狂を宿す
広い道場内に満ちた空気が張り詰める。
空手着に身を包んだ者達、およそ十数名が成り行きを見守っていた。
彼等の視線の先、道場中央で向かい合うは二人の男。
一人は、周囲の男達と同じ胴着姿。
年齢は五十程度。短い黒髪に、太い眉と分厚い唇が特徴的な大きい顔。整った顔立ちでないが故、人間離れした凄みを感じさせる。
厚みのある――ともすれば肥満にも見える、幅のある体躯。だがそれは、明らかな筋肉の塊だった。
その容貌はさながら巨大な猪のよう。
対峙する一人は、黒のジャージ姿。
歳は三十中盤程度。小さくも鋭い光を宿す両眼。低い鼻。太い頚。五分刈りの頭。よじれた耳。
およそ色男には程遠い獣めいた顔つきをしており、薄笑みを浮かべながら胴着の男を見下ろしていた。
空手着の猪じみた男が笑う。
「ええと、そりゃつまり……道場破り、みてえなモンでいいの? 何だっけ。明石茂雄クン、だっけ」
その言葉に、明石と呼ばれたジャージの男が答える。
「いやァ、だから遊びに来ただけっスよ」
男は明らかな敵地にありながら、不遜な態度だった。
明石茂雄。
プロレスラーであるこの男が、唐突に道場へとやってきたのが事の発端だった。
当然ながら、見学でもなければ入門希望者でもない。
「こんな田舎町でもさ、ここってワリと大きな空手道場っしょ? 南崎会館。それなりのモンなのかなって思ってさ。武者修行中の俺としても、興味があるっつーか? 空手の突きとか。セイッ、なんつって」
明石はそう言いながら、小馬鹿にしたように拳を突き出してみせる。
嘗めた態度に、周囲の男達が怒気を孕ませた。
「おほ、怖い怖い。でも、この場の全員で俺を囲んでヤッちまうとかねースよね? 大勢の空手家が寄って集ってとかさ」
明石はぐるりと首を巡らせ、自分を取り囲む空手家達へ視線を送る。
「まっ、俺はそれでも構わんっスけど。こっちも一応プロなんでね、ヤラれるまでに五人はヤッちゃうよ」
ふざけた態度だが、その双眸には危険な光が点っていた。
明石の言う通り、全員で囲んで叩きのめしてしまう事は容易い。
しかし、強い。五人などというのは謙遜だ。この男は間違いなく、それ以上の事をやってのける。
危険な雰囲気を感じ取ったのか、周囲の男達が警戒を高めるが、対峙している猪のような男は笑みを絶やさない。
「さっすが、肝っ玉据わってるねぇ。それじゃあ、俺らとしても応えようじゃないの。いい機会だしなァこりゃ。――良造っ」
「押忍」
プロレスラーを囲んだ空手家達の中から、呼ばれた男が歩み出た。
喩えるならば――岩。
無骨という言葉がこれ程に似合う男も珍しい。
ただひたすらに分厚い躯。触れた途端に爆発するのではないかと思う程に肥大した筋肉。さっぱりと刈り上げた黒い短髪に、削り出した巨岩を連想させる無骨な顔、それを搭載する太い頚。眼光は猛獣のそれに近い迫力を帯びており、愛嬌の欠片も感じられない。
しかしその顔は若く、未だ少年である事が窺える。
歩み出てきた男――少年は、呼び出した男の隣へ立った。
「ウチの有望株、桐畑良造クンだ。高校一年生、十六歳。我等が南崎会館の二段。初めて出た県大会を圧倒的強さで勝ち進み、全国では反則負け! だっはっはっは!」
豪快に笑う胴着の男とは対照的に、明石は目に見えて不満の色を示した。
「ちょっとちょっと。有望かどうか知らないけど、高校生はないでしょうが」
「いいから闘ってみなよ。良造に勝てたら、おじさんが遊んでやっからよ」
空気が、一変した。
明石が放つは――明らかなまでの、怒気。
「知らないよ。有望なコが、どうなっちゃっても」
「どうぞどうぞ。良造、好きにやれ」
「押忍」
猪のような男はそう言い残して下がり、明石茂雄と桐畑良造が向かい合った。
「……ったく。キミもさ、ワカるでしょ。いくら強いったって、高校生が俺に勝てるかどうかさぁ」
良造は答えない。
