は話すつもりはないと言う意思表示だった。
「このクソアマ……嫁に行けない体にしたろか……」
「え、じゃあ子供はふた」
「さっさと寝ろ飯つくらねぇぞ」
「ちっ」
「オイてめぇなんで舌打ちした? 布団の中からでも聞こえたぞ」
「おやすみー」
「……朝から疲れんな……まぁいいや、俺も少し寝るか……」
◇
「そういえばさー」
「口に物入れたまましゃべんな行儀わりぃ。んで、なんだよ?」
きっちり一時間半睡眠を取り、朝食を取る凛と匠間。今朝の献立は炊きたての白米に油揚げと豆腐の味噌汁、出汁巻き卵とごく普通のもの。
黙々と箸を進める中、何気なく凛がぽつりと口を開く。すかさず匠間が小言を入れるが、言っても無駄と分かりきっているので軽く流しておいた。
「絡まれてるのはいつものことだけどさ、あのハルナちゃんに助けられたって噂ホントなの?」
ぴたりと匠間の箸が止まる。めんどくさい質問をしてくるな、と言いたげに凛に半眼を寄越し、無言のまま味噌汁を啜る。
「……助けられる覚えも義理もねぇよ。あっちが勝手にしゃしゃり出てきただけだ。お前それ聞きにわざわざ来たのか?」
「いや、いつもはシエル先生が入るからちょっと気になってね。それにホラ、匠間アキナと仲いいじゃん。それ関係なのかなーって」
「アキナ?なんでアキナが出てくんだ? 仲いいっつーか、お前も含めて気を使わなくていいからつるんでるだけだが」
出汁巻き卵を咀嚼しながら思考を巡らせる。アキナ・アルフォード。匠間と凛と良く一緒に行動する同じFランクの少女。
やや気弱ではっきりと意見や感情を出さない内気な性格なのだが、治癒魔術専門のためかいつもボロボロの匠間を気にかけており、何度か治療してもらった過去がある。
そのことがきっかけで知り合い、いつの間にか行動をともにしていた経緯がある。
三人で食事を取ったり、遊びに出かけたことはあるがそれとハルナがどう関係があるのか。
アキナとハルナの関係を知らない匠間が訝るように凛を見ていると、凛はやっぱりか、と言いたげに深いため息を吐いた。
「アキナはハルナちゃんの妹だよ。名前で普通気付かない?」
「あ? そうなの? アキナのフルネーム知らねぇし、わかるかよ。……しかし似てねぇ姉妹だな、妹のほうがよっぽどマシだ」
「何が? 顔? 体つき? 抵抗しなさそうだから襲いやすいとか?」
よからぬ方向へ向かって食い付いた凛に、匠間はなんでいつも犯罪者のように扱われるんだろうな、と胸中で愚痴を零す。
言葉にしたとしても毎回同じ答えが返って来ることが確定しているからだった。
「性格の話だ。姉の方は優しさのカケラも見当たらねぇ」
「その様子じゃあの姉妹の事もよく知らないみたいだね……。ま、いいや。ハルナちゃんは匠間と一緒で不器用さんなんだよ。匠間と違う所は視野が狭いってとこかな」
「俺とあの性悪女を一緒にすんな。俺はあそこまで性格荒んでねぇよ。見た目良い癖して息を吐くように罵倒しか出てこねぇぞ? 良くもまぁ、あそこまで罵詈雑言が出てくるもんだ」
「……ハルナちゃん、滅多に人と会話しないんだけどね。ふーん……なになに、いつの間にそんな仲になってるの? 式はいつ? 子供は何人?」
話しながらハルナとの会話を思い返していたのか、匠間の眉間の皺が話が進むにつれて、みるみる深く刻まれていく。
凛は匠間の心中を察しているのだが、面白半分、と言った感じににやけた顔をぐいぐい匠間の顔に近付ける。
「顔、顔近ぇよ。あと近所のおばちゃんみたいなノリやめてくんないかな、正直すっげぇうぜぇ。性悪女の話はどうでもいい。飯食ったらさっさと出るぞ、今日は薬草採りに行かにゃならん」
匠間は至極鬱陶しそうに、密着しそうな程に接近してくる凛の顔を掌で押し返しながら、話題を切り替えた。
匠間の掌に潰されて酷い顔になっている凛は、今思い出したかのようにうおう! と変な声を上げる。
匠間はなんで重要な事忘れてんだよ、とばかりにじろりと半眼で凛を見やった。
その間にもきっちり食器を纏めている辺り、しっかり者を垣間見せている。
「アキナの依頼だっけ? 匠間もやっぱり女の子には甘いんだねぇ。休日削って健気に尽くす……ぐふっ、私的に凄くポイント高いです! きゅんきゅん来ます!」
