光と影の邂逅
「―――また、あの夢か……」
ここのところ、毎日見る。
忘れもしない、あの日の悪夢。
あの男は何者なのか。何を言っていたのか。
二年の月日が流れた今でもこうして夢となって胸を掻き毟る。
あの日の弱かった自分。あの日失った大切なもの。思い出す度に胸を締め付け、奴らへの憎しみを風化させまいと激しい憎悪の炎を燃え上がらせる。
あの頃とは違う。強くなったのだ。そう言い聞かせ、気怠い体を起こして寝床から抜け出す。
「お、おはよ。……うなされてたけど、大丈夫?」
頭上から降りて来た声に、びくりと体を硬直させた少女は弾かれたように顔を上げる。
そこに佇む人物を認識すると同時に、小さく息を吐き出し、微かに眉を寄せた。
「心配しなくても大丈夫。それよりも自分の心配した方がいいんじゃないの? 余計なお世話を焼いてる暇があったら魔術の鍛錬でもしたらどう?」
嫌悪感を隠そうともしない鋭い言葉と共に、目の前に立つ少女を冷徹な眼差しで睨め付ける。
絶対零度の視線に射抜かれた少女はもともと小柄な体を更に縮こまらせ、強い視線から逃れるように目を逸らし、ボソボソとか細い声で呟き始めた。
「……あ、う、うん。そうだよね。ごめんね、お姉ちゃん」
「……わかってるなら私の部屋から出て行ってくれないかしら。着替えたいんだけど」
「……あ、え、う、うん。ごめんね…朝ごはん、出来てるから。良かったら食べてってね。……それじゃ」
蚊の鳴くような声で呟きながら、静かに退室していく。
控えめに閉ざされた扉を眺めつつ、お姉ちゃんと呼ばれた少女は緑柱石の輝きに似た藍緑色の瞳を幽かに伏せる。
実の妹に対して冷徹な態度だと、自分でも理解している。妹は、アキナ・アルフォードはこの世界の常識に置いて、弱者の部類に定義される。
ハルナ・アルフォードはこの世界が弱者に対し、いかに残酷なものかを幼少の頃から理解していた。
すべては自分が。誰よりも何よりも上回る力があれば。その信念が心の根底に根付いている故の行動。
部屋を出て行った時のアキナの表情を思い返し、軋む心を引き摺りながら、ハルナは出校するための準備を始める。
「……試験当日って言うのに、最悪な気分ね。もっとも、この世界じゃこれが当たり前なんだろうけど」
姿見に映る自身を見つめ、深い嘆息を落とす。
あと少し。もう少し。日が経つにつれ膨らむ期待を押え付けるように、彼女は無表情、無干渉を貫く。
「世界最高峰の魔術機関……イザナギ。やっと、辿り着いた……」
既に確定している事実を再度確認するかのように、小さく呟く。
心の中で、何度も何度も呪詛のように繰り返し繰り返し何度も何度も何度も何度も。
仄暗い陰の炎を瞳に宿し、今にも溢れ出し兼ねない憎悪の念を肉体を言う匣に閉じ込めて、ハルナは鏡の中の自身に向かって薄い唇を動かした。
「待ってて」
煌びやかな装飾が施された制服に袖を通し、新たな決意と共にイザナギへと足を向ける。
ハルナが出て行ったあと、テーブルの上には空の食器だけが並んでいた。
◇
魔術機関イザナギ。極東の中心部に設立された魔術による統制機構のひとつ。
日本国における、否。世界における魔術、魔力に関する最高峰の技術、情報が集う言わば一つの国。
あらゆる人種が集い、ここで学び、『敵』を滅ぼす為の力を得る。
魔力が常識のこの世界で、このイザナギに属すると言うことは並大抵の実力ではない。
世界各地に存在する魔術師の中でも、個人が戦艦一隻と匹敵する、国一つを指一本で消し飛ばす…など魔術師の中でも逸脱した力を持つ者のみが敷地に足を踏み入れる事が許される、特殊機関。
言わば優れた者のみが存在出来る、弱肉強食の世界。
弱き者は生き残れない。これは今の世界の有様と同様。イザナギに属する人間はその事を理解している。
理解するまでもなく、それが常識として染み付いている。
そうしなければ、待ち受けるものは死。誰もが生に執着し、明日に命を繋ぐ為に存在する。