その代わりのように、拳を上げて構える。
「……ちっ」
明石はかすかに舌を打った。
同時、微かに腰を落とす。良造よりも低い位置から、小さく鋭い両眼が見上げる。
「知らんよ、どうなっても。――オジサン、合図してよ」
「もう始まってるぜぇ」
明石の言葉に、猪が笑う。
静寂が支配したのも束の間。
明石が床を蹴って迫る。低く構えた、タックルの動作。迅い。が、良造はこれを読んでいた。
タックルに左膝を合わせようとした良造は、
「むっ」
短く声を発し、咄嗟に躯を横へ傾けた。瞬間、良造の顔があった場所を縦に吹き抜ける旋風。
ロシアンフック。
明石はタックルに行くと見せ掛け、弧を描く拳を放っていた。
良造が僅かに拳へと意識を向けた瞬間、今度こそ明石が良造の腰へ組み付いた。
しかし。
くっ、と明石が呻く。
倒れない。
僅か、数歩よろめいたものの、良造は倒れない。
数秒、力比べが続く。
明石はタックルの勢いを犠牲にしてロシアンフックを放ち、良造へ組み付く事には成功したが、引き倒す事が出来ずにいた。助走がなくとも、組み伏せる自信があったのだ。
瞬間、良造の肘が明石の背中へめり込んだ。
まるで杭打ち。
たった一撃で、明石の肺から空気が逆流した。がは、と息を吐き出しつつ、明石の手が離れる。
追撃とばかりにもう一度落ちてくる肘を、明石は辛うじて身をよじりながら躱す。
息をつく暇もなく、明石の顎下が爆発を起こした。そのように感じる程の一撃だった。
離れ際を狙った、良造の前蹴り。
明石の反応も速い。直撃を免れ、良造の爪先が明石の顎を掠めていく。
しかし、それで充分。
顎への被弾で脳を揺らされた明石は、僅かにその巨躯をぐらつかせた。
その隙を逃さぬよう、良造が力強く左足を踏み込む。
明石は膝に力を込め、備えた。
踏み込みは左。右の突きが、来る。膝が笑っており、避ける事は不可能。
この短い攻防だけで存分に悟った。受け切る事を得意とする、プロレスラーたる明石をあっさりとぐらつかせる、尋常でない破壊力。まるで戦車。
右の突きに備え、防御を固め――
直後。明石の顔が、何かに弾かれた。
「……ぐ……っ」
目を細め、明石は見る。
尾を引いて、素早く戻ったのは――左の拳。右ではない。
これは、空手の突きではなく――
刹那、明石の顔面に剛砲の一撃が着弾した。
明石の頑強な巨体が、衝撃に弾けゆく。
良造は撃ち出した右を戻し、再び素早く構えを取る。その一連の動作は、銃撃を放ち再装填する重火器のようでもあった。
明石が膝から崩れ、重力に従って倒れていく。
うつ伏せになった明石をたっぷり二秒程も観察し、良造は漸くといったように残心を取った。
立ち会いを見ていた空手着の猪は、その躯に見合った大きな声で良造へと呼びかける。
「それまで! おーい良造ちゃんよ! 好きにやれとは言ったが、気ィきかせて空手の技使ってくれると嬉しいんだがなぁ!」
「押忍。申し訳ありません、館長」
言葉に反して、胴着の猪――館長は、ニヤリとした笑みを浮かべていた。
明石を沈めたのは、基本に忠実過ぎる程のワンツーパンチ。左ジャブで距離を測り、本命の右ストレート。
明らかなボクシングスタイルだった。
良造が嗜んでいるのは、空手だけではない。ボクシングジムにも通っている。柔道にも通じている。
特にルールがない場合、良造はこのコンビネーションを多用していた。ジャブだけで人が倒せるハードパンチャーだと、ジムでも太鼓判を押されている。
「どうだったよ、プロレスラーは」
「タックルは危険でした。腕ごと組み付かれていれば、どうなっていたか」
館長の問いに対し、良造は冷静に振り返って答えた。
明石に組み付かれていた腰が、締め付けられるような痛みを発している。桁違いの怪力だった。良造の筋力も同世代では抜きん出ているが、当然プロレスラーと比較出来るようなものではない。
「はっはっ、お前さんは真面目だな。もうちょっとフカシてもいいんだぜ」