「俺的にお前のそのノリすっげぇイライラします。今すぐぶん殴りたいくらい」
「やっだー、DV男は嫌われるよー? あとその亭主関白みたいなのも流行らない。化石かって!」
「喧しい」
目をこれでもかと言う程くわっと見開き、魂の叫びを上げる凛。
すかさず匠間の拳骨が飛んだ事は言うまでも無い。
拳骨を食らって大人しくなった凛は、匠間が食器を洗っている間終始ぶーぶー文句を言い続けていた。
休日なのになんでこう疲れが溜まっていくかな……と深いため息を吐く匠間。
泡と一緒に流れていく食器の汚れをじっと眺め、流れて行くわけねぇよなー……と深く肩を落とす匠間の背中からは、深い深い哀愁が漂っていた。
◇
イザナギ魔術都市の北東に存在する山岳。通称「白霧の尾根」。
この山岳は蝕む者が多数生息しており、蝕む者が都市内部に侵入しないように外壁が設けられている。
その為、都市内部に存在する人間はほとんど訪れる事は無い。
しかし、白霧の尾根で採れる薬草や鉱石は希少なものが多く、それ目当てに足を踏み入れる者は多い。
無論危険が付き纏うものであり、白霧の尾根の入り口には常に軍人が常駐しており、出入りを管理している。
都市をぐるりと囲む外壁に設置された門の付近に、軍人と思しき軍服姿の男二人と、きょろきょろと落ち着きなく頭を動かす金髪の少女が、今しがた到着した匠間と凛の目に映る。
「お、アキナー! おーい!」
「朝っぱらから元気なやっちゃの……」
金髪の少女―――アキナ・アルフォートを発見した凛は、ぶんぶんと大きく手を振って自分をアピールする。
薬草を収納するためのものであろう小型のバックパックを背負った匠間は、苦笑を浮かべて凛を横目で一瞥し、門で待っているアキナへと視線を移す。
「……?」
ふと、違和感を覚える。
凛と匠間に気付いてアキナも手を振っているのだが、何処と無く元気がないように見える。
「……昨日の今日だしな。そら仕方ないわな」
「ん? なんか言った?」
ぼそりと呟いた匠間の言葉に、凛はきょとんと首を傾げる。
凛の話からすると、ハルナとアキナは姉妹であり、家族。
姉が倒れたとなれば駆け付けるのは当然であろう。
先日の出来事を知る匠間はなんでもねぇよ、と手を振るアキナの元へ足を進めた。
「ごっめーんアキナー! 匠間が盛っちゃって三回も―――あいたぁ⁉」
「だから有りもしねぇ事を捏造すんな。アキナは純粋だから信じちゃうだろが。ちったぁ誤解解く身にもなれっつの」
アキナの待つ門前に着くや否や、よからぬことを口走ろうとした凛の頭をすかさず匠間が叩いて抑止する。
匠間の言葉通り、アキナは純粋無垢そのものであり、キスはおろか手を繋ぐことすら赤面し、卒倒するほどの初心な少女であった。
そのことを凛が面白がり、いろいろとちょっかいを出すことがしばしばあるのだが(本気で嫌がる事は決してしないが)、主に被害を被る匠間にとっては面白くない出来事ばかりである。
過去、その事が原因で関係がぎこちなくなってしまったこともあり、匠間にとっては思い出したくもない黒歴史の一つだった。
その事が起因で匠間のツッコミのスキルが格段に上がった事は三人の誰もが知る由も無い。
「あはは……朝から元気だね、凛ちゃん。匠間君も、おはよう」
「うあー……頭がぁー……このDV亭主が肉体的苦痛を毎晩ー……」
「おう、おはよう。つかまだ言うかこの。もっかい叩かれたいのかオイ」
アキナが頭を押さえてうんうん唸っている凛に苦笑しながら、隣で渋面を作る匠間に視線を移す。
ハルナとの会話とは異なり、まだ控えめではあるが、柔らかな声色でゆっくりと言葉を紡ぐ。
二人のことを信頼しているのであろう。
その証拠に、姉と話す時の怯えた目ではなく、優しく、暖かな視線で二人を見つめている。
と、そこでアキナの瞳が物憂げに伏せられる。
「お休みなのにごめんね。急に回復薬の予備が必要になっちゃって……。私がもう少し強ければ、自分一人で行けるんだけど……わっ?」
己の弱さを嘆き、二人に迷惑をかけてしまっていると思い込むアキナは、申し訳なさそうに萎縮し、声を徐々に萎ませていく。
話が終わる前に、アキナの頭に大きな手がぽん、と置かれる。