誰ひとりとして、疑うことはない。決して、何が起ころうとも。
イザナギにも学生制度は存在する。
だが一般的な学校などとは違い、小学、中学などの区別はない。
全て個々の実力で査定され、それに見合った割り振りがされる。
Fランクから始まり、最高ランクがSランク。Sランクの実力者となると世界各国の首相と同様の発言権を持ち、政治、軍事を意のままに操作する権限を持つとされている。
現在、Sランクに認定されている魔術師は世界に十指にも満たない。そんな希少な人物が一つの場所に留まり続けるなど、世界が許しはしない。
イザナギ魔術機関専門魔術学院に通う、ハルナ・アルフォードのランクはA。
稀代の天才と言われ、学院に通う生徒はおろか、イザナギに所属する軍人までもがその名を耳にすれば震え上がるほどの実力者。
ハルナが道を歩けば、当然の如く人垣は割れ、あらゆる感情の混じった視線が投げつけられる。
ハルナはそういった行動に関して何も反応を示さない。そこに存在していなかったかのように存在そのものを無視する。
イザナギに所属してからの出来事。故にハルナは普段と変わらずに学院棟へと足を動かす。
と、不意にハルナが足を止める。
その瞬間、びりびりと大気を振動させる程の轟音が鳴り、視界の片隅で何かが弾けた。
立ち止まったハルナのみではなく、同じく学院棟に向かっていたであろう生徒達も何事かと砂埃が舞う一角に目を向ける。
「おいおいまたかよ。連中も飽きないな」
「毎朝の恒例事項。さっさと行こうぜ。落ちこぼれに構ってる時間はないし」
もくもくと立ち上る砂埃を眺めていた生徒の一人が動き出すと、それに倣い、次々と学院棟に向かい始める生徒達。
どの生徒もさして驚いた様子はなく、むしろどこか嘲るような笑みが貼り付けられている。
ハルナも同様、学院棟に向かって再び足を動かしてはいるが、無表情のまま砂煙を視界に留めている。
視界を遮っていた煙が晴れ、全貌が明らかになると、仰向けに倒れている少年と、それを見て肩を揺らす二人組の少年が映る。
二人組の一人が倒れている少年を蹴り飛ばし、大きく体を揺すっている。
おそらく地に伏せている少年を嘲り、侮辱しているのであろう。
世界は弱肉強食。強者が弱者を虐げる。これが当たり前の日常。
弱者は強者に逆らえない、絶対の差―――魔力。
見ていて愉快なものではないだろう。しかし、生徒の大半はこう思う。
誰もが当然として答える常識を、誰もが認める常識を、藍緑色の瞳はじっと見つめる。
「弱者が悪い」
緩やかに唇を動かし、誰もが思う正解を滑らせる。
倒れている少年に向かって、二人組の片割れがもう一度足を振り上げた瞬間、ハルナは強い意思を持って言った。
「ふざけないで」
刹那、突如巻き起こった突風により二人の少年が紙切れのように吹き飛んだ。
突風が止むと同時に、周囲はしん、と静まり返る。
「朝から目障りなものを見せないで。くだらないことばかりしてないで、腕を磨いたらどう?」
突風に巻き込まれ、石畳に強かに叩きつけられた少年二人は苦しげに呻き声をあげる。
ハルナは地面に転がるボロ雑巾のような少年を一瞥した後、悶絶して転がり回る少年二人に歩み寄る。
「腕に自信があるようなら、私が相手してあげるけど? 骨のある相手がいなくて退屈してるのだけど」
倒れている二人を冷徹な眼差しで見下ろし、どうする? と無言で先を促す。
状況を把握し、ハルナを視認するや否や、二人はまるで化け物に遭遇したかのような悲鳴をあげて、脱兎の如く逃走した。
そんな少年二人の背を見送ったハルナは深々と溜息をつき、くるりと踵を返す。
地面に転がるボロ雑巾を本当のボロ雑巾のように扱い、存在そのものを無視して再び学院棟に向かう。
「馬鹿じゃねぇの、お前」
唐突に投げかけられた言葉は、予想もしなかった侮辱の声だった。
一瞬、ハルナの思考回路が停止する。今、この男は何と言った?