「いえ」
だが。
物足りないのも、また事実だった。
学校の部活動で出場した空手の全国大会が終わったのは、つい先日の事。
圧倒的な強さで全国へと進み出た良造だったが、やはりそこには期待していたものとは違う世界が広がっていた。
ルールによって雁字搦めに護られた試合。怪我をしないよう行き届いた配慮。当然の事だ。試合とは試し合いであり、死合ではない。
そも、命を懸けて闘う必要などないこの時代。
違えているのは自分の方だとも自覚している。
しかしそれでも、渇きを満たす潤いを求め――
世間は夏休み。
これまでの自分の闘いを見つめ直し、ある試合に漠然とした引っ掛かりを感じ始めていた良造は、その正体を確かめるべくそこを訪れていた。
電車で二駅。
閑静な住宅街にひっそりと佇む、小さな道場。台風でも来れば壊れてしまいそうな、古ぼけた木造の平屋。良造の通う南崎会館とは真逆の、人の気配が感じられない建物。
利益など度外視、趣味でやっているのだろう。
武月流空手道場、と書かれた看板が掲げられたその建物に、良造は入っていった。
「おや? まさか、入門希望者さんかい」
小さな道場には、白髪の小さな老人が一人いるだけだった。他には誰もいない。
胴着姿で床を磨いていた老人は、掃除を切り上げて良造を迎えた。
皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべ、更に皺が深く刻まれている。
良造は率直に用件を切り出した。
「失礼。こちらに……有海流護がいると聞いて参りました」
「流護に用でっか。む、君は……もしかして、桐畑良造くんではないかな」
「はい」
「ほうほう! やっぱりそうか。いやはや、ワシも試合のビデオを見たよ。大活躍じゃないか」
活躍。
圧倒的強さで全国へ進出した良造だったが、全国では二回戦負けを喫している。
内容は、反則負け。
試合……勝負の有り方について迷い、漫然とした思いを抱いたまま試合へ臨んだ結果、無意識の内に反則打を放ってしまっていた――というものだった。
決して褒められた内容ではなく、事実、褒めた人間もいない。館長以外には。
しかし老人は、愉しげな笑みで問い掛ける。
「ほほ。君にとって、全国の舞台は期待外れだったかの?」
良造の奥底に沈む何かを見透かしたような言葉。
僅か、返答に詰まった。
「……空手の技巧を磨いた者達が集う場。自分は二回戦、それも反則負けの身です。そのような事は」
「ほほ、真面目だのう。気に入ったぞ。ワシはこの道場の主、片山十河。宜しくな」
老人はただ、そう微笑んだ。
道場の縁側に、二人は並んで腰掛けた。
庭にある巨木が、日除けに丁度良い木陰を作り出している。
心地良い風が頬を撫でる中、老人の話に耳を傾けていた良造だったが、
「行方不明……ですか?」
「うむ。こうして訪ねてきたことで、もしやとは思ったが……やはり知らなんだか」
不穏な単語に、良造は僅か耳を疑った。
有海流護は、約二ヶ月も前に行方が分からなくなっているという。
何もない田舎町だ。当初は、かなり騒がれたらしい。
聞けば行方不明になる少し前には、荒れていたそうだ。
手酷くやられるチンピラが続出していたという。その手の若者達の間では、警察から逃げるために姿を消したのではないか、ヤクザと揉めて消されたのではないか、などという噂もあるとの事だった。
「ま、流護が荒れた直接の原因は多分、君に負けたことなんだろうがの」
片山の言葉を受け、良造は僅かに瞠目した。
「強かったよあの子は。動きも迅く、流麗でのう。しかしそれ以上に、持っていたモノがあった」
良造は静かに老人を見る。持っていたモノとは、と目で尋ねる。
察した片山は、静かに告げた。
「狂気――と呼んでは、少々陳腐かな」
うっすらと目を細め、老人は続ける。