びっくりしたアキナが、そろそろと顔を上げると、そこには薄く笑う匠間の顔があった。
「毎回毎回お前は遠慮しすぎ。薬草採りに行くくらい、散歩に行くのと変わんねぇって。ちゃっちゃと片付けて昼飯でも食いに行こうぜ?」
そう言って匠間はぐしぐしとアキナの頭を撫で回した。
撫でられる度にアキナから小さくひぅ、はぅ、などの声が上がるが、匠間は気にもせずプラチナホワイトの髪の毛を撫で回す。
「さてと、とっとと目当てのもん採りに行きますかね。おい凛、いつまで座ってんだ。置いてくぞ」
「元凶が何をほざくか! こーの、馬鹿になったらどう責任とってくれるんだ!嫁にしろよちゃんと!」
「心配せずとももう手遅れだろうが。叫ぶ元気があるならキリキリ足動かせ。俺が荷物持ちなんだから身動き取れるだろ」
「凛ちゃんって、時々本気なのかわからないなぁ……」
「いや、本気にすんな疲れるだけだぞ」
ことり、と首を傾げ、何やら思案顔のアキナに、匠間がすかさず突っ込む。
凛がぎゃーすかぎゃーすか憤慨し、騒々しくも明るい雰囲気の中で、三人は軍人に会釈し、門を潜り抜け、アキナの望む薬草を求めて霧が包み込む山岳へと足を踏み入れた。
白霧の尾根―――危険指定度D。
常に濃霧に包まれた険しい山岳地帯。
標高こそ低いが、年中発生しているこの濃霧の為、足を踏み入れた者の視界を奪う非常に厄介な場所。
幸いながらこの濃霧は山頂から中腹までしか発生しておらず、貴重な薬草、鉱石などの採取はこの中腹で行われる。
中腹から山頂へ登る道には常に軍人が配置されており、現段階では許可なくして山頂に登る事は出来なくなっている。
匠間、凛、アキナは良くここに足を運ぶことが多く(大半はアキナが匠間に使う傷薬を作る為)、慣れた足取りですいすい登って行く。
ちょうど中腹に差し掛かろうとしたところで、アキナがふと声を上げた。
「霧が出てきたね。そろそろかな?」
「おう。軍が巡回してくれてるお陰で蝕む者もいねぇみてぇだしな。サクッと採って帰るか」
足を踏み入れる度に、白い吐息を吐いているかの如く、山の中に白霧が立ち込めて行く。
徐々に視界が狭まって行くことを確認し、三人は目配せしながら頷く。
「あれ?」
唐突に凛が素っ頓狂な声を上げ、首を傾げる。
いつも薬草を採取するポイントに座り込み、良い薬草とそうでないものを選別していた匠間とアキナは作業を止め、何事かと凛に視線を向ける。
「なんだよサボんな。今日は霧が下まで降りて来てる。軍人が居る限り危険はねぇと思うが、用心するに越した事はねぇだろ。必要分採ったらさっさと降り―――」
「その軍人さん達がいないんだよ。いつもはあの詰所に一人立ってる筈なのに……中にもいない。トイレかな?」
「ああ?詰所に三人は―……っておい、一人もいねぇだと?」
言いながら気付く。
中腹から山頂へ続く入り口にある詰所には、常に軍人が三名配置されている。
良くピクニック感覚でここに訪れる匠間達にとって、詰所の軍人は皆顔見知りである。
軍人達は匠間達の姿を見ると世間話を毎回と言っていいほどしてきていた。
だが、それすらもなく、姿も見えない。
「……アキナ、凛、急ぐぞ」
「あ、う、うん。あともう少しで終わるから……」
霧が濃ゆくなって行き、段々とお互いの姿が視認出来なくなってきている。
焦りを滲ませた声で匠間が言うと、緊張が伝わったのか、凛とアキナも強張った表情で薬草の採取を終わらせにかかる。
最後にもう一束……とアキナが手を伸ばした先、指先に何かが触れる。
霧はどんどん濃くなって行き、最早足元すら見えなくなってきていた。
「おいアキナ、こっちはもう終わった。そろそろ帰るぞ。ここまで霧が降りてくるなんざ初めてだ。とっとと降りて報告した方が良さげだ」
「う、うん」
背後から聞こえた匠間の声に、アキナは一瞬だけ首をそちらに向けるが、指先に触れた何かを確かめるため顔をゆっくりと近付ける。
顔を近付けるにつれて、地面が薄く近付いて行く。
「―――ひっ⁉」
霧が見えなくなり、それが見えた瞬間、アキナは弾かれたように飛び上がり、悲鳴を上げた。
「っ、アキナ? どうした⁉」
「きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……」