恩を売るつもりも、このボロ雑巾を助けたつもりもない。だが、礼を言われるどころか、明らかにこちらを見下した物の言い。
「私、碌な努力もせず人を見下す人間は嫌いだけど……もっと嫌いな人間は、人としての常識すらない人間」
「その常識をどこのどいつが否定したんだよ。……あーあ、ボロッボロじゃねぇか。そろそろ制服代請求されんぞこれ」
ハルナが敵意を剥き出しにした視線を少年にぶつけるも、当人は悪びれた素振りも見せずに、布切れと化した制服を見回しながら深く嘆息した。
なんだこの男は。無遠慮、無神経にも程がある。ハルナは瞬時に沸騰しそうな感情を冷静に制御し、鋭利な刃物のように鋭い視線で少年を睨めつける。
かろうじて原型を止めた制服の襟に注視する。イザナギの制服はランクを示す為の刺繍が施されている。男子は襟。女子は心臓の位置に値する左胸。
ほぼ無意識に行った動作を、少年は目ざとく見抜いていた。右手の指先で左側の襟をなぞり、苦笑を浮かべる。
「探したって刺繍なんぞねぇよ。俺はお前らの言う落ちこぼれ、Fランクなんだからな」
「そのFランクの人間がAランクの私に暴言を吐いて、どうなるか想像出来ないの?」
「あ? 暴言?」
そこで一旦言葉を切り、少年は乱れた銀に近い灰色の髪に手を突っ込み、バリバリと乱雑に掻き毟った。視線を宙に泳がせ、何やら思考を巡らせているようだ。
顔の造作は可もなく不可もなく、まぁ平凡。しかしどうにも目に覇気がない。全身からやる気のなさがに滲み出ているようだった。
身長は百七十くらいだろうか。少年の様子を冷たい目でじっと見ているハルナより少し高い。
やがて少年は気怠そうにハルナに視線を戻し、ばつの悪そうに頭を掻いた。
「勘違いさせたみたいで悪い。俺が言いたかったのはAランクのあんたが落ちこぼれに構って評価落としてどうすんだよってことだ」
「…へぇ。Fランクが私を心配? ご忠告どうもありがとう。でも、あなたを助けたつもりは欠片もないから心配には及ばないわ。それより、自分の心配したらどう? 実力もない癖に他人の心配? 笑わせないでよ」
「……お前ぜってぇ友達いねぇだろ。見てくれ良い癖になにそのドぎつい性格。あとお前やっぱ馬鹿だろ」
「……常識知らずに常識を教えてあげるのも人としての優しさかしら。さっきのとは比べ物にならないお灸を据えてあげるわよ?」
ぴしり、と寒気に似た殺気が周囲を包み込む。
成り行きを見ていた生徒達がごくりと固唾を飲み込む。
あの男は自殺志願者なのか。あのハルナ・アルフォードに対し、なんて愚かな真似を、と。
「常識ねぇ……。力がねぇやつが死んでいく。そりゃ至極ごもっともだ。そうならない為にここにいる。そうだよな?」
「今更何を言ってるの? 死ぬの? 死にたいの? やっぱり死ぬの?」
「いや、言ってること一緒だからそれ。怖ぇよ。じゃあ俺達は何と戦ってる?」
「……それこそ今更じゃない。エクリプス以外なんだって言うの?」
「ああそうだ。だったら分かるな? ランクだのなんだのが奴らに通用すんのか? 私はランク何です。はいそうですか。で終わるか? 即座にぶっ殺されて終わりだ。『ランク』なんぞせめぇ囲いで満足しているような輩に、敵を倒す実力なんざあるはずねぇだろ。それとも、Aランクのそれはそれは素晴らしい実力をお持ちのあんたには理解できない話か?」
「……まるで奴らを誰よりも知ってるような口振りね。Fランクの人間の癖に」
ハルナは明らかに少年の話を戯言だと聞き流していた。ただの強がりだと見下しさえもしていた。
嘲笑を浮かべるハルナを、少年はお前馬鹿だろ。と言わんばかりに鼻で嗤った。
「底辺を知ってるからこそ見えるもんがあるんだぜ。高い場所から見下ろすだけの連中にはぜってぇ見えねぇもんがな。ま、あんたには関係のない話だがな」
「高所は広範囲を見渡せるものよ。どん底からでは決して見えないものもね。もっとも、あなたには関係ないでしょうけど」
「………マジで性格悪いなお前。やっぱ友達いねぇだろ」
「あなたに言われたくないわ。その捻じ曲がった根性と腐った目で友達なんて作れるの?」
「切った張ったの世界に友達なんざいらんだろ。仲間は必要だが」
「じゃあなぜわざわざ私に聞くの? 馬鹿なの? 死ぬの?」
「簡単に死ぬとか殺すとか口にすんじゃねぇ。言葉には力が宿るって言うだろうが。ブッ殺すぞ」
「あ、ご、ごめんな……って、思いっきりあなたも言ってるじゃない!」
「深い意味はねぇ」
「どう捉えても殺意しか伝わってこないでしょうが!」
本当に何なのだこの男は。ハルナは率直にそう思った。
いくら真面目に返しても飄々《ひょうひょう》と躱されそうな気がして、あえて追求はしなかった。
「……もういいわ。あなたに付き合ってる時間はないし、試験前に無駄な消耗したくないし」
「試験? ああ、選定試験の事か。確かCより上の連中が試験を称して戦場に出るってやつだったか」
「どうでもいいけど詳しいのね。知識だけあっても、実戦で役立たなければ意味がないけれど」