「才覚なんじゃろうな。人間、非常時はパニックに陥るもんじゃ。ワシとて、ハレンチな店で嬢の尻を舐めとる時に家内から電話が掛かってくりゃ、慌てるもんよ。しかし、流護は違う。パニック状態に陥らない。……いや。正しくは、危機に瀕しても行動がブレないとでも言うべきかの。あの子は、どうしようもない危機に陥ると――嗤うんじゃよ」
「嗤う?」
聞き違えたのかと、良造は問い返す。
片山は、縦に首を振って肯定した。
「流護自身は気付いてないようだがね。こう、ニーッとね。そのうえで、冴え渡った行動を取る。例えばワシと組手なんかしてても、ちょっと追い込むと信じられないぐらい動きが良くなるのよ。別人かと思うほどにね。あの時の流護の、愉しそうな顔といったら」
だから、と老人は笑う。
「君はある意味、完璧に流護を打ち負かしたとも言える。あの子が『嗤う』前に、その意識を断ち切った訳だしの」
「……逆に、彼の実力を引き出せなかった……と言えるかもしれません」
「ほほ! 君は本当に真面目だの」
そこで片山は、人差し指を立ててみせる。
「君は強い。たかたが高校一年生としては、常軌を逸したほどに。それゆえ、闘う相手に困る日々を送っている。世間は夏休み。気がつけば、かつて試合で相見えた流護を捜し、ここを訪れていた。歯牙にもかけず倒したはずの相手を求めて。君もまた、流護の裡に眠る狂気を無意識に感じ取っていたのかもしれんね」
良造が漠然と感じていた、言葉に出来ぬ引っ掛かり。それが、有海流護に潜む『狂気』だというのだろうか。
「どんな状況下に於いても、冷静沈着に動ける。最良の選択肢を選び取れる。武人として、これほど優れたこたぁない」
揺れる木陰を見つめ、老人は続ける。
「例えば、流護のここ最近の荒れっぷりにしても同じだの。自暴自棄に暴れているように見えて、相手の指を折る。喉を潰す。その辺に転がってるモノを凶器として使う。コンクリ噛ませて歯を叩き折る。生かさず殺さずのラインを保ちつつ、相手の意志を挫く。真っ当な人間であれば躊躇するようなことを冷静にやってのける、ブッ壊れた部分を持ち合わせとる」
正直なところ、有海流護が自分との試合に負けて荒れていたと聞き、良造としては失望を禁じえなかった。挫折を知らぬエリートが敗北し、容易に折れてしまったのかと。よくある話だ。自分が感じた引っ掛かりは、気のせいに過ぎなかったのかと。
しかし――華麗に舞い、優雅に刺す若き空手家が、裡に秘めていたというその狂気。
指を折る? 喉を潰す?
魅力的だ。
「まぁそのくせ甘い部分も多いんだけどね、あの子は。冷静に相手を壊してるようでいて、その後のことに考えが及んでない。子供がする『口封じ』なんぞで、コトが誤魔化せようはずもない」
それに、と老人は続ける。
「あの子の狂気は、何だかんだで現代常識の範疇を出ない。例えば……良造くん。君は、人を殺せるかの?」
「人を……ですか」
良造は質問の意味を吟味し、片山の真意を推し量る。
そのうえで、自分の考えを口にする。
「今の時代、人を殺めて逃げ切る事は難しいでしょう。試合中の事故でそのような事態になったとすれば、残念ですが仕方のない事と思います。それが自分であろうと、相手であろうと」
その返答に、片山は腹を抱えて笑った。ひとしきり笑った後、指で目尻を拭いながら言う。
「ほっほ……唐突な質問に面食らうでもない。『人を殺すことなど出来ない』という受け答えではなく、その結果どうなるかという部分にのみ言及する。君も、中々に狂を宿しておるようだの」
老人は、ひどく満足そうだった。
「その点に於いて、流護は普通だったのさ。どんなに冷徹を装っても、人なぞ殺せはせん。非常時でも冷静であるがゆえ、頭のどこかがそう判断しとるのかもの」
けどね、と。
老人は呟くように告げる。
「だからこそ――もし仮に人を殺せるようになったなら、あの子は強くなる。冷酷に人を殺す戦闘者となれる。きっと、今とは比較にならんぐらい強くなるだろうね」