アキナの悲鳴に飛んできた匠間に、耳を劈く金切り音が届く。
「きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……」
「……オイオイ、冗談じゃねぇぞ。この霧の中で動けるっつーのかよ……」
「匠間、これ……」
いつにも増して真剣な声で、凛が呟く。
匠間は姿の見えない凛の声に無言で頷き、腰に携えたナイフを抜く。
「凛、アキナのフォローを頼む」
「あいよ」
「……っ、何、これ……」
「怯えんな。前を向け。弱さを肯定すれば喰われるぞ」
金切り音は緩やかに、アキナと凛を庇うように先頭に立ち、臨戦態勢を取る匠間に近付いていく。
耳障りな金切音を奏でる「それ」は霧の中から悠々と姿を現し、確かな殺意を三人に向ける。
「C級蝕む者『ガラムウリュクス』。情報で見た以上にキモい見てくれな虫だな、オイ」
「きぃぃぃぃぃ……きぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……」
匠間が引き攣った笑みを浮かべ、ナイフを構えると同時に、ガラムウリュクスはより一層甲高い金切音を威嚇するように奏で、きちきち、きちきちと触角を噛み合わせる。
―――甲虫型にカテゴライズされる大型蝕む者、ガラムウリュクス。
外見は絶滅した甲虫、カブトムシに酷似しているが、異なる点は優に5メートルを超える全長及び異常に発達した蟷螂のような前足、頭部に甲虫の角、顎部に鋏を持つことが特徴。
全身が光沢のある漆黒の外殻で守られており、穢気を打ち消す程度の魔力をぶつけたとしても、ガラムウリュクス本体に傷を負わせる事は不可能に近い。
討伐ランクがCと高いランクに指定されている理由も、この蝕む者が堅牢な鎧を保有している事が大きい。
鎧も然る事ながら、特筆すべきは頭部の角、そして顎部の大鋏。
勢いを乗せた角の一撃は容易く岩盤を穿ち、自身よりも巨大な岩石を豆腐のように砕き割る鋏の力も脅威そのもの。
普段は背部に収納されている羽を広げれば、大空を高速で飛び回る事も可能。
高速で空を舞うその姿は、誰しもが徹甲弾を連想する。
匠間は情報に載っていた蝕む者の詳細を思考の片隅で思い返しながら、なるほど、その通りだなと一人納得する。
「そこに転がってる軍人達もてめぇの仕業か? 随分と派手にやってくれるじゃねぇか」
匠間が薄く笑って問い掛けるも、言葉が通じる筈もないガラムウリュクスはきちきち、と口に当たる部位の触角を噛み合わせ、じりじりと距離を詰めて行く。
匠間は直接目で見ずとも理解していた。
アキナが悲鳴をあげたのは、十中八九死体を見てしまったからであろう。
深い霧で目視は困難だが、間違いなくこの周辺に食い散らかされた死体が転がっている。
(いくら洗練された軍でも、装備無しに奇襲されたらひとたまりもねぇか。無理もねぇ)
金切り音を奏で、じっくりと距離を詰めてくるガラムウリュクスを視界に留めたまま、匠間は背後に意識を向ける。
「……ここは逃げるしかねぇな。おい凛、アキナ連れて走れるか?」
「それは余裕だけど、まさかあんたまた……!」
「まぁ聞け。俺以外に殿やれねぇだろ。お前は足が速い。鼻も効く。俺も頃合見てトンズラかます。凛、お前はアキナを連れて先に降りろ」
「だけど! また匠間が!」
「きぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
逃がすつもりはない、とばかりにガラムウリュクスは一際甲高い金切り音を奏で、背中の羽を広げて飛翔した。
「つべこべ言わずとっとと行け! ここで全員くたばっちまったら意味ねぇだろうが!」
振り向く事無く、匠間は凛に向かって怒号を飛ばす。
凛も匠間の言いたい事は理解している。
C級蝕む者のガラムウリュクスに、Fランクの自分達がどう足掻いても勝ち目はないと。
このままこの場に留まれば、間違いなく全員喰い殺される。
それが絶対的な力の差。
覆せない、残酷で冷徹な現実。
死が眼前に迫っていると言うのに、身体が言うことが聞かない。
逃げなければ死ぬ。それはわかっている。だが、残されたものは、―――匠間はどうなる?