ハルナの嫌味たっぷりの皮肉に、少年は僅かに顔を顰めて頭を掻く。どうもこの少年の癖のようだ。ハルナにとって、それは一日何回瞬きしたのか、というほどどうでもいいことであるが。
「ホンット性格悪ぃな。ま、いいや。死なねーように適当に頑張んな。俺には無縁の話だし」
「そうね。今後二度と会うことのないあなたには無縁の話よね。さようなら、灰色駄犬さん」
お互いその場から立ち去ろうと残した言葉に、まず少年が反応した。
ハルナに背を向けた状態でぴたりと立ち止まり、首だけをハルナに向けてじろっと睨みつける。
「誰の事だよ。つか、駄犬ってなんだオイ」
「見るからにみずぼらしい捨てられた犬のようじゃない。見た目と、目と、根性と、あと目」
「目の批判多いなオイ。腐ってるんじゃねぇ、濁ってるんだ」
「誇らしげに言わないでくれる? 凄く腹が立つんだけど。やっぱりお灸が欲しいのかしら?」
「何をやっている。ハルナ・アルフォード、草薙 匠間」
今にも取っ組み合いを始めそうな剣幕の二人の間に割って入った、鈴の鳴るような凛とした透き通る声。
声の主は鮮やかなブロンズの髪を手櫛で掻き上げ、サファイヤをそのまま嵌め込んだような、美しい色彩を持つ切れ長の瞳で二人を見据えていた。
「シエル教授」
ハルナが近寄ってきた白衣の女性の前に居住まいを正すと、シエルと呼ばれた女性はよせ、と言いたげにひらひらと片手を振った。
「構わん、楽にしていろ。私は教員であって軍人ではない。ハルナ・アルフォード、君は本日選定に出るのではなかったか? もうそろそろ開始前の説明の時刻だが」
言われてハルナは腕時計に目を落とす。
―――まずい状況だ。説明開始まであと十分僅か。本来ならばとっくに整列して待機しておかねばならない時間。
シエルに頭を下げ、少し慌てた様子で学院棟に向かって駆け出すハルナ。 視界の片隅でシエルと少年がなにやら話している様子が伺えたが、今はそれどころではない。急がねば試験から降ろされる可能性もある。
ハルナは匠間と呼ばれた灰色の髪の少年の顔をぼやっと頭の中で浮かべ、どこか懐かしい、既視感に似た何かを胸中に抱えながら、試験へと急いだ。
「……またひどくやられたようだな。怪我はないか?」
「この程度で怪我するほどヤワじゃねぇって。んで、このタイミングで来るって事は仕事か?」
匠間の全身を一瞥し、シエルは形の良い眉を寄せ、気遣うように顔を覗き込む。
匠間はなんてことはないと示すように肩を竦め、にやりと唇を歪める。
シエルはどことなく沈んだ表情で目を逸らし、口を開くのも億劫なように、唇を動かした。
「ああ。試験とはいえ、本物の戦場。万が一があっては困るのでな」
「そこに俺は含まれてないのがまた滑稽だよな。ま、いいや。いつも通り報酬は口座に突っ込んどいてくれ」
薄暗い嘲笑を貼り付けたまま、匠間は立ち尽くすシエルに背を向け、歩き出す。
「……いつも、すまない」
「ん? シエル教授が謝る事じゃねぇだろ、毎回言ってっけど。俺は慈悲でここにいる駒だ。駒は駒らしく、お役所勤めを全うしますさ」
「……必ず帰って来い。でないと、うまいオムライスが食べられなくなる」
「そっちの心配かよ! へいへい、帰ったら買い出し行ってくるわ。それと帰ったらその素敵なおっぱいっだぁ⁉」
「いいから行け。さっさと行け。やっぱり帰ってくるな」
「石を投げるな石を! もういいぜってぇ飯作ってやんねーかんな! 後悔すんなよ!」
悪態をつきながら遠ざかる匠間の背が見えなくなるまで、シエルは悲哀の目で見送っていた。
◇
イザナギ魔術機関は、侵入者を拒むかのように高く聳える外壁にぐるりと囲まれた都市の中心に設立されている。
外壁に設けられた門の一歩外に出ればそこは戦場。いつどこで敵襲に遭うかも分からない、危険地帯。
本日は世界にとっても、イザナギ魔術機関にとっても重要度の高い試験が行われる。
選定試験。Cランク以上の選抜された生徒が戦場に駆り出され、実戦経験を積む。無論、命のやり取りが行われる非常の世界。甘えや妥協は即死に繋がる。
この厳しい試験を乗り越え、見事生還を果たした生徒にはそれ相応の報酬と、評価が与えられる。
一年に二回行われるこの試験は軍と連携して危険度を限りなく抑えた状態で開始される。有望な魔術師をみすみす失う愚かな真似はしない、と言う事だ。
だが、敵は希に予想しないタイミングで出没することもある。万が一に備え、専門の教師、軍人数名が必ず同伴することが恒例になっている。
今回ハルナを含む二十数名の生徒が試験に赴く場所はイザナギ魔術都市から南西に位置する、かつて美しい紅葉目当てに観光客が途絶えなかった旧市街跡地。
今は荒野化が進み、朽ち果てた建築物の残骸が残り、蝕む者達が跋扈する指定危険区域。
「あー、本日の選定試験を受け持つイザナギ魔術軍所属第壱師団の一之瀬 恭介だ。君達の補助を務めるが、あくまで試験だ。命に関わることでなければ介入するつもりはない、と言う事を頭に入れておいて欲しい。まぁ、俺から言えることは、やばかったら逃げろ。生きてりゃ挽回はいくらでも出来る。まずは自分の命を最優先して動け」