口の端を吊り上げる老人。その貌こそが、狂を宿している。
良造には、そのようにも感じられた。
「ならば、難しいのではないかと。人を殺められるようになる切っ掛けなど、そうあるとは思えません」
良造のその言葉に、片山は驚いたような顔を見せた。
「いやいや。切っ掛けなんて、いくらでもあるさね。ちょっとニュースを見ただけでも、毎日のように人を殺しただの殺されただのなんて言ってんだから。まぁ……流護の場合なら、例えば――」
「大事な人が殺されたりしたならば。化けるかも、しれんよね」
その笑顔を見て、良造は確信した。
――この老人は、狂っている。
そんな凶事が起きて、有海流護が覚醒する事を望んでいるとでも言うかのような。
しかし当然だった。
己が弟子に見え隠れする狂の片鱗。それを嬉しげに語る人物が、狂れていないはずがない。
そしてそれは、自分も同じ。有海流護との再逅を求め、突き動かされるようにここまでやってきた自分も同じ。
そも、戦う必要のない時代。
狩りに明け暮れていた原初の時代でもない。血で血を洗う戦乱の刻でもない。
直接的な暴力に頼らずとも生きていけるよう完成されたこの現代に、戦いを求めて彷徨う方が違えているのだろう。
しかし、だからこそ。良造は是が非でも、流護と再び拳を見えてみたくなった。こんな平和な時代に生きる、同世代の希少な同胞と。ルールのない、真たる闘争の舞台で。
指を捕られれば、折られるかもしれない。上段を疎かにすれば、喉を突き破られるかもしれない。ともすれば、転がっている凶器が飛んでくるかもしれない。これ程の兵、他には居まい。
だが、
「その有海流護……本人が、行方知れずとあっては」
無念さを滲ませた良造の呟きにも、しかし片山はくつくつと笑う。
「直前に荒れてたこともあって、自分の意思で失踪したんじゃないかとも言われてんだけどね。でもね、そりゃぁないんだよ。流護には幼なじみの女の子がおるんだがね、失踪する前、一緒に夏祭りに行く約束してたらしいからの」
片山の言葉に、良造は神妙な面持ちで黙り込んだ。
となればやはり、事件か事故か。
いくら己を磨こうが、冷静に対応出来る胆力を持ち合わせていようが、人は脆い。その事実は覆らない。
突然車が突っ込んできたら。拳銃で撃たれたら。
腕っ節の強さで成せる事には、限度がある。
「ただね。流護は……今もどこかで生きとる。ワシは、そう信じとるよ」
揺れる木々の緑を見上げて言う老人の顔は、笑って――
否。嗤って、いた。
「あの子を『消せる』のは、ワシぐらいのもんだからね」
怪老人は、肩を揺らして嗤う。
「恨みを買って消されたセンはない。いや、生半可な連中に消せはしない。となれば、事情があって帰れないだけさ。コトが済めば、あの子は必ず戻ってくる」
そこで片山は、どこか値踏みするように良造を仰ぎ見た。
「んー……、『試合』でなければ、面白くなるかもしれんね。君と流護は」
「そう思い、ここを訪れました」
正確には、そうではなかった。
が、話を聞いた今となっては、良造もそう考えるようになっていた。
老人がにやりと歯を見せる。
「まぁ、誰でもいいから強い相手と闘いたいってなら……今ここに、暇しとる爺ちゃんがおるけども」
「それも有り……と考えていました。――途中までは」
良造の言葉に、片山は笑う。それで良いと言うように。
「ほほ、流護で頭が一杯になってしもうたか。だがね、本当の有海流護を倒せるのは、ワシだけだと思うよ?」
「それは……どうでしょうな」
双方、にたりと笑い合う。
良造にしては珍しい物言いだった。「もうちょっとフカシてもいいんだぜ」という、先日の館長の言葉を体現したかのような。
「ほほ。ワシ以外が流護に勝つんであれば、もういっそゲームに出てくる魔法みたいのがないと無理かもしれんぞ? こんな風にボワーっと、腕から炎なんか出したりしちゃってな! あと、こーんなでっかいドラゴン連れてくるとか!」