「―――ッ! くぉ……っ! ボサッとすんな! 行け! 走れ! 戻ってこの異常事態を伝えろ!」
高速で飛翔するガラムウリュクスの突進に身を削りながらも、必死で回避し続ける匠間から声が張り上げられる。
凛は歪む視界でその姿を見つめながら、強く唇を噛み締める。
自分の腕の中には青ざめた表情で、酷く怯えたアキナがいる。
死と対面しながらも、臆せず立ち向かう匠間がいる。
指一つ動かせない状況で、凛はただただ匠間を見つめる。
こうしている間にも、匠間の至る所から鮮血が吹き出す。
やがて、動きの鈍った匠間は、突進を躱しきれずに角による突進をナイフで受け止める。
だが、勢いを乗せた巨体による重さと反動により、あっけなくナイフは折れ、匠間もろとも弾き飛ばされる。
「……がはっ……! おい……凛……てめぇ、なにしてやがる……。はやく、逃げろっつってん、だろが……」
凄まじい速度で硬い岩肌に叩きつけられた匠間は、夥しい血を流し、左腕があらぬ方向に向いていても尚、立ち上がろうと体を起こす。
耳につく羽音を鳴らしながらゆらゆらと宙を漂うガラムウリュクスを真っ直ぐ睨み付け、とうに限界を超えている体で立ち上がる。
激痛で意識が飛びかける。それでも、ここで倒れる訳にはいかない。
匠間は歯が欠けるほど強く歯を食いしばり、胸いっぱいに息を吸い込む。
それとほぼ同時に、ガラムウリュクスが金切り音を奏で、再び突進の構えを取った。
「行け! 雪代 凛! お前のやるべき事はここで果てることじゃねぇだろう! 生きて、その目的を果たせ! お前はそれが出来る人間だ!」
「匠―――ッ⁉」
大気を揺るがす声量で放った言葉は確かに届いた。
凛に確かに届いた。
―――残酷な現実と共に。
凛の視界が鮮やかな紅色に染まる。
儚くも美しく、舞い散る花弁のように血飛沫が舞う。
凄まじい速度で突進したガラムウリュクスの大角が、匠間の体を貫く。
血に濡れた漆黒の狂気が背中から露出し、大地を赤く染め上げる。
「匠間く……? いや……いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「―――ッ、だからあたしはあんたが大嫌いなんだ! いつもいつも自分ばかり犠牲にして! それを見ている人間の気持ちにもなれってんだ!」
凛は一息で怒りを吐き出すと共に、軽いパニックに陥っているアキナを抱えて全速力で駆け出した。
薄れる意識の中、遠ざかる足音を聞いていた匠間は薄く笑い、深く息を吐き出す。
ガラムウリュクスの角が、完全に腹を貫通している。
腰を鋏で捉えられ、万力のような力で締め付けてくるのがはっきりとわかる。
このまま真っ二つにでもするつもりか。匠間は薄い笑みを貼り付けたまま、震える手で両の鋏を掴む。
「この霧は好都合だったぜ。まだあいつらに見せる訳にはいかねぇからな」
ぎぃ⁉と感情を持たない筈の蝕む者から驚愕したかのような声があがる。
常人では決して逃れることの出来ないガラムウリュクスの鋏の束縛が、ぎりぎりと力任せに解かれていく。
「調子にのんなよクソ虫が。てめぇ如きが俺を殺せると思ってんのかよ?」
ぐしゃり、と金属がとてつもない力によって潰されるような音と共に、鋏が握り潰される。
「ギィィィィィィィッ!」
「ちょうどいい機会だ。ガス抜きしねぇとこっちも色々大変なんでね。くくっ、心配すんな。一瞬で終わるからよ」
にぃぃ、と不気味に吊り上がる唇は狂気そのものを表していた。
匠間の身体から、ドス黒い靄が立ち込めて行く。
「てめぇの命―――喰わせてもらうぜ」
その瞬間、匠間とガラムウリュクスもろとも、黒い影が覆い尽くした。
静寂が訪れ、霧が晴れてきた頃、そこには岩肌が広がるだけの世界が存在していた。