旧市街跡地、その開けた場所に整列された生徒達の前で、特殊な装備で身を固めた長身の男が煙草を燻らせながら説明も含めて助言を施す。
金髪、しかし毛先だけが黒い恭介と名乗る男は、軍人らしからぬ発言を残し、話はこれで終わり、とばかりに隣に立っていた黒髪の女性に目配せする。
「恭介。未成年の手前、一応煙草は控えなさいよ。今日は愁がいないから大丈夫だと思ってたのに……」
形のいい艶やかな唇から零れ出る嘆息。右目の下に泣きぼくろがある、大人のお姉さんと言った印象の女性は鳶色の瞳を真横に立つ恭介に向け、またひとつ大きなため息を吐いた。
「言って聞くような男じゃないわね……。選抜メンバーの皆さん。今回の任務は実戦そのものと認識してください。一之瀬隊長が言った通り、余程のことがない限り私たちはバックアップしませんので認識を。今回の試験の危険度はE。初心者では少し厳しいかな? と言うレベルです」
女性は一旦そこで言葉を区切り、整列する生徒達を順に見回す。口元には微笑が浮かんでおり、どこか生徒達を値踏みしているようにも見える。
「ですが、あなたたちは実戦経験がないものが大半。戦場では一瞬の油断が命取りになる。それだけは忘れないでください。試験の内容はタイムトライアルで行います。一時間の間にどれだけ戦果を上げられるか、ただそれだけです」
「おいおいカティ、新人をあんまり脅すなよ? まぁ、自分の力量でどれだけやれるかを見るテストだ。結果はどうであれ、生きることが最優先だ。点数稼ぎに焦って死にました、なんざ笑えない冗談はやめてくれよ」
恭介が煙草を投げ捨てると同時に、開始の合図を告げるサイレンがけたたましく鳴り響く。
生徒たちに緊張が走る。各々が獲物を手に、鬼気迫る表情で恭介に視線を集中させる。
「……良い表情だ。これより選定試験を開始する! お前ら! 誰ひとりとして欠くことなく生きて帰って来いよ!」
恭介が声を張り上げたと同時に、次々に広場から移動する生徒達。
それに続き、恭介、カティ、教師、軍人たちも散り散りに移動した。
◇
これより一刻、狩りの時間が開催される。
試験スタートから僅か数分、旧市街の至る所で爆発、閃光、雷鳴、あらゆる魔術が飛び交い、戦闘の狼煙が上げられている。
教師数名、恭介を筆頭とする軍人部隊とは異なり、まるで誰にも見つからないように身を潜めて瓦礫から瓦礫へと跳躍する黒い影があった。
黒い影は時折動きを止め、生徒が戦闘しているであろうエリアをじっと見つめ、また動き出す。その反復運動を繰り返していた。
影の外見は全てが黒に包まれていた。身をすっぽりと覆う黒のマント。
頭と顔を完全に覆い隠す黒のヘルメット。耳に当たる部分に埋め込まれた虹色に発光する金属から全体に向けて帯状に走る筋からは、鼓動するかのように紅い光が絶えず明滅している。
恐らくは高度の魔法金属でできた業物なのであろうが、その詳細は不明。世界各国で開発されている対エクリプス用兵装の中でも極めて異例のものであり、いつ、どこで、どのように作られたかが判明できないものだった。
そして何よりも特筆すべきは、背中に固定されてある日本刀。
魔術を使わずに、効果的なダメージを与えられる対エクリプス兵装にも様々な種類が存在するが、日本刀を好んで使うものは数少ない。
整備性の悪さ、取り回しの悪さ故に、実戦で使用されている事は皆無と言っていい。
そんな『型遅れ』と嘲り笑われる武器を背に、影は全体を見渡すように動きを止め、一帯を確認して動き出す、この動きを飽きることなく、止めることなく繰り返す。
目的不明の影は、徐々にハルナのいる場所へと近付いていった。
「20分経過……討伐数は24。暫定一位、ね」
ハルナは小型の機械を片手で操作し、空中に投影されたホログラム・システムに表示された文字を走り読み、確認の意味でぼそりと呟く。
彼女の操作する機械はもともと軍用で使用されていた魔術媒介兵装、通称「デバイス」と呼ばれるもので、今では広く一般的に普及されている端末。
板型端末であったり、腕時計型であったりとデザインは様々のものが存在するが、ハルナの物は一風変わった銀細工が施された小さめのサイズの腕輪を使用している。
リアルタイムで表示されるランキングを視界の端で確認しながら、ハルナは嘆息する。
簡単すぎる。ハルナが思い描く以上に、選定試験の内容は容易なものであった。
ハルナが討伐したエクリプスはどれも小型であり、危険度はF。運が良ければ魔力なしでも討伐可能な極めて力の弱い個体。あくまで、魔術師としての訓練を受けた人間から見ての基準であるが。
待ちに待った、自身の力を証明するための晴れ舞台。どんなものかと意気込んできたものの…余りに拍子抜けだ。入学当初よりAランクの判定を受け、それに甘えず厳しい鍛錬を積んできたハルナにとって、この試験は退屈そのもの。
この程度の敵がいくら徒党を組んで襲いかかってこようとも、視界に入った瞬間殲滅出来る。ハルナの実力ではこの試験は役不足。誰しもが確信していた。ハルナ自身さえも。
匠間と言う少年はランクが実力を決めるものではないと言った。
軍は油断が命を落とすと言った。
だがしかし、現状はどうだ?