唐突に何を言い出すのかと面食らう良造だったが、問う間もなく片山が続けた。満面の笑顔で。
「という訳でな良造くん。君、『アンチェインド』ってゲームはやってないかの? ワシも最近、道場に来る子らに薦められてな。ゲームなんぞは若い頃インベーダーゲームを何回か触っただけだったんだが、これが存外面白くての。年甲斐もなく、『もう直接モンスター殴らせんかい!』なんて言いながら熱くなって――」
そう言いながら、片山は胴着の懐から携帯用ゲーム機を取り出してみせた。
ゲームなど全く知らない良造にしてみれば、もはや片山が何を言っているのかも解らない。しかも長くなりそうだ。底知れぬ老人にこのような一面があろうとは、と良造は僅かに鼻白む。
良造は油断なく、会話を終わらせるための隙を窺い始めた。
まさに、怒涛のラッシュからカウンターを狙うかの如く。
良造は夏の陽射しが照りつける中、後にした武月流空手道場を振り返った。
門下生が一人も来ないと思っていたが、本来であれば今日は休みだったようだ。
それでも快く迎えてくれた怪老人に感謝しつつ、良造は帰途につく。
別れ際、片山十河の残した言葉が良造の脳裡に甦る。
『戻ってくる。流護は、必ずの』
良造が抱いていた有海流護のイメージは、喩えるなら――剣を携えた蝶。
『蝶のように舞い、蜂のように刺す』と形容された伝説的ボクサーを彷彿とさせる、相手の攻撃をひらりと躱し、痛打を叩き込むというスタイル。
県大会には、どれだけ躱され刺されようとも、一撃を叩き入れるつもりで臨んだ。
結果として振り回した拳が直撃し、蜂を落とす事に成功したのだが。
攻撃を読むあの男に対し、二度も同じ手は通じない。もう一度、ルールも何もない条件下で、あの男と対峙したならばどうなるか――
「おーう、そこのきみ。きみさー、桐畑良造くんでしょ」
突然の声に振り返れば、男が立っていた。
髪に金のメッシュを入れた、背の高い優男。歳は二十そこそこか。
派手な柄のTシャツに、裾を引きずってだぶついたカーゴパンツ。街を歩いていれば必ず見かける、カジュアルな服装をした若者だった。
だからこそ、異常なまでに際立つ。
小洒落た服の下に隠された、爆発しそうな程に発達した筋肉。
派手な柄の入ったTシャツは、胸板によって内側から押し上げられている。半袖から覗く腕は、丸太のよう。
カーキ色をした太いパンツの下に隠された脚は流石に伺えないが、上半身と同様の筋肉を有しているはずだ。
「あんな小さい道場に何か用だったん? まぁいいか。きみさ、明石茂雄に勝ったんだって? 界隈じゃ噂になってるよ。まともにテレビも出てねーし、パッとしねーオッサンだったけど……あれでもプロだぜ。そんなのに勝っちゃう高一なんて、興味あんじゃん? やっぱ」
男は、敵意を感じさせない朗らかな笑みを浮かべて言う。
「なんで、俺ともちょっと遊んでほしいなーと。場所、どこがいい? ウチの道場、そっちの道場、何ならこの場もアリだけど……外だとなー、ちょっと前にアホみてーに荒れ狂ってた小僧がいたとかで、警察に見つかるとメンドーそうなんだよな。あ、ゴメンまだ名乗ってなかったよねー、えーと俺は――」
自ら命を懸けて戦う必要のない、この時代。直接的な闘争は『暴力』と呼ばれ、忌避されかねないこの時代。
それでも、桐畑良造は止まれない。止まりたくない。
今も僅かに棲息する、牙を持つ狼達と交わり、己が力を競い合う。
『あの子は帰ってくるよ。きっと……メチャクチャ強くなって、の』
「根拠は」と問えば、「勘だ」と老人は答えた。
馬鹿げている。馬鹿げているが――
冷静に思考しようとする頭とは裏腹に、良造の肉体までもが備えるように活力を溢れさせる。
――ならば、己が牙を磨いておかねばなるまい。
きっといつか訪れる、剣を帯びた蝶との再戦へ向けて。