エクリプスは自身に触れることさえ、姿を認識する前に物言わぬ肉片と化していく。
「こんなもの……ただのお遊びじゃない」
慢心―――絶対的優位に立つハルナに浮かんだ感情。
それを表すかのように、口元には微笑が浮かべられている。
試験開始から二十分。ハルナの独走で決まりかと旧市街跡地に存在する人間全てが確信した。
そして何の前触れも無く、それは起こった。
旧市街跡地の空気を切り裂くように鳴り響くサイレン。
試験中の生徒達に明らかな動揺が走る。
同伴する教師も同様、頻りに周囲を見回す。
軍人の表情には濃い驚愕の色が浮かんでいた。隊長を務める恭介は即座に臨戦態勢に入り、部下に向かって怒号を飛ばした。
「カティ! 他の奴ら連れて学生達の回収! 人命が最優先だ! お前らとっとと逃げろ!」
「偵察隊は何をして…っ、全滅⁉ 十六夜! 状況は⁉」
状況が飲み込めず、おろおろと狼狽する生徒達の横をすり抜け、恭介は対エクリプス兵装であるロングソードを構えて、狼煙が上がった場所へ向かって凄まじい速度で駆け抜けて行く。
それを横目で見送ったカティはすかさず魔術媒介兵装で連絡を取り、無線機の相手に状況の説明を促す。
洗練された軍人の働きにより、続々と生徒達がベースキャンプとして設置された広場へと撤退していく。
ただ一人、ハルナを除いて。
疾走しつつ魔術媒介兵装を流し見ていた恭介は奥歯を強く歯噛みし、狼煙の上がったポイントへ駆ける。
「このタイミングでA級エクリプス『雷獣』が紛れ込む……偶然にしちゃ出来過ぎてる。頼むぜ、うまく逃げてくれよ……!」
◇
何が起きた?
刹那の時間に起きた不可解な現象。
耳を貫くサイレンが聞こえたとほぼ同時に、辺り一面が閃光に包まれた。
そこで、ほんの一瞬記憶が途切れた。そして今『紅い』世界が眼前に広がる。
全身が焼け付くように熱い。呼吸も苦しい。一体何が――――。
「ウオォォォォォォォォォォォォォォォォン!」
すぐ近くで狼の遠吠えのようなものが聞こえる。狼など日本国に生き残っていただろうか? 遥か昔に絶滅したはず―――それが、何故。
ぼんやりと漂う意識が、一つの結論を弾き出したとほぼ同時に、ハルナは弾かれたようにその場から飛び退いた。
間髪入れず、ハルナがたった今倒れていた場所に獣の前足が振り下ろされる。
大地を容易く砕き、凄まじい轟音を響かせて。
「――っ、あぐっ⁉ ぅあっ!」
覚醒した意識と共に、忘れていた痛みまで蘇る。全身に襲いかかる四肢をバラバラにされたかのような激痛と、大地が砕かれた衝撃で起こった風圧により、ハルナの華奢な身体はあっけなく吹き飛ばされ、瓦礫の上に激しく転がった。
「ぐうっ……かは……っ! 雷獣……どうしてこんな大物が……うぐっ!」
激痛で飛びそうになる意識を繋ぎとめながら、ハルナは瓦礫を支えに立ち上がり、敵の姿をはっきりと認識する。
ヌウアルピリ。人間を遥かに上回る体躯を持ち、雨と雷を操る獣型エクリプスの代名詞と言って過言で無い、強大な力を誇る狼の風貌に、獅子の鬣を持つ獣王。
ヌウアルピリの討伐ランクはA。Aランク魔術師が十人がかりでも太刀打ちできず、三十人いてやっと善戦できる、と言った基準のもの。
ハルナは瞬時に理解する。どう足掻いても勝てる相手ではないと。
逃走。それが最善の策。だが、ハルナはヌウアルピリの雷撃を魔力による障壁も無しに受けている。
血の大半を失い、恐らくは内臓もいくつか潰されているだろう。左腕の感覚も失っている。
『死』。全身を支配する強烈な感情。だが不思議と恐れはない。寧ろ身体の奥底から熱き感情が次々と込み上げてくる。
勝てる相手じゃない? これしきの損傷で諦める? ――――冗談じゃない。
「ああああああああああああああああああッ!」
ハルナの咆哮に共鳴するかのように、魔力が身体から迸る。
雷獣の異名を持つヌウアルピリは天に向けて首を擡げ、全てを噛み砕く大顎を開き、咆哮をあげる。
まるで決闘の合図を示すように、両者とも雄々《おお》しい咆哮をあげる。
「私は―――私の信念を貫く! 生きて……迎えに行くッ!」
「オォォォォォォォォォォォォォォン!」
両者はほぼ同時に動いた。ハルナの腕輪から魔術回路が構築され、突き出した右の掌から猛る炎の魔術が放出され、猛然と雷獣に迫る。
火炎は雷獣の顔に直撃する。しかし、全身を覆う銀色の体毛を燃やすどころか、焦げひとつ残さずに火炎は霧の如く霧散する。
ハルナは顔を顰め、短く舌を打つ。
半端な魔力では穢気の前で無効化されてしまう。様子見で放ったとは言え、厚さ十ミリの鉄板ですら容易く穴を穿つ火炎弾がかすり傷すら負わせられない。
ならば―――。
「穢気を上回ればいいだけの事! 私はハルナ・アルフォード! 相手が誰であろうと、決して折れはしない!」
迫る鋭い爪の一撃を躱す。反撃の魔術、連なる氷の槍を放つ。
咆哮と共に吐き出される雷撃を魔力の障壁を使い角度を変え、躱す。
再び反撃の魔術、荒れ狂う風の刃を放つ。
胴体を狙った噛み付きを横に跳躍し、反撃。高圧の水柱を三つ放つ。
攻める、躱す、返す。攻める躱す返す攻める攻める躱す返す返す攻める返す。優に百を超える手数の果て、先に限界を迎えたのはハルナだった。
「……はぁっ、はぁっ、しま―――ッ⁉」
魔術の過度な使用により起きた反動で反応が一瞬遅れ、大地を砕く程の威力を持つ一撃がハルナの脆弱な肉体を捉える。
雷獣はハルナが咄嗟に展開した障壁もろとも豪腕を振り抜き、瓦礫の山に小さな体を叩きつけた。
雷獣の咆哮があがる。ハルナは夥しい血を流して、瓦礫の中でぴくりとも動かない。
ずしん、ずしんと大地を揺るがし、こちらに近付く気配を感じる。頭で理解していても、もはや指一本動かすことさえ叶わなかった。
「……ここで……終わる……?」
ひゅうひゅうと零れ出る声に、力は宿らない。風の音と共に掻き消え、獣の息遣いが耳に届く。
「―――!」
「―――!」
どこからか声が聞こえる。誰の声かすらもう分からない。必死に何かを叫んでいる。
でももうそれもどうでもいい。『終わった』のだ。
霞む視界に、鬣を逆立て、首を天に擡げる雷獣の姿が映る。
鬣から電流が迸り、雷獣の全身を駆け巡っていく。周囲を完全に消し炭に変える、雷獣の雷鳴。
この距離で受ければ確実に自分は死ぬ。ハルナは死を悟り、そっと目を閉じた。
(ごめんね、アキナ。やっぱり私は……ダメなお姉ちゃんだったよ。本当に……ごめんなさい)
「オォォォォォォォォォォォォォォォォォン!」
猛る雄叫びと共に、閃光と轟音が一帯を埋め尽くした。
◇
「……あ、気が付いた? 大丈夫? どこか、痛くない?」
真横からかかる、聞くだけで心の安らぎをくれる声でハルナは目を覚ました。
反射で動こうとすると、柔らかな手が優しく体を押しとどめた。
「まだ、回復してない、のに、動いちゃダメ、だよ」
酷く怯えた、と言うより何かを恐れるように、ぱっちりとしたアーモンド型の大きな瑠璃色の瞳が忙しなく揺れ動く。
ベットに横たわる姉を気遣うのだが、ハルナの日常で交わされる冷え切った言動のせいか声がどんどん萎んでいく。
「……アキナ? ここ、どこ?」
眠っていたのだろうか? ぼんやりと霞がかった思考から出た言葉は現状把握の為のものだった。
なぜ自分がベットで寝ているのか。
アキナが辛そうな表情を浮かべているのは何故だろう、とハルナは頭に幾つもの疑問符を浮かべる。
「イザナギ高等魔術医療施設だよ。お姉ちゃん、選定試験、の日から、丸二日、眠ってたん、だよ?」
「試験……試験? 試験の結果は⁉ 結果はどうなっ……うぐっ⁉」
アキナの言葉を聞いたハルナが血相を変えて飛び起きる。
ハルナは左腕を複雑骨折、肋骨3本を骨折、全身打撲とまともに動ける状態ではない重傷を負っている。
その事を自覚していなかったハルナは記憶と共に蘇った激痛に悶え、力無くベットに倒れこんだ。
「無理しちゃ、ダメだよ。先生の話だと、三ヶ月は、絶対安静してないと」
「……っ、そんな悠長に……寝てる暇なんてない。私には、やらなきゃいけないことが……」
「そんなにボロボロになってでも、やるべきことなの?」
先程までの弱々しい声で無く、明らかに強い感情が込められた声音。
ハルナを見つめるアキナの目は今、真っ直ぐにハルナの目に向けられている。
アキナの態度の変化に、ハルナはほんの一瞬動揺を見せるが、すぐに無表情を取り繕い、皮肉を込めた冷笑を浮かべた。
「あなたに関係ないでしょう? いつも言ってるけど、他人の心配をする―――」
「心配するよ。たった一人しかいない家族をなんで心配しちゃいけないの?」
その言葉で、ハルナの顔から笑みが消える。
代わりに浮かぶものは、苦悶に満ちた悲痛の表情。
ハルナは顔ごとアキナから目を背け、口を噤む。
「お姉ちゃん」
「……っ」
目を背けるなと促す肌に刺さる強い怒りの視線と、アキナの鋭い声。
ハルナは顔を背けたまま、キュッと唇を噛み締める。
「……あなたに心配される必要がないのよ。それとも何? 弱ってる私を見て笑いに来たの? 看病して、優越感にでも浸りたいの? この私が―――」
本音とは違う言葉が止めどなく滑り出る。
傷付けるとわかっているのに。言いたい事は、もっと違う言葉であるはずなのに。
「『落ちこぼれ』のあなたに心配されたくないわ」
ぱしん、と乾いた音が部屋に響き渡った。
「落ちこぼれでもなんでもいいよ。弱い自分が自分でも嫌いだから。でも、今のお姉ちゃんはもっと嫌い」
頬を打った右手を押さえ、震える声を絞り出し、静かに怒りをぶち撒ける。
それでも何も答えないハルナに、アキナは背を向ける。
「もう来ないから。ごめんなさい」
声を振り絞り、それだけを言い残すと、アキナは逃げるように病室から走り去っていった。
「痛い……な」
遠ざかって行く足音が、じわじわと痛みを広げていく。
打たれた頬よりも心が軋む。
嫌われても構わないと、両親がいなくなった日から決めた。
たった一人の妹を守れるのは自分しかいないとわかっていた。
ハルナ自身も間違った方法だと気付いている。
けれど止まらない。止まれないのだ。
この世界はいつだって、残酷で冷徹なのだ。
「痛い……痛いなぁ……」
「おいおい、穏やかじゃねぇなぁ。泣きながら走ってったぞ。あんま身内を心配させんじゃねぇぞ?」
唐突に男の声が聞こえた。
気心知れた仲間に話しかけるような調子の声だが、どこか呆れた様子が伺える。
ハルナは素早く袖で目を拭い、声がした入り口へ鋭い視線を向ける。
睨まれた男は気怠そうに頭を掻いて、小さく肩を竦めた。
「何? 何の用? 襲うつもりなら容赦無く魔術を使って排除するわよ盛りのついた駄犬さん」
「お前ホント性格悪いな。見てわかんだろ、見舞いだ」
「見てわからないから言ってるんでしょう。何故あなたが私のお見舞いに来るの? 抵抗出来ない私を好きにできると踏んで襲いに来た以外考えられないわ。見た目もやさぐれた駄犬にしか見えないし」
「お前怪我人って事と女だからって何言っても許されると思うなよ。せっかく『ふれぇばぁ』のシュークリーム買ってきてやったのにいらんと見える」
やさぐれた駄犬こと、灰銀色の髪に覇気のない黒の双眸の少年―――草薙 匠間は持っていた紙袋を持ち上げ、これ見よがしにハルナに見せつける。
「……別に、そんなの、欲しく……ないわ」
「おいがっつり視線ロックされてんぞ。まぁこれ俺じゃなくてシエル教授からなんだけどな」
「そう。じゃあそこに置いておいてくれる? あなたのじゃないならありがたく受け取らせて頂くわ」
ベット横に備え付けられている収納スペース付きの棚を指差し、物凄い上から目線で命令するハルナ。
そのあんまりな対応に匠間も顔を引き攣らせるが、黙って指定された場所に紙袋を置く。
「中身クリームじゃなくて唐辛子詰め込んでくりゃ良かったなこれ。それはそれとして……」
「それはそれとして、何? あの芸術品を侮辱するなら消し炭にするわよ」
「俺の命は500円よりも安いのかよ。選定試験の結果、気になんだろ?」
匠間の放った一言で、ハルナの心臓が一際大きく高鳴った。
雷獣と対峙した事までは記憶がある。だが、それ以降は記憶が抜け落ちている。
ごくり、と喉を鳴らす。無意識に続きの言葉を期待する。
聞かなくても分かり切っている答えだとしても。
「おめでとさん。晴れて指輪持ちだな」
放り投げられた物体を慌てて受け止める。
掌の上で輝く、赤銅色の指輪型魔術媒介兵装。
「嘘……合格……なの?」
「嘘も何も、それが証拠だろ。近々お偉いさんがたが挨拶に来るんじゃねぇの?」
匠間の声も、今のハルナには届いていない。
指輪を手にする事は、このイザナギ魔術機関では軍に匹敵する権限を持つと言うことを意味している。
指輪を手にしたハルナはただ呆然と指輪を眺め、やがて両手で包むように胸に抱きしめた。